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 アマーリエが十六になった冬の日のこと。
 毎年贈り物を届けさせるだけだった侯爵その人が、直々に館を訪れた。

 侯爵はあかあかと燃える暖炉の前で、アマーリエが結婚することになったと告げた。
 相手はアマーリエがよく知る人だった。
 幼いころから繰り返し聞いたお伽噺の主人公である、この国の王その人だったからだ。

 年はアマーリエの倍、最愛の王妃に先立たれて八年が過ぎる、八つの王子の父親でもあった。
 王は、家臣たちが長年にわたり執拗に再婚を勧めるのに嫌気がさして、とうとう妻を娶ることにしたという。

 王が貴族たちへ出した条件は三つ。

 一つ、王家に相応しい血筋の令嬢であること。
 二つ、妃となる女本人および一族が権力を一切行使できぬよう、実家の財産を放棄し、故郷には二度と立ち入らず、一族とも会ってはならないこと。
 最後に、王は決してその女を愛さないこと。

 花嫁探しは難航したという。
 貴族の誰しもが娘をそんな条件で嫁がせることを嫌がったのだ。
 王家と縁を結ぶ利益を一切そぎ落とす形の結婚となるからだ。

 王妃となるからには、王と関係を持ち、子供を産むことは許されるかもしれない。
 しかし、もしも男児を挙げられたとて、王には既に世継ぎの王子がいるので、その王子の身に何事かない限りは、政局に何ら影響はない。
 つまり、全てにおいてお飾りの王妃ということだ。

 家臣たちは、王に再婚するよう強くせっつき続けた手前、この国の貴族の中から相応しい娘を差し出さぬわけにはいかなくなった。
 そうして、白羽の矢が立ったのがアマーリエというわけだった。
 特に、継母は強く賛成したという。

「財産を放棄するということは、この館も、森にも、二度と帰って来られないのでしょうか」
 尋ねたアマーリエに、渋い表情で父は頷いた。
「そうだ。ここは、おまえに代わって、私が管理することとなる」
「お父さまのあとは、弟が継ぐのでしょうか」
「そうなる」

 アマーリエは目を伏せた。
 持ち物など一つも惜しくはなかったが、森を離れ、母の墓にも二度と参ることができなくなることは辛かった。
 そして、あの森に住む大きな蜥蜴と会えなくなってしまうことも。

「アマーリエ、いい子だから、嫁ぐと言っておくれ。もうおまえだけが頼みなのだ」
 父の懇願を、アマーリエは拒むことなどできなかった。

 なぜならば、アマーリエは、父に愛されたくて仕方がなかったからだ。
 父の望みを叶えても、おそらくは父が自分を顧みてくれないことがわかっていたとしても。
 たとえその願いを聞き入れることが、父との別れを意味していたとしても。



 アマーリエは父ととともに、屋敷に帰らねばならなくなった。

 その前にアマーリエは父にお願いして、母の墓参りと、森に別れを告げるために時間をもらった。

 外では雪が降っていた。アマーリエは母の墓から雪を払い、温室の花を供えて、二度と来られないかもしれないことを詫びた。
 墓守を老いた森番に頼んだあとは、森に入った。

 毎日行き来した獣道を辿り、森の最奥の大樹へ着いた。
 大樹は雪化粧を纏っておごそかにそびえたち、八年前と全く変わらぬように見えた。

 しかし、そこには大蜥蜴の姿はなかった。
 周囲を見回し、動物たちに尋ねても、尻尾の影すら見つけられない。

 アマーリエは森中を探しまわった。
 木々の影、小洞窟、清らかな水の流れる浅瀬。
 アマーリエの親しんだ森のどこにも、あの黒い蜥蜴はいなかった。

 アマーリエは、彼にお別れをせずに行くのは嫌だった。
「どこにいるの……」
 広大な森を一周して、アマーリエは大樹のもとに帰って来た。
 いつもは何と言うこともない森歩きがつらく思え、足はくたくただった。

 アマーリエが木の根っこにしゃがみこんでしまったとき、人の足音が近づいてきた。
 顔を上げると、そこには黒い外套に身を包んだ青年が立っていた。
 彫刻のような優美な顔だが、その片目は残酷にも損なわれていた。

「あなたはだれ……?」
 声を絞りだしたアマーリエに、青年は微かに笑って見せた。
「この目に見覚えがあろう」
 人とは思われぬ響きの声がそう言って、白い指が潰れた片目と指した。
「私は、おまえに助けられた」
「まさか……」
 あの大蜥蜴が人に変じたというのだろうか。目を瞬くばかりのアマーリエに、青年はゆっくり近づいてくる。

「愚かな狩人に傷けられ、力を失ったが、この森で傷をいやし、ようやく今日、いっとき人の姿をとれるようになった。もう少し、もう少し経てば、完全に力を取り戻せる」
 青年は座るアマーリエと顔の高さを合わせるようにひざまずいた。

 アマーリエの手をそっと取り、手の甲にくちづける。
 彼のくちびるは氷のように冷たかった。

「おまえのおかげだ。おまえが母の形見の黄金をくれたから」
 そう言って、アマーリエに自分の左手を見せる。
 小指に、八年前に手放した、母の指輪がはまっていた。

「もう少しの間だけ、これを貸していておくれ。わたしが全き力を取り戻し、元の姿に戻るまで」
 アマーリエは歌うような声に聞き惚れる。
 信じられないような話なのに、この青年の語る言葉なら全て真実のように思えるのだった。
 その証拠に、青年は、アマーリエがあの大蜥蜴しか知らぬことを次々と見せてくる。

「あなたは誰なの……?」
 消え入るような声で尋ねるアマーリエに、青年は首を振る。
「私の名は明かせない。ただ、これだけは誓う。私はおまえの側に長年在り、誰よりもおまえに感謝し、愛し、幸せを望んでいる者だ」

 その言葉にアマーリエは震えた。
 これまで誰にも向けられなかった愛情。それが、この青年の金色の片目に宿っていたからだ。

「あと数年でいい。もしも人ならぬ身の私でもよいのなら、待っていてくれないか。この姿をとって、おまえに会いに行くから。この清らかな森で、おまえが母の墓を守って幸福に暮らせるようにしてやるから。この指輪の何万倍も、おまえに富を与えてやれるから」

 アマーリエは目を伏せた。
 全てが遅かった。
 アマーリエは今日、この森を永遠に去らねばならなかった。

「ありがとう……」
 唇を噛みしめ、アマーリエは跪く男を見下ろした。
「でも、ごめんなさい。わたしは、都に嫁ぐことになっているのです。夫になる人には会ったこともないし、顔も知らないけれど、国中がかかわっていることで、もう、後戻りはできないの」

 もしも、あと一日でも早かったら、全てが違っていただろうに。

「今日は、あなたにお別れの挨拶をするために来たの」
 アマーリエは、青年に握らされた指輪を、そっと彼に手に押し戻した。
「結婚するために、この指輪も、この森も、みんな置いてゆかねばならないの。だから、これはあなたにあげます」
 青年は金色の目を見開いて、アマーリエを見つめていた。

 最後に彼の目に映る自分が穏やかな表情でありますように。
 そう思いながら、アマーリエは微笑んだ。

「長い間、ありがとう」
 涙が零れてしまいそうになったので、アマーリエは立ち上がり、彼に背中を向けた。

 背後で青年も立ち上がるのがわかった。
「他の男のものになるのか。愛してもいないのに」

 アマーリエの頬を温かいものが流れた。
「待っていろ。私はこの目を奪った愚かな人間に復讐し、おまえを手に入れるために、必ず元の姿を取り戻してやる――」
 恐ろしい声から逃れるように、アマーリエはその場を駆け去った。
 雪に足をとられながら、しかし、追いつかれまいと必死で走った。

 後悔も寂しさも、アマーリエは全てを捨てて、王妃にならねばならなかった。




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