残暑の厳しい日差しが降り注ぐ林道に、ささやかな風が流れ、木の葉のさえずる声が聞こえてくる。
スタイビール山脈から振り降りる風は、林道を通り抜け麓の村々に秋の到来を告げるべく走り回っていた。
(もう、夏も終わりね)
暑い日差しにうんざりしていた旅人は、小さく安堵の息を漏らすとその風に一時の清涼を求めて立ち止まった。
旅人は、全身を白い貫頭衣で包んで、頭には少し大きめのターバンを巻いており、そのターバンからは、滑らかなブロンドが腰の辺りまで伸びていた。
それが風の櫛に梳かれ、サラサラと舞っている。幻想的で、金色の流砂が空で踊っているようだ。
その流砂が僅かに向きを変え顔に掛かると、ふと旅人は後ろを振り返った。
ついっとアゴを上げ、高くそびえるスタイビール山脈を見上げる。
あの山々がなければ、旅人の道中はもっと楽だった。
北から南へと続く山脈が、東から西へと向かう旅人の障害になったのは言うまでもない。
だが、旅人には、その自然の城壁すらも乗り越えるだけの目的があったのだ。
その目的も、もうすぐ終わる。いや、始まるのかもしれない。
今まで2年の歳月が掛かったが、そんなモノは旅人にとって些細な事だ。
長寿を約束された種族にとって、それは瞬きするほどの時にも等しい。
「おい、エルフだってよ。エ・ル・フ」
カイルは不用心な半開きの扉を開け総務課に飛び込むと、閑散とした部屋にただ一人本を読みふけっている友人を見つけた。
その友人は、彼の声にどことなく諦めの含まれた小さなため息を吐くと、パタンと分厚い本を閉じ視線を上げる。
「今度はなんだ?」
しかし、カイルはその問いを無視して、不思議そうにきょろきょろと辺りを見回していた。
「おや、エリカ嬢はどうしたんだ?」
「仕事だよ。
それより、エルフがどうしたって?」
簡潔な答えを口にすると、フィリオはノックもせずいきなり入ってきたカイルに、やれやれとゆった面もちで訊ねた。
手にしていた本をテーブルに置き、話せよ、と目で合図する。
「ああ、それ!
聞いて驚け、なんとエルフがこの町にやってきたんだ」
「エルフが?」
カイルの言葉に、フィリオはちょっといぶかしげな表情になった。
「エルフなんてこの辺りにいたっけ?」
「なんでも、導師オリフへの使者だそうだ。
本人が門の所でそう宣言したのを、遠くからだったけど俺も聞いた。
でも、その時の声ったら、なんかこう、鳥のさえずりと言うか、可憐で清楚な感じがしたよ」
「・・・・ふうん」
感激した口調のカイルに、フィリオは気のない返事をする。
その様子から、あまり興味が無い事が伺えた。
「なんだよ。そんなすまして。
あ、もしかして、もう知っているなんて言うなよ」
「知ってるも何も、別にエルフなんて・・・・・・」
と、言いかけ、やおらフィリオは言葉を止めた。
(そうだ。スタイビール山脈のこっち側って、エルフがいないんだったよな)
フィリオは、山脈の向こう側、東側を旅した事があるからエルフなど何度も見ていた。
それこそ、ちょっと大きな町にでも行けば、エルフの姿などいくらでも見る事が出来る。
しかし、スタイビール山脈が険しすぎるせいで、エルフ達の姿は、ここモルト王国では見ることは出来ないのだ。
この国の人間にとってエルフとは、せいぜい、本や人づてに聞く事ぐらいであろう。
カイルが興奮しているのも、半分以上物珍しさが手伝っているのは間違いなかった。
「しかしさ、やっぱり凄いよな。
オリフ様ってさ、ここに来る前は『仮面の導師』って呼ばれてた程の大魔導師だったんだろ。
噂じゃ、たった一人で、5万の大軍を倒したって言われているし。
遠くから、わざわざエルフの使者が来るくらいだもんな。
やっぱ、俺らとは違う人種だよ」
頭の後ろに手をやってつぶやくカイルに、フィリオは少し複雑な表情になる。
しかし、それもほんの一瞬で、すぐにいつもの彼へと戻った。
「で、そのエルフはオリフ様と会えたのかい?」
フィリオの言葉に、カイルはああっとばかりに、ポンと1つ手を叩いた。
(このシュチェーションは・・・・・・・・・・・・・・悪い予感がする)
ヤな予感に、じとりとねちっこい目つきになるフィリオ。
しかし、カイルは意に介した様子も無く、事も無げにこう言った。
「ああ、そうだった。
そのエルフの事で話があるから、すぐに城に来てくれって導師様からの伝言だ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(やっぱり)
数秒間・・・・・・・・・・冷たい沈黙が訪れた後、ため息混じりにフィリオの一言。
「なあ、カイル・・・・・・頼むから、そう言う重要な用件がある時は、先に行ってくれ」
あきらめと、疲れの混ざり合う口調で、フィリオは言う。
「ああ、悪い悪い。
それじゃ、俺は仕事に戻るから」
(・・・・・・・・全然、謝っているように聞こえない)
そんなカイルがそそくさと出ていくのを、どんよりとした視線で見送って、フィリオはすぐさまローブを羽織り総務課の小屋を出ていった。
城へと急ぐ途中で、フィリオはふと天を見上げると、小さく力無く呟いた。
「あ・・・・猛烈にヤな予感がする」
質素だが、綺麗に片づけられている部屋で、エルフ娘がソファーに腰を下ろしていた。
ターバンや貫頭衣はすでに荷物に押し込められ、その下に着ていた草色の服で、声が掛かるのをひたすら待っている。
草色の服は、エルフ族の正装と言える服装であり、東のレイテの森に住む一族を代表した使者としては当然の選択であるが、彼女にとってはあまり好きな服装ではなかった。
(考え方が安直なのよね。
森の住人だから緑が良いだろうって、もうちょっと他に考えようが無かったのかしら)
エルフの名前は、ソフィアと言う。
金髪の髪に細身の身体。真っ白い肌に小さな顔は、典型的なエルフの特徴そのものだ。
しかし、やや細めで切れ上がってる目は、エルフ特有とは言えないほど鋭い物を感じさせる何かがあり、おいそれとは近づけぬ雰囲気を醸し出している。
彼女がモルトまで来た理由は、昔レイテのエルフを助けてくれた『仮面の魔導師』に礼をする事であった。
その為に、わざわざ、こんな辺境の王国にまで旅をしてきたのだ。
でなければ、こんな田舎へ来る事など、一生涯無かったろう。
「御使者殿。どうぞこちらへ」
一人の騎士らしき若い女性が呼びに来て、ソフィアは彼女の後をついていった。
やっと目的の導師に会えるからか、彼女は高揚感に包まれ、心臓もいつもより早く鼓動しているのを感じている。
(やっと、あの導師様に会うことが出来るんだわ。
ふふっ────)
緊張感からか、身体が滑らかに動かない。しかし、ソフィアは平静さを装って歩く。
期待と不安を胸に秘め・・・・・・・・。
しかし、彼女の予想とはまったく違う所・・・・・・・・なぜか、国王謁見の間へと通された。
「そなたか、遙か東の森のエルフ族の使者というのは?」
「はっ」
国王のその声に、ソフィアは膝をつき、うつむいたまま短く答える。
「ふむ。御使者殿手を上げてくだされ。そなたは臣下では無いのだから。
それに、その美しさを絨毯に眺めさせておくのは勿体ないとゆうもの。
オリフ殿もそう思うであろう?」
国王の声に、ゆっくりと首を縦に振る仮面の男。
表情は見えないが、その仕草から笑っているのが伺える。
周りにいた騎士達も、明るくそのジョークに目を細め、声を上げていた。
しかし、ソフィアは姿勢を崩さずにうつむいたままだ。
何人かが、そのジョークに気を悪くしたかとも思ったのだが、実は違う。
彼女には、国王のジョークに応じている余裕など微塵も無かったのだ。
(何なの?
このものすごいプレッシャーは!)
謁見の間に入ってからずっと、ソフィアは目のくらむような思いをしていた。
なぜここに通されたかとゆう事など、そのプレッシャーにどこかに吹き飛んでしまっている。
それ程ここには高密度の魔力が溢れていたのだ。
高圧の魔力は、彼女を押しつぶさんばかりに渦巻いている。
普通の人だと感じる事が出来ない魔力も、ある程度の魔導師となると、肌で感じる事が出来た。
ましてや、魔法は得意なエルフ。さらに彼女は一族の中でも、戦士として育てられたのだ。
魔法も、そして剣もかなりの腕前の彼女は、誰も感じる事のない魔力の渦を、直に肌で感じ取っていた。
(間違いない。
これは『仮面の魔導師』の魔力)
ソフィアは、その絶大な魔力を感じて、昔自分を助けてくれた魔導師がここにいる事を確信した。
(だけど・・・・・・・)
「今宵は、使者殿の歓迎を催す宴を開こうぞ。
使者殿はゆっくりとなさっておられるが良い。
フィリオ。そなたに使者殿の世話役を命じる。
使者殿。何かありましたら、この者に言いつけて下され」
国王はそう言うと、それぞれの思惑など関係無しに、相好を崩して大きく笑った。
そして────────
「僕が世話役を仰せつかりました。フィリオ・マクスウェルです」
魔法使いらしきその若者は、礼儀正しく挨拶する。
「私は、ソフィア。レイテエルフの戦士だ」
彼女は美形揃いと言われるエルフの中でも、標準以上であろうと思われる外見だが、それをつっけんどんな男言葉に鋭い目つき、さらには愛嬌とゆう物が完全に欠如した表情で言うので、美人特有の冷たさが表に出てしまっている。
第一印象は間違いなく、冷たそうと言われるタイプだ。
そんな雰囲気を持つ彼女に、フィリオはもう一度お辞儀をして、顔が引きつるのを隠す。
彼の表情は、「厄介な事にならなければ良いけど」と雄弁に語っていた
「ところで、フィリオ殿。
早速質問したいのだが、私は『仮面の導師』に面会を求めたのだ。
なぜに、国王との謁見になってしまったのか、理由を聞きたい」
言葉を正す風にして訊ねる彼女に、フィリオはいささか気まずそうにする。
「いえ・・・・・あまり大きな声では言えませんけど。
みんなエルフを見たことがなかったもので、好奇心から見てみたいと言う事になりまして・・・・・・その、国王も・・・・・・」
目を会わさない様にしているフィリオに、ソフィアはみるみる不機嫌な顔になっていく。
フィリオも、もう少し違う言い方をしても良さそうなものだが、この時はそこまで気が回らなかったのだ。
「つまり私は見せ物だ。と言いたいのか?」
憮然と言い放つソフィアに、フィリオは慌てて言い繕った。
「いえ、エルフとの友好関係を築く為に、国王はお会いになられたのですよ。
それに国王は気さくな方で、他国の使者の方々とは、必ず自分で会われようとするのです。
ですから・・・・・・・・・」
(まったく、これだから田舎もんの役人はヤなのよ。
私が怒ったら、自分の責任になるとでも思っているのかしら? おどおどしちゃって。
だいたい、何で女の私に、男の案内人が付くのよ!
まったく、これだから)
心の中では悪態を付いていたが、ふと、彼女は慌てて言い繕っているこの気弱そうな役人をちらりと見て、自分自身を落ち着かせた。
(ふぅ。
ここで、怒っても先には進みそうにないわね)
「判った。
もうこれ以上この事は言わぬ。
その代わり、『仮面の導師』様との面会を頼みたい。
私は導師様に会うために、ここに来たのだから」
「判りました。
では、導師様の所までご案内致しましょう」
この男を怒っても気も晴れないと思ったソフィアは、とりあえず我慢する事にし、本来の目的を優先させた。
それに、ほっと安堵の息をもらした小役人は、すぐさま導師の塔へと案内する。
石の壁に囲まれた通路をしばし歩くと、目の前に庭園が見えてきた。
導師の塔は、その庭園の端にある。
庭園に石を敷き詰め作られた通路を歩き、そこへと向かうソフィアの視線に、ふと導師オリフの姿が飛び込んできた。
「導師様!」
ソフィアはいきなり声を上げると、サッと飛び出した。綺麗に掃き清められた石の回廊を走る。
そんなに間があった訳では無いのですぐに追いついた。
が、またしても、彼女は崩れる様にして膝をつけなければならなかった。
導師が振り返ったとたん、再びあのプレッシャーが彼女の身に襲いかかってきたのだ。
それにあがらう事も出来ず、彼女は膝をつくしかなかった。
(くっ、このプレッシャー!)
彼女に取って、これは屈辱以外の何ものでもない。
つらい修行と人間より恵まれた素質があるにも関わらず、顔を見ただけで自分から屈してしまうのだから。
しかし、戦士としてのプライドは、すんでの所でどうにか保たれている。
相手が生きた伝説と言われる『仮面の導師』であるとゆう事と、そして彼女もそんな彼にあこがれる女性の1人であるとゆう事がその理由である。
その上、彼は命の恩人でもあった。
森が火事になった時、彼女は導師に助けてもらっている。
そんな思いが、悔しさなど軽く凌駕してしまっているのだ。
膝をつき待っていると、プレッシャーはかき消える様にして和らぎ、丁寧な口調が頭の上から掛けられた。
「御使者殿、そのような事は止めて下さい。
ここでは皆の目があります。
すぐそこに私の部屋がありますので、そこで飲み物でも飲みながら、ゆっくりと話を聞かせてくれませんか?」
オリフが手を差し出すのを、ソフィアは思わず呆然と見つめてしまった。
濃く深い緑色の仮面から両の目だけを覗かせ、こちらを見ている。
これが、戦った相手からは悪魔と罵られ、味方からは神とあがめられた究極の魔法使い。
(うわっ! 仮面の導師様の手)
生きた伝説が、自分の目の前で、しかも自分の為に手をさしのべていると思うと、胸の奥からなにやら熱いものがこみ上げ、頬が紅潮する。
「・・・・はい」
ちょっとドギマギしながら、その手を取り立ち上がる。
が、今度はプレッシャーからではなく、恥ずかしさからまともに導師の目を見ることが出来ず顔はうつむいたまま。
そして、ソフィアは誘われるままに導師の塔へと入って行った。
「フィリオ君。
悪いがお茶の用意を頼みたいのだが」
「判りました」
彼はそう言って恭しく一礼すると、部屋の奥へと消えて行く。
そして、ソフィアは導師にソファーを進められ、そこにちょこんと座って導師を見つめていた。
(なぜだろう?
本当にこの人が、さっきまでの、あの『仮面の導師』なのかしら?)
ソフィアは、あまりも昔と印象の違うその導師に、少しだけ疑問を抱いていた。
いや、昔のと言うより、さっきのプレッシャーを与えた人間が、こんなになごやかな雰囲気を持っている事に、動揺とまではいかないまでも、不思議に思えるのだ。
(しかし、あのプレッシャーは間違いなく『仮面の導師』のもの)
そう思いつつもソフィアは、一段落した頃を見計らって、一応儀礼的な話を切りだした。
「導師様。私はレイテエルフを代表してお礼に伺いました。
三年前の、あの森の大火災から我らが一族を救っていただき、感謝の言葉もございません」
そう言うと、彼女は立ち上がって深々と頭を下げた。
「いえ、そんな、礼を言われるような事はしていませんよ。
人として、当然のことですから。
はっはははは─────」
優しげに言う導師に、ソフィアはなおも言葉を続ける。
「それで私達は─────」
コンコン
ドアをノックする音だ。
ソフィアの言葉を途中で中断させた邪魔な音は、続いてキィと小さな音を響かせる。
「失礼します」
そう言って、トレイにお茶をのせたフィリオが、部屋に入って来た。
台詞の途中に入ってきた邪魔者は、それをテーブルの上に置き、導師オリフはそれを優雅な手つきで一口くちに運ぶ。
「相変わらず、あなたの入れたお茶は美味しいですね」
そうひとこと邪魔者の事を褒めると、今度は反対側の扉からノックをする音が聞こえてきた。
「はい」
フィリオが返事をし扉を開けると、そこには一人の女騎士が立っていた。
彼女には見覚えがある。国王謁見室に案内してくれた時の騎士だ。
王国騎士らしく、ピンっと背筋を伸ばし規律正しい姿でたたずんでいる。
しかし、彼女の漂わせている雰囲気は決して和やかなものでは無かった。
そのつぶらで大きな瞳は、まるで親の敵でも見ているように鋭く、ソフィアを睨み付けている。
その視線はなにやら、敵意以上の何かを感じられる。
なぜ、と一瞬不思議に思ったが、ソフィアはすぐにそれに気づいた。
(・・・・そうか。迂闊だったわね。
導師様程の人ですもの。きっと、騎士団から嫉妬されているんだわ。
地方の保守的な俗物達ですもの。
導師様の事を知りもしないで、敵対しているに違いないわ。
だから、その客である私も憎いって訳ね)
そう思いソフィアは、少し緊張してその女騎士を眺めていた。
騎士は、フィリオと少しばかりひそひそと話をする。
と、次に導師に声を掛けた。
導師が歩み寄り、その騎士と幾つか会話を交わすと、彼は困ったような仕草をして、すぐにソフィアの方を振り返る。
「話の途中で申し訳ありませんが、急な用事が出来たようなので、続きは後日と言う事でよろしいですか」
「え?」
「すいませんね。
このところたて込んでまして」
導師はそう言うと、手招きしてフィリオを呼び寄せる。
「しばらく滞在しておられるのなら、彼に何でも言うと良いですよ。
いろいろと有能な魔法使いですから」
そう言うと、1人でさっさと出ていってしまった。
なにか、ぽつんっと取り残されたような気がするソフィアに、フィリオは礼儀正しく・・・・いや、事務的に頭を下げる。
「それでは、あなたのお部屋にご案内します」
そう言うフィリオの声に続いて、まだ残っていた女騎士はピクンっと眉をつり上げた。
導師もいなくなったとゆうのに、なぜか、まだ彼女は目つき鋭くそこにたたずんでいる。
が、フィリオの言葉でやおら動き出す。
「それでは失礼します」
と、静かに言った後、ちらりとフィリオの方を見るなり、すかさず彼の足をかかとで踏みつけた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
その瞬間、彼の顔に無数の脂汗が浮かんだ。
声を上げまいと必死に堪えている辺りが、どことなく哀愁を漂わせている。
その後、ぱたんと扉の閉まる軽い音がすると、いきなりうずくまり踏まれた足を押さえた。
が、やはり悲鳴は必死で押し殺し、目には涙をたたえている。
(何だ。あの騎士から感じたプレッシャーは?)
女騎士から出ていたとてつもない迫力に、驚きを隠しきれなかったソフィアが、事の真相を知るのはもう少し後である。
ソフィアが案内された部屋は、城内にある比較的大きな一室であった。
あまり飾り気は無かったが、綺麗に掃除が行き届いているその部屋で、ソフィアとしてはまずまず好感が持てた。
彼女は一人になると、そのあてがわれた部屋のベッドに座り、ふと昔の大火の事を思い出した。
森の中で炎と煙に巻かれ、力つき倒れていた所へ、魔導師姿の男が現れ助け出してくれた。
自分と、そして何人もの仲間を助けたその男が、人間達の間で『仮面の導師』と呼ばれている事を知ったのは、彼が村を出て行ってからだ。
ソフィアはそれから、彼にもう一度会いたいと思うようになり、口実を見つけて旅立ったのだ。
『仮面の導師』へお礼を言いに行く。
その一言をちらつかせて、長老達を何とか言いくるめて旅に出た。
各地を旅して、何とか居場所を突き止め、こんな辺境までやってきたのだが──────
「何か違うのよね。
雰囲気と言うか、それとも臭いと言うか。
でも、あんな強烈な魔力を持っているから偽物とも思えないし」
ころんっと、ベッドに横になり、両手を頭の下に敷いて天井を見上げる。
考えれば考えるほど、答えが見いだせない状況に、ソフィアは少しいらだちを覚えていた。
「少し、調べて見る必要がありそうね」
その夜、レイテよりの使者を歓迎する為に、王城ではパーティが行われていた。
パーティ中なら導師とゆっくり話せるかもしれない、と一縷の望みを託して出席したが、しかし、それはパーティ前から儚くも崩れ去ってしまった。
「使者殿は、エルフ族の戦士と───────」
「お美しい。エルフ一族がうらやましい限りですわ」
「長旅ご苦労様でした。ささ、一献」
次から次へと出てくる挨拶の名を借りた好奇心の固まり達に、ソフィアは辟易とするが、エルフ族を代表としている以上それを無下にする事もできない。
導師は出席している筈だがどこにも見あたらず、寄ってくるのは下心か好奇心を持ち合わせた者ばかり。
仕方なく、彼女は営業用の笑みを浮かべて、適当にあしらう事に終始しなければならなかった。
そして─────
宴の片隅では、バルコニーに出た二人の男が、満面の笑顔を浮かべたまま、星々の僅かな光に照らされて外を眺めていた。
「で、どうするつもりだ?」
彼の顔は笑みを浮かべていたが、声は重く重厚感がある。
もう一人の仮面の男は、完全に萎縮してしまっていた。
「それは私が聞きたい事ですよ。
これから一体どうすれば良いのですか?」
仮面の男は、物腰も低くそう訊ねるが、返ってきたのは怒りとも取れる鋭い声だった。
「それぐらい自分で考えろ。それから、あのエルフはお前が偽物と薄々感づいているぞ。
もしその正体がばれたら・・・判っているな」
首を親指で横に凪ぐ仕草を見せられ、仮面の男はたらりと冷や汗を垂らした。
それが、パーティ会場から漏れ出る明かりに照らされ、つつっと喉を伝わっていく。
こくり、と喉を鳴らす仮面の男に、相手はつまらなそうにそれを眺めていた。
口元は、笑みを浮かべている。しかし、彼の目は笑っていなかった。
心の底まで見透かすようなその視線に、仮面の男の心音は高鳴る。
───と、突然彼の表情と目つきが和らいだ。
そして、顔を背けると、ため息混じりにこう言った。
「レイテの森は前に火災があってな。その時少しばかり手を貸したのだ。
その時の礼を言いに来たのだろう。
適当にあしらって森に返してやれ。いいな」
その返事が、仮面の男から出る前に、背を向けている会場から、人を呼ぶ声が聞こえて来た。
「フィリオ〜。どこにいるのよ?」
弾かれたように、彼はバルコニーから会場へと足早に戻る。
「フィリオ、そんな所にいたんだ。
ねえ、いくらあの人が綺麗だからって浮気しちゃヤだからね」
「そ、そんな。
僕はただ王様に言われて、案内人としてあの人と接しているだけだよ」
「本当?
エリーが、男はみんなああゆうのに弱いって言ってたよ。
それと、あんまり親しげに話さない事!
今度またあんな風に話したてたら、足の小指にキックだからね」
「・・・・エリカ。昼間のも小指狙っていたね」
「うん!」
そうして、遠ざかっていく一組のカップルに、仮面の導師オリフは、人知れず安堵の息をもらしていた。
「ここなら、人もほとんど来ませんけれど・・・・・・・。
ホントに何もありませんよ」
フィリオはそう断りながらも、総務課のボロ小屋にソフィアを連れてきた。
彼女がここに来たのは、ちょっとした訳がある。
ここ数日、エルフ族の使者であるソフィアに『挨拶』をしにくる者が急増していた。
日々になんら変化のない田舎に、ある日いきなり異種族が来たのだ。
物珍しさに背を押され、人が集まるのはむしろ仕方がないとも言えるが、見せ物になったソフィアは心穏やかではいられない。
しかし、仮にも一族を代表しているのだから怒ることも出来ず、彼女はフラストレーションが溜まっていったのだ。
それが、傍目にも分かるようになって、フィリオは少し気晴らしが必要だろうと、彼女を城外に連れ出した・・・・までは良かったのだが、そこから行く先が決まらなかった。
女性の気晴らしに向くような、そんな気の利いた所をフィリオは知らなかったのだ。
せっかく、ある一人の女性の目を盗んで、魔導師協会の視察とゆう口実を作り、ようやく外に出たとゆうのに、行き先が決まらず途方に暮れていると、ふとソフィアが噂に名高い『総務課』に行きたいと言い出したのだ。
町の端にある人気の無い森の近く。さらには、子供が親から近づいてはいけません、などと言われるその場所に、彼女は興味を惹かれた様子でフィリオに案内させた。
道すがら、フィリオがそこの課長と知って驚いた様子だったが、ここに着くと彼女は開口一番こう言った。
「これが本当に魔導師の部屋なのか?」
たしかに、この部屋にある魔導師らしい物と言えば、イスに掛けられているローブ一つだけで、他はまるで関係無い物ばかり。
机に積んである数冊の本は、昔の英雄を綴った本と、薬草の本に料理の本と、どうあがいても魔導書には見えない。
それに、見るからに閑散としている室内の光景が、トドメを刺していた。
魔導師の部屋と言われなければ、ちょっとこざっぱりした山小屋とゆった感じである。
(・・・・・物事をズバリとひとことで言ってくれるよな)
「ま、まあ。魔導師協会の総務課と言うより、雑用係ですからね。
何でも屋ですよ」
フィリオは苦しい言い訳で取り繕うと、手で座るよう促した。
安物の木イスに座って一息つくと、ソフィアはふと思い出した様に話し掛ける。
「そう言えば、聞いておきたい事があったのだ。
フィリオ殿は私を好奇の目では見ないな。
なぜだ?」
「ああ、その事ですか。
僕は少し前まで、スタイビール山脈の向こう側で旅をしていましたからね。
エルフは見慣れているんですよ。
ま、それで世話役に選ばれたんだと思いますけれどね。
でなければ、もっと上の人が動いていますよ」
(ホントは、仮面の導師関係とゆう事で僕の所に来たんだけど)
「・・あ、と。
それから、僕の事はフィリオと呼び捨てで良いですよ。
殿なんてつけられるのは慣れていないんで」
「・・・・・そうなのか。」
ソフィアは妙に納得した様子で頷くとさらに続けた。
「では、フィリオ。この国での導師オリフの事を教えてくれないか?」
「導師様の?」
不思議そうに訊ね返すフィリオに、ソフィアはコクリと頷いた。
「私は─────────」
がしゃぁぁぁん!!
ようやく本題に入ろうとしたその時。
いきなり何かが落ちる音がして、2人の視線はとっさにそちらに向いた。
すると、そこには驚いた表情の、女性が2人それぞれの表情でたたずんでいた。
「フ〜ィ〜リ〜オーーーーーーー」
怒りを形作るオーラを身にまとい、ツカ、ツカ!、ツカ!!、と向かってくるあの女騎士。
それに、「あらお邪魔だった?」と勘違いしている女が一人。
「ま、待て。エリカ誤解だ!」
「この浮気者ぉぉーーーーー!!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しばらくして。
ズタボロにされたフィリオと、恐縮している女騎士と、フィリオの手当をしている女が、ソフィアの目に映っていた。
「フィリオ。大丈夫?」
心配そうに、手当をのぞき見るエリカと言う女騎士。
(自分でこんなにしてよく言うわ)
ソフィアは、その彼女が貴族であり、さらには聖騎士と呼ばれている程の剣士と知って、やや呆れた顔をしていた。
その上、この小心者の小役人が好きだと言う事も、その表情にプラスに働いている。
(それほどの地位を持ちながら、言っちゃ悪いけど、この程度の男に・・・・・・・
まあ、物好きとゆうのはどこにでもいるけど。
私には、むやみにへらへらしている気弱な奴としか思えないわ)
そのへらへら男の治療が終わると、彼は治療をしてくれたもう一人の女性にぺこりと頭を下げてすいませんと礼を言う。
「いいって、いいって、いつもの事だし。
それに、今度ちゃんとこのカリは返して貰うから」
エリーはそう言うと、治療箱を本棚の上に乗せる。
「あ、ソフィア殿。ご紹介しておきます。
こちらはエリーさん。
魔導師協会の受付をしていらっしゃいます。
そして彼女がヴァン・エリカ。
この国を代表する騎士の1人です」
「フィリオの妻のエリカです。どうぞよろしく」
聞こえたとたん、フィリオはどう言い繕うかと困り顔で目を泳がせた。
エリーは、それを面白そうに見ている。
そんな様子に、ソフィアは心の中で嘆息した。
(この人達って、廻りに迷惑振りまくタイプなのね。気をつけよ)
「彼女がエルフ族からの使者のソフィア殿」
言い繕おうにも言葉が見つからず、彼はそれを断念してソフィアを紹介した。
それに彼女は、軽く頭を下げる。
と、その時、さらりと金髪が前に流れた。
それを右手で耳の後ろまで掻き上げ視線を上げると、まじまじとこちらを見ていたエリカの視線とぶつかった。
「なにか?」
「い・・・いえ、別に」
慌ててそう言うエリカを見て、その仕草から、エリーは何となく彼女の考えている事に思い当たった。
(まあ、これだけの美人がここ数日ずっとフィリオ君の側にいるんですものねぇ。
その上、彼が案内役になってから、いちゃいちゃする時間も無くなっているから・・・・・・。
これで、やきもちを焼くなって方がどうかしているわ。ただでさえ、やきもち焼きなのに。
後は、フィリオ君が─────────)
そう思い当たると、やや、哀れんだ目つきになるエリーであった。
「それでフィリオ。
さっきの話の続きだが、導師オリフの事について教えてくれないか?」
ソフィアの言葉に、エリカとエリーはちょっと見つめ合うと、二人とも手近なイスにちょこんと座ってしまった。
爛々とした目つきをフィリオに向けて、何が話されるのかと、興味津々の様子で耳を傾けている。
(はぁ。
───────────どうしろって言うんだよ)
そんな心のつぶやきなど微塵も見せずに、フィリオは問い返す。
「導師の何が知りたいんです?」
「私は、エルフ一族の窮地を救ってくれた『仮面の導師』殿に、礼をしなければならない」
「ええ、それは伺いました。
何かの品物でお礼をするのでしたら、オリフ導師に渡して置きますが」
その言葉に、ソフィアは少し躊躇する仕草を見せてからこう言った。
「品物ではない。
私自身がエルフ族の礼なのだ」
「────は?────」
ソフィア以外の三人の声が、見事にはもる。
「それってもしかして・・・・・・」
一番最初に声を出したのはエリーだった。
おそるおそる問い返す彼女にに、ソフィアは慌てて言い直した。
「そう言う意味だけではない。
戦士として、あのお方が死ぬまでお仕えするつもりだ。
あのお方の望みをかなえる為に、私が働く事が一族の礼となる」
「でも、そう言う意味だけではない、って事は、そう言う意味も含まれているって事でしょう?」
すぐさま放たれたエリーのさらなる問いに、ソフィアは一瞬硬直し、小さく短くこう言った。
「導師が望まれるのならば・・・・・・・」
ぼっ!!!
フィリオは、その瞬間、耳まで真っ赤になって固まってしまう。
と、
「いたっ。いたい、いたい、いたい──────」
彼の悲鳴が聞こえてきた。
「フィリオ。今、エッチな事考えたでしょ」
エリカが彼の頬をつねり・・・・・・いや、鷲掴みにしてねじるとも言うが、不機嫌そうな顔を露わにして隠そうともしていない。
「ちょっと、こっちいらっしゃい!」
そのまま、首根っこを掴んで引きずっていくエリカ。
引きずられていく時のフィリオの瞳に、助けを求める感情が色濃く写っていたが、そのSOSサインにエリーはついっと視線を逸らした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずるずると引きずられていく彼の表情には、『絶望』の2文字が浮かんでいた。
「いいのか放っておいて」
「いいのよ。犬も食わない、って奴だから」
ソフィアに、そう答えておいきながら、心のどこかで罪悪感があるのか、エリーの視線はあさっての方を向いている。
「あんな、分かりやすいリアクションするんだもの。
こう・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「みぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ──────」
エリーの言葉も途中に、別室からのフィリオの叫びが二人に届く。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それは、思わず二人が目を見合わせてしまう程だった。
──────空気が重い。
「ここの所たまっていたうっぷんが爆発してるわね」
「・・・本当にいいのか? 止めなくて」
「下手に止めるとこっちが怪我をするわよ。
エリカは、聖騎士って呼ばれてる程強いんだから」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(それでは彼が危ないんじゃ?)
そう思わずにはいられなかったが、目の前の彼女の様子を見ている限り、あまり気にしている様子はない。
いや、気にしていないとゆうより───なれてるとゆった感じだ。
(まさか・・・・ね。
毎日こんな事ばかりしている訳ではないでしょう)
沈黙と絶叫の中、ドンドンと木の扉を叩く音が聞こえてきた。
「お願いです! 娘を・・・娘を助けて下さい!!」
髪を振り乱した女性が、泣きながら総務課のドアを叩いていた。
気も狂わんばかりに、ドアを鳴らしている。
「・・・どうか・・・どうかお願いです」
崩れそうになりながらも、その女性は戸を叩き続けていた。
そして、木戸は壊れる前に開かれた。
「どうしたの?!」
せっぱ詰まったようすのその女性にエリーは歩み寄ると、女性はいきなりエリーを両手で掴んだ。
「お願いします。
娘を助けて下さい。娘が・・・娘が森に!」
「と、とにかく中へ」
完全に取り乱しているその女性を、エリーは抱えるようにして部屋の中に入れると、彼女をイスに座らせた。
彼女は顔を涙でぐちゃぐちゃにして、嗚咽を繰り返している。
もちろん、エリカとフィリオは、この騒ぎを聞きつけて戻って来ていた。
「ゆっくりとでいいですから、事情を話して下さい」
首の辺りを赤く変色させたままでフィリオは落ち着かせようと試みた。。
すると、その女性は泣きむせびながらも、一回大きく息を吸ってから話し出した。
「娘が・・・サレセアの森に入ったっきり戻ってこないんです」
「セレセアの森ですって?」
そう、怒鳴ったのはエリーだった。
セレセアの森とは、この町の東にある、別名獣の森と言われる程の危険な森だ。
獣が多く住み、底なし沼や、毒蛇、毒蜘蛛に事欠かない、地元の猟師さえ入りたがらない森。
「どうしてそんな所に?」
「娘が乗っていた馬が、突然暴れ出して森の中に!」
そこまで言うと、女性は再び泣き出してしまった。
「猟師や、衛兵さん達に言っても誰も助けてくれなくて。
お願いです。もうココしかないんです!!」
それを聞くと不意にエリカは立ち上がり、くいっ、とフィリオの腕を掴んで、そこから離れた。
「ちょっと、どうするのよ」
「どうするって?」
二人とも、女性に聞こえないように小声で話す。
「あのね。セレセアの森って言ったら、地元の猟師さえ迷う森なのよ。
森の素人の私達だけで行ったって、迷うだけだわ」
それに、彼は少し考える仕草をした。
「行くなって言うのかい?」
「・・・・・そうは言わないけど」
そう言うと、エリカは気落ちしたように言いどもった
フィリオとてエリカの言いたいことは分かる。
自分の事を心配して言っている事ぐらい、いくらフィリオでも気づいていた。
しかし、悠長に彼女を説得している時間は無い。
遅くなれば遅くなる程、助け出せる確率は低くなってゆくだろう。
だからこそ、最も時間が掛からないが、最も卑怯な言葉を選んだのだ。
「うーーーーー」
言いたい事は山ほどあるが、それが言葉となって思いつかずに、エリカはうなることしか出来ずにいた。膨れっ面でフィリオを睨んでいる。
(殴られるかな?)
フィリオの脳裏に一瞬それが浮かぶ。
「私が一緒に行こう」
と、向き合っていた二人に声が掛けられる。
その声に振り向くと、そこにはソフィアが立っていた。
「ソフィアさん。いや、しかし・・・・・・・」
「私はエルフだ。森の事なら任せて貰おう」
「いや、しかし客人に・・・・・・・」
食い下がるフィリオに、ソフィアは静かに答えた。
「私は、昔ただの通りすがりだった導師様に助けられた事がある。
その時は炎が森を焼いており、今よりもっと危険な状況だった。見捨ててはいけない」
瞳に確固たる決意を感じたフィリオは、エリカと視線を合わせて頷きあう。
「それではお願いします。
エリカはすぐに、導師オリフの所へ行って、この状況を話してきてくれ」
「私が?」
今度はストレートに声が出た。
自分も一緒に行くものとばかり思っていたエリカは、何でよとばかりに詰め寄った
明らかに不満げな口調に、フィリオは理由を説明する。
「僕が行ったんじゃ、時間が掛かりすぎる。
その点、エリカなら城はフリーパスだ。
導師様なら守備隊とかに、手を回していくれるだろうから」
それでも、エリカはまだ納得しない様子でフィリオを睨み付けていた。
「・・・頼むよ」
「う・・・・・・」
いつになく真剣な表情のフィリオの顔に、エリカは再び言葉に詰まってしまった。
そうして、ようやくエリカは、しぶしぶながらも自分から折れた。
「今度の休みは、私とミスル湖でデートだからね!」
去り際にそう叫ぶと、彼女はすぐに城へと走っていく。
最後にデートの約束を取り付ける当たり、転んでもただでは起きないエリカであった
女性に詳しい場所などを聞き、フィリオとソフィアは、セレセアの森へと足を踏み入れた。
足下には、蛇がのたうち回っているような木の根が所々姿を見せるセレセアの森は、日の光がほとんどと言っていいほど届かない薄暗い森だ。
朽ち果てた倒木が行く手を遮り、それは腐敗し白くなっている。
足で踏みつければ、ぽきりとも音を立てずに砕けてしまいそうだ。
その中でフィリオは魔導師のローブ姿。ソフィアは服の上に、なめし革の胸当てを着けている。二人ともブーツは忘れていない。
「馬はこっちへ行ったようだな」
ソフィアは、木の葉の乱れ具合を見てそう言うと、その後を追っている。
森の中での観察力や洞察力は、エルフの右に出る者はいない。
ソフィアは、僅かな木の葉の乱れや、不自然な削られかたをしているコケなどの具合を見て進んでいた。
しかし、しばらく歩いている内に、突然ソフィアは足を止めた。
怪訝な顔つきで、きょろきょろと周りを気にしている。
「どうかしたんですか?」
フィリオが声を掛けるが、しかしソフィアは曖昧に言葉を濁した。
「何かが周りにいるような・・・・。
いや、気のせいだろう。すまない」
彼女はそう言うと、気を取り直してさらに先へと進んで行く。
迷宮のような森の中で、彼女は迷いもなく歩いていた。
その調子でしばらく進むと、突然ポッカリとかなり開けた場所に出た。
薄暗い森の中とは思えないような日の光に包まれ、そこは花も咲いていた。
そして、そのほぼ中央で、馬が一頭大地の草をほうばっている姿があった。
「子供は?」
フィリオがすぐにその馬に駆け寄ったが、辺りに子供の姿はない。
「こっちよ。
こっちに小さな足跡が続いているわ」
ソフィアはそう言うと、草を踏みつけた小さな足跡を追う。
そして─────────すぐに子供は見つかった。
ただし、川に掛かった細い倒木の上で、小さく震えながらそれにしがみついている状態で、だ。
「た、助けて」
二人に気づいたその子は、弱々しく助けを求めている。
「待ってろ、今すぐたす────────」
言って一歩踏み出したとたん、コケに足を滑らし、すざざざざっ、と川に滑り込むフィリオ。
幸い、フィリオが落ちたと所は、流れの緩い所だったのだが・・・・・。
「くっ、抜けない」
足が古木の間に挟まり、彼は動けなくなってしまった。
そんなフィリオを無視して、ソフィアは子供を助けに向かう。
(間抜けな男。
同じ魔導師でも、導師様とは雲泥の差ね)
心の中でそう呟きながら、ソフィアはゆっくりと倒木の上を歩いていった。
「大丈夫だ」
安心させようと子供に話しかけながら進んでいく彼女。
子供が暴れれば、こんな倒木など簡単に折れてしまうだろう。
それを防ぐには、この子を落ち尽かせるしかない。
「大丈夫だ。すぐに助けてあげる」
そのかいあってか、その子はパニックにもならず、しっかと木にしがみついていた。
大人が見えたのと、話しかけながらで子供の方も少し安心したのか、徐々にではあったが、やや柔らかい表情になっていた。
一歩一歩ゆっくりと進み、倒木が折れない様に足下を確かめながら、ようやくその子の震える手を掴む事ができた。
と、その瞬間!!
子供が、勢いよくソフィアにしがみついて来た。
「ダメ!」
ソフィアはとっさにそう叫ぶ。
が、すでにその時には、倒木がバキバキと折れる音が、彼女の耳に聞こえてきた。
ザバァァン!!
(くっ!!)
とっさに、子供をかばって川に落ちたソフィアだったが、その拍子に折れた倒木に頭をぶつけてしまう。
しかし、激流はそんな事などお構いなしに、彼女を包み込んだ。
ソフィア自身は泳ぎが得意なのだが、子供が助かりたい一心から、無茶苦茶にしがみついているので思うように手足が動かせない。
その上、川は轟々と音を立てて流れる激流である。
しかし、その激流に身を流されても、ソフィアは子供の手を離そうとはしなかった。
(ここで、手を離したら、私は導師様に会わせる顔がない)
命がけで自分を助けてくれた導師に会いに来たのに、その導師のすぐ近くで、自分の命惜しさに、子供を見放す事などソフィアには出来ないかった。
ソフィアは必死で、一緒に流れている折れた木に捕まり、子供を押し上げようとするが、激流に遮られ思うように行かなかった。
何度となく、浮かんだり沈んだりを続ける内に、彼女のブロンドの髪が、激流に翻弄されて、顔にまとわりついて来る。
その視界の狭まった中で、彼女にある物が飛び込んできた。
思わず、それに手を伸ばす彼女。
「ぷはっ」
木から垂れ落ちる蔦を手にする事が出来たソフィアは、ようやくそこで息継ぎする。
彼女の胸にいる子供からも、コホコホと咳をする音が聞こえた。
(良かった。まだ息があるわ)
しかし、蔦は細く、今にも千切れてしまいそうだ。
二人とも、このまま掴まっていれば、いずれそうなるだろう。
(このままでは・・・・・・・)
ソフィアは、激しい流れの中で周りを見渡した。
しかし、そんなソフィアの視界が突然ぼやける。
(なっ!)
ここに来て、ようやくソフィアは頭をぶつけた事を思い出した。
心なしか、身体もぼやけた感じに包まれている気がして、すぅっと力が抜けていく。
(まずい、このまま気を失う訳にはいかない!)
薄れゆく意識の中で、ソフィアは気を振り絞った。
体温を無限に吸い取られていく水の中で、彼女は体力を削り取られながらも、必死に他の何かを探した。
(他の蔦は・・・・ダメ。ここからじゃ届かない。
となると、どこか掴まれる所は────)
何とか助かる方法を探す内に、彼女の目の前に見えたのは下流にある比較的大きな岩だった。
(・・・この子をこの蔦に縛り付けて、私はあの岩に捕まれば)
そう思った瞬間、ソフィアは行動に移っていた。
蔦を子供の胴に結びつけ、その手にも蔦を持たせる。
「お、おねえちゃん・・・・・」
「もうしばらくの辛抱よ。
すぐに助けが来るから、それまでこれ離しちゃダメだからね」
子供は何をするのかと、不安で一杯の様子だ。しかし、パニックにはなっていない。
そんな子供に、ソフィアは、残る気力のすべてを使って優しげに「助けて上げる」と、そう言うと、きっと岩を見つめた。
(・・・・・・・・・行くわよ)
とんっと、ソフィアは蔦から手を離す。
「おねえちゃん!」
子供の声と、激流の水音が重なって聞こえてくる。
激流に流されつつも、目的の岩へと向かう。
ぐんぐん近づいてくるその岩に、薄れ行く意識を集中させ───────
その岩に手が重なった。
(よし!)
───が、次の瞬間、彼女の手の中に岩は無かった。
その岩はまるでソフィアの手を拒むように、手の中からスルリと消えてしまったのだ。
コケで滑ったのか?
それとも、冷たい水の中で疲労していたのか?
どちらにしろ、ソフィアは岩をつかめなかった。
そして、激流の渦に顔すらも飲み込まれてしまう。
(──────────もうダメ)
薄れゆく意識の中で、その目を自分で閉じた刹那─────
ザッ!
───────水の弾ける音が聞こえた。
「・・・あの時もこうして助けたんだったな」
水を弾いた音に続き、顔のすぐ近くから男の声が聞こえる。
とっさにそちらを見るが、水の中にいた為か視界がぼやけていた。
見えるのは、うっすらとした輪郭のみ。
ソフィアは抱き上げられた格好で助けられ、そして、すっと優しく大地に下ろされる。
そのぬくもりに、ソフィアは覚えがあった。
ソフィアを助けた彼は、一旦離れると、すぐにまた戻ってきた。
「この子は魔法で眠らせてあるが大丈夫だ。
お前のおかげで、ほとんど水も飲んでいない」
そう言うと、座っていたソフィアの膝に子供の頭を置いて寝かせる。
「だ、だれ?」
ソフィアは、まだぼんやりとしか見えない目をこすって、はっきりと見ようとする。
が、彼はその手を掴んで止めさせた。
「目を開けるな!
私の姿を見たものは、例え誰であろうと殺さねばならない」
(やっぱり・・・・・・・・・)
言われて、ソフィアは目をギュっとつぶった。
「・・・・・・導師様?」
「そうだ」
返ってきた短い答えに、彼女は急に胸が苦しくなった。
「導師様・・・・・・・・」
見えなくても、ソフィアは自分の頬が赤くなっていくのを感じている。
自分を助けてくれた命の恩人に会えた喜びと、そして再び救ってくれた感謝の気持ち。
そして、若い女性が思う甘酸っぱい気持ちがごっちゃになって、彼女の心は溢れ返っていた。
が、しかし───────
「導師様。あなたは城の導師と・・・・・・・」
(ああぁぁ・・・・・・私のバカ。
確かにその事は、聞かなきゃいけないことかも知れないけれど、お礼も言わないままこんなぶしつけな事聞くなんて)
心の中で自分を責めるソフィアだったが、少し本物の導師についても興味があったのは間違いない。
存在感と威厳、その二つが城で会った導師にはないのだ。
確かに、強力な魔力はこそはあったが、しかしそれ以外の物が欠如している風に感じられたのだ。
あの時、まるでどこか別の所から、圧力を掛けられている様な感じを受けた。
魔力が存在感を完全に消し去り、そこに魔力だけがある様な感じだったのだ。
それに比べて、今目の前にいる導師からは強力な魔力とそして、それに負けないだけの存在感を感じる。
それも、城の時の様に押しつける類ではなく、そよ風が包み込んでくれているような優しい感じがする。
ソフィアは確信を持って、城の導師と、この導師が別人である事を悟ったが、これを公表する事など出来ない事もまた悟っていた。
彼女は、導師を探りに来た間者ではない。
導師に尽くすのが目的でココまで来たのだ。その導師が隠している事を、どうして公表できよう。
しかし、彼女の心は激しい動揺に包まれてしまっていた。
あまりにも胸の中から言葉と感情があふれ出てしまい、収集がつかなかったのだ。
それで、つい別の話題を探そうとした結果、彼女の心は小さな逃げ道を見つけだしてしまったのである。
言ってから思いっきり後悔していた彼女に、導師は重々しく答える。
「その先は言わなくていい。
私の正体を知る者は、死なねばならない。
もし礼をしたいと思うのなら、願いを聞いてくれ。
このまま何も言わずにいて欲しい」
導師の言葉に重みはあったが、決して責めるような響きは無かった。
それが、返って彼女を自己嫌悪させてしまう。
(あいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
どーして私はこーーーなのよ!!
導師様がすぐそばに居られるのに、どーしてこんな事しか言えないの?!)
頭の中で、彼女はのたうち回って後悔していた。
ボゥ!
そんな事を考えていると、導師は濡れた彼女の為に炎の呪文を唱え、たき火を作り出した。
少し離れた場所から、暖かな火の気配がする。
「濡れた体ではカゼをひくぞ。
それと、子供を助けてくれてありがとう。感謝する。
ああ、それとコレはサービスだ」
言うなり、導師はソフィアの頭に軽く手を置いた。
「・・・あ!」
あこがれの人の手とおでこが重なり、トクンっと心臓の鼓動が大きく鳴る。
と、その鼓動にさらに呪文の声が重なった。
すると、ソフィアの頭の中にあった痛みやだるさが、すぅっと消え去るようにして無くなっていく。
「───では」
そうひとこと言うと────────導師の気配はいきなり消えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
あまりにも突然だったので、一瞬呆けるソフィア。
目を開けるが、辺りには人の姿はない。
いなくなったと気づいた彼女は、唖然と口を大きく開いて天を仰いだ。
(あぁぁぁぁぁぁぁ──────────
私のバカ。アホ。まぬけぇぇぇ!!
せっかく助けてくれたのに。話したい事いっぱいあったのに。せっかく本人に会えたのに。
水の中から助けてくれた上、濡れた私を気遣ってくれて治療までしてくれたのに─────
ばかぁぁぁぁーーーーーーー!!)
そんな事を頭の中で絶叫して呆けていると、かなり遅れてから足を引きずったフィリオが見えてきた。
「大丈夫ですか?」
問われても、しかしソフィアは、まだ彼の問いに答えられるほど回復はしていなかった。
体力もそうだが、精神的にまだ頭の中で後悔の念と絶叫で埋め尽くされていたからだ。
もちろん、目はもう見えているが、どことなくぼやけている感じがまだ残っている。
しかし、フィリオの声を聞いた彼女は、無意識のうちに、表現力豊かな若い女性の表情を冷静な戦士のそれへと変えた。
「すぐに救援が来ますから」
そう言ったフィリオに、ブーーンと羽音を立てて一匹の虫が飛んできた。
フィリオの手の上に乗った虫は、みるみるその姿を一枚の紙切れへと変えていく。
「式神?」
弱々しいソフィアの声に、フィリオは、ええ、と相づちを打つ。
(なんだ。森の中で感じた視線はこれだったの・・・・・・・・・・・・。
これで救援を呼んでいるのね)
「式神が使えるなんて、結構いい魔法使いじゃない」
独り言のように呟いたその言葉に、ソフィアは心の中でこう付け足した。
(────ドジだけど)
いやぁ、とだらしない顔つきになったフィリオは、どこかで木の枝にでも引っかけたのかローブが所々切れていた。
そのローブもずぶぬれで、さらに髪の毛からも水が滴っている。
(あれから、またどこかでドジ踏んだのね)
しかし、ソフィアはそれ以上の事に気づかなかった。
腰まで水に浸かったフィリオだったが、なぜに頭まで水をかぶっていたのか。
なぜ、見ていたような絶妙のタイミングで、導師が助けにこれたのか?
「なに?」
薄暗い塔の地下室で、彼は驚きの声を上げた。
「ですから、ソフィアさんは、しばらくここにいるそうですよ。
魔導師協会の方に、適当な部署に置いて欲しいと要望があったそうですから。
それと・・・・・。
これはよけいな事なんですが、とっさだったとは言え、子供を見つけたとたん、いきなり転んで動けなくなるなんて、あまりにも安易過ぎませんか?
あなたの正体がばれたらどうするんです」
しかし、彼はそれを聞いていなかった。
ソフィアが、どこか適当な部署に配属される─────
その部署は、さして重要でもなく、かつ、ある程度のポストでなくてはならないだろう。
そして、彼はその部署に心当たりがあった。
───────総務課──────────
・・・・・・・・・彼の脳裏には、引きつった顔のエリカが、ありありと浮かんでいた。