貝原益軒の碑
貝原益軒(かいばらえきけん)
寛永7(1630).11.14〜正徳4(1714).8.27

福岡生れ。朱子学派に属するも独自の見解を持った。教育思想家として著名。著書『大疑録』『慎思録』『益軒十訓』『大和本草』その他多数。藩学の学祖。
貝原益軒は寛永7(1630)年11月14日に、福岡・黒田藩士の五男として誕生しました。幼い頃から聡明であったと言われ、長じて藩に出仕したものの、藩主の怒りに触れて浪人となります。この時の経緯はよく分かりませんが、次の藩主に許されて再び藩に出仕することとなっています。
再び藩に出仕した益軒は、すぐに京都へ遊学することを命じられました。当地では伊藤仁斎や木下順庵といった大学者とも交流を持ち、益軒は儒者として大きく成長してゆきます。やがて藩へと帰った益軒は、藩における学問の総責任者として活躍することとなるのです。
益軒が役目を退いたのは、70歳も過ぎてからのことです。しかし、益軒がその本領を発揮するのは、実はそこからなのです。藩の職務から解放され、著述業に専念し始めた益軒は数多くの書物を著しました。
「養生訓」は言ってみれば健康指南の書。益軒が自らの経験にもとづき、心身の健康を維持する方法をまとめたものです。注目したいのは益軒が「自分の経験にもとづき」これを書いたということです。当時は江戸時代の初期〜中期で、学問といえばやはり先人の書いたものや考えたことが絶対。それに疑いを差し挟むというのは非常に勇気のいることでした。そんな時代に益軒は、「健康」へ実証主義的なアプローチを試みたと言えるのです。
益軒の代表作に「大和本草」という書物があります。これは、日本の植物や動物、鉱物といったものを益軒自らが調べ、まとめあげたもの。当時、このような図鑑といえば「本草綱目」という書物が絶対視されていましたが、実はこの「本草綱目」、中国から渡来した書物でした。となれば、内容はもちろん中国の動植物の紹介。日本の動植物とは「ずれ」が出てきます。当時の学者はそれに気がつきませんでしたが、益軒はこのずれに気付きました。そうして、日本版「本草綱目」として「大和本草」を作り上げたのです。この「大和本草」は後世の学者たちに大きな影響を与え、日本の本草学の発展に大きく貢献することとなります。
益軒の著作の特徴として「易しい言葉で分かりやすく書かれている」という点があります。「養生訓」などの著作は特にその傾向が強く、庶民を意識して書かれたことがよく分かります。健康法は多くの人に伝えられねば意味がない、ということを、益軒はしっかりと意識していたのです。こんなところにも、形ではなく実を大事にする益軒の考え方がよく表れています。
江戸の昔に実証主義をつかんでいた貝原益軒。そんな貝原益軒の学問は「益軒学」とも言われます。当時の学問の流れにはない柔軟な考え方は、藩主の怒りに触れた浪人時代、大学者と交わった京都時代に芽生え、長い儒学者生活のうちに成長していったのでしょう。自らの経験をもとに物事を整理・分析してゆく。近代科学にも通じる考え方が、江戸時代の益軒学の中に、確かに息づいていました。江戸期における益軒のような学者の存在が、幕末・明治の日本人が西洋思想を吸収する一助となったことは、想像に難くありません
住所飯塚市八木山
2251
TEL0948-22-5500

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