99年5月256号ハンギョレ21

ああ, 震撼の韓国軍!


ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

hangyore99_256_1.jpg (23165 バイト)(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)

戦争はこんな所でも起きたのだろうか. 丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し, 椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹…. 窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている. 太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている. 真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う. 果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか. 理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場, その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.

生き残った老僧の証言

"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. <AFP通信>は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.) hangyore99_256_2.jpg (10412 バイト)
筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた. 私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書, しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった. それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’ 韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した. ‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある. “日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである. 筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ. 最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず, 歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった. 私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した. しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた. 蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも, 一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた. 元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ. わたしたちはすぐさまそちらへ走った. そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた. ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が, 認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.

子供も妊婦も容赦なく…

hangyore99_256_3.jpg (23753 バイト)(写真/'忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は、公式統計だけでも 4万1450名だ.)


“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました. 続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました. そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する. リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた. その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、喪家で読経を行っていた. 証言の大部分はユエンハンを通じてなされ, その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない. 当時の話をしながらも、人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた. 冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ, パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた. プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の小屋へと移した. 死体奪取に対する不安からあった. このことが伝えられると, パンラン地域全域の学校が休学を決議して, 学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した. “ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!” “人殺しはベトナムを出て行け”等等、凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで, 僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった. 僧たちを祭る寺が消えたからですよ. 僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、この寺に安置してあげましたよ.”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた. 韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた. そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた. プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた. 寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある. 私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない. 大雄宝殿の席から見下ろすと, 空と海と野原がひと目で見渡せた. どこに目を向けても、限りなく平和なだけの, 限りなく懐かしいだけの風景, しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?. ‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された中部地方にまた再び旅立ち, 筆者はリンソン寺を振り返りながら、振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.

"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる. 前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた. 筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが, その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.

"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました. 彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました. 妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていました. 韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました. そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"

パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の‘私と私たち’一行から電話がきた. “見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.” 1966年 3月19日と20日の二日間にわたった‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ. “手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね. ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならないかもしれません. ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.” 当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて, そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった. また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ, 649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.

このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して, 韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した. 生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射, 大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ. 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.

-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.

-子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.

韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた. 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった. 恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた. 以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した. この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した. しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした. 我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである. それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている. 韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ. 加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう. たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.

99年12月ハンギョレ21 287号

ベトナムの熱い感動!


‘韓国軍 良民(註:民間人)虐殺’謝罪努力, 韓国に対する先入観を払拭する 

(写真/'ク・スジョンとの交流'が終わるころ、ベトナム青年達の花束が渡された) 

“ベトナム僑民(註:在ベトナム韓国人)たちの ‘なぜ’.” 

ホーチミンで事業をしている朴某(38)さんは、到底理解することができない. <ハンギョレ21>が、ことごとに僑民たちの邪魔をしているという被害意識のためだ. さる5月‘シンライタイハン問題’を 提起した時は、それでも耐えるだけのことはあった. 一度くらいは警鐘を鳴らすだけの僑胞社会の現実ではなかっただろうか. ところが、6ケ月も経たないうちに、‘ベトナム戦での韓国軍 良民虐殺’問題がまたさく烈した. しかも、この記事は、ベトナムの有力 言論である<トゥオイジェ>と <日曜トゥオイジェ>が‘受けて’大きく報道し始めた. 一ケ月も経たないうちに、ホーチミンのベトナム人の中でこの問題を知らない人がいない程になってしまったのである. “30年も過ぎた過去のことをいまさらのように暴くのが、果してだれの助けになるのか、鬱陶しい”と、彼は話す. 

そうだ. <ハンギョレ21>が、9月2日附(273号)で報道した‘ベトナム特別ルポ-ベトナムの怨みの霊を記憶しなさい’は、それからベトナム国民皆の関心事になった. ホーチミン国家大学で会ったノッ(21・新聞放送学科 2学年)は、<ハンギョレ21> ルポを紹介した<トゥオイジェ>の記事をコピーして手帳にはさんでもっていた. “初めて報道された時は、二人以上が集まれば‘韓国軍の良民虐殺’の話をしました. 北部地方出身の友人たちは‘初めて聞く’と、そして、実際に良民虐殺があった中部地方出身者たちは‘既に父母から聞いていた話’といって討論が絶えなかったのです.” <日曜トゥオイジェ>が、関連記事を3週連続報道するのはもちろん、日刊紙<トゥオイジェ>も、この問題を扱いながら、その威力は増した. シクロ(自転車の人力車)の運転手たちの間でも, 市場通りでも, 美容室でも‘韓国軍の良民虐殺’が、話題に浮き上がった. 

(写真/ホーチ ミン国家大学 韓国語学科 3,4学年 学生達. 韓国人の良民虐殺の謝罪努力で韓国に対するイメージが良くなり、自分たちもうれしいと話した) 

韓国の青年達, 頭を下げる 

韓国軍の良民虐殺. それは、本当にベトナム僑民らに有害なだけの問題なのだろうか. しかし、記者が会ったベトナム人の中には、僑民たちの考えとは正反対の反応が多かった. “韓国人が、そのように美しい人々とは知らなかった.”“韓国が何故、経済発展を成し遂げたのか、いまわかった.” 何かの間違いではないかと反問するかもしれない. しかし、これが事実だ. 多くのベトナム人は、今、韓国人に穏やかな感動を送っている. 

何故、そうであろうか. ここで一つ‘事実’を明確にしておく必要がある. 今、ホーチミンで話題になっていることは、正確に言うと‘韓国軍の良民虐殺’ではない. ベトナム言論が30年の間ただの一度も注目しなかった、この問題を‘韓国言論人が最初に勇敢に暴露した’という点を、彼らが高く評価していることだ. 合せて、この記事以後、今、韓国で‘謝罪の寄付運動’が進行しているというのにも驚くことだ. 

11月28日 日曜日 午後3時, ホーチミン青年文化会館 2階 交流館. 外国人との交流行事が頻繁に開かれるここでは、いままで見ることができなかった、異色の内容の討論会が開かれた. テーマは‘ク・スジョンとの交流’. <ハンギョレ21>273号に‘韓国軍 良民虐殺 現場ルポ’を書いた、ホーチミンのク・スジョン通信員が、この日の主人公だった. “韓国人傭兵は、何故、そのように残忍に, 子供たちまで殺す程に理性を失わなければならなかったか”, “韓国は相変らず米国に隷属しているのか”, “韓国がノグン里事件(註:朝鮮戦争当時、米軍がノグン里で行ったとされる民間人虐殺事件)に対して賠償を要求するならば、ベトナムにも謝罪しなければならないのではないか.”会場をぎっしりと埋めた、200余名のベトナム青年たちが投げる質問は重かった. しかし、ク・スジョン通信員の話は、彼らの気持ちを落ち着かせた. “過去の私たちの民族の誤ちを話すということは、私にとっても苦痛でした. しかし、私がしなくても、遠くない時期に誰かがすることです. 過去は自ら門を閉めることはありえないのです.” 韓国留学生代表は、謝罪文を朗読して、頭を下げた. ベトナム青年たちは“あなた方の勇気を愛します”とした. そして“わたしたちは、いつでも赦す準備ができています”と話した. 30年の歳月を逆上って、父の世代の傷と恥を知って会った韓国とベトナムの若者達が‘和解の胸’を開けてひとつになったのである. 

“想像出来なかったことです” 

“外国人と政治的主題で討論会を開いたのは、会館ができて以来初めてです.” ホーチミン青年文化会館長ウンウェン・スオン(42)は、この日の席が“ベトナム青年達の要請”でなされたと話した. “<日曜トゥオイジェ>に記事が載った後、多くの青年達が‘どのようにすれば、ク・スジョンに会うことができるのか’と、尋ねてきたんです. わたしたちは、ベトナムの青年達が記事を通じて知ったク・スジョンに直接会って、深い感興と教訓を得ることを希望しました.” 

おかげで、ク・スジョン通信員はベトナムで‘有名人’になった. あたかも‘韓国の若者を代表する人物’のようになったのである. <トゥオイジェ>に彼の顔がなん回か載りながら, 彼の顔を知ったホーチミン市内のホテル従業員たちが、コーヒー代金を受けとらないことまであった. ホーチミンを出たところの、ナジャン・ニンホ等の中部地方でも、彼を見て知っている人たちは騒ぐ. 

<日曜トゥオイジェ>の記事を作成したツイウンア(37)記者は“<ハンギョレ21>の記事紹介と韓国人たちが謝罪のために寄付を集めているという文が載った後、党委員会から称賛と激励を受けた”と自慢した. 彼は、この記事でトゥオイジェ新聞社全記者が選ぶ‘今月の記者賞’を受賞した. 賞金は、その月の月給を二倍で受けること. 

ツイウンア記者は“今回の報道が、韓国に対するベトナム人の意識の根底を覆した”と話した. ベトナムの人々の心の底辺には、韓国人に対する憎しみの感情がうずくまっていたという説明だ. 基本的に‘ベトナム戦 参戦’という歴史に、最近では韓国企業管理者たちの現地労働者殴打事件まで絡まっている状況だ. 

こういう中で、何年か前からベトナムに輸入された‘韓国ドラマ’が、その否定的イメージを相殺する役割をしてくれている(最近では<私達は本当に愛したのだろうか>が大ヒットだ. ハノイ放送とホーチミン放送はもちろん、主要地方放送の黄金時間帯は、皆韓国ドラマが占領している). ツイウンア記者は“ドラマは韓国に対する印象のきわめて一部を‘改善’したのに終わったとするなら, 韓国の‘韓国軍 良民虐殺’寄付運動は、韓国に対する既存の先入観を‘払拭’した”と分析した. 自分も国の歴史的罪悪を自ら告白して謝罪する姿で、韓国の‘美しい底力’を感じるということだ. 

良民虐殺がおきた地域でもそうだ. 2ヶ月にもまだならなかった乳飲み子を抱きながら家に侵入してきた韓国軍に往生して, まさにそばでベトコンでもない米軍所属の夫が射殺されるという、とんでもない場面を見たといカンホアソン ニンホアヒョンのジョムティ・ユックおばあさん. 韓国人たちの寄付運動に対して、“想像出来なかったこと”とし、目をまるくした. 彼女にとって、韓国はあまりにも‘苛酷な記憶’としてだけの位置を占めていたせいであるだろうか. 

ロイター通信も関心を表明 

<ハンギョレ21>が提起した‘ベトナム戦の韓国軍 良民虐殺’問題は、小さな台風になって、ホーチミンを襲った. そして、大きくなりながらベトナム南部から中部に, 中部から北部に静かだが、早く北上している. いや、今はもう、全世界に向かうのかもしれない. 世界有数の通信社である英国の<ロイター通信>までが、この問題に関心を表明しているためだ. <ロイター通信>側は、まもなくク・スジョン通信員をインタビューした後、12月中旬から取材に入る予定だ. <ロイター通信>のハノイ駐在事務所関係者は“ビンディンソンでだけでも1千余名が死んだというからには…. ミルライ虐殺でも504人ではないか. このように大きな規模の虐殺が、どうして世界に知らされないのか”と、驚いた. <ロイター通信>は、しかし“虐殺自体に対する告発が目的ではない. わたしたちは、韓国人が自らこの問題に言及すること自体が、ものすごく意味のあることだと考える. 美しい韓国人の顔をカメラに収めて、全世界に知らせたい”と話した. 

次の問題は、韓国政府だ. 政府次元の‘謙遜な謝罪’が行われないならば、ベトナム人の感動は背信感に変わるかもしれない. しかし、政府は戦々恐々するだけだ. むしろ‘ベトナムのノグン里’にならないように隠すことにだけ及々としている状態だ. 韓国をたどり、ホーチミンを襲って, ハノイを越えて、全世界に向かう‘韓国軍 良民虐殺’の台風は、いつか津波になって韓国政府を飲み込むかもしれない. 

99年11月ハンギョレ21 282号

兄さんの重荷を減らしてください
韓国とベトナムの読者の手紙 

先週、<ハンギョレ21>を読んで、本当に気持ちが重かったです. いままで生きてきながら、歴史中の虐殺者は、いつも軍部独裁であり米国だと考えてきたのに, 韓国軍によるベトナム良民虐殺とは… 胸が詰まりました. 

どちらかといえば他人事だと, 政治と経済論理によって動いた傭兵たちであったし, 醜悪な本性だけを巻きこんだ戦争中のことだったと, そのような時代だったと首を振ってしまうことができるのでしょう. しかし、おそらくは終生知しらずに過ぎることができた出生の秘密を知ったかのように, 醜悪な過去をながめるようで胸が痛みます. 

私が産着に包まれていた時, 誰でも貧しかったその時期, 私たちの兄さんたちは小さな弟妹のために大学をあきらめて軍隊へ行って, そしてお金を儲けるためにベトナム戦に参加しました. 私は中学校の時、偶然物置で、ベトナムで撮った兄さんのアルバムを発見して、その事実を知っていました. しかし、そんなに驚かなかったですよ. その当時には、ベトナムに行ってきた人々が多かったのですから. 

そして、ベトナムに行ってきた人々は、大部分が貧しい家の息子たちであったし, 家族のためにお金を儲けるために出発した親思いが多かったのですよ. ベトナムに派兵された軍人たち, そのうちの青龍部隊は英雄になって戻ってきました. 遠い以前、ニュース資料で軍人たちに空港で花束を渡していた資料を見たのを思い出します. 

ところが、いままで家族のために献身的に生きてきたし, 法を一度も破ったこともなく生きてきた、おとなしい兄さんと同じ人々が、まさにその虐殺の現場にいた場合もあるという事実が残酷に迫ります. しかし、そのような歴史的事実の前で, やむを得ず派兵されたということだけで、歴史的責任が猶予になることはできないことでしょう. ところが、この土地の若者達をそのような生き地獄のような所に追い込んだ朴正煕に、国民が出した税金で記念館を作るというのか. とんでもない現実の前で、私達が生きているこの土地が呪わしくさえあります. 

虐殺の現場にいた、私たちの父, 兄さんたちは戦争狂などではなく、たぶん、平凡な青年だったかもしれないです. ひょっとすると、まだその時のことで悪夢に苦しめられているかも知れません. 恥ずかしい過去に対して懺悔することだけが、ベトナム戦の悪夢を体験しているベトナムの民衆とこの土地の兄さん, 父さんたちの重荷を減らしてくれるだろうと信じます. 

その小さな開始のためのキャンペーンに、とても小さな声援を送ります. 合せて、苦痛を受けているベトナム戦被害者たちに涙で謝罪を差し上げたいです. 

私たちは、さる10月3日、可愛い娘を授かった夫婦です. 岳母様が贈ってくれた出産祝賀金10万ウォン中9万ウォンを娘の名前で寄付を送ります.- 名づけに必要とされた費用が9万ウォンなので、1万ウォンは抜いて送ります. その代わりに、名前は私たちが直接考えました.- 全く、生まれて初めてしたことが他の人の痛みを共に感じようとしたということ, 後になって娘が喜んでくれるでしょうか? 

狂気の20世紀に私達が行ったベトナムでの蛮行に恥を感じて<ハンギョレ21>の 持続的な関心をお願いします. 

(あとは <日曜 トゥオイジェ(ベトナムの雑誌)>に載った<ハンギョレ21>関連記事を読んで、ク・スジョン通信員に送ってきたベトナム読者の文です) 

私はベトナム青年で28歳です. 私は以前、<日曜 トゥオイジェ>で、ベトナム戦争での韓国軍による良民虐殺に関する記事を読みました. ベトナム戦虐殺に胸を痛める貴方の話と、これを明らかにするための貴方の努力に心より感謝申し上げます. 私は貴方の記事を読みながら本当に泣きたかったです. しかし、韓国人の貴方が30年前ベトナムでなにが起きたのかを知っているという事実が幸福でした. 

幼い時、私はベトナム戦に関する本を読みました. その本で韓国軍兵士たちの良い姿を見ることもありました. それは事実です. もちろん、良い姿もある反面、悪い姿も見ました. 

私は実は、ベトナム戦当時にどんなことがおきたのか見ることができませんでした. 父は私に “韓国軍はとても悪かった”と話してきました. しかし、私は理解することができなかったのです. 何故? どのように? しかし、貴方の記事を通じて、私たちの歴史をよりたくさん知ることになりました. 私は私たちの世代が、私のように過ぎた悲しい歴史に対して正しく知らずにいると思います. ベトナムは全てのものを忘れて未来に進みたいのです. 本当にベトナムの新しいイメージを建設したいのです. 貴方が記事で書いたように、ベトナム人は、さる1千年間、あまりにも多くの戦争の中で悲しいことを体験したためなのかもしれません. 私は平和を愛します. ベトナムは今、それが必要なのです. 

もう一度、貴方の熱情的な努力に感謝申し上げます 

貴方の記事を読みました. 私はベトナムの少女です. 実は、ベトナム戦の時、どんなことがおきたのか全く知りません. 

<日曜 トゥオイジェ>で、ベトナム戦と韓国軍の過去の行跡を明らかにしようという貴方の努力を知っていました. 私は真実のための、貴方の勇気ある行動に拍手したいです. 

ベトナムは数多くの戦争の中で破壊を体験してきました. 今日、私を含む若者達は、平和なベトナムを建設するための残酷な戦争の中で犠牲と損失を経験した上の世代の過去を記憶したくありません. 今は全てのものを忘れて、世界のあらゆる人々と握手をしたいです. 貴方の記事を読みながら、これから韓国は私たちと近い友人になるという感じがしました. 貴方の幸運を祈ります. 

私はしばらく前から<ハンギョレ21>を広げるのが恐ろしくなりました. 本に掲載された、ベトナム戦良民虐殺に関する記事を読む度に、恥ずかしく、息がつまります.

私の父は、1967年から1968年まで、ベトナム戦争に参戦しました. まさに、貧困のためでした. ベトナムに行けば、お金をたくさん与えるという言葉に、肺結核で死にそうだった兄の薬代のために、軍服務中だった父はベトナム行きを志願しました. 幸い、韓国にいるよりは多くの月給を受けとることができ、そのお金で兄の病気を治すことができました.

だも, ベトナムから帰ってきて、母と結婚して私と妹を産んだ父の生は、そんなに平坦ではありませんでした. 退役した後、小さな事業を運営して裕福な家庭を設けた父でしたが、10余年前からは新規事業を始める度にずっと失敗してきて、家族の経済的責任は母と私にまわされてきました. 89学番(註:'88年大学入学)の私は、同年代のみんなが享受していた豊かさも, 正義を叫ぶ若さ(註:当時は民主化要求闘争が大学生たちによって繰り広げられていた)もなく、生活戦線にかり出されなければならなかったのです. 学費と生活費を稼がなければならないという圧迫感は、無能な父に対する憎しみに変わって、私たちを愛してくれた父を傷つけてしまいました.

父は、ベトナムに関する話は、ほとんどしません. ベトコンは民間人の間に隠れていて、発見するのが難しかったということ, ベトナムの良民たちは、韓国軍を非常に恐れたということだけが、私が聞いたベトナム戦争に関する話の全部です.

私は、父が捜索隊だったいうことと、猛虎隊だったということだけを知っています. 女の私は捜索隊がどんな任務を持った隊なのかは知りません. でも, 地獄の戦場から生きて帰ってこられた父は、生き残った彼らに国家が贈った勲章も捨てました. なぜ、そうしたのかは知らないのですけれど, 私は父が良民を虐殺したような軍人ではないと信じたいのです.

まだ、父にベトナム戦良民虐殺に関する記事を見せることができません. 父がそこでどんなことをしたのか、いまだに聞けない私の気持ちが、毎週<ハンギョレ21>を広げることを恐ろしくさせたようです. 遅すぎる参加ではないことを願って、恥と長い間の迷いの末に、私の幼い娘の前で恥ずかしいおとなでないことを願う気持ちで、寄付の隊列に参加します. 有難うございます.

ハンギョレ21 2000年 06月 15日 第312号 .

“彼らの憎悪心が癒されたら…”
部下たちがやったことも、私が死なせたと同じ…政府次元の補償なされることを


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ベトナムに対照取材をしにいく前後、キム・ギテ氏に何回も会った. 彼は龍眼作戦二日目に起きたプクビン村事件に関しては、被害者の大部分が婦女子と子供だけで、罪責感がつのるという. プクビン村の取材結果を説明すると、“その村が呼んでいるようだ”としながらも、韓国軍の行った強姦の事実に対しては、“初めて聞いた”という反応を見せた. そして、最終日の爆弾窪み事件に対しては、“謝罪する気持ちはない”とした. 彼らが明確にベトコンであったという確信のためだ. と、いえども、政府の補償問題に対しては、容認する態度を見せた.

- 武器も持たないベトナム青年達をどうして爆弾の窪みに並べて殺さなければならなかったのですか.

= その二日前、彼らを殺すことになる山窟がある方向から、ベトコン軍の攻撃にあっていたのです. 言葉は通じなかったが、当然ベトコンだと思いました. しかも、皆男ではないですか. 銃は洞窟に隠してあったのでしょう、私達は探し出せなかったのですが…. 十分に戦闘兵力化できる人々でした. 彼らを連行している時、山上からベトコンが狙撃をしてもきました.

- 中隊員の中には彼らを生かそうという意見を出した人はなかったのですか.

= 生かすと言っても. すぐに殺さないことに対して不満があったくらいです. もちろん、私は、はじめは 生かそうとしました. ところが、突然、作戦任務が下されたのです. ベトコンの巣窟なので、監視兵を何名か置いて行くこともできず, かと言って、救出作戦をしにいくのに連れていくこともできません.

- 韓国軍が村を一気に処理しているので、若い男たちが集団的に避けて身を守っていたのではないかと、仮定することができるのではありませんか.

= えーと…. 婦女子と乳飲み子だけが村に住み, ベトコンは夜に村に入って、夜が明ける前に山に戻ったりしていました. それで、進攻作戦ということになりました. 夜が明ける前に村を包囲する….

- 全部がベトコンだとみることはできないのではありませんか.

= えーと…. 捕虜を尋問しなかったからわからないのですが, 恐らく、ベトコンかその同調者たちであったでしょう.

- 青年29人を爆弾の窪みに埋めた後、大隊に報告をしましたか.

= しませんでした.

- 作戦2日目、一部の村で一気に処理をしたというのに, それも報告をしなかったのですか.

= それもしませんでした. 家が燃えているので、大隊長が何故火事が発生したのかという連絡はきました. そのまま、わら束が燃えていると報告しました.


- 作戦の様相がとても激しかったようですね.

= ベトナム戦はゲリラ戦です. その村の人々は、ベトナム政府の統治地域から出たところに居たのです…. 龍眼作戦は、完全に敵地で遂行されたのです. ベトコンとベトコン軍をせん滅しにいった作戦です.


- それでも….

= 堪忍袋が破れて、始末しに行ったのです. 敵の統治地域では、ベトコンでもベトコンでなくても、識別しません. あらゆるベトナム作戦の様相が、みなそうですよ. 私達が負傷したら、無条件に撃ちまくるということです….

- 純粋な良民も多かったのでは.

= そうかもしれません. 6・25(註:朝鮮戦争勃発)の時も、お金がなくて、そのまま地下に残るほかない人々があったということですから.

- 作戦が終わった後、“やり過ぎだった”という話が出てこなかったのですか.

= 回顧する余裕がありませんでした. 私たち、隊員一名一名が犠牲になってはならないという信念しかなかったのです.

- 将校が“殺すな”と言っても、中隊員が後で殺した場合もあったそうですが. 命令不服従ではないですか

= 作戦をしている最中に… ベトコンを 追っているのに…. もちろん、その前には制止できる. しかし、後からは制止できないですよ. やけくそになっているのに…. 大部分は将校たちが見ることができないなかで起きるのです. 将校たちが監督をいい加減にしたというよりは、広く散開して作戦している最中に起きるので、引き止めることができないのです. また、あっという間に起きる事ですから.

- 村に入ったら、一般的に人々を集めるのですか.

= そうです. ベトコン容疑者と分離しなければならないのです. それ以外に捜索する方法がありません. ベトコンが突然現れて、手投げ弾を投げて逃げたこともありました. 住民を集めて、‘韓国軍に対して被害を与えれば、家族が全員死ぬ’という認識を植え付けました.

- ベトコン容疑者だと思われる人々をどのように扱ったのですか.

= 一部はそのまま置いて、若い人々は連行します. 若者はベトコンだと考えて. そして、幸い作戦が早く終われば、捕虜として後送します. しかし、作戦が早く終わらず、我が軍が被害を受けたら、自分の命を守りきれずに死ぬのだと見るべきです.

- 韓国軍に殺された人々の大部分が子供たちと女性, 老人です.

= 若い人々は逃げて隠れたのでしょう. 殺すはずがないと考えて村にいた子供たちと婦女子, 老弱者たちが、むしろ被害をたくさんこうむりました.

- 集めた人々を引っ張っていき、部下が殺す時にどんな気がしましたか.

= 中隊長の立場では、その中に生きている者がいる場合もあるので、確認射殺をしろと言います. 私が行って確認しない限り、どのようになったのかはわかりません. 当時は、良民を殺したと感じる条件はなかったのです. 今になって考えれば、良民虐殺だという主張に対しては、そのようなことはありうるだろうと感じているのですが.

- 韓国軍が耳を切り、鼻を切ったという話があります.

= 実際にそのようなことがありました. 中隊員の中の一名で、死んだ者の目玉を取ってアルコール漬けにした兵士がありました. また、一名は、片方の耳だけを切って集めて針金に通して、幕舎前に掛けたりもしていました. ‘何故そんなことをするのか’と聞いたところ, 帰国する時に記念に持っていくと言いました.

- 他の民族であるためにひどいことをしたと言うこともできるのでは.

= そうですね. 意志疎通もできず、それで識別もできない. 良民なのかベトコンなのか. それで、多くのベトナム人が被害を受けました. はなはだしきは、ベトナム軍将校2人が龍眼作戦初日、私たちに殺されました. 交戦が始まると、ベトナム軍の服装をした2人が飛び出してきて、向こう側に行こうとしました. 何が何だかわからないまま、反対側に引きずっていき、殺してしまいました. すこし経ってから、ベトナム軍の大尉がトラックに軍人を載せてきて、今、交戦している相手はベトナム正規軍だと言ったのです.

- 作戦に行く時、通訳官を連れて行かなかったのですか.

= 一般的に、通訳官を連れて行くことを嫌いました. 通訳官が作戦計画を敵に対して報せることもあったのです. また、村を一気に処理したり、集めた人々を殺すのを見て、ベトナム軍と政府側に報告すれば、頭が痛いので…. 通訳官がいないせいで、ベトナム軍将校が2人も死んだのです.

- 戦争が終わった、今になって、罪責感を感じるのですか.

= そうです. 私は殺人教唆者であり、殺人執行官でした. あまりにも多くの人を殺しました. たとえ、部下たちが殺しても、私が殺して同じことです. 顧みれば、罪人だという気がします.

- またベトナム戦がおきたならば.

= 参戦反対を叫びます.

- 昨年、政府は東ティモールに平和維持軍を派遣しました.

= 国連が要求したので, 政治的に拒むことができなかったのでしょう. 私が政策担当者だったら、東ティモール派兵には反対していました. 平和維持軍ではあっても、反乱軍が対すればまた戦わなければならないのではないでしょうか. そうして、彼我間にまたなんの罪もない人々がケガをするようになります.

- <ハンギョレ21>で、被害者を助ける寄付募金をしていて, 市民団体も真相糾明にたっています.

= 良いことです. ぜひ、しなければならない. 被害者たちや遺族たちは憎悪心を持っているでしょうが、歳月が流れれば、その人々も赦して理解するはずです. 私たちも戦争だったから、そのようなことがあり, 今、顧みればあまりにも誤っていたことだと謝罪して、許しを乞わなければなりません. それとともに後援して支援すれば, とても良いことです.

- 韓国政府が補償することに関しては、どのように考えますか.

= 賛成します. 彼らが経済的に良いのならば, 敗者が勝者に補償する必要がなぜあるでしょうか. しかし、彼らは勝者でしたが、今、経済的にはるかに劣っています. 補償をすることが、相互国民間に友誼を篤実にする道だと思います. その時、そこで作戦を行った多くの軍人たちも村に行って許しを乞って、支援をすれば良いですね. それで、彼らの憎悪心が100分の1でも少なくなってくれたらうれしいのです.

- ベトナムは過去を問わないといいながらも、調査は全部してありました.

= 過去のベトナム政府がそのままあっても, あるいはベトナムが統一をしても、そのような調査はなされたはずです. 当時、米軍が飛行場を使用しても、戦闘機一機が飛び立って降りるごとに使用料を受け取る国でした. ベトナムの人々は、たとえ、暮らしが貧しくても、民族性が強固で自尊心も強いのです.