旧日本陸軍浅茅野飛行場建設工事の概要
1. 飛行場建設の目的
2. 建設・竣工時期について
3. 浅茅野飛行場建設工事の労働実態
4. 浅茅野飛行場建設工事の犠牲者について
5. 浅茅野飛行場建設工事犠牲者の遺骨の所在について
6. その他、終わりに

1. 飛行場建設の目的

  浅茅野飛行場の建設目的は、宗谷海峡の防衛と対米作戦を意図して建設されたものと思われる。

 日本は、1931年9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)の鉄道爆破以来 中国への侵略戦争を展開し、1937年7月7日からは中国との全面侵略戦争へと突入していた。
 日本政府は、1938(昭和13)年4月に国家総動員法を制定し、1939年7月に国民徴用令を発布した。1939(昭和14)年7月28日の国家総動員計画の閣議決定をもって朝鮮人に対する戦時労働動員を開始した。朝鮮人強制連行・強制労働の開始である。
 だが、この頃は侵略戦争の矛先をソ連に向けるべきかアメリカに向けるべきか日本政府は決定しかねていた。また、侵略することしか考えていない日本政府と軍部は本土防衛など念頭に無く、1941(昭和16)年7月にはじめて防空総司令部を設置し、その年の12月に宗谷要塞を築設した。
 1942(昭和17)年8月に曖昧な態度であった北部軍司令官を変更し、陸軍も対ソ作戦準備から対米作戦に方向転換を明確にした。*1
当時、浅茅野飛行場建設に関わった新岡氏は次のように述べている。
「戦況が末期な症状を呈するようになった頃、単独の飛行場では作戦が困難なことが判ってきて、数個の飛行場が一群となって作戦する、いわゆる飛行場群の構想に基づいて、浅茅野飛行場もその後にできた浜鬼志別、樺太の池月と一群をなして、宗谷海峡の防衛にあたっていた。」*2
 ここで言う「作戦」とは、基本的に「攻撃作戦」であり、浅茅野飛行場の建設目的は、宗谷海峡の防衛と対米作戦を意図して建設されたものと思われる。
*1 防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書』
*2 『文芸そうや』第13号(1985年刊)「飛行場前停留場にて」(建技大尉 新岡武夫第四中隊長)

2. 建設・竣工時期について


浅茅野第一飛行場の着工は、1942年(昭和17年)6月ころ、板敷き滑走路などの完成は1943年(昭和18年)秋、第一飛行場全体の完成は、1944年(昭和19年)秋と考えられる。
第二飛行場の建設は、着工が1943年(昭和18年)4月、完成は、1944年(昭和19年)末と考えられる。
第一飛行場、第二飛行場ともに1944年末には完成していたと思われる。
請負契約、土地売買契約の締結年月日は、先に工事が行われ、金銭支払いの確定のために事後締結されたものと考えられる。

1.前述の新岡氏は同書で次のように言っている。*1
「浅茅野飛行場は、航空本部の直轄で17年に着工され、浜鬼志別と池月の方は北部軍の手で、それよりも遅れて着工された」
「19年10月、樋口軍司令官の樺太視察、浅茅野飛行場に500人の兵隊が整列して迎えた」
「浜鬼志別の飛行場が、付属の三角兵舎などと完成したのは18年の暮れであったようだ」

2.当時、旭川工業学校土木科一年生だった橋本氏は、「勤労動員で浅茅野第一飛行場の日大生の測量のテコとして働いたのは、1942年(昭和17年)夏休みの7月8月であった」と話している。*2

3.1942年(昭和17) 6月ごろ着工、陸軍航空本部仙台出張所直轄、鉄道工業・丹野組・菅原組・川口組が行った*3
 
4.『猿払村史』収録の「日刊宗谷」記事には、昭和17年11月から19年2月まで工事が行われたとある。*4

5.防衛研究所「戦史叢書」によると、昭和18年1月に第一飛行師団を編成、北部軍隷下に入れた。*5
 昭和18年2月に、北部軍を北方軍に改編した。その際の飛行場の状況は次のようである。
   既設飛行場は、幌筵、気屯、内路、落合、札幌、苫小牧、帯広、計根別、
   計画飛行場は、千島(得憮島)、樺太(名寄、豊原、小熊登呂)、北海道(稚内、室蘭)
北海道方面の豊富な木材を活用した板敷き滑走路など工夫をこらした。

6.昭和18年4月、第一飛行場工事現場から、将校2名、軍属工員13名、兵隊5名が派遣到着。*6
  翌三日後に、丹野組10名、菅原組5名、川口組5名の合計20名で飯場の建設が始まる。
            
7.第二飛行場について
 1943年5月予定地新設  44年8−9月滑走路転圧完成予定*7

8.鉄道工業が1943年5月に航空本部から536万円で浅茅野飛行場新設工事を請負、1944年7 月に竣工させた。*8

9.昭和18年9月 陸軍省が鈴木熊五郎外所有の浅茅野原野342番地の12haを買収*9
  昭和18年12月 陸軍省が本間泰蔵所有の浜鬼志別原野214番地の33haを買収

10.昭和18年5月中旬 参謀本部第二課(作戦)が北東方面航空作戦準備促進要望の件*10
  18年冬までの完成予定に浅茅野が入っている。
  19年度に、北海道で八の飛行場を建設する。その中に北見海岸(渚滑、浜頓別間)2飛行場がある

11.昭和17年12月ころ 浜鬼士別飛行場の検定をした。「転圧不十分と断じて、業者から明春施工するよう念書を取った。」*11(正しくは18年の記憶違いと思われる)

12.昭和19年8月 第11野戦気象隊(第五方面軍)気象観測所を九個に増強した*12
           (内路、落合、恵須取、帯広、浅茅野、計根別、八雲、八戸、能代)
13.小生達も整備兵の居無い急造の飛行場に出張整備に行くことも有った。例えば、室蘭の八丁平飛行場、稚内の浅茅野飛行場、苫小牧の近く沼の端飛行場など。不時着用なので滑走路が一本有るだけで外には何もない飛行場である。*13

14.「宗谷要塞関係聴取録」の第五方面軍宗谷地区配備図に以下の記載あり。*14
   第一浅茅野  滑走路 X3 、掩体 X30、 収容施設 X200、
   第二浅茅野  滑走路 X1、 掩体 X30、 収容施設 X300

15.北海道の旧飛行場 リストより(インターネット検索)*15

浅茅野第一飛行場
a.:現在地 宗谷郡猿払村浅茅野、枝幸郡浜頓別町
b.:設置者 旧陸軍
c.:種類 陸上飛行場
d.:配置部隊
e.:滑走路/掩体 1200m×60m 板敷き
1500m×300m 転圧:未完成
1200m×150m 転圧:未完成
無蓋掩体(大)×17
無蓋掩体(小)×13      
f.:面積 120ha
浅茅野第二飛行場
a.:現在地 宗谷郡猿払村浜鬼志別
b.:設置者 旧陸軍
c.:種類 陸上飛行場
d.:配置部隊
e.:滑走路/掩体 1600m×200m 転圧
無蓋掩体(小)×31



f.:面積 33ha
*1 新岡武夫(建技大尉第四中隊長)「飛行場前停留場にて」 『文芸そうや』第13号 1985年
*2 聞き取りによる
*3 『浜頓別町史』
*4 『猿払村史』
*5 防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書』
*6 前田保仁『飛行場前という名の無人停車場』 平成6年 P77
*7 朝鮮人強制連行実態調査報告書編集委員会編『北海道と朝鮮人労働者〜朝鮮人強制連行 実態調査報告書〜』北海道保健福祉部保護課 1999年 P172、370、371
*8 土木工業協会『日本土木建設業史』 技報堂 1971
*9 『猿払村史』
*10 『猿払村史』 P439
*11「航空関係書類綴(昭和18年及び昭和19年)」参謀本部第二課機密作戦資料
*12 新岡武彦『痩せ馬一代記』 P109 (正しくは18年の記憶違いと思われる)
*13(「平静隆の自分史」1944年秋 http://www.k5.dion.ne.jp/~omoide/
*14「宗谷要塞関係聴取録」(請求番号:北海道37) の第五方面軍宗谷地区配備図(昭和20年)
*15 http://www.warbirds.jp/airport/hokkaido/list.html

3.浅茅野飛行場建設工事の労働実態
(1) 工事関係者などについて

 陸軍航空本部が発注した。浅茅野には「陸軍航空本部経理部浅茅野工事本部」事務所が置かれていた。工事秘匿名は「浅ヒ」「アサ」である。
航空本部から鉄道工業株式会社が、536万円で工事を請負った。
また、川口組も航空本部から建築工事を請負ったと考えられる。
鉄道工業株式会社は、土木工事を丹野組に下請けさ、直接工事を行ったのは丹野組である。
丹野組、川口組も浅茅野に会社事務所を置いていた。
丹野組が土木工事を、川口組が建築工事を行ったと推定する。兵舎などの建築工事は、川口組の下請をして稚内の坂本建設、本多建設、信用部屋の松本組、坂本組などが仕事をした。
また、宇都宮刑務所の囚人も、兵舎の建築に使役されていた。
その他に、学徒勤労奉仕、地域住民の勤労報国(奉仕)隊も働いた。
浅茅野の工事の最大の問題点の一つは、鉄道工業、丹野組、川口組などの土建業者は、人権無視、監禁、暴力が支配する強制労働のタコ部屋経営でったことである。

(2) 何人ぐらいが働いたか

 @強制連行された朝鮮人の数  
 
・ 現在に至るも全貌は不明である。それは、日本政府、警察、旧日本軍、関係企業が資料を公開しないためである。
・ 浜頓別高校生のアンケートに李(岩本)さんは次のように書いている。「昭和18年7月18日浅茅野に到着、私の村では20人で、下関で300人、浅茅野で500人で働きました。」と述べている。
・ 多くの文献で、600名から800名と推測しているが、これも確たる資料をもとにした数字ではなく、ほとんどが証言からの推測である。
  
Aタコ部屋で強制労働させられた日本人の数 

  「極秘・昭和18年度請負工事所要労務者(期限有)充足表」(所蔵・北海道労働資料センター)などによると、北海道国民職業指導所は、鉄道工業の「浅ヒ土」に対し、260人の割付のうち、札幌11人、小樽9人、旭川23人、室蘭13人、岩見沢5人、滝川15人、稚内122人、留萌3人、夕張15人、合計216人を供給したとある。
  また、川口組の「アサ第一号工事」には100人の割付に対し、旭川8人、稚内3人、名寄17人、合計28人を供給したとある。
  発見された北海道の公式記録だけで道内から244名が動員されている。

B使役された囚人の数  
  
 宇都宮刑務所の囚人100人程度も、兵舎の建築に使役されていた。(先行調査)
 「道庁土木部では、帯広と美幌の工事に、青年団の土木労力奉仕を図るとともに、司法省の了解を得て東京、東北地方から約500人の囚人を使役した。」
     (「朝鮮人強制連行、強制労働の記録−北海道・千島・樺太篇」 P:208)

C信用部屋で働いた人々の数、そのうちの朝鮮人の数  

松本組30人くらいで、7、8割が朝鮮人だった。(当時の松本組の息子さん)
坂本組30人くらいで、全部朝鮮人だった。(当時の坂本組の娘さん)

C学生・生徒の勤労奉仕  
 
  ・ 稚内中学から掩体壕づくりに来ていた。(沖野さん)
・ 旭川工業学校土木科40人、建築科も来ている。(橋本さん)
・ 日本大学の学生が測量をしていた。(橋本さん)
・ 名寄農業の人も浅茅野に行ったと聞いた。(橋本さん)

D付近住民の勤労報国(奉仕)隊  

・ 部落の回覧で召集された。5、60人で一団体をつくって働いた。年に二、三回あった。18年の12月に除雪、秋に板敷き滑走路をカケヤで絞めて、「ツカミ」で打ち付ける仕事をした。19年夏に浜の塹壕掘りも行った。(沖野さん)
・ 勤奉(勤労奉仕)隊に行った。週2回 交代で行った。ローラーを曳いて地盤ならしをした。(森江さん)
・ 知来別に居た。そこのかまぼこ工場のトラック2台に乗って、スコップ持って勤労奉仕隊で浅茅野に行った。全部で70、80人だった。7、8回以上は行っている。土運びをした。(菅野さん)
 
 E 日本軍関係の労働者が70、80人いた。(軍人を含むと思われる) (アンケート回答)
(3) 体験者、見聞者の証言
@沈載明氏の話(本多勝一著「北海道探検記」より要約)

 「1943年(昭和18年)5月末、当時20歳でソウルで大工をしていた沈氏は、休暇で妊娠八ヶ月の新妻と故郷の忠清南道天安に行ったところ里長(村長)から「軍の命令で」と北海道への徴用を命じられた。徴用された100人は天安警察の庭に集められ、天安駅から汽車に乗せられ、付さん釜山から下関、青森、函館、旭川を経由して浅茅野に6月10日に到着した。丹野組の小川辰五郎の部屋に入れられた。新築の宿舎は鍵がかかり窓の無いタコ部屋だった。
   朝は5時起床、大根葉などを混ぜた外米飯が中ぐらいのどんぶり一杯と味噌汁の朝食、6時から労働、モッコ担ぎ、トロッコ押しなど土の運搬が主、昼食は30分、リヤカーで運ばれた板箱の弁当を食べる、終わりは暗くなるまで働く、労働時間は13、14時間に及んだ。休憩は、午前と午後に15分の休憩が一回ずつあるだけ、現場の監視人(棒頭)は杖をムチにしてぶんなぐる。夕食も朝と同様の少量と低カロリーのもの。夕食のあとは疲れ果ててフロにも入れず寝てしまう、作業着は一着だけなので汗や垢で汚れたまま、それで、多くの人が健康を悪化させる。
   脱走して捕まると、飯場の入口の前でみせしめに「幹部」によるヤキ入れが行われる。ツルハシの太い柄で背中を力いっぱいぶんなぐる。ツルハシの柄が何度でも打ち下ろされる。こうしてヤキを入れられたものは、そのまま発熱や下痢などをおこし、やがて死んでいった。」

A  頓別高校郷土研究部の聞取り.  李(岩本)さんのお話の要約

「私が、水田で仕事をしていた時のことでした。突然、無理やりトラックに乗せられたのです。そのとき私の村では20人が乗せられたのです。」
「低い山を崩して低い土地にトロッコで土を運んで平らにする整地の仕事でした。仕事は、早朝から暗くなるまでです。腹が減ってどうしようもありませんでした。死ぬのではないかと毎日思っていました。日が経つにつれ、栄養失調にかかる人が増え、それでも彼らは必死に働いていました。しかし、人間の身体には限界があります。さのために弱々しく働いている彼らに、日本人の棒頭が、でたらめに彼らをたたき責め、まるで、頭突きをするような形で蹴飛ばし、土のかわりに土中に埋め、あるいは、金テコでたたきまくられ日照りの中池に落とされそのまま死んだ人もいたのです。また、脱走する人もいましたが、ほとんど失敗していたようです。見つかると、たたきまくられて死んでしまう人もいた。この様子を何回見たか覚えていません。私は、辛うじて生き延びた者のひとりですが死んだ人が多かったです。こんな悲劇が二度とおきてはいけない」(「合本」第5弾P19)

B タコ部屋が並んでいた向かいに住んでいた農家の人のお話

・「死んだおじいちゃんの話だけれど、タコ部屋の夜はとても騒がしくて、うるさくて困ったとよく聞いていました。夜なか中、アイゴー、アイゴーとうるさいと言っていました。」(渡辺さん)

・仕事から帰るとすぐに、「アイゴー、アイゴー」という泣き声がよく聞こえた。(鈴木さん)

・信證寺の裏の方に…川口組の飯場が1棟あった…棒頭が4,5人おって…殴ったりしていた。足が凍傷になって、ひきずったりしていた。 (菅野さん)


C 新聞記事 1943年(:昭和18年)8月14日付 北海道新聞
   
見出し「土工幹部殴り殺す」
   本文 「稚内=去る二日午前十時頃宗谷郡猿払村字浅茅野事業場土工幹部青木喜久次郎(21)菅原與吉(29)の両名は、労務者木村音福(23)をなまけいるとて棍棒で殴打、三日朝死に至らしめた事件があり、越えて七日夜間事業場幹部竹内○長(35)が労務者金元金(23)をスコップで殴打、翌八日死に至らしめた事件があったので稚内警察署で取調べの上送局した」

D. 浜頓別高校生の聞取り. 園原さん「整地を行う時期には次々と亡くなっていき、作業中に亡くなった人の中には土と一緒に埋められた人もいた」(「合本」第4弾P29)
 
E 「自分たちもトロッコにズボンを挟むことがあった。測量の手伝いをしていたある日、遠くの方(板敷き滑走路の末端の方と思われる)から、大きな悲鳴が聞こえたので測量の望遠鏡で覗いたら、強制労働の人がトロッコに足を挟んだのだと思う。その人が土をかけられていて、とても覗いていられなくて目を離した。そのうち叫び声が聞こえなくなった。そこは、急な斜面にトロッコ線を敷いてあった」(橋本さん)

F 弘山医院について

弘山病院は、浜頓別の駅の近くの市街地にあった。浅茅野の現地には病院は無かったが、工事期間中には、「陸軍病院」とか「診療所」とか呼ばれる施設はあったようであるが、患者が何故病院に運ばれたのか、また、弘山医師がなぜ夜間診療に駆けつけていたかは不明である。

・ 弘山医院には、患者が大勢トラックで夜に運ばれてきた。患者と一緒に棺おけを乗せて来ていた。帰りは、棺おけをいくつも重ねて乗っけて行った。毎日のように来ていた。子供心にも「ひどい事をするなー」と思った。母親が、皮を鉢巻にむいた湯で芋を病院の前の塀のところに置いておいて食べてもらっていた。直接渡すと監督さんに叱られた。 (寺島さん)

・弘山病院には、廊下も階段も足の踏み場が無いほど大勢の朝鮮人が居て、アイゴー、アイゴーと言っていた。それはそれは可哀そうだった。(岡田さん、森江さん、廣瀬さん、須藤さん)
・ 弘山病院に、トラックいっぱいに、沢山来たのを見たことがある。昼間だった。アイゴー、アイゴーと可哀そうなもんだった。(山田さん)

・弘山病院に来たのは朝鮮人だけでした。日本人はいません。弘山先生と浅茅野の宿舎に往診に何度か行った。乗用車で病院の仕事が終わって夜に先生と二人で行きました。飯場は朝鮮人だけです。五つぐらいの組がありました。患者さんはケガの人よりも、病気の人、発熱やお腹の悪い人のほうが多かったと思います。診察は、朝方になるぐらいまでかかりました。(石川さん)

G・逃げたたこ部屋労働者が二人、頓別共同墓地の釜の中に隠れて真っ黒くなっているのを村の警防団が見つけたことがある。「見逃してくれ」と泣いてたのんでいたとのことである。(森江さん)

・逃げると村の半鐘が鳴った。川尻を塞げと警防団の人たちが動員された。(寺島さん)

・石炭運搬作業に、川口組の棒頭がたこ労働者を一人つけてくれた。その人が逃げて翌年(19年)の春に金田番屋で死んでいるのが見つかった。(鈴木さん)

H 第二飛行場について
  
・ 知来別の崖を崩してトラックで運んでいた。(菅野さん、細井さん)
・ 朝鮮人の人が二人牛乳を飲みに家によく来ていた。レコードを持って来て家の蓄音機で聴いていた。(細井さん)

I ・ 勤労奉仕に行って、お昼に汁粉をご馳走になったことがある。(沖野さん)
・ 宝塚歌劇団が慰問に来て部落皆で見に行ったことがある。(沖野さん、細井さん)
・ 月に一度慰問団を招へいし、各号舎全員で一夜楽しんで友好を深めていた。(アンケート回答)


4. 浅茅野飛行場建設工事の犠牲者について  

現在氏名が判明している犠牲者は、121名、内訳は、本籍が朝鮮の人94名、本籍が日本の人15名、本籍が不明の人12名である。この他に、闇から闇に葬られた人たちがいる。その数は分からない。
強制連行朝鮮人の死亡者数について、猿払村史では85名、浜頓別町史では95名となっているが、この数値は、各役場が所有する埋・火葬認許証などの調査によるものではなく、角田観山氏などの先行調査をもとにしたものと考えられ、日本人も含まれた数になっている。
埋火葬認許証などを歴史的資料として公開し、正確な調査が今後求められる。
また、本多勝一氏著の「北海道探検記」では遺体を運んだ証言者は自分が運んだ分だけでも200体くらい、全体では300〜400体と推定している。
これまでに我々が手にしている浅茅野に関する死亡者名簿は、竹内氏が作成した「強制連行期北海道朝鮮人死亡者名簿」に記載の平和愛泉会名簿83名分、橋本氏の信證寺過去帳の写し87名分、角田氏の信證寺の過去帳などを調査した記録63名分、猿払村の埋火葬許可記録の写し67名分、 浜頓別町の埋火葬許可記録の写し32名分、石村氏から提供された信證寺にある埋火葬認許証の写し79名分、猿払村史に掲載された85名などである。これらの死亡者名簿を突き合せて新たな犠牲者名簿を作成したがこれで全てではない(別添)。引続き全容の解明が求められる。

(1) 埋火葬許可の記録から

埋・火葬許可の記録は、墓地・埋葬法によって各市町村が作成している。その保存年限は各市町村の任意で扱われている。通常は医者の死亡診断書とともに役場に届けられ役場が火葬の許可を与えた記録である。役場では、許可順に番号を付して管理している。現在は「許可証」となっているが戦前は「認許証」と言った。

@ 猿払村について

現在我々が手にしている猿払村の埋火葬認許証は、昭和18年から昭和29年までの記録綴(2)に含まれるものの一部であり、昭和17年分は含まれていない。
猿払村の、埋火葬許可証の発行番号を見ると1943年が146件、1944年は9月13日で49件となっている。

昭和18年12月31日死亡 平田◯◯◯ 本籍 広島県呉市 認許番号 146号
昭和19年9月13日死亡  大原◯◯  本籍 朝鮮忠清北道  認許番号49号

認許番号は一年毎に連番が更新される。約一年半の間に195名の死亡が役場に届けられたことになる。そのうち朝鮮人と思われる者約67名である。他は、村人と強制労働の日本人と思われる。ちなみにこの時期の村人の葬儀は村史から推定すると20件程度であったらしい。約100名近い日本人も強制労働で犠牲になったものと思われる。その全貌を解明するためには、1942年分の記録や工事関係日本人の分についての記録の公開が求められる。

A 浜頓別町について
   
浜頓別町に存在する浅茅野飛行場関係者の埋火葬許可の記録は、1943年8月6から同年9月2日までの18名の一群と、1943年12月22日から翌1944年1月4日までの4名の一群に大きく分かれている。これ以外の許可証は見当たらない。
何故この期間に限り浜頓別町役場(当時は頓別村)に届けられたのだろうか。前期の一群は、全て埋葬許可であり、後者の一群は全て火葬の許可である。前者は全て永生寺の過去帳に記載がある。
死亡者の現住所は、全てが「北海道枝幸郡字頓別村山軽鉄道工業株式会社丹野組」となっている。だが山軽(地名)には飛行場関係の飯場は見当たらない。
この事態は、 1943年8月14日付の前記北海道新聞の記事が報じた8月2日の殴打殺人事件と関係があるように思われる。その事件の結果警察も介入し、出鱈目な死亡原因を書いた死亡届を猿払村役場は受取らなくなったのではないだろうか。その結果として、頓別村に事務所があるように装い死亡届を一時的に浜頓別町に提出するようになったのではないかと思われる。
後者の一群と前者との違いは、現住所の記載が真正な「浅茅野台地」となっていること、全てが火葬許可になっていることである。浜頓別町の埋葬・火葬の記載は、猿払村のそれと比較して厳密に書かれている。この4名は火葬にする必要があった人たちではないのか。 即ちこの4人が当時全道的に発生していた発信チブスによる死亡ではないか、浅茅野台地からわざわざ弘山医院に運び、火葬にしているのはこの四人が法廷伝染病の発疹チブスであったからだと思われる。

*発信チブスについては、昭和19年1月30日付の北海道新聞に「全道に恐るべき猛威を揮う発疹チブスは、27日までに罹患者1451名、内全快918名、死亡125名」「死亡者には医師、警察官、看護婦、市吏員が多数おり、死亡率は半島人3%に対し内地人は19%の高率を示し」とある。

(2) 見聞者の証言から  
 
 ・ 毎日のように馬車に棺桶を積んで家の前を通ったのが記憶に残っている。(菅野さん)

・ 「約二キロ離れた山の中へ捨てにいく。…直径二十メートルぐらいの穴が掘られていて…死体を投げ入れる。」(「朝鮮人強制連行、強制労働の記録−北海道・千島・樺太篇」(朝鮮人強制連行真相調査団編 −1975年

・ 前記、高橋さんや、園原さんのお話のように現場で生埋めになりそのまま放置された人たちがいた。

5. 浅茅野飛行場建設工事犠牲者の遺骨の所在について  

遺骨の行方は大きく三つに分かれる。(1)旧浅茅野共同墓地に埋葬された人。(2)火葬にされ人。(3)生埋めのまま放置された人である。
旧共同墓地に埋葬された人たちは、昨年の試掘で一体が発見され、今回の発掘をまっている。
火葬にされた人たちの遺骨のうち一部は韓国の遺族のもとに届けられた。韓国のご遺族がその時の葬儀の写真を保存されていた。写真では、おおよそ18体の遺骨が返還されている。生埋めのまま放置された場所については様々な証言があるもののまだ特定できていない。

(1) 旧浅茅野共同墓地について

@墓地の移転について

旧浅茅野共同墓地の土地は、登記簿によると王子製紙と取引のあった川上與三郎氏が1925(大正15)年に付近一体の土地とともに購入した。1932(昭和7)年には分筆され「墓地」として登記されているので、その頃はすでに浅茅野共同墓地として村の人々の墓地になっていたと考えられる。
墓地に至る道筋は低地で水に浸かりやすく、戦後戦後まもなく解放された飛行場の土地の一角に浅茅野の共同墓地を移転した。新共同墓地には、1952(昭和27)年に火葬場が完成した。
移転は、一度に行われたものでなく何年かかけて親族のものが新しい墓地を使うようになっていった。墓石もない墓地だったので朽果てた墓標はそのまま残されたとも考えられる。一度に行われたものでなく何年かかけて親族のものが新しい墓地を使うようになっていった。結果的に、親族のいないタコ部屋などの人々の遺骨は現地に残されることになった。
墓地の許可権限を持っていた北海道が新共同墓地を認めたのは1959(昭和34)年のことである。

A 焼骨について

旧共同墓地には、露天の焼場があった。一体を炊き上げるには、大量の薪と時間(4時間)を必要とした。犠牲者の遺骨は、はじめのうちは火葬にしていたが薪もなくなり埋葬するようになったという話である。
火葬になった遺骨には残骨が出る。墓地の移転後に、引取り手のない残骨を奈良重蔵住職が集めて大きな壺に入れて供養していたのが信證寺の納骨堂の遺骨の遺骨と考えられる。
また、戦後に信證寺から遺骨70体を丹野組が受取ったとの話もあるが不明である。
(2)  浜頓別町に届けられた死亡届の遺骨について

浜頓別町に届けられた死亡届のうち埋葬の人々については、許可証では墓地を頓別共同墓地としているが、実態は浅茅野共同墓地に運んだもの考えられる。最少の費用で遺体を処理しようとするのがタコ部屋経営の常だからである。
ただし、発疹チフスによる火葬の4体の遺骨のうち2体については浅茅野の信證寺にその記録があるので持ち帰られたと考えられる。
従って、現段階では頓別の旧共同墓地(山田氏所有地)に埋葬された遺骨は無いものと考える。

(3)  渡辺作一さんの土地の墓標について

・ 「朝鮮人は土葬していたのを火葬して全部一緒にして、斜面のところに埋めて木の墓標を立てていた(1948年から4、5年間)」「新しい墓地ができて、骨をまた掘り出してそこに持って行った。今、石を置いてある。そこに骨が埋まっているはずだ」(鈴木さん)
・ 金子氏作成の図面には、現在の共同墓地から線路より浜頓別側付近に「慰霊塔 45人」の記載がある。
・ 「今の墓地のところの下のほうに飛行場で働いた半島の人たちのお墓があって、6尺もする木の柱が立っていた。沢山の名前が書いてあった」(鴻上さん、肥後さん)
・ 前掲『北海道探検記』には、渡辺さんらとの写真のト書きに「共同墓地の一角に渡辺氏が埋めて供養している犠牲者の一部の骨の土マンジュウ(左下)」と書かれている。
・ 渡辺さんのお嫁さんは、「じいちゃんからその話は聞いている。それで私たちも共同墓地の自然石の墓石を供養している」と語っている。

(4)  第二飛行場の犠牲者の遺骨について

「当時川口組の事務をしていた岸田チサさんの話として、遺骨は、真宗大谷派鬼志別教会の岩佐亮明師が寺に祀っていた…遺骨は5、6体あったように思う」と『飛行場前という名の無人停車場』(P79)に書かれており、浜鬼士別の岩佐師のお寺は現在廃寺となっており、引き継いだ鬼志別の光徳寺のご協力を得て納骨堂の骨箱を一体一体調べさせてもらったが該当するものは見当たらなかった。
また、猿払村の埋火葬認許証に記載された、浜鬼志別共同墓地を管理していた浄土寺も過去帳などを拝見したが該当するものは見当たらなかった。

                

6. 其の他関連事項について 

 工事の完成、縮小に伴って、丹野組の人たちは同じ鉄道工業が陸軍から請負っていた九州鹿児島の万世飛行場建設工事に送られた(石川さん)。川口組は、下川の炭鉱に送られたという(前田著『飛行場前という名の無人停車場』)

 

7. おわりに  

北海道の民衆史掘り起こし運動は、1949年7月14日に誕生した歴史教育者協議会(略称:歴教協)に所属する先生方によって1968年に「人民の北海道百年史」「はたらくものの北海道百年史」発行の取組から始まった。その後、1973年に小池喜孝氏らにより「オホーツク民衆史講座」が発足、1978年に「民衆史掘り起こし運動北海道連絡会」がつくられ現在に至っている。
浅茅野飛行場の最初の調査は、1968年から1976年まで猿払村の小学校に勤務した橋爪公彦氏らによって行われた。その仕事は、金子保夫氏らに引き継がれた。
 その後、角田観山氏らの調査、浜頓別高校郷土史研究部の活動や、石村弘氏などの取組があり今日に至っている。先達に感謝したい。
(2006/08/17 文責 小林久公)