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17
 嫁いでから八年が経った。
 今でも、もう訪れることはできない、あの森のことは気がかりだった。
 母が眠る墓所であり、幼い日々を幸福に過ごした場所でもある。
 嫁ぐ前、父には、どうか森を守ってほしい、狩り場になどしないでほしいとお願いしてきたが、狩猟好きの父と継母がその約束を守ってくれているかはわからない。
 確かめることは、王との約定により許されなかった。

 その年の冬、十六の誕生日を迎えた王子が、初めて公務に出向くことになった。
 アマーリエの森と隣接する伯爵領にある教会への訪問だった。
 王子は、誕生日のお願いに、アマーリエに同行してほしいと言ってきた。今回だけと言う約束で王の許しを得たというので、アマーリエは快く承諾した。



 よく晴れて、空気の澄んだ日。 
 王子は騎馬で、アマーリエと女官長は小さな馬車で教会に向かっていた。

 立ち寄った町での王子の人気は想像以上のものだった。老若男女問わず誰でも、特に若い町娘は物おじせず話しかけ握手を求めてきた。
 対するアマーリエには子どもが寄って来てくれた。囲まれて身動きとれないほどだった。

 町を出て一時ほどして、緩やかな坂道の途中で馬車が止まった。
 窓から外を覗こうとすると、すぐに扉が開いた。

 扉に手を掛けているのは王子だ。
「ここで一度下りていただけますか」
 王子に手を取られ、アマーリエは促されるまま馬車を下りた。

 彼は見違えるほど背が伸びて、今や見上げながら話さなくてはいけない。
 声変わりしたあとはしばらく違和感が拭えなかったが、王よりは少し甘い低く優しい声音も、次第に聞き慣れていった。

 何より変わったのは、その目だった。
 無邪気で、ころころとよく変わっていた表情は、落ち着いて、年よりも大人びて見える。憂いさえ感じさせるようになっていた。
 言葉づかいもがらりと変わった。
 自分のことは私と称し、アマーリエのことは名では呼ばなくなっていた。一抹の寂しさがあったが、そう感じるおのれが不謹慎とも思った。

「どうぞ、私の馬へ」
 アマーリエは、王子の馬に乗せられそうになってびっくりした。
「あの、一緒に乗るのですか?」
「はい。あの丘まで、ほんの少しです」
 そう言って、王子は小高い緑の丘を指さす。

 半ば抱えられるように鞍に載せられ、王子の腕の力強さに驚いた。アマーリエが大人しく鞍に腰掛けると、後ろに王子が乗り上げてきた。
 彼は両腕をアマーリエの体の脇に回し、手綱を握る。
 その手は浅黒く大きくて、頼もしかった。

 護衛たちを残し、二人は丘の上に向かった。
 蹄の音が遠くに聞こえ、馬が止まるまでが永遠のように思われた。

 急に視界が開ける。
 丘の上からの眺めは素晴らしいものだった。
 青空のもと、一面に緑の森が広がっていた。

「北の方向を見てください」
 彼の手が指し示す方角に目を向ける。
 見渡す限り、うっそうとした森だ。
「あなたの森に続いています」
 アマーリエは思わず首を巡らせて、王子の顔を見上げた。

 彼は遠くを見つめていた。
 アマーリエの育った、恋しい森の方向を。
 遠く霞んで見えるところに、あの大樹が今もいきづいているのだろうか。

 思わず弾んだ声で礼を言ってしまう。
「……嬉しい。ありがとうございます。わざわざ馬を止めてくださったのですね」
「馬を止めただけではありません。初めての公務に、この丘を通って行く場所を選び、あなたに同行してもらいました。公私混同を叱られてしまいますか」
 アマーリエは言葉を失う。

「いつか、一緒に行きたいとお願いしたのを覚えていますか。あのときは、あなたがともには行けないとおっしゃったわけがわかりませんでした」
 アマーリエは息を止めてしまう。

 王子の手が強く手綱を握った。
「財産を放棄すること、家族とは会わないこと、故郷にも戻らないこと。それから、父上はあなたを愛さず、子も作らないこと」
 淡々と王子は言った。
 アマーリエは俯いた。ずっと昔は、決して王子には知られたくないと思っていたのだ。

「ご存じだったのですね。いったい、誰が殿下に……」
「宮廷中に知らぬ者などいませんでした、子どもの私を除いては」
 王子は背後でため息をついたようだった。
「許してください。幼く、知らなかったとはいえ、あなたにきょうだいを産んでくださいなどとおねだりをしました」
「いいえ、わたしこそ、殿下のお願いを叶えて差し上げられませんでした。わたしは、陛下の示された条件のことは承諾したうえで嫁いできました。わたしには財産と呼べるものはほとんどなかったし、元々家族とは折り合いが悪かった。森に帰れないことは寂しく思いますが……」
 森での秘密、黒蜥蜴のことは、誰にも話したことがないのだ。あの頃は打ち明けられる人などいなかったし、信頼できる人ができた今でも夢物語と思われ、笑われてしまうのが関の山だと思っていた。
 あの日の出来事は、故郷と離れがたく泣いていた自分が見たまぼろしだったのではないかとさえ思うこともあった。

「父上のことは?」
 恐れるような、ひそやかな声だった。
 アマーリエには王子がどんな表情でその問いを発しているのかわからない。

「わたしは、自分の父が陛下のようであってくれたらよかったのにと思っています」
「どういうことですか?」
「わたしの父は、わたしの母の喪が明けるとすぐに継母と結婚しました。幼い頃は知るよしもありませんでしたが、どうやら母が亡くなる前から、継母と通じていたようです」
 この八年の間に宮廷で味方を増やすうち、アマーリエは、知りたいことと同じだけ耳に入れたくなかった話を聞くことになった。
 父と継母のことは、親切そうな顔をした隣の邦の領主夫人から聞いた。
 王子もきっとそのようにして、王とアマーリエの結婚のことを知ったのだろう。

「継母は、わたしが異母弟に害を為すと言って、八つのわたしをあの森に移しました。そういうことは、継母と継子の間にはよくあるようです。陛下はもとよりわたしに子を産ませるおつもりがなかったようですが、それはわたしにとっても願ってもない話でした。わたしは、継母のようになるのが何より恐ろしかったのです」

「あなたが、そんなことをするはずがない」
 語気強く王子が言った。
 その言葉を、これまで誰よりも側近くにいてくれた人が言ってくれたことが何より嬉しく、アマーリエは涙ぐんでしまう。森の緑が滲んで見える。

「わたしには、陛下が今も亡き妃殿下を思っていらっしゃることが、それだけでなにやら貴いことのように思えるのです。だから、お恨みなどしていません」
「あなたにあんな仕打ちをしていてもですか」

 アマーリエは口を噤んだ。少し首を俯ける。
「一度、ぶたれたことはありましたが、そのあとはみんな好きにさせていただきました」
「あれは、私のせいでした」
 違います、と言いかけたが、王子の手が震えているのに気づく。

 彼は呻きを抑えるような口調で言った。
「思えば私は、あなたを守りたくて、あなたに認めてもらいたくて、大人になろうとしていた気がする」

 彼の大きな手が、手綱から離れ、宙に浮く。
 何かを掻き抱こうとしているように微かに動いた後、再び、手綱を握り締める。

「殿下は、はじめてお会いしたときから、わたしよりずっと大人でいらっしゃいました」
 アマーリエが言うと、王子は吐息だけで笑った。

「あのときもあなたはそう言ってくださいましたね。……アマーリエさまはどうですか。もう、大人になられましたか」




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