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高校野球【球都ヒストリー】

<1>第1回大会優勝の京都二中

写真:第28回大会で準優勝した京都二中野球部OBの金森正夫さん(右)と黒田脩さん 拡大第28回大会で準優勝した京都二中野球部OBの金森正夫さん(右)と黒田脩さん

写真:京都二中が優勝した第1回全国中等学校優勝野球大会の表彰式=1915年、大阪・豊中グラウンド 拡大京都二中が優勝した第1回全国中等学校優勝野球大会の表彰式=1915年、大阪・豊中グラウンド

 ■第95回 全国高校野球選手権記念京都大会を前に■

       ◇初代覇者の精神 脈々◇

 京都で野球が始まったのは、いつか。

 手がかりになるのは、「京都高校野球史」(府高校野球連盟)の一節だ。

 1871(明治4)年から76(明治9)年まで続いた熊本洋学校で米国人に野球を教わった学生が、京都の同志社に来学したときキャッチボールを持ち込んだ、との記述がある。これを端緒に、同志社大学野球部部史をひもといた。1889(明治22)年ごろ、同志社の野球が始まった、との記録があった。京都御苑を借りて本拠にしていたという。これが、京都の野球の始まりとされる。

 そして、夏の甲子園の由来も、京都にある。

 京都高校野球史などによると、1892年、京都大の前身の一つである旧制三高に野球部が誕生する。三高は1901年ごろ、全国で初めて中学を集めた野球大会を同校グラウンドで主催。この大会が発展して、現在の「全国高校野球選手権大会」につながった。高校球児たちの夢舞台の初回大会は、今から98年前の、京都にさかのぼる。史料をもとに、その歴史の一端をたどった。

  ◎  ◎  ◎

 1915年4月、京都二中(現・鳥羽)のOB2人が後輩の練習を見つめていた。三高野球部主将の小西作太郎と京大生の高山義三だ。後に、小西は日本高野連顧問、高山は京都市長になる。

 「今年の二中は強い。京の覇者を決める大会をやってはどうだろう」

 三高は毎年11月に近畿などの中学を招待する「近畿中等学校連合野球大会」を開いていたが、1校1試合だけの大会だった。2人はこれを京滋地区の優勝校を決める大会に変え、さらに各地区の優勝校を集めた全国大会を構想した。相談を受けた朝日新聞はさっそく夏に「全国中等学校優勝野球大会」を主催することになる。

 7月の京津大会には、京都・滋賀の11校が参加。当時の優勝候補は二中と京都一中(現・洛北)で、両校はいきなり初戦で当たった。7回2―0と二中がリードしたが、日没のため中断。翌日の再試合では、初回ではなく7回から始まることに不満を持った一中が棄権した。二中は決勝で同志社中を5―0で下し、京津大会を制した。

 全国大会は8月18〜23日、大阪の豊中球場であった。高松中(香川)、和歌山中に勝って決勝に進んだ二中は、準決勝で優勝候補の早稲田実(東京)を破った秋田中と対戦した。試合は1―1の同点のまま延長戦へ。13回裏、二中・大場義八郎の中飛が失策を誘い二塁に進むと、津田良三の二塁ライナーを野手がはじき、あわてて一塁へ送球したが、一塁手も落球。その間に大場が生還してサヨナラで勝ち、73校の頂点に立った。これまで94回の歴史を重ねる大会の第1回大会で、深紅の大優勝旗を手にした。

 翌日、二中メンバーは6台の自動車に乗って京の街をパレードした。四条烏丸の交差点は大勢の人で動きが取れなくなり、大丸京都店からは紙吹雪が降り注いだという。

 続く第2回大会も二中が出場したが1回戦敗退。第4回大会は京津大会を制したものの、米騒動で中止になった。その後は、同志社中や京都一商(現・西京)、立命館中が出るようになり、一商は第7回大会で準優勝している。

  ◎  ◎  ◎

 二中が再び全国の舞台に登場したのは、戦後すぐの46年夏。

 まだ食糧が十分ではない時代。第1回大会優勝メンバーの野上実らが、京津大会優勝時にホテルの屋上ですき焼きをごちそうしたという。

 当時の二中OBを訪ねた。

 三塁手だった黒田脩(83)は「試合前に勝ったらすき焼きだと聞かされて、チームは奮起した」と振り返る。

 捕手の金森正夫(82)は第1回大会で主将を務めた中啓吉から、大会前にスイングの指導を受けたという。その効果は成田中(千葉)と対戦した1回戦の9回、試合を決める三塁打となって発揮された。

 二中は豪速球のエース田丸道夫を軸に接戦をものにして勝ち進んだ。決勝で好投手・平古場昭二がいる浪華商(大阪)と対戦。投手戦となるが2―0で敗戦した。

 黒田の記憶に焼き付いている場面がある。4回1死二塁、ヒット・エンド・ランのサインが出て、走者の黒田はスタートしたが、打者の田丸がサインを見落として三盗失敗に終わった。準優勝した二中は、翌春の選抜大会にも出場した。甲子園球場は24年から使用されたが、戦後の大会再開時には米軍に接収されており、西宮球場が使われた。二中が初めて甲子園球場の土を踏んだのは、この選抜が初めてだった。

 翌48年、学制改革で同校は廃校となった。二中の「後継校」として鳥羽高校が開校したのは84年のことだ。

 今から2年後の2015年は、第1回大会からちょうど100年を数える。同年12月、第1回全国中等学校優勝野球大会に出場した10校のOBチームが、甲子園で大会を開く予定だ。鳥羽高校野球部のOBチームも出場する。OB会長の谷口正樹(42)は「1回大会優勝の歴史の重さに思いをはせながらプレーしたい」と話す。=敬称略

第1回(1915年)〜第10回(24年)の代表校(カッコは全国大会の成績)

1回 京都二中(優勝)

2回 京都二中(1回戦)

3回 京都一中(2回戦)

4回 京都二中(中止)

5回 同志社中(1回戦)

6回 京都一商(2回戦)

7回 京都一商(準優勝)

8回 立命館中(2回戦)

9回 立命館中(ベスト4)

10回 同志社中(2回戦)

  ◎  ◎  ◎

 全国高校野球選手権大会は、今年で第95回を迎える。高校野球の発祥となり、第1回大会の優勝を飾った京都の歴史を振り返る。

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