代理出産を問い直す会

2010-08-26

野田聖子の妊娠

| 01:26

野田聖子アメリカで他者の卵子を用いて妊娠したとのこと。女性の搾取の面から言えば代理出産よりはマシだが、問題がないわけではない。大体、今回の野田氏の週刊新潮の手記によると、提供卵で妊娠できなければ、代理出産も考えていたそうなので(他人の卵を用いてまた別の第三者に妊娠させるということだろう。)たまたま結果が卵提供に落ち着いたに過ぎない。

この問題については「代理出産を問い直す会」で声明を出すかどうか考えている。しかし会としてまとめるのは時間がかかるだろうから、その前にここでまず私自身の意見を述べておく。


  • 母胎の健康

現時点で50歳近い野田氏は、自分に胚(受精卵)を移植するにあたって、身体が妊娠できるようエンハンスメント(身体改造)しているはずだ。その時点で20代、30代の女性が体外受精を実施する場合より、大きな負担がかかっているだろう。今後も、妊娠を継続させる上で多大なケアを必要とするのは当然だし、出産後も無事に閉経するまでホルモン剤を使うはずだ(第二子も産む、と言うかもしれないが…)。それら一連の行為が50歳の身体に与える影響は少なくないはずだ。

もちろん「自分の身体を傷つけるのは野田氏の自由」という意見はあるだろう。しかし医療者が彼女にかかりきりになっている間、本来必要であるはずの産婦人科新生児科の人手が減ってしまうのだ。野田氏一人ならば誤差の範囲内かもしれないが、このような例が一般化すると社会問題となっていく。人手だけではない。今の日本では妊娠・出産は自費だが、妊娠中に合併症を引き起こせば、そこでは保険を使うだろうし、その後の後遺症として体調不良に陥るかもしれない。高齢で大量のホルモン剤を使用すれば、ガンになる確率も上がるだろうから、やはり保険を使うだろう。自分の命や健康は他者との助け合いの中で支えられている。そのような事を忘れて「自分の身体は自分の自由に処分できる」と思うのは随分自分勝手な考えではないか。

…ただ、健康上の問題は、別の視点を用いたり広義に解釈すれば批判から免れることが出来よう。女性の身体操作を良しとする思想に反感は抱いているけれども、そうでない人もいるかもしれない。とはいえ子どもの立場をとると問題の見方、その深刻度は変わってくる。

今回の件を知って最初に気になったのは、生まれる子どもが恐らく遺伝上の母親を知り得ないことだ。匿名の配偶子で生まれた子どもの苦悩は、すでにAIDで生まれた人々が声を挙げており、野田氏も知らないわけはない。ただし現在では、彼らの苦痛が考慮され、子どもの「出自を知る権利」が問われるようになっているから、今は匿名でも、今後その情報が開示されることはあり得る。(実施した医療機関にその情報が残っていればの話だが。ちなみに慶応のAIDではドナーの情報が長い間保存されていなかったので、生まれた子ども達は卒業アルバムを頼りに自分で情報を収集するしかなかった)。

子が直面する苦しみは、単に遺伝的な親が分からない事によるものだけではない。たとえば、大人になるまで自分がドナーの介在で生まれた事実を知らなかった人は、親や親戚など全ての大人から騙され続けていた事実に怒りが生じるという。とはいえいろいろな話を聞いていると、当事者の苦悩はそのような「わかりやすい」理由だけで生じているのではなさそうだ。自分が自分でないような違和感、それに伴う苦しみを抱くらしい。

いろいろな言葉で表現される彼らの「違和感」を私なりに解釈すると、それは自分の存在が一般的な自然の介在ではなく人為的に「作られた」こと、それもよりによって人を助けるはずの医師という立場の人間により決められてしまった(医師により危害を受けたこと)ことに対する違和感のように思われる。たとえば生まれた人はしばしば「なぜ医師は目の前の親のことばかり考えて、生まれる子どもの事は考えなかったのか」という憤りを表現する。

人々は一般的には何らかの形で「自然に」生まれている。途中に不妊治療のプロセスがあったとしても「たまたまその精子により受精したのだ」「自然の成り行きとして、この母の子として生まれたのだ」などと、何らかの形で「自然」が働いたと捉えている。このように自分が「自然の采配」により生まれた事実は、自分が生まれ出たことをこの世の「必然」とみなし、それゆえ自分をかけがえのない存在と捉える上での基盤を作り出す。宗教的な言葉を使えば、我々は神の采配の元に生まれてきたのであり、それゆえに価値がある、という発想になろうか。

こういった「誕生の自然性」(「偶然性」に重点を置く場合もある)は、一般的な方法で生まれた人にとってはあまりにも自明であるがゆえに、普段は悩みもしないことだ。しかし提供卵・精子代理出産で生まれた人では、それが成り立たない。こうした人々にとって、崇高な神であるはずの存在は「医師や斡旋業者といった誰か」である。自分の存在そのものが、自然ではなく「誰か」の意思により決められてしまっているのだ。こうした事実が当事者の実存を揺るがし、それゆえに苦悩が深まる……これが私が当事者たちと接した上での印象である。

自然に生まれた場合でも、人は自分の「生まれ方」に苦悩を抱くことがある。婚外/内子の別をはじめ、文化的に構築された差別により苦しむこともある。いわんや配偶子提供をや。この状態で当事者達が抱く苦悩は、我々が思う以上のものなのだろう。それにも関わらず、医師や親が「愛情さえあれば本人は苦しまない」と勝手に決めつけていることも、また当事者たちが憤怒を抱くところである。いったい、何を根拠に大丈夫だと言っているのか、当事者達は医師や親の軽い判断に怒っている。

そして、そのような意見がすでに出されているにも関わらず、野田氏は提供卵の購入・使用を強行したのだ。

  • 「子を所有する」欲望

向井亜紀高田延彦の事例や、根津八紘の手がけた実母の代理出産では、遺伝的に夫婦の子である事が自明として語られ、それゆえに人々は「子を持ちたいカップルの気持ちを考えよう」と肯定的に捉えることもあった。だが今回は、提供卵を用いており、遺伝的に野田氏の子どもではない。その一方、今回の手記の中で野田氏は、向井亜紀型の夫婦の配偶子を用いた(はずの)代理出産も認めるべきだと述べている。これらの行為の一貫性はどこにあるのか。もはや女性の本能的な「子を産んでみたい」欲望でも、同じく本能的な「遺伝的子孫を残す」欲望でもない。野田氏が主張するのは「子を所有したい欲望を持つ人が子の親になるべき」という発想だろう。

しかし親子の定義は、本来、生物学的な現象に対して与えられたもので、他者が恣意的に決められるものではない。例外的に、生物学的な親が分からない場合や、生物学的な親が何らかの理由で親としての立場にいれらない時に、子どもの福祉を護るための措置として、社会が人為的に親子関係を決めているのだ。だから子は本来、親の意思と関係なく生まれうる存在だし、親の方も、必ずしも親になりたくてなっているわけではない。それは、人間がこのような身体を持つ生き物として存在している限り、避けられない事実だ。しかし野田氏の主張は、この生物として(あるいは人間の種として)の前提を覆そうとしている。

そのように極端な自由主義が用いられる際には、例によって自己決定権が持ち出されるかもしれない。けれども(乱暴な議論なのを承知で敢えて言えば)自己決定の座である身体が成立する上での生物的な前提を欠いた所には、そもそも人権の座となる自己は成立しえないのだから、自己決定も成立しない。(……突然変異か何かで、他者の身体に寄生させて生まれる人間が出来ればまた別かもしれないが…けれどもそのような生き物を人は人間とみなすのか、そもそも人間とは何なのかが問題になる)それは正当な権利の行使ではなく、単なるエゴイズムである。

  • 卵子売買の現場の問題

日本では卵の売買は(表面上は)行われていないので問題視されていないが、アメリカの卵提供システムの問題はかねてから指摘されてきた。まず排卵誘発剤を大量に用いて卵を提供すれば、後遺症で提供者が不妊になる危険がある。また自分の提供した卵が、どこかで誰かの子どもとして育っている事実は、年齢を経るに従って提供者に重くのしかかるだろう。しかし若い提供者が、提供の時点でそのような問題にリアリティを持って捉えらることは難しい。この構造は不妊高齢者と若い女性の世代間搾取と取ることもできる。また、アメリカで卵を購入したということは、人種はもちろんIQや身長も好みのものを選択しているだろう。

今回の場合、本人は「血液型しか選ばず後は医師に任せた」と述べているそうだが、ならば高確率で白人や黒人の子になるはずである。果たして生まれるのは、別の人種の子であるだろうか?もちろん、そのようなはずはないだろう。野田氏の代わりに医師が、優性的に望ましいと思う卵を選んでいるはずである。大体、卵の値段によって、持ち主の属性は自ずから決まってくるので(高い卵は、IQが高く容姿も美しい、など)、高い値段を払っておけば、必ず高品質の卵になるのだ。これは生まれた子どもにとっては、自分が一種のデザイナーベビーである事を意味している。その事実が生まれた本人に、やはり負担をもたらしてしまう。

今回の野田氏の妊娠は、第三者と子どもに問題を押しつけた上で成立する「卵提供」の存在の元に可能になったことを忘れてはならない。


おめでたくなどない

一部のメディアは、子どもが出来ると、その子を免罪符にして、あたかも祝福すべきこと、批判してはならない事のように捉えるが、それは短絡的な発想だ。強姦をした人間(親)が責められても、強姦であれ産まれた子は社会が守らねばならないように、子が出来るに至った経緯と、生まれた子の存在とは別に扱われるべきだ。娯楽メディアは批判されるのを恐れているから、とりあえず「おめでたい」と無難に済ませたいのかもしれない(または今後の取材を円滑にするため、今の時点では批判を避けたいのかもしれない)が、誰もが娯楽メディアに与する必要はない。批判すべきことは遠慮なくすべきだろう。そもそも今回は本人が自分の行為を正当化するために事実を手記で発表したのだから、批判を免れる理由はない。今後の報道メディアには、その辺りに遠慮せず、きちんと事実を、そして事実がもたらす問題を伝えてもらいたい。