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 アマーリエは王子の体を抱き込んだ。
 びしゃっと熱いものが腰から下にかかった。ポットの茶を浴びてしまったのだ。

「アマーリエさま!」
 腕の中の王子が、びっくりした顔でアマーリエを見上げている。
「殿下、大事ありませんか」
 アマーリエは王子の体を離す。
 その金茶色の頭から、ぴかぴかに磨かれたブーツまでを見下ろし、彼が無事なことを確かめる。
「アマーリエさまこそ! 早く手当を!」
 王子は鼻の頭を赤くして、叫ぶように女官たちに命じる。
 女官たちがわらわらとアマーリエの周りに寄ってきた。

 騒ぎに気づいて奥から出てきたのは女官長だ。
 彼女は、いつもは仮面のような顔を驚きに歪めていた。
 アマーリエを衝立の裏に連れてゆくと、大急ぎでアマーリエの手当と着替えの指示を出す。
 茶を被ったドレスを脱がされ、肌を見られる。茶は淹れられてから少し時間が経っていたようで、幸いにも火傷はなかった。
 それを確かめると、女官長は同時に茶器や床の後始末も言い付け、王子のところに戻った。

 衝立の向こうから、二人のやり取りが聞こえてくる。
「王子殿下、何があったのかわたくしめにお教えくださいませんか」
 女官長の声はとろけるように優しい。
 王子が答える。
「僕が女官にいたずらしたから、女官がびっくりして逃げた。はずみでお茶のポットが倒れて、アマーリエさまがかばってくれた」
「いたずら……?」
「アマーリエさまのおやつのお皿に芋虫がいたんだよ。でも、女官がこれはおやつで、まだ毒見してないから食べちゃ駄目っていうんだ。だから、顔に芋虫をくっつけた」
「芋虫……」
 ほら、と王子が言う。たぶん、床に散らばったものを指し示しているのだろう。
「これは芋虫? それともおやつ?」
 王子の問いに、女官長は黙りこむ。

 アマーリエは女官に体を拭かれながら、はらはらとその会話に聞き入ってしまう。

 芋虫と答えれば、王妃の茶菓子に異物を混ぜた、あるいは混ぜられていたのを見逃したということになる。最悪、王族の命を狙ったと判断されかねない。たとえ、何の価値のない王妃だとしても。
 おやつと偽れば、あの王子のくちぶりからして、女官長に毒見をせよと言い出しそうだ。
 女官長としての管理責任を問われるか、嘘をつきとおすために芋虫を食べさせられるか。
 いたずらの代償としてはあまりに大きすぎるように、アマーリエには思えた。

「殿下」
 アマーリエは、衝立の向こうの王子に呼びかけた。
「それは、わたしのおやつです。お願いして出してもらったのです」
「えっ」
「芋虫はとっても滋養があるので、わたしの故郷では好んで食します。ただ、食べるときは蒸し焼きにするということをわたしが伝え忘れていたのです。きっと、その女官は、よかれと思って新鮮なものを出してくれたのでしょう」
 もしも王子と面と向かっていたら、こんな嘘を堂々とつけてはいなかっただろう。
 アマーリエのために女官長を叱っている王子を、子どもと侮って騙しているのと同じだ。それから、お菓子を作ってくれた厨房の者の仕事も無駄にすることになる。
 後ろめたく思いながらも、撤回することはしなかった。

 ドレスの始末をしている女官たちの手が止まる。
 王妃の間に沈黙が満ちる。

「……わかりました」 
 王子が静かに言う。
「つまみ食いしようとした僕がいけませんでした」
 女官長がほっと胸をなでおろすのが気配でわかる。

 王子はすぐに言い継いだ。
「女官長、明日からは僕も食べられるおやつを用意して」
 女官長が返答に詰まる。
「アマーリエさま、いいですよね。明日からおやつは僕と一緒に食べましょう。お招きくださいますよね」
 アマーリエは戸惑いながらおずおずと答えた。
「国王陛下がお許しくださいましたら……」
「駄目とおっしゃるはずがありません。お茶会や舞踏会を開くのは貴婦人のたしなみでしょう?」
 それは、アマーリエの疑問に答えが与えられた瞬間でもあった。



 翌日の朝食の席でのこと。
 王子はその言葉通り、王に、午後のおやつをアマーリエと一緒に食べたいとお願いした。
 王は、訝しげな顔でアマーリエを冷たく一瞥した。
 忌々しい出しゃばりとでも言いたげな顔だった。
 王は、アマーリエを宮廷の誰とも親しくさせず、何の力も持たせたくはないのだろう。近づけさせたくない最たる人物が王子のはずだ。
「父上、いいでしょう?」
 王子がもうひと押しすると、王はしぶしぶといったていで頷いた。
 どうやら、一人息子のお願いには甘いようだ。
「好きにしろ。王妃、くれぐれも王子の勉学の邪魔はせぬように」
 あっさりと許しをもらった王子は、朝食の卓越しにアマーリエににっこりと笑みかけた。

 アマーリエはそのかしこげな表情を見て、自分の思い違いに気づく。
 王子は、昨日のアマーリエのへたくそな嘘に気づいて、見逃したのだ。
 この王子の母として出来る限り努めようなどと、自分は何と傲慢だったのだろう。

 アマーリエの思いをよそに、王子は毎日、勉学と稽古の合間にアマーリエの部屋を訪れるようになった。
 その日を境に、アマーリエの身辺で嫌がらせが行われることはなくなった。
 さらに、女官長が見違えるほど丁重にアマーリエに接するようになり、女官たちもそれにならいはじめたのだ。
 王子に芋虫を食べさせられかけた女官は、自ら職を辞して里に帰ったと聞いた。




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