山崎容子作「宮子姫」
(要旨)
かぐや姫の物語、すなわち、竹取物語において、かぐや姫に求婚して失敗する五人の貴公子については、モデルにされた人物が歴史上に存在し、それらが、多治比嶋(たじひのしま)、藤原不比等、阿倍御主人(あべのみうし)、大伴御行(おおとものみゆき)、石上麻呂(いそのかみのまろ)であることは、江戸時代に加納諸平が指摘して以来もはや、ゆるがぬものとなっている。しかし、主役の「かぐや姫」や「竹取翁」については、歴史上にモデルと思われる人物が見受けられないので、この物語は、五人の貴公子、中でも藤原氏を揶揄するために、藤原氏を憎む氏族の人によって書かれたものと考えるのが一般である。
しかし、私は、かぐや姫のモデルを文武天皇の夫人藤原宮子、竹取翁のモデルを大納言紀麻呂(きのまろ)と考える。宮子は藤原不比等(ふひと)と賀茂比売(かもひめ)の子とされているが、梅原猛氏は、宮子は実は紀伊国日高郡の海人(あま)の娘であったとする。このように、宮子の出自を海女(あま)とし、その流れの中で彼女の生涯を追ってゆく時、それが、物語の中のかぐや姫の持つ属性やイメージと一致することを論証する。その上で、彼女を紀伊の辺里から発掘した紀麻呂(きのまろ)こそ、かぐや姫を竹の節の間から発見した竹取翁であることを見る。
そして最後に、竹取物語の作者としては、僧玄ム(げんぼう)しか考えられないことを論ずる。
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1.脇役だけが実在の人物という不自然さ

竹取物語には合計十六人の人物が登場する。それらを、主役、脇役、端役の3つに分類してみると、次のようになる。ここに、主役とは物語の全般を通して終始登場する人物を云い、脇役とは物語のある部分で重要な役目を帯びて登場する人物を云い、端役とは物語の中の一箇所に名前だけが出て来る人物を云うものとする。なお、この他に「その他大勢」とでも云うべき名のない人物たちも出てくるが、これらはここでは除外するものとする。
主役
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なよ竹のかぐや姫
さぬきのみやつこまろ(讃岐の造麻呂) |
物語のヒロイン
竹取の翁 |
脇役
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石作の皇子
車持の皇子
阿倍のみむらじ
大伴のみゆき
石上のまろたり
みかど |
求婚者
求婚者
求婚者
求婚者
求婚者
時の天皇 |
端役
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三室戸のいむべのあきた(斎部秋田)
くもん司の匠、漢部の内麿
小野の房守
王けい(王慶)
倉津麻呂
内侍中臣の房子
頭中將高野大国
つきのいわかさ(調石笠) |
かぐや姫の名付け親
作物所の細工人
阿倍のみむらじの家臣
唐の商人
大炊寮の官人
みかどの求婚の使
六衛府の兵の將
富士山で不死の薬を焼く使 |
ところで、これらのうち、脇役の中の五人、すなわち、かぐや姫に求婚する五人の貴公子については、それぞれに実在のモデルがあり、彼らが文武天皇の大宝元年(701)の廟堂を構成した次の人たちであることは、江戸時代の国文学者加納諸平が精細な考証によって指摘して以来、もはや誰一人異議をさしはさむ者はない。
石作の皇子
車持の皇子
阿倍のみむらじ(右大臣)
大伴のみゆき (大納言)
石上のまろたり(中納言) |
左大臣正二位 多治比真人嶋
大納言正三位 藤原朝臣不比等
右大臣従二位 阿倍朝臣御主人
大納言正二位 大伴宿弥御行
大納言正三位 石上朝臣麻呂 |
生没年 624-701
〃 659-720
〃 635-703
〃 646-701
〃 640-717 |
(求婚順、官職は公卿補任大宝元年による)
しかし、この五人以外については、端役は云うに及ばず、主役、脇役についても、さしたるモデルが見出せない。
このために、五人以外は作者の筆の先で作られた人物であると考えるのが一般である。
そうなると、実在のモデルがある五人と、創作された「その他の人たち」との間に、大きな断層が感じられる。端役たちはともかく、主役の「かぐや姫」「讃岐造麻呂(さぬきのみやつこまろ)」、脇役の残る一人「みかど」についてモデルが見出せないにもかかわらず、脇役の中の五人についてのみモデルがあると云うことが、この断層を決定的なものにする。
そこで、この物語は、メルヘンを装ってはいるが、実在の五人を揶揄し戯画化するものであるとされる。たしかに、求婚する五人の貴公子は物語の中で徹底的に嘲り笑われており、特に、藤原不比等(ふひと)がモデルである車持皇子に対しては「心にたばかりある人にて」と記し、悪意をむき出しに表現しているので、この物語は奈良朝・平安朝における藤原氏の権勢を愚弄するためのものであると考えるのが一般である。
そして、この物語の作者探しも、この線上で行われ、藤原氏と対立した氏族、藤原氏によって没落した氏族などの中から作者が求められる。
こうした一般的傾向の中にあっても、五人以外の人物、中でも「かぐや姫」のモデルを具体的に求めようとする論もないではない。梅山秀幸氏は「みかど」とは天武天皇であるとした上で、かぐや姫は、その後宮の中の、処刑されて非業に死んだ「一人の采女(うねめ)」であるとする。このように見る時、物語の性格も藤原氏呪咀の物語から一変して、死んだ采女への鎮魂の物語となる。そして、物語の創作も、その後宮において秘かに作られ語りつがれていったものと云うことになる。
私は、梅山氏の論を読んだ時、かぐや姫を誰か実在の人物に特定したとき、物語の持つ性格が、従来の一般的考えから一変することに驚いた。それと同時に、かぐや姫のモデルは、今は名も伝わらぬ「ある采女(うねめ)」などではなく、もっと適任者がいるのではないかと思った。その人物が藤原宮子である。
2.かぐや姫を宮子とする時の3つの問題
五人の貴公子の実在のモデルは、文武朝の廟堂を構成した左右大臣と大納言たちであった。その延長線上において、「みかど」は梅山氏が指摘するように、文武天皇そのものでなければならない。梅山氏は云う。
(1)求婚者は五人ではなく六人である。「みかど」が第六番目の求婚者である。五番目までモデルがあるのに、第六番目にモデルがないのは奇異である。
(2)文武の前後の天皇は、持統、元明、元正といずれも女帝である。かぐや姫への求婚者はもとより男性でなければならないが、当時、男性の天皇は文武しかいない。
(3)かぐや姫が「みかど」に残した不死の薬を、「みかど」は富士の山頂で焼き捨てさせた。これは「みかど」の短命を暗示するものである。他方、文武は僅か二十五才の若さで夭折している。
私はこのような梅山氏の指摘に全面的に賛同する。
そうなると、「みかど」が求婚した女性「かぐや姫」は、文武の後宮に侍った女性、もしくは、文武が後宮に迎えようとした女性でなければならない。
先ず前者、文武の後宮に侍った女性としては、次の三人を続日本紀(以下「続紀」と略す)
が書き留めている。(文武天皇元年九月二十二日の条)
(1) 藤原朝臣宮子娘 (夫人)(藤原不比等(ふひと)の娘、母は賀茂比売(かもひめ))
(2) 紀朝臣竃門娘 (妃)
(3) 石川朝臣刀子娘 (妃)
この記載はやや異様である。本来、「妃」の方が「夫人」よりも上位であるにもかかわらず、続紀は夫人である宮子の方を先に記し、二人の妃を後に記す。<註:竃門娘・刀子娘の「妃」は「嬪」の誤記とする説もある>
しかし、これは理解できぬことでもない。続紀が、元明天皇の和銅六年(713)十一月の条に「石川、紀二嬪の号を貶しめて嬪と称することを得ざらしむ」と記載しているからである。
それにしても、そこには一体何があったのか。二人の娘は「夫人」よりも下位の「嬪」に降格された上に、更に「嬪」の称号さえも剥奪されている。一般には、藤原不比等(ふひと)が娘宮子の子を次の天皇にして、その権力の確立をはかるために、他の女性を後宮から遠ざけたものと考えられている。その解釈は妥当であろう。しかし、このことは他方では、文武が宮子のみを特に熱愛していたことを示すものではなかろうか。そうでなければ、いくら不比等から強い圧力があったとしても、元明が亡き我が子文武の気持ちを踏みにじってまで、諾々と応ずるとは考えられないからである。当時は、後の平安時代の中期ではない。藤原氏にそこまでの力はなく、天皇も人形ではなかった。
文武が宮子を特に熱愛したのには、それなりの理由が想像される。文武は天武十一年(683)生まれであるから、この文武天皇元年(697)の時点で文武は十五才である。宮子は後でも述べる「道成寺絵とき本」に従えば、白鳳八年(680)の生まれであるから、 三才年上の十八才である。まさに女として成熟した年齢である。これに対して、紀竈門娘も石川刀子娘も恐らくは文武より年下で、大き目に見ても十二才前後までであったろう。まだ青い梅の実の年齢、両の胸もまだ平らたく、男女のことさえ明らかには知らぬ幼さだったろう。このことを考えると、文武が宮子を狂気のように熱愛したのも、うなずかれるところである。
そうすると、「みかど」文武が熱烈に愛した女性は宮子のみであり、宮子しかいないと云うことになる。
このことは、先の後者の可能性、文武が後宮に迎えようとして果たせなかった女性がいたかどうかについても、自動的に、その可能性はなかったろうと云うことになる。
かくて、竹取物語において「みかど」が、「もはや長命を望まず」と、我が生命よりもなお深く愛した女性「かぐや姫」のモデルは藤原宮子であると云うのが私の思いである。
しかし、続紀が語る藤原宮子のイメージは、かぐや姫のイメージとは余りにも違い過ぎる。
(1)宮子は藤原不比等と賀茂比売(かもひめ)との間の子であり、歴とした貴族の娘であり、下賎な竹取翁
などに養われた女子ではない。
(2)宮子はほぼ七十数才くらいまで存命し、かぐや姫のように若くして昇天してはいない。
(3)宮子は文武の夫人となり、後の聖武天皇を生んでいるが、かぐや姫は最後まで「みかど」の求愛を拒んだ。
などの点である。しかし、これらの点には、あながちに食い違いとは云えないものがある。この3点を以下において順次検討してゆく。

3.(a)宮子の出自(紀伊国日高郡の海女)
宮子は紀伊国日高郡の九海士王子(くあまおうじ)の里の海女(あま)であったとする説がある。すなわち、彼女は海に潜って魚貝を捕ることを生業とする賎しい身分の生まれで、もともとは「宮」と云う名で呼ばれた女性であったが、生来の美貌によって宮中に宮人として出仕するようになり、やがて軽(かる)皇子(後の文武天皇)の目にとまって寵愛を受け、名も「宮子」と改め、皇子が天皇になるに及んで遂にその后妃となったものであるとする。そして、日高郡にある道成寺は文武天皇が紀道成に命じて、その勅願によって、宮子の故郷の地に創らせたものであるとする。

この説は、梅原猛氏が、その著「海女(あま)と天皇(日本とは何か)」の中で展開されているものである。梅原氏は、道成寺蔵の「道成寺宮子姫伝記」や、紀道神社が伝える「紀道大明神縁起」、更に、現在は廃曲となり僅かに黒川能の中で伝わる謡曲「鐘巻」などが、秘そかに伝えている伝承を検証して、これらが伝えるところは充分に信用することができるとされている。
すなわち、昭和53〜55年に行われた道成寺の発掘調査が、この寺が法起寺様式の白鳳時代の大伽藍であったことを示していること、また、北面に安置されていた本尊千手観音の胎内に納められていた八尺二寸の木芯乾漆仏の残骸が義渕作と伝えられる白鳳仏であることなどによって、道成寺を文武天皇の勅願寺とする伝承は信ずるに足るとした上で、このような僻地に壮大な勅願寺が作られたのは、そこが宮子の出生地であったからと考えねばなるまいとする。
更に、梅原氏は、続紀が記すところの中にも、この推論を傍証するものが多々あることを指摘する。
(1)文武元年(697)の文武の后妃の記事において、先にも述べたように、紀氏・石川氏の娘が妃であるに対し、藤原氏の娘をそれより下位の夫人としたのは、宮子の出自の低さによるとしか考えられない。
(2)大宝元年(701)宮子が首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を生んだ年の九月、文武天皇は紀伊国に行幸 して、武漏(むろ)温泉(白浜温泉)にまで至り、諸官に位階や衣服を賜い、武漏(むろ)郡には免税まで施 している。
(3)文武の薨後、元明、元正の二女帝が継ぎ、宮子の生んだ聖武が皇位を継いだのは、聖武が二十四才になってからである。十四才で皇太子に立ちながらも、十年も皇位を継げなかったのは、生母の出自の低さが原因であった可能性が考えられる。
(4)聖武の皇后となる光明子(安宿(あすかべ)媛)と宮子は、いずれも不比等(ふひと)の子であり、二人は異母姉 妹であるとされているにもかかわらず、宮子は光明子に比べて著しく冷遇されている。光明子が、もと不比等(ふひと)邸であった広大な法華寺に住んだのに対して、宮子はその片隅にあって隅寺(すみでら)と呼ばれた狭い海龍王寺に住んだ。なお、梅原氏は指摘していないが、海龍王寺と云う名そのものが、彼女が海女(あま)であったことを暗示するように私には思える。

(5)天平九年(737)十二月の条に、宮子が「幽憂に沈み久しく人事を廃す。天皇(聖武)を産みてより、いまだかつて相見えたまわず」とある。宮子はノイローゼに陥り、誰とも会おうと
しなかったのである。これは、あまりにも激しい環境の変化に急に曝されたためと見られる。
(6)賀茂比売(かもひめ)は聖武の外祖母ということになる。一般に、天皇の外祖母の一族はそれなりに厚く遇されるものであるのに、聖武が登極の後も、賀茂一族は特に遇されてはいない。
これらもまた、宮子が紀州の海女(あま)の出自であることを傍証するものであるとしている。
その上で、梅原氏は更に次のような推論を展開されている。
(1)文武天皇の命をうけて道成寺の創建に当たった紀道成とは、大宝元年に大納言従三位として文武の廟堂にあった紀麻呂(きのまろ)(659-705)である。
(2)文武天皇の妃となった紀竈門娘は、この紀麻呂(きのまろ)の妹か娘か、あるいは孫娘かであろう。そして、宮子は最初は、この竈門娘の侍女として宮中に出仕したのであろう。
(3)宮子が文武(当時は軽(かる)皇子)の寵愛を受けたことを知り、藤原不比等(ふひと)は、その妻の県犬養橘三千代と謀って、わが養女として貰い受け、それを、わが妻の中で子のなかった賀茂比売の子としたのであろう。
このようにして、藤原宮子は実は海女(あま)の出自である。それは、竹取物語において「かぐや姫」が下賎な竹取翁に養われた女子であることと、イメージにおいて齟齬するものではない。
4.(b

)生存年齢
宮子と「かぐや姫」とのイメージが齟齬する第2点は、その生存年齢である。かぐや姫は若くして天に昇っている。これに対して、宮子の没年は天平勝宝六年(754)であるから、宮子の生年を仮に文武と同年としても七十二才、道成寺の寺伝を基に作られた「道成寺絵とき本」に従って白鳳八年(680)の生まれとすると七十五才まで生きたことになる。

しかし、ここでも、先に述べた続紀の天平九年十二月の条に注目しなければならない。続紀の記すところを、重ねて要約すると次のようである。
「皇太夫人宮子は、年久しくノイローゼで欝状態にあり、全く人と会うことをされず、自分の生んだ首(おびと)皇子の顔さえ三十七年このかた一度も見られたことがなかった。ところが最近、僧正玄ム(げんぼう)法師によって忽然と心を開かれた。そこでこの日、光明皇后の招きによって、皇后宮を訪問された。そこには玄ム(げんぼう)法師もいた。聖武天皇となっておられた首(おびと)皇子も皇后宮にやって来られた。ここで、皇太夫人宮子は初めて我が子と対面されたのである。天下ことごとくこれを慶賀した。天皇は玄ム(げんぼう)に賜物を下され、中宮職の官人たちには賜物を下されたのみならず、それぞれに位階を進められた」
ここに玄ム(げんぼう)は、道成寺の開基とされる義渕の門下である。霊亀二年(716)第八次遣唐使に加わって入唐し、法相の奥儀を受け、天平七年(735)第九次遣唐使と共に帰朝。帰朝後、聖武天皇、光明皇后の信頼を得て殊遇を受けていた。
この記事の行間には、光明皇后が宮子のために心を砕いている様子を、かいま見ることができる。光明子は信頼する玄ム(げんぼう)をカウンセリングのために宮子のもとへ遣わし、親子の対面においても、我が宮殿でその手筈を整える。光明子にとって宮子は名目上のみとは云え異母姉であり、それ以上に、わが夫聖武の生母であるから、当然と云ってしまうことも出来るかも知れないが、それはやはり光明子の人間性であう。
そのような皇后の意図を受けて奔走したのが、中宮亮下道真備(ちゅうぐうのすけしもみちのまきび)(後、天平十八年(746)吉備朝臣の姓を賜わり吉備朝臣真備と称す)である。真備(まきび)と玄ム(げんぼう)とは、共に第八次遣唐使に従って入唐し、帰国もまた同時であった仲であり、後やがて、相携えて橘諸兄(たちばなのもろえ)政権を支えた仲である。そこには、当時の人間関係の一端が浮かび上がる。
それらのことよりも、続紀のこの記事において最も注目すべきことは、宮子が三十数年もの間、ノイローゼ状態であったという点である。そのような神経症に陥った原因は極めて明白である。
現在の美智子皇后が激しい精神的ダメージのため、ご成婚から4年目の昭和38年には、遂に、ノイローゼによる失語症と噂されるほどになり、葉山で長期療養の日々を過ごされ、精神科医の神谷恵美子氏が治療に当られたことは周知のところである。心身ともに健康で軽快なフォームで皇太子だった頃の天皇とテニスに興じられていた美智子皇后にしてそうである。父親は大企業の社長、本人の学歴も高く、庶民とは云え、云うなれば上流階級の中に生まれ育った美智子皇后にしてそうである。第二次大戦後、従来とは一変して華族も貴族もない民主的な社会となり、そのご成婚に国中が祝賀に沸いた美智子皇后にしてそうである。そこには、宮中独特の慣習、常に注目される視線もさることながら、聖心女子大出身であることに反発する常盤会(戦前の女子学習院、戦後の学習院女子高等科の同窓会)の女官たち、皇族の妃殿下がたなど宮廷をあげての、すさまじいまでの中傷、誹謗、悪口、憎悪、そして、悪意にみちた「いじめ」「いやがらせ」があり、その中で孤立無援、精神的にズタズタに傷められたためであったと云う。
まして宮子は海女(あま)の娘である。社会の底辺の出自である。梅原猛氏の云うように紀竈門娘に従って宮中に出仕したとは云え、それは雑仕女(ぞうしめ)としてである。藤原不比等(ふひと)の養女となったとは云え、それは名目上だけのことである。宮中の慣習はおろか、おそらく彼女は文字さえも知らなかったであろう。彼女に浴びせられた周囲の目の冷たさは想像に絶するものがあったろう。しかも、頼れる人は誰もいない。冷たい氷の壁の中で一人孤立している。生んだ子とはその日のうちに引き離されて、乳母の手に渡されてしまう。不比等(ふひと)にとって欲しいのは、自分につながる皇子であって、その皇子を得たからには、文盲の女など百害あって一利もなかったであろう。それでも、文武が生きている間は、救いの手がなくはなかった。しかし、その文武が若くして没した後は、彼女はもはや、自らの手で自らを閉ざし、自ら廃人となる以外になかった。いや、それは、心理学的に云えば、強いストレスに対する自然な補償行為である。
こうして宮子は、自ら一切の世間と隔絶した。これは現象的に云うと、死んだと同じことである。「夜桜お七」という最近の歌の中にも「いくら待っても来ぬ人と死んだ人とは同じこと」と云う歌詞がある。このようにして宮子は、肉体的には生きていても、現象的、社会的、精神的には、和銅初年、二十数才で死んだのである。
いや、竹取物語においても、かぐや姫は死んだとは書いてはない。別世界に移っただけである。宮子も現実とは遊離した異次元の魂の世界に移っただけである。
5.(c)求婚の拒絶
かぐや姫は、帝の度重なる求婚に対して最後までそれを受け入れず、文を交換し、草花を添えて歌を交すプラトニックラブで終始する。これに反して、宮子は文武の意のままに諾々として彼を受け入れ、皇子までなしている。この点において両者は決定的に相違しているように見えるが、果してそうであろうか。
そもそも、お互いに激しく燃え上がる男女の熱烈な恋愛というものは、二人の社会的身分に隔絶した格差がなく、相互に対等な立場にあることを前提とする。身分差があっても、手を伸ばせば届く距離でなければならない。男女の間に身分的断絶がある場合は、おおむね、愛した側は諦めを伴った一方的憧憬に終わり、愛された側は無感動に儀礼的に対処するだけである。決して相互に燃え上がることはない。
宮子と文武の場合、二人の社会的身分は限りなく隔絶している。文武は神である。天武・持統朝以来、「おおきみは神にしあれば-----」と歌われて、天皇は神格化されている。他方、宮子は塵芥よりも下賎な海女(あま)である。二人の関係は、厳(い)つき神に犯される巫女(みこ)、いや、鬼神に凌辱される人身御供(ひとみごくう)の女。その場合の神と女との関係そのものである。
文武は彼女の美貌を殊の外に賞で、彼女の健康で引締まった成熟せる女体に深く引寄せられた。そして、彼女を熱愛した。しかし、彼女はただ恐惶して男の意のままに身を任せるのみである。彼女の側から文武を愛するなどと云うことは、余りにも恐れ多いことであり、天もまた許すものではないと思われた。
かぐや姫は、自らが月の国の者であり、異界の者であることを知っているが故に、「みかど」を愛してはならなかった。宮子もまた、下賎な人外の者、異界の者であった。それ故に宮子は文武を愛してはならなかった。
形の上では、宮子は文武の夫人となり、皇子まで儲けているが、それは通常的意味での婚姻とは云えなかった。精神的には宮子は文武と結ばれていない。このことを、かぐや姫の作者は、求婚の拒絶と云う形で表現した。それは、愛せざるが故の拒絶ではない。愛することが許されないが故の拒絶である。
6.竹取翁は紀麻呂
このように見てゆくと、かぐや姫のモデルを藤原宮子とする時に生ずるイメージ上の齟齬は、3点ともすべて解消してゆくのである。
ところで、竹取物語には、もう一人、竹取翁「さぬきのみやつこまろ」と呼ばれる主役がいる。この登場人物のモデルは、こうしてくると、必然的に紀麻呂(きのまろ)ということになる。
(1)この人物の姓は、竹取物語の群書類従本では「さぬき」となっているが、その他の異本では、「さるき」あるいは「さかき」となっている。しかし、これらの異本を通じても「き」は変化しないことが注目される。また、物語の冒頭では「さぬきのみやつこ」とあって、「まろ」を欠いているが、「まろ」が欠けているのはそこだけで、以後はすべて「みやつこまろ」とある。従って、「みやつこまろ」が本来である。このようにして、名前の上からも、「さぬきのみやつこまろ」は紀朝臣麻呂と推測できる。
(2)紀朝臣麻呂は公卿補任によると、文武天皇の大宝元年の廟堂を構成したメンバーの一人である。すなわち、かぐや姫に求婚した五人の貴公子のモデルとされる多治比嶋、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂、藤原不比等の外に、末席にもう一人、従三位大納言紀麻呂(きのまろ)がいる。他のメンバーが正三位以上であるのに比べ、彼だけは従三位で位が僅かながら低いが、文武は云うに及ばず、廟堂を構成するメンバーの五人までをモデルとしているのに、彼だけを作者が無視するとは考えられない。
(3)その彼を、他のメンバーのように、かぐや姫への求婚者の中に加えず、彼にかぐや姫の養父と云う役割を与えたのは、それ相当の理由があってのことでなければならない。一つには、作者が求婚譚において借用したと思われる中国の小説「班竹姑娘」で求婚者が五人であったことにもよろうが、それ以上に、この紀麻呂(きのまろ)こそ、宮子を鄙里から発掘して竈門娘の侍女に加えて宮中に送り込んだ人物だからであろう。それはまさに、竹の節から「かぐや姫」を発見して養った竹取翁の役割である。

(4)日本書紀の持統天皇の十年(696)十月の条に、功臣たちに資人を賜う記事がある。資人とは、朝廷に仕える舎人の一部を高官の私用に給するものである。この時、多治比嶋に百二十人、阿倍御主人と大伴御行に各々八十人、石上麻呂と藤原不比等に各々五十人を賜わっている。そして、この記事から求婚五貴公子のモデルが選ばれたとも云われている。しかし、この記事を別の角度から見ると、この持統十年の時点では紀麻呂(きのまろ)は功臣の列に加えられていない。それが、それから四年後の大宝元年(701)には、紀麻呂(きのまろ)は大納言となり五人と肩を並べるまでに昇進している。この急速な昇進は何か。その間に軽(かる)皇子が文武天皇として即位し、それに伴って宮子も夫人として入内したことに関連なしとは云えまい。ちなみに、竹取物語の中には「この女を奉るならば、翁に位階を授けよう」という「みかど」の言葉が出て来る。
(5)紀麻呂(きのまろ)は文武天皇の慶雲二年(705)四十七才で没している。梅原氏が引く「道成寺宮子姫伝記」によると、彼をモデルとした紀道成は、文武天皇の命を受けて道成寺の建立にあたり、伐り出した用材を日高川で下す筏に自ら乗って指揮をとっていたが、高津村の九留瀬で筏が岩に激突し溺死したと云う。竹取物語では、かぐや姫が天に昇った後、翁は食も取ろうとせず病床に伏してしまったとある。私はそこに相通ずるものを感ずるのである。
7.中臣房子は橘三千代
このようにして、竹取物語の主役、脇役については、そのモデルをすべて比定することができた。ここまで論を進めると、端役の中で、内侍中臣(なかとみ)房子として登場する人物についても、そのモデルを推定することができる。そのモデルは藤原不比等の妻、県犬養橘三千代であると思われる。
彼女は、初め美努(みぬ)王に嫁して葛城王(後の橘諸兄(たちばなのもろえ))、佐為王(後に橘佐為)、牟漏(むろ)王女(後に藤原房前の妻)を生み、美努王と離別して藤原不比等(ふひと)の室となり、安宿(あすかべ)媛(光明子、後の光明皇后)と多比能(たひの)(後に橘諸兄(たちばなのもろえ)の妻)を生んだ女性で、天武天皇から聖武天皇に至る六代の間朝廷に出仕し、文武天皇の乳人を務めたことによって、後宮において絶大な権力を握り、和銅元年(708)には橘宿弥(たちばなのすくね)の姓を賜わり、不比等(ふひと)と二人三脚を組んで、藤原氏および橘氏の繁栄の基礎を築き上げた人物である。
そして、この三千代こそが、軽(かる)皇子が下賎な出自の宮子を寵愛していることを知ると、宮子を我が夫不比等(ふひと)の養女として貰い受け、藤原氏を天皇の外戚とするという知略をおこなった人物であると梅原猛氏は推定している。事の成行きは、あるいは、皇子が、愛する宮子を何とか正式に我が室に迎えたいと思うものの、その出自ゆえに許されぬことに苦悩しているのを見て、皇子のために打った方策だったのかも知れない。
いずれにもせよ、宮子を文武に取り持つに当たっての三千代の働きは大きい。竹取物語において、内侍中臣(なかとみ)房子が帝の使者として「かぐや姫」の所へ行き、かぐや姫に入内を促すのと、その役割は一致する。中臣(なかとみ)というのが藤原不比等(ふひと)の元の姓であることは云うまでもない。
このようにして、竹取物語の中の登場人物について、主役・脇役のすべて、および端役の中の一人について、そのモデルを推定することができた。それを、ここで、念のために一覧表で示す。
主役
|
なよ竹のかぐや姫
さぬきのみやつこまろ(讃岐の造麻呂) |
藤原宮子
紀朝臣麻呂 |
脇役
|
石作の皇子
車持の皇子
阿倍のみむらじ
大伴のみゆき
石上のまろたり
みかど |
多治比真人嶋
藤原朝臣不比等
阿倍朝臣御主人
大伴宿弥御行
石上朝臣麻呂
文武天皇 |
端役 |
内侍中臣の房子 |
県犬養橘三千代 |
8.作者は僧玄ム
このように推定を進めてゆくと、竹取物語の作者も自ずから浮かび上がってくる。結論から先に述べると、それは玄ム(げんぼう)であろう。いや、玄ム(げんぼう)以外には考えられない。宮子のことを、その出生の秘密から、心の苦悩にいたるまで、知り尽くしていたのは玄ム(げんぼう)以外にはないからである。しかも、玄ム(げんぼう)は心秘かに宮子を愛していたとも思われるからである。
玄ム(げんぼう)は、宮子が平癒して、我が子聖武と初めて会った日から八年後の天平十七年(745)の十一月、筑紫観世音寺の別当に左遷される。橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の一角を切り崩そうとする藤原仲麻呂の策謀によるという。そして、翌天平十八年(746)の六月、その地で没する。玄ム(げんぼう)は、筑紫における憂愁の日々の、この半年あまりの間に、今は遠く雲外に隔たった都に居ます宮子のことを偲んで、竹取物語を書いたものと私は思うのである。
彼女は彼にとって忘れられない人であった。いや、心の奥で秘かに愛した人だった。光明皇后からの依頼を受けて、彼女の心の病を癒すために、初めて彼女に謁した時、すでに齢は五十才を越えていても、なお、天人かとも見まごうその美しさに、彼の心は怪しく震えた。その時から、彼にとって彼女は月の世界の天人であった。彼女が重い口を開いて、自らの出自を、そして、心の苦悩を、途切れ途切れに語る時、彼の心はそれを我が事のように感じ、彼女と同じ心で彼女と共に苦悩した。それは、もはや愛であった。
二人の間柄について一つの巷説が残っている。宮子は玄ム(げんぼう)の子を宿し一児を生んだと云うものである。
扶桑略記は僧正善珠の延暦十六年の卒伝に「流俗に云う。僧正玄ム(げんぼう)、太皇后藤原宮子に通ず。善珠法師実はその息(そく)なり」とあり、元亨釈書は第二巻慧解一の善珠法師伝に「あるいは太皇后藤原宮子の蘗子(へいし)という」と記している。さらに、興福寺流記には「四恩堂。玄ム(げんぼう)僧正、聖武天皇母后宮子、密通の所なり。これを悪(にく)みて、御堂消失の時、諸堂を造るといえども、四恩堂一宇は造らず」とする。
それは、玄ム(げんぼう)を追い落とさんとする藤原仲麻呂らの「でっちあげ」であった可能性もなしとはしない。善珠の生年は養老七年(723)であり、これは玄ム(げんぼう)が未だ唐に居た年であり、この点からもこの俗説は肯定しがたい。しかし、私は、それが事実であっても、かまわないと思う。それは、不義・不倫として謗られるべきものではない。男女間の倫理は当時は現在と著しく異なっていた。夫が通って来なくなれば、他の男と通ずることに何の支障もなかった。まして、夫が死亡した後の妻は全く自由であった。興福寺流記の表現には後世の思想が混入しているとしか云いようがない。あるいは、一般人には許されても天皇の母には許されないと云うのであろうか。
そのことよりも、この場合、性的行為を行うことは非常に効力のある治療法である。行為による愉悦は欝屈した精神を忽ち解き放つ。その上で、「あなたは今はもう、誰一人恐れる人はないのですよ」と語りかけ、そのことを悟らせたならば、ノイローゼが朝霧のように晴れ渡るであろうことは、精神分析学者ならずとも容易に察せられるところである。
このようにして、玄ム(げんぼう)は治療行為とはいえ、少なくとも一度は宮子と肉体を重ねた。そのことは、玄ム(げんぼう)にとって宮子を決定的に忘れ得ぬ人とした。そして、宮子は玄ム(げんぼう)の魂の恋人となった。
こうして、玄ム(げんぼう)は左遷されてゆく旅の途次、宮子のことを書き残そうと思った。筑紫における閑居の日々、ほとばしる思いで筆を取ったと私は思うのである。関係者の多くは既に世を去っている。しかし、その子たち孫たちは健在であり、何よりも宮子自身が存命している。このため、事実をノンフィクションで描くことははばかられた。そのため、メルヘンとして、物語としてそれを描いていった。我が心の天人に捧げる書として。それは、池水のように静かな愛情の書であり、月の光のように澄み渡った追憶の書である。
藤原氏に対する恨みもないとは云えない。純真無垢であった宮子を己の策略のために苦悩の中へ陥れた不比等(ふひと)、それよりも、自分を九州の果てに左遷した藤原仲麻呂には、怒りを禁じえない。そのため彼は、車持皇子を書くに至り、思わず筆を滑らせて「心にたばかりある人にて」と書いてしまった。しかし、そのような思いは副次的なものであり、真の目的はそこではないと私は思うのである。
このことに関連して、二つのことを追記しておきたい。
(1)竹取物語には漢文で書かれた原本があったと云われている。このことは、私の推測を補強する。玄ム(げんぼう)が書くとすると、それは漢文であった筈だからである。
(2)竹取物語の中の五人の貴公子の求婚ストーリーは、中国のチベットの民間説話の「班竹姑娘」のストーリーを借りたものであるとも云われている。このことも私の思いと矛盾しない。玄ム(げんぼう)は二十年になんなんとする在唐の間に、チベット伝来の仏典をも読み漁っり、その時、仏典ならねど、この説話をも読んだと考えることができるからである。(ただし、最近では、このチベットの民間説話なるものは極く近代の作品に過ぎぬと云われているようなので、そうなると、もはやこの点は論外となる)
9.付記
これをもって私の論は終わる。ここから先は単なる私の思い入れであり空想である。
(1)玄ム(げんぼう)は「かぐや姫」の物語を書き終えると、我が精力を使い果たしたかのように病の床に就き、やがて、その一生を終わる。彼は書き上げた物語を親友の吉備真備(まきび)に託したのではあるまいか。あるいは、真備(まきび)もやがて天平勝宝三年(751)仲麻呂に追われて筑前守に左遷され、さらに二度目の入唐の後は太宰少弐を命じられる。この時、真備(まきび)は玄ム(げんぼう)が書き残したものを発見したのかも知れない。
そして、それは世に伝えられ、やがて誰かによって仮名混じりの和文に書き改められたのであろう。それは平安時代に入ってからである。そして、その時、若干の手が加えられた。例えば、頭中将という官名は弘仁元年(810)以降のものであるから、元は恐らく、中將(近衛中將)とだけあったものが変えられたものであろう。
(2)玄ム(げんぼう)は物語の最後の段で秘かに自分自身を登場させたのではないかと私は思うのである。「つきのいわかさ」(調石笠)という人物である。かぐや姫が残した不老不死の霊薬を富士山の上で焼く人物である。それは、人間というものの「はかなさ」、世の栄華というものの「はかなさ」への彼の思いを暗示しているように思われる。
調(つき)氏は百済系渡来人「奴理使主(ぬりのみ)」の後裔を称する氏族である。他方、玄ム(げんぼう)自身は物部系氏族の阿刀(あと)氏の出身である。しかし、壬申の乱の時、天武天皇の吉野脱出に随行する舎人二十数人の中に、安斗連智徳(あとのむらじちとく)、調首淡海(つきのおびとおうみ)の名が連ねられており、両氏族には何らかの親交があったかも知れない。このため、玄ム(げんぼう)は調氏の名を借りて自らの思いを語ったのではあるまいか。
(3)宮子はその後、海龍王寺に住み、静かに一生を終えた。秋艸道人会津八一の「自註鹿鳴集」の中の歌が、いま私の心に泌み渡る。「しぐれのあめ いたくなふりそ こんだうの はしらのまそほ かべにながれむ」
いま、ようやく筆をおく私の部屋の窓辺にも秋が近い。
初出:関西外国語大学研究論集68号(1998年8月)「「かぐや姫」藤原宮子説」
改題次出:北河内地域文化誌「まんだ」第66・67号
山崎容子氏作「宮子姫」の絵の転載については、御坊市の岡田敏史氏を通じて御坊市長等の許可取得済み
