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第1章 嘆きの人魚と天の御使い
第二話
「このようなところに、人魚がいらっしゃるとは」

 突如聞こえた柔らかな低い声は、天界に響き渡るという鐘の音のようであった。身体を震わせて声の主を探す。するとそう遠くない場所にその人物はいた。
 星明かりでも分かる真っ白な正装は一目で仕立てのいいものと分かるもの。どことなく神官のような趣があるが、どこの国の衣装であったか。必死に頭の中で様々な国を思い出すがまったくわからない。

「大海を統べる海の覇者に、ここはいささか手狭では?」

 青年はそう言うと近づいてくる。落ち着いた優雅な足取りはただの貴族ではないことを示していた。内心慌てて、しかし表面には出さないようにゆっくりと立ち上がる。

「いいえ。空が恋しくなり彷徨い来たのです。けれど人目に触れてはならぬ身。わたくしを気遣って下さるなら、どうぞお立ち去りを」

 すると彼は近くもなく、遠くもない絶妙な距離で立ち止まり私を見た。青年の顔がやっと見えた私は息をのんだ。
 ――なんという、美貌なのか。これほどの美を持つ者がいるとは。
 白銀の髪は淡く癖がかって柔らかに風に揺られ、透き通るような白い肌を掠める。優しげに細められた瞳の色は分からないが、かの人は男女の性を超えた、人あらざる美貌であった。典雅で優美、簡単に人を寄せ付けぬ神聖さ。畏敬の念を抱き、跪きたくなるような青年だ。一応は夫である王子も抜きん出た美貌ではあるが、比較にならない。比べるのもおこがましい。
 青年はゆるく顔を傾げるとくすりと小さく笑った。

「これは、なかなか。麗しく恥じらい深き海の民と思えぬ豪胆さ。けれどその大胆さ、抗えぬ魅力にも。勇ましき海の精よ、今宵は趣の違う水遊びでいらっしゃる?」

 青年の柔らかな眼差しに見守られながら何と答えたものかと頭を悩ませる。他国の王族だろうか。普通の王族ではないはず。失礼の当たらないようにこの場を去るか、去ってもらわねば。

「その通りです。ですが地上に出られるのは夜のみ。身を隠さねばならぬわたくしを憐れんで下さるならば、どうか」

 立ち去って欲しいという意味を滲ませると、青年は困ったように苦笑した。

「人魚の嘆きを見たかったわけでは。けれど海を恋しがるあなたをお一人にするのは、あまりにもむごいことにも。では人ではない天の御使いたる僕ならば、よろしい?嘆く人魚を、神はお見捨てにはなさらない」

 自身が神のような青年にそう言われると本当にそのような気がしてくる。なぜなら彼には人の醜悪さがどこにも見当たらない。心底こちらを気遣っている優しい瞳をみると、彼が本物の天の御使いなのではと思えてくる。

「麗しき人魚。気高きあなたには、僕は信じるには値しない人間に見えていらっしゃる?どうすればあなたの甘美な信頼を頂けるのか」

 哀しげに吐息をもらしながら私の信頼を求める青年を見つめる。この青年ならば信じても大丈夫なのだろうか。だけど。
 この一年の出来事を思い出し、思わず唇をかむ。リガード王国に嫁ぐ時、身の回りの世話をする女官ですら連れてくることは許されなかった。そして少しずつ心を許した者は――。
 暗い過去に心が深き闇に堕ちそうになったとき。

 ――ふわり。

 温かな温もりに驚き、瞳を瞬いた反動で思わず涙が一粒零れる。

「あなたに悲しみは似合わない。けれど我慢することはありません。人の流す雨は心の雫。傷つき嘆く大地をうるおすもの。人魚の涙は海の涙。あまり泣きなさってはここは涙に沈んでしまう。ならばあなたの嘆きが小さくなるよう、僕が傍に」

 その言葉と同時にさらに優しく包まれる。
 こんな所を他の人に見られたら。
 すると青年は私の動揺に気づいたかのように告げた。

「大丈夫。他に人は居りません。皆かぐわしき宴に夢心地でいらっしゃる。たとえ目にしたとしても、一夜の夢が見せた幻と思われる」

 そして子供にするかのようにぽんぽんと背中を優しく叩かれる。

「お泣きなさい。あなたには泣くことが必要です」

 子守唄代わりとでも言うように緩やかに背を叩くリズムに、最後の砦が崩れおちる。こぼれ落ちる雫を隠すように私はさらに俯いた。
 ついさっき会ったばかりの人間に涙を見せる醜態をさらすなど。けれど、この青年は本当に御使いでいらっしゃるのかもしれない。神が私に下さった慈悲だと。そう思ってもいいのだろうか。
 せめて声だけはと必死に嗚咽をこらえながら私は泣いた。冷たい風が慰めるように頬を撫で、長い髪を揺らしていく。夜空に響き渡る水音に紛れるように、ただ静かに泣き続けた。
 リガード王国に嫁いで初めて流した涙だった。



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