竹鶴政孝特別展 記録

竹原郷土文化研究会

開催日  平成24年3月1日(木曜)~3月14日(水曜)

会 場  たけはら美術館文化創造ホール

主 催   竹原郷土文化研究会     共催  社団法人竹原市観光協会

後 援   竹原市 竹原市教育委員会 竹原商工会議所 竹原市文化団体連盟

     忠海高等学校同窓会 竹原小学校同窓会 竹原観光ガイド会

協 力  アサヒビール(株) ニッカウヰスキー(株) 北海道余市町

    市立竹原書院図書館 中国新聞竹原販売所


      竹鶴政孝特別展・記録 発刊に寄せて

竹鶴政孝特別展(平成24年3月1日から14日)は好評を得て終了できました。

諸資料を記録して永く伝えたく作成致しました。






竹鶴政孝特別展開催に当たり

竹原出身で日本のウヰスキーの父と称せられ、日本に本物のスコッチウヰスキー産業を創られた竹鶴政孝氏の努力と、その才能に敬服します。日本は最近逼塞(ひっそく)ぎみとなりました。竹鶴さんは外国の人と親しく交流され、また、ウヰスキー事業を剛直に展開、他方幅広い文化人として生きられました。
 私どもはこれに習い、新しい活気ある時代を作りあげたく、竹鶴政孝氏顕彰特別展を開催しました。
  この特別展に、ご支援、ご協力いただきましたアサヒビール株式会社,ニッカウヰスキー株式会社,北海道立北方資料室図書館、余市町、仁木町、竹原市、竹原市教育委員会、各種団体には厚く御礼申上げます。

竹原郷土文化研究会

      竹鶴政孝特別展の経緯

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「ひろしま日本史を学ぶ会」が竹鶴政孝氏について勉強に来られ、竹鶴酒造竹鶴壽夫さんが説明され学ばれた。そこで竹原郷土文化研究会、会員及び竹原市民にも研修・顕彰を必要と感じた。

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竹鶴壽夫さんに竹鶴政孝氏について講演会依頼、520日に決定。当講演会の為アサヒビール株式会社本社担当者に竹鶴政孝氏についての資料を(竹原書院図書館を通じて)依頼した。

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アサヒビール株式会社マーケティング本部担当上川裕二部長より北海道立北方資料室図書館で開催された資料を提供するから竹鶴政孝氏生誕の地で特別展開催について協議したいとの連絡を受けた。

7月27

アサヒビール株式会社マーケティング本部担当上川氏他2名来訪、当会と協議、たけはら美術館文化創造ホールにて平成2431日~314日まで2週間開催する事に決定。小坂市長表敬訪問。

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「竹鶴政孝特別展」竹原市後援決定。

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「竹鶴政孝特別展」チラシ・ポスター印刷。

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中国新聞にアサヒビール株式会社中国統括本部尚山勝男本部長の竹鶴政孝特別展の記事掲載。

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アサヒビール株式会社担当者と当理事会の第1回会議。

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〃 〃第2回打ち合わせ当会から展示物について追加要請

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〃 〃第3回打ち合わせ展示物についてアサヒビール株式会社担当者から紹介説明。

2月22

〃 〃第4回打ち合わせ展示の具体案を決定。

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たけはら美術館文化創造ホールに展示を行う。

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「竹鶴政孝特別展」開会式930分(出席者83名)
平成2431日~314日まで「竹鶴政孝特別展」開催。

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「竹鶴政孝特別展」閉会式(出席者76名) ホテル賀茂川荘で行う。

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「竹鶴政孝特別展」展示物撤収・会場整理。

     竹鶴政孝年譜

明治27年6月  広島県竹原市竹原町に生まれる
明治413  竹原小学校卒業
大正 23  忠海中学校卒業
5年3月  大阪高等工業学校醸造科を卒業し、摂津酒造に入社
7年7月  社命により英国へ留学。グラスゴー大学にて応用化学を学習
9年1月  リタ夫人と結婚 政孝26歳 リタ24歳
11  グラスゴー大学での専修を終えて帰朝。その後、摂津酒造にお ける洋酒製 造計画立消えのため、同社を退社
12年6月  寿屋に10ヵ年契約にて入社
14年6月  ウイスキーおよび葡萄酒研究のため英、仏国を視察(同年12月帰朝)
昭和6年8月  ウイスキーおよび林檎酒研究のため英、仏国に渡る(翌年2月帰朝)
9年3月  寿屋を退社
7月  大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役に就任
1811  同社取締役社長に就任
27年8月  同社の社名をニッカウヰスキー株式会社に変更、引き続き取締役社長に就任
31年5月  黄綬褒章を授与される
35年2月  紺綬褒章を授与される
36年1月  リタ逝去享年64歳
37年8月  欧米視察に赴く
38年9月  ギルビー社との提携および業界視察のため渡英
40年2月  北海道余市郡余市町の名誉町民となる
44年4月  勲三等に叙せられ瑞宝章を賜わる
45年5月  ニッカウヰスキー株式会社取締役会長に就任
9月  北海道開発功労賞を贈られる
47年2月  竹鶴シャンツェを笠谷シャンツェへ改称し、余市町に寄贈する
54年8月  政孝氏逝去、享年85歳。従四位に叙せられ銀杯を賜わる

「ヒゲのウヰスキー誕生す」書籍参照

         展示資料(アサヒビール株式会社提供)

1

竹鶴政孝等身大パネル

段ボール(箱100cm×150cm程度)

2

壁掲示用説明パネル(政孝1) サイズB1アルミフレム

壁掲示用説明パネル(政孝2)

壁掲示用説明パネル(政孝3)

壁掲示用説明パネル(政孝4)

壁掲示用説明パネル(政孝5)

壁掲示用説明パネル(リタ1)

壁掲示用説明パネル(リタ2)

壁掲示用説明パネル(リタ3)

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3

側板

木材(箱20cm×100cm程度)

樽の側面の板。この板を何枚も合わせてたるを作る。

4

樽鏡

木材(箱100cm×100cm程度)

樽の鏡板

5

山崎工場建設設計図

B2

山崎工場建設設計図

6

2010WWA表彰状(レプリカ)
アクリル盾(A4サイズ程度)

10年世界最高ブレンデッドモルトウイスキー受賞











2010WWA表彰盾(レプリカ)

ガラス盾(箱:30cm×50cm×20cm)

8

竹鶴21年 700ml

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2011WWA表彰状(レプリカ)
アクリル盾(A4サイズ程度)

11年世界最高ブレンデッドモルトウイスキー受賞

10

2011WWA表彰盾(レプリカ)

ガラス盾(箱:30cm×50cm×20cm)

11

2008WWA表彰状(レプリカ)
アクリル盾(A4サイズ程度)

08年世界最高シングルモルトウイスキー受賞

12

2008WWA表彰盾(レプリカ)

ガラス盾(箱:30cm×50cm×20cm)

13

余市1987 700ml

14

第一号ウイスキー  700ml?

15

未貯蔵原酒、五年貯蔵原酒、十年貯蔵原酒

びん(各180ml程度)

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実習報告1 

ノート

スコットランド研修報告のまとめ1

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実習報告2

ノート

スコットランド研修報告のまとめ2

18

New Times

ノート

スコットランド滞在時の日記

19

ENGINEERING DRAQWING 

ノート

スコットランドウイスキー製造実習時の記録

20

竹鶴政孝パスポート(大正7年)

21

竹鶴リタパスポート(大正14年)

22

CERTIFICATE OF REGISTRATION

キャンベルタウン住民証

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Wine Oct1917

ノート

北海道調査時のメモ

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Yamasaki Pot Still Scotch Whisky

ノート

北海道調査時のメモ

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Pot Still

ノート

山崎周辺の手書き地図

26

Brandy whisky liqueur

ノート

研修報告用のメモ書き

27

雑記

ノート

山崎工場建設時のメモ

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覚書

ノート

ポートワイン講演に関するメモ

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リタさん蔵書 2冊

政孝がリタにプレゼントした本。政孝は毎年の誕生日に英語の本をプレゼントしていた。自筆の愛の言葉を添えて・・・。

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リタの鐘が鳴る

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望郷

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ウイスキーと私

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ピート

燃料

麦芽を乾燥させるのに石炭と一緒にピート(草炭)を炊くと、ウイスキー独特のスモーキーな香りがつく。

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麦芽

原料

ウイスキーの原料。麦芽を温水でかき混ぜて、甘い麦汁を取り出す。

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製造工程パネル

A4アルミフレーム

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樽の種類

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樽の種類と名称

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樽はなぜ焼くのか

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貯蔵庫風景

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貯蔵庫風景

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パネル1家族集合写真

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パネル2家族こたつ

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パネル3柔道部

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パネル4竹鶴酒造

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パネル5ロングモーン蒸溜所

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パネル6ロングモーン蒸溜所

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パネル7ロングモーン職工たちと

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パネル8ボーネス蒸溜所

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パネル9ヘーゼルバーン蒸溜所

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パネル10グラスゴー大学

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パネル11入学証明書

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パネル12ビッグベン背景

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パネル12ビッグベン背景

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パネル14余市S9年タンク

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パネル15余市リンゴ

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パネル16余市馬車

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パネル17ピアノを弾くリタ

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パネル18指貫きと6ペンス

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パネル19余市絵葉書

A4アルミフレーム

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パネル20瓶詰め風景A4アルミフレーム

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パネル21第二次世界大戦中

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パネル22ロングモーン蒸溜所

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パネル23ロッホローモンド

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パネル24ベルサイユ

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パネル25リタ日本髪

A4アルミフレーム

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パネル26リタと政孝(着物)

A4アルミフレーム

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パネル27リタと政孝(洋服)

A4アルミフレーム



壁掲示用説明パネル
1

政孝の肖像
酒の世界・めざめの時

 竹鶴政孝は、生まれながらにして酒の世界に身を包まれていました。 1894 (明治27)年、広島県の造り酒屋の三男に生まれ、「酒は、つくる人の心が移るもんじゃ。酒は、一度死んだ米を、また生き返らせてつくるのだ」と口癖のように言う父の傍らで、醸し出される酒の泡を見ては、秘境の中で魔法を見ているような気持ちになり、酒造りの厳しさは、いつしか父を通して、政孝の血や肉となっていったのです。
 政孝は暴れん坊で生傷が絶えず、8歳の時、階段から落ちて鼻を強打し、7針も縫う大怪我をしたのですが、人が感じない「匂い」を感じるようになり、これが後に酒類の芳香を人一倍きき分けられる、ブレンダーとしての研ぎ澄まされた感覚となるのです。
 
忠海中学(忠海高校)に進学した頃は猛者で、柔道部に席を置き、「こわい感じの寮長(後輩の元首相・池田勇人氏談)」も勤めました。二人の兄は家業を嫌い、政孝が家を継ぐこととなり、大阪高等工業(大阪大学)に進み、醸造学の権威・坪井仙太郎博士のもとで学びましたが、しだいに洋酒に興味を持つようになりました。そして酒屋の子弟の同窓生と同じように、卒業して一年志願で兵隊に行き、除隊後に家業を継ぎ、長い人生を田舎の町で酒造りに終わってしまうのかという、自分の人生に対する感傷が胸をかすめ、政孝は、卒業後の四月から徴兵検査を受ける12月までの間、幸い家業の酒造りは暇なので、この期間に、洋酒造りの仕事を実際にしてみようと思うようになったのです。


The World of Sake, Time of Awakening
Masataka Taketsuru was born in 1894, the third son of sake brewer in Hiroshima
Prefecture. His first memories were of world of sake. He became familiar with the
strenuous work involved in making sake through his father. who devoted his
spiritual and physical energy to the brewing of sake.
At the age of eight, Masataka fell down a flight of stairs, badly injuring his nose. The
wound required seven stitches, but he was left with an especially keen sense of
smell, which would later serve him well as blender.
He graduated from Tadanoumi Junior High School (present-day Tadanoumi High
School), where he served as "dormitory leader with a splendid physique built by
judo" (remembers former Prime Minister Hayato Ikeda. who was Masataka's junior
at school)and attended the zymurgy course at the Osaka Technical School
(present-day Osaka University)in preparation to sake over his father's brewery. He
studied under Dr. Sentaro Tsuboi, an authority on zymurgy. where he developed
an interest in western styl liquor. He wished to learn the art of producing western
styl liquors after graduating and before being drafted.




壁掲示用説明パネル2

政孝の肖像
摂津酒造時代・胎動の時

 大正初期、洋酒メーカーの筆頭は大阪の摂津酒造でした。政孝は、摂津酒造の常務をしている先輩に会いに行くと、すぐに阿部喜兵衛社長の部屋に連れて行かれました。 12月に徴兵検査を受け、除隊後に家業を継ぐこと、その前に洋酒造りを経験したいと話すと、入社を許されました。
 当時の洋酒は、ブドウ酒以外はイミテーションでしたが、政孝は蒸溜のベテランにうるさがられるほどに、なんでも吸収し無我夢中で研究したため、入社まもなくして洋酒関係の主任に抜擢されました。この時に、寿屋(サントリーの前身)のワイン製造を担当したことから社長の鳥居信治郎や、日本製壇の山本為三郎(後の朝日麦酒社長)を知るようになりました。
 政孝は、摂津酒造での洋酒造りは12月の徴兵検査までという考えでしたが、徴兵検査の時、政孝は兵役につくことを免除されました。ある日、政孝は社長に呼ばれ、「スコットランドに行って、モルトウイスキーの勉強をしてくる気はないか…留学して技術を習得してきてほしい」と告げられました。ウイスキーの勉強が本場で、できるという喜びと、社長の自分への期待と信頼に、政孝は感動しました。しかし両親は悲しみ、「政孝が帰ってくるのを楽しみに今まで酒を造ってきたのに」と落胆しました。阿部社長は熱心に説得し、両親も社長の熱意に納得し、やむなく家業を親類の酒屋に譲ることにしたのです。


Working at Settsu Shuzo
Indications of the Future
(Brewery),
Early in the Taisho era, Taketsuru joined Settsu Shuzo, the leading Western liquor
maker in Osaka, after meeting Settsu's president, Kihei Abe, on the introduction of
an alumnus of his school. He told Abe his dream, after completing military service
of acquiring experience in Western distillery before taking over his father's business.
At that time in Japan, Western liquors other than wine simply imitations. Tket suru
was so absorbed in making distilled liquor that veterans at the sake brewery
came to resent him. It was not long before he was given responsibility for Western
liquor and, during this time with Kotobukiya brewery (present-day Suntory), he
became acquainted with Shinjiro Torii, the president of Kotobukiya.
One day, Abe approached Taketsuru. "Why don't you go to Scotland to study malt
whisky he suggested. "Western liquors in Japan cannot remain imitations. I would
like you to study and learn techniques." Taketsuru was elated by the chance to whisky
at its birthplace and the president's placing his hope and trust in him. His parents
first opposed the idea, as they had expected him to take over their brewery, but they
were persuaded by the president's enthusiasm and decided to turn the brewery over
to relatives, instead.




壁掲示用説明パネル3

政孝の肖像
スコットランド留学・出会いの時

 政孝は1918 (大正7)年7月、神戸港からサンランシスコに向かい、二ヵ月ほどサクラメントでブドウ酒製造の研修を受けました。ニューヨークから乗った船の乗客は、第一次世界大戦の最中であったため、ヨーロッパの戦場に向かう兵隊が大半で、ドイツ潜水艦の攻撃に備えた避難訓練を受けながら大西洋を航行し、明日はリバプールに着くという日の深夜、政孝の乗った船はイギリスの貨物船と衝突し、貨物船の生存者は、たった一人という悲惨な事故にも出会いました。
 イギリスに着いた政孝は、グラスゴー王立工科大学で学びながら、教授に紹介されたウイスキー蒸溜所に通い、蒸溜技術を精力的に吸収し、後に日本でウイスキーを造る時のバイブルとなる、実習ノートを克明につけるという毎日で、本格的なウイスキーを造るという夢を抱いていても、異国での暮らしは弧独でした。
 ある日政孝は、大学で知り合ったエラという女性の弟に柔道を教えるため、彼女の家を訪れ、大きな瞳の女性に出会いました。その女性がエラの姉リタで、いく度か会ううちに政孝は強く惹かれ、ますます夢を膨らませ、ウイスキーの研究に没頭しました。リタが末の妹のルーシーと、政孝が蒸溜の実習をしているハイランドを旅行した時、旅行に合流した政孝はリタに結婚を申し込み、リタはこれを受けましたが、家族は反対しました。 1920 年、政孝とリタは登記所に結婚を届け出て、この年の秋、アメリカ経由で帰国しました。


Studying in Scotland, Meeting
In 1918, Taketsuru left for Britain via America. He left the .s on a military ship,
where he took part in evacuation drills in the expectation that German submarines
would attack the ship. The night before he arrived at Liverpool, the ship collided
with cargo ship, bringing his taxing voyage to an end. He studied applied chemistry
at the Glasgow Royal Institute of Technology and learned whisky-making techniques
at distillery, detailed notes for his report to Abe.
The next year, he visited the home of woman he met at the university to teach her
brother judo. While he was there, he met a woman named Rita Cowan with large,
expressive eyes. They continued to meet, and soon fell in love. Before finishing his
studies,Taketsuru received on-the-job training in whisky blending and distilling, and
completed his notebooks for Abe. In 1920, he and Rita were married, in spite of
objections by Rita's family, and that autumn, they returned to Japan via the U.S. Th
road ahead of Taketsuru seemed bright




壁掲示用説明パネル4

リタの肖像
黒い瞳との出会い・船出

 少女の頃から、文学を愛する物静かな女性だったリタは、1919年、23歳の初夏、竹鶴政孝と名乗る東洋の青年に出会いました。弟に柔道を教えるために訪れた彼は寂しげでしたが、日本で本物のウイスキーを造るという夢を熱っぽく語る姿にリタは好感を持ち、政孝が定期的に訪れ、楽器を奏でたり家の外でも会うようになると、いつしか思いは募るようになったのです。
 その年のクリスマス、家族は政孝を招き、プディング占いに興じました。プディング・ケーキを切って食べる時、6ペンス銀貨が入っているとお金持ちになり、銀の指ぬきが入っていると女の子は良いお嫁さんになることができ、もし男性が6ペンス銀貨を当て、女性が指ぬきを当てると、二人は将来結ばれるという占いでした。政孝が6ペンス銀貨を、リタが銀の指ぬきを当てると、家族は歓声を上げてはやし立てました。
 しかし翌年、政孝がリタに結婚を申し込んだ時、家族は反対しました。リタは政孝と共に歩む決意をし、戸主の許可を必要とする教会での結婚(レギュラー・マリッジ)をあきらめ、登記所での署名結婚(イレギュラー・マリッジ)という方法を選びました。そして1920年、リタは政孝と共にリバプールから日本へ向けて船出したのです。リタ24歳、政孝26歳でした。


An Encounter with Ebony Eyes,
Setting Sail
Rita was a fragile, quiet girl with a great interest in
poetry who had a sensitive yet passionate heart. The
deep-rooted strength of her character had been
nurtured by Scotland’s rugged climate. In the earlysummer
of her 23rd year, Rita met the young Oriental
manMasataka Taketsuru, whose dream was to
produce whisky. Rita came to know the high-minded
aspiration and single-minded passion that lay behind
his lonely ebony eyes and as they played musical
instruments together and began to meet outside of the
house, she became strongly attracted to him. At the
end of that year, Masataka was invited to spend
Christmas dinner with the Cowans,   where the
highlight of the evening was the pudding fortune-
telling. Masataka got the six pence, which foretold a
prosperous future and Rita got the silver thimble
which foretold that she was soon to become bride.
The following year, they were engaged, but due to the
strong objections of her family, they gave up a church
wedding and instead opted for simple ceremony of
signing their names at the registry office. Though this
foretold of the hardships that lay ahead, Rita was
determined to devote herself to Masataka’s dream, and
the pair left Liverpool by ship for Japan.




壁掲示用説明パネル5

リタの肖像
東洋の国・二人の夢

 1920年の晩秋、リタは人々の好奇の目にさらされながら日本の土を踏みました。政孝以外に頼る人のいない、スコットランドとは全く別の世界での生活…。しかしリタは大阪の教会に通うなどして、日本の社会になじもうと積極的に周囲の人たちと打ち解け、政孝の気づかぬ間に知人の輪を広げていきました。
 帰国の翌年、政孝が悩んだ末に摂津酒造を辞め、ウイスキー造りの当てもない日々を過ごしていた時、リタは政孝の夢を信じ、教会で知り合った友人を通して、学校で英語の教師を勤めたり、ピアノの家庭教師をしたりして政孝を励まし続けました。
 政孝が寿屋に入った時、一人で過ごす時間が長くとも、二人の夢が叶うことの喜びの方が大きく、リタは嬉しかったのです。しかしリタの思った通りに、政孝は自分の信念に忠実に生きる男でした。自分の理想を実現するため、政孝は寿屋を辞職しました。この時、リタが大坂や京都で親しくしていた芝川又四郎氏や加賀正太郎氏に相談することを勧めると、政孝はもう一人の知人柳沢保恵氏と四人で会社を起こし、1934年、スコットランドに良く似た、ウイスキー造りの最適地だという、余市に発ったのです。そしてリタも翌年の秋、二人の夢の大地、余市へと向かったのです。

The Eastern Country,
the Dream the Couple Shared
In 1920, Rita arrived in Japan, which was the farthest of the Far East
countries. Knowing no one besides Masataka, she began life in Japan
with some anxiety and it was not long before Masataka left the
company, which had abandoned its plans to produce whisky. Rita
supported Masataka by teaching the piano and English through
acquaintances which she had made at church. Endeavoring to
assimilate into Japanese society, and even applying for citizenship,
Rita's circle of friends gradually grew. At the company, which
Masataka joined at the President request, it seemed for a time that
Masataka's dream would come true and Rita even made visit home
when Masataka revisited Scotland to brush up his studies. After
returning from the trip,however, Masataka resigned the company and
moved to Hokkaido, which was even farther from Scotland, to follow
his own belief. He told Rita that Yoichi was the only real place suitable
for making whisky because of its close climatic environment to
Scotland. Rita, believing that his decision would realize their dreams,
once again set sail for Yoichi.





壁掲示用説明パネル6

政孝の肖像
寿屋時代・雌伏の時

 政孝が帰国した時の日本は、第一次世界大戦後の深刻な経済不況に見舞われており、摂津酒造も大きな影響を受け、本格ウイスキーを製造する経済的な余裕もなく、計画そのものが中止となったため、政孝は会社に席を置く意味を失い、帰国の翌年、退社しました。ウイスキー造りの当てもないまま、政孝はリタの知り合いの計らいで中学校で応用化学を教え、リタも学校で英語を教えるかたわら、芝川又四郎家や加賀正太郎家などでピアノや英語の家庭教師を引き受けていました。政孝のウイスキー造りを離れた寂しさを、リタの明るさが忘れさせてくれた日々でした。
 1923年の梅の咲く頃、寿屋の鳥居信治郎社長が訪ねてきました。鳥居社長は摂津酒造時代の知り合いで、国産ウイスキーを造るため、スコットランドに技術者の派遣を依頼していましたが、「タケツルという適任者が日本にいる」という報告を受けたため、政孝に入社を要請しに訪れたのです。政孝は「技術面は全部任せる、10年間働く」という条件で入社し、蒸溜工場用地の選定にあたり、スコットランドの気候風土に良く似た北海道を推したのですが、経済的効果から、京阪地区から選定して欲しいという鳥居社長の意見を入れ、日本初のウイスキー蒸溜工場を京都の山崎に建設することに決定したのです。やがて政孝は自分の信念に忠実でありたいと、1934年、寿屋を退社したのです。


Working at Kotobukiya, the Time of Awaiting a Chance
Returning to Japan, Taketsuru encountered the severe depression which followed
World War I. Settsu Shuzo, facing financial difficulties, gave up its plants to make
authentic whisky. The Taketsuru's importance to the company was diminished and he
left the following year. Through an acquaintance of Rita's, Taketsuru found work
teaching applied chemistry at a junior high school. Rita also helped by teaching piano
to Matashiro Shibakawa's family and working as English teacher. In 1923, Shinjiro
Torii, the President of Kotobukiya, visited Taketsuru to ask if he was interested
in joining his company. Torii had decided that a technician be sent to Scotland to study
whisky-making but he found the well-qualified Taketsuru in Japan. Taketsuru
accepted the offer and set off around the country to select a factory site. Although he
recommended Yoichi, which has similar climate to Scotland's, Torii decided to con
struct a factory in Yamazaki, Kyoto, on account of economic concerns. Before long,
the rift between the technician and the manager grew into estrangement, and Taketsuru
left Kotobukiya to follow his own vision.




壁掲示用説明パネル7

政孝の肖像
余市一理想の郷・終生の大地

1934年、政孝は余市に来ました。「良いウイスキーは自然がつくる」という真実を、スコットランドで身を持って会得した政孝にとって、本物のウイスキーを造ることができる最良の土地とは、ハイランドの自然に酷似した余市以外になかったのです。
 政孝は、リタを通じて知り合った芝川又四郎氏や加賀正太郎氏、英国時代の既知の柳沢保恵氏と共同で出資し、『ニッカウヰスキー』の前身の『大日本果汁株式会社』を設立しましたが、最初から潤沢な資金があったわけではありません。ウイスキー製造には二基の蒸溜機が必要ですが、当初は一基のみを設置し、蒸溜が終わるたびに内部を洗浄し再び蒸溜するという、効率の悪さと重労働に耐えながら原酒を仕込み続けました。しかもウイスキーは貯蔵庫から出て、はじめて商品になるため、原酒が熟成の眠りについている間、資金もまた共に眠ることになります。政孝と社員はこの期間、余市特産のリンゴを生かし、ゼリーやジュース、ワインを製造・販売して苦境を切り抜けたのです。その努力が実った1940年、第一号ウイスキーが馬車で出荷される時には、政孝と社員はウイスキーの箱を積み上げたこの馬車を、一列になって見送ったのです。
 ウイスキーへの夢を抱き、「ウイスキーは自然の恵み」という信条のもと、政孝は「品質のニッカ」といわれるウイスキーを造り続け、スコットランドの魂であるウイスキーを日本に根付かせました。そして1979 (昭和54)年、リタの待つ丘で眠りについたのです。


Yoichi, Utopia, the Land for Rest of His Life
In 1934, Taketsuru came to Yoichi,the place he judged best for making whisky, to
run his own distillery. He established the Great Nippon Juice Co., Ltd., investing
jointly with Matashiro Shibakawa and Shotaro kaga, who had been introduced by
Rita and Yasue Yanagisawa, whom he had known since his time in Britain.
Although two pot stills are generally necessary for distilling whisky. a lack of funds
left Taketsuru only able to make raw whisky with only one still. While the whisky
matured and aged, he and employees survived by making and selling apple jelly,
juice and wine. In 1940, the company's first whisky left the distillery on horse
drawn cart.
Over time, taste for authentic whisky grew and Taketsuru went making his blend,
which was called high quality Nikka.Believing that whisky was a gift from nature,
Taketsuru established home in Japan for the soul of Scotland. In 1979, he was laid
to rest on a hill beside Rita.




壁掲示用説明パネル8

リタの肖像
余市・故郷の風景

 余市は、政孝のいう通り、故郷のスコットランドに似ていました。リタは余市に来て初めて、自分たちの夢が確実になるという実感をつかんだのです。そして、自分の役割は政孝との生活にあると考え、政孝の食生活と健康に気を配りました。やがて『ニッカウヰスキー』の第一号ウイスキーが完成し、二人の夢は形になったのです。しかし、日本は太平洋戦争へと突き進み、リタは敵国人として常に監視され、自由に振る舞うことなど許されず、侮辱と白眼視に耐えなければならない日が続きました。リタの苦痛は政孝の愛なしには癒されず、政孝もリタを愛する以外、リタの心の均衡を守る方法はなかったのです。
 戦争が終り、威という養子を迎え、その威に歌子という伴侶が得られ、孫が生まれ、そして妹のルーシーが訪ねて来るなど、リタはやっと平安な時代を迎えることが出来ました。しかし結婚以来、音信が途絶えていた妹のエラから、手紙とリタのイニシャルが刺繍された白いハンカチが届いた時、リタは、過ぎ去った40年という時間の長さと故郷を思い、手紙とハンカチを握りしめ、自室にこもっていました。
 1961 (昭和36)年、リタは政孝に手を握られ、永遠の眠りにつきました。


Yoichi, the Landscape of Her Hometown
After coming to Yoichi, Rita was able to feel more keenly that the dreams
of the people who had believed in Masataka would come true. She treated
the employees with respect, would sometimes serve her highly acclaimed
dishes to them, and on New Years Day wore kimono and did her hair
up in the traditional Japanese style. She was liked by everyone and in time
when the first whisky was completed, Masataka and Rita’s dreams came
true. Yet, Rita also had to live through the hard time of World War,
when she was kept under surveillance as any enemy alien and she was
unable to move about freely. When her younger sister Lucy visited her,
Rita told her that she had no regrets over marrying Masataka. Yet when
she received letter and handkerchief embroidered with her initials from
her other younger sister, Ella, Rita shut herself up in her room to silently
long for her home country. Forty years had passed since she first came to
the Far East. However, their dreams had been realized in Yoichi which
strongly resembled her home land, Scotland. In 1961, with Masataka
holding her hand, Rita fell into an eternal sleep,


  竹鶴政孝特別展・展示会場


アサヒビール() 展示会場

右 竹原郷土文化研究会展示物



 アサヒビール(株)パネル展示

たけはら美術館文化創造ホール 展示会場

配置図 立案 生信守之

展示会場の様子




竹原市へ書籍贈呈



テープカット


報道カメラマン他


竹鶴政孝氏・リタ夫人等身大パネル


掲示パネル パスポート他展示



パスポート他展示

展示風景

日記 研修ノート 本

山崎工場建設設計図

ピート 麦芽 側板 樽鏡

展示パネル

竹原郷土文化研究会展示

展示パネル

忠海高等学校同窓会提供

竹鶴康子さんとリタ夫人の文通

手紙 竹鶴政孝氏~橋本さんへ

手紙 竹鶴政孝氏~橋本さんへ

奥山儀八郎氏の木版画

講演会「竹鶴政孝物語」蓑輪陽一郎


講演会 「立志の経営」

講演会「立志経営」中條高徳 

講演会「竹鶴政孝を語る」竹鶴壽夫氏

北前船 宗政信之 提供

写真2枚北海道余市郡仁木小学校提供

市立竹原書院図書館所蔵資料

北海道立図書館所蔵資料 提供

竹原郷土文化研究会 会員受付

広報活動 放送車 宗政氏提供

展示物提供(竹鶴壽夫様)



奥山儀八郎氏の木版画


竹鶴政孝氏が竹原の竹鶴家に奥山儀八郎の木版画を贈った時の手紙



威  政孝

竹原 磯宮八幡神社境内

写真の裏側

昭和18年政孝氏・威氏が帰郷した際故郷の八幡神社にて



竹鶴康子さん(昭和12年生れ)は竹鶴壽夫氏の実姉で

高校時代リタ夫人と文通していた


手紙 1









翻訳手紙1

北海道余市山田村329
195537

親愛なる康子さん

 お手紙とすてきな可愛い仔犬をありがとう。良い犬に育てられたことと思っています。孝太郎は私の部屋に来ると、「Kawai(可愛い),Kawai」と言います。犬は私の大好きな動物です。今は犬が三匹います。二匹の小さな犬は、私の部屋にいます。一匹の大きな犬は、裏口にいます。大きな犬はアイヌの犬で、稀にしかいない種類なので、とても貴重です。名前をアイキと言います。私の部屋に居る犬はとても小さく、一匹は「tiny(チビ)」、もう一匹は「twinkle(ピカ)」と呼んでいます。私の部屋には、他に一羽のカナリヤと一匹の亀がいます。体長わずか1インチの小さな亀です。冬は眠っていて、春に目を覚まします。
 孝太郎も動物が好きで、朝家に来ると「コレ、ピコ」「コレ、チビ」「コレ、ピカ」「コレ、亀」と言います。カナリヤは、ピコと呼びます。孝太郎は日本語を話し、この家では誰も英語を話しません。政孝叔父さんが帰って来ると、彼は英語が上手なので、私は彼と時折英語を話します。政孝叔父さんは119日以来来ていないので、我々は長い間会っていません。 孝太郎は毎日雪の中で遊び、時にはそりにすわり、犬が彼と一緒に雪の上を走ります。
 昨日は威の誕生日で、彼は誕生ケーキをもらいました。ケーキの周りには31の蝋燭で、孝太郎は一度にそんなにたくさんの蝋燭が灯ったので、とても喜びました。テーブルの真ん中でとてもきれいでした。ここで書くのを終わりにします。暖かくなるので、お身体によろしいでしょう。お母様によろしくお伝えください。あなたの写真をいただき、良かったです。机の上に立てています。ワンチャンをありがとう。どうかお元気で。

敬具、ジェシー・ロベールタ竹鶴より


リタ夫人から手紙3通


手紙 2

翻訳手紙2

北海道余市山田村329
1955326

親愛なる康子さん

 313日付の手紙ありがとう。 試験でお忙しいと思います。ちょっとしたことですが、二、三日前、私はあなたに二匹の小さな熊を送りました。北海道の原住民のアイヌが彫ったものです。アイヌは木彫、とくに熊が上手です。
 こちらは雪が降っていますが、広島は暖かいでしょう。アイヌの生活の絵葉書を送ります。北海道では母親の熊が川に来て鮭を獲り、山に持って帰るそうです。赤ん坊熊は母親の後を歩き、一緒に鮭を食べます。風邪をひいて寝ているので、長い手紙は書けずすみません。外に出ることができないので、この前の日曜日に威が近くの町の小樽に行ったとき、私のためにこの熊を買って来ました。
 どうか、お大事に。ご家族によろしくお伝えください。

 敬具、あなたの竹鶴リタより  


手紙 3


翻訳手紙3

神奈川県逗子市逗子754
195589

親愛なる康子さん

 お手紙ありがとう。手紙が北海道に行っていたので着くのが遅くなりました。
 御祖母様がお亡くなりになったということで、謹んで哀悼の意を表します。あなたとあなたのお母様は、さぞ御淋しいことと思います。あなたのお母様に私の哀悼の意をお伝えください。どうかお母様をお慰めください。あなたはお若いので悲しみの中にも慰むすべがあるでしょうが、年取った方はそうするすべが少ないので、若い人より淋しさが大きいものです。
 今、私の体調が良くないので、数ヶ月間逗子に滞在します。肺結核という病気で時間が経てば良くなり、一年で良くなると思っています。
 広島はとても暑いと思います。どうか健康にお気を付けください。また便りします。
 あなたとあなたのお母様のお気持ちお察し申し上げます。

                 敬具、あなたの竹鶴リタより


     協賛行事

  講演会 「竹鶴政孝物語」
  講 師  蓑輪陽一郎
  33日(土)14001530
  34日(日)13001430
 アサヒビール株式会社
 ウイスキーアンバサーダー
 講演会 「立志の経営」
 講 師   中條高徳
 主 催   竹原ライオンズクラブ
 310日(土)1830
 アサヒビール株式会社 名誉顧問
  講演会 「竹鶴政孝を語る」
  講 師
    竹鶴壽夫
 3月11日(日)13:30~15:30
 竹鶴酒造株式会社 代表取締役

     資料提供 旧制忠海中学校 (広島県立忠海高等学校)同窓会 

竹鶴関連記事(昭和60年頃)       同窓会名簿 竹鶴政孝・池田勇人 

 

 

書名

著者名

出版社

1

新版北方のパイオニア

蛯名賢造

西田書店

2

語りつぐほっかいどう100年 第2集

読売新聞北海道支社/

太陽

3

リタとウイスキー

O.チェックランド

日本経済評論社

4

21世紀に語り継ぎたい北海道開発にかけた                                            人間ドラマとフロンティア精神 続

阪本一之

須田製版

5

人間登場 第1巻

合田一道

北海道出版企画センター

6

後志視察案内

北海道後志支庁/

北海道後志保勝会

7

財界さっぽろ 昭和40年12月号

 

さっぽろ百点

8

財界さっぽろ 昭和54年11月号

 

さっぽろ百点

9

醸界春秋 ’07年3月号                   

 

醸界通信

10

醸界春秋 ’07年4月号                   

 

醸界通信

11

われら北海道 149号

 

自由広報センター

12

道新TODAY 30巻1号

 

北海道新聞社

13

グリーン №235

 

ホクレン農業協同組合連合会

14

グランジェ 時を遊ぶ大人のマガジン 2巻2号

 

読売新聞北海道支社/

15

RAPORA ラポラ

 

北海道国際航空

16

北海道生活 Vol.7

 

アイリー

17

BYWAY後志 参

BYWAY後志/

BYWAY後志

計17冊

 

書名

著者名

出版社

1

読むウイスキー 琥珀色の真実

 

ニッカウヰスキー株式会社

2

やさしくわかる ワイン読本

 

ニッカウヰスキー株式会社

3

シードル講座 津軽から、生リンゴ100%のワイン

 

ニッカウヰスキー株式会社

4

熟成の森

 

ニッカウヰスキー株式会社

5

絶妙の調和、グランドエイジ。

 

ニッカウヰスキー株式会社

6

竹鶴リタ物語 日本のウイスキーと結婚したスコット・レディ

 

ニッカウヰスキー株式会社

7

竹鶴リタ物語 日本のウイスキーと結婚したスコット・レディ

 

ニッカウヰスキー株式会社

8

樽=熟成学事始 ブラウンスピリッツのおいしさ

 

ニッカウヰスキー株式会社

9

誰も書かなかった ウイスキー:知られざる歴史

 

ニッカウヰスキー株式会社

10

人の技 自然を生かした手づくりウイスキー

 

ニッカウヰスキー株式会社

11

ニッカ カクテル ハンドブック

 

ニッカウヰスキー株式会社

12

ブランデー ベーシックガイド

 

ニッカウヰスキー株式会社

13

ブレンダー

 

ニッカウヰスキー株式会社

14

ブレンド、「生命の水」の錬金術

 

ニッカウヰスキー株式会社

15

宮城峡幻想

 

ニッカウヰスキー株式会社

16

物たちの記憶、物たちの時間

ニッカウヰスキー竹鶴資料館

ニッカウヰスキー株式会社

17

柔らかいガラス よみがえったスーパーニッカ手吹きボトル

 

ニッカウヰスキー株式会社

18

選ばれた出会い ウイスキーとグラスの、もっと豊かな関係

 

ニッカウヰスキー株式会社

19

おいしい、ピュアモルトの話 ピートの島から第三のピュアモルト

 

ニッカウヰスキー株式会社

20

カミユ党のためのコニャック小辞典

 

ニッカウヰスキー株式会社

21

余市へ。

 

ニッカウヰスキー株式会社

22

一九二〇年。在カンベルトン 

 

ニッカウヰスキー株式会社

23

ウイスキー関係学原論 

 

ニッカウヰスキー株式会社

24

ウイスキー原料学 コーンとライ麦のおいしさ

 

ニッカウヰスキー株式会社

25

ウイスキーと私

竹鶴政孝

ニッカウヰスキー株式会社

26

世界のワインファンが学ぶ エコール・デュ・ヴァン入学記 

 

ニッカウヰスキー株式会社

27

凛として  産経新聞連載

 

産経新聞社

28

凛として  産経新聞連載

 

産経新聞社

29

私の履歴書 第34集

日本経済新聞社/

日本経済新聞社

30

実習報告 ポットスチルウヰスキー 20年5月

竹鶴政孝

 

31

実習報告(二) ポットスチルウヰスキー 1920年5月

竹鶴政孝

 

32

ヒゲと勲章 歴史をつくる人々17 竹鶴政孝

竹鶴政孝

ダイヤモンド社

33

ヒゲと勲章 歴史をつくる人々17 竹鶴政孝

竹鶴政孝

ダイヤモンド社

34

琥珀色の夢を見る 竹鶴政孝とニッカウヰスキー物語

松尾秀助

PHP研究所

35

琥珀色の夢を見る 竹鶴政孝とニッカウヰスキー物語

松尾秀助

PHP研究所

36

スコッチウイスキー紀行 モルトの故郷を歩く

旅名人編集室/

日経BPコンサルティング

37

ヒゲのウヰスキー誕生す

川又一英

新潮社

38

ヒゲのウヰスキー誕生す

川又一英

新潮社

39

ヒゲのウヰスキー誕生す

川又一英

新潮社

40

ヒゲのウヰスキー誕生す 日本で初めてウイスキーをつくった男

川又一英

アサヒビール株式会社

41

ヒゲのウヰスキー誕生す 日本で初めてウイスキーをつくった男

川又一英

アサヒビール株式会社

42

望郷

森瑤子

学習研究社

計42冊

〒725-0026         
広島県竹原市中央四丁目7番
11
市立竹原書院図書館
TEL)0846-22-0778
FAX)0846-22-1072


竹原郷土文化研究会 会員

竹鶴政孝特別展 竹原郷土文化研究会関係者

NO 

氏名

会場運営

1

福本 栄 会長

 

2

宗政信之 副会長

 

3

坂上紀之 事務局長

 

4

生信守之

レイアウト 資料収集、記録撮影

5

福原須美子

事務局、資料管理

6

吉岡恵子

文書解読

7

堀友幸子

資料管理

8

中松明子

会計

9

伊藤章代

文書解読

10

四海 潔

手紙翻訳

11

四海クニコ

手紙翻訳

12

神野史子

広報活動

13

三藤和子

装飾

14

赤木勝子

15

木戸祥子

16

坂上正子

17

坂本正之

18

坂元洋祐

   
19

外川八重子

20

瀬戸静枝

21

新岡 倞

22

若年典男

23

高橋 修

24

手島克子

25

寺内義巳

26

中松義弘

27

福本 健

28

堀井芳彦

29

森 弘憲

30

山田ルツ子

31

山名重徳

32

渡辺泰甫

33

渡辺富美


竹鶴政孝特別展のこと

 昭和50年代に竹原JCの提唱で始まった「竹原を考える会」という会があり、その一員として参加して以来、地元竹原のことへ目線がいくようになりました。
その会のおひとり、当時の芸南新聞主筆であった脇林睦氏から多大なご指導を受け、竹鶴酒造をはじめとする酒蔵のこと、町並み・公園などの町づくりなどなど、いろんな意見をお聞きし、また、思いを話しました。昭和57年12月竹原が「伝建地区」としての指定を受けることとなった功労者としての脇林氏を私は忘れることが出来ません。
 その頃、そうした気運の中(?)JCが竹鶴威前社長をお招きされ講演会を開かれたことも記憶にあり、その際に配布された「ヒゲのウヰスキー・・・」を読み、それからの国産ウヰスキーは「ニッカ」に限定しました。その後、酒好きのこともあって、2002年には余市工場を見学し工場限定の25年モノを買い求めて楽しんだ事も忘れられないひとつです。
 今回は展示と4日の講演会、そして閉会式へ参加させていただきました。「竹原郷土文化研究会」の皆様のご努力とアサヒビール(株)様のご支援により、多くの方々の記憶にかつての「竹原」の底力が強く残ったことと推察します。市民としてはこのような先人を忘れることなく後世へ伝えるとともに、自身の指針のひとつとして生きて行きたいものです。
 閉会式ではウヰスキーの呑み方のご教示を受け、私の酒との付き合い方のひとつとして大変有意義な会となり、席上では7種類全てを楽しむことが出来ました。会員の皆様には大変お世話になり、お礼申し上げます。
 ありがとうございました。
                                    平成24319
                                   竹原市竹原町3164番地2
                                       末森康明


竹鶴政孝特別展を終えて

竹鶴政孝特別展を開催しましたところ、来場の皆さま長時間、仔細に観ておられる姿が印象的で、予想をはるかに上回る延べ2,745名の御来場を頂きました。
 この催しで竹鶴政孝氏の人物像や事績を知っていただけ、特別展の意図を達したものと思います。
 今回の竹鶴政孝特別展に対しアサヒビール株式会社、ニッカウヰスキー株式会社より多大なご協力を頂き開催する事ができました。特に中国統括本部営業企画部山下伸夫課長のご尽力に深甚なる謝意を表します。
 当会会員により会場準備や管理を行い、延べ380人が参加しました。会員皆さんの力を高く評価するものです。
 この特別展に、ご支援、ご協力いただきましたアサヒビール株式会社,ニッカウヰスキー株式会社,北海道立北方資料室図書館、余市町、仁木町、竹原市、竹原市教育委員会、各種団体には厚く御礼申し上げます。

                                                                          平成24319
                                                                          竹原郷土文化研究会
                                                                          会長 福本 栄



 竹原郷土文化研究会

  発行:平成24320日 
  撮影 編集 生信守之
  編集委員 福本栄 福原須美子  http://www.geocities.jp/m_ikinobu/kyoudokenkyu/kyoudokennkyuukai.html
 事務局長:坂上紀之  TELFAX 0846-29-0460












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