人々を自閉症とみなす社会――自閉症スペクトラム概念の拡大を考える

アメリカ精神医学会の診断基準DSM(精神障害の診断と統計の手引き:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)が19年ぶりに改訂され、アスペルガー症候群を含む広汎性発達障害が、自閉症スペクトラム障害という診断名に変更になった。変更点については以前の記事を参考にしていただきたい。

 

今回は少し趣向を変えて、自閉症スペクトラム障害とその社会的背景について考えてみたい。

 

 

そもそも自閉症スペクトラムとはどういう概念だったか

 

最初に確認したいのは、自閉症スペクトラムという言葉の意味である。この言葉は統一的な定義がなく、研究グループによって、国によって、人によって意味が異なっているため、文脈によってどのような意味で使われているかということを考える必要がある。

 

今回は、この「自閉症スペクトラム」という言葉の使い方について考えてみたい。まずは自閉症スペクトラムという言葉はどのように生まれ、どのように変化し、DSM-5に収録に至ったかをみてみよう。

 

「自閉症スペクトラム」という用語を提唱したのは、イギリスの精神科医であるローナ・ウィングである(Wing 1988; 1997)。

 

ウィングは1944年に小児科医のハンス・アスペルガーが書いた論文を再発見する形で、自閉症にも知的障害をともなわないもの(IQが70以上)があるという報告をし、これを「アスペルガー症候群」と提唱した。

 

精神科医の村田豊久はウィングの報告に対して「高機能(自閉症)を、自閉症から区別したということで、アスペルガーの報告を評価したということですね。ただの、ロウIQ、ハイIQの問題だけです」(村田 2007: 406)と述べている。

 

80年代当時は知的障害をともなった自閉症は知られていたものの、知的障害がないタイプの自閉症は専門家の間でもまだまだ知られていなかった。ウィングが、アスペルガー症候群という概念を提唱したことによって、知的障害のない自閉症は大きく取り上げられるようになった。

 

ウィングはアスペルガー症候群の提唱をした後に、自閉症スペクトラム概念の提唱をしている。

 

自閉症スペクトラム概念の新規性はどこにあったのか。ウィングによれば自閉症スペクトラムは「奇矯さと正常性を統合し、両者の区別を曖昧にするもの」(Wing 1997)である。自閉症か否かで正常と異常をスパっと分けることを避けるためだったことがわかる。

 

自閉症スペクトラムと呼ばれる範囲についてウィングは「自閉症スペクトラムは広汎性発達障害とオーバーラップし、より広いもの」(Wing 1997)だと述べており、当初想定していたのは、広汎性発達障害とその周辺群であったことがわかる。これは、自閉症スペクトラムという言葉が異常な拡大を起こす前の話である。

 

 

自閉症スペクトラムの意味の変化

 

自閉症スペクトラムという言葉は日本国内でも解釈が異なる。

 

宮本信也『アスペルガー症候群 高機能自閉症の本』は自閉症スペクトラムを「自閉的な特徴のある状態をすべて連続したものとしてとらえる考え方」(宮本 2009: 31)と述べている。宮本は自閉性を持つ者を連続的にとらえると紹介している。スペクトラムは、自閉症を自閉性の濃淡でとらえるという考え方だ。

 

宮本の紹介が近年では最もスタンダードな理解である。DSM-5に収録された自閉症スペクトラムの考え方も基本的には同じである。詳細は後述するが、この理解だとウィングの提唱した自閉症スペクトラムより狭い範囲を指すことになる。

 

一方で、本田秀夫『自閉症スペクトラム』では異なった捉え方をしている。内容紹介では「自閉症とアスペルガー症候群、さらには障害と非障害の間の垣根をも取り払い、従来の発達障害の概念を覆す『自閉症スペクトラム』の考え方が注目されています」と書かれている(*1)。

 

(*1)本田の自閉症スペクトラム概念について批判的に取り扱ったが、冒頭にあるこの部分を除くと良書である。例えば、発達をボトムアップ的にのばすのではなく、いくつかの目標(協調性よりもルールを守ること等)などをトップダウン的に設定して、将来の到達点を低めに設定しておくことなどは非常に重要である(129頁)。また「非障害性自閉症スペクトラム」という点も重要である(91頁)。いわゆるシュナイダー基準というものだ。精神病理の症候としては、自閉症スペクトラムなり、うつ病なり、不安障害の項目は満たしているが、日常生活に支障がなければ、それは精神障害とは呼ばないという考え方である。自閉症スペクトラムにおいても、この考え方を尊重することは非常に重要である。

 

自閉症が片方の軸にいるとし、もう一方の軸に正常があるとすると、その間に正常と異常の線引きはなく、地続きであるというイメージだ。そして、どんな人も、そのどこかにマッピングされるという考え方だ。本田は広く捉えた場合には、自閉症スペクトラムは人口の10%は存在すると述べている(本田 2013: 15)。

 

私の知る限りなのだが、日本では本田のように拡大された自閉症スペクトラムの解釈が紹介されることが多い。しかし、この解釈はスタンダードなものだとは言いづらい。

 

そして同時に強い違和感も覚える。本田の本から引用しよう。本田は典型的な自閉症ではないが、以下のことも自閉症スペクトラムに該当するという。

 

 

「話が理屈っぽい」「食事中にテレビについ夢中になってしまう」「特定の作家の漫画に熱中する」「インターネットやSNSに熱中する」「女の子同士のグループでいつも行動することが肌に合わないと感じる」(本田 2013: 23)

 

 

行動が少し逸脱的だと自閉症スペクトラムというラベリングを貼られるようだ。このくらいの逸脱ならば、誰でも一つや二つくらいは当てはまるのではないだろうか。

 

これは、社会からの逸脱を診断名や病名で捉える現象である。医療社会学ではこの現象を「医療化」と呼ぶ。このような拡大された自閉症スペクトラム理解も医療化の一つだと考えられる。

 

確かに、生活に支障をきたすくらいインターネットやSNSに熱中して社会生活に支障があるなら、それはそれで問題である。精神医学であれは、インターネット依存という概念のアプローチをするのかもしれない。しかし、少なくともインターネットへの熱中を脳機能障害である自閉症スペクトラムだと捉える研究はないし、エビデンスもない。

 

また、特定の作家の漫画に熱中することに至ってはどこが問題なのかが理解できない。

 

インターネットやSNSに熱中するのを自閉症スペクトラムだと言い始めれば、エセ科学の領域に突入する。要するに、インターネットの使いすぎは脳機能障害であるということだ。ゲーム脳などとほとんど変わらないレベルのデタラメさである。

 

このようなことを書いている本田秀夫は無名な人物であれば「そういうことを言う人もでてくるだろう」で済む話なだが、彼は日本における自閉症の大家の一人である。

 

しかも、本田のような拡大された自閉症スペクトラム理解をしている臨床家は少なくない。ほとんどの臨床家は、日本語で書かれたものを読んで臨床の知識を得ている。日本では自閉症スペクトラム拡大の運動的思想の下で書かれた書籍が多く、書籍に明らかな偏りがあるということを気づく機会もあまり提供されていない。

 

自閉症スペクトラムという言葉の取り扱いは丁寧にした方がよいのではないかと思うのだ。自閉症概念の拡大によって自閉症研究がエセ科学めいたものになっていることは、もう少し知られてもいいのではないだろうか。

 

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