代理出産を問い直す会

2013-04-26

露悪趣味か政治利用か

| 19:22

今晩、野田聖子子どもに対するドキュメンタリーが放送されるらしい。あまりにも痛々しい内容であろうことは容易に想像できるので、今夜は録画だけしておき、GW中の気力の湧いた時に見るつもりだ。

それにしても、一体何のための番組なのだろうか。これほど重荷を負った子を、何のため大衆に晒すのだろう。自らの出自、名前、身体の状況など事細かく報じられ、もはやどこにも逃げ場のない環境を一方的に作り出されて、成長したのち、彼は自分の人生にどう向き合えばいいのか。本人の立場、今後直面する現実を思うと心が痛む。

卵購入に限らず、代理出産、高齢での特殊な妊娠・出産記録がドキュメンタリーとして公開されるのはよくあることだ。それにメディアを通じて、ある営みを巡る社会のひずみや矛盾を問うといった手法自体は、生殖技術に限るものではない。ただ野田聖子の場合、単に社会に問題提起しているというよりは、彼女の露悪趣味を満足させる側面が強いように見える。もちろん露悪趣味だって表現の一つであり、それ自身を批判するつもりはない。また野田聖子が自らそれを晒す分には(見ていて痛々しいが)、表現そのものを批判することは難しい。しかし今彼女が行っているのは、子どもという他者を借りることで自身の露悪趣味を拡大させている行為に見える。人々には生きる上で必要な、他者の誰にも知られたくない部分、誰も犯すことのできない部分−−それは「神秘」とよばれることがあるし、切り口を変えれば「ゾーエー」という言葉で表すこともできる。更に語弊を覚悟の上で言えば「プライバシー」と呼べるかもしれない−−がある。今は物言えぬ子供にだって他者から隠したい彼だけの部分、彼だけの世界がある。そして、このような側面は、普段は秘められた部分であるがゆえに、表に出ると社会に衝撃を与えたり、人々に強い印象を与える。

前回の番組内容から察するに、今回の内容も、野田聖子の露悪主義を完成させ、結果的に売名の道具として位置づけられるものとなることは容易に予測できる。ただもしかしたら、卵子購入の結果として生まれ、しょうがいを負った子の生活を追うことで、制作側の意図的であれそうでないのであれ、卵子購入の持つ問題を伝える効果はあるかもしれない。

そうはいっても、もし卵子購入の問題を示したいのなら、本来作成すべきはこのような番組ではない。野田聖子卵子購入に焦点を絞るとしても、その結果として支払われている医療費医療現場の混乱を説明するなど、ジャーナリズムの中でやるべきことは他にあるはずだ。また野田聖子に限らず、アメリカ卵子を購入し、日本で出産、子育てをしている人は少なくない。初期の事例をたどれば、子供はすでに成人に達しようとしており、それらの人々を追うことで社会への問題提起もできるはずだ。実際のところ、どの病院がどのようなことをしているか、日本国内の誰がアメリカの業者とどう関わっているかなんて、マスコミ関係者の間でも既に知られていることで、真のジャーナリストがその気になれば情報を得ることはそれほど難しくはないはずだ。

このような感想を抱く一方、野田聖子の子を、露悪的、好奇的な目で追う(以前と恐らく今夜の)番組内容、そして寄せられたであろう批判を受け止めず(または無視して)、放送し続ける制作側を見ていると、手塚治虫火の鳥』の一話を思い出す。


手塚プロによるサマリーは以下の通り。

火の鳥 9・異形編、生命編

視聴率競争に追われるテレビプロデューサーの青居は、番組の人気回復のために、クローン人間をつくってハンターに殺させるという企画を考えて、アンデス山中のクローン研究所を訪れました。

そこで青居は、研究員の猿田とともに、クローン人間の秘密を知るインカの精霊の子孫"鳥"と出会いましたが、そこで何と青居自身のクローン人間をつくられてしまいます。

それは、欲のために生命をもてあそぼうとした青居に対して"鳥"が与えた罰だったのです。

テレビ局は、青居のクローンをハンターに殺させる番組をスタートさせましたが、本物の青居もターゲットにされてしまいます。

青居は、追っ手から逃げる途中で知り合った少女ジュネとの束の間の生活によって、忘れていた人間らしい心を取り戻し、殺されるためにだけ生み出されるクローン人間の工場を爆破する決心をしました。

(この内容の冒頭はこのサイトから閲覧可能)

私の友人、知人にはAIDで生まれた人がいる。クローンとまではいかずとも、実際に、特殊な形により生まれた人は既にこの世に存在し、その人たちが自ら、これらの方法は子供に苦悩を引き起こすと何度も主張している。それにも関わらず、相変わらず、生まれた人の気持ちを考慮せずこのような番組が作られ続ける現状には腹立たしい思いがする。番組制作者も、上記の話を読めば、少しは当事者の危うさ、懊悩といったものが理解できるだろうか。それとも、彼らはそのような事は既に承知したうえで、やはり視聴率の方が大事だと決断を下しているのだろうか。