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 一睡もできぬまま夜が明けて、女官がアマーリエを起こしに来た。
 短い礼拝を済ませると、促されるとおりに顔を洗い、着替え、化粧を施される。

 朝の支度を手伝ってくれるのは、女官長をはじめとした四人の女官たち。
 全員が、王が昨晩、四半時も経たぬうちにアマーリエの寝室を飛び出して行ったことを知っているだろうに、アマーリエを叱るでもなく、慰めの言葉を掛けるでもない。ということは、おそらくこの事態は予想の範疇だったのだろう。

 王妃の間の女官たちは、高位貴族の出身で、美貌と教養を兼ね備えた人たちだ。
 みな一様に仮面のような無表情を張り付けていて何を考えているのかわからない。
 その筆頭が女官長だった。

 アマーリエは、実家の用意した、彼女達の仕着せと見分けのつかないようなドレスに着替え、寝室を出て朝食室に向かった。

 朝食室は庭園に面した壁一面がガラス張りの美しい部屋だった。
 冬の澄んだ空気の向こうから、明るい日差しが降り注いでいた。

 既に長卓に着いている人物がいた。
 八つの王子だった。
 金茶色の髪に遠目からもはっきりとわかる真っ青な目。
 彼はまるで、父親である王の雛型のようだった。

 彼は朝食室の入口にアマーリエの姿を認めると、ぱっと目を輝かせて立ち上がり、駆け寄って来た。アマーリエの背後の女官たちがはっとしている。

「アマーリエさま、おはようございます」
 その子どもは屈託のない笑みを浮かべ、優雅に腰を折って貴公子の礼をした。
 アマーリエはそのさまに見とれたが、我に帰り、スカートをつまんでお辞儀をする。
「王子殿下、おはようございます」

 この子どもが、王の一人息子なのだ。
 夭折した麗しの王妃の忘れ形見、アマーリエの継子。
「これから、よろしくおねがいいたします」
 アマーリエが礼をして目を上げたとき、ちょうど王子と目が合った。
 王子はきらきらとした瞳を真っ直ぐに向けてくる。

 彼は、王をはじめとしたあらゆる大人たちから、亡き母のことを熱心に、素晴らしい人だったと聞かされていただろう。
 アマーリエは、きっと王の再婚を一番に嫌がっているのは彼ではないかと思っていた。
 そのために王は新しい妻を娶るのを最後まで拒んでいたのだと。

 だが、彼の澄んだ目からは、暗い感情は一切読み取ることができなかった。
 ただ、会えて嬉しいと、そう言っているように見えた。
 アマーリエは王子にエスコートされて朝食の席に着いた。

 やがて王がやってきたが、冷たくアマーリエを一瞥しただけで、あとはもうアマーリエなどいないもののように振る舞った。



 アマーリエは朝食の後、王妃の間に戻った。
 王はアマーリエに何の義務も務めも与えなかったので、日中も夜もすることがない。
 そもそも、宮廷は八年間も王妃がいないまま機能してきたのだ。
 今更闖入者のようなアマーリエを必要としていないというほうが正しかった。
 アマーリエは、早速、時間をもてあますことになった。

 外出は禁じられていないけれど、建前上、アマーリエよりも身分の高い者も等しい者もいないので、誘い出されることもない。
 幼い頃に読んだ本では、貴婦人はお茶会や夜会を開くものと相場が決まっているが、本当にそうなのだろうか。
 アマーリエには尋ねる相手もいない。

 まんじりともせず昼食の時間になった。
 食事だけは時間通りに運ばれてきたが、動いていないためあまり食べることができなかった。

 王妃という立場になると、日に何度も着替えをしなければならないらしい。
 午後の服に着替える段になり、再び女官にされるがままドレスを脱がされ、完璧に着付けされる。
 そのあとはまた、部屋でひとりじっとして過ごした。

 窓の外を眺めていると、遠くから、クス、と忍び笑いが聞こえた。目の端で見ると、居室の端に控えている若い女官が顔を伏している。声は彼女のものだろう。
 何がおかしいのだろうと思うけれど、思い当たる節がない。

 女官長も、他の者も、仮面のように装いながら、アマーリエを見ては片眉を上げたり、唇が震えるのをこらえたりして、様子が違った。

 アマーリエはいてもたってもいられず、姿見に駆け寄って全身を映してみた。
 背中を映してみてアマーリエはあっけにとられた。
 ドレスの背中の合わせが、一番上の釦を除いてぱっくりと開き、下着と素肌があらわになっていたのだ。
 貴婦人としてあるまじき格好だ。

 ドレスは自分では釦を留められない作りになっている。
 手を伸ばしてみても届かない。
 着付けを手伝った者が、わざとやったのだとしか思われなかった。

 もう少しアマーリエに勇気があったなら、誰かを呼びつけて、釦を留めさせるよう指図できただろう。けれど、一人にも声を掛けることができず、アマーリエはドレスの背中が開いたまま午後を過ごした。

 そのあとも、似たようなことが続いた。
 寝る前に毛布を剥ぐと敷布の上にミミズがうねっていたり、着替えの最中にほったらかしにされてしばらく下着姿で震えるはめになったり、夜食の菓子が獣の臓物とおぼしきものにすり替わっていたり。

 されること自体は、特段アマーリエには応えなかった。
 ミミズも臓物も幼いころから見慣れているし、寒いのも堪えれば済むことだ。
 けれど、アマーリエが女官たちに何か話しかけたり、お願いしたり、行動したりする前から、当然のように悪意を向けられるのは辛かった。

 アマーリエが、王にもそのほかの誰にも、この状態を訴えられないことをわかっているのだろう。
 日に日に女官たちのいたずらはあからさまになっていった。

 女官長はじめ、この部屋の女官のほとんどが、亡き王妃の代からここに仕えている忠実な者たちだと聞く。
 きっと、亡き王妃の人柄に心酔し、彼女を悼み、愛し続けるあまり、王があてつけに娶ったアマーリエなど妃などと認めたくはないのだろう。王と全く同じなのだ。
 ひょっとしたら、アマーリエが音を上げて出て行きたいとでも言うのを待っているのかもしれない。

 けれど、アマーリエにはもうどこにも行くところがない。

 思い出すのは、森で過ごした温かく幸せな日々。
 たとえ答えはなくとも、黒蜥蜴に心を打ち明けられた。
 何にも怯えず、息をすることすら後ろめたく思うことなどなかった。

 人に変じた黒蜥蜴は、いつか迎えに来ると言ってくれたけれど、そんな日はいつくるのだろう。一日すら永遠のように長く思われるのに、どれだけ待てばいいのかもわからないのに、あの言葉を信じてよいのだろうか?

 結局、アマーリエは、ここにいるしかないのだ。
 だからせめて、人前で泣いたり、怒ったりしてみじめな気持ちにはなりたくなかった。
 外でだけは、顔を上げて、きちんとしていたかった。

 幸い、女官たちの嫌がらせは王妃の間でだけのことだったので、毎朝顔を合わせる王や王子には気取られずに済んだのだった


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