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 昔々、あるところに、若く美しい王さまがありました。

 王さまは、方々への遠征の末、国を平定した英雄でした。
 王さまは冒険のおしまいに、異国の美しいお姫さまをお城に連れ帰り、結婚しました。
 二人はとても幸せに暮らし、二人の間には玉のような男の子が産まれました。
 しかし、お妃さまは、幼い王子さまを残して、若くして亡くなってしまいました。

 王さまは、稚い王子さまを抱きしめながら、亡きお妃さまに、二度と結婚はしないと誓うのでした――。




 この国に、その悲しい物語を知らない者はいなかった。
 なぜならばその王は、今、この国に君臨するまさにその人であったからだ。
 幼い女の子たちは、飽きることなく母や姉にそのお伽噺をねだっては、寝床で涙するのだった。

 アマーリエもそのひとりだった。
 物ごころついたときには彼女の側に母はいなかったので、寝物語をねだる相手は乳母か侍女だったのだけれど。

 アマーリエの父は侯爵、母は侯爵夫人であったが、母はアマーリエを出産した後の肥立ちが悪く、遠く離れた別荘で療養し、屋敷に帰ってくることはなかった。

 アマーリエが四つの年の冬に、母は別荘で亡くなった。
 なきがらは別荘のある森に葬られ、父とアマーリエのもとに帰ることはなかった。

 母の喪が明けると間もなく、父は後妻を娶った。
 家格は劣る家の出身だが、若く、闊達で、狩猟が趣味の侯爵と気が合った。
 継母ははやばやと身籠り、まるまると大きな男の子を産んだので、侯爵はとても喜んだ。

 継母は、継子のアマーリエに、侯爵の前では努めて優しく接した。
 しかしながら、侯爵のいないところでは、アマーリエが先妻に似ていて陰気だとか、ちっとも懐かず可愛らしくないとか聞えよがしに愚痴を言うのだった。

 アマーリエがだんだんと大きくなると、継母はますますアマーリエを疎んじて、自分と息子をいやな目で見るとか、息子に近づいて害をなそうとしているとか、夫に吹き込むようになった。

 アマーリエがもはや夜伽話を必要としなくなったころ、継母は夫に、アマーリエを亡き母が暮らした別荘に移すことを提案した。
 その一帯は、亡き母が持参金の一部として実家から相続した土地で、あるものといえばうっそうとした深い森と小さな館だけだった。

 アマーリエは知る由のないことだったが、継母は、アマーリエの母の生前から侯爵と関係を持ち、侯爵と結婚できる日を――アマーリエの母が死ぬことを――待ち望んでいたのだった。
 継母はそれをアマーリエに知られているのではないかという疑心暗鬼から、継子が自分の息子を傷つけることを、自分の地位を脅かすことを案じていたのだった。

 侯爵は侯爵で、アマーリエには後ろめたさを感じていたものの、跡取り息子を産んでくれた若い恋女房には甘く、先妻によく似たアマーリエを排することを已む無しとした。

 そうして、幼いアマーリエは、家族や乳母と引き離され、年老いた家庭教師と数人の使用人とともにその館へ移り住むことになった。

 母の遺産である領地は、そのほとんどが深い森で、館も古く手入れが無ければ人が住めないほどだった。
 母の生前から館に住む森番も、年老いて足を悪くしており、森の世話もろくにできてはいなかった。
 アマーリエは僅かな使用人たちとつましく暮らし始めた。
 誰もが彼女を不憫だと同情しながら、主には逆らえなかった。

 そんな大人たちの思惑とは関係なく、彼女は、かつて母も愛したという広大な森を供もつけずに一人で遊びまわった。
 朝一番に母の墓に参った後は、花を愛で、香草を摘み、狐や栗鼠と戯れ、木に登っては小鳥に話しかけて遊んで過ごした。
 老いた森番ではとうてい彼女の世話は務まらなかった。

 時折、思い出したように侯爵が館を訪れた。
 侯爵はアマーリエと通り一遍の挨拶を交わすと、豊かな森で狩りを楽しみ、夕方には山のような猟果を下げて屋敷に帰って行った。
 アマーリエは森の動物が傷つけられることを悲しみ、父に止めてくれるよう何度も頼んだが、父は頷くばかりで聞きいれてはくれなかった。

 ある秋、父の訪れがあった翌朝、アマーリエはいつものように森に遊びに出かけた。
 その日の森は暗かった。
 生臭くぬるい風が木々の間を縫って吹いていた。

 アマーリエは獣道に赤黒い血が点々と滴っているのを見て驚き、その跡をそっと辿った。
 血の跡は森の最奥まで続いていた。
 そびえたった大樹の根元に、何か黒いかたまりが横たわっていた。
 アマーリエが駆け寄ると、そのかたまりは僅かに身じろぎをした。

 けだものではなかった。アマーリエの腕でひとかかえほどもある蜥蜴だった。
 全身が黒い鱗で覆われ、長い尾は先端に近づくにつれ青と緑に染まっていた。
 赤い血液は小さな頭のほうから流れていた。

「ああ、怪我をしているのね?」
 アマーリエがその冷たい体を静かに抱き起こすと、蜥蜴の片目が傷ついているのがわかった。
 アマーリエは、蜥蜴の胴を何度も撫でた。
 小さな頭に触れると、ぴくりと体が動いたので、嬉しくて思わず蜥蜴の体を抱きしめてしまった。

 アマーリエの視界に、地面に落ちたあるものが映った。
 それは、折れた矢だった。
 やじりに蜥蜴の血がこびりついている。
「……おとうさまの矢だわ……」
 この大蜥蜴は、昨日この森に狩りに入った父に射られたのだろう。
 命からがら森の奥に逃げ込み、体をやすめていたのだ。
「ごめんなさい……」
 アマーリエは蜥蜴の手当をした。
 屋敷に連れ帰ることはできそうもなかったので、日陰に石を囲って寝床を作り、泉から水を汲んできてすぐに入れるようにしてやった。
「蜥蜴って、何を食べるのかしら……?」
 蜥蜴の側にしゃがみこみ、周囲を見回しながら思案してみるが、蜥蜴の好物は思いつかなかった。
 そのとき、蜥蜴がアマーリエの手に頭を擦りつけてきた。びっくりして見下ろしてみると、蜥蜴はアマーリエの左手の指輪に執着しているようだった。
 母の形見の指輪で、金でできているものだ。
 アマーリエには大きいので、親指に嵌めていたのだ。
「この指輪が欲しいの?」
 尋ねると、蜥蜴は頭を小さく上下させた。頷いているような仕草だった。
「へんな蜥蜴さんね。黄金が好きだなんて、まるでお伽噺の竜みたい」
 竜はこの国で神にも等しい。神話の中の生き物なのだ。
 アマーリエの亡き母の宝飾品は、そのほとんどが継母の手に渡っていた。
 母が実家から相続したものも、父が母に贈ったものも、侯爵家ゆかりの品々も、母が屋敷に置いて行ってしまっていたものは、みんな継母が自分のものにしてしまった。
 金の指輪だけは、石が嵌っていないために価値が低いと見なされて、取り上げられることがなかったのだ。
「この指輪は、おかあさまの形見なの……、でも、あなたが欲しいなら、あげるわ」 
 アマーリエは指輪を外し、蜥蜴の側に置いてやった。
 蜥蜴は小さく嬉しそうに鳴いた。
 そして、ちろりと青く長い舌を伸ばすと、アマーリエの指輪をぺろりと掬いあげ、またたく間に飲みこんでしまった。
 アマーリエはその様子を目を見開いて見つめていた。
 蜥蜴の片目は潰れたままだったが、いつの間にか傷口からの血は止まっていた。



 それから毎日、アマーリエは蜥蜴のもとを訪れた。
 蜥蜴は、ひんやりした木陰や、石の上で、アマーリエの側で一日中丸まっていた。
「ねえ、あなたは、ほんとうに不思議な蜥蜴さんね」
 アマーリエは、黒くて艶のない鱗に覆われた、蜥蜴の冷たい背中を撫でる。
「ごはんも食べないし」
 蜥蜴は、最初の日にアマーリエの指輪を飲みこんで以来、食べ物らしい食べ物を口にしなかった。
 館の図書室で読んだ本では、蜥蜴はねずみや栗鼠などの小動物を食べるというので、アマーリエはおののいていたが、彼女の知る限り蜥蜴は肉を食べなかった。

「こんなに大きいのに、動物たちはあなたのことを怖がらないし」
 いつの間にか、アマーリエと蜥蜴の周囲には、小鳥や小動物が集まって来て、彼女を見守るように囲んでいるのだった。
「いつまでも、こうして、ここにいられたらいいのに」
 家庭教師や森番をはじめ、使用人たちはみなアマーリエに優しい。
 不自由など一つもないが、寂しいという思いは抑えられなかった。
 でも、この森にいると、何だか心がぽかぽかと温かくなり、懐かしい心地になるのだった。
 それは春の日だけでなく、日差しの強い夏も、木枯らしの吹く秋も、雪深い冬も同じだった。
 きっと、アマーリエの母が眠る森だからだろう。

 アマーリエは、瞬きすらしない、大きな黒い蜥蜴にだけ、自分の心の内を少しずつ明かすようになった。
 勉強のこと、おいしかった食事やお菓子のこと。
 母のこと、父のこと。
 継母のこと、異母弟のこと。
 アマーリエを取り囲む小さな世界のすべてのこと。
 もちろん蜥蜴は人語などわかるはずがないので、返事すらなかったけれど。

 陽が落ち始めると、アマーリエは蜥蜴を残して館に帰る。
 そんなふうに過ごして八年が過ぎ、アマーリエは十六の少女になっていた。






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