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Break-through 突破する力 藤木麻祐子

世界選手権まで、あと3カ月しかない。
シンクロナイズド・スイミング・スペインチームのコーチを引き受けた藤木麻祐子は、バルセロナ空港からスーツケースを持ったままプールに駆けつけた。
「なんやこれ」
絶句した。
音楽を流しているのは、壊れかけのCDプレーヤーだった。シンクロでは、水中でも音楽が聞こえるようにする水中スピーカーが不可欠のはずなのに。振り付けは、3分の1しか終わっていなかった。普通のチームなら、前年の冬までに終えて、いまが仕上げの時期のはずなのに。

「絶対、間に合わない」。ため息がこぼれ出た。2003年5月。プールには初夏の日差しが照りつけていた。
それから7年。スペインは現在、世界一のロシアを追う一番手になった。昨年の世界選手権のフリーコンビネーションでは、ロシアが不出場とはいえ、初の金メダルを手にしている。その陰には、藤木の苦闘があった。

10年前までは選手だった。
元シンクロ選手の母と元競泳選手の父を両親に持つ。地元の大阪には日本のシンクロの草分け、「浜寺水練学校」があった。7歳から自然と競技を始めた。

当時世界最強だった米国に憧(あこが)れた。美しさ、演技のダイナミズム。高校2年生で米国に1年間留学。帰国後もシンクロ漬けの日々を送り、アトランタ五輪代表の座をつかんだ。

ところが、選手生活は暗転する。五輪の重圧。先輩たちとの上下関係。10人の代表中、試合に出られるのは8人だが、藤木は出られなかった。

チームは銅メダルをとった。「外からは祝福される。でも、中ではつらい思いだった」。大好きなシンクロを楽しめなかった。五輪後、プールに行けない日が続いた。

もともと、日本の得意技である「合わせ」には、愛着もあるが、そこから逃げ出したい思いも抱いていた。
170cmの身長は、他の選手よりも目立つ。背が高いとダイナミックに見えるが、ほかの選手と演技を調和させるのには苦労する。恵まれた条件が、藤木にとっては苦しみでもあった。コーチからは「演技を合わせるのに時間がかかる」と言われた。同調性を重視する日本ならではの受け取られ方だった。

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大学卒業後、再び渡米。クラブチームに所属し、高校のころ感じていたシンクロの楽しさを取り戻したが、00年のUSオープンで優勝したのを最後に引退した。

その後、米国のクラブでコーチをしながら、日本チームが国際大会に出るときはマネジャーをしていた。そんな頃、国際大会で、スペインのヘッドコーチ(監督)、アナ・タレスに声をかけられた。

最初は断ったが、会うたびに誘われる。03年春、「3カ月限定なら」という条件付きで受け入れた。
デュエットの練習中、選手同士がぶつかる。個性豊かな天才肌のジェマ・メングアルと努力家のパオラ・ティラドス。「あなたが違うのよ」と互いに譲らない。ソロでも大会に出場し、演技がうまいのはジェマだ。でも、リズムがずれていたのもジェマだった。スペイン人のコーチの指示は具体的でなく、なかなか解決しない。

そこで藤木は、あらかじめ細かいルールを決め、陸上で何度も音楽に合わせたうえで水中で合わせる手法で確かめさせた。この手法自体は強豪国ではごく普通に使われているが、スペインでは、いきなり水中で合わせようとしていたのだ。

選手の体に触れて、動きを一つずつ分解して説明することも珍しくない(上の写真)。
もともと、スペインの将来性は十分だった。アナが考え出す独創的な振り付けに、選手の体の柔軟性。だが、審判の採点が割れる。難易度の高い動作を組み合わせて演じるため、同調性が欠けてしまうのだ。

(次ページへ続く)

自己評価シート

 

 

 

自分にどんな力が備わっているのか。何が強みなのか。編集部が10種類の「力」を示して自信がある順番に並べてもらうよう依頼したところ、藤木さんは三つを差し替えて答えてくれた。

 

 

 

 

藤木麻祐子(ふじき・まゆこ)

1975年、大阪府生まれ。7歳でシンクロを始める。
91年、石川国体・デュエットで優勝。96年、アトランタ五輪で銅メダル。2000年、現役を引退。00年から 米国でコーチ留学しながら、オーストラリア、カナダなどで技術、振り付けコーチを担当。03年、スペインで指導を開始。08年、北京五輪でスペインがチーム、デュエットで銀メダルを獲得。

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