老婆が、孫に聞かせる昔々のおとぎ話。

「むかし、むかし────

 この国には一匹の悪い悪魔が住んでいました。

 悪魔は不思議な術を使い、時の人達をとても困らせたのです。

 大地は荒れ、動物達は次々と死んでいき、作物も次第に枯れて行きました。

 空は黒い雲に被われ、日の光が一切なくなり、人々は暗い日々を過ごさなくてはなりませんでした

 そんな中、ある一人の少女が神様に祈りました。

 どうか、あの悪魔を懲らしめて下さい。と。

 その少女は、毎日祈りました。来る日も来る日も祈り続け、そしてそれが1000日めを迎えた日の事です。

 ────すると、どうでしょう。

 いままで黒い雲に覆われていた空が二つに割れ、まばゆいばかりの光が溢れ出てきました。

 祈りを続けていた女の子の目の前に、神様が現れたのです。

 神様はこう言いました。

 清らかなる乙女よ、そなたの願いを聞き届けよう。そなたが、あの悪魔を退治するがよい と。

 その言葉と共に、少女はまばゆいばかりの光に包まれ、気がつくと白い鎧と銀色に輝く剣を少女は持っていました。

 それだけでなく、少女の周りには4人の屈強な勇者が現れていたのです。

 4人の勇者は言いました。

 これからは、我々があなたをお守りします と。

 少女は神様から言われた通り、貰ったその剣と鎧で、4人の勇者と共に悪魔と戦いました。

 悪魔の爪は鎧に阻まれ、鋼すら貫けない悪魔の肌を少女の剣は切り裂いて行きました。

 しかし、悪魔も負けてはいません。

 あの手この手を使い、少女を苦しめて行きます。

 そしてとうとう、その悪魔は4人の勇者と神様に祝福された剣と鎧を持つ少女に地の底へと追放されたのです。

 ─────しかし、ああ何という事でしょう。

 悪魔が地の底に落ちる寸前。その汚れた呪いにより、その少女の魂を共に地の底へと沈めてしまったのです。

 人々は自分達を救ってくれたその少女を悲しみ、彼女を『聖女』としてあがめ祭りました。

 少女の霊を慰める為に、武神祭と言うお祭りを開き、この国のシンボルとして、聖女は人々の心の中に生き続けたのです。

 そして、4人の勇者達は少女を守れなかった事を悔やみ、天には帰らずそのままこの地に止まり、この国の人々を守るために、今もこの地を見守っているのです。

 むかし・・・遙か遠いむかしの物語─────────

 この国が出来た時の神話の・・・聖女の物語。

 

 

 

 

 ──────おかしい。

 考えてみれば、いろいろとおかしな事はおきていたのだ。

 この間のオーク達との戦いの中、彼は冷静に対処し、そのつど、最適と思える呪文を掛けていた。

 彼は、初心者が陥り易い様な攻撃一辺倒ではなく、多種多様な呪文を織り交ぜて、あの戦いを支援していた。戦い慣れしていると言えるだろう。

 レオナとの戦いの時でも、彼は冷静に判断して勝利をものにしている。

 それに普段は大した呪文など使わない彼だが、レオナが足に血だらけになるような大怪我を負った時など、足に負った大怪我などいともたやすく、それどころか傷跡まで治してしまっている。

 普通の治癒の呪文では、怪我は直せても傷跡までは直せないものだ。

 それなのに・・・・・彼はそれができた。

 さらに、制御が難しいとされる式神を彼は従える事も出来る。

 それらが一体何を意味するのか?。

 彼と、仮面の導師様は、ほぼ同時期にこの国に来たと聞いている・・・・・・・・・・。

 

 じぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ──────────────────

 

「あの〜〜、僕の顔に何か付いてます?」

 ソフィアに鋭く睨まれて、フィリオはおどおどと無用にびくつきながら、気弱な声を投げかけていた。

 お昼にはまだちょっと早い総務課で、図らずもフィリオと2人っきりになったソフィアは、じっと無言で彼を見つめている。

 それも、ギンっと睨むような目で。

 エリカは、武神祭の手続きや準備に忙しく、まだここには現れてはいない。

 お昼に来るエリーがここへ来るのは、もうしばらく後だ。

 

 じぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ

 

 彼の言葉に一切反応しようとせず、ソフィアはただじっと見つめていた。

 彼女の頭の中では、同じ問いが何度も繰り返され、そして、そのつど否定されている。

(状況は・・・・本人と思える節が幾つもある。

 ・・・がしかし、証拠はない!!

 それにこの男が! この軟弱な男が!!!

 認めない! ぜぇぇえぇぇぇぇぇえったいに認めない!!!!!!!)

 さらに、激しく目つきを鋭くさせフィリオを睨みつける彼女。

 レオナの一件も、少しの・・・・・いや、かなりの問題を残していたが、一応一段落し、ようやく、しばらくは一息つけると思っていたフィリオだったが、それははかない夢のようだった。

(・・・・・・・・はぁ)

 心の中で人知れずため息をつくフィリオに、さらにまた視線が鋭くなる。

(シクシクシク──────────)

 と、そこへ、ドアをノックする音が彼の耳をくすぐった。

 フィリオが返事をすると間もなくドアは開かれ、そこからリフィニアが入って来る。

 少女は何も言わずとことことフィリオに近づき、そして彼の服の袖を掴むと、ようやく寂しそうな声をだした。

「フィリオお兄ちゃん、パパ知らない?」

 ちょっと上目遣いで愛らしく聞くリフィニアに、フィリオはやや躊躇しながらも、知らないと首を横に振る。

 こんな小さな女の子が、初めて来た異国の土地で独りぼっちなのだから、寂しい思いをしているに違いない。

 宿屋からここに来るのだって、きっと死ぬほど不安でしょうがなかっただろう。

「リフィニア・・・・・・・・・・」

 フィリオが、そんな少女を慰めようとした矢先─────

「あの、ボケが!

 また、娘ほったらかしてナンパに行ったわね!!!!!!」

 可愛らしいリフィニアは一瞬でどこかに消えさり、代わりに子供とは思えない程の迫力をにじませて瞳に炎を灯らせるリフィニアがそこにいた。

 少女はフィリオがそれに対してリアクションを起こす前に、そのまま父親を探しに走って行ってしまう。

 嵐のように過ぎ去るリフィニアに、フィリオは内心少し笑ってしまった。

「ほんと・・・・・変なところでマチルダさんそっくりなんだから」

 ほとんど自分にしか聞こえない様な小さな声でフィリオは呟くと、今度はリフィニアの開けたままの扉をコンコンとノックする音が聞こえた。

 すると、今度は威厳と風格を漂わせたノイバウテン侯爵が、お供も連れずに一人で総務課の扉をくぐってきた。

「婿殿、決心は付きましたかな?」

 ・・・言葉が出ないとは、まさにこの時のフィリオを言うのだろう。

 苦笑することも、そして苦々しげに渋面する事も出来ず、彼は表情に困りながら、この初老の客人を丁重に迎えた。

 ノイバウテン侯爵は、そんな相手の事などとっくにお見通しで、ここに来ていた。

 ───と言うより、通っていた。

 2日と間を空けずにここに来ている侯爵は、その度に、娘のレオナの事を口にしている。

(エリカ殿には悪いが、この際目をつぶって貰おう。父親のクロードも反対している事だし。

 それに、このチャンスを逃せば、レオナは結婚など絶対にしないだろうからな)

 ノイバウテン侯爵は、娘が気位が人一倍強く、勝ち気な性格であることを良く知っている。

 レオナは、自分より身分の低い者との結婚など、絶対に認めないだろう。

 しかし、貴族のトップとも言える4候家の一つであるノイバウテン家より品格の優れた家など、片手の指ほどもない。

 その上、貴族達から、娘はあまり好かれていないのだ。

 侯爵家とゆうものを誇示しすぎているばかりか、女だてらに剣をたしなんでいるのがその理由である。

 

 ・・・・・・・・このままでは、娘は行き遅れてしまうかもしれない。

 

 そんな不安が侯爵を苛み、フィリオに猛烈にアプローチをかけさせていた。

(この男が首を縦に振れば、あの誓いも復活する。

 そうすれば、自分の言い出した事だけに、レオナも承知せざるを得まい)

 ここは一つ、父親のがんばり所である。

 ・・・・・・・むろん、フィリオの意志などそっちのけ、であるのだが。

「婿殿。ここは一つ首を縦にふらんか?。

 今婿に入れば、ノイバウテン家の領地はそなたの物。

 それに、美形の娘に、広い屋敷。さらには、政治にも口を出せて、妾も何人か養えるぞ」

 侯爵の口撃に、閉口せざるを得ないフィリオであったが、いつもならば、そろそろ彼女が来るはずである・・・・・・・・・・・。

「お父様!!」

(・・・・・・・・ほら来た)

 完全に諦めきった感のあるフィリオが思う通り、総務課のドアをくぐったのは、ノイバウテン侯爵令嬢のレオナであった。

「お父様!いつもいつも!

 わたくしは、マクスウェルさんなんかとは、結婚いたしませんわ!」

 いつもなら、ここで、エリカが「なんかとは、どう言う事よ!」と怒るところであるが、今日は珍しくここにいない。

 武神祭の準備などで遅くなると昨日言っていたので、おそらく来るのはもうしばらく経ってからだろう。

 とは言え、大騒ぎになるのは変わらないのだ。

 フィリオをまったく無視した、父娘の口げんかはもう始まっている。

「レオナ、いい加減わがままをいうのは止めろ!」

「お父様こそ、いい加減になさって下さい!」

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 誰にも判らないように、小さくため息をつくフィリオ。

(また昼頃まで続くんだろうな・・・・・・・これ)

 もはや完全に諦めていたフィリオだったが、今日に限ってそれは杞憂に終わった。

 いつもなら昼過ぎまで続く口げんかだったが、しばらく経ってから、ふと、侯爵がその口げんかを止めたのだ。

「今日は、武神祭に備えて4候家全てがこのウライユールに集まっているのでな。

 これから一緒に昼食をとる事になっておるのだ」

 そういうと、侯爵はそそくさと総務課を出ていき、それに続いてレオナも帰っていった。

 2発目の台風はようやく過ぎ去り、台風一過と呼ばれる平穏な時間が────訪れる前に3発めがやってきた。

「フィリオーーー」

 猫なで声で総務課に来るなり、フィリオの隣に陣取ったエリカは、すぐさま彼の腕を取って至福の笑みを浮かべている。

 見せびらかすように、フィリオから貰ったペンダントを胸にきらめかせるエリカは、しばらくフィリオの困ったような顔を見ながら笑みを浮かべていたが、唐突にこう言った。

「あ、そうだ。

 フィリオの事も登録しておいたからね。一緒に出よ」

 にこにこ顔でそう言われ、一瞬何の事だか判らなかったフィリオだが、ふいにその事に思い当たり恐る恐る訊ね返す。

「・・・・・もしかして、武神祭?」

「そ、一緒に出てね」

 ────────最後の台風は、吹き荒れるだけでなく、最後に大爆発を引き起こしてしまったようだ。

「ぼ、僕が武神祭にでるの?」

「そ」

 事も無げにいうエリカに、フィリオは今更ながら自分がドつぼにはまっている事を感じていた。

 そして、これらの間も、ソフィアの厳しい視線が弱まることは一度もなかった。

(・・・・・・・・・僕って、不幸の星の元に生まれているのかも知れない)

 

 

「・・・・難儀な男だな相変わらず」

「お前ほどじゃないと思うぞ、ぼかぁ・・・・・・」

 疲れた様子で、午前中の出来事を言うフィリオの前には、ヴィルドが両頬に真っ赤な手形を刻まれてそこに座っていた。

 おそらく、ナンパに失敗して、その相手にひっぱたかれたのであろう・・・・・・・・。

 彼の横には、父親を捜し回って疲れたのか、リフィニアが小さな寝息をたてていた。

 その姿は、天使に例えても誰も異論は出ないであろう程、可愛らしいものである。

「まったく、そんな事ばかりしてると、今にしっぺ返しを食らうぞ。

 この子が大きくなって、お前みたいなナンパ男連れてきたら、お前どうするつもりだ?」

 冗談めかして、からかうつもりで言ったその一言に、ヴィルドはキッパリ言い放つ。

「ぜっっっっったいに、交際は認めない」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親ばか」

「ばかとは何だ? ばかとは。

 こんながさつで浮気者なナンパ男のところに、かわいい娘をやれるか!」

 力いっぱい力説するヴィルドに、フィリオは呆れた様な視線を流し冷たく言い放つ。

「・・・・・言ってて、悲しくならないか?」

「・・・・・・と、とかく。

 リフィニアが絶対幸せになれるような相手を見つけてやるんだ」

「そう思うなら、そのナンパ癖止めたらどうだ?」

 ぼそりと、だが呵責なく言うフィリオの言葉に、ヴィルドはとうとう言葉に詰まってしまう。

「・・・・・・・・お前、最近冷たいぞ。

 昔は、こう、流してくれたと言うか、笑って許してくれたと言うか・・・・・」

「そうか?」

「そうだ!」

 なにやら都合のいい事をキッパリ言うヴィルドは、さらに続けて、

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・お前、焦っているのか?」

 しばらく沈黙した後のヴィルドのその一言に、フィリオはピクリと反応する。

 その顔には、いつのまにか厳しさが宿っていた。

「・・・・・・・図星か」

 ヴィルドは、抑揚の無い声で言う。

 危険な香りが二人の間に流れ掛けたが、それを今日3回目のノックがそれをかき消した。

「すいません。

 フィリオ・マクスウェルさんいらっしゃいますか?」

 今度の客は、『ハーブの森』の女主人ミレアだった。

 彼女は、今日・・・・・と言うより、フィリオがここに来てから初めてのまともな客であると言える。

 彼女は、エリカが見せびらかしているペンダントと同じ物を売ってくれと頼みに来たのだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・でも、やっぱり魔導師協会総務課の仕事ではない。

 フィリオは、アレと同じ物は無いと断るが、彼女はなお食い下がった。

「たしか、あの子が持っている物なら幾つかあると聞いたんだけれど」

 寝息を立てているリフィニアへと視線を流すミレア。

「リフィニアに上げた物は、失敗作ですよ」

 そう言って、フィリオは机の引き出しから皮の袋を取り出して、無造作に彼女の前に差し出した。

 フィリオにとってそれはゴミに近い物だから、扱いもぞんざいだ。

「これでいいなら、差し上げますけれど」

 ミレアはその言葉を聞いたとたん一瞬複雑な表情をしたが、とりあえずその袋の口を開けた。

 すると、彼女の瞳がきらめき始める。

「これよ! これでいいの」

 そう言って中の物を全てテーブルに出すと、その一つ一つを手にとって品定めし出した。

「とてもただのガラス細工には見えないわ。

 とても深い色なのに、湖のように透き通っていて・・・・

 それに、なぜか不思議な感じのする輝きを放っているって言うか。

 ・・・・・・・本当に貰っていいのね?

 後で、返せとか言われても返さないわよ」

「どうぞ、持っていって下さい。どうせ使い道の無い物ですから」

「・・・・・・・・・本当にただでいいの? 絶対?

 ホントにホントにただでいいの?」

 くどいくらい言うミレアに、フィリオはどうぞと頷いた。

 そうしてミレアは、少女の様に目をキラキラ輝かせながら総務課を後にする。

 立ち行く彼女を目で見送ってから、ヴィルドは心配そうに話しかけてきた。

「おい、いいのか?

 ただでやっちまって」

「なあに、アレはちゃんとプロテクトを掛けてあるヤツだ。それに、ちゃんと調整もしていあるから暴走する心配はない。

 普通に使う分には、ガラス細工だよ。

 たぶん、誰かが欲しがるだろうと思ってやっておいたんだ。これで、前の様な事は二度と起きないだろう」

「いや・・・・・・・・そうじゃなくて」

「そうじゃなくて?」

 歯切れの悪い彼の言いように、フィリオは不思議そうに問い返す。

「・・・まあ、いいか。

 もう言ったって遅いし、後でイヤでも思い知るだろうから・・・・・・」

 ヴィルドに哀れむように言われたフィリオは、ぼそりと一言。

「・・・・・・・・なぜか判らないけど・・・・・・猛烈にヤな予感がするのはなぜだ?」

 

 

 

 

 晴れ渡った空の下、大勢の人が武神祭会場のコロシアムに詰めかけ、開会式を今や遅しと待ちわびていた。

 武神祭は、正午きっかりに開会式が催され、その後3日間の予選大会が行われる。

 そしてその後は、シード選手の候騎士や聖騎士が加わった決勝トーナメントが行われる予定だ。

 今年の注目は何と言っても、大会連覇を狙うヴァン・エリカと、候騎士達との戦いであろう。

 会場には、多くの人が詰めかけ、貴賓席も名だたる貴族達が並んでいた。

 その中には、隣国からの使者達の姿も見える。

 彼らも、ワインを優雅に口に運びながら、開会を今や遅しと待ちわびていた。

 しばらくして、大きな歓声が会場を包み込み、割れんばかりの拍手と共に、前回優勝者のエリカ・ヴァン・シャフィールが姿を現した。

 彼女の手には、一対の剣と盾が携えられている。

 それは、大会優勝者に渡される伝説の聖女の武具だ。

 前回の覇者であるエリカが、それを手にゆっくりと国王へと近づき、そして跪きながら、それを国王の手に預けた。

 剣と盾を受け取った王は、高々とそれを掲げ開会を宣言する。

「これより、武神祭を開催する!」

 国王の宣言により、武神祭は開会され、続いて予選大会が開かれた。

 いずれも、腕に自身のある者達ばかりが集うこの大会は、一回戦から白熱した戦いが行われ、その場にいた観客を魅了して離さなかった。

 

 さて・・・・・予選大会2日目である。

 この日は、たいがいあまり盛り上がらない。

 なぜなら、過去に実績のある者は、一日目の早い時期に一回戦が行われ、徐々に無名の選手が戦っていくからだ。

 だから、2日目には、ほとんど名の知られていない選手が出場する。

 当然、関心度は低く会場の人もまばらなのだ。

 会場には、出場関係者のみが試合を見に来ているのが普通である。

 

 それなのに────────────

 

「うぉぉぉぉぉぉ、殺せーーーーー」

「八つ裂きにしろ!」

「なぶり殺しにしろ!!」

 過激な歓声が会場を包み込み、立ち見も出るほど、会場は熱い熱気に包まれていた。

 2日目の第4戦目。

 もう、予選第一回戦も終わりに近づいてきた頃である。

 まだ試合は開始されていないが、男達の熱い叫びが、会場を興奮の渦に巻き込んでいた。

 試合場にいるのは、まだ若い2人の男。

 一人は、他国から来た感じのハタチ前後の男。見たところ、何の変哲もない若者である。

 その彼は、この会場の異様な雰囲気に完全に飲まれていた。

 彼は地元の選手と戦う時、他国者の自分が罵声を浴びせられるのは理解しているつもりだった。

 しかし、それでもこの異様な雰囲気に、恐怖を感じずにはいられなかった。

 観客は殺気立っているし、それに何より、その殺意にも似た罵声の矛先が、その地元の選手に向けられているのだから。

「フィリオ〜〜、がんばって!」

「殺せ!!」

「反則でも、何でも使っていいから、そいつを八つ裂きにしろ!」

 地元のフィリオ・マクスウェルと言う選手に、女性から黄色い声援が飛ぶたび、会場は火山の噴火のごとく、彼を罵倒していく声が高まっていく。

「地元なのに、罵声を浴びせられるっていったい?」

 彼の疑問は、聞く者もいないままその罵声の渦に飲み込まれていった。

 会場を見渡すと、そのほとんどが男であり、その全てが殺意にも似た視線を相手選手にそそぎ込んでいる。

 と、突然彼は会場に目を止めた。

 最前列で相手の選手に声援を送っている女性を除けば、全部が男で埋め尽くされている会場の中程に、1人の女性の姿を見つけたのだ。

 楚々として、おしとやかそうなその女性の姿に、彼は一瞬我を忘れて見とれてしまった。

 遠目なので、癖のない金髪の髪に白い肌としか判らなかったが、なぜか心惹かれる物がある。

 不思議な魅力を感じさせるその女性に、彼は魅了されてしまったようだ。

 一瞬にして彼の心を奪ったその女性は、しばらくじっと会場を見ていたが、ある時勇気を振り絞った様子で声を出した。

「フィリオ君、がんばって!!」

 鈴の音の様なその声は、なぜか罵声に消えることなく彼の耳に聞こえてきた。

 そして当然、そのよく通る声は周りにいた観客達にも聞こえていく。

 驚いた様子で周りの観客達が、いぶかしげにその女性に問いかけている様子が見える。

 残念ながらその問いまでは彼の耳には聞こえなかったが、問の答えは彼の耳にしっかりと聞こえてきた。

 彼女は、周りが静まり答えを待つ中こう答えたのだ。

「・・・・・・・彼の愛人です」

 楚々として、恥じらいのある声が伝わり、彼女が恥ずかしそうに顔を両手で隠した半瞬後。

 彼女以外の、つい先ほどまでフィリオ・マクスウェルに黄色い声援を上げていた女性でさえ、完全に殺意のこもった罵声を上げ会場はそれに埋め尽くされた。

 

 

「ずいぶん騒がしかったようだが、どうしたんだ?」

 総務課の中で、自分の怪我の手当をするフィリオに、エリーとランチをしていたソフィアが訊ねた。

「それにしても、またハデにやられたな」

 パンを一口ほおばりながら、ズタボロになって帰ってきたフィリオに、さして心配した様子も見せず言う。

 これぐらいの怪我なら、いつもエリカに負わされているからだ。

 ──────それもその筈。

 この怪我は、会場で傷付けられたものではない。

 彼は相手の殺意のこもった一撃で、さっさと負けが確定したのだが、問題はその後だった・・・・・・・・・・・・・・。

 打たれた場所をさすりながら、会場を出ようとしたその時に、彼に文字通り災厄が降ってきたのだ。

「あの女、何なのよ?!」

 災厄はそう言って、彼をいつも通りズタボロにすると、やけ酒を飲むためにハーブの森に向かっている。

(まさか、いきなりあの人が出てくるなんて・・・・・・・・・)

 彼は、見覚えのあるあの女性に、内心ため息をついていた。

「すいませんが、しばらく出て来るんで留守番お願いします」

 フィリオはそう言うと、怪我を癒したばかりの身体で外に出ていった。

 彼を目で追いながら、ソフィアは心の中の疑問を反芻している。

 そんな、いつもとは違う視線で、フィリオを目で追うソフィアに、エリーはにやりとほくそ笑んでいた。

「ねえ、後で町にでない? 結構にぎわっている筈だから」

「ああ」

 気のない返事を返すソフィアは、まだフィリオを目で追っている。

(ふふっふっふ・・・・・・・)

 

 町に出たフィリオは、人混みで通りが溢れている中で、あの女性を捜していた。

「早く見つけないと・・・・・・・・・」

 口の中でそう言うと、彼はその人混みの中に入り、きょろきょろと辺りをうかがい始める。

 それは、数年前までは見慣れた活気ある風景だった。

 スタイビール山脈の東側を旅していた頃は、ちょっと大きな町によると、このような喧噪は当たり前だったのだ。

 だが、この王都ウライユールがこのような姿になるのは、武神祭の時だけだ。

 いつもは、静かでのどかなこの町も、この時期ばかりは喧噪に包まれてしまう。

 フィリオが、久々に見る人波に少々息苦しさを感じて、大通りを脇にそれて裏道を通ろうとしたその時だった。

 彼のローブを引っ張る何かがある。

 クルっと首だけをそれに向けたフィリオは、そこで思いがけないものを見つけてしまった。

 そこには、瞳に涙をいっぱいにたたえた女性が立っている。

 ・・・・・・・・・・・もっとも、あと、10年程経たなければ、女性と呼べそうになかったが。

 

「お前って、女引っかける魔法でも唱えながら歩いているのか?」

「・・・・無いって。んな、呪文」

 フィリオは、迷子預かり所で久々にカイルに出会い、自分の連れてきた迷子3人を彼に引き渡していた。

 あの後、ここに来るまでの間に、もう2人ほど彼のローブに迷子が掴まってきたのだが、その2人とも女の子だったことから、カイルは冗談混じりにフィリオをからかったのだ。

「それにしても、こっちは武神祭の準備に忙しくて、休みさえ取れない有様だったってのに・・・・・・・・・聞いたぞ。

 今度はあのノイバウテン侯爵令嬢を引っかけたんだってな。

 おかげでうちの隊から数人、午前中のお前の試合を見に行ったヤツがいて、いそがしいったらないぜ。

 そのうち、あいつら帰って来るだろうから、その前に消えないと何されるか判らないからな」

「相変わらず爽やかにさらっと言うな。そう言う事」

「ははははははっはは─────

 まあ、それだけ良い目を見ているんだから」

「・・・・・・・変わってみたいか?」

「絶対ヤだ!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 間髪入れず帰ってきたその答えに、フィリオは黙って心の中でため息を漏らさざるをえない。

「まあ、そんな顔せず座ってくれ。

 いまお茶でも入れるから」

 憮然とした表情のフィリオに、カイルは再び冗談めかした笑みを浮かべて言った。

 カイルに勧められて、イスに座るフィリオ。

 周りには、泣き叫ぶ子、隅っこでぐずっている子、泣かないようにがんばっているが泣きそうな子など、いろいろな迷子がいたが、カイルはお茶を入れながらも、その子達をかいがいしく世話している。

(へぇ〜〜 以外と子供好きなんだ)

 それを見たフィリオは、それを言葉には出さなかったが、カイルのその様子を感心して見ていた。

 同年代の男性のほとんどが、うっとうしいとしか思わない迷子達を、カイルはいやな顔せずあやしている。

 それを見て、フィリオは羨ましいとさえ思えた。

 自分には、とうてい出来ない・・・・・・・・いや、自分の今までやってきた事をかえりみると、やる資格こそがないと自虐的な気持ちになる。

 ほほえましく、暖かい家庭。

 ・・・・・・それは、求めてもいけない物と思えてくる。

 心の中の葛藤を顔には出さず、フィリオはカイルの姿を眺めていた。

 と、カイルが遊んでいる子供の中に、一人見慣れた子供がいるのを見つけて、フィリオは目を点にした。

「・・・・リフィニア?」

「・・・・あっ」

 呼ばれて、リフィニアは恥ずかしそうにささっとカイルの後ろに隠れると、顔だけを覗かせてフィリオを上目遣いに見返した。

「あれ、この子お前の知り合いか?。

 よく一人で町を歩いているから、ここに連れてこられるんだけど」

「一人で町を・・・・ねえ」

「よかったね、リフィニアちゃん。

 このお兄ちゃんが、お父さんのところに連れていってくれるよ。

 ────と言う訳で、後よろしく。

 ちゃんと親のところまで連れていくように」

 子供の時と完全に口調を変えて言うカイルは、ちょっと笑ってしまいそうになったフィリオを、準備していたお茶も出さずにさっさと追い出してしまう。

「寄り道しないで、ちゃんと親のところに連れて行くんだぞ!」

 カイルはさらに念を押して見送っていた。

 彼は、にっこりと微笑んで手を振っている。

 もちろん、『フィリオに』ではなく『リフィニアに』だ。

「・・・・・・・・・・・子供好きなんだな。あいつって」

 友人の意外な素顔をかいまみたフィリオは、ちらりとリフィニアのつむじに目をやって、少女の小さな手を取った。

 そして、しばらくそのまま、何も言わずに、フィリオは町を見物するかのように歩いていく。

 なぜ迷子のフリをしていたか聞くこともなく、フィリオは黙っていた。

「・・・・・・あ、あの・・・・・・」

 そのうちに、リフィニアが沈黙に耐えきれなくなった様に、小さな声で喋りだす。

 が、彼はその声にちらりと目をやると、それを遮るかの様に自分の言葉を先に紡いでしまう。

「肩車してあげよっか」

「え?」

 フィリオは唐突に言うなり、呆気に取られていたリフィニアの返事も待たず、少女を抱え上げると軽々と肩の上に乗せてしまった。

 リフィニアの目に、普段とは違う高さの光景が入ってくる。

 人の頭ばかりが目立つその景色。その斜め前方に、同じ様にして貰っている子が目に映った。

 無邪気に笑うその子の姿に、リフィニアの目は釘付けになってしまう。

 なぜならその光景は、少女があこがれていた光景そのものだったから・・・・・・・・・・。

「ぅ・・・・う・・・・・・わぁぁぁぁぁぁぁぁん」

 ────と、突然、リフィニアは泣き出し始めてしまう。

「え?。

 ・・・・リ、リフィニア?」

「わぁぁぁぁぁぁぁぁ───────────────────」

 少女の甲高い鳴き声に、周りから白い視線が次々とフィリオに注がれていく。

「ちょ、ちょっとリフィニア」

 予想外のこの状況に、フィリオは周りの目を気にしながら、リフィニアを抱えて横道へと逃げるように入って行く。

 肩から降ろされて、フィリオに抱えられながらゆられる間、リフィニアは彼を力一杯抱きしめていた。

 走っている間に、1回だけリフィニアに目をやったフィリオは、それを見て小さくため息をもらすと、後ろから感じる視線が見えなくなるまで一気に走った。

 

「・・・・・・ひっく・・・・・ううう・・・」

 どうにか泣きやみそうなリフィニアを見て、フィリオはとりあえず安堵の息をもらしていた。

 今、リフィニアは、顔を無理矢理フィリオに押しつけている。

 突然泣き出したこの少女を、フィリオは責める気にはなれなかった。

 優しく、リフィニアのブロンドをなでて、気持ちが静まるのを待っている。

 フィリオは、リフィニアが落ち着くまでこうしているつもりだった。

 この少女の苦しみが痛いほど判るから・・・・・・・・。

 そうしてフィリオは、とうとう癒されなかったその自分の痛みを、リフィニアを通して僅かだが癒していた。

 

 しばらくすると、リフィニアは押しつけていた顔をつっとそらして、うつむき気味に一回鼻をすする。

「・・・・・・・・ごめんなさい」

 聞き取りにくい程小さくかすれたような声だったが、確かにリフィニアはそう言った。

「どうして謝るんだい?

 リフィニアは何も悪い事してないじゃないか」

「だって・・・・・・・・」

 優しく言ってくれるフィリオに、リフィニアは小声で返した。

「・・・・・・ねえ。

 もう泣いたりしないから、もう一度・・・・・・・

 その・・・・・もう1度肩車してくれる?」

 遠慮がちに小声で言うリフィニアに、フィリオは笑顔で答え、すぐに小さな身体を抱え上げた。そして、もといた大通りへと帰って行く。

 喧噪に包まれている大通りを、リフィニアは肩車をして貰いながら、その好奇心の固まりの様な瞳で辺りをきょろきょろとうかがっていた。

 人混みに入ると、大人の足かそれとも地面しか見えないいつもの景色と違って、そこは水色の空に包まれている。

 通りに並ぶ色とりどりの看板や、商店の煙突から出る白い煙。それと、所々に、自分と同じ位の、肩車をして貰ってはしゃいでいる子供。

 その親子連れの光景を見て、リフィニアは僅かに表情を曇らせ、そして小さく喋りだした。

「私ね・・・・・・・・・パパにこうして貰ったことがないの。

 パパ、いつもお仕事で忙しくて、私の相手なんかしてくれない」

 淡々と喋るリフィニアの思いを、フィリオは黙って聞いていた。

 小さな心を締め付けていた思いが、次から次へと少女の口を突き動かしていく。

「ママも、パパと一緒でいつもお家にいないの。

 いつも教会の学校から家に帰ってくると、誰もいない・・・冷たいお部屋に一人でいなきゃいけないの。

 夜のご飯はお隣に頼んで一緒に食べさせて貰うか、それとも私がいない間に作っておいてある冷えたごはんなの。

 いつも、いつも、いつも、いつも────────────」

 リフィニアはフィリオの髪の毛をぎゅっと掴んで、泣きそうになるのを必死で堪えている。

 涙を流すまいと大きく目を見開くが、それでも瞳はうるうると潤んで今にもこぼれてしまいそうだ。

「・・・・・・・私知ってるんだ。自分の事。

 だから、二人とも───────」

「こら」

 突然、リフィニアの言葉を遮り、フィリオは軽く叱ってみせる。

「・・・・・だって、だってホントの事だもん。

 知ってるんだよ。

 私が・・・・・・・私が────」

「泣かない って約束じゃなかったか?」

 再びフィリオに叱られて、リフィニアは黙ってしまった。

 鳴き声はなかったが、大きく、そして震えている息づかいが、フィリオの耳に聞こえていた。

 フィリオはそれを感じて、一瞬強く目を閉じ、そしてすぐに開いた。

 再び開かれた瞳の奥には、無理矢理押さえ込んだ殺意が僅かに揺らめいている。

 

(誰が教えたか知らないが・・・・・・・楽に死ねると思うなよ)

 

 

 

 

 それから後、リフィニアもフィリオも一言も喋らず大通りを進んでいた。

 ─────しばらく、リフィニアは思い詰めた様子でうつむいたままだったが、時折、ちらっ、ちらっと町並みに視線を流して行った。

 最初こそ、暗い顔でふてくされた様にしていたリフィニアだが、しばらくすると、道ばたに並ぶ珍しい品物や、少し開けた場所で行われている大道芸に、やや心を和ませたようで、時々愛らしい笑顔などを浮かべていた。

 フィリオは少しほっとしつつ、時折ちらちらとヴィルドを人混みの中に探していた。

 しかし、その姿はとうとう見つからずに大通りを過ぎてしまった。

 仕方なく、大通りより喧噪がやや薄れた通りを歩いていると、突然ある酒場からケンカらしき声が聞こえてきた。

 祭りの期間中は、昼間でも酒場が営業を行っている為に、別に珍しくも無い事だったが、それがフィリオの目の前で行われたとなると話が違う。

 酒場から放り出された男が、ちょうどフィリオの足下に転がってきた時、酒場の中から怒鳴る声が聞こえてきた。

「貴様!

 この俺を誰だか知っているのか!?」

 酒場の中から、地面に転がっている男の仲間らしき声が、怒りをあらわにしている。

「貴様が何処の誰かなど、ワシはしらぬ。

 だが、女性を口説きたいのならもう、少しソフトにするべきであろう。

 酒に酔った勢いで無理矢理相手をさせようとは、いささか乱暴過ぎるのではないか?

 ・・・・・・もっとも。暴れたいだけなのなら、このワシが相手になってやるが」

「上等だ! 表へ出ろ!」

 この時期よくある会話がなされた後、その声の主達は酒場から出てきた。

 まず、ひげ面のよく日に焼けた40前後の男が出てきて、その後を追うように小綺麗な身なりの若者達が6人出てきた。

 6人の内の1人が、最初に放り出された男を助け上げ7人になる。7人は怒りを瞳に宿らせながら、かつ余裕の表情を浮かべていた。

「はん、俺達にケンカを売ろうなんざてめえバカじゃねえのか?」

「俺達は皆、武神祭の1回戦は突破出来ているんだぜ」

「その気取った偽善者面で命乞いをさせてやるからな」

 ごろつき同然のセリフを、口々にまくし立てる男達に、ひげ面の男は小さく口元を歪めてみせる。

 それは余裕の表情だった。ひげ男の表情に怒りのボルテージを上げる7人の男達。

「たった2人で、俺ら7人を相手に出きると思っているのか?!」

「2人?」

 その時初めて、ひげ面の男から余裕の表情が消え、代わりに唖然としたような顔になる。

「あの、黒ずくめの不気味な野郎の事だ!」

 ビシッと酒場の入り口を指さす先に──────ソレはあった。

 でっかいかごの様なものを頭にかぶり、その上から黒いターバンをぐるぐる巻きに巻いている。そして、その下はこれまた黒く分厚いローブで、全身をすっぽり包み込んでいた。

 人間大の黒いてるてる坊主の様なその格好をした人間が、しずしずと酒場から出てきていた。

 その光景に、一瞬硬直するフィリオ。

 いや、フィリオだけでない。それを見ていた野次馬達全員が、そのあまりの不気味さに硬直している。

 が、ひとり。ひげ面の男だけが憤慨した様子で怒鳴った。

「おのれ!

 私のかわいい娘に何という無礼な言動! もはや許すことなど出来ぬわ!」

「・・・・・・娘?」

 さすがの7人も唖然とした表情になり、周りの野次馬は意外すぎるその答えに、開いた口がふさがらなかった。

 野次馬の中には、怖い物見たさからか、視線をちらりと黒づくめに流しすぐにそらしている者もいた。

 その視線を受け止めながら、女性は瞬き1つせずたたずんでいる。

 こんな事など慣れているとゆった感じで、静かに辺りを見据えていた。

 そんな彼女がふと視線を止める。

 いつもなら、気味悪がってちらりちらりとしか見ない群衆の中に、じっとこちらを見つめる目があった。

 すこし、驚いた風に目をやや開き彼らを見つめる。

 そうすると、その1人はにっこりと笑顔を浮かべ、もう一人の小さな女の子の方は、満面の笑顔で迎えてくれた。

 不思議なその2人に、彼女はやや戸惑って瞬きをする。

 普通の人達なら、怖がってまともに目を合わせない様にするのに・・・・・・・・・・・。

 

 フィリオとリフィニアの二人が、その黒づくめの女性をじっと見ていた。

「ねえ、あの人。

 ・・・・・・・・なんか、悲しそうな目をしているよ」

 頭の上から聞こえてくるリフィニアの言葉に、フィリオも心の中で頷いた。

 淡いエメラルドグリーンの瞳が、顔を隠す黒い布の隙間から覗いている。

 声も出さず、そして行動も見せずにいるが、どことなくはかなげな感じのする瞳。

 その切れ長で細い目から、何かを感じ取ったのは、この場ではこの二人だけだったようだ。皆、すぐにケンカの方に気を取られてしまっていた。

 ひげ面の男は、激憤し戦う構えを見せている。

 むろん、対する7人もやる気満々であった。ひげ面の男を囲むようにしている男達。

 それを黒い布の隙間から見つめる娘さん。

「やっちまえ!」

 叫びを合図に乱闘が始まった。・・・・・・・・が、ほぼ一方的に事は進んでいった。

 7人の男達が、サクラとしてやられ役に徹しているとしか思えない様な有様で、ひげ面の男にやられている。

 殴られ、蹴られて、地面に叩きつけられる男達。その圧倒的な強さに7人の男達は多少ひるむも、7対1で負ける事は彼らのプライドが許さないのかまだ向かって行く。

 そしてその内に、お決まりのように一人の男が刃を抜いた。

 きゃあ、と野次馬から悲鳴が聞こえ、それを見習うかのように、他の6人も抜剣していった。ギラつく瞳に殺意にも似た炎が灯る。

「そんなものでワシが怯むとでも思っているのか?

 掛かってこい!」

 一括してひげ面の男が、その一人に突っ込んでいった。

 むろん、彼は素手だ。

 が、彼は相手の一撃を軽くかわすと、その手を掴んでねじり上げた。そして、その男を後ろから抱え上げ、背後から斬りかかろうとしていた男達に投げつける。

 飛んできた仲間を避けきれず、3人して倒れ込む男達。

 ─────が、彼の動きはそこで止まってしまった。

「そこまでだ!」

 勝ち誇った相手のセリフに、彼はあっ、と声を出し動けなくなってしまう。

 その彼の視線の先には、切っ先を突きつけられた黒づくめの娘の姿。

「ミレニアム!

 貴様、卑怯だぞ!」

 と言うが早いか、彼女に剣先を向けていた男の腕がいきなり宙に飛んだ。

 一瞬の間を置き、血しぶきが天に舞う。勢いよく飛び出した血の吹き出す音が聞こえていた。

 見ていた全員が、何が起こったか判らないままもう一瞬が過ぎ、そしてやっと次の瞬間に、男の絶叫が町並みに響きわたった。ぼとりと、男の腕が大地に落ちて、血と砂にまみれる。

「候騎士ともあろう方が、このような町中で私闘などみっともないですよ」

 のたうち回る男の横で、涼しい顔をした男が、血に濡れた剣を下げてたままこう言った。

「誰だ、貴様!」

 仲間の腕を切り落とされて、男の一人が吠える。

 が、その貴公子風の男は、別段表情を変えるでもなく、涼しげな顔で口を動かした。

「大丈夫でしたか?」

 彼は吠える男を無視して黒ずくめの娘、ミレニアムを気遣った。

 娘はコクリと小さく頷いてそれに答える。

「ファーレン殿。ご息女を連れながら乱闘騒ぎとは関心できかねますぞ」

 と、次は別なところから声が上がった。精悍そうな若者がそこにいる。

「ディトリッヒ殿。オーウッド殿。

 これは、お恥ずかしいところをお見せした」

 ひげ面のオヤジは、破顔して彼らに小さく頭を下げた。

「貴様ら・・・いったい?」

 ただならぬ空気を察してか、男の一人が思わず出したその言葉に、三人の視線が集まった。

「説明して上げますか?」

「このような下賤の輩に言う必要などない!」

「言うと、またややこしい事になるからのう。

 ・・・それはそうと、お二人はなぜこのような場所に?」

「いえ、ちょうどこの町に入ったばかりの所で、偶然オーウッド殿にお会いしましてね。

 行き先も一緒ですからご一緒していたんですよ。

 あ、そうそう。先ほどノイバウテン嬢にお会いしましたよ。

 あの方は、またさらにお美しくなられておいで」

「・・・・・・貴君らいいのか? そのようにのどかに話していて。

 先ほどから、分不相応にも我らを殺そうと殺気だっている下銭なる者どもが周りを囲んでいるのだぞ」

 ほのぼのとした雰囲気に移行し掛けていたファーレンとディトリッヒの会話に、オーウッドが釘を指すように言う。

 仲間の片腕を切り落とされて、6人の男達は確かに殺気だっていた。

 だが、いくら彼らが酒に酔っているとは言え、この3人がただならぬ相手だとゆう事ぐらいは判断できる。

 どうしようかと考えている内に、この3人正体が、周りにいた野次馬達から知らされた。

「4候騎士の内の3人までもが集まっているぞ!」

 群衆の中から、誰かがそんな事を言いだした。それを合図に、騒ぎはさらに輪を掛けて大きくなる。

「な・・・・・・候騎士。あの候騎士か!?」

 ケンカを売った相手がこの国のトップ4の内の3人と知り、うろたえた男達はずるずると後ずさった。

 が、彼らとて、腕に自信を持ち武神祭に出場しているのだ。

 もちろん目的は、勝ち上がり功名を立てて、富と栄誉をその手に掴む事。そして、今、彼らの目の前には、その富と栄誉がぶら下がっているのだ。

 彼ら3人の内ひとりでも倒せば、その名前はこのモルト王国に止まらず、他国にも広がるだろう。

 彼らの瞳に、欲望というサングラスが掛けられてしまった。

 

「・・・・・ほう。やる気か?」

 ザクス・フレア・オーウッドの瞳が、小さく笑い鋭く彼らをにらみ返す。

 やや日に焼けた肌に、アイスブルーの瞳が冷たく光っている。

 彼の手が無意識のうちに、腰の剣へと伸びた。

 向かっているのは2人。共に、野望の色をギラつかせた瞳で、彼の精悍な顔をにらみ付けている。

 オービル・ブラックフレイム・ファーレンは、アゴをひと撫でして、切っ先を向けてくる男をにらみ返していた。

 彼は素手だったが、それを感じさせない威圧感で相手の動きを封じている。

 ギロリと睨む彼の目に、男は勇気を振り絞りながら剣を向けなければならなかった。

「困りましたねぇ。

 いくら私とて、3人を相手にしながらご婦人をお守りするのは、いささか骨の折れる事ですよ」

 まったく困った様子を見せず、飄々とした調子で言うクラーク・ライトニング・ディトリッヒは、3人の中では一番弱そうな風貌からか、一番多い3人の男が剣を向けていた。

 さらに彼の後ろには、ファーレンの娘であるミレニアムがいる。

 彼は、彼女を守りながら戦わなくてはならなかった。

 と、そんな彼の瞳がフィリオに向いた。

「ああ、そこの魔導師さん。ちょっと加勢してくれませんか?

 そう。そこのあなた。他にローブ姿の人なんていないでしょう」

 フィリオが自分を指さし、きょとんとしているので、ディトリッヒは彼を指して言う。

「ぼく・・・・・・・ですか?」

 恐る恐ると言った面もちで言うフィリオに、ディトリッヒは大きく頷き、

「あなた、フィリオ・マクスウェルさんでしょう?

 あのローズの称号を持つ、レオナ・ローズ・ノイバウテン嬢を倒した」

 その言葉で・・・・・・3人の男達は一斉に振り向いた。

 ローズは、候騎士の中でも前大会でもっとも勝ち残った者の名前だ。そして、見かけは一番弱そうなのである。

 今や、欲望の視線はフィリオへと注がれようとしていた。

 

 ─────とその時。

 

 ザッ、ザンと、立て続けに2回、銀色のきらめきが踊る。

 背を向けた3人の利き腕にに、ディトリッヒが剣を閃かせたのだ。

 いともたやすく2人の腕を切り落としたディトリッヒは、崩れるように倒れる相手を剣の柄で殴りつけ完全に倒すと、すかさず残る3人目と剣を合わせた。

 キィンと堅く澄んだ音が一回響き、そして次の瞬間に3人目も血の洗礼を受け、利き腕を切り落とされる。

 ディトリッヒが3人を片づける間に、オーウッドもファーレンも自分の相手を倒していた。

 しかし、その二人は、ディトリッヒのように相手を流血させはせず、気絶させるに止めている。

「何もここまで・・・・・・」

 言いかけて、ファーレンは口をつぐむ。

 彼はディトリッヒのやり方に少し抗議したい気持ちがあったが、娘を助けてくれた相手を非難する事はさすがにためらわれたのだ。

 それに、相手は完全に殺すつもりで向かってきたのだ。返り討ちにあい、殺されても文句を言える立場ではない。

 ファーレンは、自分が甘すぎるのだと自分自身を納得させて、ディトリッヒに娘を助けてくれた事への礼を述べる。

 が、隣のオーウッドは憮然とした表情で言い放った。

「ディトリッヒ殿。何もこのような輩を、真面目に相手をすることもありますまい。

 その剣、なかなかの業物であるのに、そのような汚れた血で汚してしまっては、剣が泣きますぞ」

 ファーレンとはまた違った理由で、ディトリッヒの行いに納得行かないオーウッドは不満を口にする。

 オーウッドの講義に苦笑いして、ディトリッヒは話題を変えた。

「───────それより、彼ですよ。

 我々の筆頭である、ローズ・ノイバウテン嬢を倒したのは」

 ディトリッヒの言葉に、ファーレンとオーウッドの視線が一瞬重なり、そしてフィリオを見やった

「ひっ、ひぃ・・・・・・・・・」

 短く悲鳴を上げて後ずさるフィリオ。まるで、モンスターでも見つけた風に怯えている。

「待ってくれ、ワシらは別に危害を加えるつもりはない」

 ファーレンがフィリオのおびえを和ませる様に言った言葉も、彼には届いていないようだった。

 流血騒ぎの後に、候騎士に睨まれるように見つめられて、フィリオが恐慌をきたしたのであろうと誰しもが思った。

 その場からどうにかして逃げ出そうと、フィリオはきょろきょろと小刻みに辺りを見回し後ずさっていく。

 後ずさる内に壁に突き当たると、今度は腰を抜かした様子でへたり込んだ。

「本当にこの様な輩が、あのローズを倒したというのか?」

「その筈ですよ。

 ・・・・昔からよく言うじゃないですか。人を見た目で判断してはいけないって。

 我々を欺くために、愚者を装っているのではないですか?」

 ある意味当たっているその言葉をディトリッヒが言うと、後ろから麗らかな声が聞こえてきた。

「先ほどは、危ないところを助けていただいて本当にありがとうございます」

 ファーレンに向かって、優雅にお辞儀したのは、酒場で7人の男に絡まれていたところを彼に助けて貰った女性だった。

「いえ、ワシは当然の事をしたまで。お怪我が無くて何よりです」

「本当に、ありがとうございます」

 もう一度丁寧にお辞儀した後、その女性はゆっくりと歩いていった。

 そして、残る候騎士の二人に近づき・・・・・・・・その前を通り過ぎると、怯えきって無意味に口をぱくぱくさせているフィリオの側まで近づいていく。

 彼に代わって、側にいたリフィニアが一言漏らした。

「・・・・・・ママ」

 

 

 

 

「ひさしぶりねえ、フィリオ君。

 どうしたの? そんなに怯えちゃって」

 にこやかに笑う、マチルダ・セレスは、その白く透き通るような長い指で、すぅっとフィリオの頬を撫でると、突然しなだれかかる様にすがりついた。

「・・・・・・・寂しかったわ。

 いきなりいなくなっちゃうんですもの。

 私がどんなに寂しい思いをしたかあなたに分かる?」

 周りからどよめきがわき起こり、3人の候騎士もそれは例外ではなかった。

 目をまん丸にさせて、この艶っぽいシーンを見つめている。

 瞳にうっすらと涙をにじませたマチルダは、はかなげに顔をフィリオの胸に押しつけ、つぅぅっと一筋の涙を頬に流した。

 美人の、さらにその中でも高位に位置するであろうそのマチルダの美貌。それに加えて、この感動的な再会シーンで彼女の美しさはさらに際だっていた。

 リフィニアの成長した姿を思わせるマチルダは、透き通るような白い肌に、長い金髪の髪の毛を持った紛れもない美人。

 その絶世の美人にすり寄られ、フィリオは冷や汗をだらだらと流しながらこう言った。

「・・・・なに、企んでるんです?」

 艶っぽいマチルダに抱かれて言うその一言に、周りから白い視線が飛び込むが、フィリオはそんな事にかまっている余裕などはなかった。

「何でそんな事言うの?」

 顔を上げ、悲しそうに呟くマチルダの瞳から、また一滴の涙がこぼれ落ちる。

 そして、崩れるように再び彼の胸元に顔を埋めて小さく震え出した。

 周りからは、非難以上の視線が集まるが、今の状況を理解できているのは、マチルダの娘であるリフィニアだけである。

 そろりそろりと逃げ出そうとしているリフィニアに、フィリオは助けてくれと、視線で合図を出すが、リフィニアはパンと一回顔の前で手を合わせて、群衆に消えて行ってしまった。

「・・・・・・・まだ分からないの?」

 小さく震えながら、うつむいたままで言うマチルダに、フィリオは完全に硬直していた。

「・・・・・・そう。じゃ、右を見てみなさい」

 言われた通りに右を向くフィリオ。

「ひぇぇぇぇぇぇぇ──────────」

「これは一体どーゆー事かしら?!」

 背後に雷雲たなびかせて、いつの間にかエリカ・ヴァン・シャフィールが歩み寄っていたのだ。

「あ、あの・・・・これは・・・・・」

「言い訳は、後でたっぷり聞いて・・・・・・・あげない」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ──────────」

 

 

 

 

「ほっほっほっほっほっほっ──────。

 久しぶりにフィリオ君に会えて楽しかったわ」

 総務課で出されたお茶をのんびりとすすりながら、カラカラと笑うマチルダに、エリカのどんよりとした視線が注がれる。

 彼女はぼろぼろにしたフィリオの隣に座って、バツの悪そうな顔をしていた。

 マチルダは、フィリオの手紙を貰ってすぐにこの町に来ていたらしい。

 そして、ここの状況をある程度理解した上で、武神祭会場では『フィリオの愛人』などと言ったり、道の真ん中で彼に抱きついたりしたのだ。

 ちなみに、うつむいて震えていたのは泣いていたからではなく、笑いを堪えて小さく震えていたからだった・・・・・・・・・・・。

「ごめんなさいね。

 ちょっとイタズラが過ぎちゃったかしら」

 反省などまったくしていない様子で、マチルダはカラカラと笑いながら謝る。

「ダメなのよね。

 フィリオ君を見ていると、からかいたくなるって言うか、意地悪してみたくなっちゃうのよ。

 ホント、悪いとは思っているんだけど」

 見た目は、おしとやかで美しいマチルダだが、性格は際限なくイタズラ好きの子供に近い。

 それもフィリオに対しては、手加減や容赦と言う言葉を知らない上に、たちが悪いときている。

 そんなマチルダに、フィリオは昔っからオモチャにされていた。

(本当は、こうなる前にヴィルドを見つける筈だったのに・・・・・・・・)

 しかし、フィリオの心の言葉も、マチルダのかん高い笑い声にかき消されている。

「ところで・・・・・私の旦那と娘はどこにいるの?」

 とたんにその笑い声を止め、真面目な顔つきで言うマチルダ。

 豹変したとしか言いようのない、マチルダに、エリカはちょっとびっくりしてしまった。

 真剣な表情で、じっとこちらを見つめている。

 先ほどまで、カラカラと笑っていた人と、同じ人物とは思えないその顔つきに、エリカはどう対処していいのかつい迷ってしまった。

(まさか、あの親子は、この人から逃げてこの国に来たのかしら?)

 ふと、そんな事を考えてしまうエリカ。

 ─────────が、

「外にいますよ」

 

 ガタリ!

 

 事も無げにフィリオが扉の向こうを指さすと、同時になにやら大きな音がした。

 そこにつかつかと歩いていき、きぃ、と扉を開けるマチルダ。

 視線の先には、ヴィルド、リフィニアの二人がいた。

「あ・・・・・・はははは。やあ、マチルダ。

 ・・・・・君も来たんだね?」

 しらじらしく言うヴィルドに、マチルダは半眼でじっと彼を見つめる。

「・・・い、いや、別にここまで遠出するつもりは無かったんだ。

 ただ、リフィニアがフィリオに会いたいって言うから──────」

「ちょっと待ってよ! わたしのせいにする気?

 パパだって、ナンパは田舎の方が成功するとかいってたじゃない!」

「だ!

 それは言わない約束だって。

 チョコパフェ追加で注文してやったじゃないか」

「・・・・年かしら。最近物忘れが激しくて」

「10歳そこそこの子供が何言ってやがる!」

 なにやら、この国に来た理由をなすりつけ合っている親子に、マチルダは何も言わず、じっと見つめていた。

 その視線に気づかぬ振りをして言い合っていた二人だが、とうとうその視線に折れて静かになる。

 ──────すると。

 マチルダはいきなりヴィルドに抱きついた。

 その目には、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち頬をぬらしている。

「一人ぼっちでどれほど寂しかったか・・・・・・・私、あなたに嫌われたら、もう生きていけない」

 涙を流しながら、切々と訴えるマチルダに、ヴィルドはまったく動けないでいた。

「ねえ、何が起きるの?」

 それを離れた所で見ていたエリカが一言フィリオに呟いくと、返事はつぶやき気味に返ってきた。

「・・・・・・・見てりゃ分かるよ」

 フィリオはある程度予想できたこの光景に嘆息している。

 なぜなら、抱きつかれているヴィルドの顔が恐怖に怯え、青い顔をしていたからだ。

 ───それは、数刻前のフィリオとまったく同じ表情である。

 それに、ずりずり後ずさるリフィニア。

「・・・・きっと、私がいけないのね。

 だから、あなたは私に黙って去ってしまったんだわ。

 私の事、嫌いになったから、私の前から姿を消したんでしょう。

 ああぁ・・・・・もうダメ。生きる希望が失われてしまったわ」

 

 スチャリ!

 

 と、一気にまくし立てた後、どこからともなくマチルダが短刀を取り出し抜き放つ。

「こうなったら、あなたを殺して、私も死ぬわ! えい!」

 マチルダは、がばあっと大きく振りかぶり、それをそのまま振り下ろした。

「ひぃ」

 短い悲鳴を残し、その刃をすんででよけたヴィルドは、転がりながらマチルダから離れる。

 その刃の間合いは絶妙で、紙一重でかわせるぎりぎりのところに光跡ができていた。

「わ、分かった。俺が悪かった。だから、許してくれ!」

「──ああ、あなた。

 わたしと一緒に死にましょう。そして、あの世で二人仲良く暮らしましょう」

「だから、嫌いになった訳じゃ無いって!

 今でも、君だけを愛しているんだよ」

「・・・・・・本当?」

「本当だとも。

 だから、そんな物騒な物はしまって・・・・・・」

 言われて、マチルダはヴィルドを見つめてしばらく黙っていた。ちょっと、うつむき気味で上目づかいに。

 その沈黙があまりに長いので、ヴィルドが次の台詞を何かを言おうとする。と、それを見計らっていたかの様にして、マチルダの艶やかな唇が動いた。

「私、欲しい物があるの。ブルーダイヤのネックレスと、サファイヤの首飾りと────────」

 その後、10個程のブランド品を口にしたマチルダに、ヴィルドの瞳は弱々しく作り笑いをして、小さくつぶやいた。

「そ、そんなに・・・・・・・」

「あああああああああ、やっぱり、私の事が嫌いになったのね」

 と、言いつつ、短刀を振り上げる。

「分かった。わーかったから。全部買ってやるから」

「・・・・・・なにか、嫌々言ってない?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「やっぱり─────────」

「喜んでプレゼントさせて頂きます。

 きれいになった君を見れるなんて、俺はなんて幸せ者なんだ!」

「本当! だから、あなたの事大好きよ」

 顔で笑って心で大泣きしているヴィルドに代わって、涙を浮かべていた弱々しげな表情から一変して、心の底よりわき出てくる笑みに代わるマチルダ。

「と言う事だから、リフィニアには、家に帰ってからお勉強をみっちりやるとゆう事でどうかしら?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・分かりました」

 諦めきった表情で、こくりと頷くリフィニア。

「そう、いい子ね」

 抜群の微笑みでリフィニアの頭を撫でるマチルダ。

 その微笑みは、品のいい良家の婦人の微笑みであったが、いかんせん、先ほどまでの行動が違いすぎる。

「フィリオ君。久しぶりに、あなたの手料理食べたいんだけど」

「・・・分かりましたよ。ごちそうします」

 フィリオに語りかける時も、品のいい声で言うマチルダ。

 見た目は品のいい美人だからこそ、そのギャップにエリカは苦しまなければならなかった。

(人って、見た目で判断しちゃいけないのね)

 自分もその範疇に入っている事をまったく自覚せずにいるエリカは、なぜか少し奇妙な感覚に包まれていた。

 それは、すぐ側にいる筈のフィリオが、突然遠い人に思えたのだ。

 改めて、フィリオが長い間旅をしていた事を彼女は感じる。

(私の知らない、いろいろな人をフィリオは知っているんだ。

 ・・・・そして、この人達は私の知らないフィリオを知っている)

 ちょっと寂しい気持ちになったエリカは、無意識のうちにフィリオの腕を取っていた。

 今までは、誰も知らない小さい頃のフィリオを自分だけが知っていると、心のどこかで自慢したい気持ちがあったし安心もしていた。

 その気持ちが皮肉にも、今は自分自身を不安にさせているのだ。

「どうしたんだい?」

 フィリオが、いつもより強く腕を取るエリカに小さく呟く。その顔には、堪えるようにしている何かがある。

「どうしたの? 青い顔をしているけど」

 心配そうに訊ねるエリカに、フィリオは遠慮がちにそれをちらりと見つめた。

 それは、エリカによって抱きかかえられ、血の気が失せしびれてきていた右腕だった。

 しかし、長袖を着ているので、エリカにはすぐにピンとは来なかったのだ。

 不思議そうでいて、そして心配そうな表情でフィリオを見つめる。

(まさか、この人の前で腕を組むのがいやなんじゃ・・・・・・・・・・・・・・・・)

 余計な不安が彼女をよぎっていく。

 そして、さらに彼女の腕の力が、きゅぅぅぅっと強まっていった。

「がっ、ィ・・・・・・・・」

 言葉にならぬうめき声を上げたフィリオに、エリカはようやくそれと気づいて力をゆるめた。

「ん、ふっふふふふ──────────

 フィリオ君、いつの間にこんなにもてるようになったの?」

 マチルダは、さらなるフィリオのからかい場所を見つけたようだ。人の悪そうな笑みが、口元からこぼれている。

(こりゃ、一生言われそうだな・・・・・・・・・・)

 心の中で呟いたがが、それでもフィリオはそう悪い気はしていない。

 

 


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