99年5月256号ハンギョレ21
ああ, 震撼の韓国軍! |
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99年12月ハンギョレ21 287号
ベトナムの熱い感動! |
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99年11月ハンギョレ21 282号
兄さんの重荷を減らしてください 韓国とベトナムの読者の手紙 |
先週、<ハンギョレ21>を読んで、本当に気持ちが重かったです. いままで生きてきながら、歴史中の虐殺者は、いつも軍部独裁であり米国だと考えてきたのに, 韓国軍によるベトナム良民虐殺とは… 胸が詰まりました. どちらかといえば他人事だと, 政治と経済論理によって動いた傭兵たちであったし, 醜悪な本性だけを巻きこんだ戦争中のことだったと, そのような時代だったと首を振ってしまうことができるのでしょう. しかし、おそらくは終生知しらずに過ぎることができた出生の秘密を知ったかのように, 醜悪な過去をながめるようで胸が痛みます. 私が産着に包まれていた時, 誰でも貧しかったその時期, 私たちの兄さんたちは小さな弟妹のために大学をあきらめて軍隊へ行って, そしてお金を儲けるためにベトナム戦に参加しました. 私は中学校の時、偶然物置で、ベトナムで撮った兄さんのアルバムを発見して、その事実を知っていました. しかし、そんなに驚かなかったですよ. その当時には、ベトナムに行ってきた人々が多かったのですから. そして、ベトナムに行ってきた人々は、大部分が貧しい家の息子たちであったし, 家族のためにお金を儲けるために出発した親思いが多かったのですよ. ベトナムに派兵された軍人たち, そのうちの青龍部隊は英雄になって戻ってきました. 遠い以前、ニュース資料で軍人たちに空港で花束を渡していた資料を見たのを思い出します. ところが、いままで家族のために献身的に生きてきたし, 法を一度も破ったこともなく生きてきた、おとなしい兄さんと同じ人々が、まさにその虐殺の現場にいた場合もあるという事実が残酷に迫ります. しかし、そのような歴史的事実の前で, やむを得ず派兵されたということだけで、歴史的責任が猶予になることはできないことでしょう. ところが、この土地の若者達をそのような生き地獄のような所に追い込んだ朴正煕に、国民が出した税金で記念館を作るというのか. とんでもない現実の前で、私達が生きているこの土地が呪わしくさえあります. 虐殺の現場にいた、私たちの父, 兄さんたちは戦争狂などではなく、たぶん、平凡な青年だったかもしれないです. ひょっとすると、まだその時のことで悪夢に苦しめられているかも知れません. 恥ずかしい過去に対して懺悔することだけが、ベトナム戦の悪夢を体験しているベトナムの民衆とこの土地の兄さん, 父さんたちの重荷を減らしてくれるだろうと信じます. その小さな開始のためのキャンペーンに、とても小さな声援を送ります. 合せて、苦痛を受けているベトナム戦被害者たちに涙で謝罪を差し上げたいです. 私たちは、さる10月3日、可愛い娘を授かった夫婦です. 岳母様が贈ってくれた出産祝賀金10万ウォン中9万ウォンを娘の名前で寄付を送ります.- 名づけに必要とされた費用が9万ウォンなので、1万ウォンは抜いて送ります. その代わりに、名前は私たちが直接考えました.- 全く、生まれて初めてしたことが他の人の痛みを共に感じようとしたということ, 後になって娘が喜んでくれるでしょうか? 狂気の20世紀に私達が行ったベトナムでの蛮行に恥を感じて<ハンギョレ21>の 持続的な関心をお願いします. (あとは <日曜 トゥオイジェ(ベトナムの雑誌)>に載った<ハンギョレ21>関連記事を読んで、ク・スジョン通信員に送ってきたベトナム読者の文です) 私はベトナム青年で28歳です. 私は以前、<日曜 トゥオイジェ>で、ベトナム戦争での韓国軍による良民虐殺に関する記事を読みました. ベトナム戦虐殺に胸を痛める貴方の話と、これを明らかにするための貴方の努力に心より感謝申し上げます. 私は貴方の記事を読みながら本当に泣きたかったです. しかし、韓国人の貴方が30年前ベトナムでなにが起きたのかを知っているという事実が幸福でした. 幼い時、私はベトナム戦に関する本を読みました. その本で韓国軍兵士たちの良い姿を見ることもありました. それは事実です. もちろん、良い姿もある反面、悪い姿も見ました. 私は実は、ベトナム戦当時にどんなことがおきたのか見ることができませんでした. 父は私に “韓国軍はとても悪かった”と話してきました. しかし、私は理解することができなかったのです. 何故? どのように? しかし、貴方の記事を通じて、私たちの歴史をよりたくさん知ることになりました. 私は私たちの世代が、私のように過ぎた悲しい歴史に対して正しく知らずにいると思います. ベトナムは全てのものを忘れて未来に進みたいのです. 本当にベトナムの新しいイメージを建設したいのです. 貴方が記事で書いたように、ベトナム人は、さる1千年間、あまりにも多くの戦争の中で悲しいことを体験したためなのかもしれません. 私は平和を愛します. ベトナムは今、それが必要なのです. もう一度、貴方の熱情的な努力に感謝申し上げます 貴方の記事を読みました. 私はベトナムの少女です. 実は、ベトナム戦の時、どんなことがおきたのか全く知りません. <日曜 トゥオイジェ>で、ベトナム戦と韓国軍の過去の行跡を明らかにしようという貴方の努力を知っていました. 私は真実のための、貴方の勇気ある行動に拍手したいです. ベトナムは数多くの戦争の中で破壊を体験してきました. 今日、私を含む若者達は、平和なベトナムを建設するための残酷な戦争の中で犠牲と損失を経験した上の世代の過去を記憶したくありません. 今は全てのものを忘れて、世界のあらゆる人々と握手をしたいです. 貴方の記事を読みながら、これから韓国は私たちと近い友人になるという感じがしました. 貴方の幸運を祈ります. |
私はしばらく前から<ハンギョレ21>を広げるのが恐ろしくなりました.
本に掲載された、ベトナム戦良民虐殺に関する記事を読む度に、恥ずかしく、息がつまります.
私の父は、1967年から1968年まで、ベトナム戦争に参戦しました.
まさに、貧困のためでした. ベトナムに行けば、お金をたくさん与えるという言葉に、肺結核で死にそうだった兄の薬代のために、軍服務中だった父はベトナム行きを志願しました.
幸い、韓国にいるよりは多くの月給を受けとることができ、そのお金で兄の病気を治すことができました.
だも, ベトナムから帰ってきて、母と結婚して私と妹を産んだ父の生は、そんなに平坦ではありませんでした.
退役した後、小さな事業を運営して裕福な家庭を設けた父でしたが、10余年前からは新規事業を始める度にずっと失敗してきて、家族の経済的責任は母と私にまわされてきました.
89学番(註:'88年大学入学)の私は、同年代のみんなが享受していた豊かさも,
正義を叫ぶ若さ(註:当時は民主化要求闘争が大学生たちによって繰り広げられていた)もなく、生活戦線にかり出されなければならなかったのです.
学費と生活費を稼がなければならないという圧迫感は、無能な父に対する憎しみに変わって、私たちを愛してくれた父を傷つけてしまいました.
父は、ベトナムに関する話は、ほとんどしません.
ベトコンは民間人の間に隠れていて、発見するのが難しかったということ,
ベトナムの良民たちは、韓国軍を非常に恐れたということだけが、私が聞いたベトナム戦争に関する話の全部です.
私は、父が捜索隊だったいうことと、猛虎隊だったということだけを知っています.
女の私は捜索隊がどんな任務を持った隊なのかは知りません.
でも, 地獄の戦場から生きて帰ってこられた父は、生き残った彼らに国家が贈った勲章も捨てました.
なぜ、そうしたのかは知らないのですけれど,
私は父が良民を虐殺したような軍人ではないと信じたいのです.
まだ、父にベトナム戦良民虐殺に関する記事を見せることができません.
父がそこでどんなことをしたのか、いまだに聞けない私の気持ちが、毎週<ハンギョレ21>を広げることを恐ろしくさせたようです.
遅すぎる参加ではないことを願って、恥と長い間の迷いの末に、私の幼い娘の前で恥ずかしいおとなでないことを願う気持ちで、寄付の隊列に参加します.
有難うございます.
ハンギョレ21 2000年 06月 15日 第312号 .
“彼らの憎悪心が癒されたら…”
部下たちがやったことも、私が死なせたと同じ…政府次元の補償なされることを
ベトナムに対照取材をしにいく前後、キム・ギテ氏に何回も会った.
彼は龍眼作戦二日目に起きたプクビン村事件に関しては、被害者の大部分が婦女子と子供だけで、罪責感がつのるという.
プクビン村の取材結果を説明すると、“その村が呼んでいるようだ”としながらも、韓国軍の行った強姦の事実に対しては、“初めて聞いた”という反応を見せた.
そして、最終日の爆弾窪み事件に対しては、“謝罪する気持ちはない”とした.
彼らが明確にベトコンであったという確信のためだ.
と、いえども、政府の補償問題に対しては、容認する態度を見せた.
- 武器も持たないベトナム青年達をどうして爆弾の窪みに並べて殺さなければならなかったのですか.
= その二日前、彼らを殺すことになる山窟がある方向から、ベトコン軍の攻撃にあっていたのです.
言葉は通じなかったが、当然ベトコンだと思いました.
しかも、皆男ではないですか. 銃は洞窟に隠してあったのでしょう、私達は探し出せなかったのですが….
十分に戦闘兵力化できる人々でした. 彼らを連行している時、山上からベトコンが狙撃をしてもきました.
- 中隊員の中には彼らを生かそうという意見を出した人はなかったのですか.
= 生かすと言っても. すぐに殺さないことに対して不満があったくらいです.
もちろん、私は、はじめは 生かそうとしました.
ところが、突然、作戦任務が下されたのです.
ベトコンの巣窟なので、監視兵を何名か置いて行くこともできず,
かと言って、救出作戦をしにいくのに連れていくこともできません.
- 韓国軍が村を一気に処理しているので、若い男たちが集団的に避けて身を守っていたのではないかと、仮定することができるのではありませんか.
= えーと…. 婦女子と乳飲み子だけが村に住み,
ベトコンは夜に村に入って、夜が明ける前に山に戻ったりしていました.
それで、進攻作戦ということになりました. 夜が明ける前に村を包囲する….
- 全部がベトコンだとみることはできないのではありませんか.
= えーと…. 捕虜を尋問しなかったからわからないのですが,
恐らく、ベトコンかその同調者たちであったでしょう.
- 青年29人を爆弾の窪みに埋めた後、大隊に報告をしましたか.
= しませんでした.
- 作戦2日目、一部の村で一気に処理をしたというのに,
それも報告をしなかったのですか.
= それもしませんでした. 家が燃えているので、大隊長が何故火事が発生したのかという連絡はきました.
そのまま、わら束が燃えていると報告しました.
- 作戦の様相がとても激しかったようですね.
= ベトナム戦はゲリラ戦です. その村の人々は、ベトナム政府の統治地域から出たところに居たのです….
龍眼作戦は、完全に敵地で遂行されたのです.
ベトコンとベトコン軍をせん滅しにいった作戦です.
- それでも….
= 堪忍袋が破れて、始末しに行ったのです. 敵の統治地域では、ベトコンでもベトコンでなくても、識別しません.
あらゆるベトナム作戦の様相が、みなそうですよ.
私達が負傷したら、無条件に撃ちまくるということです….
- 純粋な良民も多かったのでは.
= そうかもしれません. 6・25(註:朝鮮戦争勃発)の時も、お金がなくて、そのまま地下に残るほかない人々があったということですから.
- 作戦が終わった後、“やり過ぎだった”という話が出てこなかったのですか.
= 回顧する余裕がありませんでした. 私たち、隊員一名一名が犠牲になってはならないという信念しかなかったのです.
- 将校が“殺すな”と言っても、中隊員が後で殺した場合もあったそうですが.
命令不服従ではないですか
= 作戦をしている最中に… ベトコンを 追っているのに….
もちろん、その前には制止できる. しかし、後からは制止できないですよ.
やけくそになっているのに…. 大部分は将校たちが見ることができないなかで起きるのです.
将校たちが監督をいい加減にしたというよりは、広く散開して作戦している最中に起きるので、引き止めることができないのです.
また、あっという間に起きる事ですから.
- 村に入ったら、一般的に人々を集めるのですか.
= そうです. ベトコン容疑者と分離しなければならないのです.
それ以外に捜索する方法がありません. ベトコンが突然現れて、手投げ弾を投げて逃げたこともありました.
住民を集めて、‘韓国軍に対して被害を与えれば、家族が全員死ぬ’という認識を植え付けました.
- ベトコン容疑者だと思われる人々をどのように扱ったのですか.
= 一部はそのまま置いて、若い人々は連行します.
若者はベトコンだと考えて. そして、幸い作戦が早く終われば、捕虜として後送します.
しかし、作戦が早く終わらず、我が軍が被害を受けたら、自分の命を守りきれずに死ぬのだと見るべきです.
- 韓国軍に殺された人々の大部分が子供たちと女性,
老人です.
= 若い人々は逃げて隠れたのでしょう. 殺すはずがないと考えて村にいた子供たちと婦女子,
老弱者たちが、むしろ被害をたくさんこうむりました.
- 集めた人々を引っ張っていき、部下が殺す時にどんな気がしましたか.
= 中隊長の立場では、その中に生きている者がいる場合もあるので、確認射殺をしろと言います.
私が行って確認しない限り、どのようになったのかはわかりません.
当時は、良民を殺したと感じる条件はなかったのです.
今になって考えれば、良民虐殺だという主張に対しては、そのようなことはありうるだろうと感じているのですが.
- 韓国軍が耳を切り、鼻を切ったという話があります.
= 実際にそのようなことがありました. 中隊員の中の一名で、死んだ者の目玉を取ってアルコール漬けにした兵士がありました.
また、一名は、片方の耳だけを切って集めて針金に通して、幕舎前に掛けたりもしていました.
‘何故そんなことをするのか’と聞いたところ,
帰国する時に記念に持っていくと言いました.
- 他の民族であるためにひどいことをしたと言うこともできるのでは.
= そうですね. 意志疎通もできず、それで識別もできない.
良民なのかベトコンなのか. それで、多くのベトナム人が被害を受けました.
はなはだしきは、ベトナム軍将校2人が龍眼作戦初日、私たちに殺されました.
交戦が始まると、ベトナム軍の服装をした2人が飛び出してきて、向こう側に行こうとしました.
何が何だかわからないまま、反対側に引きずっていき、殺してしまいました.
すこし経ってから、ベトナム軍の大尉がトラックに軍人を載せてきて、今、交戦している相手はベトナム正規軍だと言ったのです.
- 作戦に行く時、通訳官を連れて行かなかったのですか.
= 一般的に、通訳官を連れて行くことを嫌いました.
通訳官が作戦計画を敵に対して報せることもあったのです.
また、村を一気に処理したり、集めた人々を殺すのを見て、ベトナム軍と政府側に報告すれば、頭が痛いので….
通訳官がいないせいで、ベトナム軍将校が2人も死んだのです.
- 戦争が終わった、今になって、罪責感を感じるのですか.
= そうです. 私は殺人教唆者であり、殺人執行官でした.
あまりにも多くの人を殺しました. たとえ、部下たちが殺しても、私が殺して同じことです.
顧みれば、罪人だという気がします.
- またベトナム戦がおきたならば.
= 参戦反対を叫びます.
- 昨年、政府は東ティモールに平和維持軍を派遣しました.
= 国連が要求したので, 政治的に拒むことができなかったのでしょう.
私が政策担当者だったら、東ティモール派兵には反対していました.
平和維持軍ではあっても、反乱軍が対すればまた戦わなければならないのではないでしょうか.
そうして、彼我間にまたなんの罪もない人々がケガをするようになります.
- <ハンギョレ21>で、被害者を助ける寄付募金をしていて,
市民団体も真相糾明にたっています.
= 良いことです. ぜひ、しなければならない.
被害者たちや遺族たちは憎悪心を持っているでしょうが、歳月が流れれば、その人々も赦して理解するはずです.
私たちも戦争だったから、そのようなことがあり,
今、顧みればあまりにも誤っていたことだと謝罪して、許しを乞わなければなりません.
それとともに後援して支援すれば, とても良いことです.
- 韓国政府が補償することに関しては、どのように考えますか.
= 賛成します. 彼らが経済的に良いのならば,
敗者が勝者に補償する必要がなぜあるでしょうか.
しかし、彼らは勝者でしたが、今、経済的にはるかに劣っています.
補償をすることが、相互国民間に友誼を篤実にする道だと思います.
その時、そこで作戦を行った多くの軍人たちも村に行って許しを乞って、支援をすれば良いですね.
それで、彼らの憎悪心が100分の1でも少なくなってくれたらうれしいのです.
- ベトナムは過去を問わないといいながらも、調査は全部してありました.
= 過去のベトナム政府がそのままあっても, あるいはベトナムが統一をしても、そのような調査はなされたはずです.
当時、米軍が飛行場を使用しても、戦闘機一機が飛び立って降りるごとに使用料を受け取る国でした.
ベトナムの人々は、たとえ、暮らしが貧しくても、民族性が強固で自尊心も強いのです.