影人間のフォークロア case.2
「怪人フェイス2」
「こんなのが五億円・・・・・・」
軽い眩暈を感じならが、三千子は目の前の前衛芸術に向かって呟いた。
あの後すぐ、電話で十草に事情を説明すると、神のシュミラクラの展示場所を探し、やってきたのがここ、亜神市でも最大の規模を持つ十霞国川美術館だった。
常立文示(とこたて ぶんじ)作
《神のシュミラクラ》
それは一枚の絵画に与えられた名ではなく、縦横に十枚ずつ並んだ、合計百枚のカンバスが描き出す、巨大な群像アートを表す名だった。
一枚のカンバスはそう大きくはない。むしろ小ぶりで、小脇に抱えられる程度の大きさだ。そこに、暗黒を煮出して作ったような黒を満遍なく塗りたくり、戯れに薄めた牛乳を霧吹きで吹きかけたような淡い靄がアクリル絵の具で描かれている。取り繕った表現をすれば、宇宙の中を漂う白い霧と言った所か。そんな絵が百枚、広い美術館の壁面に展示されている。描かれた白い染みの形は一枚一枚全て違うが、ただそれだけだ。三千子はそこに何か特殊な意味を見出す事は出来ない。特に、五億もの価値を認められるような意味は何も。
「大げさな子供騙しよ。こんなのは」
冷淡なマリアの声音には、三千子にもそれと知れる嘲笑が混じっていた。
「そうなんですか?」
三千子の声には安堵が滲んでいた。理解できないのはあたしがバカだからじゃない。そんな思いの表れだ。
「芸術の価値は二つよ。資産か、道楽か。前者は株や不動産と同じ。一点物の絵画なんて贋作でもない限りそうそう値段が下がったりしないもの。そういう意味では、金なんかより価格が安定しているわ。道楽というのも、言ってしまえば子供がお菓子についてるおまけのシールを集めてるような物ね。飛び交うお金の桁が違うだけで、本質は同じよ。この絵が特別に凄いわけじゃない。たまたま金持ちの目について、そいつが五億の値をつけたから、五億の価値と言われてる。ただそれだけの事」
「さ、流石にそれは言い過ぎじゃ」
「いいえそうよ。実際、高額芸術の価値を決めるのは、ごく一部の限られた資産家達だもの。彼らは仲間内で見せびらかす為の奇抜で斬新な芸術を欲してる。あるいは、希少で歴史のある芸術を。この絵は前者ね。常立文示って画家は、元々フォトリアリズム、つまり、写真のようにリアルな絵を描く画家だったの。当時でもそこそこ売れっ子の画家だったみたいだけど、常立はそこそこの成功じゃ我慢できなかったわ。芸術にはもっと先、人間には計り知れない神々しい領域があると考え、そこにたどり着きたいと願ったわ。結果、彼は自らの両目を潰し、フォトリアリズムの道を捨て、抽象画ばかり描くようになったのよ」
「なんか、凄い人ですね・・・・・・」
絵の為に自分の目を潰す。それに何の意味があるのか、三千子にはさっぱり分からない。理解できないし、しようと思わない。それが良い事か悪い事かも分からない。だが、とにかく凄いとは思った。人間って凄いなぁ。シンプルな感嘆だけがそこにはある。
「そう思わせたら勝ちなのよ。私がこの絵の所有者なら、専用の小屋を建ててこれだけを飾るわ。そして、訪れた客に得意そうに今の話をするでしょうね。その後は、みんなでこの画家がどんな気持ちで自分の目を潰したか考察するの。それが資産以外の芸術の価値よ。簡単に言ってしまえば、金持ちの話題の種、自己主張やコミュニケーションの道具。それを彼らにとって相応しい物にする為だけに、高い価値を与えられている。だってそうでしょ? 高い物について語る人間は、その価値と同等の価値を有している事になるもの。でも皮肉ね。そこにあるのは芸術本来の価値じゃない。むしろ、限りなくかけ離れた、無粋で不純な価値があるだけなのよ」
マリアの顔に表情はない。声も平坦で、一切の感情が伺えない。だが三千子は、彼女の言葉に強い侮蔑の念を感じた。それは狂気の末に己の目を潰した画家に対してか、そんな想いで作られながら、虚ろな価値しか持たない絵に対してか、はたまたそれらを弄び、茶番の余興に変えてしまう金持ちに対してか、あるいはその全てなのか、三千子には見当もつかなかった。
なんにしろ、途方もない話だと感じた。そして、少しだけ寂しくもある。
それが芸術の価値だとするなら、芸術というのはあまりに虚しいように思えてならない。
「それは違うよ」
広いホールにエイジの声が響いた。土曜の夕時、館内は多くの来場者で賑わっていた。そこで大声を発するエイジは不必要なまでに人の目を惹いたが、本人は全く気にしていない様子だ。先程からエイジは、《神のシュミラクラ》の絵に対して、鼻が触れる程近づいたり、後ろの壁に背が着くほど下がったりを繰り返していた。
「マリアは極端すぎる。それに、この絵にはお金に変えられない素晴らしい魅力があると思うよ」
エイジは告げながら、両手で作った四角い窓越しに《神のシュミラクラ》を覗いた。
「二人とも、こんな所にただ突っ立ってるだけじゃ、この芸術の素晴らしさは分からないんじゃないかな。近くで見たり、離れて見たり、色んな角度から眺めてこその作品さ」
楽しげに言うと、エイジは二人の手を引っ張って絵のすぐ前に移動した。
「見てご覧。この部分、なんだかキリストの顔に似てると思わないかな?」
「そう言われると・・・・・・そうかも」
「アホらしい。それこそシュミラクラよ。人の目は点が三つ集まった図形を顔だと認識するの。別に常立が意図して描いたわけじゃなく、私達の脳が勝手にそう思ってるだけよ」
「素晴らしい事じゃないか」
次にエイジは二人を背後の壁ぎりぎりまで移動させた。
「ここからだと、さっきのキリストの顔は無数にある白い影に紛れて消えてしまう。だけどほら、今度は同じ場所に大仏みたいな顔が見えるだろ? 多分だけど、さっきのキリストは大仏の唇になったんだろうね」
「見えるような、見えないような・・・・・・」
「だから、違うってば。シュミラクラ現象、脳にプログラムされた作用に過ぎないわよ」
「だからと言って、それがこの芸術の評価を下げる理由にはならないだろ? むしろ逆さ。タイトルが示す通り、常立文示って画家はシュミラクラ現象を理解している。この絵には様々な神のイメージが溶け込んでいるんだ。素直な心で見てみれば、個人個人の胸に宿る何かしらの神の姿が浮かび上がるって寸法さ。それに、さっき解説を読んだけど、この絵は縦横十列に並べる以外は決まった並べ方がないんだ。だから、展示者の配置によって毎回その姿を変えるわけだね。観察者によって見え方が違うなんて、面白いじゃないか。僕は素直に感動したよ」
「こんな小手先のトリックで感動するなんて、安っぽい人間ね」
「感受性が豊かだと言って欲しいな。そんな風に斜に構えてたら、見える物も見えなくなるよ。僕が思うに、芸術って奴には人の心に潜む神秘的な部分を呼び起こす力があるんだ。言葉には出来ない、する必要もない不思議な感覚。人の心の最も深い部分に訴えかけ、感動や畏怖を呼び起こす力がある。そういった体験は、お金には換算出来ない価値があると僕は思うね」
なるほどな、と三千子は思った。マリアに同意した手前口には出せないが、エイジの言葉には説得力を感じた。神のシュミラクラ。この絵に五億の価値があるとは思えない。だが、全くの無価値かと言われればそれも違う。金額で考えると妙な気持ちになるが、それでも、三千子がこの絵を見た時、言い知れぬ感情を抱いた事も事実だ。目の前に広がる暗黒の壁。その中を漂う白い群像は、何かしらの意味を持っているように思う。そして、そう思って見てみれば、実際に意味ある形が見えるような気がしてくる。まるで、この絵が人の心を覗き見て、その中に眠る何がしかを反映させているような、そんな風に思えてくる。
「まるで鏡みたい」
「確かに。芸術は見る者の価値観を映し出す。そういう意味では、鏡に似ているね。姿じゃなく、心を映す鏡だ」
「それが事実なら、私の心は醜く汚れているという事になるのだけれど」
当て付けるように言う。どうやらマリアはヘソを曲げたようだった。
「そんなに単純じゃないさ。人の心は複雑怪奇だからね」
エイジは羨むような視線を神のシュミラクラに向けた。
「だから魅力的なんだ、人間は。理解できない不条理の塊さ。そこには、無限の可能性が眠っている」
あんたは何者なの? 三千子は不意に、そう尋ねてみたい衝動に駆られた。エイジの言葉の端々には、人間に対する多大な尊敬と羨望のような物が感じられる時がある。
それはまるで――
(まるで、自分が人間じゃないみたいな・・・・・・)
結局三千子はその問いを口にする事が出来なかった。
一つには、それを言葉にした瞬間、この関係が積み木のように崩れ去り、修復不能になってしまう気がしたからだ。もう一つは、警備の為に館長と交渉をしていた十草が戻って来たからだった。
「遊びに来たわけじゃねぇんだぞ」
浮ついた場所が苦手なのか、単に普段からそういう顔なのか。十草の強面には不機嫌さが滲んでいた。
「警備の許可が出た。期限付きだがな。寝泊りは事務所を使え。こいつがスタッフパスだ」
そう言うと、十草は安全ピンのついた入館証を三人に渡した。
「あの、あたし、泊まりは困るんですけど」
おずおずと三千子が言った。流れで付いて来てしまったが、エイジ達と一緒になって泊り込みで警備をする事は出来ない。面白そうだな、とは思うが。
「一応で渡しただけだ。似非探偵の偽者はともかく、銭ゲバ女やガキに頼る程落ちぶれちゃいねぇ。そんなのは、こいつが許しても俺が許可しねぇよ」
「いちいち勘に触る男ね」
マリアが恨み言をいう。三千子も同じ意見だ。
「まぁまぁ。十草さんは刑事だからね。口は悪いけど、彼なりにみんなの身を案じてるんだよ。でしょ?」
エイジがフォローすると、
「うるせぇよ」
十草は顔をしかめて言った。
そんな十草の態度に、三千子は段々腹がたってきた。
「十草さん、さっきから酷くないですか?」
「な、なにがだよ」
三千子から文句が出るとは思わなかったのだろう。十草はたじろいだ様子を見せる。
とぼけた態度に、三千子の苛立ちは増すばかりだ。
「何がって、全部よ。そもそもあんた、街の治安を守るのは警察の仕事でしょ。それを一般市民に頼んで偉そうに。っていうか、あんた依頼料払ってないわよね? おかしくない?」
「そ、そりゃ、この似非探偵の偽者が勝手にだな――」
「勝手になに? 勝手にエイジがやってるからいいっての?」
「俺はこいつに情報を流してる。そいつでチャラって話だ」
「チャラ? 全然チャラじゃないでしょ? おかしいでしょ! あんたらがだらしないからエイジが頑張ってるんじゃないの? それをなに偉そうに威張り散らしてるのよ! 人に物を頼むなら、相応の態度ってもんがあるんじゃないの? あんたは単にエイジの優しさにつけこんで利用してるだけじゃない! っていうか、そもそも似非探偵の偽者ってなに? そりゃ、確かにエイジは怪しいけど、そういう呼び方なくない? エイジはちゃんとあんたの事名前で呼んでるんだから、あんたも名前で呼びなさいよ! どういう教育受けてるわけ? 信じらんない! それでも大人? 最低じゃない!」
「だあぁ! 何も知らねぇガキがギャーギャー喚くんじゃ――」
「ガキとか大人とか関係ないでしょ! あたしは礼儀の話をしてんのよ!」
いい加減頭にきて、三千子は十草の胸倉を掴んだ。三千子と十草は頭一つ以上身長差があるが、そんな事は気にしない。下から思い切り睨みつける。
「う、わ、分かった、分かったから!」
「分かった? 何が、何が分かったの? 説明して、しなさいよ!」
「だぁ、探偵! こいつをどうにかしてくれ!」
三千子の迫力に、十草は観念してエイジに助けを求めた。
対するエイジは、
「キヒヒヒ、クヒ。ヒハハッハ!」
と、体をくの字にして爆笑している。
「おい、てめぇ、何笑ってやがんだ!」
大声を出す十草。三千子はその顔を無理やり掴み、自分の方を向かせた。
「あんたこそ、なに余所見してんのよ!」
「だ、だから、悪かったって言ってるだろうが!」
「キヒ、ヒヒヒヒ、ヒィハァ、み、みっちょん、それくらいで許してあげてくれよ。じゃないと、僕は、ヒヒヒ、腹筋が、ひ、引きつりそうだ」
目の端に涙を浮かべながら、エイジが三千子の肩に触れる。
「あんたも、こんだけバカにされて何笑ってのよ!」
三千子は怒るが、エイジがあまりにも笑うので白けてしまった。なによなによ、あんたの為に怒ってるんじゃない! っと、怒っているのがバカらしくなってくる。
「ちくしょう、なんてガキだ」
三千子に解放され、十草はげっそりとして呻いた。
対する三千子は、怒りが冷めて、急激に恥ずかしくなってきた。あう、あたしったらまたやっちゃった! と、赤くなっている。
そんな三千子の肩を叩き、
「みっちょん、グッジョブよ」
マリアは無表情でサムズアップして見せた。
「ぁ、ありがとうございます・・・・・・」
複雑な心境の三千子だった。
「いやぁ、笑った笑った。こんなに笑ったのは、クヒヒ、久しぶりだよ」
「面白くねぇよっての! くそ、銭ゲバ女だけでも持て余してるってのに。今度はヒステリー持ちのガキかよ」
「はぁ? なんか言った!?」
「な、なんでもねぇよ!」
三千子に凄まれ、十草は慌てて誤魔化した。
三千子は頬を膨らませるが、追及はしなかった。なんとなく、エイジにはあまり怒った姿を見られたくなかった。それに、気になる事もある。
「そもそも、なんでエイジの所に犯行予告が来てるのよ?」
今まで誰も何も言わなかったが、三千子にはそれが不思議だった。あの時暴漢から助けてくれた男は、何者かに化けた怪人フェイスだった。恐らく彼は犯行予告の手紙を残す為に斜篠探偵事務所を探しており、居合わせた三千子にそれを託した。だが、何故?
「さぁね。心当たりがない、というわけじゃないけど。僕個人はそのロアと何の面識もつながりもないよ」
「どういう意味よ?」
回りくどい言い方に三千子は疑問を覚えた。面識はないが、心当たりはある。それは何を意味しているのか。
「噂が噂を呼ぶんだ。知らねぇようだから教えてやるが、ロアとロアは――」
「十草さん」
唐突に、エイジが割って入った。
「僕が説明する」
エイジらしくない物言いだった。笑ってないからだと、後になって三千子は気づいた。
十草は不満気そうだが、
「・・・・・・勝手にしろ」
と肩をすくめた。
「ありがとう」
エイジはその事に感謝して、
「噂は噂を呼ぶんだ。ロアに深く関わった者は、ロアに見入られ、興味を惹く。怪人フェイスが僕に犯行予告を出したのは、そのせいだと思うよ」
「それに、エイジはこっちの世界じゃ結構な有名人だものね。ロア退治の専門家、オカルト探偵斜篠エイジ。怪人フェイスが自立した意識を持つロアなら、エイジを負かす事で名を上げ、自身をより強固な存在にしようと考えるのは、有り得そうな事だわ」
別に僕はオカルト探偵ってわけじゃないんだけど。
エイジは独り言のように呟き、
「ロアは一人歩きした噂だ。だから、その存在を噂に依存する。多くの人間に語られ、信じられる程、その存在は強大で確かなものと――」
「いやあぁぁぁぁ!!」
突然の悲鳴がエイジの説明を遮った。声は遠く、別のフロアから響いてきた。絹を裂くような女の絶叫を追いかけるように、様々な人間の恐怖の叫びが膨れ上がり、こちらに近づいてくる。
「なに、なに!?」
「落ち着け。何かあったら守ってやる」
怯える三千子に十草が告げ、
「怪人フェイス、なんだろうね」
冷静にエイジが言った。
「だろうな。見え透いた陽動だ」
「ですね。何をしたのか知らないけど、パニックに乗じて絵を盗む気でしょう」
直後、隣のフロアから雪崩のように大勢の人が殺到した。半分は、何がなにやら分からないといった顔。もう半分は、半狂乱と言ってもいい。なにか凄惨な現場を目撃したと推測できる、心からの恐怖と怯えが伺えた。元から混雑していたフロアは、逃げ出してきた人間によりあっという間に人口過密に陥った。
「とは言え、無視するわけにもいかねぇ。ここは俺が見張っとく」
「くれぐれも、マリアとみっちょんをよろしくお願いしますよ」
「言われるまでもねぇ。俺は刑事だ。市民の安全は守る。たとえ気に入らない守銭奴と小生意気なヒステリー持ちでもな」
「お生憎様。私の身はみっちょんが守ってくれるわ」
「あ、あたしですか!?」
「頼りにしてるわよ」
「は、はい!」
威勢良く返事はしてみたが、三千子は既に逃げ込んできた人々の大半がそうであるように、実体のない不安と恐怖に取り付かれていた。
「すぐ戻るから、くれぐれも無茶はしない事。というか、何もしないで、危なくなったらすぐに逃げるんだよ」
それだけ言い残して、エイジは人の流れに逆らって隣のフロアへと消えていった。
逃げ惑う人々の流れに逆らう事は容易ではなかった。恐怖は人間から理性を奪い、本能に従う獣へと変えてしまう。それは川のようだった。恐怖によって氾濫した濁流。誰もが後方にある何かを恐れ、そこから一秒でも早く、一歩でも遠く離れようとしている。
エイジだけがそれに反していた。向かってくる膨大な質量に身を晒しながら、器用に隙間を縫って進んでいく。それこそ、川を遡る魚のように。
そんな混沌も、いつまでもは続かない。やがて勢いは激しさを失い、辺りは静寂を取り戻す。広い館内をひた走りながら、エイジは不意に笑みを洩らした。
このまま進んでも、人々を恐怖させるような物は何もなく、ただ最初に逃げ出してきた観客達に出くわすだけではないだろうか。ふと、そんな事を思った。彼らは最後尾の人間が逃げ惑う様を見て恐怖し、さながら自らの尾を追いかける犬のように、この美術館の中をぐるぐる回っているだけなのでは。
馬鹿げた妄想だった。
ジャケットの上から、ホルスターで吊った銃に触れる。
怪人フェイス。哀れな造形師の虚栄から生まれた噂。
人の顔を奪い、その者に成り代わるロア。
これが陽動だとすれば、怪人フェイスが待ち受けている可能性は少ない。だからこそ、エイジは警戒していた。怪人フェイスの噂から推測するに、彼にはこれほどの恐慌を引き起こすような力はないはずだ。
だとすれば、考えられる答えは二つ。
一つは、怪人フェイスの噂が一人歩きし、新たな力を獲得した。
もしくは、彼には協力者がいる。
(いや・・・・・・もう一つあるな)
六つ目のフロアに入った直後、エイジは自分の推理が当たっていると確信した。
声が聞こえた。それは悲鳴に似ていた。泣き声にも似ていた。断末魔や、快感に悶える喘ぎ声にも似ていた。苦痛による悲鳴、悲しみにむせび泣く声、歓喜の叫び、あるいは怒りによる怒号、獣じみた唸り声も混じっている。
あらゆる声。あらゆる感情の先端に位置する極地が声となって響いてくる。
それは不安を呼び、嫌悪を与え、恐怖を感じさせる声だった。
普通の人間が普通に生活している分には、けっして発し得ない極限の声。
ただ一種類の感情に捕らわれ、それ以外の全てをかなぐり捨てなければ到底発し得ない声。それはもはや、常人が発する事の出来る声ではない。
だから怖い。
人間が出す人外の声。
七つ目のフロアに入った時、エイジは見た。
広いフロアには、十人程の人間が居た。
彼らはたった一つの感情に支配されていた。
ある者は何かに怒り、もはや言葉にはなっていない言葉を発しながら、今にも頭の血管が切れそうな勢いで怒鳴り散らしている。
またある物は、だらだらと涎をたらし、恍惚の表情である一点を見据えながら、官能的な喘ぎ声を洩らしている。
別の者は泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、赤子のように泣き、赤子のように失禁し、赤子のように丸くなっている。
混乱している者がいた。その場で走り回りながら、頭を掻き毟り、あらん限りの声量で奇声を上げている。
怒り、悲しみ、喜び、歓喜、快楽、混乱・・・・・・
それぞれがそれぞれに、ただ一つの感情に支配され、突き動かされている。
それはもはや人ではない、人の機能の一部を最大値で再生する壊れた人形でしかなかった。
何が原因か、エイジには一目で分かった。
「ピースリー作、《教え》」
硬い笑みを浮かべながら呟いた。視線の先には、一枚の絵が飾られている。
それは、寂れた教会の墓地で、皮膚病の猿を思わせる人間大の何かと幼い子供が、掘り起こした死体を一緒になって食べている絵だった。
エイジは《教え》がどんな絵か知らない。
この絵が《教え》だと分かったのは、事前にマリアの話を聞いていたからだった。
『彼の描く絵を見た物は尽く狂気に囚われ、この世ではない世界を覗くと言われてる――』
発狂する人々には共通点があった。彼らの視線は、皆壁に飾られた《教え》に向けられている。
怒っている者も、悲しんでいる者も、喜びに震える者も、混乱に喚き散らしている者も、皆ピースリーの描いた《教え》に釘付けになっている。
「ロア化した絵画。この為にフェイスは絵を盗んだのか」
見る者を狂気に至らせる絵。そう噂され、その通りの力を持った絵。
「・・・・・・ク、フ、クフフ、キヒヒ、ヒハハハハハハハ!」
可笑しかった。どうしようもなく面白い。唐突に面白く、それがまた笑えて仕方ない。だから笑った。腹を抱え、エイジは《教え》を指差して爆笑した。腹が捩れる程笑い、喉が裂けるのも構わず笑った。快感だ。そして幸せでもある。幸福だ。このまま笑って死ねたら、さぞ幸せだろう。
笑い過ぎて息が出来ない。脳は酸欠に喘ぎ、極限まで引きつった横隔膜は鋭い痛みを発している。視界が狭まり、エイジは膝を着いた。それでも笑わずにはいられず、それを止める気にもならなかった。何も考えられない。考えようとも思わない。笑うだけだ。ただそれだけ。その事に疑問を持たない。そもそも考えないのだから、止めようがない。ただそれだけの存在に成り下がる。やがてエイジは完全な狂気に囚われた。笑い続ける内に喉が潰れ、喉が詰まり、呼吸困難に陥って、それでも笑い続け、床に伏したまま小刻みに身悶えて、やがて完全に動かなくなる。
程なくして、エイジは何事もなかったかのように起き上がった。
「・・・・・・あぁ、全く、恐ろしい絵だ。今まで沢山死んできたけど、こんな酷い死に方は久々だよ」
掠れた独り言は、まるで他人事のような口調だ。
「君も災難だね。こんな形に生まれるなんて。辛いだろう、悲しいだろう、苦しいだろう。僕が今、開放してあげるよ」
先程の後遺症か、エイジの足取りに力はなく、危なげだった。それも、一歩進む毎に回復していく。それに比例して、エイジの顔は暗くなっていた。煌々と照る照明の下、そこだけが不自然な影となり、影は暗さを増して闇となった。
「さぁ、帰るんだ。元いた場所に。ここは君のいる世界じゃない。君がいられる世界じゃない。この世界は君を受け入れない。残酷だけどそれは事実だ。もしも次に生まれてくるなら、人の姿である事を願うよ」
影を持つ男が語りかけると、《教え》の絵から目には見えない何がしかの力が抜け出し、彼の顔面に開いた深淵の中へと飛び込んでいった。
直後、発狂していた人々はスイッチが切れたかのように気絶した。
「ふぅ・・・・・・取りあえず、こっちはこれでおしまいか・・・・・・な?」
一段落ついたかと思った矢先、エイジはふと、空気の中に火薬の臭いを嗅いだ。花火会場から流れてくる風のような香り。そう思った矢先、火災報知器のベルがけたたましく鳴り響いた。
つづく。
七星十々 著 / イラスト 田代ほけきょ
企画 こたつねこ
配信 みらい図書館/ゆるヲタ.jp
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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