価値[再]創造

創価学会における素晴しき体験と
めぐり合った会員や幹部との思い出を基に
価値観を再構築していきます

学会の歴史(昭和49年) (14)

『信者利権の問題は確かにある。でも、この問題は、あと四、五十年は続くだろう。性急に解決を急ぐべきではない。今は、その問題は脇に置いて、宗門・学会に取ってもっと生産的なことをしようじゃないか。』

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1974(昭和49)年 (14)

09/02 (続き)
『※「藤本メモ」に関する藤本日潤総監の発表
最近の邪教・創価学会の御本尊に関する邪義・妄説に対して、ただいま御法主上人猊下より直々にこれを破折・粉砕する甚深の御指南を賜りまして、一同と共に篤く御礼申し上げます。猊下、まことに有り難うございました。
 お、学会の妄説のなかの御本尊模刻の件について、ただいま水島教学部副部長より破折の発表がありましたが、そのなかのいわゆる「藤本メモ」の部分につきましては、当事者である私にということでございますので、私のほうから申し上げたいと存じます。
 昭和49年9月2日の記録として、雪山坊における宗門と学会との連絡会議において、七番目に「本部三階の御本尊の件――板御本尊にしたい」ということがあり、翌9月3日の記録のなかで、日達上人猊下への御報告として「7の件――OK」と記されております。
 この本部三階の御本尊というのは、六十四世日昇上人の昭和26年5月19日お認めの「大法弘通慈折広布大願成就」という為書(ためが)きのある紙幅御本尊であり、この御本尊が、永年、陽が当たって傷んできたので、もったいないから、板御本尊にしたいという、こういう願い出でありました。
 これを翌9月3日、日達上人に御報告申し上げ、日達上人は御承知あそばされたということであります。
 ここで大事なことは、日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということでございます。日昇上人の御本尊そのものを板御本尊に模刻することを許可せられたのではないということであり、このことは、先程も出ましたが、菅野慈雲師の『大日蓮』573号に発表されている手記のなかで、日達上人のお言葉として、
「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(同書78ページ)
と、こういう仰せからも明らかであります。
 ですから、次に挙げている4ヵ月後の「藤本メモ」、昭和50年1月10日の日達上人への御報告の記録のなかで、「6、伊藤康二より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)」、これを御披露申し上げたところ、日達上人は、「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から『板本尊にしました』という報告はあった」
と、こう仰せられている。
 その「記憶ない、許可した覚えはない」という内容は、まさに日昇上人の御本尊そのものを模刻することについては「話も聞いていないし、許可した覚えもない」という意味であって、4ヵ月前の9月の池田の願い出をお忘れになったということでは、けっしてないということであります。
 学会では、このメモの「前に話しがあったかどうか記憶ない」というお言葉を巧みに利用して、日昇上人の御本尊の模刻をいったん許可しながら失念したとし、ついでに他の七体の模刻の件も、赤沢の作りごとを前提として、日達上人が失念してしまったということにしているのであります。
 こうして、すべて罪を日達上人にかぶせ、その「日達上人を守るために学会は無実の罪をかぶった」などと、とんでもないことを言っているのであります。
 平成5年9月30日付『聖教新聞』の赤沢証言が全くの虚構であることは、先程の水島副部長の発表に明らかであります。
 次に、先程の昭和50年1月10日「藤本メモ」の、日達上人お言葉の続きとして、
「個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行われている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」
というお言葉であります。
 まず、「紙幅の御本尊を板御本尊になおすということは、以前からも行われていることであり、受けた人の考えによるものであるから、そのこと自体に他の人がとやかく言うことはできない」という仰せでありますが、このことと御法主の許可を頂くという手続きとは別であります。板御本尊にするかどうかは本人の意志によるけれども、そのための手続きとしては御法主上人のお許しが必要であるということは、本宗の信仰の上から当然のことであります。
 しかし、この本部三階の御本尊については、前年の9月に申し出を受けたという経過もあるので、一往与えて、追認という形をとられたわけであります。もし許可の必要が全くないものであれば、他の七体の模刻本尊を総本山へ納めさせる理由も全くなくなるのであります。
 ところが、先程の水島副部長の発表によれば、「正本堂建立本尊」は昭和49年4月には既に模刻されていたとのことですから、この本部三階の板御本尊も、その申し出のあった昭和49年9月2日には、既に勝手に模刻をし終わっていたとも考えられるのであります。
 彼等は既に「正本堂建立本尊」を模刻しておきながら、そのことを隠して、素知らぬ顔をして本部三階の板御本尊を願い出ているのでありますから、卑劣と言うほかはありません。ことほどさように、池田創価学会の虚偽・悪業の体質がいかにひどいものであるかが判るというものであります。
 次に「御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」というお言葉であります。
 これは、学会が、本部三階安置の御本尊を模刻し、昭和50年元旦に入仏式まで行ったという、特殊なケースに対する御指南であり、しかも、これに不審を懐いた伊藤康二氏に対する内々の御指南である、ということを知らなくてはなりません。すなわち、通常、総本山より正規に下附される御本尊とは一切、関係がない、ということであります。日達土人は、伊藤氏が本宗の信仰に混乱をきたさないよう御配慮されつつ、御法主としての大慈大悲のお立場から最大限に学会を包容あそばされ、追認あそばされた、と理解すべきであります。
 したがって、このお言葉のなかでも「御本尊の御開眼とか入仏式とかは、本来的に僧侶の導師によって行うべきである」ということを仰せでありますが、ここで仰せの「僧侶」とは御法主上人御自身であり、あるいはその御代理の僧侶を意味する、ということは言うまでもありません。しかしまた、既に入仏式まで行ってしまった学会を擁護され、また追認あそばされるという情況の上で、敢えて「僧侶(御自身)なしでもやむをえない」旨をお示しになっているのであります。このため、日達上人は、御法主による御開眼のない模刻御本尊の入仏式を、本来的、また一般的な意味で、まして積極的な意味でお認めになっているのではけっしてない、ということであります。
 それを学会は、「彫刻したことも、開眼がなかったことも特に問題ではない」というふうに解釈して、あまつさえ「学会は日達上人を守るために、全く問題のなかった御本尊謹刻の無実の罪をかぶってきたというのが真実だったのです」と強言するに及んでは、何ををか言わんやであり、日達上人の御慈悲を踏みにじる無慚無愧、この上ないものと言わなければなりません。
 どうか皆様方には、大謗法集団・池田創価学会の、このような卑劣な策謀にいささかも紛動されることなく、どこまでも日蓮正宗僧侶として、あるいは信徒として、御法主上人猊下の御指南を根本に、堂々と正法正義の広宣流布、折伏、再折伏に励み、もって、まずは本年度のそれぞれの目標達成を目指し、さらに平成14年の30万総登山に向かって勇猛精進せられますよう、心よりお祈り申し上げまして、私の発表とさせていただきます。
 まことに有り難うございました。』
(於:97年8月28日全国教師講習会/97年宗務院『創価学会の偽造本尊義を破す』P104?109)


09/03
【宗門】藤本庶務部長、大奥での連絡会議の猊下への報告の記録をメモに残す。
『7の件――OK』

09/06
【学会】聖教新聞第7面に、女子部最高幹部による座談会記事を掲載。
師弟直結というのは生死一大事の〃血脈〃にあたると思います。この血脈が切れてしまえば……』

09/??
【学会】会長、ソ連を初訪問。



※元KGB少佐で、アメリカに亡命したS・レフチェンコ氏は、『文藝春秋』平成5年6月号に掲載された上住充弘氏との対話の中で、以下のように語っている。
「彼(池田)の訪ソ旅行は、実際にすべてKGBを通じて手配されたんだ。
 かれはおそらく最後までそれを知らなかっただろう。そして、KGBの努力のおかげで、池田氏はソ連に対してとても友好的だった。彼は自己中心的だったので、ついに気がつかなかったのです」
「(ソ連の)国際部にとって重要だったのは、ある時点での彼の声明だったのです。(中略)千百万人の強力な宗教団体のリーダーだった。その彼が一言でもソ連に有利なこと喋れば、信者たちに伝わるわけです。
 1974年だったと思うが、彼がソ連に来て、北方領土についてこういったのです。
『北方領土の問題は確かにある。でも、この問題は、あと四、五十年は続くだろう。性急に解決を急ぐべきではない。今は、その問題は脇に置いて、両国に取ってもっと生産的なことをしようじゃないか。』
ソ連の要人たちは、彼のこの言葉にえらく感動していたようだ。」

09/17
【学会】会長、クレムリンでコスイギン首相と会談。

09/??
【学会】会長、モスクワでノーベル賞作家M・A・ショーロホフと対談。

(?)
自衛隊調査部、池田会長の訪ソ情報を収集。

09/20
【宗門】猊下、『賞本門事戒壇正本堂建立』の賞与御本尊に裏書する。
(文案を『願って』から『準じて』に変更。)

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学会の歴史(昭和49年) (13)

問題が起きれば利用し、軌道に乗ると切り捨てようとする。
ひどいもんです。

(ここから)---------------------------------------------

1974(昭和49)年 (13)

09/02 (続き)

『この御本尊彫刻の件は、正信会間題が起きた時の学会批判の大きな争点の一つであったため、宗門内の僧侶有志が正信会に反論するために作成した文書「祖道の恢復と真の正信確立の為に」の中で、後に正信会に行ってしまった「W師」のかつての発言として、
「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば、会長登山御目通りの刻、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認されたことを承知しているのである。従って今こちら側でこの件をついてゆけば、それでは事実はこうと聖教で公表するだろう。秋谷副会長はその意向であると言っている。かかる事態になれば法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。故にこの件に関しては是以上言うべきでない。宗務院として強制力ある通達をもってこれを達しなければならない。この件に違反すれば宗制宗規に照らして厳正な処置をとらねばをらないと考える。
(昭和53年10月4日宗務院との話し合いの中での報告〉」
「学会側に「不用意に護刻云々」と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まると説得したのは誰であったか。週刊誌でY弁護士が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて、自分が全部原稿(脚本)を書いたと告白しているではないか。」
と、山崎正友が正信会と結託して「不用意に謹刻云々」という言葉を入れさせたと、事件の舞台裏を説明しており、実は学会は日達上人を守るために、全く間題のなかった御本尊謹刻の無実の罪をかぷってきたというのが真実だったのです!』
(新階央『日寛上人の御本尊下付の正義の証明』)



『ただいま読み上げた前半部分は、正信会のWなる者の「模刻間題をつつけば法主上人の御徳にきずがつく」旨の発言ですが、これは学会側の巧妙な情報戦略に乗せられて、自称正信会の僧侶が躊躇せざるをえなかった、というだけのことであります。
 また、「学会側に『不用意に謹刻云々』と言う言辞を入れて」云々とありますが、最近、学会では「実は、不用意に護刻云々の発言は、宗門が作成した文書を読んだだけ」と弁明しております。
 しかし、総本山において、御法主上人の御臨席を仰ぎ、宗門の全教師と二干名の学会幹部が出席した公式の会合で、学会を代表して副会長が発表したものを、あとになってから「実は読めと言われたから読んだだけ」とする言い逃れは見苦しい限りであり、社会の良識が通じない異常集団の、たわけた世迷い言と言うべきであります。』
(宗務院『創価学会の偽造本尊義を破す』P100)



『したがって、謹刻された御本尊は、決してニセ本尊などと言うようなものではなく、その証拠に、正信会との関係を配慮して一応回収された七体の御本尊は、正式な御本尊として御宝蔵に保管されており、議事録のおかげで宗門として正信会に対して言い訳が可能だった1体は何の問題もなく学会の会館に御安置されたままなのです。
 実は、九州・別府の末寺に在勤していた御僧侶Y師は、その当時住職だった佐々木秀明が、他の坊主と5人で日達上人のもとに直接面談に行った時のテープを聞かれたのですが、池田先生の御本尊の彫刻の打診について日達上人が「わしも耄碌して覚えてないんだよ。」と発言されていたことを確認しており、正信会の中心的存在だった佐々木があわてて全国の坊主に学会誹謗のビラ配りを止めるように指示していたという事実を証言しています。
 その当時宗門中枢にいた者は皆知っているのです。知らずに騙されて脱会した方々があまりにも可哀想ではありませんか!』
(新階央『日寛上人の御本尊下付の正義の証明』)



『彼等はここで「七体の御本尊は正式な御本尊として御宝蔵に保管されている」と言っておりますが、これも全くのでたらめです。七体の模刻本尊は、正式な本尊ではなく、単に外形だけを似せた、彫刻された板に過ぎないので、御宝蔵ではなく、現在は倉庫に保管してあるだけのことです。
 これについて、ある学会幹部が「模刻本尊が謗法だと言うならば、いつまでも本山に置くことはない。叩き割るなり、焼却すればよいではないか」と言ったそうですが、稀代の大増上慢・池田大作と、策謀集団・創価学会を後世に語り継ぐ証拠の品を、そうは簡単に割ったり焼いたりはできません。これら七体は、後代への戒めの意味も含め、大石寺に永く留め置くべきであると思うのであります。
 次は最後の段になりますが、テープのなかで、日達上人が学会からの本尊模刻の打診について「わしも耄碌して覚えてないんだよ」と仰せられたというものです。このYなる僧侶とは離脱僧・吉川某のことと思いますが、離脱僧と正信会僧という珍妙な取り合わせによるこの伝聞がどこまで信用できるものか、はなはだ怪しい限りですが、創価学会ではこのことをもって、無礼千万にも日達上人が耄碌のために失念したとうのであります。もちろん、日達上人が最晩年に至るまで毅然として一宗を教導あそばされたことに対し奉り、だれもが等しく尊仰(そんごう)申し上げてきたところであります。
 しかし、もし万が一にも日達上人がそのように仰せられたのならば、当時の状況に思いをいたさなければなりません。
 当時、数々の謗法と逸脱を犯した創価学会に最後の機会を与え、できうるならば清浄な信徒集団に蘇生するよう努力された日達上人は、一方において、本尊模刻問題を糾弾すべしとする一部の僧侶がいたため、これらに対して種々説得されておりました。この言葉は、そのようななかで、一宗を教導あそばされるお立場から、学会を庇護するために、癪落かつ洒脱の御気風をもって事態の鎮静を計られたものと拝察できるのであります。
 この尊い目達上人のお心を踏みにじる、無慚無愧の創価学会に与同し、剃髪の師である日達上人を耄碌呼ばわりする離脱僧・吉川こそ、恩を仇で返す不知恩、師敵対の者と言うべきであります。
 以上、簡略ながら本尊模刻事件に関して、創価学会に対する破折の一端を述べてまいりましたが、要は、創価学会では昭和49年4月には既に本尊模刻をしていたという、動かぬ事実が判明した以上、「日達上人が模刻を許可しながら失念したのだ」とか「学会が無実の罪をかぷってきた」などの学会の主張は全くの作り話であり、取るに足らない空言となったのであります。』
(宗務院『創価学会の偽造本尊義を破す』P100)



『昭和49年夏、日蓮正宗と創価学会の間の「今にも絶縁か」と思われるような甚(はなは)だしい不協和は、かろうじて回避された。
 その後は、妙信講が暴れまくって、秋には創価学会本部に集団殴り込みをかけ、さらには妙縁寺庄職(妙信講の指導教師)松本日仁の按斥(ひんせき)処分をめぐって、松本が妙縁寺を不法占拠する、といった騒ぎが続き、日蓮正宗と創価学会の再脳は、否応なく協調して、これに対応せざるをえなかった。
 その間、両者は、表面上、親密な関係を回復したように見えた。
 日達上人は、創価学会側の行事にも時折、御臨席なされ、『聖教新聞』には、日達上人と池田大作がにこやかに談笑している写真がわざとらしく掲載された。
 特に、妙信講間題に関しては、宗門側は創価学会と完全に歩調を合わせた。
 しかし、水面下では引き続き、冷ややかな流れが続いていたのである。
 創価学会は、昭和49年から51年にかけて、全国各地で一斉に会館や研修道場を建設した。
 特に、昭和50年からは、〃特別財務〃と称して680億円余の金を集め、各地に土地を買い漁(あさ)り、施設を建てまくった。
 その施設には、豪華絢燗(けんらん)たる〃池田専用施設〃が作られた。
 これについては、昭和52年4月、民社党が国会において〃質問趣意書〃を提出し、追及の構えを見せたことから、創価学会本部は上を下への大騒ぎとなった。
 その騒動は、同年7月から始まった宗門側の反撃と、ちょうど時期が重なったため、創価学会は背腹に攻撃を受けた形となり、危機を招く展開となった。
 池田大作は、こうしてあちこちに建てまくった、会館や研修道場に安置する御本尊について、日達上人に下附を願い出た。
 しかし、日達上人は、一体の御本尊も下附されなかったのである。推するも畏れ多いが、
「今は、妙信講問題があって鳴りをひそめているが、いずれ創価学会は、また、謗法化し、宗門から出ていくだろう。将来、謗法の施設となるような処に安置する本尊を書写できるわけがなかろう」
というのが、日達上人の御内心であったと拝される。日達上人は、けっして池田大作に心を許されなかったのである。 会館や研修道場ができても、いつまでも御本尊がない状態ではサマにならない。
 そこで、池田大作が窮余(きゅうよ)の一策として考えついたのが、「本尊模刻」である。
 すでに下附されていた御本尊を、自分達で勝手に模刻し、それを新しくできた会館・研修道場などに置いたのである。 本物がないから、コピーを作ったのである。

 また、池田大作は、〃百ヶ寺建立〃を約束したが、口先だけで、なかなか実行しようとはしなかった。
 さんざん時間をかけて、二、三ヶ寺を名目上作ったが、その後は約束を反故(ほご)にしてしまった。
 その反面、会館や研修道場を建てまくったのである。
 昭和49年秋には、大石寺は、池田大作の兵糧責め作戦によって、財政的に厳しくなっていた。
 学会は何かと口実を設けては、富士宮市への寄附等で大石寺に金を出させ、一方で、登山会をセープした形で行なったため、大石寺の収入は減った。
 創価学会では、〃特別財務〃で思い切り会員を搾(しぼ)り上げているから、会員達は、寺院へ御供養しようにもできない。その上に、池田大作は密(ひそ)かに、
「寺へはあまり行くな」
という指示を出していた。
 やむなく宗門では、総本山も末寺も、自立を図って行動せざるを得なかった。そのための一つの策として、寺院墓地の造成や拡張が進められたのもこの時期であった。
 一方、創価学会は、会員が墓を持って寺院に縛り付けられることを警戒した。また、それによって宗門が収入を得て、創価学会に対する依倖体質から脱却を計ることを嫌った。
 さらに学会は、予(あらかじ)め宗門の動きを封じてしまおうと、この時期から、自前の墓園を持つことを計画し始めた。
(中略)
 池田大作が、正面切って日蓮正宗に宣戦布告するのは昭和52年1月であるが、そのための準備の態勢作りは、昭和49年秋から水面下で着々と進めていた。
 後に昭和53年以降、日蓮正宗から、〃教義逸脱〃ないし〃謗法〃だとして追及を受けた創価学会の行為の多くは、じつは、この昭和49年後半から51年の間に行なわれていたのである。』
(山崎正友『あの頃のこと』慧妙2004年1月16日号)

【宗門】
藤本庶務部長、雪山坊での宗門・学会の連絡会議の議事録としてメモを残す。
『7.本部三階の御本尊の件――板本尊にしたい』

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学会の歴史(昭和49年) (12)


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1974(昭和49)年 (12)

09/01
【宗門】東京・寂光山妙国寺移転新築落慶入仏法要を奉修。会長、僧俗一致について、異体同心の前提のもと、僧侶の宗義継承・大御本尊厳護の立場と檀家の外護の立場がよく合致してはじめて『仏法久住』となると挨拶。

09/02
【宗門・学会】、連絡会議。
池田会長、猊下に学会本部常住の紙幅の本尊を板本尊にしていただきたい旨、願い出る。翌3日、この願い出を聞いた猊下は「いいでしょう」と承諾。



実はすでに模刻されて安置してあった。すなわち、これは〃事後報告〃だった。(原島嵩)



『この御本尊の御謹刻については、昭和四十九年九月、日達上人の御了解があったからこそ進めたことである』
(91年11月20日付創価新報第2面)



『記録によれば、この日(49年9月2日)の宗門・学会の連絡会議において、学会側が、「本部の常住御本尊」を板御本尊にお願いしたい、と申し出ており、翌3日、この申し出を知られた日達猊下は、「いいでしょう」との御意向を宗務役僧に示されている。
 その後、日達上人は、学会から本部常住の新たな板御本尊下附願が正式に出てくるもの、とばかり思っておられたというが、学会側からは総本山に何の願い出も連絡もないまま、約4ヶ月が経過した。
 そして年を開けた昭和50年の1月1日、突如(まさに突如として)、池田は、学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊から模刻複製した板本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである』
(『妙観』91年10月15日号)



『こうした行為が、物議をかもさぬわけがない。
 そもそも御本尊に関わるすべての権能は、ひとえに御法主上人猊下が所持されていることは、日蓮正宗僧俗にとって、常識中の常識。それをあえて無視した学会に対し、次第に非難の声が沸き起こりはじめた。
 しかし、この「本部常住本尊」については、あやふやではあれ「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったこともあり、昭和52年11月7日に日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされて、ひとまず事態は収拾する。』
(『妙観』97年9月16日号)



『このことについては、八体の御本尊を謹刻した宗門御用達の仏師・赤沢猛・赤沢朝陽社長が朝陽社長が平成五年九月三十日付けの聖教新聞で更に具体的に証言しています。
「日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。
 それは同じく四十九年の秋頃でした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤沢で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと五、六体やらせてもらいたいと言っていたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。」
 ここまではっきりと日達上人自らが了解をしていた内容であったにも関わらず、昭和五十年一月十日の大奥での御報告の議事録には、「6・伊藤康二(品川区小山4.14.10)より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)御披露―G)日昇上人御本尊の彫刻については.前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない.正月登山の時に.会長から「板本尊にしました」という報告はあった.個人か受けた御本尊だから.その人又は会の宝物だから・どのように格護しようがとやかく云えない.紙幅を板御本尊にするということは、前かららも行われている.
 御開眼とか.入仏式とかは.信仰上からは.僧侶にお願いするのが本当だが.しかし.これも個人の自由で.僧侶を呼ばなければいけない.という事でもない」(注:文中「G」とは日達猊下のこと)(「藤本メモ」、参照「地涌からの通信」NO.26)
と、御本尊の彫刻の件を池田先生に対して了解したことについて、日達上人は失念していたのです。それでも彫刻したことも、開眼がなかったことも特に問題ではない、という趣旨の発言をしていたことが明らかになっているのです。』
(97年新階央『日寛上人の御本尊下付の正義の証明』)



『ただいまの前半部は、平成5年9月30日付の『聖教新聞』で、座談会形式の宗門攻撃記事のなかで、赤沢氏が昭和49年の秋ごろ、日達上人にお目通りしたという話です。
 現在、学会では本尊模刻事件に関しては、この赤沢氏の話を唯一の証拠として、「だから日達上人は御本尊模刻を承知していたのだ」と主張しております。しかし、この赤沢氏の話にはいくつか、おかしな点があります。
 その第一は、ただいま読み上げた後半部分に、昭和50年1月10日の大奥での御報告としての記録を挙げておりますが、このなかで日達上人が、
「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない」
と仰せられた、とあります。もし赤沢氏の話が事実ならば、日達上人は49年の秋ごろに承知していた御本尊彫刻という信仰の大事を3、4ヶ月後の50年1月にはすっかり忘れていたということになります。日達上人の記憶力が人並み優れておられたことは、おそばに仕えた者ならばだれもが熟知しているところであり、御本尊にかかわる大事を3、4ヶ月で忘れてしまうことなど、考えられないことです。
  第二の点は、日達上人が七体の模刻を昭和49年の段階で承知されていたと言うのは、あとにも先にも赤沢氏一人でありますが、これに対して、ただいま御紹介した昭和50年1月10日の「許可した覚えはない」との記録と同様に、菅野慈雲師のお話によれば、昭和53年正月に至って、本尊模刻の実態を聞かれた日達上人はたいへん驚かれ、
「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」(大日蓮平成5年11月号78ページ)
と仰せられた、とあります。
 また、この時、大石寺主任理事として日達上人のおそばに仕え、模刻本尊の収納に当たられた妙縁寺住職・光久諦顕師のお話によりますと、
 この時、日達上人は、
「このようなことは承知していないし、許可したことはない」
と仰せられ、創価学会に対して、ただただ、あきれ返っておられたということであります。
 さらに、昭和53年6月29日には総本山大講堂において全国教師指導会が行なわれましたが、この席上、日達上人は全国の教師一同に対して、
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(同 昭和53年8月号44ページ)と明言されています。たった一人で聞いたという赤沢発言は、疑う余地のないこれらの事実と完全に食い違っています。
 第三は、非常に大事な点ですが、七体のなかに、お守り本尊の模刻があるということです。本宗においては古来、個々に授与される鎮護御本尊は、本人が死亡した場合はお寺に納めることが原則であります。これを、かりそめにも板本尊として彫刻し、他人に拝ませることなど絶対に許されることではありません。宗門において許されざる行為を、山法山規を厳守された日達上人が、これを承認したり黙認されることなど、ありえません。
 これらの三点から見ても、赤沢証言は、極めていかがわしいものです。
 さらに赤沢証言の発生を考えてみますと、創価学会は平成3年以降、模刻事件について宗門からたぴたぴ破折されながら、明確な返答ができない状態が続きました。そして、平成5年の9月に突如として赤沢証言が出てくるのです。これなども、前年の平成4年に菅野慈雲師によって当時の真相がより鮮明に明かされたことで、創価学会が窮余の一策として虚偽の話を作り上げ、赤沢氏に証言させたものと推測できるのであります。いずれにせよ、赤沢証言は全く信用できない、作り話であると断ずるものであります。
  なお、ここで彼等は「彫刻された八体の本尊」という言い方をしていますが、この表現も狡猾な意図を持っています。「慈折広布の本尊」といわれる一体は日達上人の追認を受けておりますが、ほかの七体は違法に彫刻したものですから総本山に回収されているのです。今は「八体の本尊」を論じているのではなく、無断で勝手に模刻した「七体」を、創価学会が犯した重大な事件として論じているのです。
 次に、後半の部分は「藤本メモ」に関するものですので省略いたしますが、その結論として「御本尊の彫刻の件を池田先生に対して了解したことについて、日達上人は失念していたのです」とあります。これをもって、彼等は「日達上人が失念した事実をかばうために、学会は完全に無実の罪をかぷってきた」と主張するのであります。
 しかるに今回、私どもは内事部の協力を得て、模刻本尊の実物を調べましたところ、今まで全く気づかなかったことですが、模刻本尊の板が台座に差し込まれている部分、通常、この部分を「ほぞ」とか「あし」と言いますが、この箇所に彫刻師の名前とともに、彫刻した年月が刻まれているのを発見しました。これらは七体のうち五体に刻字され、お守り本尊と学会本部会長室安置といわれる二体には刻字がありませんでした。
 ここで注目されるのは、昭和49年1月2日の「賞本門事戒壇正本堂建立本尊」といわれる模刻本尊の「ほぞ」に「昭和四十九年四月 朝陽」とはっきり彫りつけられていたことです。確認のためにある彫刻師に問い合わせたところ、生地(きじ)の板に彫刻が終わった段階で刻字をし、そのあとで漆と金箔を施す工程に回すのだそうです。
 それはさて置き、先程の経過でも申し上げましたように、池田が最初に「学会本部の御本尊を板本尊にしたい」と願い出てきたのは、昭和49年の9月です。しかし、実はそれよりも5ヵ月も前の49年4月には、既に無許可で彫刻を終えていたという確かな証拠が今回、発見されたわけであります。まさしく23年の間、隠れていた証拠が、その時を得て、創価学会の邪義を許してはならないとの御仏意によって、全く偶然の形で我々の目の前に現れたのです。
 これよって、創価学会が、今は亡き日達上人に「失念」という罪をかぷせようとした卑劣な好策は、ものの見事に砕け散ったと言うべきであります。悪事はいつか必ず露顕し、嘘は必ずばれるのであります。
 なお、彼等は昭和49年の4月に模刻した事実が発覚した場合を想定したのでしょうが、赤沢氏の話として、昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼されたとか、昭和49年の正月には池田が日達上人から直々に内諾を得ていたなどと言っております。しかし、先程も申し上げましたように、赤沢氏の話は全く取るに足らない作り話です。日達上人が宗門の全教師の前で「私は知らなかった」と仰せられた事実を、御遷化ののち、14年も経過してから「日達上人は実は御存じだった」と言い張るのですから、赤沢氏は日達上人が嘘をついていたと言っているに等しいのです。したがって、このような話をまともに相手にする必要は全くないのです。
 また、『聖教新聞』では、
「学会には、猊下に黙ってやらなければならない理由など何一つない わけです」
などと開き直っていますが、やましいことがあったからこそ、公開もできず、昭和53年に至って日達上人のお叱りを受け、こそこそと本山に運び込んだのではありませんか。
 いずれにしても、学会の本尊模刻事件の実態は、昭和49年9月2日の連絡会議における申し出が初めてであり、その後に取ってつけた赤沢証言などは例の何の証拠にもならないことを銘記すべきであります。』
(宗務院『創価学会の偽造本尊義を破す』P93?99)

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