斎藤環さんの書かれた『生き延びるためのラカン』(ラカンがジョジョ立ちしてる表紙の肖像は荒木飛呂彦さん筆)を読んでいて、いろいろ面白いのだが、いまの僕にはまだわからないことも多い。
精神分析家フロイトやその弟子ラカンのいう、子どものころにすべての人の心の中で起きるという【去勢】が、あるいは【エディプス・コンプレックス】の形成が、僕のように「父親のいない場所で育った男」には、どのように起きるのか?
僕は凄く甘やかされて育ったけれども、もちろん「去勢されていない」わけはないだろう。ラカンによれば「去勢の受け入れが、人に欠如をもたらす。人間のあらゆる欲望は、この欠如によって確立される」ということだ。僕には欲望がある。
【たりないもの】を感じているから欲望があるのだ。
僕が今も感じ続けている【たりないもの】の正体は、なんなのだろう?
小学校時代の立ち位置は「エッチ博士」だった
ヒトシは小学生のころ女性器の絵ばかり描いていた。
大人になり実際の女性器に触ることができるようになり、さらに職業的に女性器見放題となった現在(よく考えてみれば不思議なことですね……)彼のAV業者としての映像制作的な興味は「男性器の生えた美女」に傾きつつあるのだが、小学生のときは(そのころはインターネットもなかったので……)まだ女性器を見たことすらない。産まれたときはまさに母の女性器から出てきたわけであるが記憶にはない。
(しかし、こないだ小学校の同窓会が催され、同級生の男の子と女の子が六年生のときには男女交際していてセックスもしていたと36年目にして初めて聞いたな……。見てる奴は、あのころすでに見ていたのだな……)
そのころ『がきデカ』で子どもたちにも人気を博していた山上たつひこの大人向けのマンガ『喜劇新思想大系』には、戯画化された女性器が描かれていた。
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