2013年11月22日

「図書寮文庫所蔵資料画像にはがっかりした」の続報

11月2日に書いたエントリ、「図書寮文庫所蔵資料画像にはがっかりした」は、僕の泡沫ブログにしては大いに反響を呼んだ。今日、件の画像を見たところ、進展があったようなので報告する。

上記の記事で、僕は次のように書いた。
本当はスクリーンショットを載せたいのだが、「禁無断転載」だそうなのでやめておく。上のリンク先を見るのが面倒な人のためにどうなっているか説明すると、影印の上に灰色のゴシック体で「禁無断転載 国文学研究資料館」という文字が斜めに入っているのである。それも一丁の墨付の部分だけで7つ。邪魔臭いことこの上ない。

ここで例示したのは次のページである。

とはすかたり

現在、同じページを見ると、「国文学研究資料館」の文字が消えている。字数が減ったのでかなり可読性が上がった。スクリーンショットを取らなかったので比較できないが、文字色そのものも薄くなっているように思える。

この更新に僕の記事が役に立ったのであれば、それは望外のことである。たとえそうでなくても、この素早い対応には素直に敬意を表したい。

しかし、これで満足することはできない。前のエントリの最後に書いたように、「禁無断転載」の文字は消えるべきだと考えているからである。

まず、法律的には、無断転載しても全く問題がない。理由は、以下の通りである。

1.画像のもとになったものは著作権の概念が発生する以前に書かれたものであること。(著作権がない)
2.平面のものを写した写真そのものには著作権が発生しない。(立体物と違い、創作性がなく、誰が撮っても同じだから)
3.著作権のないものの所有権は、現物にしか及ばないという判例が出ている。(顔真卿自書建中告身帖事件:Wikipedia

すなわち、所有者が国であろうと個人であろうと、一度公開した画像の転載を禁止することは、法律的には不可能なのである。

法律の件は別にしても、僕には無断転載を禁止する意味が理解できない。禁止というからには何かを守るための禁止のはずだが、はてブのコメントにもあるように、これは何から何を守るつもりなのだろうか。

例えば、前のエントリのコメント欄に「お隣の国があんなじゃなかったら、こんな事にはなってないんじゃないかと思います」というのがあった。現状で「お隣の国」がこれを無断転載するほど、これらの作品に知名度があるとは思えないのだが、仮にしたとして一体何の支障があるのだろう。

よもや「お隣の国」の写本として紹介することはあるまい。ならば、転載してくれたら、ただで日本の文化財を紹介してくれるのである。もともと無料で閲覧できるのだから、利益を損ねることはない。サーバーの負担が軽減されて支出は減る。いいことづくめではないか。

むしろ、転載されないほど知られていない方が問題である。

以前、東京国立博物館と上海博物館で行われた「書の至宝展(上海博物館では中日書法珍品展) 」という日中の国宝級の作品を集めた展覧会を、東京と上海の両方で見たがある。東博で行われたときは日本の書にも中国の書にも人が群がっていたが、上海博物館では日本の書、とりわけ仮名の書にはほとんど人がいなかった。自国の作品に人が多いのは当然だが、仮名の名品の知名度の低さに愕然とした。

モナリザを撮る人たちこの写真はルーブル美術館で、モナリザの写真を撮っている人たちである。

ルーブル美術館では、モナリザだろうがミロのビーナスだろうが、展示されているすべての作品を自由に撮影できる。それどころか、有名な作品の前で、イーゼルを立てて模写している人もいる。これは決してルーブル美術館だけではない。海外のほとんどの美術館がそうなっている。

モナリザの絵は、世界中の画集に転載され、模造品が作られて、世界中の人が知っている。それらは、いちいち許可など得ていないから、ルーブル美術館がモナリザから直接利益をあげることはお土産などを除いてほとんどない。

しかし、それらの「無断転載」された資料でモナリザを知って、現物を見るために世界中から人が集まる。これはルーブル美術館だけでなく、フランスという国自体にとっても莫大な利益をあげていることだろう。そして、ルーブル美術館を訪れ、写真を撮った人たちは、またそれを人に見せたりして広めてくれるのである。

文化というものは、このように公開して守られるべきものである。そして公開するならば、一切の制限は必要ない。公開しておいて、無粋な文字を入れるなど情けないにも程がある。これなら隠している方がまだましというものだ。

僕は宮内庁図書寮画像から、「禁無断転載」の文字が消えるのを希望する。

Posted by yatanavi at 22:01│Comments(2)TrackBack(0)

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この記事へのコメント
高精細デジタルデジタル筆文字の限界

にじみ、かすれ の再現性がデジタル画像では難しい。

自分の筆跡を、高精細でオートスキャンして、民生用の
ディスプレイで再現してみると、全体像は似ているけれど
何かが違うのである。

音楽CDの黎明期に、アナログレコードよりも、
音が汚くなったと言われたことを思い出します。

極端な事例では、ワープロで印字された文書を Faxで
送信し、それをテレビで紹介した文書の文字がガタガタの
とんでもない文字になっていることは、たびたび目にします。

デジタル画像は、複製を繰り返しても劣化しないというのは
オートトレースされた、筆文字にはあてはまらないのです。

これを避けるためには、徹底的に かすれ、にじみを排除して
文字のアウトラインを つるつるの滑らかな曲線で近似する
ことで ある程度は防ぐことができます。

特に、にじみは、ショートベクトルの直線で近似されます
から、これが複製の際の圧縮や伸長の際に、位置情報が微妙に
ズレてゆき、にじみはカサブタのように膨れあがったり、
逆に傷のように えぐれたりしますから、全体像も とても嫌な
印象となってゆきます。

無断転載を禁ずるとしているのは、そのようなこともあって
転載の際には再現能力の許容範囲を指定してくるのかも
知れないですね。

双鉤填墨が、写真銀塩印刷物で本物のように見えるのは、
究極のアナログ手仕事の技と、写真との解像度の相性が
良いためではないでしょうか ?
もっとも蘭亭序の真跡も、本物の双鉤填墨も見たことは
ありませんが・・
Posted by 祥南 at 2013年11月23日 20:17
>よもや「お隣の国」の写本として紹介することはあるまい。

日本人の韓国に対する理解って、未だにこの程度なんですかね?
Posted by housan at 2013年11月24日 11:00