創価学会破折
52年路線
▲自らの非を認めたこともあった池田大作(昭和54年4月24日の会長辞任記者会見で)
※懺悔(さんげ)する 裏で瞋恚の 二枚舌
※御仏(みほとけ)に 誓いしことも 独立の 時間稼ぎの 猿芝居
▲第1次教義逸脱について謝罪した池田大作(昭和54年4月24日・会長辞任の記者会見)(『大白法』H16.2.1)=この謝罪は何だったのか。後の池田発言等をみれば、この謝罪は単なるポーズであり、内心は宗門に対する憎悪と復讐心で満ちていたことが分かる。↓
◆
50周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ (池田大作・H2.11.16/『大日蓮』号外H3.1.25)
◆
十年前は堂々と出来なかった。一言もいえなかった。それで失敗しましたんで、今度は堂々とやっている (森田理事長・H3.3.18・杉並ビクトリー勤行会)
破門の経緯(「11.16」以前)
【第1次教義逸脱問題(52年路線)】
1.「7つの鐘」構想と広布第2章
戸田会長逝去直後の総会で、当時参謀室長だった池田大作は「広宣流布をめざして」という題名のもと、過去から未来にかけての創価学会の道筋を、7年ごと、7つの段階に分けて意義付ける「7つの鐘」構想 をぶちあげた。牧口、戸田時代の歴史を第1から第4の鐘とした上で、昭和40年までを第5の鐘、同47年までを第6の鐘の時代とし、昭和54年に7つの鐘を打ち鳴らし、広宣流布を実現すると予言 した。
◆日蓮正宗は第1章をここに終わり、本日より第2章 に入ったわけであります。あくまでも、民衆のために−。(池田大作・正本堂完工式『聖教新聞』S47.10.2)
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昭和54年までに広宣流布達成すると予言していた池田大作としては、何としても正本堂=御遺命の戒壇、という意義づけがしたかった のである。そして、広宣流布が達成した昭和54年以降は、折伏を表に出さずに、文化運動を中心にして活動 (広布第2章)しようとしたのであろう。
●一昨年(昭和47年)の秋くらいから、去年を通じ今年(昭和49年)の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、いろいろ僧侶に対して批判的 であり、また、教義上においても、我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。
それは世間の友好のため、広宣流布のため、という目標によってそうしておる と聞きますけれども、そのままにしておいたんでは、それは大問題になりはしないか。終いにおいて取り返しのつかないことになりはしないか。(第66世日達上人S49.7.27) ----------------------- このお言葉から拝せられるように、正本堂建立以降に池田が推し進めた路線は、創価学会を主とし日蓮正宗を従とする本末転倒の関係の構築であり、さらに、日蓮正宗を排除した独立路線の確立であった。 それが、池田が唱えた「第2章」の意味だったのである。
<1>広宣流布達成への執着
◆私が御法主上人猊下様、大聖人様に、不開門を開いて、このように広宣流布致しましたと、猊下をお通し申して、一閻浮提総与の大御本尊様に報告することが、究極の広宣流布の暁の、その意義なのであります (『聖教新聞』昭和40年7月26日)
<2>戒壇建立への執着
◆国立戒壇の建立は、日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的 でございます(『聖教新聞』昭和33年12月12日)
◆大聖人の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所とも言うべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙 なのでございます(『聖教新聞』昭和34年5月8日)
昭和40年から47年までは、「正本堂建立」と、「不開門を開くまで!!」をスローガンにして、「広宣流布・王仏冥合の実現」と、その時に備えての「総本山および宗門の整備拡充」を大義名分とした。
そして、自らの"天下盗り"の野望を、「広宣流布・王仏冥合達成」という宗教上の目的にスリ替えてカムフラージュし、350億円を集めて行った正本堂建立と百ヵ寺建立によって、自分が、いかにも献身的に"日蓮正宗の外護の任"に当たっているかを誇大に宣伝した。(『慧妙』H16.2.16)
2.池田本仏論
・池田大作は、"大聖人御遺命の戒壇を池田が建立した 、池田こそは三大秘法完結のために出現した御本仏 である"として、自らの"本仏化"をはかる演出と売名をはかったのである。(『慧妙』H16.2.16)
◆創価仏法 の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達 にあります(『てい談法華経の展開』)
◆戸田城聖への帰命 (『人間革命』第3巻)
◆妙法の世界は感応妙の世界なんだよ〜信心の究極は感応妙だ〜学会員のあの人達の一念が私にはよくわかるんです。(中略)感応妙だよ (幹部向け出版物『前進』昭和43年11月) ----------------------- 「感応妙」とは、御本仏と衆生の感応が深妙であることを明かした語である。池田大作は、この「感応妙」を乱発して、自分と感応する会員だけに福運がつくと説いた。
◆皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていてはだめだ (『前進』昭和44年10月) ----------------------- 唱題の対境であるべき御本尊は、池田大作にとって彼と会員との仲立ちに過ぎないのである。つまり池田大作が発した題目を会員が受けてそれに感応するというのならば、御本尊はすでにいらないことになる。
◆私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない (『前進』昭和40年7月) ----------------------- これでは、池田大作は完全に御本尊に成り代わっている。
◆一つの和合僧としての団体をですね。それ自身が生命体として、もう「創価学会」という一つの団体の標示になったわけですから「創価学会仏」というふうにいわれるであろうと、こういう意味なのです。ですから、威音王仏の眷属は何十万人、何百万人、何億万人あったと考えられるのです。「威音王仏会」という会であったかもしれないですね。(中略)創価学会仏というひとつの分子ともいえるし、それから、ひとつの細胞ともいえるし、また一貫したひとつの仏子ともいえます。その和合僧団が創価学会であると (『聖教新聞』昭和37年11月3日) ----------------------- こうした創価学会自体を仏とみなす発想が組織の絶対化を促進し、加えて、その組織の上に君臨する池田大作を本仏化させた。
◆白檀の数珠の大玉に、「常」「城」「大」と刻み込ませたものを、それぞれ、牧口門下生、戸田門下生、池田門下生の首脳達に与えた。(『慧妙』H16.2.16)
◆大聖人・日興上人のマネをして"弟子分帳"を作り、幹部の名前を記入し、造反した者の名前には線を引いて、「叛(そむ)きおわんぬ」と書く。すると、その者達は地獄に堕(お)ちて、2度と人間に生まれない、などと言って脅(おど)した。また、「弟子証」を発行した。(『慧妙』H16.2.16)
●この末法万年において大聖人様以外に、御本仏はいない のであります。(中略)
最近、ある所では、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。(中略)
法華講は、どこまでも、法華講の道を保ち、本山ならびに自分に寺院と運命を共にする信心を堅く持っていただきたいと、今日はこの席からお願いする次第でございます(第66世日達上人・昭和49年4月25日、法華講総登山の砌)
3.血脈の否定
◆血脈相承といえば、よく既成宗教などに見られるように、神秘的に高僧から高僧へ、甚遠甚深の儀式を踏まえて流れるものと思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたに違いない。しかし、大聖人の仏法の本義はそのようなところにあるのではない 。我が己心の厳粛な信心の中にこそあるといわれているのです。
大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。 大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人の人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受ける のでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移す のです。 (池田大作『生死一大事血脈抄講義』/『大白蓮華』昭和52年6月号)
●ここでは既成宗教に血脈があることを述べ、かつ大聖人の仏法の本義はそんなところ(高僧から高僧への血脈相承)にあるのではないと論じられているが、それは日蓮正宗に血脈相承があることを否定することともとれますが、その意味なのですか。他宗でも血脈ということは言うが血脈相承とは言いません。また、法体の血脈相承と生死一大事の信心の血脈とはその意味に違いがあります。(宗門からの質問・「6.30」で発表)
4.日蓮正宗支配と独立
<創価山立宗寺>
◆三多摩に菩提寺を作りますよ、日本一のお寺を作る。3百年前の様式で作る。創価山立宗寺 で、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるための永遠のために懇談しましょう(池田大作・第60回社長会S47.4.18/『慧妙』H17.11.1)
◆大学(創価大学)の近くに数万坪の土地を買って数十億。牧口児童会館とか、戸田記念館……世界の本部にする。公会堂、講堂、地方の人がもう何千人でも泊れる恒久的な本部、広宣流布の本山 をつくっておきたい。会員から応援してもらって。これでほぼ日本の機構が確立。本山は坊さん、どうしようもない。学会は別法人。見事なものをつくりたい(池田大作・第1回中央会議S50.6.16/『慧妙』H17.11.1)
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実際、既存の創価大学敷地と合わせ、極めて広大な用地を八王子に取得しています。「創価山立宗寺」とは意味深な名称ですが、要は「名は体を表わす」と言われるとおり、一宗一派を旗揚げ(立宗)し、ここを創価王国の本山・本拠地にしようという構想を、そのまま名称としたものに他なりません。
<昭和49年4月30日の連絡協議会>
―僧侶の任命権・海外布教権の譲渡を要求―
東京・向島にある日蓮正宗寺院・常泉寺で、日蓮正宗と創価学会の連絡協議会が開催された。日蓮正宗側から宗務総監以下の宗務院執行部、そして創価学会からは池田会長以下の首脳が出席 する。創価学会から日蓮正宗側に提示された「連絡会議議題」には、日蓮正宗と創価学会の関係を大きく左右する次のような重大な案件が記載されていた。
◆学会提示の「連絡会議議題」 (昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.日蓮正宗国際センター
2.日蓮正宗インターナショナル
3.ミニスターの件
4.海外寺院の件
5.本山土地の問題
6.正本堂記念資料館、休憩所
7.天母(あんも)山郷土資料館
8.総坊売店拡張計画
9.洗衣(かんね)堂の使用
10.正本堂久遠の灯
11.正本堂手荷物預り所
12.正本堂電気設備関係保守契約
13.妙蓮寺記念碑の件
このうち問題となったのは、海外布教に関する1〜4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない次のような創価学会側の要求が記載されていたからである。
◆創価学会側の要求事項 (昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.(財)日蓮正宗国際センター
7月に発足したい。
役員人事、別紙の通り。
世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存 する書面を頂きたい。
(別紙)財団法人国際センター
会長 池田先生 名誉総裁 日達猊下
理事長 森田一哉 参与 早瀬日慈
専務理事 原田稔 々 藤本栄道
常務理事 細谷昭 々 北條浩
理事 桐村泰二 々 和泉覚
監事 竹内重郎 々 原島嵩
八矢英世 々 持永利之
羽吹栞
森田修平
八尋頼雄
監事 小野康
森謙
2、日蓮正宗インターナショナル
第1回国際会議、来年1月グワム島で開く。事務局をロサンゼルス(エチワンダ)におく。
3.ミニスターの件
原案(書状)提出
日蓮正宗国際センター会長 来年発表してからは、日蓮正宗インターナショナル会長より授与
4、海外寺院の件
サンフランシスコ(西岸山 妙信寺)
シカゴ (大米山 妙行寺)
いずれもコミュニティセンターの一部を以て充当する。 ----------------------- 一読して、日蓮正宗を信徒団体である創価学会の風下に置こうと企図していることが読みとれる。なかんずく1項にある「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存する書面を頂きたい」や、3項の「ミニスター(僧侶)を日蓮正宗インターナショナル会長より授与」とは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味している。
<山崎・八尋文書(昭和49年4月12日付)>
◆本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて2とおり考えられます。1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない から学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める という方法です。本山管理に介入することは火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは、本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線ですすむしかないように思われます。そのための布石としては
<1>本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配
<2>財政面の支配(学会依存度を高める)
<3>渉外面の支配
<4>信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立 等)
<5>墓地、典礼の執行権の移譲
<6>総代による末寺支配
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり今回のことは<1>、<2>、<3>を確立し 更に<4>まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思いますのでご裁断をあおぐ次第です。
[画像] :「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)
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そもそも、この報告書は、池田大作が、「国際センター」「世界会議」の準備のため、南北アメリカに1ヵ月にわたる旅行に出かけた同年3月7日、私に、「帰ってくるまでにまとめておけ!! 」と命令したのを受け、帰国の1日前、4月12日に、第1庶務に提出したものである。その後の経緯をみれば、この報告書に記されたとおりの手順で"宗門支配"の謀略(ぼうりゃく)が進められていったことは明らか である。(山崎正友=元学会顧問弁護士『慧妙』H15.11.1)
<北條文書>
―本山の件(昭和49年5月10日付)―
・9日の本山お目通り の際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいもの でした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか 、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。 (昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1) ----------------------- 要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。
―宗門の件(昭和49年6月18日付)―
・広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上げることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠(おこた)って、ご判断をあやまらせては、より以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上げます。また、私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜(たまわ)りたく。その上で、私ども、いかなる事なりとも斗う所存です。かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・G(※日達上人を指す)の心理は、一時的なものではない。今こんな発言をしたら、宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。 宗門は完全な派閥で、Gと総監とは主導権争いになっているのではないか。 長期的に見れば、うまくわかれる以外にない と思う。 本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。 戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、Gの異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。 但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。 (昭和49年6月18日・北條浩副会長/『慧妙』H16.9.1)
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これは、日達上人が創価学会の池田本仏論などの誤りを破折され始めたことに対し、反発した北條・秋谷ら首脳陣が対策を相談し、池田宛に報告したものです。(『慧妙』H16.9.1)
※創価学会員は、「創価学会は日蓮正宗を護ってきた」と信じこまされているが、実際には、御先師の代から日蓮正宗に圧力をかけ続け、時の御法主上人猊下を悩まし続けていたのである。
<「日蓮正宗国際」センター>
●(※国際センター構想について)日蓮正宗から切り離してやるならよい。(そうでなければ)海外住職も引き上げる(第66世日達上人・昭和49年5月9日/『フォーラム21』H15.8.1) ----------------------- 5月9日に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。
●先月の中頃(※5月9日?)でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。
その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
日蓮正宗は日蓮正宗として1つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ1つの宗旨である。それを、その上に1つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に1つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。
日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。
どこまでも日蓮正宗は、たとえ小さくてもよろしいから、大聖人の教義を守っていきます。 また、今、皆様方のお陰で大きくなっておるけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか、また、大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)あるかもしれない。だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守る、と言って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は、否定といいますか、お断りしたわけでございます。
それから端を発して、そのあと、最近の1年か2年かにわたるところの学会のいろいろな教義の違い、謗法のあり方ということを申し上げました。 で、ついにそのために2人(北條・山崎正友氏)は帰っていきました(第66世日達上人S49.7.27)
[動画] :創価学会 離反の真相6=52年路線 日達上人お言葉
<総代による末寺支配>
●それは去年、おととしあたりから、総代会議 というものを東京でやっています。学会で。その時には―皆な君たちは知らないかも知れないが―君達の悪口を皆な言っているんだ。みんな一々悪口を報告させてやっている。詳しく言ったら大変になる。それだから他の総代も、まるで自分らが何とかすれば、住職なんかどうにでもなるんだ、という頭になっちゃった。大変な間違いですよ。
総代は、それは住職の委任に依ってやる。住職がこの人を総代にしてくださいと言って出すからして総代になる。それを、逆に今度は、総代の方が住職の任免権を持っているというような、とんでもないことになりますね。そういうふうにだんだん変になっていった (第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
●総代による末寺支配は、創価学会が最も力を入れたことであり、宗務院に対して、各末寺に、必ず2名以上の学会員総代(責任役員)を置かせるよう要求 し、一方で、総代に対し、宗教法人法をタテに、寺の運営に干渉することを教育した。 このような作戦に則り、池田大作の指揮のもと、正本堂完成後の創価学会は、用意周到かつ陰険極まりないやり方で、日蓮正宗の支配に乗り出したのである。 "南無妙法蓮華経"の商標登録 や、正本堂について、数十種類もの意匠登録 を行なったのも、その一環である。
<本山事務機構の支配>
●(学会が)会計を、大石寺の会計を調べる という。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ 、おさらばする、とはっきり言ったのです。
私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だ と。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
5.僧侶(僧宝)軽視
<1>僧俗平等
◆上だの下だのという考え方は封建道徳の遺物であり、大聖人の仏法は、そんな偏見はまったく入る余地のないものと考える
『御義口伝』を拝してもわかるように「日蓮等の類い」という言葉のなかに、すべてを包含している。そこには、僧だの俗だのという差別観は、微塵もない。増して上下の立て分けなど、絶対にあってはならない だろう(池田) (池田大作・原島嵩著『御書と四条金吾』=昭和48年頃)
◆"独立戦争"に備えて、準備をしていたのが、昭和50年から51年の間であった。 池田大作は、また、宗門の分断を策し、宗務院役僧や内事部役僧達に対し、下にも置かぬもてなしをし、御供養をした。「栄光会 」なるグループを作って、将来、宗門の中心となると見られた若い僧侶達を入れ、池田大作が直接指導しようとした。 一方、学会出身の僧侶や学会シンパの僧侶達のグループ を作り、「池田本仏論」「学会中心論」を吹き込み、いざという時には創価学会に付いて忠義を尽くすよう、徹底して教育した(後に、「栄光会」の僧侶は、宗門僧侶としての信念から"反学会"を鮮明にしたが、後者の中からは、平成3年の創価学会破門後、宗門を離脱して創価学会に養われる道を選ぶ脱落僧が出た)。(山崎正友『慧妙』H16.12.16)
◆昭和52年に入ると、池田大作は、元旦から宣戦布告を行なうとともに、次々と攻撃の手を繰り出した。(中略)寺院僧侶不要論をブチ上げた後、日頃、創価学会に対して批判的な、日達上人のお弟子達を、青年部が集団で吊し上げ詫び状を書かせる 、という暴挙に出た。野崎勲・原田稔らの指揮のもと、青年部幹部が、御僧侶を学会本部に呼び付け、あるいは会館や寺院で、吊し上げた。汚ない言葉で罵(ののし)り、大声で怒鳴りつけ、辱(はずかし)め、それでも頭を下げない御僧侶に対しては、「お前が謝らないなら、総本山へ大挙して押しかけ、猊下を吊し上げるぞ!!」と脅した。
竹岡誠治(共産党宮本委員長宅電話盗聴事件の実行犯)らは、情報の取りまとめ役として係わっていたが、吊し上げに立ち会った感想を、私に、「これで、宗門と学会の間は決定的に壊れたなと思った」と語った。ここまで辱められては、もはや人間として絶対に許せないだろうと思われる吊し上げを、たくさんの御僧侶に対して行なったのである。後に、吊し上げを受けた僧侶達のほとんどが「正信会」に走った。「正信会」ができる原因も、じつはこの時、創価学会が播(ま)いたのである。(山崎正友『慧妙』H16.4.16)
●末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(中略)何(いか)に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(『新池御書』全集1443頁)
●所詮真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合はせ是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等、出家は主上・上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列ならん(『諸人御返事』全集1284頁)
<2>寺院不要
◆大聖人が生涯、一寺ももたれなかった ということは、これまでの寺院の権威の座を、たたき破られた のだと私は思う(中略)
寺院が令法久住を忘れて形式や権威に堕せば、大聖人のご精神に反する(中略)
時代の推移とともに、現代は学会の不惜の転教折伏があって、寺院は折伏のうえの儀式の場 といってよい。ともかくわれわれは、社会や不幸の人々のために尽くさなければならない。僧は信徒を守ることが第一義 となろう (池田大作・原島嵩著『御書と四条金吾』=昭和48年頃)
◆学会の会館、研修所もまた「近代における寺院」 というべきでありましょう (昭和52年1月の池田の講演『仏教史観を語る』)
◆儀式だけを行ない、我が身の研鑚もしない、大衆のなかへ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対にない (『大白蓮華』昭和52年3月号25頁)
◆全国各地に、会館や研修道場を建てまくったのは、各地の会員が寺に行けなくなった場合を想定して、これに代わる施設を作る、という意図であった。(『慧妙』H16.12.16)
<3>儀式の執行、化儀の改変
・『仏教史観を語る』と題する講演以降、寺院での法要よりも会館での行事を優先させるようになる。
◆会員が寺院に行くのを阻止するため、会館で七・五・三や結婚式などの行事・儀式・法要、勤行会 をさかんに行い、寺院から典礼を行う機会を奪うことを企(たくら)んだ。寺院がなくても、創価学会だけでやっていけるように、との布石である。(『慧妙』H16.2.16)
◆"教師"が学会で任命 され、会館には山号 がつけられ、(中略)それぞれの会館で、寺院で行なうのと同じような儀式 が営まれたのです。あるいは「慧光照無量」として、亡くなった人に、池田自ら"妙"の一字を書き、これでこの人は成仏したと語り、さらに発展して塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」 として各人が亡くなった人の名簿を提出し、(中略)春秋彼岸の法要も会館で行ない、寺院への流れをストップさせたのです。「形式は必要ない」といい、寺院の儀式を否定しておきながら、学会独自の儀式を行なう のですから、ずる賢いといわざるをえません。(原島嵩『妙教』H12?)
[画像] :「秋季彼岸法要入場券」=会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれた。
[画像] :「慧光照無量」=塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出す。
◆御観念文を改ざんした経本や、数珠を勝手に作り、開眼の御祈念も経ずに販売した(『慧妙』H16.2.16)
◆東京都目黒区にあった、"目黒文化会館"を、御本尊ごと「財団法人公明協会」を経て「有限会社拾伍」に売り払い、営利目的の結婚式場とした(『慧妙』H16.2.16)
◆墓園、葬儀会社を作り、儀式や葬儀を僧侶なしで古参幹部にやらせた。(『慧妙』H16.12.16)
<4>財務
◆昭和50年から、池田大作は、宗門にも世間にも内緒で、"特別財務" を集めはじめた。それが、3年足らずで600億円を超える額となり、池田大作は有頂天(うちょうてん)になった。(『慧妙』H16.10.16)
◆"特別財務"は、日蓮正宗と戦争を始めるに当たっての"軍資金"集めの意図を含んでいた。(中略)また、全国各地に、会館や研修道場を建てまくったのは、各地の会員が寺に行けなくなった場合を想定して、これに代わる施設を作る、という意図であった。(中略)特別財務にはまた、会員から搾(しぼ)れるかぎり搾り取って、会員が日蓮正宗寺院に"御供養"することを防ごこう、とする目的があった(『慧妙』H16.12.16)
・昭和52年1月に池田大作は『仏教史観を語る』と題する講演で、在家でも供養を受けられる と主張。これ以降、学会の会館では「供養」と称して広布基金 が集められるようになる。
●末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし 。(中略)何(いか)に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。(『新池御書』全集1443頁)
<5>『仏教史観を語る』
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◆近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院は持たれなかった。お亡くなりになるまで草庵であります。折伏弘教の指揮をとられ、また自ら布教のために歩く拠点としての庵室を持たれたのみであります(昭和52年1月の池田の講演『仏教史観を語る』)
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●今朝の聖教新聞(『仏教史観を語る』)を読まれて承知していることと思うが、最近、宗門と学会の間に冷たい隙間風が吹いてきた感じで困ったことである。
宗門としては今後向こうがどう出てくるか静観していこうと思う。寺としては、参詣に来る人を大切にし、信仰をすすめ、法門を説いていってもらいたい。また、相手が何を言ってきても、腹を立てないようにしてほしい。今のところ北陸方面では大分影響が出てきているようだが、大都会では、いまだそう影響は出ていない。
700遠忌の計画も練り直さなくてはならないかもしれない。昭和54年が学会の創立50周年に当たる。これを契機にどういう展開になるか判らぬ が、この3、4年、静観していく。将来、学会と訣別することになるかも知れぬ が、その時はその時で、去る者は追わず来る者は拒まぬつもりだ。そしてクルミのごとく、堅くジッと古来の正宗の形を守っていこう。その時こそ我々は、自分のもつ力を最大に発揮し、折伏して大きくしていこう(第66世日達上人・昭和52年1月17日)
・日達上人は、(※昭和52年)3月下旬 、"根性"のありそうな僧侶達に決意を打ち明けられた。これらの僧侶達は、御講などで学会批判の口火 を切り、学会幹部達に脱会を働きかけた 。活動はじわじわと拡がり、2月に吊るし上げられた僧侶達をはじめ、若い僧侶達が次々と参加していった。(『慧妙』H16.10.16)
・宗門の機関誌の1つ『蓮華』誌に、反論の論文 が掲載された。それは『池上相承書』の、「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(全集1600頁)との御文を挙げて、「大聖人が、生涯庵室に住せられ、寺院を持たれなかった、との説は誤りである 」とするものであった。
・池田の講演に対する真っ向からの批判に激怒した池田は、側近に命じて反論の論文を書かせた。
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◆だがこれ(『池上相承書』=筆者)以外に大聖人が「久遠寺」の呼称を使われているのはどこにもない。せいぜい大聖人滅後2年たって謗法に堕した波木井実長が日興上人にあてた消息に出てくるくらいだ。また、大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか(『前進』S52.8)
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・こうした傍若無人な学会側の所論に対して、御先師日達上人は、教師講習会の席上、「『日蓮大聖人の寺院観』浜田憲司氏に答う」と題して、次のように破折を加えられた。
●大聖人の寺院観について、『前進』8月号の教授浜田憲司氏にお答えいたします。(中略)浜田氏はたいへんお怒りのようですから、私はこの席を借りてお答えいたします。
浜田氏は、大聖人が「身延山久遠寺」と寺号を称せられたことを、「世は多造塔寺堅固へと逆転したのかといぶかしく思い、・・・・・・」
と申されているが、大集経の多造塔寺堅固とは釈尊仏法においての思想 ではないでしょうか。大聖人の仏法は、釈尊の仏法の白法隠没の次に、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経が広宣流布するのではないでしょうか。『撰時抄』をご覧くださればお分かりでしょう。
その大聖人の仏法が広宣流布するためには、寺塔を造ったところで不思議はない でしょう。また、造ることは当然であります。
池田会長が正本堂を建立したのは、そのためではないのですか。それとも浜田氏は、これを"多造塔寺堅固"と申されるのですか。
また、
「大聖人が寺を建てよといわれた御書が一つでもあろうか」
とのお言葉ですが、それなら文永10年8月3日、佐渡における大聖人が、『南部六郎三郎殿ご返事』に、
「但し仏滅後二千余年三朝の間数万の寺々之有り。然(しか)りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したまふ所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず。 経文には有って国土には無し、時機の未だ至らず故か」(全集1372頁)
と仰せあるのは、どう解釈すベきでしょうか。
また、『宝軽法重事』に、
「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず 。いかでかあらわれさせ給はざるベき」(全集1475頁)
とありますが、これも大聖人が寺を建てるなとおっしゃった、と解すべきですか。(第66世日達上人『蓮華』S52.9)
・日達上人は、これに続いて御書の御文を的確に挙げられ、浜田論文の裏に潜む池田の邪義を完膚無きまでに粉砕されている。
池田の魂胆は、単に寺院の有無に限らず、日蓮正宗の宗旨の根本たる二箇相承の否定にあった。これについても、日達上人は、次のように諭(さと)されている。
●浜田憲司氏よ、貴下は内心は二箇の相承を否定せんとしておりながら、表面に会長(池田)の名前を引き出して、まるで会長が二箇の相承を否定しているかのように世人に印象付けさせ、しかも、私どもが会長の講演にけちをつけているかのごとき感じを世人に与え、正宗僧侶と創価学会員を反目せしめようとする。このようなずるがしこいことは、やめてほしいものです。(第66世日達上人『蓮華』S52.9)
・もとより、この論争自体が、日蓮正宗の宗旨の根本すらも破壊せんとした、池田の邪念から発したものであれば、この日達上人の破折は、そのまま池由への破折であった。
にも拘わらず日達上人は、ここまで、他田の威信を傷つけないよう、配慮を賜(たま)わったのである。こうした日達上人の大慈悲をいただきながら、池由大作は、その後も長く反省の色を示さず、既定の路線「52年路線」を推し進めていくことになる。無慙無愧な池田に率いられた創価学会員の不幸は、ここから、いや増していくのである。
なお、論争の起点となった『前進』は、その翌月、9月号で「二箇相承に思う」と題し、辻武寿の名で、不十分ながら内容の訂正が出され、この号をもって廃刊となった。
すなわち、創価学会・池田大作の全面敗北で幕を閉じたのである。
6.御本尊模刻
<1>学会本部安置の御本尊
◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。 これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。 (『聖教新聞』S50.1.4)
・実はこの時点で、この板本尊は模刻の許可を宗門からいただいていなかったのである。口頭による願いの後、正式な御本尊御下付願いを出すのが当然であるにもかかわらず、これを無視し、勝手に板本尊を造ってしまったのである。
しかも、学会が行ったのは、紙幅の御本尊を写真に撮って模刻する行為であり、これでは1体の御本尊から2体の御本尊ができてしまうのであるから、御本尊の複製・偽造ともいってよい。
このような、日蓮正宗の厳格な宗風を無視した学会であったが、御先師日達上人は、一応口頭で許可したことであるからと、この御本尊1体についてのみ、模刻を認められた。
そして、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可あそばされ、学会創立47周年記念と併せ、改めて開眼入仏法要を営まれ、決着をつけられたのである。
<2>勝手に作られた7体の模刻本尊
・創価学会が、日達上人に板御本尊の申し出をしたのは、昭和49年9月2日のこと。後にも先にも、この1回のみであった。
しかし、その後の昭和53年正月、学会御本尊の模刻にかかわってきた仏師・赤沢朝陽の社長が、自らの罪の深さに恐れおののいたのであろう、日達上人にお目通りした折り、「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」と報告したことから、先の「大法弘通」の御本尊以外にも、多数の御本尊が勝手に模刻されていた事実が明らかとなった。
T 賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日
U 創価学会 関西本部 昭和30年12月13日
V 創価学会 文化会館 昭和42年6月15日
W 創価学会 会長室 昭和42年5月1日
X 創価学会 ヨーロッパ本部 昭和39年12月13日
Y 日蓮正宗 アメリカ本部 昭和43年6月29日
Z 御守御本尊 昭和26年5月3日
[画像] :模刻された御本尊(『慧妙』H14.3.1)=未許可ゆえに、宗門に"取り上げ"られた模刻板本尊
[画像] :模刻された御守御本尊(『創価学会の光と影』)=池田大作個人に与えられた御本尊で、本来は身に所持すべき御守御本尊を、板に模刻し、東北研修所に安置して、自分の身代わりと称して拝ませようとした。その他に7体(※後に認可された学会本部の御本尊1体を含む)の御本尊を模刻したが、その中には、日付を自分の誕生日に変えた変造模刻御本尊もある。自分を本尊と同格にしようとしたことは明らか。
・池田は、同年9月2日の宗門との連絡会議での席上、7体の模刻本尊の処理について、日達上人に「どのように対処したらよいか」とお伺いした。
この時、日達上人は“そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ”という旨の御指南をされたという。
しかし、このような厳しい御指南を、創価学会が会員に示せるはずもなく、学会が聖教新聞に掲載した記事は、次のような驚くべきスリカエであった。
◆本部として謹刻させていただいた数体の御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部に宝物としてお収めくだされば結構ですとの御指南があった。 (『聖教新聞』S53.9.3)
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた (辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
7.逸脱認めた「6.30」の記事
●私のたてまえとして、今まで学会と仲良くやってきた。今後も、仲良く手を握って広宣流布に向かっていく、ということが良いけれども、それはたてまえとしてはそうでありたい。しかし、私個人の心からいけば、それはどうしても、ちょっとまずいことがあれば、いちいちケンカをしているよりも、いっそ別れて、自分らで、小さくてもいいから、昔みたいに小さくなってもいいからやっていくと、そういう心では思っている。 (第66世日達上人・昭和53年2月22日・第2回時事懇談会の砌)
・このお言葉が懇談会の基調となり、真剣な討議が繰り返された後、昭和53年6月19日、宗門として、創価学会の教義上の誤りを指摘することになり、文書を学会に送付した。
その内容をみると
T 戸田会長の悟達・創価仏法の原点
U 血脈・途中の人師論師・大聖人直結
V 人間革命は御書
W 帰命・主師親三徳・大導師・久遠の師
X 寺院と会館を混同・寺軽視
Y 謗法容認
Z 供養
[ 僧俗
\ その他
・これに対して学会から、これまで逸脱してきた路線を改め、日蓮正宗の教義を遵守する旨の回答を寄せてきた。これが『教学上の基本問題について』と題する文書で、『聖教新聞』紙上で発表されたのが昭和53年6月30日であったことから「6.30」とも呼ばれている。
●ただ今回の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、だいたい、この線で了解を願いたいと思います。そして今後、あらためて進んでいこうと思います。
また、それが3年先、5年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えにおいてどう取っても結構だけれども、最近の問題は、この辺で納めてもらいたいと思います。(第66世日達上人・昭和53年6月29日・教師指導会の砌)
8.お詫び登山(「11.7」)
・「6.30」以降の昭和53年9月に前述の「本尊模刻事件」が露見してしまい、宗門どころか、学会内部でも大問題となり、脱会者も続出する騒ぎとなった。そこで、学会は事態を収拾すべく宗門側と会談を重ねた結果「創価学会創立48周年記念代表幹部会」を、11月7日に総本山で開催することになった。これが、創価学会が初めて宗門に公式に謝罪した、通称「お詫び登山」である。昭和53年11月7日に開催されたことから「11.7」とも称される。
◆私ども創価学会といたしまして、以下の2点を率直に認めるものであります。すなわち、第1に、学会のここ数年の指導、進み方、教学の展開のなかに、正宗の信徒団体としての基本がおろそかになっていた こと。第2に、昨年のような学会の行き方は行き過ぎがあった こと、以上の2点を私ども学会は、とくに我々執行部は、深く反省 するものであります。(北條浩理事長『聖教新聞』S53.11.8)
◆まず第1に、戒壇の大御本尊根本の信心 に立ち、総本山大石寺こそ、信仰の根本道場 であることを、ふたたび原点に戻って確認したいのであります。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません(辻武寿副会長・同上)
◆唯授一人・血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重 してまいりたいと思います。『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』とありますごとく、日蓮大聖人の法体、御法門は、すべて現法主日達上人猊下に受け継がれております。 ゆえに創価学会は広布を目指し、社会に仏法を弘通、展開していくにしても、その大前提として、猊下のご指南に、いっさい従っていくことを、忘れてはならないのであります。(辻武寿副会長・同上)
●もっとも頼るべき信徒が寺院を非難中傷し、圧迫するようなことがあれば、僧侶はまことに悲しい思いをいたして、否応なく反論しなくてはならないのであります。こうした言動は破和合僧であり、正宗の法義にももとる行為であると指摘せざるをえないのであります。(第66世日達上人・同上)
●大聖人以来、700年間守り続けてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これをふまえなかったならば仮にこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったか、との後世の批判を免れることはできない のではないか、と心配いたします。(第66世日達上人・同上)
9.池田の引責辞任
・「お詫び登山」以降も池田創価学会の路線は改まることはなかった。 表面的には、お詫びに見えるような最低限の姿をとりつつ、会員に対する本音の指導では、徹底した反宗門感情を植え付けていったからである。
●よく、お寺にお参りすると、「寺信心」だといって悪口を言う人がございます が、そういうことは間違いでございます。(中略)今日の人が、わからないで「お寺に行くから悪い」とか「お寺信心だ」などと悪口を言うのは、むしろその人たちは、仏法を馬鹿にした謗法の行為 と考えてさしつかえないのでございます。いかなる人が、どういう理屈を言おうとも、正しい仏教を勧め正しい御本尊を拝している人の悪口を言うことは、もっとも悪いことであり、謗法でございます。(第66世日達上人・昭和53年11月23日・讃岐本門寺御会式お目通りの砌)
・諸々の教義逸脱も、真相を知らされることはなかったから、創価学会の謗法路線に気づくこともなかった。ただ、宗門と学会との間に事務的な行き違いがあった、と認識していた学会員も多かったし、そのように指導した学会幹部も多くいたのであった。
・このような状況下、またも学会首脳が宗門誹謗の発言 をした。御宗門は、この発言記録を入手し、さっそく質問書を学会に送付した。だが、学会から返ってきた答えは、反省のかけらも見られない、不誠実なものだったのである。ここにおいて御宗門は、次のような、最後通告ともいえる勧告書を学会に送付した。
●拝復
昭和54年3月24日付、貴簡拝見致しました。
貴回答は、当局の質問に対する御回答としては、遺憾乍ら、貴会中枢幹部諸氏の信心と英知と勇断を信頼した当局に対し、充分なる満足を与えるものではございません。
当局と致しましては、貴会の従来の宗門外護の成果を認識した上で、之を無に帰せしむることを虞(おそ)れて充分なる配慮を以って猛省を促した積もりでございます。
徒にお為めごかしの小策を弄する前に、胸に当てるべき手を御宝前に合掌して冥の照覧を恐れて下さい。『正直以本』こそ信仰の原点です。
願わくは、素直な信仰者としての姿勢に立って、事実を厳しく省察の上、今一度当局よりの3月13日及び同月15日付各質問状を逐条吟味し、明確にして正鵠を射た回答を文書を以って可及的速やかに御送付下さい。
徒に言葉尻を追ったり、問題意識を転換したり、事実を歪曲する等従来の経緯を反復するの愚を踏襲せんか、当局には、もはや之に応じて兎毫(とごう)を染める暇も必要もないことを稟告(ひんこく)致します。
敬具
・この勧告書に対し、学会は「北條理事長談話」を発表したが、全ての責任を末端組織に転嫁した、白々しいものであった。御宗門では、池田大作の総講頭罷免について、臨時宗会まで開催されて論議が行われ、また法華講連合会も、池田大作に対し「法華講総講頭辞任勧告書」を送付 するに及んだ。
・事ここに至って、創価学会としても、最終的な決断を下さざるを得なくなったのである。それは、池田大作の総講頭辞任と創価学会会長の辞任という、この時の学会に可能な最後の決断であった(法華講総講頭の『辞任願』は昭和54年4月26日付)。
◆ここ数年の宗門と学会との関係については、昨年6月30日『教学上の基本問題について』を発表し、同11月7日には代表幹部会を開き、恒久的な和合への学会としての基本路線を確認した。以来今日まで6ヵ月の期間、こうした基本精神の徹底をはかるべく努力してきた。この徹底も一段階を経て、会長は過去に一切の経過の責任をとって、辞任を申し出ることになった ものである。(『大白蓮華』S54.6)
◆この際、会長辞任とあわせて、私(池田大作)は22日、御法主日達上人猊下に法華講総講頭に辞任を申し出ました。これは、近年、御宗門との関係で、皆様に多大なご心労をおかけし、御法主上人猊下の御宸襟を悩まし申し上げたことに対し、過去の経過の一切の責任をとらせていただく ものであります(『聖教新聞』S54.4.25)
●この『辞任願』を持ってまいりまして、ですからこちらでも宗規に則って、総講頭を辞任した場合は名誉総講頭を置く、という規定のもとに、名誉総講頭の名前を贈っておきました。
それから、さっそく向こうで、26日には学会の規則も作り、また自分も会長をやめて、すぐに北條氏を次期会長としてあがるようにする。そういうわけだ、会長もその方面のほうを解決したと、まあ、会長をやめて一切の責務を退くと、今後そういうことに口を出さないし、学会のことに口を出さない。また、常に噂される“院政”というようなことを絶対にしないということを表明しておりました。 宗門としては、それで一応解決したものと思っております。(第66世日達上人・昭和54年4月28日・教師代表者会議)
●この数年間、まことに残念な出来事が続き、混乱を招きましたことは、悲しいことでありました。幸いにして前会長(池田)の英断と、心ある人々の努力により、再び秩序の回復に向かい、晴ればれと今日の天気のごとく明るい出発ができることは、まことに喜ばしいことであります。(中略)
どうか今後は、信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたい のであります。そのうえで自主的な指導と運営で、伸びのびと御活躍を願いたいのであります。(第66世日達上人・昭和54年5月3日・第40回本部総会)
◆本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべき なのであります。私がごとき者を、かりそめにも、本仏などと、言うことはもちろん、思ったりすることも謗法 なのであります。(中略)
次に、松野殿御返事には「在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり。それも経文の如くならば、随力演説もあるべきか」と申されておられる。
ここで「僧」とは、僧形であられた御本仏・日蓮大聖人であらせられ、私ども在家の身は、御本尊に南無し奉り、御僧侶を通して、日蓮大聖人に御供養申し上げることが肝要 なのであります。
また、たびたび申し上げてまいりました点ではありますけれども、僧俗和合でなければ、広宣流布というものは絶対にできない ということであります。これは、創価学会の大原則であり、愛宗護法の精神は、すなわち学会精神の第一義であると銘記されたいのであります。(池田大作・第40回本部総会・『聖教新聞』昭和54年5月4日)
・この挨拶中、第1段は、池田自らが唱えてきた「池田本仏論」への総括であり、第2段は、「在家でも供養が受けられる」とした主張の否定、また第3段は、創価学会の独立を目して展開された在家主義路線への総括である。
・今般の問題を契機に設けられた「最高教導会議」が5月7日に開けれ、この会議では、学会側から会員への徹底事項として、次の3点が示された。
◆1、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、唯授一人血脈付法の御法主上人猊下を尊崇し、篤く三宝を敬う。
2、総本山並びに日蓮正宗寺院を外護し、御僧侶を尊敬する。礼節を弁え、非礼な言動があってはならない。また、法華講、檀徒の方々に対しても、同じ日蓮正宗信徒として仲良く協力しあっていきたい。
3、謗法厳誡は日蓮正宗の規範である。したがって社会に展開する活動にあっても、祭礼や神社の寄付等について謗法厳誡をゆるがせにしてはならない。
●それについて宗門の方も、それだけの大きな腹をもって、学会を受け入れて進んでいくのが当然かと思いまして、向こうの出方を待つ、すなわちこれから先、どういうふうにしていくかを待つつもりであります。実際に新しい学会の執行部ができたことに準じて、学会がどういうふうに宗門と仲良く僧俗和合していくか、ということを見なければならないと思います。学会が正しく日蓮正宗の教義を守り、正しい信心をして、また、世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じてどこまでも学会を守り、学会を信徒団体として受け入れていかなければならないのでありますから、ここにしばらく様子を見なければならないと思うのであります。(中略)学会にいまだに間違ったことがあるのならば、宗務院、内事部のどちらにでも言ってきてくだされば、それを向こうに注意して、改めさせていくつもりであります(第66世日達上人・昭和54年5月29日・寺族同心会の砌)
【日顕上人時代】
1.日顕上人の御登座と学会への対処
・昭和54年7月22日、日達上人が御遷化され、日顕上人が後継として御登座された。
●創価学会に対する基本的な態度は、前法主日達上人が示された規定の方針といささかも変わるものではない。(中略)
我々正宗僧俗は、いたずらに過去の行きががりにこだわり、内輪同士で反目しあい、世間の嘲笑の的となる愚は避けなければならない。そして今や、互いに励まし合い、助け合い、異体同心の上、外に向かって謗法不信の人々の慈折教化に全力を注ぎ、もって一天広布の願業に邁進すべき時である。
もちろん、もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきである。また、そこに何らかの複雑な問題を含むときには、宗務院に報告して善処を委ねるなり、あるいは地方協議会の機関に諮る等の道を講ずべきである。
創価学会にあっては、6.30、11.7につき、さらに全会員が充分にその経緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽くして説明徹底することを怠ってはならない。
すなわち、そのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分を明確にし、また、そのような指導を行ったことについて率直に反省懴悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない(院達第18号・昭和54年10月8日/『大白法』S54.10.16)
・このように、道理に基づいた慈悲の教導を御指南される日顕上人猊下に対し、後に「正信会」と自称する僧侶の一群は、日顕上人猊下までも非難する姿勢を見せていた。
こうした一群に対しても、日顕上人猊下は、噛んで含めるように次のような御指南を下された。
●先日、ある14、5人の人と話をする機会がありました。それはいわゆる"檀徒"の引率者の人達です。
そのときにいろいろな話もしましたけれども、その中で「とにかく猊下、学会は直りませんよ。直らないのではないですか」という発言がありました。私は言下に「そんなばかなことがあるか。直さなければいけないんだ」ということを申しました。御本尊様を持って拝んでいる人達に対して「あれはもう直らない」。こんな無慈悲な話は、私はないと思う。 しかも僧侶です。
親だったら、子供が重病で、医者が首をひねって「もうだめかもしれない」と言っても、親は「何としても助けよう」と思う。それこそ信心している人は、御本尊様に何百遍もお題目を唱えますよ。それにも増して、仏者として本当に人を救って行こうとすれば、悪いところは何としても、どんあことをしても直していかなければならない、ということこそ必要だと思います。(中略)
ですから私は言うのですが「もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよい 」ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、改めて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。そのときは、多くの人が、ただちに改めて日蓮正宗に入ってくるでしょう。(第67世日顕上人・昭和54年10月10日・全国宗務支院長会議の砌) ----------------------- 先の院達ならびにお言葉に見られるように、日顕上人は御登座の当初から創価学会を無条件に許されていたのではなく、あくまでも創価学会の反省を信じられての上のことであった。
2.恩師の23回忌に思う
・御先師日達上人の跡を継がれた御当代日顕上人猊下は、御先師の遺志を継承され、内外に噴出する創価学会批判から学会を守られ、善導を旨として、御宗門を統率あそばされた。
しかし、こうした大慈悲をもって教導される日顕上人猊下の御指南に背き、自ら「活動家僧侶」を自認する一部僧侶たちは、激情に駆られたまま、学会攻撃の矛先(ほこさき)を収めようとしなかった。
このような状況下、池田大作は、戸田城聖2代会長の23回忌にあたって、「恩師の23回忌に思う」という所感を発表した。
◆創価学会が急速に拡大し、膨大(ぼうだい)化した結果、とくに近年、現実社会への対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。
この問の問題について、当時、その責任の立場にあった私として、懺悔(ざんげ)すべきは懺悔し、真情は真情として述べさせていただきたいと思うのであります。・・・
近年の、宗門との間題が、昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第2章の進み方の基調と、そのうえで私が展開した、昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実 であります。・・・
しかし、そのなかには、たしかに創価学会中心主義的な独善性もあり「学会が主、宗門が従」というような状況もありました 。その結果、宗門の一部御僧侶に、この方向が、学会が独立を企図しているのではないか。との疑念を生ぜしめ、また、会内にいわゆる『北條文書』などのような感情的な議論のあったことは、まことに申し訳なく思っております。
もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえない のであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体 であるからであります。・・・
ただ、私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視 し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟のゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申しあげるものであります。・・・
この点、御書の拡大解釈や逸脱 については、すでに『6.30』(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範 であります。したがってこの徹底を怠ってはならないし、また、正宗の正法正義を正しく学んでいくことは、世々万代にわたる肝要と深く自覚しなけれはなりません。・・・
申すまでもなく、末法の御本仏は日蓮大聖人ただお一人 であらせられ、また、代々の御法主上人は、唯授一人、その遣使還告のお立場であらせられると拝し、尊崇申し上げる ものであります。
私どもは、瞬時たりとも、この原点を忘れては信心の筋道を違える ことになってしまいます。・・・
また、今日の種々の問題も、私の指導性の不徳の致すところであり、多くの会員信徒に多大なご迷惑をおかけし、ご心労わずらわしたことについても、御本尊に深くお詫びの合掌をさせていただいている日々でもあります。
ともあれ学会は、絶対尊崇の本源たる本門下種人法一箇の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本とし、永遼に代点の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。・・・(池田大作『恩師の23回忌に思う』/『聖教新聞』S55.4.2)
3.正信会の活動と日顕上人の対応
・お為ごかしの反省を口にしながら、その実、何も反省しない学会の体質に猛反発した僧侶の一群が、後の自称正信会(昭和55年7月4日結成)である。
彼らは、日顕上人猊下が制止せられたにも(『宗内檀徒の皆さんへ』)かかわらず、創価学会追及の矛(ほこ)を収めず、ついには、開催の中止を命じられていた第5回檀徒大会を強行した。檀徒を巻き添えにしての開催は、『化儀抄』の
「門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を乖背(けはい)せらるる事は謗法の義なり。五戒の中には破和合僧の失(とが)なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり」(聖典983頁)
との御制誡に背くものであり、まさしく謗法である。
御宗門においては、これらの僧侶を、罷免(ひめん)、降級、停権、譴責(けんせき)等の処分に付されたのであった。
ところが、彼ら正信会は、「創価学会こそ謗法であり、その謗法を責めることは大聖人の御精神である。にもかかわらず、自分たちが謗法扱いされるのは承伏できない。謗法の学会を責めない日顕上人は日和見主義だ」と、処分に不服を鳴らすのみならず、日顕上人猊下への反抗の度合いを強めていった。
彼らの大半は末寺住職であったが、彼らは宗門から通達された内容を、寺院所属の信徒達に知らせない等の姑息(こそく)な手段を弄(ろう)していた。それ故、所属信徒たちの多くは、何ら事実を知ることなく、彼らに同調してしまったのであった。
日顕上人猊下は、御自ら『宗内檀徒の皆さんへ』と題する小冊子を認(したた)められ、それを檀徒各位に送付せられた。
●私は一宗統率の責任ある立場にあって、現在の混乱した状況に対し、たいへん憂慮しております。ことに、近年の一連の経緯のなかで創価学会から脱会し、直接末寺に所属して住職の指導のもとに信心に励もうとしている皆さん方のなかに、不安定な気持ちで毎日を過ごし、本来の信心修行に精進できない姿が多く見られることに、心を痛めています。
そこで、現状を正しく認識し、宗門の方針をよく理解したうえで、一日も早く落ち着きを取り戻して、自行化他の信心に励まれることを願い、一文を草(そろ)する次第です。
私は登座以来、この間題について皆さんに納得いくよう、機会あるごとに、たびたび述べてきました。(中略)しかし、残念なことに、あくまでも自分の考えを中心にしていこうとする一部の往職は、自分に都合の悪い内容については、これを手元に止めたままにして皆さんに伝えなかったり、いろいろな宗門の機関紙誌の購読中止を勧めるなどの方法で統制して、今日に至りました(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・学会と同様に、正信会も、所属の信徒らに情報遮断して真実を伝えず、自らに都合よく歪曲した情報で寺院離れを防いでいた。それ故、それら寺院の頭越しに、直接、信徒に呼び掛けられた、と仰せられているのである。
次に、正信会僧侶らが疑難を投げつけている「創価学会の謗法是正」について、日顕上人猊下は、理を尽くして説明されている。
●たしかに、ここ数年前から、創価学会には本宗の化儀化法の上から見て種々の逸脱や行き過ぎが目立ってきました。これは本年(昭和55年)1月26日の第4回全国檀徒大会の折り、詳しく述べたとおり、末曽有の本尊流布の大業を行なったことに付随して起きた、凡夫の増上慢がもとになっているものと思われます。その起因が広布実現を念願するあまりのこととはいえ、非は非として改めなくてはなりません。そこで、先師日達上人が、率先してその誤りを指摘し、学会も池田前会長をはじめ、執行部の人々は猊下の御指南に従い奉ってそれを改め、さらに是正の徹底のため努力を傾けております。
したがって、現在において、いまだに『学会は大謗法の団体である』とするのは大きな誤りであります。(中略)『大逆なれども懺悔すれは罪消えぬ』との仰せがあるように、たとえ、どのような謗法を犯したとしても、心からそれを改悔(かいげ)し、戒壇の御本尊を根本に仏道修行に励むならぱ、罪は消えるのであります。(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・かくのごとく、日顕上人猊下は、法門の道理の上から、いちおう、学会を許されたのであった。
次に、自称正信会の者共がいう「日達上人は学会の謗法を責められたのに、現猊下は学会の謗法を容認している」との批判について、歴史的事実の上から、次のように諭されている。
●前述のとおり、先師日達上人が一時の学会の謗法行為を指摘されたのも事実であります。また、日達上人の御指示に従って学会の過ちを是正しようとした人々の行為も、御仏智に従った行動であったと思います。しかし、その指摘を受けた学会が、率直に反省して是正を誓い、その徹底のために努力をしていることも事実であります。それ故に、日達上人は昨年4月末、池田氏の辞任を契機に、宗内の正信覚醒運動など学会批判行為を厳重に禁止して、はっきりとけじめをつけられました。(中略)また、全国檀徒新聞の『継命』にしても、たしかに日達上人の命名により発刊されはしました。しかし、その後まもなく、紙面の内容が上人の御意志に反する、学会の過去のことを批判するものであったため、上人の命により同年6月16日付の院達で、同紙の編集者を戒めておられます。(中略)
これが日達上人の御真意であります。(中略)したがって、現在、正信会などというグループを作って宗門の意に反抗して学会を攻撃したり、宗内の問題を意図的に外部へ流したり、果ては法主を誹謗するような行動をとっている僧侶や、それに付き従っている一部の檀徒の人は、勝手に日達上人のお心を歪(ゆが)めてとらえているのであり、ひいては、大聖人の仏法の本義、血脈の仏法に違背した謗法の姿といえるのであります。(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・次に、創価学会の善導に関するお言葉を拝したい。
●今年に入ってからも、池田名誉会長は4月2日、機関紙上において過去のいろいろな面を総合的に含み、要点をくくって根本的な反省をしております。これは深い信心のうえから発した、仏祖三宝への懺悔と思われます。(中略)
もちろん、学会は大きな組織であり、今回の問題が一般会員にまで完全に浸透しているとは思われない姿も見受けられます。
したがって宗門としては、今後いよいよその徹底を促していかなくてはなりませんし、現在および将来に向かって再び学会が過ちを犯すことのないよう、意を用いていくのもまた当然であります。ゆえに、このところに宗門全僧侶が一結していくことを切に望んでおります。(第67世日顕上人『宗内檀徒の皆さんへ』)。
・今日、こうした日顕上人猊下の御慈悲溢(あふ)れる善導を嘲(あざ)笑らかのよらに、誹謗を繰り返す創価学会であるが、この「宗内檀徒の皆さんへ」を読み直すならは、日顕上人猊下が創価学会を護り育てるためにどれほど御苦心されたかが、誰にも理解できよう。
*この文書は、主に『慧妙』紙の内容などを編集、掲載させて頂いたものであります。
52年路線について (仮題)
(第67世日顕上人『富士の法統』妙教編集室48頁〜)
【池田の代で変質】 創価学会は、だんだんと変質してきました。 私は、戦前牧口会長とも3度ほど会って話もしております。戸田会長とはそれ以上の知り合いでした。池田などが入信する前から創価学会のことはいろいろと知っています。 私は戸田会長は、教義上、やはり宗門の古来のあり方、古来の教義、そして血脈相承による仏法の継承とそれに基づく信条、信じ方というものは、それはやっぱり、正しいものがあったと思っているのです。私はそのように感じるのです。しかし、そこから逸脱してしまったのが池田なのです。【学会中心の法門解釈】 池田は、ある時期から「創価仏法 」ということを言い出したでしょう。あれがそもそもおかしい。これについて宗門が、学会の教義的、思想的な誤りを責めたけれど、あれはその点においては正しかったと思うのです。それと、池田は、「妙法こそ、大宇宙を貫く根源の法 」などといって、大聖人様が御本仏として人法一箇であらせられるのに、大聖人様以外に別に法が存在しているような意味に取れる変なことを言ってみたり、また牧口・戸田・池田が久遠の師弟 であるようなことまで言っていました。本来、大聖人様と日興上人の関係に対して申し上げることを、自分たちに当てはめるようなことを言っていたのです。要はね、宗門の法義を自分たちの所に持ってきたいのだよ。そればかりか、そっちの方がむしろ中心のようにしたかった のでしょう。このようなところが池田大作の根本的な逸脱 であり、背反の元になっている思想的なあり方であったと思うのだね。それが1つです。それから、「人間革命は現代の御書だ」なんていうことも言っていました。池田ごとき凡夫が自らを大聖人様と比肩する、思い上がりもはなはだしい邪義宣伝です。【正本堂の意義付けと池田の憍慢】 正本堂に関しては、要するに「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇は我々が造るのだ」という考えがあり、大分前から「広宣流布は我々学会の手で」というキャッチフレーズがありました。私は、それはあくまで、広布に対する純粋な使命感としての言葉で、広宣流布を未来に向かって永遠に進めていく団体が創価学会なんだと、そこまでならば自然の形で、当時は良いと思っていたのです。けれども、もっと具体的に、正本堂が広布の達成である「一期弘法抄・三大秘法抄における事の戒壇なんだ」という考え方が池田の中に出てきたのです。特に正本堂着工大法要における池田の発言は、まさしく、全文ではないが三大秘法抄の文を挙げて、この正本堂が事の戒壇であると言っているのです。ですから池田は、正本堂は一期弘法抄・三大秘法抄の本門の戒壇であると、はっきりと宣言していたわけだね。だから、その意味において非常に驕(おご)り高ぶった、自分中心の考えがあって、つまり池田は、大聖人様の仏法の一切を創価学会がやり切ってしまって全部終結したと、広宣流布を完成させたのは自分だと言いた かったわけですね。 しかし、考えてみればこれは大変なことなんだ。大聖人様は、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流布)べし」と説かれ、また、御義口伝にも「末法万年まで利益する」ということを仰せになっている。それであるにもかかわらず、「これで終わった」ということになって、大聖人様の一期弘法抄・三大秘法抄に示される戒壇の深義、事の戒法というものが、正本堂を建立することによって全部でき上がったならば、将来における大聖人の、根本的な御遺命の戒壇建立の意義も何もなくなってしまう。もっとも池田大作は、恐れ気もなく、「戒壇建立なんていうものは形式の形式、従の従にすぎない」などと放言して、大聖人の仏法を軽しめていたからね。大聖人様の三大秘法の一番根本の御指南を、自分勝手に踏みにじる、無類の憍慢(きょうまん)、計我、浅識の大謗法者 と言えますね。私は、やっぱりそういう点からも、池田の狂った指導により、大変に大きな間違いを創価学会全体が犯してきていると思うのです。 ただ、この前も教師講習会で戒壇問題に対して申し述べたことなのだが、一時はあの創価学会の勢いの中に、宗門がみんな巻き込まれていた形もあったのだよ。私も教学部長の時代に、創価学会が宗門全体を呑み込んでしまうような勢いの形があって、そのなかで、彼らに影響されたような形の発言をしたこともあったと思う。日達上人もある意味においては、創価学会を善導していくために、彼らがあまりにも思い上がってはいるが、良い意味でも悪い意味でも、正本堂を建立するという目標に向かって盛り上がっていた中で、彼らに対し、ここまで広布を前進させてきたということに対して、喜びを与えるという意味で、世界悉檀・為人悉檀を用いて「大聖人様の仏法が広宣流布されつつある」という意味のご発言を、ごく稀ではあるが、されておられる。但し一番根本のところでは、きちっとけじめはつけておられました。 これも教師講習会でも話したと思うが、正本堂が完成した後、創価学会が日達上人に賞与御本尊の下付を願い出たのです。池田はその裏書きに「正本堂は大聖人の御遺命の戒壇である」とお書き下さいと願ってきたのです。池田はそのように、日達上人に、この裏書きが将来の証拠となるように書かせたかったのですが、日達上人は「御遺命の事の戒壇に準じて」とお書きになって彼らの慢心を挫(くじ)かれたのです。この「準じて」ということは、そのものずばりではないということですよね。ですが、彼らはあくまでも正本堂を本門の戒壇そのものとしたかったのですね。彼らは「正本堂建立を、三大秘法抄に示される大聖人の御指南を実現し、意義においても達成したもの」と言いたかったのだけれど、日達上人並びに宗門の反対にあって、それができなかったから、本門寺の額をあげる(広宣流布が達成される)時でないにもかかわらず、正本堂こそが、広宣流布の暁の戒壇堂になるのだというところに池田は固執したわけですね。ですから当時学会の考え方に宗門を従わせるようにいろいろな強圧があったのです。以上のような経緯があって、正本堂に対してはご存知のような定義(※正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇)ができあがったのですね。 しかし、根本のところで日達上人が池田のわがまま、謗法を許されないため、日達上人に対しての怨念が強くなっていったと思います。それらが種々の宗門批判や教義逸脱となって、昭和51、2年ころ顕著になった のでしょう。
52年路線は学会独立路線
(原島嵩『妙教』H12?)
昭和52年路線は、動機がどうであれ客観的にみれば、創価学会が独立してもよいほどの状態だった のです。
たとえば"教師"が学会で任命 され、会館には山号 がつけられ、さらに日蓮大聖人直結の、牧口初代会長、戸田2代会長、池田大作へと流れる師弟血脈 が語られ、かつ、それぞれの会館で、寺院で行なうのと同じような儀式 が営まれたのです。あるいは「慧光照無量」として、亡くなった人に、池田自ら"妙"の一字を書き、これでこの人は成仏したと語り、さらに発展して塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」 として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出す など、さながら独立教団の様相 を呈していました。こうして春秋彼岸の法要も会館で行ない、寺院への流れをストップさせたのです。「形式は必要ない」といい、寺院の儀式を否定しておきながら、学会独自の儀式を行なう のですから、ずる賢いといわざるをえません。
なぜこのような宗門への敵対感情をむき出しにしていったのでしょうか。それは、様々な角度からいえるでしょうが、この世に自分以上の存在があることは許せないという池田大作の独善が、そのような行動に走らせてしまったことに根本原因があると思います。現在の暴走は、52年路線以上です。しかし、根っこは、池田の独善と思い上がりに端を発している点で共通しています。指導者の誤りほど恐ろしいものはありません。
総代会で偽りの宗門批判 (仮題)
―学会を批判する若手僧侶への憎悪―
(山崎正友『慧妙』H15.8.1)
すでに私達の行なった会計調査で、総本山にも宗務院にも、余分な財力など全くないことは明らかになっており、池田大作もこれについて充分知っていた 。
それでも、池田大作は、「貌下の下には、僧侶や信者から御供養が集まり、莫大(ばくだい)な"お手元金"がある 」
「寺は、儲(もう)かって仕方がないはずだ。坊主は、二号を抱えたり、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の暮らしをしている。
学会員が、貧しい生活に耐え、必死に折伏しているのに、坊主は何もせず、のうのうと贅沢に暮らしている。学会を食い物にしているのだ! 」
などと言って、宗門に対する経済封鎖を強め、その上さらに、お金を搾(しぼ)り取ろうとしたのである。
昭和48年11月27日の総代会 (学会員の総代を本部に集めて行なった)の記録を見ると、池田大作は、宗門に対する"こわもて"路線について、
「言論問題あたりから、若い僧侶が威張っている。若い僧侶は大金を持ってバーへ行って、皆さん方(総代)を顎(あご)で使って、こんな姿勢があるか。本山の坊さん、金を一杯持って、それで出せ出せとは嘆(なげ)かわしい 。日蓮悪宗になる。腹黒すぎる。それで立ち上がつた。 」
「本山は生意気になった。残念ですが、傲慢(ごうまん)になった 」
「若い坊さんは出世が早い。広宣流布など考えていない 」
「法華講は、新しい寺の支部結成は差し控(ひか)えていただく。坊さんは法華講が使いやすい。そうなると、こちらとの関係がまずくなる 」
「今の大宣寺関係は皆、信心がない。嘆かわしいと言っている。何が何だかわからない。天狗だ 」
等々と、言いたい放題に宗門批判を行ない、自らの行為を正当化した。
しかし、僧侶の素行(そこう)については、具体的な事実の指摘など全くなく 、また、総本山から創価学会に"金を出せ"などと要求されたことも1度もない 。
そもそも、寺院が信者の外護(げご)によって存続するのは、当然のこと であり、信者が奉仕することなくして、寺院はありえない。
そして、創価学会が出現する以前から法華講は存在し、僧侶と在家は"水魚(すいぎょ)"の交わりを維持し、僧俗和合して日蓮正宗を今日まで守り続けてきたのである。
こうした事実を根底から否定するような、池田大作の本意はいったい奈辺(なへん)にあったのか。
池田大作は、要するに言論問題以後、宗門の、主に若い僧侶達が、創価学会の在(あ)り方に批判的であり、また、宗門が、必ずしも池田大作の言いなりに従わないことへの怒り を、このような形でぶちまけたに過ぎない。
ことに、当時、日達上人の直弟子方の、在京での養成機関のような存在であった大宣寺と、その在勤者に対し、八つ当たりしたわけである。
さらに、昭和49年正月2日 、創価学会代表を引き連れ、御法主上人猊下に年賀の挨拶をし、食事をいただく席で、池田大作は、
「本山の御僧侶が、地元で豪遊し、問題を起こしている。評判が悪い。注意していただきたい 」
と申し入れた。
日達上人は、顔を真っ赤にされて、
「それは、事実ではない。そんな僧侶は、本山にはいない。ためにする中傷です 」
と否定された。
すると、池田大作は開き直り、態度を改めて、傲然(こうぜん)と言い放った。
「猊下、そんな言い方はないでしょう。それはいけませんよ。私は、良かれと思って忠告申し上げている。私の言ったことは事実だ。検察庁でも話題になっている。ここに、検事達も来ている。」
池田大作は、法学委員会出身検事で、静岡地方検察庁富士支部勤務の会田宣明検事に対し、
「会田君、そうだな!!」
と証言を強要した。
会田検事は、顔色を変え、苦しげに下を向きながら、小さな声で「ハイ」と答えた。
だが、この前日、会田検事が実際に池田大作に話した内容というのは、
「学会員の犯罪が多く 、彼らは、取り調べにあたって刑を軽くしてもらおうとして"自分は学会の信仰を一生懸命やっている"と言う。そのことが、創価学会のイメージを悪くしている」
ということであって、"僧侶の素行"云々などではなかった。
会田検事としては、池田大作にたてつくわけにはいかず、やむをえず「ハイ」と答えたが、そのことが長い間、会田検事の心にわだかまり続け、活動に精彩を欠いた。
要するに、池田大作の一連の行為は、正本堂落成以後、日蓮正宗を完全に自身の支配下へ置こうとするためのもの だったのである。
そのため、創価学会員をけしかけて、寺院への参詣減少、経済封鎖を行ない、宗門の経済力を奪(うば)おうとした わけである。
その邪魔になる、従来の"法華講"を押さえ込もうと、さまざまな手段も試みた。
そうして、周囲を固めた上で、池田大作は
「猊下より、俺の方が上だ 」
と誇示すべく、ことさら御法主上人に無礼を働いたのである。
本尊模刻
(『慧妙』H14.3.1ほか編集)
はじめに、模刻とは、大聖人御図顕の御本尊や、御歴代上人が書写された紙幅(しふく)の御本尊を、板に御謹刻(きんこく)申し上げることです。
御法主上人の許可を得れば「模刻」自体は謗法ではありませんが、許可を得ないで行なった場合の「模刻」は大謗法であり、かつ正しい本尊とはならないのです。
創価学会が御本尊を勝手に模刻したということは、当時の会長であった池田大作氏に、御本尊への信心がなくなっていたからにほかなりません。御本尊は根本尊崇(こんぽんそんすう)、本来尊重(ほんらいそんちょう)の御当体で信心の根本ですから本当に信心があり、御本尊への畏敬(いけい)・尊敬の念があるならば、御本尊に関しては厳格すぎるほど厳格に、慎重すぎるほど慎重にお取り扱いするはずです。
ましてや、御本尊を模刻するという重大な行為ですから、何度でも御法主上人に御指南を戴くべく、総本山に足を運び、ことを進めるのが当然 です。
それを勝手に「模刻」を実行してしまったのですから、たとえどのような理由を並べようとも、池田氏には厳格な信心がなかったのです。しかも、当時池田氏は、本宗の全信徒に模範を示すべき、法華講総講頭の立場にあったのですから、なおさらのことです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)
全部で少なくとも8体の本尊を模刻したことが判(わか)っている。以下に列挙する。
@学会本部安置 昭和26年5月19日・大法弘通慈折広宣流布大願成就
A関西本部安置 昭和30年12月13日
Bヨーロッパ本部安置 昭和39年12月13日
C創価学会文化会館安置 昭和42年6月15日
D学会本部会長室安置 昭和42年5月1日
Eアメリカ本部安置 昭和43年6月29日
F賞本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日
G池田大作授与の御守本尊 昭和26年5月3日
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このうち、@の本尊は、事後の昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、学会創立47周年記念と併(あわ)せて開眼入仏法要を営(いとな)まれたので、違法なものはA以降の7体となる。これらはすべて、赤澤佛具店が池田に命ぜられて行なった。それぞれの紙幅の御本尊を写真に撮り、拡大して板に彫刻したのである。(『慧妙』H23.8.1)
[これが模刻事件の真相だ!!] @御本尊の事は御法主の専権事項だから模刻についても御法主の認可が必要 ・これが大前提である。 ●今回、宗内に御守本尊と称して、「日蓮大聖人御真蹟」と脚注せる弘安4年3月の御本尊を写真版にしたるものが配布されていることを発見した。 右は総本山で下付したるものでなく、又法主上人の御允可ありしものでもない 。依て本宗の本尊として取り扱うべきではない。(院第246号 S29.4.16・宗務院庶務部長 細井精道) ----------------------- これは昭和29年に当時庶務部長であられた日達上人が出された院達である。大聖人の真筆御本尊であっても、「法主上人の御允可(いんか) 」が必要なのである。当然、学会幹部も知っていたはずである。 ●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人S50.1.10 /藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」 大奥での日達上人への御報告) ●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 ) ----------------------- 日達上人御自身が「許可した覚えはない」(「藤本メモ」S50.1.10)「許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました」(『大日蓮』S54.7)と仰せられている以上、これがすべてである。手続きがどうあれ、日達上人の允可のない模刻本尊を拝んでも功徳はない のである。/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_ A杜撰(ずさん)かつ不可解な申請 ◎S49.1. ◆昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。 (秋谷会長『聖教新聞』H5.9.15) ◆昭和49年1月16日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。 (模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H9.10.17) ----------------------- 以上は口頭による願出であり、真実を知るのは当事者である日達上人と池田だけ、ということになる。 ◎S49.9.2 宗門・学会の連絡協議会議 ●7、本部3階の御本尊(※本部常住「大法弘通」の御本尊)の件-板御本尊にしたい(「藤本メモ」 ) ◎S49.9.3 日達上人と宗務役僧の会議 ●7の件-OK(「藤本メモ」 ) 学会は、模刻の申請をし日達上人の許可をもらったといっているが、公式の連絡会議で申請されたのは本部常住の御本尊のみ であり、他は皆、非公式の場でのものである。なぜ、他の7体については連絡会議で申請しなかったのか? このような一貫性のない杜撰な申請と、独りよがりの早合点が、模刻事件を引き起こしたことは間違いない。否、というよりも他の7体について連絡会議で申請しなかったのは、非公式な口頭による申請及び認可もなかったと考えるのが自然である(平成14年発行の北林某著『暁闇』では、賞与御本尊についても連絡会議で申請したことになっているが、平成5年から平成9年の『聖教新聞』にも記載されていない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』 にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない)。B結局、"後出し"の赤澤証言だけの学会 今日の学会側の言い分は、当時には全くなかったことであり、"後出し"もいいところ。これだけでも信用できないが、客観的な証拠は何1つなく、赤澤1人の証言のみに基づくという極めて貧弱な主張である(正信会の件と日達上人の御指南を結び付けるのは学会の主観に過ぎない)。C赤澤証言の矛盾 ―「御本尊のこととなると」「厳格」であられた日達上人が失念されたことにしてしまった学会― ◎S49.1. ◆昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。 (秋谷会長『聖教新聞』H5.9.15) ----------------------- 『聖教新聞』H5.9.30において赤澤が「1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから『御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます』と言われたんです。」と証言しているから、この「願い出」は昭和49年1月だと分かる。 ◎S49.秋 ◆日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく49年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。 私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体 やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。 (赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30) ↑矛盾↓ ◎S50.1.10 ●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」 大奥での日達上人への御報告)[矛盾1] 昭和49年1月に日達上人が「大事にするためなんだからいいんだよ」と模刻の許可をなさり、さらに同年秋(『暁闇』では11月)に「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな」と仰せになったという。その日達上人が、それからわずか2ヵ月後に「許可した覚えはない」などと仰せられるはずがない。もし、赤澤証言が事実ならば、この時点では正信会の"圧力"はないから、日達上人は、わずか2ヵ月ほど前のことを失念されたことになってしまう 。 ◆こと御本尊のこととなると日達上人は厳格 で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。 (赤澤証言『聖教新聞』H9.10.18) -----------------------[矛盾2] 「御本尊のこととなると」「厳格」とする一方で、何体もの模刻の申請及び許可をすべてお忘れになったというのだから矛盾も甚だしい。 もし、日達上人が物忘れが激しくなられたのであれば、当然、その他のことでもトラブルが起こるであろうから、上人御自身が一々記録に残されるなどの配慮をされたはずである。赤澤の言うように御本尊のことに厳格であられたのであれば尚更そうなさったであろう。 ところで、これまで、多くの本尊下付や模刻乃至彫刻の允可をされたはずの日達上人が、以前に同様のトラブルがあったのであろうか?それはなかったはずである。"敵"のアラを捜し出し針小棒大に取り上げることに長けた学会が、日達上人の"物忘れ"の証拠を出せないのだから、間違いない。そうであれば、こと「御本尊のこととなると」「厳格」な日達上人が、学会の模刻についてだけ失念されるなど、到底考えられない。D"日達上人を守るために"のウソ ―上人を二枚舌・嘘つきと言うに等しい学会― ************************************************************ 〈秋谷〉 そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構 です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』に報道されています。〈森田〉 ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。〈佐藤〉 結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の7体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。〈原田〉 あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。〈森田〉 とにかく当時の宗内は、山崎正友の暗躍と活動家僧侶の暴走で揺れに揺れていた。学会としては、こうした宗内の混乱を収拾することが最優先課題と判断した。だからこそ、日達上人を守るために 、学会本部常住の御本尊以外の7体の板御本尊を大石寺に納めたわけです。(『聖教新聞』H9.10.18)------------------------------------------------------------ ◆そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』(※S53.9.3 )に報道されています。 (秋谷会長『聖教新聞』H9.10.18) ↑矛盾↓ ●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 ) ・学会の言い分を鵜呑みにすれば、日達上人は正信会を抑えるために学会を悪人にしたことになってしまう。これは、日達上人を嘘つき呼ばわりしているに等しい 。 ・また、学会の言い分を鵜呑みにすれば、このことで学会は日達上人に恩を売った格好になる。しかし、その後の日達上人の言動を見る限り、一貫して学会の教義逸脱を厳しく糾弾 されている。 ・もし、日達上人が7体の模刻を許可されて「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と仰せられたのであれば、その後に、正当な理由もなく許可を取り消すなどということはありえない。もし、学会に非がないにも拘らず許可を取り消されたのであれば、必ず、最終的には学会の要望を叶えられたはずである。学会の要望とは何か、それは7体の紙幅本尊を永久に残すために板に謹刻することであろう。学会に非がなく、日達上人もそれを御存知であったならば、学会は何故、52年路線の収束後に、再度、本尊の模刻を御願いしなかったのか? それができなかった理由は、そんなことを申請できるような筋合い(立場)ではなかったからに他ならない。筋合い(立場)ではなかったとは、日達上人は当初から一貫して、学会の模刻を容認されていなかったということである。E言い訳のしようもない、御守御本尊の拡大模刻 これは、池田大作が、第64世日昇上人より賜った御守御本尊であるが、本来、御守御本尊とは奉安礼拝の対象ではなく、したがって模刻し、奉安する必然性もない御本尊である。
これを拡大して模刻、奉安したのであるから、池田の信仰が、すでに根本的に崩れ去っていたことが分かろう(『慧妙』H12.11.16)
このような発想をする者は、大聖人御在世以来、皆無だったのではないか。御守御本尊を拡大して板に模刻してよいという文証や、前例があれば出してみよ!化儀を無視し、本尊を私物のように扱う池田大作は、増上慢の極みとしか言いようがない。学会の模刻行為は、これだけでもアウトです!! ●特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております(菅野慈雲御尊師『大日蓮』第573号78頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_ F唯授一人の血脈を軽視していた当時の池田 @で述べたように御本尊に関する一切の権能は御法主上人が所持されている。しかるに池田は、以下に述べるように唯授一人の血脈に対する尊信の念が欠如していた。このような信心だからこそ、Aのような杜撰な対応となり、Eのような狂気の沙汰に及び大問題を引き起こしたのである。 言い換えれば、当時の池田に唯授一人の血脈に対する尊信の念が欠如していたことは、模刻に際しても御法主を軽視していたことが容易に推測されるのである。そして、この推測の正しいことは、Aの一貫性のない杜撰な申請と、Eの常軌を逸した行為によって確実になる。 ◆血脈相承といえば、よく既成宗教などに見られるように、神秘的に高僧から高僧へ、甚遠甚深の儀式を踏まえて流れるものと思われがちであります。事実、最蓮房もそのように思っていたに違いない。しかし、大聖人の仏法の本義はそのようなところにあるのではない。我が己心の厳粛な信心の中にこそあるといわれているのです。 大聖人の生命にある生死一大事の血脈を、私たちはどうすれば相承できるか。大聖人ご自身はすでにおられません。だが、大聖人の人法一箇の当体たる御本尊を残してくださっております。この御本尊から生死一大事の血脈を受けるのでありますが、それは剣道の免許皆伝の儀式のような、学校の卒業証書のような、そうしたものがあるわけではない。ただ、唱題という方程式によって、大御本尊の生命を我が生命に移すのです。 (池田大作『生死一大事血脈抄講義』/『大白蓮華』昭和52年6月 号) ----------------------- これは、当時、血脈否定の証拠として問題になった。 ●最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった。 なぜ知らなかったかというと、あの時分はよく地方のブロックに行って、学会の若い人、あるいは教授になった人、あるいは教授補という人が御書の講義をして歩いております。その内のある地方に行って、こういうことを言っておるんです。これは最近分かったことで、私もびっくりしておるんでございます。 そのことは『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。 その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。 総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る 」などと言い出してしまう。(第66世日達上人『大白法』S54.4.3 号外)G現在の学会の言動が"無許可の模刻"であったことを雄弁に物語っている。 ・日寛上人が特定の方に授与された常住御本尊を授与書を抹消して勝手にコピーして印刷 ----------------------- 52年路線当時は、まがりなりにも自分達に授与された御本尊の模刻であったが、今回は、他人に授与された御本尊の文字を削除してコピーしている。 ◆日顕宗の言う「血脈」などは本当にナンセンス な話です。本来、宗教には、「仏と自分」との関係の信仰が重要であって、権威主義の「血脈」などは、信仰的には何の意味もない (池田大作『聖教新聞』H5.5.5) ◆その折、私(識者)は、「究極に求められるものは何でしょうか」と(池田に)質問しました。おそらく「板曼荼羅(いたまんだら)の御本尊」と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は「久遠元初の法です」と答えられたのです。(中略)このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に偏狭(へんきょう)にこだわっておられない ことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た想いでした (「識者の声」として池田が紹介・H5.5.3/『慧妙』H16.7.16 ◆御本仏・日蓮大聖人の御生命は宇宙大であられる。小さな寺院や本山にしか大聖人の御生命はないなどというのは、御本仏への冒涜であろう (『聖教新聞』H5.10.24)------------------------------------------------------------ 永遠の根源は「板曼荼羅(日蓮大聖人の建立された御真筆御本尊のうちで、板に彫刻されたのは本門戒壇の大御本尊のみ)」ではなく「久遠元初の法」である、としています。うかつに聞くと、通り過ごしてしまうかもしれませんが、これは大きな誤りです(【御本尊から離れた「法」】 参照)。 宗旨の根幹は唯授一人の血脈と大御本尊である。一般の御本尊は、唯授一人の血脈によって大御本尊の内証を書写されたものである。唯授一人の血脈を否定し、大御本尊を軽視する池田が、御本尊を勝手に模刻するくらいのことは"朝飯前"だったのではないか。
[事件の経過]
[本部常住「大法弘通」の御本尊]
【「藤本メモ」】
<昭和49年9月2・3日>
<昭和50年1月10日>
[勝手に作られた7体の模刻本尊]
<許可の有無>
<7体の模刻本尊の処置>
<「模刻はしたけれども偽作はしていません」>
<「議論無用」との院達>
<藤本総監の証言>
【賞与御本尊】
<略年表>
<赤澤証言について>
<原島証言について>
<学会も正式の許可を認めていない>
【御守り御本尊の模刻】
[赤澤証言について]
[正信会の証言]
【佐々木秀明の証言】
【『祖道の恢復と真の正信確立の為に』】
<[1]「W師」の発言>
<[2]「不用意に謹刻」>
<[1]と[2]の矛盾>
<執筆者のスタンス>
[御僧侶が模刻本尊を礼拝!?]
【関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊】
【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】
【文化会館常住御本尊の入仏式】
【日達上人が賞与御本尊に読経】
[宗門機関誌の広告]
[「議論を禁止」の院達について]
[『聖教新聞』記事]
[『暁闇』]
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◎S39. 最も古い目撃証言
●昭和39年9月15日、千葉市・稲毛の稲丘に、小さな創価学会の会館(千葉会館)が建設されたのです。私達も、唱題会や大きな会合があると、よく稲丘の会館に行きました。そこで、初めて手を合わせたときは、板曼荼羅(まんだら)でした。(千葉市・清涼寺信徒S・Tさん談『慧妙』H7.3.16)
◎S48.8.23 日達上人、「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を書写 ●昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊(『慧妙』H13.4.16) ●御本尊裏書の件(S48.8.23 正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(「藤本メモ」S49.5.6 =裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』) ◎S48.12. ◆48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か 板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。 (模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H5.9.30) ◎S48.12.29 ◆実は「本門事の戒壇は正本堂」という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私が受けたもの。私が拝ませてあげよう。(池田大作・第2回『御義口伝』受講者大会/原島証言『大白法』H11.7.1) ----------------------- ここでいう「板本尊」とは、昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を、池田が授与された後、直ちに模刻・複製してしまった板本尊である。これで明らかなごとく、学会では昭和49年以前から、すでに勝手に板本尊を作っていたのだ。(『慧妙』H13.4.16) ◎S49.1.2
◆この御本尊(※紙幅)は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
◎S49.1.
◆昭和49年に、学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊 を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出たのです。 (秋谷会長『聖教新聞』H5.9.15)
◎S49.1.10
◆1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」 (「記録文書」/北林芳典著『暁闇』 H14.12報恩社)
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このような話は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18 )にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』 にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない。
◎S49.1.16
◆昭和49年1月16日のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。 (赤澤証言『聖教新聞』H9.10.17)
◎S49.4
◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊と台座に接合した「ほぞ」の彫刻 )
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ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)
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この本尊はいわゆる『賞与本尊』と言われるもの。(『慧妙』H22.3.16)
◎S49.9.2 宗門・学会の連絡協議会議
●7、本部3階の御本尊(※本部常住「大法弘通」の御本尊)の件-板御本尊にしたい(「藤本メモ」 )
◆昭和49年9月2日、大石寺雪山坊でおこなわれた連絡会議においては、創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある第64世・水谷日昇管長書写の御本尊を板御本尊に謹刻することについて、創価学会側より宗門側に申し入れがなされた。 (『暁闇』)
◎S49.9.3 日達上人と宗務役僧の会議
●7の件-OK(「藤本メモ」 )
◆3日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」 (『暁闇』)
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北林某の勝手な主張。模刻問題を扱った『聖教新聞』には出ていない。
◎S49.秋
◆日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく49年の秋ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体 やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。 (赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)
◎S50.1.1 突如、池田は、模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。(『慧妙』H14.3.1)
◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4 )
◎S50.1.10 大奥での日達上人への御報告
●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」 )
◎S50.10.12
◆細井管長は昭和50年10月12日に池田会長と話し合った際、「謹刻した御本尊については、僧侶2、3人で拝むようにしてください。それで結構です」 (「記録文書」/『暁闇』)
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このような主張は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18 )にもない。もし、この記録が事実とすれば本部常住「大法弘通」の御本尊の件についてのことか。
◎S50.10.23
◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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上記昭和50年1月1日の入仏法要の報道(『聖教新聞』S50.1.4)をきっかけに次第に問題視する声が出始めたため、学会は同年10月23日、早瀬日慈御尊能師に願って、再び「大法弘通…」の板本尊の開眼入仏法要をやり直している(『慧妙』H23.8.1)。
◎S50.11.17
◆〈※タイトル〉 牧口初代会長のお逮夜法要
〈※サブタイトル〉 創価文化会館常住御本尊の入仏式も
〈※本文〉 「創価学会常住の板御本尊」が安置された学会本部で初めて営まれた牧口初代会長の第32回忌法要―。この日の会場には初代会長の遺影(?)がライトに明るく照らし出され、人々の眼前に迫っていた。特に在りし日の初代会長の写真を目のあたりにした「牧口会」のメンバーは、懐かしの情(?)ととも……
〈※写真説明〉 早瀬総監の導師を得て厳粛に営まれた牧口初代会長の第32回忌お逮夜法要(学会本部で)(『聖教新聞』S50.11.18? /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
◎S51.10.28
◆この板本尊を永久に東北の守りとして置く(池田大作)
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創価学会会長であった池田大作氏は、自分の「お守り御本尊」を撮影拡大し、勝手に模刻したうえ、昭和51年10月28日に東北研修所で「◆」旨の発言をしました。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
◎S52.11.9
◆この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。(『聖教新聞』S52.11.10 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日 、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
◎S53.1.
●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁)
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これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
●浅草の赤澤佛具店本店に出向き、社長に面会して尋ねたところ、「全部で8体です」とのことでした。(中略)私は大変驚き、また、事の重大さを身を以て感じて、早速、寺に戻って日達上人に電話にて御報告申し上げました。日達上人は、お電話口で、「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」と申され、特に御守御本尊を彫刻したことに対してお怒りの御言葉があったことを記億しております。(管野慈雲御尊師『大日蓮』H5.11/<百禍繚乱> WS)
●このようなことは承知していないし、許可したことはない(第66世日達上人/大石寺主任理事として日達上人のおそばに仕え、模刻本尊の収納に当たられた妙縁寺住職・光久諦顕師の話/『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
◆菅野住職が、この問題が騒ぎになってから1度見えたことはありますが、それは御謹刻御本尊のあくまで確認だけで、それ以上のことではありませんでした。 (赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)
◎S53.6.
◆昭和53年6月頃、創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が、反学会活動家僧の中に流れ始めた。 (『暁闇』)
◎S53.6.29
・学会から、これまで逸脱してきた路線を改め、日蓮正宗の教義を遵守する旨の回答を寄せてきた。これが『教学上の基本問題について』と題する文書で、『聖教新聞』紙上で発表されたのが昭和53年6月30日であったことから「6.30」とも呼ばれている。
●ただ今回の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、だいたい、この線で了解を願いたいと思います。そして今後、あらためて進んでいこうと思います。
また、それが3年先、5年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えにおいてどう取っても結構だけれども、最近の問題は、この辺で納めてもらいたいと思います。(第66世日達上人・教師指導会の砌S53.6.29)
●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように(第66世日達上人・教師指導会/『聖教新聞』H5.9.15)
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このように、学会による御本尊模刻の経緯には問題があったが、日達上人は、一往後から追認したことであるからと、学会本部安置の板御本尊については御了解 せられたのである。(「自称『正信会』の虚言集を粉砕す」H15.6.7/<青年僧侶邪義破折班> WS)
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この時点では、宗門として7体の本尊模刻については公開していなかったようである。(法蔵)
◎S53.9.
・「6.30」以降の昭和53年9月に前述の「本尊模刻事件」が露見 してしまい、宗門どころか、学会内部でも大問題となり、脱会者も続出する騒ぎとなった。(『慧妙』?)
◎S53.9.2
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
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池田は、同年9月2日の宗門との連絡会議での席上、7体の模刻本尊の処理について、日達上人に「どのように対処したらよいか」とお伺いした。
この時、日達上人は「●」という旨の御指南をされたという。
しかし、このような厳しい御指南を、創価学会が会員に示せるはずもなく、学会が『聖教新聞』に掲載した記事は、次のような驚くべきスリカエであった。(『慧妙』?)↓
◆今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった(『聖教新聞』S53.9.3 )
◎S53.9.14
◆大分県別府市の寿福寺において、創価学会の原田稔副会長、野崎勲青年部長、原島嵩教学部長と、反学会活動家僧である佐々木秀明、渡辺広済、山口法興、荻原昭謙、丸岡文乗、菅野憲道らとで話し合いがもたれた。この時佐々木は、細井管長から口止めされている本尊「模刻」問題について、学会側を詰問した。 (『暁闇』)
◎S53.9.28 学会、7体の模刻本尊を総本山に納める(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
◎S53.10.3
●@9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。A学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。Bよって、板本尊に関して論議無用(院達/『暁闇』)
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日達上人は一宗を統括し、御本尊にかかわる権能を所持あそばされる御法主のお立場から、創価学会が2度と過ちを犯さないという前提で 、10月3日付の「院達」をもって本尊模刻事件に関する議論を禁止されました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
◎S53.11.7
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻 申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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「6.30」以降の昭和53年9月に前述の「本尊模刻事件」が露見してしまい、宗門どころか、学会内部でも大問題となり、脱会者も続出する騒ぎとなった。そこで、学会は事態を収拾すべく宗門側と会談を重ねた結果「創価学会創立48周年記念代表幹部会」を、11月7日に総本山で開催することになった。これが、創価学会が初めて宗門に公式に謝罪した、通称「お詫び登山」である。昭和53年11月7日に開催されたことから「11.7」とも称される。
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学会の非を詫びたことによって、一往、模刻事件を終息することとなりました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
◎S54.
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 )
◎S54.11.11
◆御本尊の件につきましては、信心の根本の問題であり、「11.7」の基本をふまえて、猊下の御指南を仰ぎつつ、お取り扱い、手続きなど、宗風を重んじ、一段と厳格に望んでまいります。
御本尊に関しては、昭和53年10月3日付けの院達をもって「一切論じてはならない」旨の厳命を受けておりますので、私たちとしては、これを猊下の御命と受けとめ、厳守してまいりたい。御命があるにもかかわらず、なお論ずることは、そのこと自体が猊下の御命に背く謗法であると信ずるからであります。
以上これまでの経緯と意義内容及び過去において正宗の化儀化法から逸脱 した点を明らかにしてまいりましたが、会員の皆さまにおかれては、よろしくその趣旨をご理解願いたいと思うものであります。(『特別学習会テキスト』)
◎S57.
●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判でに藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
記録によれば、昭和49年9月2日 の宗門・学会の連絡会議において、学会側が、「本部の常住御本尊を板御本尊にお願いしたい」と申し出ており、翌3日 、この申し出を知られた日達上人は、「いいでしょう」との御意向を宗務役僧に示されている。
その後、日達上人は、学会から本部常住の新たな板御本尊御下附願が正式に出てくるもの、とばかり思って待っておられたが、。学会側からは総本山に何の願い出も連絡もないまま、約4ヵ月が経過した。
そして年を明けた昭和50年の1月1日 、突如、池田は、学会常住の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊から模刻複製した板本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。当時の『聖教新聞』は、これを次のように報じている。
「板御本尊に参加者はお目通り。これにより『大法弘通慈折広宣流布大願成就』の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。なお、これまでの紙幅の常住御本尊は学会の重宝として永遠に保存されることになった」(『聖教新聞』S50.1.4)
これが物議をかもさぬわけはない。この報道をきっかけに次第に問題視する声が出始めたため、学会は同年10月23日 、早瀬日慈御尊能師に願って、再び「大法弘通…」の板本尊の開眼入仏法要をやり直している(『聖教新聞』S50.10.24)。
そして、これをもって、「この日に、常住御本尊が日達猊下の御認可を得て板御本尊に謹刻・荘厳され」(「入仏1周年記念の儀式」『聖教新聞』S51.10.24)たことにしようとしたが、これはかえって、1月1日の時点で池田によって行なわれた模刻・開眼・入仏が、ほとんど独断で行なわれたものであることを、自ら証明する結果となった。
結局、この「大法弘通…」の板御本尊については、、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日 、日達上人が正式に御允可あそばされ、学会創立47周年記念と併(あわ)せて開眼入仏法要を営まれ、決着をつけられたのである。(『慧妙』H23.8.1)
1◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4 )
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実はこの時点で、この板本尊は模刻の許可を宗門からいただいていなかったのである。口頭による願いの後、正式な御本尊御下付願いを出すのが当然であるにもかかわらず、これを無視し、勝手に板本尊を造ってしまったのである。
【「藤本」メモ】
<昭和49年9月2・3日>
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9・2
△后6:50〜8:40 雪山坊 連絡会議
阿部、吉田、藤本、理事 横山
会長、北条、森田(康)、星生、八尋、平野
1. 正本堂建立2周年記念行事の件、 ―10月11. 12の2日間
2. 正本堂会計の収束について、 ―9月末日で収束
3. 正本堂会計の土地を学会に譲渡する件、 ―扶桑文化センター等
4. 宗門擁護基金について、 ―とりやめる
5. 記念資料館について、 ―運営主体、富士美術カンに
6. 旧妙國寺建物、土地譲渡の件 ―お願いしたい
7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい
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9・3
[奥]*ゼ8:35〜9:40(阿、吉、藤、理)
昨夜の連絡会議の件 御報告
1. 正本堂2周年法要の名称 正本堂建立第三年記念大法要
第1日 世界平和祈願会
第2日 正本堂建立第三年記念法要
2の件 ―OK
3の件 ―OK
4の件 ―OK
5の件 ―OK
6の件 ―OK
7の件 ―OK
(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061028)
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許可を得ていた事実は、藤本総監の昭和49年9月2日付のメモ (宗門・学会の連絡会議の記録)に
「7、本部3階の御本尊の件-板御本尊にしたい 」
とあり、さらに、その翌日のメモ(日達上人と宗務役僧の会議の記録) に
「7の件-OK 」
と、日達上人が許可されていた事実を記されていることからも、明らかである。
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この本部3階の御本尊というのは、64世日昇上人の昭和26年5月19日お認めの「大法弘通慈折広布大願成就」という為書きのある紙幅御本尊であり、この御本尊が、永年、陽が当たって傷んできたので、もったいないから、板御本尊にしたいという、こういう願い出でありました。
これを翌9月3日、日達上人に御報告申し上げ、日達上人は御承知あそばされたということであります。
ここで大事なことは、日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということでございます。日昇上人の御本尊そのものを板御本尊に模刻することを許可せられたのではない ということであり、このことは、先程も出ましたが、菅野慈雲師の『大日蓮』573号に発表されている手記のなかで、日達上人の右言葉として、
●「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこない ので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(同書78頁)
と、こういう仰せからも明らかであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
昭和49年9月3日の連絡協議会メモ(別掲2)にある「OK」を見て軽々に判断を下さず、前日9月2日のメモ(別掲1)の内容をよく読んで「OK」の意味を考えなければなりません。
連絡協議会の議題@〜Fの内で、@は9月3日のメモにあるように、正本堂2周年法要の名称についてですから、特に手続きが必要な事柄ではありません。
ところがA〜Fの件は、よく読めばわかるように、すべて正式な手続きが必要なことばかりです。ですから9月3日のメモの「OK」は、いずれも前日の連絡協議会の御報告を日達上人にし、正式な手続きを開始する許可を賜ったことを意味する「OK」なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
これは、昭和49年9月2日、雪山坊で開かれた連絡会議の席上、学会側より「本部安置の御本尊を板御本尊にしたい」との申し出があったことを、その翌日、日達上人に御報告申し上げたところ、日達上人より板御本尊にすることのご許可をいただいた旨を、記録したものである。
その後、日達上人は、学会から本部常住の新たな板御本尊御下附願が正式に出てくるもの、とばかり思っておられたというが、学会側からは総本山に何の願い出も連絡もないまま、約4ヵ月が経過。
そして年を明けた昭和50年の1月1日、突如、池田は、模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。(『慧妙』H14.3.1)
別掲1[画像] :藤本総監の昭和49年9月2日付のメモ(宗門・学会の連絡会議の記録)
別掲2[画像] :藤本総監の昭和49年9月3日付のメモ(日達上人と宗務役僧の会議の記録)
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◆3日、教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(『暁闇』)
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北林某による出所不明の勝手な主張。模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18 )にもない。仮に事実だったとしても「猊下ご了承」とは、前述のように正式な手続きを開始する許可を賜ったことを意味するものに過ぎない。
<昭和50年1月10日>
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1. 10
[奥]*ゼ9:10(吉田、藤本)
1. 昨日の会議の結果 御報告
(藤本より)
1. 妙教寺 駐車場用地購入承認書1/10付―印頂戴
2. 仏心寺 土地贈与(学会へ、会館用地として)承認証―OK
3. 本証寺 総代・補欠(K)選定届―OK
4. 妙経寺 総代改選届 ―〃
5. 興道寺 法ケ講役員改選届 ―〃
6. 伊藤康二(品川区小山4―14―10)より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)
御披露―G)日昇上人御本尊の彫刻については. 前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない。正月登山の時に。会長から「板御本尊にしました」という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから。どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは。前からも行なわれている。御開眼とか。入仏式とかは。信仰上からは。僧侶にお願いするのが本当だが。しかし。これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない。という事でもない
************************************************************
************************************************************
●日昇上人御本尊の彫刻については、前に話があったかどうか記憶ない 、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(昭和50年1月10日 の大奥での日達上人への御報告の議事録)
************************************************************
以上のことから、日達上人が、いったん板御本尊への願い出を受け許可されていながら、それを失念 されていたことは明白である。
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ですから、次に挙げている4ヵ月後の「藤本メモ」、昭和50年1月10日の日達上人への御報告の記録のなかで、「6、伊藤康二より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)」、これを御披露申し上げたところ、日達上人は、
「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から『板本尊にしました』という報告はあった」
と、こう仰せられている。
その「記憶ない、許可した覚えはない」という内容は、まさに日昇上人の御本尊そのものを模刻することについては「話も聞いていないし、許可した覚えもない」という意味 であって、4ヵ月前の9月の池田の願い出をお忘れになったということでは、けっしてないということであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
4ヵ月後の、昭和50年1月10日付メモ(別掲3)に「日昇上人御本尊の彫刻については前に話しがあったかどうか記憶ない、許可した覚えはない」とあり、さらに日達上人は
「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師手記『大日蓮』第573号78頁)
と明確にいわれています。
学会は「連絡協議会のメモ」や、関係者の記憶で弁解せず、何年何月何日に正式に許可を戴いた、という明確な書類をこそ公表すべき です。その許可がないゆえに、「OK」の文字で学会員をごまかそうとしているのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
およそ、紙幅の御本尊を板御本尊に替えるとすれば、通常は新たな板御本尊の御下附を申請するものであり、まさか、紙幅の御本尊を板に模刻してしまうとは思わない。
それ故、日達上人は、昭和50年1月10日の大奥での議事録において、池田の「板本尊に直した」との報告について「許可した覚えはない」と仰せられたのであって、学会が言うように「失念」せられていたわけではない。
結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日 、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着 をつけられたのである。
しかし、先にも記したように、それ以外の7体の板本尊(もちろんニセ本尊)は、許可されていない 、拝んではならないニセ本尊であるから、創価学会から取り上げ、会員の目に触れないようにしてしまった のである。(『慧妙』H14.3.1)
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●個人が受けた本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようがとやかく云えない 。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行われている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない(昭和50年1月10日 の大奥での日達上人への御報告の議事録)
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昭和50年1月1日、創価学会本部で板御本尊の入仏式が行われ、その模様が同月4日付けの『聖教新聞』1面(※上記1◆)に掲載された。
この記事を読んだ伊藤某が宗門に問い合わせをし、藤本庶務部長(当時)が細井日達管長に報告。その時の管長の回答が藤本メモ。
日達上人が、じつは学会による御本尊の彫刻、入仏を認めていたことが明らかである。
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まず、「紙幅の御本尊を板御本尊になおすということは、以前からも行われていることであり、受けた人の考えによるものであるから、そのこと自体に他の人がとやかく言うことはできない」という仰せでありますが、このことと御法主の許可を頂くという手続きとは別であります。板御本尊にするかどうかは本人の意志によるけれども、そのための手続きとしては御法主上人のお許しが必要であるということは、本宗の信仰の上から当然のことであります。
しかし、この本部3階の御本尊については、前年の9月に申し出を受けたという経過もあるので、一往与えて、追認という形をとられたわけであります。もし許可の必要が全くないものであれば、他の7体の模刻本尊を総本山へ納めさせる理由も全くなくなるのであります。(中略)
次に「御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」というお言葉であります。
これは、学会が、本部3階安置の御本尊を模刻し、昭和50年元旦に入仏式まで行ったという、特殊なけケースに対する御指南であり、しかも、これに不審を懐いた伊藤康二氏に対する内々の御指南である、ということを知らなくてはなりません。すなわち、通常、総本山より正規に下附される御本尊とは一切、関係がない、ということであります。日達上人は、伊藤氏が本宗の信仰に混乱をきたさないよう御配慮されつつ、御法主としての大慈大悲のお立場から最大限に学会を包容あそばされ、追認あそばされた、と理解すべきであります。
したがって、このを言葉のなかでも「御本尊の御開眼とか入仏式とかは、本来的に僧侶の導師によって行うべきである」ということを仰せでありますが、ここで仰せの「僧侶」とは御法主上人御自身であり、あるいはその御代理の僧侶を意味する、ということは言うまでもありません。しかしまた、既に入仏式まで行ってしまった学会を擁護され、また追認あそばされるという情況の上で、敢えて「僧侶(御自身)なしでもやむをえない」旨をお示しになっているのであります。このため、日達上人は、御法主による御開眼のない模刻御本尊の入仏式を、本来的、また一般的な意味で、まして積極的な意味でお認めになっているのではけっしてない、ということであります。
それを学会は、「彫刻したことも、開眼がなかったことも特に問題ではない」というふうに解釈して、あまつさえ「学会は日達上人を守るために、全く問題のなかった御本尊謹刻の無実の罪をかぶってきたというのが真実だったのです」と強言するに及んでは、何をか言わんやであり、日達上人の御慈悲を踏みにじる無慚無愧、この上ないものと言わなければなりません。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
別掲3[画像] :藤本総監の昭和50年1月10日付のメモ(大奥での日達上人への御報告の議事録)
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 )
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★日達上人は"申請もせずに勝手に模刻したこと"を理由に7体の模刻本尊を回収されたのである。その事実が、"法主の許可なく模刻することは違法"ということが日達上人の真意であったことを雄弁に物語る。
昭和53年正月 、学会御本尊の模刻にかかわってきた仏師・赤澤朝陽の社長が、自らの罪の深さに恐れおののいたのであろう、日達上人にお目通りした折り、「多数の本尊を池田の依頼で模刻した」と報告したことから、先の「大法弘通」の御本尊以外にも、多数の御本尊が勝手に模刻されていた事実が明らかとなった。(『慧妙』H14.3.1)
T 賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日
U 創価学会 関西本部 昭和30年12月13日
V 創価学会 文化会館 昭和42年6月15日
W 創価学会 会長室 昭和42年5月1日
X 創価学会 ヨーロッパ本部 昭和39年12月13日
Y 日蓮正宗 アメリカ本部 昭和43年6月29日
Z 御守御本尊 昭和26年5月3日
[画像] :模刻された御本尊(『慧妙』H14.3.1)=未許可ゆえに、宗門に"取り上げ"られた模刻板本尊
<許可の有無>
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すべて日達上人の許可を得て 、傷(いた)んできた紙幅の常住御本尊を、板御本尊として御謹刻したもの
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創価学会が、日達上人に板御本尊の申し出をしたのは、昭和49年9月2日 のこと(上記学会本部常住御本尊の件)。後にも先にも、この1回のみであった。(『慧妙』H14.3.1)
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻 申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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模刻本尊に問題がなければ「奉安殿にご奉納」する必要はない。「奉納」といえば聞こえはよいが、7体のニセ本尊(当時、判明しただけでも、7体の板本尊が勝手に模造されていた)を総本山で取り上げたのであった。↓
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意 をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 )
************************************************************
時の御法主日達上人が、自ら許可していたことを失念 されていたため、創価学会が勝手に作ったかのごとく宗門で喧伝され、大騒ぎになったのである。
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何体もの御本尊を数年間の中で模刻することにつき、そのつど許可されておきながら、それを全て失念する、などという馬鹿な話があろうはずがありません。
この学会の言い訳は、「死人に口なし」とばかりに、全ての罪を日達上人にかぶせてしまおうとする、許し難(がた)い捏造(ねつぞう)であります。(『慧妙』H16.8.1)
************************************************************
〈原田〉 まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな“トリック”で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和49年9月2日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。
〈森田〉 そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけた のです。(『聖教新聞』H9.10.17)
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「御謹刻は日達上人の了解を得たうえで始めた」というのは昭和49年1月の非公式な口頭の申請である。これは8体全部の模刻を申請したのだそうだ。しかし、「再度、連絡会議にもかけている」という「49年の9月2日」の「連絡会議」で議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。では、「正本堂賞与御本尊」を含む7体の模刻については、連絡会議にかけたのかといえば、証言も証拠もない。
要するに、7体については口頭で日達上人に申請(死人に口無し!)したという赤澤証言があるのみで、連絡会議という公式の場では申請していなかったのである。
一方、日達上人は、学会本部常住の御本尊の模刻申請しか受けていないと仰せである。
要するに、連絡会議での申請の有無と、日達上人の御発言は一致しており、赤澤が「死人に口無し!」を利用してウソをついていると考えれば、すべてが矛盾なく説明できる のである。
◎S48.12. ◆48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か 板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。 (模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H5.9.30) ◎S49.1.
◆1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。 (赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30)
◎S49.1.10
◆1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」 (「記録文書」/北林芳典著『暁闇』 )
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このような話は模刻問題を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18)にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』 にも模刻の申請については記載されていない。したがって北林某の個人的捏造である。では何故、北林某がこのような記述を思いついたのか?それは、"聖教記事では学会本部常住の御本尊のみ連絡会議にかけて、他の御本尊については非公式の申請だけということになるが、これではあまりにも説得力に欠ける"と思ったからであろう。
●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」)
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学会本部常住の御本尊については「板本尊にしました」という結果報告があった。しかし、賞与御本尊をはじめとする7体については結果報告がなかったのは何故か?それは連絡会議という公式の場での申請がなされたのが学会本部常住の御本尊のみであったからであろう。否、真相は、赤澤の言う口頭の申請さえもなかったから結果報告ができなかったのであろう。
<7体の模刻本尊の処置>
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◎S53.9.2
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
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〈原田〉 これもまったくのデタラメです。活動家僧侶(後の正信会)が謹刻問題で騒(さわ)ぎ出した際、学会としては、あくまでも日達上人をお守りする立場から、昭和53年9月2日の目通りの席で、御本尊の扱いで指南を求めたわけです。
〈秋谷〉 そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に
宝物としてお納めくだされば結構 です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』に報道されています。(
『聖教新聞』H9.10.18 )
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特に由緒のある御本尊であれば格別、紙幅の御本尊を板に模刻しただけで「宝物」と表現するのは、少しおかしくないか。傷みが目立つ紙幅の御本尊であれば、お巻きして「宝物」として保管するというのも理解できるが、実際に会館に安置して会員が日常的に拝むのであれば、「宝物」という表現に違和感をもつ。
やはり、これは、「そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ」という御指南を、そのままでは新聞に掲載できないので、当たり障りのないように改竄(かいざん)したとみるのが妥当だろう。
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〈森田〉 ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。
〈佐藤〉 結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の7体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。
〈原田〉 あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか 。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。(『聖教新聞』H9.10.18)
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以下に示すように、正信会は現在まで、学会本部常住の御本尊の模刻も問題にしている。もし、学会のいうように、「活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために」「板御本尊を本山に納めることにな」ったのであれば、当然、その対象は8体全部でなければならない。しかし、実際には学会本部常住の板御本尊については納められなかった。それは何故か?
その理由は、"学会本部常住の御本尊はまがりなりにも模刻申請があったが、他の7体については申請さえなかった"という日達上人御自身の事実認識に基づく処分だったからである。
◆辻武寿副会長は「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については云々」と述べていますが、御本尊大聖人の御魂である御本尊を「不用意にご謹刻申し上げ」たとは、具体的にはいかなる行為を指すのですか。またその「ご謹刻本尊」の正確な数は、これまで公表されておりませんが、正直のところ、一体何体作られたのですか。(学会への公開質問『継命』S55.2.1/<正信会>WS070120) ◆本当は日達上人は、「本尊模刻問題を出すときは学会を破門にするときだ」というお気持ちであられたのです。そううかがっております。本尊模刻は謗法の最たるものです。それを敢えて日達上人はお許しくださったのです(原島嵩『本尊模刻事件のすべて』継命新聞社S55.12.1 /<青年僧侶邪義破折班>WS ) ◆辻武寿副会長は、戒壇の大御本尊根本の信心を強調し、「その意味からも、不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」と述べた。 この辻副会長発言は、学会が犯した本尊模刻が、戒壇の大御本尊根本の信心からかけはなれ、正宗の化法化儀から大きく逸脱してしまったことを認めたものである。(「『11.7』とは?」 /<正信会>WS070120) ----------------------- 正信会の公式ウェブサイトには現在(H19.1.20)も、学会の模刻本尊を批判する内容が掲載されている。
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>学会で彫刻した御本尊はニセ本尊ではなかった。ゆえに、本山でも、回収した7体の本尊を、正式な本尊として御宝蔵に保管 している。
>宗門は何故奉安殿に安置 したのだ?謗法払いをすればすむ事ではないか!矛盾している。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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彼等はここで「7体の御本尊は正式な御本尊として御宝蔵に保管されている」と言っておりますが、これも全くのでたらめです。7体の模刻本尊は、正式な本尊ではなく、単に外形だけを似せた、彫刻された板に過ぎないので、御宝蔵ではなく、現在は倉庫に保管してあるだけのことです。
これについて、ある学会幹部が「模刻本尊が謗法だと言うならば、いつまでも本山に置くことはない。叩き割るなり、焼却すればよいではないか」と言ったそうですが稀代の大増上慢・池田大作と、策謀集団・創価学会を後世に語り継ぐ証拠の品を、そうは簡単に割ったり焼いたりはできません。これら7体は、後代への戒めの意味も含め、大石寺に永く留め置くべきであると思うのであります。(教学部副部長・水島公正H9.8.28『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
何が「正式な本尊として御宝蔵に保管」だ。バカも休み休み言うべきである。
御法主上人の知らぬところで、学会が勝手に「模刻」して作った板本尊は、まぎれもなくニセ本尊であった。ゆえに、本山に没収し、学会の大謗法の証拠品 として、倉庫(元の奉安殿)の中に、毛布に包んで置いてあった。
これが全てだ。(『慧妙』H9.10.1)
◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻 申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS)
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7体の模刻本尊に問題がないのであれば、そのまま学会が会館に安置し、会員に拝ませるはず。そのための模刻だったはずではないか。それができなかったこと自体、日達上人の允可(いんか)のないニセ本尊だった証拠である。「ご奉納」とは、会員の動揺を抑えるための苦し紛れの表現に過ぎない。(法蔵)
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「模刻本尊が謗法」なら、速やかに謗法払い をするのが日蓮正宗の教義ではないのか?学会の体面など関係なかろう! (<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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●他宗の法花宗に成る時、本と所持の絵像木像并に神座其の外他宗の守なんどを法花堂に納むるなり、其の故は一切の法は法花経より出てたるが故に此の経を持つ時、本の如く妙法蓮花経の内証に事納まる姿なり、総して一生涯の間、大小権実の仏法に於いて成す所の所作、皆妙法蓮花経を持つ時、妙法蓮花経の功徳と成るなり、此の時実の功徳なり云云。(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻70頁)
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他宗の本尊であっても御守であっても、これを破却することなく末寺の「法華堂」に納めていたのである。その意義から言えば、たとえ邪宗の本尊であっても必ずしも破却する必要はない。
●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように(第66世日達上人・教師指導会S53.6.29 /『聖教新聞』H5.9.15)
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録S53.9.2 /『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
●@9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。A学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認 。Bよって、板本尊に関して論議無用(院達S53.10.3 /『暁闇』)
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 )
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「あとで了解をして、こちらも承認」とは学会本部常住の御本尊の件である(「自称『正信会』の虚言集を粉砕す」H15.6.7/<青年僧侶邪義破折班> WS)。「お互いに喧嘩(けんか)しないように」とは、学会側が化儀に無知であったために引き起こした事件であったが、反省していることを踏まえての御指南であろう。↓
●法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違へ化儀を違ふる事、一定弁へず違へたらば罸文起請を以て義理を違ふると云はゞ免許有るべきなり云云(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻68頁) ●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし、「一定」とは決定真実等の義全く慥にと云ふ意なり、「罸文起請」の事は上の第四十五条の下に委し、「免許有るべし」とは宗祖本仏の代官として時の貫首上人が・犯人の罪を免すとなり、是れ故意に為したる咎にあらざれば、已生の悪を悔ひ末生の悪を止めて・以つて已生の善を増長し末生の善を起さしむる修道の本義に叶はしむるにあり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁) ----------------------- 知らずに化儀を破った場合は、「宗祖本仏の代官」である「時の貫首上人」がお許しになるということである。言い換えれば、故意に化儀を破壊し、訓戒しても改めない場合は、謗法となるということである。何故なら"化儀即化法"の意義から、化儀を破るということは、その前提である唯授一人の血脈を根本とした師弟相対の信心を破ることになり、血脈を塞ぐことになるからである。
<「模刻はしたけれども偽作はしていません」>
************************************************************ 「
3.大御本尊を偽作した者を完全に処罰出来ぬは謗法行為のなにものでもない 」
いつ学会が御本尊を偽作しましたか。偽作というのは、似たような御本尊を書いて出したものが偽作であります。学会は正宗の御本尊を、
模刻はしたけれども偽作はしていません 。ここを考えなければならないですね。だれかがよく「戒壇の御本尊の正しいのが昔の蓮華寺にあるんだ」と言って歩き回っている人がいますが、そういうふうに新しく作って彫刻して出したのであればそれはそれは偽作であるけれども、正宗の御本尊を写してそのまま彫刻したのですから、これは偽作ではありません。よくみんながいう模刻ですね。そのものをただ写した、写真みたいなものです。だから偽作とは違うのです。よく御本尊を偽作したというけれども、学会は別に偽作はしていません。それを「完全に処罰出来ぬは」といいますが、そのことは、
こちらが許可していない分は取り上げて注意をしました 。だから、私は別にちっともこちらには落ち度がないと思っております。(第66世日達上人 第21回寺族同心会S54.5.29)
[画像] :
************************************************************ 日達管長は、「学会は模刻はしたが偽作はしていない」と明確に論難を否定している。(中略)ご本尊の模刻は謗法でもなければ何でもなかったのである 。当時の時代感覚、時代背景から、一種タブーとされていた内容であり、学会支配を目論んでいた山崎正友やその一味(宗門関係者)の攻撃材料にされたため、多くの学会員が脱会をし、悪道に落ちていった事は残念である。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
------------------------------------------------------------ 学会の模刻本尊は、本物の御本尊を写したものだから、文字の配置や筆跡は正規の御本尊と全く同じである。その意味では「模刻はしたが偽作はしていない」といえよう。この発言については、現在の宗門も異論はないはず。学会は偽作はしなかったが模刻という謗法を犯したのである(笑)。日達上人も、学会による偽作を否定されただけで、謗法ではない、と仰せられた訳ではない。学会の模刻本尊は、正規の手続きを経ていない故に、大御本尊からの血脈の通わないニセ本尊なのである。
<「議論無用」との院達>
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まったく問題にならない。だいたい、この件については日達上人がわざわざ院達まで出され、「一切論議を禁止する」(昭和53年10月3日付)と厳命されていた事柄です。いったい日顕は、どこまで先師・日達上人に逆らって、いちいち弓を引けば気がすむのか。(秋谷会長『聖教新聞』H9.10.16)
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何故、学会の本尊模刻について「議論無用」との院達が発せられたのか。それは、学会が一応非を認め、日達上人がこれを受け入れられたからに他ならない。学会の反省・懺悔がウソであったことが明らかとなった現在では、この問題を隠す必要がなくなった。むしろ学会の過去の謗法を明らかにすることによって、多くの学会員を覚醒させる材料となる。 ◎S53.10.3
●@9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。A学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。Bよって、板本尊に関して論議無用(院達/『暁闇』)
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日達上人は一宗を統括し、御本尊にかかわる権能を所持あそばされる御法主のお立場から、創価学会が2度と過ちを犯さないという前提で 、10月3日付の「院達」をもって本尊模刻事件に関する議論を禁止されました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
●法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違へ化儀を違ふる事、一定弁へず違へたらば罸文起請を以て義理を違ふると云はゞ免許有るべきなり云云(第9世日有上人『有師化儀抄』/『富士宗学要集』第1巻68頁) ●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし、「一定」とは決定真実等の義全く慥にと云ふ意なり、「罸文起請」の事は上の第四十五条の下に委し、「免許有るべし」とは宗祖本仏の代官として時の貫首上人が・犯人の罪を免すとなり、是れ故意に為したる咎にあらざれば、已生の悪を悔ひ末生の悪を止めて・以つて已生の善を増長し末生の善を起さしむる修道の本義に叶はしむるにあり。(第59世日亨上人著『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁) ----------------------- 知らずに化儀を破った場合は、「宗祖本仏の代官」である「時の貫首上人」がお許しになるということである。言い換えれば、故意に化儀を破壊し、訓戒しても改めない場合は、謗法となるということである。何故なら"化儀即化法"の意義から、化儀を破るということは、その前提である唯授一人の血脈を根本とした師弟相対の信心を破ることになり、血脈を塞ぐことになるからである。 ●懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし(『顕謗法抄』全集443頁) ----------------------- 本尊模刻という大謗法を犯した学会の場合も、反省・懺悔の態度を示したことで、日達上人が一旦は許されたのであるが、自ら反省・懺悔を反故にしてしまったために、堕地獄が確定してしまった。
<藤本総監の証言>
************************************************************ 〈藤本総監〉 謗法にも色々あり教義逸脱がその下にある。
〈正信会側弁護士〉 謗法とは具体的にどういうことですか?
〈総監〉 祭りに御輿(みこし)を担ぐことなどが入ります。
〈弁護士〉 では本尊模刻は謗法に入りますか?
〈総監〉 あれは 謗法ではなく、手続き上の問題 でした。(中略)
〈弁護士〉 法主が書写された御本尊様を、例えば今はいい機械ができていますから、コピーをとるとか写真にするということはいかがですか?
〈総監〉 それは御法主が許可になればよろしい と思います。
〈弁護士〉 それは法主の書写の権限を侵したことにはならないわけですか?
〈総監〉 書写ではありませんですから。
************************************************************ この資料は、正信会の中核坊主の1人・妙真寺住職の山口法興の地位保全仮処分の裁判で証言した藤本日潤総監(当時)の証言です。(中略)本尊摸刻について「謗法ではない」証言 をしています。第1次宗門事件当時、御本尊模刻に疑問を感じて脱会したメンバーが多数いました。学会としては、真実を明らかにしたかったでしょうが、あくまで「僧俗和合」の大義名分の下、臥薪嘗胆の日々を過ごさざるを得ない時期でした。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
------------------------------------------------------------ この質問に答える前に当時の状況を説明しておきましょう。
日達上人の後董(ごとう)を受けられた日顕上人は、創価学会に対して大慈悲のうえから、教義逸脱、謗法路線の過(あやま)ちを再び犯さないという条件のもとで一応許されましたが、自称正信会と称する一部の僧侶たちが、これを不服とし、創価学会の謗法を糾(ただ)すためといって、学会を攻撃し、ついには唯授一人の血脈を否定したため、日顕上人は正信会の僧侶たちを厳正に処分しました。
これに対して正信会は日顕上人を裁判に訴えたのです。その裁判で、証人に立った藤本総監は8体の御本尊模刻について「これは謗法ではない」という証言をされましたが、続けて「手続き的に間違いを犯した ということである」と証言しています。
これは、当時(※昭和57年 )の状況からみて、最大限に学会をかばった証言 でした。
なぜならば、同日の証言で、藤本総監は
「(御本尊を)無断で書写すれば謗法になります」
とも、
「(御本尊の複写は)御法主が御許可になればよろしいと思います」
と述べて、あくまでも御本尊に関しては、御法主上人の許可が絶対に必要であるという精神で一貫 しているからです。
また、相手(正信会側)の弁護士の
「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」(取意)
との尋問に対しては、藤本総監は
「7体については知らなかった 」
とはっきり証言されています。
学会側は宗門が「8体の本尊の模刻をすべて認めていた」といっていますが、これは卑劣な責任転嫁(てんか)であり、まやかしの論にすぎません。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』/<宗教に関心を持とう> WS)
<非公式な口頭による申請と許可、証人は赤澤1人>
◎S54.
●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 )
◎S57.
●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判でに藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
・日達上人は公式の場で「許可していない」と仰せである。
・模刻事件を扱った『聖教新聞』でも連絡会議で公式に申請をしたのは本部常住の御本尊のみ。
・模刻の申請及び許可は、赤澤猛1人の証言しかない。しかも彼が公式に証言したのは破門後の平成5年が最初である。
要するに
学会は、公式な場での申請なしに、日達上人による正式な認可もなく数多の御本尊を模刻したのである!
【賞与御本尊(昭和49年1月2日)】 この御本尊の日付は、じつは書写された日付ではない。それは重役・藤本日潤御尊能化(当時・庶務部長)の記録に明らかであり、この御本尊は昭和48年8月23日に御書写された御本尊である。それを下付や書写の日に関係なく、池田の誕生日を認(したた)めていただくよう無理に願ったのであろう。
池田は、あろうことか、この記念御本尊が池田宛に下付されるや、ただちに写真に撮らせて模刻複製の板本尊を造り、極秘裏(ごくひり)に文化会館7階に安置したのである。それだけに止まらず、
「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私か受けたもの。私が拝ませてあげよう」(昭和48年12月29日・第2回御義口伝受講者大会における池田発言)
と言って、本門戒壇大御本尊の内拝(御開扉)になぞらえ、学会員に内拝させていたのである。(『慧妙』H23.8.1)
<略年表> ◎S48.8.23 日達上人、「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を書写 ●昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊(『慧妙』H13.4.16) ●御本尊裏書の件(S48.8.23 正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(「藤本メモ」S49.5.6 =裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』) ◎S48.10. ◆昭和48年10月、池田大作氏は、日達上人から「正本堂建立賞与御本尊」を下付されたことに対して、「正本堂を作って、紙切れ1枚かよ」と言って、この未表装の御本尊をポンと投げ出しました。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1)
◎S48.12. ◆48年の暮れに、学会本部から、「学会の御本尊を何体か 板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。(模刻作業に携わった赤澤猛の証言『聖教新聞』H5.9.30) ◎S48.12.29 ◆実は「本門事の戒壇は正本堂」という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は、明確に終わった。文化会館の7階の座しきに安置してあるのだ。これは、私が受けたもの。私が拝ませてあげよう。(池田大作・第2回『御義口伝』受講者大会/原島証言『大白法』H11.7.1) ----------------------- ここでいう「板本尊」とは、昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊を、池田が授与された後、直ちに模刻・複製してしまった板本尊である。これで明らかなごとく、学会では昭和49年以前から、すでに勝手に板本尊を作っていたのだ。(『慧妙』H13.4.16) ◎S49.1.2
◆この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS) ◆1月に、池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。 (赤澤証言『聖教新聞』H5.9.30 )
◎S49.1.10
◆1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」 (「記録文書」/北林芳典著『暁闇』 )
-----------------------
このような話は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18 )にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』 にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない。
----------------------- 創価学会の本尊模刻が初めて公式の場で言い出されたのは、昭和49年9月2日の宗門と学会との連絡会議の席上、当時の池田会長より、学会本部の御本尊を板本尊にしたい旨の願い出があった時です。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行) ◎S49.4 ◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊を台座に接合した「ほぞ」の彫刻 ) ----------------------- ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)
-----------------------
この本尊はいわゆる『賞与本尊』と言われるもの。(『慧妙』H22.3.16)
◎S49.9.20
1●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・紙幅の賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)
◎S50.10.23
◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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「正本堂記念御本尊」とは紙幅の御本尊であろう。下付された同御本尊は、日達上人に裏書をしていただくために総本山に納められていたのである(上記1●)。
◎S52.11.9
◆この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。(『聖教新聞』S52.11.10 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日 、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
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当該記事には単に「正本堂記念御本尊」とのみ記載されており板御本尊であったかどうかは不明である。他の聖教記事をみれば板御本尊の場合は「板御本尊」と記している。とすれば、この日に日達上人が拝まれたのは、紙幅の御本尊であったことが推測される。ただし、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」については、日達上人より認可され、早瀬日慈総監の導師のもと入仏法要が営まれたことが『聖教新聞』に報じられていたから、特に板本尊であることを記す必要もなかったであろう。
このときから、わずか2ヵ月後に、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」以外の模刻が明るみになって問題化している(下記2●)。この事実から考えても、当該記事の「正本堂記念御本尊」とは紙幅であったことが分かる。
◎S53.1. 2●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁) ----------------------- これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.9.2 ●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人 連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.9.28 学会、7体の模刻本尊を総本山に納める(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.11.7 ◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻 申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS) ----------------------- 学会の非を詫びたことによって、一往、模刻事件を終息することとなりました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行) ◎S54. ●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 ) ◎S57. ●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判での藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)<赤澤証言について> ●赤澤氏の話として、昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼されたとか、昭和49年の正月には池田が日達上人から直々に内諾を得ていたなどと言っております。しかし、先程も申し上げましたように、赤澤氏の話は全く取るに足りない作り話です。日達上人が宗門の全教師の前で「私は知らなかった」と仰せられた事実を、御遷化ののち、14年も経過してから「日達上人は実は御存知だった」と言い張る のですから、赤澤氏は日達上人は嘘をついていたと言っているに等しいのです。したがって、このような話をまともに相手にする必要は全くないのです。(中略) いずれにしても、学会の本尊模刻事件の実態は、昭和49年9月2日の連絡会議における申し出が初めてであり、その後に取ってつけた赤澤発言などは何の証拠にもならないことを銘記すべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)<原島証言について> ************************************************************ (※昭和48年)12月29日 、第2回御義口伝受講者大会 が、学会本部で行われました。その時池田大作は、学会の「5つの宝」を挙げ、「(1)本部にある大法弘通の御本尊様。(2)戸田先生からいただいている刀。(3)留言集(注=池田大作の遺言集)だ、1つの相伝集だ。(4)学会の玉璽だ、代々の会長に伝えるだの、作ってある。(5)実は本門事の戒壇は、正本堂という御本尊(注=賞与御本尊のこと。本門事の戒壇というのはウソ)がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板御本尊 (注=この時点では本尊模刻は、宗門には内緒で行われていた)で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は明確に終わった。文化会館の座敷に安置してあるのだ。これは私が直接受けたもの。私が拝ませてあげよう」と発言しました。まさしく池田大作の傍若無人には、今にして驚くことばかりです。(元創価学会教学部長・原島嵩『大白法』H11.7.1)
------------------------------------------------------------ この証言どおりだと、池田は昭和48年には賞与御本尊を模刻していたことになる。しかし、それだと、以下の報道や事実と食い違う。これをどう解釈するか("後出し"の赤澤証言と出所不明の「記録文書」は無視する)。 ◆この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS) ◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊を台座に接合した「ほぞ」の彫刻) ----------------------- ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)
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この本尊はいわゆる『賞与本尊』と言われるもの。(『慧妙』H22.3.16)
@実際の下付日は昭和48年10月→だから昭和48年12月29日に板御本尊があっても不思議ではない。 ◆昭和48年10月、池田大作氏は、日達上人から「正本堂建立賞与御本尊」を下付されたことに対して、「正本堂を作って、紙切れ1枚かよ」と言って、この未表装の御本尊をポンと投げ出しました。(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.3.1) ----------------------- 公式の下付は昭和49年1月2日だが、実際に学会に下付されたのは昭和48年10月だった。それならば、昭和48年12月29日に板御本尊があっても不思議ではない。 実はこの「1月2日」というのは池田の誕生日である。実際の下付日や書写日とは無関係に、池田が自身の誕生日を下付日(御本尊にお認めの日付)としていただいたのであろう。A紙幅の御本尊の入仏は昭和50年10月→だから昭和48年12月29日に安置してあったのは板御本尊 (【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】 参照) ◆学会本部常住の板御本尊入仏法要に引き続き、創価文化会館に場所を移して「正本堂記念御本尊」の入仏法要が行われた。 この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。ここでも会長はじめ代表幹部が出席し、早瀬総監の導師のもと方便品、自我偈の読経・唱題。末法広布への不惜の誓いを新たにしあう厳粛な法要となった。(『聖教新聞』S50.10.24 )B複数の模刻本尊があった ……模刻した日付が「昭和四十九年四月」という台座の日付どおりだとすると、これ以前にも同様の模刻が行われていた可能性もある(法蔵)。紙幅の賞与御本尊から、昭和48年中に1体、そして昭和49年4月に1体、合計2体の板本尊が模刻されたということだ(『慧妙』H22.3.16)。<学会も正式の許可を認めていない> ◆昭和49年1月2日、池田会長は「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある御本尊を細井管長より下付された。1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(記録文書より)と返事が来た。 (北林芳典著『暁闇』/<創価スピリット.com> WS) ----------------------- このような話は模刻事件を扱った『聖教新聞』(H5.9.15・H5.9.30・H9.10.16・H9.10.17・H9.10.18 )にもない。さらに当該連絡会議について報じる『聖教新聞』 にも模刻の申請については記載されていない。したがって全く信じるに足りない。仮に、この「記録文書」の内容が事実であったとしても、総監が日達上人に伝えたことしか証明できず、日達上人が認可されたかどうかは不明である。しかも、この記録は賞与御本尊のみに関することである。
要するに、学会側の主張を鵜呑みにしたとしても、連絡会議という公式の場で模刻の申請がなされたのは本部常住の御本尊と賞与御本尊のみ。日達上人による承諾はすべて口頭、ということである。しかもその口頭による許可も赤澤猛1人の証言に基づく、という希薄極まりない証拠 でしかない。 要するに
学会は、日達上人による正式な認可もなく賞与御本尊を模刻したのである!
とすれば「先生のほうから『御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます』と言われたんです」(S49.1.赤澤=第2次宗創問題後の証言)とか「許可を求める申請が宗門側に正規になされた」(S49.1.10「記録文書」=第2次宗創問題後に発表)「総監・早瀬日慈より、『御本尊に関することは、一応申し上げました』」(S49.1.11「記録文書」=第2次宗創問題後に発表)とかの主張も、かなり怪しい、と言わざる得ない。
【御守り御本尊の模刻】
学会本部安置の御本尊のゴタゴタの最中、昭和51年10月、さらにもう1体の模刻板本尊の入仏式が密(ひそ)かに行なわれていた。
場所は東北総合研修所内の東北牧口記念館。10月27日夜、東北入りした池田大作は、同記念館の仏間に、御守り御本尊を勝手に拡大複製した模刻板本尊(※【模刻本尊】 の左端=【模刻された御守御本尊】 )を安置したのである。
そもそも御守り御本尊とは、日蓮大聖人が
「先日のまぼり暫時(ざんじ)も身をはなさずたもち給へ 」(御書685、全集1124頁)
と仰せのように、我が身に携帯して御守護申し上げる御本尊であり、安置して皆に拝ませるべき御本尊ではありません。ましてや、拡大した上に、板本尊に変造するとは、呆(あき)れて言葉もない。
池田大作は、このニセ板本尊を安置した理由について、
「この東北の地は宗門においては第3祖日目上人にご縁の深い土地であります。また"3"に非常に意味がある。そういう意味からも、私が昭和26年5月3日に日昇猊下より頂戴しました御本尊をお持ちいたしました。東北を厳然と守りたい。なかなかおじゃまできないので、この研修所に御安置しておきたい。そういう意味で小さい御本尊を東北創価学会の続くかぎり、この記念館にご安置申し上げて、皆さんを守りたいと、お持ちしました。どうか"3"に意味のある、その意義をお忘れなく。」(S51.10.28 開館式での発言記録)
と述べている。
要するに、自分の身代わりにこのニセ板本尊を安置して、厳然と東北を守る、というのだから、池田は、自分と本尊とを同等と見なしていた 、ということである。
これぞ、池田本仏論の物証であり、この異常なニセ板本尊を見ても池田に対して疑いがない、という人は、もはや完全に信心のカケラも失った一闡提人(いっせんだいにん)でありましょう。(『慧妙』H16.8.1・H23.8.1)
●特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております(菅野慈雲御尊師『大日蓮』第573号78頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)
[画像] :模刻された御守御本尊(『創価学会の光と影』)=池田大作個人に与えられた御本尊で、本来は身に所持すべき御守御本尊を、板に模刻し、東北研修所に安置して、自分の身代わりと称して拝ませようとした。その他に7体(※後に認可された学会本部の御本尊1体を含む)の御本尊を模刻した。
学会がどんなにウソをついても言い訳できないのが、御守御本尊を拡大して模刻するという前代未聞の暴挙 である。こんなことを日達上人が許可されるはずがない。
************************************************************ ◆「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。49年の1月 に依頼を受け、2月 に彫り始めて、4月30日 に学会本部に納めました。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.17)
◆「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和49年の1月にはすでにご存じでした 。これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.17)
◆〈原田〉 そうでしたね。確か、49年の秋ごろ 、大奥の対面所で目通(めどお)りした時のことでしたね。
〈赤澤〉 はい。その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね 」と聞かれたのです。
〈八矢〉 それで赤澤さんは、どうされたんですか?
〈赤澤〉 もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな 。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。
〈秋谷〉 明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、日達上人は昭和49年の段階で明確にご存じだったわけだ。まったく光久も無責任な発言をするものだな。
〈赤澤〉 本当にそう思います。こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。(『聖教新聞』H9.10.18)
------------------------------------------------------------ <日達上人の公式発言や当時の報道など> ◎S53.1. ●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁) ----------------------- これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.6.29 ●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった (第66世日達上人 総本山大講堂で行なわれた教師指導会『大日蓮』第390号44頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.9.2 ●(模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めた学会に対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人 連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.9.28 学会、7体の模刻本尊を総本山に納める(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』) ◎S53.11.7 ◆総本山大石寺こそ、信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はない。不用意にご謹刻 申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた(辻副会長『聖教新聞』S53.11.8要旨/<宗門>WS) ----------------------- 学会の非を詫びたことによって、一往、模刻事件を終息することとなりました。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行) ◎S54. ●こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意 をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7 ) ◎S57. ●(正信会側の弁護士の「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」との尋問に対して)7体については知らなかった(対正信会裁判での藤本総監の証言/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)------------------------------------------------------------ 現在、学会では本尊模刻事件に関しては、この赤澤氏の話を唯一の証拠 として、「だから日達上人は御本尊模刻を承知していたのだ」と主張しております。しかし、この赤澤氏の話にはいくつか、おかしな点があります。
その第1は、ただいま読み上げた後半部分に、昭和50年1月10日の大奥での御報告としての記録を挙げておりますが、このなかで日達上人が、
「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない」
と仰せられた、とあります。もし赤澤氏の話が事実ならば、日達上人は49年の秋ごろに承知していた御本尊彫刻という信仰の大事を、3、4ヵ月後の50年1月にはすっかり忘れていたということになります。日達上人の記憶力が人並み優れておられたことは、おそばに仕えた者ならばだれもが熟知しているところであり、御本尊にかかわる大事を3、4ヵ月で忘れてしまうことなど、考えられないことです。
第2の点は、日達上人が7体の模刻を昭和49年の段階で承知されていたと言うのは、あとにも先にも赤澤氏1人でありますが、これに対して、ただいま御紹介した昭和50年1月10日の「許可した覚えはない」との記録と同様に、菅野慈雲師のお話によれば、昭和53年正月に至って、本尊模刻の実態を聞かれた日達上人はたいへん驚かれ、
「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」(『大日蓮』H5.11)
と仰せられた、とあります。
また、この時、大石寺主任理事として日達上人のおそばに仕え、模刻本尊の収納に当たられた妙縁寺住職・光久諦顕師のお話によりますと、この時、日達上人は、
「このようなことは承知していないし、許可したことはない」
と仰せられ、創価学会に対して、ただただ、あきれ返っておられたとのことであります。
さらに、昭和53年6月29日には総本山大講堂において全国教師指導会が行われましたが、この席上、日達上人は全国の教師一同に対して、
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(『大日蓮』S53.8)
と明言されています。たった1人で聞いたという赤澤発言は、疑う余地のないこれらの事実と完全に食い違っています。
第3は、非常に大事な点ですが、7体のなかに、お守り本尊の模刻があるということです。本宗においては古来、個々に授与される鎮護御本尊は、本人が死亡した場合はお寺に納めることが原則であります。これを、かりそめにも板本尊として彫刻し、他人に拝ませることなど絶対に許されることではありません。宗門において許されざる行為を、山法山規を厳守された日達上人が、これを承認したり黙認されることなど、ありえません。
これらの3点から見ても、赤澤証言は、極めていかがわしいものです。
さらに赤澤証言の発生を考えてみますと、創価学会は平成3年以降、模刻事件について宗門からたびたび破折されながら、明確な返答ができない状態が続きました。そして、平成5年の9月 に突如として赤澤証言が出てくるのです。これなども、前年の平成4年に菅野慈雲師によって当時の真相がより鮮明に明かされたことで、創価学会が窮余の一策として虚偽の話を作り上げ、赤澤氏に証言させたものと推測できるのであります。いずれにせよ、赤澤証言は全く信用できない、作り話であると断ずるものであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
赤澤氏の話として、昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼されたとか、昭和49年の正月には池田が日達上人から直々に内諾を得ていたなどと言っております。しかし、先程も申し上げましたように、赤澤氏の話は全く取るに足りない作り話です。日達上人が宗門の全教師の前で「私は知らなかった」と仰せられた事実を、御遷化ののち、14年も経過してから「日達上人は実は御存知だった」と言い張る のですから、赤澤氏は日達上人は嘘をついていたと言っているに等しいのです。したがって、このような話をまともに相手にする必要は全くないのです。(中略) いずれにしても、学会の本尊模刻事件の実態は、昭和49年9月2日の連絡会議における申し出が初めてであり、その後に取ってつけた赤澤発言などは何の証拠にもならないことを銘記すべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
正信会の証言
【佐々木秀明の証言】 ************************************************************
実は、九州・別府の末寺に在勤していた御僧侶Y師は、その当時住職だった佐々木秀明 が、他の坊主と5人で日達上人のもとに直接面談に行った時のテープを聞かされたのですが、池田先生の御本尊の彫刻の打診について日達上人が、「わしも耄碌して覚えてないんだよ 。」と発言されていたことを確認しており、正信会の中心的存在だった佐々木があわてて全国の坊主に学会誹謗のビラ配りを止めるように指示していた事実を証言しています。その当時宗門の中枢にいた者は皆知っているのです。知らずに騙されて脱会した方々があまりにも可哀想ではありませんか!(新階某『日顕宗の邪義を破す』)
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次は最後の段になりますが、テープのなかで、日達上人が学会からの本尊模刻の打診について「わしも耄碌して覚えてないんだよ」と仰せられたというものです。このYなる僧侶とは離脱僧・吉川某のことと思いますが、離脱僧と正信会僧という珍妙な取り合わせによるこの伝聞がどこまで信用できるものか、はなはだ怪しい限りですが、創価学会ではこのことをもって、無礼千万にも日達上人が老耄(ろうもう)のために失念したと言うのであります。もちろん、日達上人が最晩年に至るまで毅然として一宗を教導あそばされたことに対し奉り、だれもが等しく尊仰申し上げてきたところであります。
しかし、もし万が一にも日達上人がそのように仰せられたのならば、当時の状況に思いをいたさなければなりません。
当時、数々の謗法と逸脱を犯した創価学会に最後の機会を与え、できうるならば清浄な信徒集団に蘇生するよう努力された日達上人は、一方において、本尊模刻問題を糾弾すべしとする一部の僧侶がいたため、これらに対して種々説得されておりました。この言葉は、そのようななかで、一宗を教導あそばされるお立場から、学会を庇護するために、磊落(らいらく)かつ酒脱(しゃだつ)の御気風をもって事態の鎮静を計られたものと拝察できるのであります。
この尊い日達上人のお心を踏みにじる、無慚無愧の創価学会に与同し、剃髪の師である日達上人を耄碌呼ばわりする離脱僧・吉川こそ、恩を仇で返す不知恩、師敵対の者と言うべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
【『祖道の恢復と真の正信確立の為に』】 <[1]「W師」の発言> ************************************************************ ◆W師 53.10.6 蓮華寺にて無任所教師10月研修会等の発言、その他池田源立寺活動家会合等の席上での言に曰く、「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言 によれば、会長登山御目通りの刻 、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認 されたことを承知しているのである。従って今こちら側でこの件を突いてゆけば、それでは事実はこうと聖教で公表するだろう。秋谷副会長はその意向であると言っている。かかる事体になれば法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。……(『祖道の恢復と真の正信確立の為に』S55.12 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS) ----------------------- 四国の正信会活動家が出版した書籍「祖道の恢復と真の正信確立の為に」に書かれている文章に注目! 総監は早瀬日慈。教学部長は阿部信雄、理事は早瀬義孔。「自ら黙認されたことを承知している」法主上人は日達管長。日達管長以下宗務役員が、御本尊模刻のことを知っており、認めていたのである。 結果として、反学会勢力である正信会の四国の活動家(その多くは細井派:妙観会)が、学会の行動の正当性を証言しているのは刮目に値する。反対勢力すら諸天善神として動かしてしまう学会こそ、真の和合僧団の証明である。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061024)
------------------------------------------------------------ ―「W師=渡辺広済」の矛盾― ◆「W師」とは渡辺広済 。“模刻”の件を突けば秋谷副会長(当時)は『聖教新聞』で事実を公表する意向で、そうなれば法主の徳に傷がつくから論議禁止の通達を出したことが窺える。(『フェイク』第349号/fb010313) ----------------------- 渡辺広済は、正信会の議長だった者である(昭和55年9月に住職罷免処分)。<正信会>WS(H19.1.20)を見る限り、少なくとも昭和57年〜平成3年12月の間は議長(代表)であった。その渡辺が「総監、教学部長、早瀬理事等の証言」として「御本尊模刻の件については」「法主上人自ら黙認された」「この件を突いてゆけば」「法主上人の御徳にきずがつく」と発言したという。ここでいう「法主上人」とは日達上人であり、正信会も正師と認める方である。もし、渡辺が実際にこのような発言をしたのであれば、彼が率いる正信会としても、模刻事件を追及できなかったであろう。 しかし、実際は以下に示すとおり、昭和53年以降も正信会は模刻事件を取り上げ学会を糾弾 しているのである。 ということは、渡辺自身は、「総監、教学部長、早瀬理事等の証言」の内容を信じていないのではないか。「総監、教学部長、早瀬理事等」が事を穏便に処理しようとするあまりウソの発言をしたというスタンスで、すなわち宗門幹部を攻撃するために引用したのではないか。とすれば、渡辺が発言内容を捏造した可能性は十分ある。 ◆辻武寿副会長は「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については云々」と述べていますが、御本尊大聖人の御魂である御本尊を「不用意にご謹刻申し上げ」たとは、具体的にはいかなる行為を指すのですか。またその「ご謹刻本尊」の正確な数は、これまで公表されておりませんが、正直のところ、一体何体作られたのですか。(学会への公開質問『継命』S55.2.1/<正信会>WS070120) ◆本当は日達上人は、「本尊模刻問題を出すときは学会を破門にするときだ」というお気持ちであられたのです。そううかがっております。本尊模刻は謗法の最たるものです。それを敢えて日達上人はお許しくださったのです(原島嵩『本尊模刻事件のすべて』継命新聞社S55.12.1 /<青年僧侶邪義破折班>WS ) ----------------------- 昭和55年12月の時点でも、正信会は、その公式出版物において「W師」とは異なる見解を載せていた。 ◆辻武寿副会長は、戒壇の大御本尊根本の信心を強調し、「その意味からも、不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います」と述べた。 この辻副会長発言は、学会が犯した本尊模刻が、戒壇の大御本尊根本の信心からかけはなれ、正宗の化法化儀から大きく逸脱してしまったことを認めたものである。(「『11.7』とは?」 /<正信会>WS070120) ----------------------- 正信会の公式ウェブサイトには現在(H19.1.20)も、学会の模刻本尊を批判する内容が掲載されている。―当事者が認めていない発言― 「W師」は「総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば」と述べたそうだが、当事者である「早瀬日慈」「阿部信雄」「早瀬義孔」の方々は、「W師」の証言を認めていない 。それどころか、「阿部信雄」すなわち日顕上人は、学会による模刻が謗法であったことを認めておられる。当然、日達上人の公式の御指南も渡辺発言と矛盾する。 ●とにかく、池田大作の説明は、大聖人様を無視し、御本尊を蔑ろにし、法を破っておるわけです。 やはり、このようなところから本尊の模刻があったともいえるわけです。この件については実に重大なことでありますし、当時、日達上人が、池田大作がかなりの影響力を持つ指導者であることなど、種々の状況を鑑みられて、最終的に「これ以上、触れてはならない」と仰せになっているけれども、今日、ここに至れば、御本仏大聖人の仏智を無視した、池田大作の本尊観から、本尊模刻という形も出たということは申し上げておきます。(第67世日顕上人H4.8.28 全国教師講習会/<nbのページ>WS) ●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった(第66世日達上人 総本山大講堂で行なわれた教師指導会『大日蓮』第390号44頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)[画像] :「W師」が「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば、会長登山御目通りの刻、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認されたことを承知している」と発言したとする『祖道の恢復と真の正信確立の為に』
ただいま読み上げた前半部分は、正信会のWなる者の「模刻間題をつつけば法主上人の御徳にきずがつく」旨の発言ですが、これは学会側の巧妙な情報戦略に乗せられて、自称正信会の僧侶が躊躇せざるをえなかった、というだけのことであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
<[2]「不用意に謹刻」> ************************************************************ 「辻副会長の『不用意に謹刻』と明言した通り云々○何故本山に回収しなくてはならないのでしょうか」との問は、当時蔭の宗務院で、6.30、11.7等を演出された貴師方の代表が一番よく御存知ではないかと存ずる。学会側に「不用意に謹刻云々」と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まると説得 したのは誰であったか。週刊誌でY弁護士 が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて、自分が全部原稿(脚本)を書いたと告白しているではないか。事の真相が明白になった時、やがて手飼いにせんとした檀徒各位に糾弾されるであろう。(『祖道の恢復と真の正信確立の為に』S55.12/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS) ----------------------- 『祖道の恢復と真の正信確立の為に』では、この手続きの行き違いを悪用して、ペテン師山友が学会をワナにはめたことも明らかにしているのです。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061206)
------------------------------------------------------------
また、「学会側に『不用意に謹刻云々』と言う言辞を入れて」云々とありますが、最近、学会では「実は、不用意に謹刻云々の発言は、宗門が作成した文書を読んだだけ」と弁明しております。
しかし、総本山において、御法主上人の御臨席を仰ぎ、宗門の全教師と2千名の学会幹部が出席した公式の会合で、学会を代表して副会長が発表したものを、あとになってから「実は読めと言われたから読んだだけ」とする言い逃れは見苦しい限りであり、社会の良識が通じない異常集団の、たわけた世迷い言と言うべきであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
「ペテン師山友が学会をワナにはめた」といっているが、このときの山崎氏は、宗門と学会の間に立って、事を丸く納めようとしたのであって、むしろ学会の為にもなると考えたのではないか。そもそも、山崎氏の意図がどうであれ、真実を知っているのは模刻を指示した者(池田)であり、「不用意に謹刻」の語句を機関紙に記載(S53.11.8 )することも、池田の同意なくして実現しなかった はずである。 では何故、山崎氏は「『不用意に謹刻云々』と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まる」と考えたのか、それは @無断で模刻したことが事実だからであり、 A日達上人もそのように思われていたからであり、 B池田自身がその事実を認めていたからである。 だから、山崎氏としては宗門と学会の両者が納得する、主張の中間点(妥協点)を提示したのであろう。"中間点"とは「謗法」(宗門の認識)を「不用意」に、「模刻」(宗門の認識)を「謹刻」変える、ということである。 このように考えれば、山崎氏が「不用意に謹刻」云々の語句を入れることを提示したとしても、そのことをもって模刻の事実を否定することはできないのである。[画像] :「Y弁護士が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて」「「不用意に謹刻云々」と言う言辞を入れて発表」したとする『祖道の恢復と真の正信確立の為に』<[1]と[2]の矛盾> [1]では後に正信会の議長にもなった渡辺広済が、"日達上人はじめ宗門中枢が、学会による模刻を容認していた"と発言したとする。 [2]は、「活動家の諸師方」(おそらくは後の正信会)が学会幹部に、「不用意に謹刻」したことを認めさせることに関わったとするもの。正信会は、後にこの記事をもって学会の模刻を攻撃している。 つまり、同じ正信会幹部が、一方で模刻を容認する証言を出し、一方で模刻を攻撃するための行動をとる。これは、明らかに矛盾である。この矛盾が解明されない限り『祖道の恢復と真の正信確立の為に』を利用した学会側の主張を認める訳にはいかない。<執筆者のスタンス> 投稿者は『祖道の恢復と真の正信確立の為に』の執筆者について「四国の正信会活動家」と述べている。しかし、その内容はむしろ日顕上人の意向を無視する正信会僧侶を諌めるもので、執筆の目的は正信会の"暴走"を制止するものであったといえる。しかし、昭和55年12月 という発行年次から推測するに、執筆者には時間的余裕がなかったと思われる。 なぜなら、既に昭和54年10月 には「創価学会の過去の誤り等を指摘批判する言動は厳に慎しまなくてはならない」という院達が発せられ、それにも拘らず、正信会は昭和55年8月 に、宗門の制止を無視して檀徒大会を決行、そのために同年9月 には罷免を含む201名もの処分が決定されたのである。 もし、投稿者の述べるように『祖道の恢復と真の正信確立の為に』の執筆者が「四国の正信会活動家」であったならば、"共に戦った同志を救いたい"という切実な思いと、時間的切迫が相まって、正信会の"暴走"を制止するためには情報の真実性を吟味することなく([1]と[2]の矛盾は、その顕れであろう)、使えるものは何でも使おうと、結果的に創価学会を必要以上に擁護するものとなってしまったとも考えられる。 ●いかなる場においても、また各種紙誌等出版物においても創価学会の過去の誤り等を指摘批判する言動は厳に慎しまなくてはならない。さらに創価学会員に対しては、自らの意志・希望によって檀徒となることを申し出た者の受け入れは差支えないが、それ以外は一切の働きかけをしてはならない。(院第18号S54.10.8 /<正信会>WS) ◆昭和55年8月24日 、日本武道館において、僧侶187名、檀徒1万3千人が参集し、第5回日蓮正宗全国檀徒大会が開催された。(<正信会>WS) ◆宗門は、9月24日 、総本山において責任役員会を開き、第5回檀徒大会に出席した正信会僧侶の処分を協議し、罷免5名、2階級降格13名、2年停権155名、1年停権23名、譴責5名の計201名にのぼる大量処分を決定した。 処分理由は「法主が全国檀徒大会の開催中止を再三にわたって命じたにもかかわらず、これに違背して強行し、宗内の秩序を乱した」というもの。(<正信会>WS) ◆9月30日宗門は、住職罷免処分を受けた渡辺広済師(堅持院)、佐々木秀明師(小田原教会)、荻原昭謙師(応身寺)、山口法興(妙真寺)、丸岡文乗師(涌化寺)に対し、後任住職の赴任を実力で妨害し、財産引継を拒んだとして、5師に対し、擯斥処分を決定した。10月3日 、5師に対し、宗務院より宣告書・特達が送付された。(『継命』S55.10.15 /<正信会>WS) 以上の点から考えて、『祖道の恢復と真の正信確立の為に』を利用した学会側の主張は事実無根(邪推) だといえる。
************************************************************ 宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、『聖教新聞』で
報じられたものだけでも4体の板御本尊 について入仏式をおこない、創価学会本部にある
3体については、細井管長自らが礼拝 していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された3体(うち2体は細井管長自身が拝んだ)を含めた7体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「3体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。
これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の4体の板御本尊もまた、報道された3体と同様、
正当に謹刻されたもの であることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この7体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった外護≠フ行為であった。(
北林芳典著『暁闇』 )
------------------------------------------------------------ 「謹刻」された「板御本尊」のうち「宗門側」が「入仏式」を行い「『聖教新聞』で報じられた」「4体」とは関西本部安置の"大法興隆所願成就"の板御本尊、創価学会本部常住の板御本尊、正本堂記念御本尊(賞与御本尊)、創価文化会館常住の板御本尊である。 また、「細井管長自らが礼拝していた」「創価学会本部にある3体」とは、正本堂記念御本尊、創価学会本部常住の板御本尊、「広宣会館の板御本尊」(『暁闇』)である。 これらを根拠として北林某は、『聖教新聞』に報道された模刻本尊は「正当に謹刻されたもの」であり、「他の4体の板御本尊もまた、報道された3体と同様、正当に謹刻されたものである」と結論付けている。そして、自慢げに「7体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった外護≠フ行為であった」と述べている。 しかし、以下に述べるように北林某の結論の前提である『聖教新聞』記事の解釈がデタラメなのである。従って「正当に謹刻されたもの」「涙を呑んでおこなった外護=vというのも事実無根の邪義なのである。【関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊】 −昭和50年10月20日― 関西本部安置の御本尊を模刻した板本尊は、昭和50年7月16日、関西センター新館に、福島副会長(当時)の導師で入仏している。(『慧妙』H23.8.1)
************************************************************ ◆"常勝関西"の歴史に、また1つ新たな前進と発展の起点が刻まれた。16日に行われた「関西センター新館」の落成入仏式が、それである。とりわけ、末法万年にわたる
「大法興隆所願成就」の板御本尊が安置 されるという、記念すべき意義をはらんだこの入仏式によって、常勝の輝かしい伝統の上に限りない未来飛翔をめざそうとする関西は、その原点に一段と深く、強固なクサビを打つことになったといえよう。(
『聖教新聞』S50.7.17? /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
◆関西広布の1ページを飾る大阪・蓮華寺は来る11月6日に、復興再建10周年を迎えるが、この"佳き日"に先立って
蓮華寺住職・久保川法章尊師 をはじめ大阪12ヵ寺の住職、尊師が20日午前、関西センター新館を公式訪問。同新館の「大法興隆所願成就」の御本尊に読経・唱題し、広布新展開と常勝関西の更なる発展をねんごろに祈念した。
この日、関西センターでは柳原延行副会長、西口良三をはじめ、各部の代表メンバー約300人が真心で各尊師を出迎え、午前11時から新館での記念勤行会に臨んだ。
勤行のあと、あいさつに立った柳原副会長は、各尊師の列席をえて、常勝の牙城の
入魂の儀式 が、厳粛に執り行われたことに対し「会員を代表して心よりお礼申しあげたい」と述べるとともに僧俗一……(
『聖教新聞』S50.10.21 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
************************************************************ 関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和50年10月20日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下11名が出席し、「開眼法要 」が営まれた。そのことは、翌21日の『聖教新聞』に報じられている。(『暁闇』)
------------------------------------------------------------ 当該新聞を見る限り「開眼」を示す言葉はない。わずかに「入魂の儀式」という聞きなれない語句が「開眼」を連想させるが、宗門より公式に認可された御本尊であるならば、日達上人または代理の方による入仏法要が執り行われるはずである。おそらくは、招かれた住職方は「開眼法要」だとは知らされていなかったのではあるまいか。 記事を読む限り、この「板御本尊」は「入魂の儀式」が行われる以前から当該場所に安置されていたようである。しかし、入仏してから後に、本尊とは直接関係のない行事(大阪・蓮華寺の復興再建10周年)との関連で御僧侶をお迎えして、「入魂の儀式」を実施するなど、常識では考えられないことである。 このことは、返って当該本尊が正式な認可のないままに模刻されたことを強く推認させる、といえよう。 ◆こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。(赤澤証言『聖教新聞』H9.10.18) ----------------------- この証言が事実であれば、末寺住職方は"まさか、学会が勝手に模刻するはずはない"と思われていたのであろう。これより先の昭和50年1月に学会本部の模刻が発覚したのは、『聖教新聞』に掲載されたからであるが、それも宗門中枢方でなければ、無許可の模刻とは誰も断定できなかったであろう。【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】 ―昭和50年10月23日 ― ************************************************************ ◆
「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要 が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ
早瀬日慈総監 の導師のもと厳粛に営まれた。この法要には池田会長も北条理事長、各副会長らとともに出席したのをはじめ各部の代表幹部ら約600人が参列、読経・唱題を通し、慈折広布への誓いを新たにした。秋谷副会長、北条理事長のあいさつに続き、池田会長は入仏法要にこめられた意義深いあいさつを述べた。その際会長は、この10月23日が広布史に永久に残る学会の新しい出発の意義を刻む日になったとして、御本尊の右の脇○に認(したた)められている「大法流布慈折広宣流布大願成就」を永遠の根本指標に、末法広布の軌道を潔く前進していくよう指導した。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
◆学会本部常住の板御本尊入仏法要に引き続き、創価文化会館に場所を移して「正本堂記念御本尊」の入仏法要が行われた。
この御本尊は、昨年(49年)、会長の誕生日にあたる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。ここでも会長はじめ代表幹部が出席し、早瀬総監の導師のもと方便品・自我偈の読経・唱題。末法広布への不惜の誓いを新たにしあう厳粛な法要となった。(同)
[画像] : ************************************************************ 本部3階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要 は、昭和50年10月23日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌24日付の『聖教新聞』に報じられている。(『暁闇』)
------------------------------------------------------------ <「創価学会常住の板御本尊」> 昭和50年10月の時点で早瀬総監が当該板本尊を拝んでいたとしても問題はなかろう。何故なら、学会による模刻が発覚し、日達上人の知るところとなったのは昭和50年1月である。そのときには「許可した覚えはない」とは仰せられたものの、先の連絡会議で模刻の打診があったことを酌量されて、結局認可されたのである。 ◎S50.1.1 突如、池田は、模刻複製した板御本尊を、自ら導師をして学会本部3階に入仏してしまったのである。(『慧妙』H14.3.1) ◆入仏式は会長(池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。(『聖教新聞』S50.1.4) ◎S50.1.10 大奥での日達上人への御報告 ●日昇上人御本尊の彫刻(※本部常住「大法弘通」の御本尊)については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(日達上人/藤本庶務部長が書き留めた「藤本メモ」/『暁闇』) ●個人が受けた本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようがとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行われている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない(昭和50年1月10日 の大奥での日達上人への御報告の議事録)
-----------------------
まず、「紙幅の御本尊を板御本尊になおすということは、以前からも行われていることであり、受けた人の考えによるものであるから、そのこと自体に他の人がとやかく言うことはできない」という仰せでありますが、このことと御法主の許可を頂くという手続きとは別であります。板御本尊にするかどうかは本人の意志によるけれども、そのための手続きとしては御法主上人のお許しが必要であるということは、本宗の信仰の上から当然のことであります。
しかし、この本部3階の御本尊については、前年の9月に申し出を受けたという経過もあるので、一往与えて、追認という形をとられたわけであります。もし許可の必要が全くないものであれば、他の7体の模刻本尊を総本山へ納めさせる理由も全くなくなるのであります。(中略)
次に「御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」というお言葉であります。
これは、学会が、本部3階安置の御本尊を模刻し、昭和50年元旦に入仏式まで行ったという、特殊なけケースに対する御指南であり、しかも、これに不審を懐いた伊藤康二氏に対する内々の御指南である、ということを知らなくてはなりません。すなわち、通常、総本山より正規に下附される御本尊とは一切、関係がない、ということであります。日達上人は、伊藤氏が本宗の信仰に混乱をきたさないよう御配慮されつつ、御法主としての大慈大悲のお立場から最大限に学会を包容あそばされ、追認あそばされた、と理解すべきであります。
したがって、このを言葉のなかでも「御本尊の御開眼とか入仏式とかは、本来的に僧侶の導師によって行うべきである」ということを仰せでありますが、ここで仰せの「僧侶」とは御法主上人御自身であり、あるいはその御代理の僧侶を意味する、ということは言うまでもありません。しかしまた、既に入仏式まで行ってしまった学会を擁護され、また追認あそばされるという情況の上で、敢えて「僧侶(御自身)なしでもやむをえない」旨をお示しになっているのであります。このため、日達上人は、御法主による御開眼のない模刻御本尊の入仏式を、本来的、また一般的な意味で、まして積極的な意味でお認めになっているのではけっしてない、ということであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
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内々の会合での御発言であるが、昭和50年1月10日の時点で既に、日達上人は、「本部3階の御本尊」に関しては、追認する御意思であられたことが分かる。
◎S52.11.9
◆この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。(『聖教新聞』S52.11.10 /<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日 、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
◎S53.6.29
●学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように(第66世日達上人・教師指導会/『聖教新聞』H5.9.15)
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このように、学会による御本尊模刻の経緯には問題があったが、日達上人は、一往後から追認したことであるからと、学会本部安置の板御本尊については御了解 せられたのである。(「自称『正信会』の虚言集を粉砕す」H15.6.7/<青年僧侶邪義破折班> WS)
<「正本堂記念御本尊」> 「正本堂記念御本尊」については、以下の理由により、板御本尊ではない。 @「大法流布慈折広宣流布大願成就」の御本尊については「板御本尊」と断っているのに対し「正本堂記念御本尊」については「板御本尊」の表記がない。
A「正本堂記念御本尊」の説明として「昨年(49年)、会長の誕生日にあたる1月2日に、日達猊下から特別に下賜された」とある。「1月2日」に下付されたのは紙幅の御本尊である。模刻本尊は相貌こそ同じだが、これとは別個の本尊であって「1月2日」の下付でもなければ「特別に下賜された」ものでもない。
Bではなぜ、昭和49年1月2日に下付されたとされる紙幅本尊が、昭和50年10月になって入仏されたのか?これは、一旦下付されたあと、日達上人に裏書きしていただくために総本山に納めていたからだと考えられる。↓ ●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・紙幅の賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)
C模刻問題を扱った『聖教新聞』では、板本尊の報道があったとしているのは、本部常住の御本尊と関西本部の御本尊のみである。↓
◆ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。(『聖教新聞』H5.9.15)【文化会館常住御本尊の入仏式】 ―昭和50年11月17日― ************************************************************ ◆
〈※タイトル〉 牧口初代会長のお逮夜法要
〈※サブタイトル〉 創価文化会館常住御本尊の入仏式も
〈※本文〉 「創価学会常住の板御本尊」が安置された学会本部で初めて営まれた牧口初代会長の第32回忌法要―。この日の会場には初代会長の遺影(?)がライトに明るく照らし出され、人々の眼前に迫っていた。特に在りし日の初代会長の写真を目のあたりにした「牧口会」のメンバーは、懐かしの情(?)ととも……
〈※写真説明〉 早瀬総監の導師を得て厳粛に営まれた牧口初代会長の第32回忌お逮夜法要(学会本部で)(『聖教新聞』S50.11.18?/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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************************************************************ 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和50年11月17日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長32回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要 をおこなっている。(『暁闇』)
------------------------------------------------------------ 本文の「創価学会常住の板御本尊」とは創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことであろう。サブタイトルの「創価文化会館常住御本尊」とは創価学会文化会館に安置されていた昭和42年6月15日お認めの紙幅御本尊を模刻したものであろう。一見すると「創価文化会館常住御本尊の入仏式も」早瀬総監が導師となって行われたように思われるが、当該画像を見る限り、その証拠はない。通常、御僧侶を導師として行われる入仏は「入仏式」ではなく「入仏法要」と表記しているようである。その意味からすれば、「創価文化会館常住御本尊の入仏式」と早瀬総監は無関係ではないか、と推測される。 あるいは、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊が「板御本尊」とわざわざ表記されているのに対して、「創価文化会館常住御本尊」の方は紙幅とも板とも特定されない。これは、「創価文化会館常住御本尊」が紙幅であったことを推測させる。仏壇を代えたか何かの理由で入仏式を行ったのかも知れない。
また、模刻問題を扱った『聖教新聞』では、板本尊の報道があったとしているのは、本部常住の御本尊と関西本部の御本尊のみである。↓
◆ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。(『聖教新聞』H5.9.15)
【日達上人が賞与御本尊に読経】 ―昭和52年11月9日― ************************************************************ ◆創価学会創立47周年を記念する慶祝法要が9日、総本山より御法主日達上人猊下をお迎え申し上げ、信濃町の学会本部で厳粛に営まれた。これには、宗門から、早瀬総監、阿部教学部長、吉田渉外部長、藤本庶務部長、早瀬主任理事、光久理事らの各御尊師方も出席。また、学会からは池田会長、北条理事長をはじめ、副会長、全国幹部の代表が参列した。この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。各会場では、いずれも日達猊下の大導師で読経・唱題し、今日の正法興隆への感謝と、ますますの慈折広布への請願を祈りを込めた。このさい、師弟会館の法要では、日達猊下より御説法を賜ったほか、池田会長からもあいさつがあり、法要は47周年の慶祝の喜びに包まれるなか、大法弘通に邁進していくべく深き意義をとどめるものとなった。なお、このあとも千駄ヶ谷の日蓮正宗国際センター、聖教新聞本社でも、それぞれ日達猊下の御出仕を仰ぎ47周年慶祝の儀式が営まれた。(『聖教新聞』S52.11.10/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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************************************************************ 昭和52年11月9日には、学会創立47周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他6名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題 をおこなっている。このことは、翌10日付の『聖教新聞』で報じられた。(『暁闇』)
------------------------------------------------------------ 「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」については、日達上人より認可され、その意味から開眼入仏法要がこの日に営まれたのである。 当該記事には単に「正本堂記念御本尊」とのみ記載されており板御本尊であったかどうかは不明である。広宣会館安置の御本尊も同様である。このときから、わずか2ヵ月後に、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」以外の模刻が明るみになって問題化している(下記3●)。この事実から考えても、当該記事の「正本堂記念御本尊」とは紙幅であったことが分かる。 ◎S50.10.23 2◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS) ----------------------- 「正本堂記念御本尊」とは紙幅の御本尊であろう。昭和49年1月2日に下付された同御本尊は、日達上人に裏書をしていただくために総本山に納められていたのである(上記1●)。 ◎S52.11.7 ●結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日 、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
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「11月7日」というのは「11月9日」の誤りか?それとも7日に允可され9日に開眼入仏法要を営まれたのか。いずれにせよ、上記聖教記事は、日達上人が学会本部安置の板御本尊の模刻を追認された後の行事である。
◎S53.1. 3●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁) ----------------------- これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
また、模刻問題を扱った『聖教新聞』では、板本尊の報道があったとしているのは、本部常住の御本尊と関西本部の御本尊のみである。↓
◆ここに昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです。(『聖教新聞』H5.9.15)
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宗門機関誌『白蓮』等の広告では「御本尊彫刻を受け付ます」と掲載されており、法主の許可などが必要とはどこからも読みとることはできません。
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日蓮正宗において、御本尊にかかわることはすべて、御法主上人の御允可のもとになされてきたことは疑う余地のないことであります。御本尊の謹刻はもちろんのこと、紙幅の御本尊の表装やおきよめについても、御法主上人の直々の允可によるか、あるいは御法主の允可を受けた末寺住職の指導のもとに行われてきました。信徒が勝手に御本尊の模刻を仏師に依頼したり、紙幅本尊の表装を勝手に表具師に注文することは、従来、許しておりません。
昭和30年代の『聖教新聞』を見ますと、頻繁に「常住本尊・御守御本尊表装謹製、○○表具店」という広告が掲載されておりますが、これらの広告から御本尊の表装について寺院の指導を受けるべきことなど読み取れません。しかし、当時の創価学会員は、だれしも当然の如く、御本尊に関するお取り扱いは寺院の指導を受けていたではありませんか。機関誌の広告を取り上げて、御本尊の謹刻に御法主上人の許可が必要ないとする主張は、余りにも幼稚な愚論であります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
************************************************************ 院達 模刻本尊の件
院達第2915号
昭和53年10月3日
日蓮正宗宗務院
このたび、創価学会に於ては、これまでに彫刻申上けた板御本尊については、すべて総本山へ納め奉ることとなり、去る9月28日、7体の板御本尊が、総本山へ奉納せられ総本山に於ては29日奉安殿へお納めいたしました。
但し、学会本部安置の日昇上人板御本尊については、御法主上人猊下御承認のもとに、そのまま本部に安置せられることになりました。
依って、今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切議論を禁止する旨、御法主上人猊下より御命令がありましたので、充分御了知下さるよう願います。
我が宗は、日蓮大聖人の正義を広宣流布するものであることは、既に御承知の通りでありますので、これの妨げとなるような僧侶間の摩擦を排し、僧俗一致して御奉公の誠を尽されるようお願い致します。
右、通達いたします。
************************************************************ これに背いたのが日顕宗ではないか!それどころか、日達上人の事跡の全てを破壊し尽くしたのが阿部日顕であることを、法華講は目をつぶることなく認識すべきだ。(
<創価王道> WS070813)
------------------------------------------------------------ 「創価学会の板御本尊のことに関しては、一切議論を禁止」されたのは「我が宗は、日蓮大聖人の正義を広宣流布するものである」からで、「これの妨げとなるような僧侶間の摩擦を排し、僧俗一致して御奉公の誠を尽」すためである。 ところが、平成2年11月16日以降の学会は、唯授一人の血脈の尊厳を汚し、「日蓮大聖人の正義を広宣流布する」資格を自ら放棄したのである。だから、学会自身が、当該院達の効力を喪失せしめたともいえるのである。 そして、謗法と化した学会を破折することはむしろ「日蓮大聖人の正義を広宣流布する」ためには必要なことであり、日達上人の御意にも適うことなのである。そのためには、学会の過去の謗法を明らかにすることも当然必要である。
【自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る18】 (『聖教新聞』H9.10.16)
〈佐藤〉 笑止千万の“信徒資格”騒ぎで大わらわの日顕宗ですが、最近、性懲(しょうこ)りもなく御本尊謹刻(きんこく)問題を持ち出し、愚(ぐ)にもつかぬ言い掛かりをつけています。
〈原田〉 そうらしいね。8月28日の教師講習会で、教学部副部長の水島公正と総監の藤本日潤が、派手にやっていたそうじゃないですか。
〈八矢〉 “23年ぶりの新発見”などと言って、“学会は昭和49年9月に
、本山に謹刻の願い出をする以前から勝手に御本尊を彫っていた”という、とんでもない大嘘(うそ)を吹聴(ふいちょう)しているらしいわね。
〈森田〉 何が“23年ぶりの新発見”か。学会はちゃんと日達上人の了解を受けたうえで、御本尊を御謹刻申し上げたんです。こんなほこりをかぶった、重箱の隅をつついたような話を持ち出すこと自体、まったく問題がない何よりの証拠じゃないか(笑い)。
〈佐藤〉 そう。追い詰められて、まさに“破れかぶれ”です。10月1日付『大白法』では、今度は当時、日達上人の仲居だった光久諦顕(関東大支院長)まで登場させて、“本尊模刻は大謗法(ほうぼう)”などと寝ぼけたことを言っている。
〈秋谷〉 まったく問題にならない。だいたい、この件については日達上人がわざわざ院達まで出され、「一切論議を禁止する」(昭和53年10月3日付)と厳命されていた事柄です。いったい日顕は、どこまで先師・日達上人に逆らって、いちいち弓を引けば気がすむのか。
〈八矢〉 藤本にしろ、光久にしろ、あれだけ日達上人に世話になっておきながら、日顕にお世辞をつかって、日達上人の指南を破るとは何ごとですか。弟子として、いや人間としても最低ですよ。
〈佐藤〉 信徒には「師弟の筋目」などと偉そうに言っておきながら、自分たちはいとも簡単に師匠の戒(いまし)めを破る。どうせ日顕に脅(おど)されて仕方なくやったんだろうが、彼らの名は師匠を売った“忘恩の徒”“裏切り者”として永遠に残るだけだ。
〈秋谷〉 しょせん、あの連中は、自分の保身のことだけしか頭にない“小心者”だ(笑い)。やはり一番の極悪(ごくあく)の中の極悪は日顕だ。
〈森田〉 そうですね。そもそも
日達上人の院達を最初に破ったのが日顕 だ。今回の問題が起きた直後に、この謹刻の件を学会攻撃のために使っていいという指示
を出している。
〈八矢〉 “自語相違”もいいところね。かつて「論議する者こそ謗法であります」(昭和55年4月6日、御代替奉告法要)と言っていたのは、だれだったかしら。
〈原田〉 まったくだ。日顕は、その後も、「総じて“触れるな”といわれたものに触れることは、謗法と断じます」(同7月4日、全国教師指導会)、「今もって蒸し返して謗法論議をすることは逆に日達上人の御意に背(そむ)く謗法」(同11月、「宗内檀徒の皆さんへ」)とも言っていた。
〈秋谷〉 ところが、それが平成3年になると、例えば11月の解散勧告書には「御本尊の模刻という前代未聞(みもん)の大謗法」、破門通告書には「勝手に模刻するという大罪」などと言っている。かつて自分で“論議するな”“触れるな”と言っておきながら、それを破門理由にしたということは重大な問題だ。
〈森田〉 何のことはない。登座直後の日顕の指南からすると、日顕こそ大謗法を犯したことになる(笑い)。
〈佐藤〉 日顕の“自語相違”“二枚舌”はシアトル事件裁判でも立証済みです。それこそ裁判になったってコロコロ主張を変えてくるんだから、“裁判所公認の大ウソつき”山崎正友といい勝負だ(笑い)。
〈秋谷〉 そもそも、この問題の“火種(ひだね)”をつくったのが、ほかならぬ山崎正友だ。前回の宗門問題の時に、何とか学会攻撃の材料にしようと、裏で若手僧侶を焚(た)きつけ、無理やり「問題」にして日達上人を突き上げさせたのだ。
〈森田〉 登座した直後の日顕は、そうした山崎の策謀(さくぼう)を知っていて、「あんたはウソつきだ!」といって山崎を退け、自分の血脈相承を否定した正信会についても擯斥(ひんせき)処分にしている。
〈原田〉 ところが、今や日顕は、その山崎に「あの時はウソつきと言って悪かった。勘弁(かんべん)してください」と頭を下げ、かつて山崎や正信会がやっていたことを、そのまま“猿マネ”している(笑い)。
〈秋谷〉 まるで山崎が法主で、日顕が檀徒か家来みたいな関係だね(笑い)。主客転倒もいいところで、自分のやっていることのおかしさが分からないほど、錯乱している。「頭(こうべ)阿梨樹(ありじゅ)の枝のごとくに・われたれども悪業ふかくして・しらざるなり」(御書924頁)と仰せ通りの、まさに「頭破七分」の姿だ。
〈佐藤〉 私が理解できないのは、御本尊を大切にするために板御本尊にしたのに、何で宗門がとやかく言うのか、ということです。これは信心のうえから、どう考えたって納得できない。
〈八矢〉 そうですよ。ご不敬したとか、紛失したとか、あるいは身延みたいにキツネや鬼子母神(きしもじん)を祀(まつ)ったというのなら話は別ですが、学会は御本尊を荘厳申し上げたんです。今ごろ日顕宗から文句を言われる筋合いなんてどこにもないですよ。
〈秋谷〉 まったくその通りです。日達上人も、「御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅(しふく)を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われていた。それを今さら「謗法だ!」なんて、とんでもない言い掛かりだ。
〈原田〉 そう。もともと紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われていることです。昔は“御形木3年”といって、そのあとは信者でも、板御本尊にするのが当たり前だったんです。
〈森田〉 現に大石寺周辺には、板本尊を持っている檀家はいくらでもいるし、初代会長の牧口先生の御本尊も板御本尊だった。
〈佐藤〉 だいたい、彼らの言う、「模刻」という言葉自体が新造語でおかしい。まるで学会が勝手に御本尊をマネして板に刻んだような悪いイメージをつくろうとしている。もともとそれが、あの連中の狙(ねら)いなんだろうが、冗談じゃない。
〈原田〉 そうそう。“聖教新聞社の地下でつくった”とか、ひどいのになると“実はその時、板本尊を何百体もつくっていた”と本気で信じている者もいる(笑い)。
〈佐藤〉 改革同盟の大橋正淳住職(和歌山・大照寺)も、「正信会が騒ぎ出すまで、『模刻』なんて言葉は聞いたこともなかった」と語っています。
〈原田〉 いずれにせよ、学会は日達上人の了解をきちんと得たうえで、日蓮正宗御用達の仏師に依頼し、御本尊を御謹刻申し上げたんだ。それに対して、向こうが日達上人の禁止令を破ってまで批判してくるなら、この際、こっちも事実関係をハッキリしておく必要がある。
〈秋谷〉 あれは了解を得たうえでの「謹刻」であり、断じて彼らのいう「勝手に模刻」とか、ましてや御本尊に御不敬を働いた日顕宗が言うような「謗法」ではないことは明確だ。そもそも、御本尊にこと寄せ、そんなバカげた言い掛かりをつけること自体、信徒などいかようにも騙(だま)せるという日顕宗宗門のペテン師ぶりが如実に表れている。
〈森田〉 賛成です。次回は特別に、当時、実際に御本尊の御謹刻に携わった赤澤朝陽会長の赤澤猛さんにもご足労願い、いかに日顕宗がウソ八百を並べているか、当時の真相を語ってもらいたいと思います。
【自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る19】 (『聖教新聞』H9.10.17)
〈秋谷〉 今回は、
元・日蓮正宗御用達の仏師で、赤澤朝陽会長の赤澤猛 さんに来ていただいた。実際に学会本部の御本尊御謹刻(きんこく)に携(たずさ)わった当事者として、当時の状況をありのままに語ってもらいましょう。
〈赤澤〉 はい。赤澤です。よろしくお願いします。
〈原田〉 赤澤さんは、4年前の座談会(平成5年9月30日付)以来、2度目の登場ですね。ぜひ、もう1度、話してください。
〈赤澤〉 わかりました。私どもは、明治40年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が学会を破門するに至(いた)るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する仕事は一手にお引き受けしてまいりました。学会本部の御本尊を御謹刻したのも私どもですし、よく存じております。
〈佐藤〉 早速ですが、今回日顕宗では、大石寺に納められている板御本尊を調査したら、御本尊のほぞの部分に、仏師の名前と彫刻した年月が刻まれているのを
発見したと言っていますが、それは本当ですか。
〈赤澤〉 その通りでございます。ほぞというのは板御本尊の台座に差し込まれている部分のことですが、通常、御本尊の御謹刻が終わり、台座に差し込む際に、仏師の名前と年月を刻んでおります。
〈佐藤〉 なるほど。それでは宗門側が、池田先生が日達上人から昭和49年1月2日に賜(たまわ)った「正本堂賞与(しょうよ)御本尊」の板御本尊に、「昭和四十九年四月 朝陽(ちょうよう)」と彫られていたと発表していますが、これも間違いないわけですね。
〈赤澤〉 はい。間違いないと思います。「正本堂賞与御本尊」については、一番最初に御謹刻させていただきましたので、よく覚えています。
49年の1月に依頼を受け、2月に彫り始めて、4月30日に学会本部に納めました。 〈八矢〉 何の問題もないじゃない。いったい宗門側は、何がいけないと言ってるの?
〈佐藤〉 宗門の教学部副部長である水島の話はこうです。要は、“学会が板御本尊にしたいと願い出をしてきたのは昭和49年9月2日。ところが、実はそれよりも5ヵ月も前の4月には彫刻が終わっていた”というのです。
〈赤澤〉 それはとんでもないスリ替えです。
「正本堂賞与御本尊」を板御本尊にすることは、日達上人は昭和49年の1月にはすでにご存じでした。 これは日達上人からも、また池田先生からも、私が直接お話を伺(うかが)ったことですから、確かなことです。このことは4年前の座談会でも、明確に申し上げたはずです。
〈森田〉 日顕宗というところは、「唖法(あほう=無言の行法)を受けたる婆羅門(ばらもん)等の如(ごと)し」(御書21頁)とある通り、自分たちに都合の悪いところはすぐに頬被(ほおかむ)りして黙ってしまう習性がある(笑い)。念のため、もう1度、その間の経緯を教えていただけませんか。
〈赤澤〉 はい。わかりました。私が
初めてこの話を伺ったのは、昭和48年の暮れ のことでした。学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下(げいか)に言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました。
〈秋谷〉 そうです。それで、年明け早々に、その件で池田先生から日達上人にお話ししたわけです。ちょうど、日達上人から池田先生に「正本堂賞与御本尊」が下付(かふ)された時のことでした。
〈赤澤〉 昭和49年1月16日 のことですが、私が池田先生にお会いした折、先生の方から「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです。〈原田〉 つまり、日顕宗側が問題にしている「正本堂賞与御本尊」については、昭和49年1月に日達上人の了承を得たうえで依頼を受け、2月に彫り始めて4月に学会本部に納めた、ということですね。
〈赤澤〉 その通りです。ですから、水島の言う“願い出をする前から、学会は謹刻していた”というのは、明らかな間違いです。
〈秋谷〉 間違えたというよりは、手柄を立てたいために、意図的に無視して、“新発見”にしたというのが真相でしょう。宗内でも知らない人が聞いたら、本当かなと思ってしまう。
〈原田〉 まったくタチの悪い教学部副部長だ。こんな“トリック”で、人々を騙(だま)そうとするなんて、まったくずるい。この昭和49年9月2日というのは、学会と宗門の連絡会議が行われた日のことだが、ここで議題に上がった板御本尊とは、学会本部常住の師弟会館の御本尊のことで、「正本堂賞与御本尊」のことではない。〈森田〉 そう。私も出席者だったからよく覚えている。もともと御謹刻は日達上人の了解を得てから始めたものだが、学会本部常住の御本尊を御謹刻する際、改めて、連絡会議にかけたのです。 〈秋谷〉 その会議には、当時、総監代務者だった日顕自身も宗門側の責任者として出ていて、日達上人に報告していたはずだ。その時も日達上人ははっきりと了解している。だから、そのことは、報告した当人の日顕が、誰(だれ)よりもこの事実について一番よく知っているはずだ。
〈佐藤〉 ちなみに赤澤さん、本部常住の御本尊を謹刻したのはいつごろですか?
〈赤澤〉 49年の11月末に彫り始め、その年の暮れに学会本部に納めています。
〈原田〉 そう。だから9月に連絡会議で確認して、11月から謹刻が始まったのです。そしてこの学会本部常住の板御本尊については、翌50年の1月1日に入仏式を行った。このことは当時の『聖教新聞』(1月4日付)でも大々的に報道している。当然のことながら、当時、これらの御謹刻については、何の問題にもなってはいませんでした。学会には宗門に隠れてこっそりやらなければならない理由など何1つなかったんです。
〈佐藤〉 では謹刻の仕方についてはどうですか?何か宗門側は、紙幅(しふく)の御本尊を写真に撮(と)って、板にしたことが悪いように言っていますが。
〈赤澤〉 そんなことはありません。現に学会本部の御本尊以外にも、保田の妙本寺では10体、日向(ひゅうが)の定善寺では7体ほど、それぞれお寺の御本尊の写真を撮り、謹刻しています。何より日顕自身、広島・正教寺の客殿の御本尊が大きすぎて御厨子(ずし)に入らず、住職に「赤澤に言って、写真を撮ってもらって小さくしろ」と指示を出していたことがあります。
〈八矢〉 まー、御厨子を大きくするんじゃなくて、御本尊を小さくしたの?とんでもない本末転倒(ほんまつてんとう)じゃないですか。
〈秋谷〉 御本尊を単なる“モノ”としか思っていない証拠だ。それに比べて学会は、本部常住の御本尊をはじめ数体の御本尊を、将来にわたって大切にお守りするために、板御本尊にしたいと願い出をしたんだ。それに対して日達上人は、「紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません」と言われた。それを今さら宗門側がとやかく言うのは筋違(すじちが)いです。
〈森田〉 いずれにしても、これで日顕宗の言い掛かりは完全に総崩れだ(笑い)。わざと学会本部常住の御本尊と「正本堂賞与御本尊」をスリ替えて、“願い出の5ヵ月前に勝手に謹刻していた”などと発表するなんて、聖職者の風上(かざかみ)にもおけない大ウソつきだ。
〈佐藤〉 水島も総監の藤本も、さぞかし“穴があったら入りたい”心境だろう。“新事実発見!”などと、あれだけ得意になって大はしゃぎしていたクセに、『創価新報』(9月17日付)で破折(はしゃく)されたとたん、『大白法』(10月1日付)では見る影もないほど“トーンダウン”している(笑い)。
〈原田〉 赤澤さんが4年前に証言していたことについても、“知っていたけど、発表は省略しました”などと負け惜しみを言ってる。これで“学会員を再折伏しよう!”だなんて、とんだお笑い草だよ。わざわざ自分たちで“墓穴(ぼけつ)”を掘りにくるようなものだ(笑い)。
〈秋谷〉 要するに、大騒ぎしても、よく見ると実態は何もない。正論があらわれると、あとは何も言わないで身を縮めて穴の中にこもってしまう。まさに「帝釈(たいしゃく)にせめられて無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身(しょうしん)と成(なり)て隠れしが如(ごと)し」(御書957頁)の御金言通りの哀(あわ)れな姿じゃないか。日顕宗が凋落(ちょうらく)の一途をたどるのも当然と言えば当然だ。
【自由座談会「太陽の仏法」と「創価の時代」を語る20】 (『聖教新聞』H9.10.18)
〈佐藤〉 ところで、10月1日付の『大白法』には、当時、日達上人の仲居だった光久諦顕(関東大支院長)がノコノコと登場し、ウソ八百を並べています。
〈八矢〉 私も一読して、思わず噴き出してしまいました(笑い)。よほど4年前の赤澤さんの証言が効(き)いているのね。何ら明快な反論もできずに、ただ「疑点に思います」「信用するのもばからしい」といった調子で、個人攻撃に終始しています。
〈森田〉 そう。所詮(しょせん)、言っていることは、平成4年4月1日付『大白法』に掲載された菅野慈雲(東京・大宣寺)の受け売りだ。これこそ「信用するのもばからしい」言い掛かりばかりだが、せっかく当時の経緯をすべて知っている赤澤さんがおられるわけだから、ここでしっかりと破折(はしゃく)しておいたほうがいい。
〈佐藤〉 光久の難クセの第1は、“昭和53年初頭に、日達上人から菅野に対し、「今、赤澤朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べてくるように」と依頼があった。そのこと自体、日達上人が知らなかった何よりの証拠である”というものです。
〈赤澤〉 前にも言いましたが、この話はまったくの作り話です。第一、年始のあいさつには、私だけではなくたくさんの方が来られています。そんな所で私1人が、しかも御本尊に関する重要な話などできるはずがありません。もしあったと言うなら、その場にいた大勢の人たちが証言しているはずですよ。
〈秋谷〉 そうですね。この光久の話は明らかに矛盾している。だいたい日達上人は、昭和49年の段階ですでに御本尊の謹刻(きんこく)については了解されていたんです。それなのに53年になって、そんなことを聞くわけがない。これはもうまったく作られた話です。
〈赤澤〉 そうです。それに私は日達上人から直接、最初から了解されていたことを伺(うかが)っています。
〈原田〉 そうでしたね。確か、49年の秋ごろ、大奥の対面所で目通(めどお)りした時のことでしたね。
〈赤澤〉 はい。その時、猊下(げいか)は本来の用件が終わり、いったんお帰りになられようとしたんです。それが思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。
〈八矢〉 それで赤澤さんは、どうされたんですか?
〈赤澤〉 もちろん「そうです」と答えました。すると猊下は、「ほかのもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げたところ、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな。大事なものだから、気をつけてやってください」と言われ、それで部屋を出ていかれたんです。
〈秋谷〉 明快ですね。学会本部常住の御本尊をはじめ、他の御本尊についても、日達上人は昭和49年の段階で明確にご存じだったわけだ。まったく光久も無責任な発言をするものだな。
〈赤澤〉 本当にそう思います。
こと御本尊のこととなると日達上人は厳格で、必ずそばにだれもいない時に話をされていました。それが役僧であろうと側近であろうと、だれかいる時にはそうした話は一切口にされませんでした。 〈佐藤〉 赤澤さんの証言で、池田先生と日達上人の間で、話があったことは明白です。そのうえで確認しておきたいのですが、実際に謹刻する際の手続きはどうなっているのですか?というのも、光久は“なぜ内事部に報告しない”“口約束だけで仕事をするなんて怠慢(たいまん)だ”と難クセをつけているのですが(笑い)。
〈赤澤〉 いや、当時は、そんな
いちいち内事部に書類を提出したり、報告するようなことはありませんでした 。通常、信徒の皆さんから依頼を受けた時にも、末寺の住職に身元の確認をするぐらいのものでしたから。本山から報告を要求されるようになったのは、日顕の代になってから、とくに内事部に御本尊を取り扱う第3課ができてからのことです。
〈森田〉 だいたい連絡会議等で、そんな話は1度も出なかったですよね。もしそんな手続きや方式があるなら、意地悪しないできちんと教えてくれればいいんだ。それこそ本山側の“怠慢”になる(笑い)。
〈八矢〉 その底意地(そこいじ)の悪い光久は、日達上人が謹刻した御本尊について、“どこか金庫にでもしまっておけ、人目に触れさせるな!”と立腹(りっぷく)して、学会がどう処置していいか困ったなんて言ってるわね。
〈原田〉 これもまったくのデタラメです。活動家僧侶(後の正信会)が謹刻問題で騒(さわ)ぎ出した際、学会としては、あくまでも日達上人をお守りする立場から、昭和53年9月2日の目通りの席で、御本尊の扱いで指南を求めたわけです。
〈秋谷〉 そう。その時、日達上人は「すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です」と言われたんだ。私もその場にいて、この耳で聞いている。その日達上人のおっしゃった通り、翌日の『聖教新聞』に報道されています。
〈森田〉 ところが今度は、それを材料にした活動家僧侶が、「また猊下は学会にだまされ、利用された」と騒ぎ出し、収拾(しゅうしゅう)がつかなくなった。日達上人に対して、活動家僧侶はものすごい剣幕で詰め寄っていた。
〈佐藤〉 結論として学会は、その目通りの後、本部常住の板御本尊以外の7体の板御本尊を本山に納めることになりました。これについても光久は、“大宣寺が学会に泣きつかれた”などと、とぼけたことを言っていますが。
〈原田〉 あべこべだ。学会が大宣寺に泣きつかれたんですよ(笑い)。菅野慈雲が「猊下は活動家僧侶との板挟(ばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」と言ってきたんです。
〈森田〉 とにかく当時の宗内は、山崎正友の暗躍と活動家僧侶の暴走で揺れに揺れていた。学会としては、こうした宗内の混乱を収拾することが最優先課題と判断した。だからこそ、日達上人を守るために、学会本部常住の御本尊以外の7体の板御本尊を大石寺に納めたわけです。
〈秋谷〉 その通りです。本来なら、いくら菅野に泣きつかれようが、それに応じる必要など一切なかった問題です。それもこれも、すべては日達上人を守り、僧俗和合をしていこうとの思いから、あえて学会が泥をかぶり、譲歩(じょうほ)もし、耐え忍んだのです。
〈原田〉 そうです。だから、御本尊を納めた直後、学会としても日達上人に申し上げた。「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これではまったく困ります」とね。それに対して日達上人は、「わかった。それでは院達(宗門・宗務院からの通達)を出します」と言われ、それで例の「一切論議を禁止する」という昭和53年10月3日付の院達が出されたんです。
〈佐藤〉 しかし教学部副部長の水島など、こうした経緯をネジ曲げて、“昭和53年11月の幹部会で、辻副会長(当時)が、「不用意に御謹刻申し上げた」と謝罪したから、論議を禁止した”などと言っている。
〈八矢〉 まったくどこまでひねくれているのかしら。「悪世の中の比丘(びく)は邪智(じゃち)にして心諂曲(てんごく)」(御書224頁)の通りだわ。
〈森田〉 だいたい、あの「不用意に御謹刻申し上げた」の表現は、代表幹部会の前日、突然、宗門側の強い要請があって挿入(そうにゅう)させられたことじゃないですか。陰では全部、あの“極悪ペテン師”山崎正友の策略だったんです。
〈秋谷〉 宗門側の言い分は、“これを入れてくれないと、騒いでいる活動家僧侶が納得しない”“彼らが納得しない限り、学会がいくら僧俗和合を徹底しても事態は収拾しない”というものでした。つまり、事態収拾のためにということで話し合った結果、入れた文言(もんごん)だったのです。そうした経緯を承知(しょうち)のうえで、日顕たちはその文言だけを取り出し、“あの時謝(あやま)ったじゃないか”“あれは偽(いつわ)りの反省だったのか”と言ってくる。無慚無愧(むざんむき)とはこのことで、信義も何も通じないところです、日顕宗は。
〈赤澤〉 まったく嘆(なげ)かわしい限りです。あの人たちには、この件で感情的に騒げば騒ぐほど、日達上人に疵(きず)がつくことが、まだわからないらしい。
〈秋谷〉 大聖人は「ほろぶべき事を知りながら申さぬは諛臣(ゆしん)とて・へつらへる者・不知恩の人なり」(同1412頁)と仰せです。
光久にしても、藤本にしても、あるいは菅野にしても、本来、日達上人の弟子として、先師に違背(いはい)し宗門を破滅に追いやる日顕に対し、命懸(いのちが)けで諫暁(かんぎょう=いさめただす意)すべき立場にある。
〈原田〉 それを見て見ぬふりをするどころか、媚(こ)び諂(へつら)ってお先棒(さきぼう)を担(かつ)いでいるのだから、話にならない。この3人は“腰抜けトリオ”として、日達上人の遺弟たちからも陰で笑われているらしい(笑い)。
〈森田〉 笑われて当然ですよ。大客殿をはじめ、大化城、六壷、総坊前の桜と、大石寺から日達上人の事跡が次から次へと取り払われているというのに、彼らはただボーッと指をくわえて眺(なが)めているだけなんだから(笑い)。
〈八矢〉 これはもう日顕宗全般に言えることですが、出家の身でありながら、とにかく“恩”と言うものを知らなすぎるわね。その最たるものが、大恩ある学会、なかんずく池田先生に対する仕打ちです。
〈秋谷〉 会長就任以来、それこそ池田先生はどれほど宗門に貢献されたか。建立寄進した末寺の数だけでも360ヵ寺にも及ぶ。それほどの大功労者を、あろうことか「あの野郎」呼ばわりして切ってきた。
〈佐藤〉 大聖人は「畜生すら猶(なお)恩をほうず」(同204頁)と仰せです。世間でも、犬すら3日飼えば恩は忘れないという。大恩に仇(あだ)で報いた日顕は、断じて許すことはできない。
【「創価の世紀」の開幕(3)】 (『聖教新聞』H5.9.15)
〈高橋〉 今回の学会の御本尊授与は、皆大喜びです。広布の新しい時代の開幕を実感しているからです。
〈原田〉 そうですね。授与のことが発表された第70回本部幹部会のあった7日は、池田先生が本年の本部訪問百回目の日でしたし、新聞発表がされた8日も戸田先生の「原水爆禁止宣言」の記念日であるなど、幾つもの意義を刻む日でした。世界広布新時代のまさに夜明けの時を迎えています。
〈谷川〉 それに対し日顕宗は謗法の坂をますます転げ落ちている。『大白法』号外では、今回の学会の御本尊授与を、以前の御本尊謹刻(きんこく)のことに結び付けて誹謗(ひぼう)しているようですね。
〈秋谷〉 そうらしい。しかし御本尊謹刻のことは、十数年前、日達上人が“今後一切言ってはならない”と院達を出され、厳しく戒められたことです。それを持ち出すことは、先師に対する大変な反逆になる。
〈斉藤〉 その通りです。後で申し上げますが、そもそも御本尊謹刻は、日顕や藤本も言っていたように、仏法上また日達上人の御指南に照らして、謗法でも何でもないことなのです。
〈辻〉 当然だよ。日達上人の書写された御本尊を謹刻しても、日達上人の御本尊に決まってる。日寛上人の御本尊を御形木御本尊にしても、日寛上人の御本尊に決まってるじゃないか。その御本尊を謗法だとか、功徳がないとかいう日顕たちこそ大謗法だよ。
〈高橋〉 その謹刻のことを利用して謀略で騒いだのが、山崎正友や正信会ですね。
〈辻〉 そうです。だから日顕たちは、正信会の猿マネをしていることになる(笑い)。
〈谷川〉 そもそも日達上人が禁止されたことを破ったのは日顕でした。日顕は、今回の問題が起きた直後の平成3年1月6日の本山での会合で、この謹刻問題を
学会攻撃のために使っていいという指示を出しています。それも、僧侶の話によると、新年の樽酒を開けてホロ酔い気分で号令したというんです。
〈辻〉 とんでもない男だ。日顕は最初から御本尊を謀略の道具にしようとしていたということだね。
〈原田〉 ええ。『大白法』では、謹刻は日達上人の許可を得ていなかった等と、まず経過をごまかしています。そして“学会は日達上人のお心を踏みにじり、再び大謗法を犯した”などと臆面(おくめん)もなく書いています。
〈秋谷〉 全く笑止千万だ。日達上人の心を踏みにじって、御本尊謹刻のことをまだ言っているのが日顕たちではないか。
〈辻〉 その通り。これ自体、大謗法だよ。
〈秋谷〉 この件については、学会としては日達上人の指南に基づき発言を控えてきたが、ここまで先師を冒涜(ぼうとく)し、ウソを重ねるのなら、後々のためにも、ここで、御本尊謹刻の真相、経緯についても明確にしておきたい。
〈辻〉 賛成です。この問題は、学会が宗門を守ったのであって、学会には一点も非がなかったことを、是非明らかにしておきたい。あの御本尊の謹刻は、当時、間違いなく日達上人の了解も得たうえで謹刻したものなのです。
〈秋谷〉 その通り。当時の経過について言いますと、
昭和49年 に、
学会は創価学会常住の御本尊はじめ数体の御本尊を、将来にわたり大切にお守りするために板御本尊に謹刻させていただきたいと、時の日達上人に願い出た のです。
それに対し、日達上人からは、「
御本尊は受持した人のものですから、信心の上で大切にするのであれば、板御本尊にするのは自由です。他の人がとやかく言うものではありません。紙幅を板御本尊にするということは、以前からもあったことです。特段、問題にすることではありません 」という趣旨の、お話があったのです。これが真相です。
〈辻〉 日達上人はこの他にも、「僧俗には、最高の技術をもって大御本尊を守護申し上げる責任がある」「御本尊を守り、法を守って永代まで伝えなければならない」等と、御本尊をお守りする信心の大切さについて、昔から折に触れ言われている。
〈斉藤〉 もともと、紙幅の御本尊を板御本尊に彫刻することは、宗内では昔から行われてきたことで、問題にする方がおかしいのです。例えば、堀上人は、紫宸殿(ししんでん)御本尊を謹刻した板御本尊を拝んでいた。末寺でも、保田の妙本寺では10体、日向の定善寺では7体、紙幅の御本尊を写真にとり、謹刻している。宗門では紙幅を板御本尊にすることは、本来騒ぐことでも何でもないことなのです。
〈原田〉 だから、学会も日達上人の了解を得て、昭和49年より、本部常住の御本尊など全部で8体の御本尊を、順次、板御本尊に謹刻申し上げたのです。そもそも、
総監の藤本が「あれは、謗法ではない」と法廷で証言した ではないですか。ところが、あの『大白法』によると、藤本は公(おおやけ)の法廷でウソをついたことになる(大笑い)。それこそ大問題だ。
〈高橋〉 全くそうですね。
〈谷川〉 このことは、当時の問題をよく調べたといわれる河辺慈篤(かわべじとく=北海道大支院長)も、昭和63年4月に行われた一般得度9期生に対する指導会で「正信会は御本尊模刻について大謗法だといっているが、そんなことはない。やはりこのことについても、日達上人からそのような御指南を得ていた。謗法でも何でもない。素晴らしいことだ」と説明しているということです。
〈高橋〉 ということは、もともと問題になるようなことではなかったということですね。
〈原田〉 その通りです。ここに
昭和50年1月4日付と、50年7月17日付の『聖教新聞』の記事があります。創価学会本部や関西本部の常住御本尊などを板御本尊にしたこともハッキリ出ています。しかし、当時は何の問題にもならなかったのです 。
〈谷川〉 この問題のおかしいところは、すでに公になってから2、3年経過した昭和52年ころから急に騒がれ始めたことです。後にいわゆる正信会となって宗門に反逆した若手坊主たちが、山崎正友と結託して意図的な学会攻撃の材料として、この謹刻を問題があるように仕立て上げたからです。
〈秋谷〉 とくに、これが宗内でことさら騒がれた昭和53年当時は、若手が宗門執行部を突き上げ宗内は無政府状態で、宗務院と何を話してもすぐ若手に壊されるという状況でした。日達上人も大変に心を痛められていた時です。
〈斉藤〉 そんな異常な宗内状況の中で、正信会に学会の謹刻御本尊のことを質問された日達上人は、
昭和53年6月 の教師指導会で「
学会の方で板御本尊に直したところがあります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩(けんか)しないように 」と発言したことがあります。
〈谷川〉 この中の、「それは私が知らなかった」という部分を今回の『大白法』は、だから法主の許可はなかった、という根拠にしようとしていますが。
〈秋谷〉 そう、これもあの時の正信会の輩(やから)のマネをしているんだ(笑い)。正信会はこの発言を、学会の謹刻は事前の承認を受けていなかったということで利用しようとした。そして更にしつこく追及した。すると、別の時には、“学会から願い出はあったが、後で正式な申請の書類が出てくると思っていたが来なかったのだ”との説明がなされたりした。
〈辻〉 あの日達上人の話の結論は、「こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩しないように」というところにあった。つまりあれは、日達上人が、最終的に宗門も“了解し、承認したのだから騒ぐな”と、正信会を納得させ、問題を収めようとした発言だったのです。このあたりの日達上人の正信会僧侶に対する話を正信会が悪用し、問題をくすぶらせたともいえる。
〈秋谷〉 そうです。しかし実際は、この
書類の件も、当時そのような書面を出す指示もなかったし、そのための手続きや方式もなかった。それに、何より、日達上人が直接、池田先生に明確に了解されたことであり、それで十分であると私どもは考えたのです。 それは当然のことでしょう。
〈谷川〉 現に宗内でも、四国大支院長の安沢らが当時出した小冊子のなかで、学会の御本尊御謹刻については、日達上人が認可されたものだとハッキリ言っていますね。
〈斉藤〉 そうです。その小冊子の中では、正信会の中心者が、早瀬日慈や日顕らの証言と問題の経緯を踏まえて、次のように言ったことを紹介している。「
今こちら側でこの件をついてゆけばそれでは事実はこうと聖教で公表するだろう。かかる事態になれば、法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。故にこの件に関しては是以上言うべきでない。宗務院として強制力のある通達をもってこれを達しなければならない。この件に違反すれば宗制宗規に照らして厳正な処置を取らねばならないと考える 」と。
〈高橋〉 先ほど河辺慈篤が、御本尊謹刻は謗法などではないと言っていた話がありましたが、日顕はもちろん、あの河辺や安沢たちも皆、事実を知っていたということですね。
〈谷川〉 先日ある僧侶から聞いたことですが、当時大方の宗門僧侶の間には、学会の御本尊謹刻が教義上の「謗法」だという感覚など、全くなかったというんです。それが騒ぎになったのは、坊主には、寺は板御本尊で会館は紙幅御本尊だから“寺の方が会館より上”という愚かな上下意識があり、その“差別”が崩されて、信徒が来なくなり御供養が減ることが怖(こわ)かった。これが実は本音だったというのです。
〈辻〉 なるほど。宗内ではその程度だったのだろうね。それこそ御本尊は寺の配布物、販売物としか考えていない宗門の体質がよく出ている話だ(笑い)。この邪教そのものの心根(こころね)の下劣さを、大聖人はどれほどお怒りになられることか。
〈原田〉 さて、話を戻しますと、謹刻問題がにわかに大きくなる中で、学会としては、あくまで日達上人の指南に基づくべきであると考え、昭和53年9月2日のお目通りで、謹刻した御本尊についての御指南を求めたのです。
〈秋谷〉 その時、日達上人は「
すべて学会本部に宝物としてお納めくだされば結構です 」との話をされました。私もその場にいて間違いなく聞いています。そして学会は、その通り、翌日の『聖教新聞』に報道しました。すると、活動家僧侶側は、今度はこれを材料に「また猊下は学会にだまされ、利用された」と、日達上人に詰め寄り、騒いだのです。
〈高橋〉 日達上人がお目通りで話されたことを、そのように曲げて取るとは、よほど性格が曲がっていたのですね、当時の正信会も。本当に悪辣(あくらつ)です。
〈谷川〉 そのお目通りの後の9月末、最終的に学会は、創価学会常住板御本尊以外の7体の謹刻御本尊については、本山に納めました。これをとらえて、御本尊を返したのは学会に非があったからだ、などと日顕は言わせていますが、この真相はどうだったのですか。
〈原田〉 その理由はただ1つです。実は、日達上人の娘婿(むすめむこ)で学会との折衝(せっしょう)役になった大宣寺の菅野慈雲(すがのじうん)から、「猊下は活動家僧侶との板挟(いたばさ)みで、学会を守るために苦しんでいる。猊下の立場を考えて、板御本尊については、本山に納めてくれないか。そうしてくれれば、問題はすべて収まるから」という趣旨の話があったのです。
学会としては、経過からしてこれに応じなければならない理由は何1つありません。しかし、とにかく宗内が反学会の活動家僧侶の決起で揺れに揺れ混乱している。したがって、こうした宗内の異常状態を収拾することが最優先課題でした。ゆえに日達上人を守るために、学会常住以外の7体の板御本尊を本山に納めたわけです。
〈高橋〉 今から考えれば、信じられないほどの譲歩(じょうほ)を学会はしたのですね。
〈秋谷〉 結局、これも日達上人を守り、僧俗和合をしようとの思いからです。だから、板御本尊を本山に納めた直後、日達上人に「こちらは御指南を守って言わないのに、活動家僧侶がまだいろいろ言っています。これでは全く困ります」と申し上げたところ、日達上人は「分かった。それでは院達を出します」と言われ、これらの経緯をすべて踏まえ、昭和53年10月3日付の院達を出し、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」とされたのです。
〈辻〉 もう1つ言わせてもらいたい。あの院達の後の、昭和53年11月7日に本山で行われた代表幹部会で、私の話の中で、「不用意に御謹刻申し上げた御本尊」という表現があります。しかしあれも、当初の私の原稿にはなかったのに、幹部会の直前の前夜になって、宗門側の強い要請があって、“不用意”という言葉を挿入(そうにゅう)させられたんだ。
〈谷川〉 それはどういう理由からだったんですか。
〈辻〉 宗門側の言い分は、これを入れてくれないと、騒いでいる反学会の活動家僧侶が納得しない。彼らが納得しない限り、学会がこの「11.7」でいくら僧俗和合のための方針を徹底しても事態の収拾にはならない、というものだった。まことに不本意ながら、僧俗和合実現のためにやむをえず、ああした表現になったのです。
〈秋谷〉 当時の異常な宗内状況のため、以上のような複雑な経緯をたどったが、ここでも分かるように、御本尊の謹刻は、法義上も、また本来、手続き上も何らの問題もなかったのです。日達上人自身の指南にもある通り、あくまで御本尊を大事にしたいとの信心の上からなされたものです。
〈斉藤〉 そうですね。本来、創価学会が大聖人の「信心の血脈」を継承する、真の「和合僧団」であるということからも、全く問題となることではないですね。
〈秋谷〉 そう。それが“大問題”のようになったのは、宗内が、正信会や山崎正友に蹂躙(じゅうりん)されるという事態の中で、学会攻撃の作戦として“為(ため)につくられた”材料だった。これこそ、全く罪ないことで、学会に黒いワナを仕掛けた、中世暗黒時代のような聖職者による謀略だったのです。
【「創価の世紀」の開幕(5)】 (『聖教新聞』H5.9.30)
〈谷川〉 ハーバード大学での講演をはじめ、先生の北米訪問のニュースが楽しみな毎日です。いよいよ民衆仏法の太陽が、全世界を照らしていることを感じるのは私1人ではないと思います。
〈高橋〉 全くそうです。法華経なかんずく日蓮大聖人の仏法のもつ普遍性が輝く、画期的な「時」が訪れたと実感します。
〈辻〉 日淳上人は、仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の広宣流布の団体である学会の出現によって、仏教史に劇的な変化が起こったことを見抜かれ、将来の歴史家は「立宗7百年以前は宗門の護持の時代とし、以後を流通(るつう)広布の時代と定義するであろう」(『日淳上人全集』1620頁)という有名な言葉を残されている。これからの広宣流布は、あくまで民衆が主役の時代だということです。先生の戦いは、まさにそれを証明している。
〈細谷〉 ここで日顕のことをいうのは、まるで別世界の化石を相手にするようなものですが(笑い)、彼は、日淳上人のいわれた「流通広布の時代」の深い意義が、結局わからなかったんでしょう。だから、現実に世界に広宣流布をしている先生に嫉妬(しっと)し、狂ってしまった。
〈高橋〉 その結果は、民主主義を否定し、文化を否定し、僧俗和合を破壊し、ただ“衣の幻想”に執着し宗門を滅亡させています。全く、哀れと言うしかありません。
〈谷川〉 ロサンゼルスの男子部が、日顕宗のことを映画の「ジュラシック・パーク」をもじって「ジェラス・パーク(嫉妬の園)」と言ってましたが、実にぴったりの表現です(笑い)。
〈細谷〉 ところで、その“嫉妬の園”の動きだけど、日顕は、学会の御本尊授与のことを今度は「院達」で、法主の「御允可(ごいんか)」がないから駄目(だめ)だといっている。
〈高橋〉 “御允可”ですか!今時、古臭いですね。つまり“許可”でしょ(笑い)。少しでも有り難がるように、ということでしょうが、そんなのが通用するのは、日顕に盲従(もうじゅう)している法華講あたりだけですよ(笑い)。
〈斉藤〉 日顕の国語力は正本堂説法の“たるべき”の珍解釈で底が割れていますからね(笑い)。昔から日顕は見えだけで実際は中身がない。やさしいことを、いかにも難解そうに言って偉そうに見せかけるんです。しかも、肝心の言っている内容が間違いだらけだから、どうしようもないですよ。
〈辻〉 結局、日顕宗は、学会の御本尊授与について、法主の許可がないということしか言えない。ところがその法主は、禅寺に墓を建てるわ、陰で悪事を繰り返すわ、遺誡置文(ゆいかいおきもん)もことごとく破ってしまった。これでは邪宗の法主だ。こんな法主が「許可、許可」と居丈高(いたけだか)に言っても、それこそ笑い話にしか過ぎないよ(大笑い)。
〈細谷〉 そうです。“ニセ本尊”だとか、功徳がないとか悪口を言っていますが、日寛上人の御本尊というのは、大御本尊をお写ししたものだ。その御本尊に功徳がないというのであれば、それは大御本尊否定になりますよ。
〈秋谷〉 その通りです。それこそ大謗法(ほうぼう)です。そのように大御本尊を否定し、日寛上人を否定していること自体、“ニセ法主”の証拠だ。謗法の法主のエセ開眼なんて、まっぴらだ(笑い)。
〈辻〉 そう。大事なのは信心なんだ。この日寛上人の御本尊を拝んで、功徳をいっぱいいただいて進んでいきましょう。
〈高橋〉 ところで、「院達」では、また御本尊謹刻(きんこく)のことを持ち出しているようですね。
〈細谷〉 “日達上人に無断で模刻するという非法行為を犯した”“日達上人の厳しい御叱責(ごしっせき)を蒙(こうむ)って、総本山にその模刻本尊を納めた”などと、もっともらしい作り話を並べています。
〈辻〉 事実は、日達上人は明確に了解されていたし、御謹刻した御本尊を本山に納めたのも、宗門側のたっての要請を受け、日達上人を守るために学会が敢(あ)えて譲(ゆず)ったことだ。この前の座談会(本紙9月15日付)で述べた通りです。
〈細谷〉 そもそも日顕は、御本尊謹刻を正信会が騒いでいることに対して、「日達上人違背の大罪人である。“触れるな”といわれたものに触れることは謗法と断じます」と自分で言っていたではないか。
〈高橋〉 全く正信会より何十倍、何百倍も悪いですね。
〈秋谷〉 そう。日顕は、当時の教学部長、総監代務者としてこの件の事情は十分わかっているのです。だから、明らかに嘘(うそ)をついている。そこで、それを明らかにするために、当時、御本尊の御謹刻に、日蓮正宗御用達の仏師(ぶっし)としてかかわった赤澤朝陽社長の赤澤さんに座談会に入ってもらい、当事者として真実を証言してもらいましょう。
〈赤澤〉 はい。赤澤猛です。よろしくお願いします。私どもは、明治40年に日蓮正宗御用達となって以来、日顕が理不尽にも学会を破門する事態に至るまでの間、宗門の御本尊の御謹刻に関する業務は、一手に引き受けてまいりました。実際に、学会本部の御本尊などを御謹刻したのも私どもですし、その真相もよく知っています。
〈高橋〉 ぜひ、真実を語ってください。
〈赤澤〉 私は立場上、宗門のこと、法主のこと、個々の坊さんのことなど、いろいろなことを知っています。しかし、今までは、私は言わないできました。特に、御本尊に関することは、口外しないできました。
しかし、御本尊謹刻は、宗門では昔から普通にやっていることです。それを謗法呼ばわりするとは、日顕は全く事実をねじ曲げています。日達上人を無視するやり方にも、とても我慢できません。何よりも、大聖人様に弓を引く日顕は、絶対に許せません。ですから私は、真実を残すために証言させていただきます。
〈谷川〉 よろしくお願いします。御本尊謹刻の経緯の件ですが、当時の日達上人は、どのようにおっしゃっていましたか。
〈赤澤〉 ええ。学会の御本尊謹刻のことは、日達上人は、最初からもうご存じでした。これは日達上人からも、また池田先生からも、私は直接お話を伺(うかが)っているんです。先生からお話を聞いたのは、昭和49年の1月でした。
〈細谷〉 それは、御本尊の謹刻を開始する前ですね。
〈赤澤〉 そうです。前年の
48年の暮れ に、
学会本部から、「学会の御本尊を何体か板御本尊にしたいので、そのときはよろしくお願いしたい」という話がありまして、私は、「猊下に一言いっていただければ、私どもも安心してできますが」と答えました 。
それで
年が明けた1月 に、
池田先生にお会いした折、先生のほうから「御本尊のことは、私から猊下に申し上げておいた。猊下は、“大事にするためなんだからいいんだよ”とおっしゃっていた。安心してよろしく頼みます」と言われたんです 。
〈高橋〉 明快ですね。池田先生と日達上人の間で、よく話し合われていたのですね。
〈秋谷〉 そうです。昭和49年の初頭に、日達上人と池田先生との間で、御本尊謹刻の件で話があったのは、事実なんです。日顕宗は猊下に無許可でやったなどと嘘(うそ)を言っているが、学会には、猊下に黙ってやらなければならない理由など何1つないわけです。それに、“大事にするためなんだからいいんだよ”との日達上人の指南は、まさしく信心が大切であることを示されたものです。ですから、学会の御謹刻というのは、本来、全く間違いはなかったのです。
〈赤澤〉 もう1つ、
日達上人が最初から了解されていたことも、私は直接、確認しています。それは、同じく49年の秋 ごろでした。仕事のことで、大奥の対面所で日達上人とのお目通りがありました。本来の用件が終わって、猊下はいったんお帰りになろうとしたんですが、思い出したように戻ってこられ、「そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫ってるんだよね」と聞かれたのです。 私が「そうです」と答えますと、猊下は「他のもやってるのかい」と言われました。私が「はい。やりました。たしか、池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが」と申し上げると、「うん。池田会長から聞いているよ。あと5、6体やらせてもらいたいと言ってたな」と言われて、部屋を出ていかれたんです。 〈斉藤〉 日達上人が、学会本部をはじめ、他の御本尊の謹刻のことも、明確に承知されていたことは明らかですね。
〈赤澤〉 そうです。本部師弟会館の御本尊の御謹刻の依頼を受けて、取り掛かったころですから、私もよく覚えています。
〈高橋〉 日達上人もご存じで、了解されていたことを“謗法”呼ばわりする日顕こそ、先師否定の大謗法じゃないですか。
〈秋谷〉 御謹刻は日達上人の了解を得たうえで始まりましたが、本部師弟会館の学会常住の御本尊のとき、再度、連絡会議にもかけている。49年の9月2日 です。そのときは、総監代務者の日顕自身が宗門側の責任者として出ていて、日達上人に取り次いだのです。そのときも、はっきりと了解をいただいている 。それを、ごまかしているんです、日顕は。
〈辻〉 50年1月1日に池田先生中心に学会本部で入仏式を行い、当時の『聖教新聞』にも大きく掲載されました。1月2日に初登山し、お目通りした折にも、先生は日達上人に明確に報告されているし、日達上人自身、その報告があったことを周囲に言われている。
〈秋谷〉 日顕宗は、学会に対する平成3年の解散勧告書では、御本尊謹刻のことを「前代未聞の大謗法」などと言っていたが、謗法でも何でもないことは明らかです。これを解散勧告の理由にしたということは重大な問題だ。これ自体が先師日達上人に対する大反逆だからです。
〈斉藤〉 ところで、日達上人の了解もちゃんとあるのに、なぜ、学会は7体の板御本尊を本山に納めたのか、当事者の赤澤さんは疑問に思われたでしょうね。
〈赤澤〉 そうなんです。先日のこの座談会を拝見しまして、宗門からの要請という事情があったことを、私も初めて知りました。当時は、どうしてこのことが問題にされるのか、なぜ、最終的に奉安殿に納めなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。いずれにしても、学会を攻撃するための難癖(なんくせ)だろうとは思っていましたが、「一切論議を禁止する」と院達を出したはずの宗門自身が、今回これを持ち出したことに本当に驚き呆(あき)れています。
〈細谷〉 この謹刻のことについて、当時の宗門の見方はどうだったのですか。
〈赤澤〉 いや。それもですね、あれは昭和58年暮れでしたが、ある寺の入仏式が終わって、私の車に札幌・日正寺の秋山海学さんら老僧が2人乗って来たんです。その時、2人が「赤澤さん、御本尊模刻のことはどういうことなの。あんたのとこでやったの」と聞くものですから、「ええやりました。猊下も知ってるよ、といわれてましたよ」と答えると、「それじゃあ、問題ないんだなー」と納得していました。
〈辻〉 そうですよ。全く問題はなかったと知りながら、日顕の策謀(さくぼう)に加わっている坊主はとんでもないね。
〈谷川〉 ところで、大宣寺の菅野慈雲などは、御本尊謹刻のことで53年1月の初めに、日達上人から「今、赤澤朝陽の社長が年始のあいさつにきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊にしたと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べてくるように」と言われて調査したなどと言っていますが。これについては、どうだったのですか。
〈赤澤〉 いや。それも全く違いますね。年始のごあいさつは、そのころ毎年しておりましたから、53年も年始にうかがったことは間違いありません。しかし、そんな話は出ませんでした。
〈高橋〉 日達上人は御謹刻のことを当初からご存じだったわけですから、そのときにそのような話が出るはずがありませんよね。
〈赤澤〉 菅野住職が、この問題が騒ぎになってから1度見えたことはありますが、それは御謹刻御本尊のあくまで確認だけで、それ以上のことではありませんでした。
〈辻〉 菅野は前回の宗門問題のとき、山崎正友の進言で作られた宗門海外部の部長に、やはり山崎の後押しでついた男です。やったことといえば、宗門のいうことを聞かなければ「日蓮正宗の信徒団体とは認めがたくなる」などと脅しの「海外部通達」を出し、韓国などの海外信徒組織の檀徒化に狂奔(きょうほん)しただけだ。
〈細谷〉 その通達にしても、山崎が書いたシロモノです。結局、海外部長を辞(や)めさせられ、山崎正友の操(あやつ)り人形として策謀に加担しただけの愚かな人間が、今更そんなことを言っても、だれにも信用されませんよ。
〈高橋〉 ところで赤澤さん、宗門の御本尊に関する姿勢はどうだったのですか。
〈赤澤〉 学会と宗門の御本尊に対する姿勢は全然違います。これは、謹刻を依頼された時からそうです。学会の場合は、先生はじめ、本当に信心の真心から行われ、扱われていました。それに対し宗門は、御本尊をまるで“物扱い”なんです。
〈谷川〉 具体的には、どういうことですか。
〈赤澤〉 例えば、大石寺では、御本尊の謹刻をうちに依頼してくるときに、御本尊を書写した和紙を郵便書留で送ってくるんですよ。また、化粧直しのための板御本尊を他の業者に頼んで送りつけてくる住職もいます。こういうことについて、もし、途中で事故があったらどうするのか。私どもでは責任を持てないから他の方法を考えていただきたいと本山まで行って直訴(じきそ)したんです。これは平成2年の7月でした。日顕は「うーん、やらないほうがいいな」と言いながらも、結局、何も変わりませんでした。
〈高橋〉 いや。日顕は、第1回海外出張御授戒の時、シアトル事件の前に、ハワイでトイレに大切な御本尊を忘れてくるくらいですからね(笑い)。
〈谷川〉 昭和50年でしたか、滋賀県の寺(仏世寺)の坊主が借金に困って、業者と共謀して寺の御本尊を持ち出しておいて、“持っていかれた”と狂言を繕(つくろ)い、本山から金を出させようとした、とんでもない事件があったと聞いています。
〈秋谷〉 そう。当時、同じ布教区で、教学部長としてその坊主を監督すべき立場だったのが日顕(当時、京都・平安寺住職)だった(笑い)。これだって本当は重大問題です。この時も、全部、学会が解決してあげたんです。
〈赤澤〉 あと日顕の御本尊に対する姿勢がおかしいなと思ったことは、実はたくさんあるんです。また、機会があれば、ぜひ、お話させてもらいたい。
〈細谷〉 ぜひ、お願いします。それにしても、日顕はどこまで悪いのか計り知れない。
〈高橋〉 赤澤さんの話で御本尊謹刻のことも、よりハッキリしましたね。
〈秋谷〉 日顕たちが何を言おうと、所詮は、御本尊を“商売道具”としか見ない謗法の輩(やから)の猿知恵だ。その悪辣(あくらつ)さは、すでに白日のもとになっていますが、後世のためにも、この前代未聞の悪侶の実像を、今後もしっかり語り残しておきましょう。
―断簡17 錫杖の音― http://www.heianbooks.jp/zenbun/gyouan/017.html 【ふって湧いた御本尊模刻問題】 山崎正友は、右手に反学会活動家僧という刀を握り、左手に法主≠ニいう玉爾を握ることになった。山崎は創価学会に対して、ある時は、
「活動家僧侶がこれでは治(ママ)まらない」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
と言い、ある時は、
「これが猊下の御内意である」(同)
あるいは「それは猊下の御意志ではない」(同)
などと、自在に刀と玉爾を使い分けた。山崎は僧の権威を利用して、信徒団体である創価学会に切り傷を入れ、そこに塩をもみ込み始める。
昭和53年6月頃 、
創価学会が紙幅の御本尊を勝手に板御本尊に「模刻」したという話が、反学会活動家僧の中に流れ始めた。 山崎も一時は浜中和道に、
「学会のほうでは、あれは猊下が会長さんに、ハッキリ『いいよ』と許可を出したと言っているんだよね」(同)
などと言っていたが、そのうち、
「その御本尊問題を取り上げて、ガンガンやったほうがいいですよ」(同)
などと、反学会活動家僧らに言い始めた。
結局、
この騒ぎを収めるため 、9月27日、創価学会によって謹刻された8体のうち、
7体の板御本尊が東京・国立の大宣寺に運ばれ、翌28日に大宣寺から大石寺奉安殿に納められた。 大石寺に運ばれた7体の板御本尊は以下のとおりである。
・「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある池田会長への賞与御本尊(細井日達管長書写)
・「大法興隆所願成就」の脇書のある関西本部常住の御本尊(水谷日昇管長書写)
・創価文化会館内・広宣会館の御本尊(細井管長書写
・創価学会会長室の御本尊(細井管長書写)
・創価学会ヨーロッパ本部の御本尊(細井管長書写)
・日蓮正宗アメリカ本部の御本尊(細井管長書写)
・池田会長のお守り御本尊(水谷管長書写)
これら7体の板御本尊が納められたにもかかわらず、その後、この本尊「模刻」問題は創価学会に暗い影を投げかける。創価学会による本尊「模刻」に疑念を持ち、脱会する者たちも多く出た。
昭和49年1月2日 、池田会長は「賞本門事戒壇正本堂建立」の脇書のある御本尊を細井管長より下付された。
1月10日 に
学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。 翌11日 、
総監・早瀬日慈より、 「御本尊に関することは、一応申し上げました」(記録文書より) と返事が来た。 また、
昭和49年9月2日 、大石寺雪山坊でおこなわれた連絡会議においては、創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある第64世・水谷日昇管長書写の御本尊を板御本尊に謹刻することについて、創価学会側より宗門側に申し入れがなされた。
翌3日 、
教学部長・阿部信雄より、創価学会理事長・北条浩宛に、 「一応、申し上げました。猊下ご了承です。後程、お目通りの時、先生からお話がある旨申し上げておきました」(同) との返事があった。 【細井管長は事前に許可していたのに……】 また、反学会活動家僧らは、この御本尊を謹刻する際に、御本尊を写真に撮ったことを問題にしているが、それはこれまでも宗門でおこなわれていたことである。
たとえば、当時、日蓮正宗御用達の仏師であった赤澤朝陽では、堀米日淳管長の時代においては、保田妙本寺の万年救護本尊を写真に撮り、10体の板御本尊を謹刻した。また、細井管長の時代にも日向・定善寺の御本尊を写真に撮り、7体の板御本尊を謹刻している。
一般に紙幅の御本尊を板御本尊に謹刻する場合、紙をそのまま板に貼り付けて彫ると、紙の厚みのため、板に刻まれる文字が細くなる。そのため、板御本尊にする場合は、最初から薄い紙を使用している。近代においては写真に一度撮り、薄い印画紙に焼きつけたものを板の上に貼って彫刻するという方法が取られるようになっていたのである。また、広島県福山市の正教寺の場合、客殿安置の板御本尊が大きすぎたため、細井管長の指示により、1度でき上がった板御本尊を写真に撮り、縮小して彫り直した。
写真を使う以前は、薄い紙に臨書(見ながら模写すること)するか、「籠抜き」といって、御本尊の上に薄い紙をあてがって文字を写し取り、その薄紙を板の上に貼って彫刻する方法もあったという。
ともあれ、細井管長は創価学会がこれらの板御本尊を謹刻することについて、自ら許可していたことを忘失していたと思われる。しかし、それを忘れていた細井管長にしても、
昭和50年1月10日 、庶務部長・藤本栄道に次のように話をしている。
「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない.正月登山の時に、会長から『板御本尊にしました』という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行なわれている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」(庶務部長・藤本が書き止めた「藤本メモ」より一部抜粋)
この「日昇上人御本尊」とは、創価学会本部3階に安置されていた「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことである。
赤澤朝陽の社長であった赤澤猛 は、細井管長から板御本尊謹刻について直接指示を受けた模様を、詳細な書面として残している。
「それは、この本部師弟会館の御本尊様の御謹刻の依頼を受けてとりかかったかどうかという頃ですから、
昭和49年の11月頃 と思います。何かの仕事のことで、日達上人にお目通りしたときのことです。私は、仕事柄、猊下にはしばしばお目通りしておりますので、正確な日付は、ちょっとわかりません。日達上人は私と会うときは、ことが御本尊様の話になるときは、たとえ高僧でも他の人はさがらせますので、このときも大奥の対面所で2人きりの面談でした。
そのときの本来の用件が済んで、日達上人は立ち上がって部屋を出て行こうとされたのですが、思い出したように私のそばに来られて、『そういえば、学会本部の御本尊は赤澤で彫っているんだよね』とおっしゃったのです。私が、『そうです。池田先生が猊下様に申し上げたと言われておりましたが、お聞きになっていませんか』と申し上げますと、『いや、池田会長から聞いているよ』と言われました。さらに日達上人は、『ほかのもやっているね』と言われましたので、私は、『はい、やっております』とお答えしました。日達上人は、『そうか。あと5、6体やらせてもらいたいと言っていたな』と言われて、部屋を出て行かれました。
この日のやり取りは以上ですが、これからわかるとおり、日達上人は、学会本部が師弟会館の御本尊やその他の御本尊を私のところで御謹刻していることは、すべて御承知でありましたし、今後さらに5、6体の御本尊を御謹刻することも御了解されていました」(「陳述書」より)
赤澤はすでにこの時、細井管長の決裁を受けた「賞与御本尊」の謹刻を終え、創価学会本部3階の師弟会館に安置された「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の本尊の謹刻にあたっていたのだから、「あと5、6体」ということになれば、細井管長が創価学会に対し自ら裁可したと認識していた謹刻御本尊の数は、全部で7、8体であったことがわかる。
【僧俗和合のため、反論しなかった創価学会】 ところが昭和53年になると、細井管長は反学会活動家僧の雰囲気に押され始めた。
昭和53年6月29日 に全国教師指導会がおこなわれたが、この時、細井管長は以下のように発言する。
「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった。しかし、あとで了解をして、こちらも承認したのだから、そういうことをつついて、お互いに喧嘩をしないように」(『蓮華』昭和53年7月号)
この「知らなかった」という細井管長の言い分は、前記したように、昭和49年1月と9月の連絡会議で創価学会側からなされた板御本尊謹刻の申請を自ら事前に承諾したという事実に反する。また、板御本尊を彫った日蓮正宗御用達の仏師・赤澤朝陽社長であった赤澤猛の証言にも反する。
創価学会は僧俗和合の大義、そして当時の宗内を広く覆っていた「法主に反論することは謗法」といった宗教的禁忌観の故に、
「それらの板御本尊の謹刻については、細井管長の許可を得ていた」
とは言えなかった。
細井管長が忘却したのか、意図的であった のかは別にして、許可したことを法主℃ゥらが明言しない状況では、創価学会側はそれが事実であったとしても、板御本尊の謹刻が管長によって事前に許可されたものだったと反論できなかったのである。
反論すれば僧俗の対立は決定的になるし、細井管長が事実に反してでも「許可していない」と言い張れば、当時の状況では創価学会からの脱会者はとどまることがなかっただろう。繰り返すが、当時の創価学会員の多くは、法主≠「唯授一人血脈相承」の体現者と信じていた。また、宗門を外護する立場にある創価学会が、細井管長の権威を失墜させるわけにもいかなかった。
とはいえ、細井管長にしても、この本尊「模刻」問題がこれ以上深刻化し、
創価学会側より事前承諾の経過が公表されれば、退座によって引責するしかなくなる 。
そこで、事前承諾の有無には言及せず、
細井管長が現状を追認する御指南 を出すことにより、決着が図られることとなった。
「今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった」(昭和53年9月3日付『聖教新聞』)
しかし、こうした政治的決着が通用するような反学会活動家僧たちではなかった。
9月14日 、
大分県別府市の寿福寺において、創価学会の原田稔副会長、野崎勲青年部長、原島嵩教学部長と、反学会活動家僧である佐々木秀明、渡辺広済、山口法興、荻原昭謙、丸岡文乗、菅野憲道らとで話し合いがもたれた。この時佐々木は、細井管長から口止めされている本尊「模刻」問題について、学会側を詰問した。 佐々木はこの会談の後、浜中和道に次のように電話をしている。
「1つだけ大事なことを教えてやるよ。原島が認めたぞ。『御本尊を何体、作った?』と聞いたら、ブルブル震え出して『8体です』って正直に答えたぞ。じゃ、詳しくはまたな」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
この佐々木からの電話を受け、浜中は山崎に電話を入れた。
「『今、佐々木さんから聞いたんだけど、学会は8体も御本尊を作っていたんだって。原島さんが認めたって言ってたよ。これじゃ、御前さんがなんと言っても大問題になるよ』
すると山崎氏は、含み笑いするような声で、
『知ってるよ。僕が原島にそう言えって言ったんだから。坊さんのほうから出た話じゃ、猊下も怒るかもしれないけど、原島がしゃべったんだったら、猊下も怒りようがないでしょう。これで安心して坊さんたちもガンガンと学会を攻めれるよ。野崎たちも泡くっていたけど、あとの祭りだよ。ハッ、ハッ、ハッ』
と、笑いながら話した」(同)
細井管長の政治的決着を、玉≠握った山崎がひっくり返した瞬間である。8体の板御本尊の「模刻」という大事件≠ヘ、反学会活動家僧の口から口を経て、たちまちのうちに全国に広がった。もはや政治的決着≠ネどで収まる状況ではなくなった。現状を追認する政治的決着では、細井管長が反学会活動家僧らから突き上げられ、批判の対象とされてしまう。創価学会側も実は事前承認だった≠ニ言えない立場である以上、燎原の火の如く広がるデマに反論する術はなかった。
【事実に反する御本尊「模刻」】 山崎はさらにもう一手≠打ってきた。創価学会本部3階安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊以外の7体を、創価学会側から本山に納めさせるという調停案≠ナある。
この調停案≠ノは、細井管長の娘婿である東京国立・大宣寺の住職・菅野慈雲も1枚噛んでいた。先述したように、7体の板御本尊は大宣寺を経て、大石寺奉安殿に移された。これにより、7体の板御本尊を創価学会が勝手に「模刻」したかのような状況が作られてしまったのである。
しかし、事実はそれを覆している。ここで、参考のため、「法主&s許可で模刻」とされた8体の板御本尊について述べておく。
関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和50年10月20日 、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下11名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌21日の『聖教新聞』に報じられている。 本部3階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和50年10月23日 、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌24日付の『聖教新聞』に報じられている。 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和50年11月17日 、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長32回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。 昭和52年11月9日 には、学会創立47周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他6名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌10日付の『聖教新聞』で報じられた。 宗門側は、創価学会が御本尊を板御本尊として謹刻したことについて、知らないどころか、
『聖教新聞』で報じられたものだけでも4体の板御本尊について入仏式 をおこない、
創価学会本部にある3体については、細井管長自らが礼拝 していた。にもかかわらず、入仏法要が公然と報道された3体(うち2体は細井管長自身が拝んだ)を含めた7体の板御本尊を、大石寺に納入するよう創価学会側に命じたのである。ただし、「3体」の入仏式というのも、公に報じられた記録にのみ基づくものである。
これは、どのような事実を示すのか。『聖教新聞』に報道されていない他の4体の板御本尊もまた、報道された3体と同様、正当に謹刻されたものであることを示している。なぜなら「謹刻」の許可が出ていないことが明白であるなら、それだけを棄却させればいいのである。この7体の板御本尊の大石寺への返却はあくまで、創価学会が涙を呑んでおこなった外護≠フ行為であった。
創価学会側が細井管長の許可なく板御本尊に謹刻することなど、当時の信仰観からしてあり得ず、日蓮正宗御用達の仏師である赤澤朝陽が勝手に謹刻することもまたあり得ないことである。
細井管長自身が拝んだ3体の板御本尊のうち、本部3階の板御本尊については、「許可した覚えがない」と言いながらもそのまま安置を認め、「賞与御本尊」と広宣会館安置の2体の板御本尊については、大石寺に返納させた。この事実は法主≠ェ自らのメンツを守るために、事実過程を無視し、御本尊をご都合主義的に取り扱ったことを示している。
なお、細井管長は
昭和50年10月12日 に池田会長と話し合った際、
「謹刻した御本尊については、僧侶2、3人で拝むようにしてください。それで結構です」(記録文書より) と述べていた。それらのことからして、創価学会が御本尊を勝手に「模刻」し、あたかも別の本尊を作り出したかのように言う反学会活動家僧らの主張は、まったく事実に反するものである。
【山崎が細井管長を指南】 だが、創価学会は僧俗和合のために、細井管長と山崎との間で作り上げられた「決着」のレールの上を走らざるを得なかった。不本意なことではあったが、創価学会には7体の板御本尊を大石寺に納めるしか、道は残されていなかったのである。それのみが反学会活動家僧らを鎮める方法であり、細井管長の権威≠保つ手立てであった。
昭和53年11月7日 、池田会長以下創価学会員2千名が、大石寺大客殿において、細井管長以下6百余名の僧侶に対し直接頭を下げる「お詫び登山」をすることになった。この時、創価学会を代表して「反省」の弁を辻武寿副会長が述べたが、本来なら「模刻」の問題は解決済みのことであり、細井管長も
6月29日 に、「つつくな」と言っていた。
10月3日 には、以下のような宗務院の「院達」も出されていた。
「@9月28日、学会模刻の板本尊は本山に奉納せられた。
A学会本部安置(3階)の板本尊は猊下の承認。
Bよって、板本尊に関して論議無用」
しかし、
細井管長は反学会活動家僧らから、この「お詫び登山」の際、本尊「模刻」の問題に関して、創価学会側に謝罪をさせてほしいとの強い要望を受けていた 。このため、11月7日に大石寺大客殿において辻副会長が読み上げる原稿には謝罪の言葉が盛られた。その原稿に細井管長は事前に目を通した。その原稿にあった「ご謹刻申し上げた御本尊」との文言に、
細井管長は「不用意に」との一言を加筆 し、「不用意にご謹刻申し上げた御本尊」とした。創価学会側はただそれを呑むしかなかった。この文言は、大石寺大客殿において僧俗代表の前で発表され、翌日には『聖教新聞』にも掲載された。
しかし、これだけ誠意を尽くしても、反学会活動家僧たちはおさまらなかった。それどころかますます創価学会を侮り、
攻撃を仕掛けてきた。細井管長もそれを止める様子すらなかった 。
実はこれに先立ち、山崎は細井管長に対して、「現下の状勢(ママ)について」という文書を渡している。その文書には次のように書かれていた。
「情勢は、宗門側にとって極めて有利に、学会側にとってはことごとく作戦がはずれた形ですゝんでいます。・しかし、学会側がここに来て事態を正視し、思い切った転換を覚悟しつつ、それでもなお池田体制と、これまでの学会の地盤だけは保守しようとする決意を固めてきていますのでいよく重大な段階に差かゝります」(「現下の状勢について」より一部抜粋)
「・具体的には、11月中に、総会、又はこれに近い臨時幹部会で、正式に会長の発言によって収拾する、という方針ですゝんでいます」(同)
「・学会側の根本的なねらいは、第1に、池田体制の実質的温存であり、第2に、組織防衛であり、そのためには何としても路線変更は最小限にくい止めなくてはなりません。従って、今回の学会の作戦の最大のねらいは、何といっても檀家作りという名の組織攻撃をくいとめることです」(同)
「会長の本心は口惜しさと復しゅう心で一杯であります」(同)
「学会側からは、会長を先頭にすさまじい和平工作が展開されると思われる。宗門側としては一貫して政治ではない。信仰である。学会の出方を見て決める。これが最後の機会である。これからの宗門をになうのは若手である。若手が納得する修正をしてもらいたい≠ニいう態度をとりつづける要は、誠意が感じられるかどうかである≠ニの態度も重要である」(同)
「学会側がしかるべき姿勢を11月に示した後(但し、会長退陣はまだ無理と思われる)は、宗門としても、一応和平に応じなくてはならない。但し、檀家作りは、止めない」(同)
山崎はこの文書の他にも、同日、「海外について」との文書を細井管長に渡している。そこには次のように書かれている。
「宗門に、『海外部』を設置すること。海外経験者の僧侶を集め、(現に海外寺院にいる人もふくむ)これを統括する意味で、菅野先生をキャップとして発足する。
これまで海外は別法人≠ニいう名目で宗門は手が出せなかったが、宗務院にはっきりした機関を置き、海外の寺院僧侶を直轄させることによって、海外の諸問題を直接すい上げ、宗門として学会側及び現地法人に発言し対抗できることになる」(「海外について」より一部抜粋)
その目的は、創価学会の海外組織を根こそぎ宗門の直接支配下に置こうとするものであった。(以下省略)
特別財務 (仮題)
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H16.10.16ほか)
昭和50年から 、池田大作は、宗門にも世間にも内緒で、"特別財務" を集めはじめた。 それが、3年足らずで600億円を超える額となり、池田大作は有頂天(うちょうてん)になった。 正本堂の御供養金355億は、建前上、宗門に御供養される性質のものだったから、その使途は制限された(それにもかかわらず、池田大作は、何かと口実を設けて、それを宗門の、自由にさせなかった)。 しかし、特別財務の600億円は、池田創価学会として、全て自由に使える金である。池田大作は、さらに特別財務を800億円集める計画を立て、各地方に割り当て、尻を叩(たた)いていた。
【宗門攻撃の"軍資金"】
昭和50年から始めた"特別財務"は、日蓮正宗と戦争を始めるに当たっての"軍資金 "集めの意図を含んでいた。万一、会員が動揺し、脱会者が出るようになったら、金集めどころではなくなるから、念のため集めておこうというもので、後に、破門される平成3年の直前にも、同様の激しい金集めが行なわれた。
また、全国各地に、会館や研修道場を建てまくったのは、各地の会員が寺に行けなくなった場合を想定して、これに代わる施設 を作る、という意図であった。後に、池田大作は、「仏教史観を語る」(昭和52年1月)で、
「会館は現代の寺院である」
と宣言したが、これは、会員に
「寺には行かなくてよい。会館に来ればよい」
と呼びかけるものであった。
こうして、"代用品"を用意した上で、「寺院封鎖」を行なったのである。
特別財務にはまた、会員から搾(しぼ)れるかぎり搾り取って、会員が日蓮正宗寺院に"御供養"することを防ごう 、とする目的があった。(『慧妙』H16.12.16)
【違法開発】
こうして「日本一の金持ち」気分にひたった池田大作は、日本中、所かまわず土地を買い漁(あさ)り、会館・文化会館を建てた。また、温泉地・観光地の物件を買い漁り、"研修所"という名目で、温泉付き"別荘"を建てた 。 池田大作は傲(おご)り高ぶり、油断しきっていた。 そのため、昭和52年4月 、民社党から国会に提出される質問趣意書の写しが送り付けられた時、 「土地取得や開発行為に違法 がある。宗教施設の名目で、実態は、保養所や池田大作の豪華専用施設 が作られている」 等と指摘されると、一度に肝(きも)を冷やされた。 5月初めから、北條浩理事長を中心に特別プロジェクトチームを組み、公明党議員、弁護士、公認会計士、学会本部建設局及び経理局を動員して、全国の研修所・会館・文化会館その他の取得不動産の総点検が行なわれ、特別財務の集計と使途の総点検が開始された。 驚いたことに、600億円もの集金とそれを使う作業は、池田大作の直接指揮のもと、各地の担当副会長・幹部・建設局が行ない、北條理事長以下首脳は、後から法人上の手続きをとり、形を整えるだけで、実態をほとんど知らなかったのである。私達専門家グループさえ、ツンボ桟敷(さじき)に置かれていた。 そして、調査の結果、恐るべき実態が明らかとなった。 池田大作が、600億円を使って買い漁り、建てまくった不動産と建物は、法と常識を全く無視した、文字どおり"やりたい放題"であったことが判明したのである。 例えば、北海道・根室の"別海研修所"(当時)では、国定公園内の防風保安林を、無断で違法に伐採(ばっさい) していた上、誤って、隣地の町有林を伐採 していた。 大沼・十和田・箱根といった従来からの研修所にも、無許可で、勝手に巨大な石碑を建てたり建物や庭園を造(つく)っていた 。 和歌山県白浜では、温泉ホテルを10億円(当時)かけて買い取っていた。文字どおりのレジャー施設であった。 愛知県渥美半島の渥美研修所は、県が"保養施設専用地域"に地域指定し、払い下げを行なった土地を、公明党議員の働きかけで創価学会が買い入れ、「会員がレジャーを楽しみ保養するための施設を作る」という申請書を提出して建ててしまった。しかも申請書は、創造社の社員が、代表役員である北條浩理事長の印を偽造(三文判を使って)した文書であった。 中でも圧巻なのは、"霧島研修所"だった。 地元の役人を懐柔(かいじゅう)して許可を取り、それを何十倍にも拡大して自然破壊 を実行した。 "人間が通れる遊歩道"が、いつの間にか"自動車道"に化けた。 「九州広布の碑」という巨大な塔を作り、周囲を公園にして、広範囲にわたって山肌を切り崩した。 国立公園内の温泉湧出地である上、活火山帯の中で、あちこち噴煙や蒸気が噴(ふ)き上がり、雨が降ると一夜で地形が変わるという土地に、危険を承知で乱開発を行なっていた。 乱開発は、池田大作が"創価学会の本山を作る"と意気込んでいた八王子地区でも、大々的に行なわれた。 池田大作は、後に講演の中で 「環境を破壊する者は人類の敵である」 と言っているが、自らに"人類の敵"のレッテルを貼(は)ったのである。 さらに、これら会館や研修所には、池田大作の、贅(ぜい)を尽くした"専用施設"が軒並み作られた。 その実態については、これまで多く語られているので、ここでは省略する。 こうした"違法行為""違法開発"を隠ぺいするための"原状回復作業"が、その後2年にわたって突貫作業で行なわれた。 建造物は壊され、あるいは地下に埋められた。 専用施設には「恩師記念室」の看板を掲(かか)げ、豪華な調度品はあちこちに分散して隠し、かわりに牧口・戸田会長らの模造品の遺品を形ばかり並べた。 これらの作業は、マスコミに漏(も)れないよう、極秘裏に行なわれた。 その一方で、民社党に対し、国会質問は止めてくれと、必死で働きかけた。 切り札は"学会票"だった。 民社党候補に対し、学会票を貢(みつ)ぎ物に差し出す。ということで、何とか国会質問はくい止めた。"公民選挙協力"は、この時から 始まった。
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〈小川(元学会広報部副部長)〉 私は、池田の「仏法史観を語る」の中の、1つの重要なキーワードである、維摩詰を譬えにした"在家も供養を受けられる "という指導に絡んで、特別財務の担当を命じられました。それで、今、考えるとたいへん申し訳ないことをしたと思うんですが、とてつもない金額を集めたんですよ。
それは、前年までとは打って変わった異常なまでの集め方で、私は大分と熊本を担当したんですが、福島源次郎さん(当時副会長、学会本部長)に「小川君、ちょっと熊本へ行ってくれ」と言われて行ってみたら、県幹部以下みんな冴(さ)えない顔をしている。なぜだろうと思って聞き出してみると、支部ごとに相当な割り当てがきている、というんです。
それじやダメだ、ということで福島さんにかけ合い、全権を委任してもらって、あくまでも"御供養の精神で"ということを前面に押し立てていったんです。
〈小多仁(元学会本部職員)〉 私は学会本部の連絡局に親しくしていた人間がいたものですから、よく出入りしていたんですが、その当時、運絡局には凄(すさ)まじい数の苦情が入っていて、当時の局長が「上田の奴はどうしようもないな。こんなことをしていたら組織が潰(つぶ)れるぞ!」と怒り心頭だった。
というのは、上田雅一が第2東京の特別財務の指揮官をしていて、そのやり方が荒っぽかったんです。"あの支部ではこれだけいった""この支部ではこれだけになった"と、どんどん煽(あお)るんです。だから苦情が多くて当然なんですが、それだけやるものだから、第2東京はズバ抜けて数字がよかったんです。
それで上田が池田大作からお褒(ほ)めの言葉をいただいた。すると、あれだけ怒り心頭だった連絡局長が沈黙してしまいましたよ。
もっとも、上田は池田とツーカーだったから、むしろ、池田が上田を通して組織全体を煽っていた、とも考えられますが。
〈小川〉 私も、組織全体に向けては"御供養の精神で"ということを前面に出していきましたが、県幹部に対しては、"(金を)持っている人のところへ行って個人指導し、大口を取ってこい "とハッパをかけましたよ。そうしないと、とてもノルマ を達成できませんでしたから。
言論弾圧問題の後、透明性を高めるということで、創価学会が1度、本部幹部会で学会予算を公表したことがありましたが、その金額は約75億円でした。戸田会長の時代からの手法での金集めは、その程度が限界だったろうと思います。
ところが、この年の特別財務では、大分で15億、熊本で20億、佐賀で9億集めてしまった。3県分で以前の年間予算の半分以上の金額を集めてしまったんですよ。全国ではいったいどれだけの金額が集まったことか――。ことによると1千億の大台に乗ったかも知れません。"御供養"という言葉がいかに絶大な力を持っているかが、よくわかります。
〈小多仁〉 池田は、やはり正本堂御供養に味を占めたんでしょうね。
〈小川〉 そうですね。大客殿の御供養で旨(うま)みに気付き、正本堂御供養で完全に味を占めたのでしょう。なにしろ、31億の目標に対して、フタを開けたら355億も集まってしまったのですから。
(『慧妙』H19.11.1)
栄光会・伸一会
―周到に準備して"作戦"を実行― ―「第2の身延離山だ」と野崎勲― (元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H16.12.16抜粋)
昭和52年に開始された日蓮正宗攻撃は、池田大作が、昭和49年頃から、用意周到に練り上げた計画に基づくものであった。 昭和49年、日達上人は、池田大作の横暴と、日蓮正宗支配を目論(もくろ)んだ「国際センター」の押しつけに対し、もはやこれまでと、いったん創価学会との"絶縁"を決意された。 池田大作は、この時、元妙信講(顕正会)の攻撃や幹部の造反などで足元を揺さぶられていたため、日達上人の前に膝(ひざ)を屈して謝り、何とか関係を修復した。 しかし、それは表面上のことで、内心では、この時の屈辱(くつじょく)をしっかりと根に持ち、 「あとで必ず報復してやる」 と、復讐(ふくしゅう)の炎を燃やし続けていたのである。(中略) しかし表向きは、妙信講(顕正会)対策や、保田妙本寺問題、松本勝彌らによる御供養返還運動や訴訟に対応するため、あくまでも良好な関係を装いながら、"独立戦争"に備えて、準備 をしていたのが、昭和50年から51年の間 であった。 池田大作は、また、宗門の分断を策し、宗務院役僧や内事部役僧達に対し、下にも置かぬもてなしをし、御供養をした。「栄光会 」なるグループを作って、将来、宗門の中心となると見られた若い僧侶達を入れ、池田大作が直接指導しようとした。 一方、学会出身の僧侶や学会シンパの僧侶達のグループ を作り、「池田本仏論」「学会中心論」を吹き込み、いざという時には創価学会に付いて忠義を尽くすよう、徹底して教育した(後に、「栄光会」の僧侶は、宗門僧侶としての信念から"反学会"を鮮明にしたが、後者の中からは、平成3年の創価学会破門後、宗門を離脱して創価学会に養われる道を選ぶ脱落僧が出た )。(中略) 池田大作は、さらに、日蓮正宗攻撃にあたって周到な計画をめぐらせた。 行動部隊として青年部のエリートを集めた"伸一会 "を作り、野崎勲副会長の直属下に置いた。いわゆる"輸送班"等の青年部組織も、正宗攻撃のために訓練した。 昭和51年暮、組織の立て直しが成功して、公明党が総選挙で大勝した後、池田大作は 「いよいよ、宗門をやる」 と宣言、一握りの首脳を集めて作戦を立てた。 その後、野崎勲は、"伸一会"メンバーを集め、 「いよいよ宗門と一戦交える。"第2の身延離山"となることも覚悟して、徹底的にやる」 と宣言し、僧侶に対する"吊るし上げ" を開始したのである。 その際、 「地域の学会組織には絶対知らせるな、親にも女房にも言うな。極秘でやる」 どクギを刺した。 会員達が動揺することや、マスコミに騒がれることを警戒し、極秘裏のうちに、日達上人を追い落として傀儡法主を立て、反学会僧侶を残らず粛清(しゅくせい)して、日蓮正宗を「創価学会典礼部」とし、御法主上人を「創価学会のための御本尊書写係」にしてしまおうと、行動を開始したのである。
「仏教史観を語る」の狙(ねら)い
(原島嵩『妙教』H12?)
さて、昭和52年の1月15日 、関西の戸田記念講堂において、有名な「1.15講演」(『仏教史観を語る』) がなされました。
その趣旨は、第1に在家でも供養が受けられる こと、第2に創価学会が、在家、出家の両義を兼ねる こと、第3に会館が近代の寺院 であること、の3つの内容から成り立っております。この講演が、会内的にも社会的にも、創価教団という一種の独立した在家集団を作る印象を与えたことは事実です。またこの講演がきっかけとなって、総本山や寺院参詣は大幅に縮小され、会館へ会館へと流れができてしまった ことはまぎれもないことであり、広布基金を御供養の名のもとに集める ことになったのですから、その歴史的経過の中にあって、いくら弁明しても、同講演の占める比重は大きいものがあります。
この講演は、創価学会のシンパには評価された面もありますが、その内実は、やはり宗門を敵対視してなされたものです。日達上人の弟子の一人が学会の信仰のあり方を論文で問うたことに対して、池田は烈火のごとく怒り、私たちに、1月15日に「会館は近代の寺院」と発表するから、その原稿を大至急つくれと命じたものだったのです。どんなに表面的には進歩的なポーズをとろうとも、それが真相です。
この講演に対して、日達上人がどれほど悩まれたか、私は後に宗門文書(宗務院と学会の記録文書)で知りました。"日蓮正宗は小さくなってもいい、日蓮正宗だけは純粋に守りたい "ともらされていました。
そのころ、池田大作は、青年部を使って日達上人の弟子方を次々と吊し上げ、詫び状 をとっていったのです。日達上人に対しても"日達上人は婦人に弱い"といって、婦人部のなかで身内に僧侶のいる人を使って問詰させたのです。
また、「1.15講演」から数日後、第4回伸一会(池田の弟子からよりすぐって形成された後継者グルーブ。伸一の名は、池田のペンネーム)において、
「大聖人の場合は人数も少なかった。時代も違う。弟子も少なかった。信者も少ない。そういう意味からいえば楽である。我々の場合には時代は激動である。そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。しかし一代で終わらない。大聖人の場合には一代で一応終えられた。我々の場合にはなおさらズーッと延長、拡大していかなくてはならない 」(内部文書)
と語っているのです。
自分が日蓮大聖人にとって代わり、それ以上の存在として君臨しようとする意図は明白 です。それにしても日蓮大聖人と自分を比較して、「大聖人の場合は楽である」などとよくもぬけぬけと言えたものです。大聖人は、竜の口の法難、佐渡流罪をはじめ、大難の連続であられました。池田が、どんな大難を受けたというのでしょうか。しかも、「一応」とはいうものの、「一代で終えられた」というのは日蓮大聖人の末法万年尽未来際にわたる一切衆生の御化導を否定したものです。また開祖・日興上人の御事跡をもないがしろにするものです。さらには日蓮正宗700年の法水と伝統をも否定するものです。
同年2月16日 、日蓮大聖人御生誕記念勤行会の席上、池田大作は、『日興遺誡置文』(日興上人が後代のために26か条の御遺誡をのこされた)の「一、富十の立義聊かも先師(日蓮大聖人のこと=筆者註)の御弘通に違せざること」等の文を引用して「大聖人直結、御書直結 」を語り、「途中の人師、論師が根本ではない 」と講演しましたが、この原稿も、池田が骨子を私に語り、それをもとにつくったものです。後に、御宗門からの「途中の人師、論師とはだれを指すのですか 」という質問に、私たちは非常に困ったのです。歴代の御法主上人のことではないというわけにもゆかず(実際には歴代御法主上人を指しているのですから)、やむなく「この人師、論師は唯授一人血脈付法の御法主上人猊下の御内証のことではない」として、「の御内証」という言菓を入れてだれを指すのかは明確にしなかったのです。しかし、これは明らかに、後に苦心のすえ御法主上人の立場、言動と、その内証の法水を立て分けたとはいえ、当時は大聖人直結ということで、御法主上人の血脈を否定、もしくは軽視せしめ、どこまでも創価学会を人聖人からの"信心の血脈"を受けついだ主流にすえようとしたことは間違いありません。
[画像] :池田大作の記念講演『仏教史観を語る』について報じる『聖教新聞』(S52.1.17)=昭和52年、池田はまず、創価学会の元旦勤行の場で、続いて『仏教史観を語る』の中で、「僧侶・寺院不要論」「創価学会至上論」を展開し、事実上の独立宣言をした(『慧妙』H17.12.16)
第1回広布会 (仮題)
―昭和52年、総代集め「広布会」開催― ―池田が語った無慙(むざん)な宗門誹謗の数々― (元学会本部職員・小多仁伯『慧妙』H16.7.1〜H16.9.1編集)
(昭和52年1月20日 )"第1回広布会全国集会 "が、関西総合研修所で開催され、以後、全国の方面・県組織、壮年部・婦人部・青年部等へ、創価学会の独立路線を徹底 していった。 この広布会とは、全国の日蓮正宗寺院で総代をしている学会員を対象 に行なわれた会合である。その広布会で池田大作は、御法主上人猊下をはじめ、宗門御僧侶に対する無慚(むざん)きわまりない誹謗(ひぼう)・中傷を、延々と3時間にわたるスピーチによって繰り返したのである。
[画像] :第1回広布会全国集会について報じた『聖教新聞』(S52.1.21)=しかし、池田スピーチの内容は1行も紹介されなかった
[画像] :第1回"広布会全国集会"での池田大作スピーチを全て記録した原稿=その原稿用紙には、「聖教新聞社原稿用紙」と印刷されており、タイトル名は「昭和52年1月20日 広布会 関西・白浜」と記され、表紙の頭に"スミ""重"の文字もあるように、かなり重要な内容であることが分かる。
【独立指向の「広布会としての5項目」】
「第1回広布会全国集会」の中で発表された、根幹となる方針に、「広布会としての5項目」というものがある。池田大作は、これを徹底することにより「創価学会の独立路線」を明確にしたのであった。
<広布会としての5項目>
1.大聖人御遺命の広宣流布の使命に生きよう
2.寺院とは不離不即 を原則に
3.連絡・報告は正確かつ速やかに、本部と直結しよう
4.会員を守るため、責任役員の立場を生かせ
5.僧侶の堕落(だらく)を許すな 、寺の世話役になりさがるな
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この5項目は、秋谷副会長(当時)が発表した。それに際して池田大作は、次のように嘯(うそぶ)く。
◆ほんとうに困ったものだと、恐ろしいと、こわいと、こういうふうに何十年、牧口会とか戸田会とか、大勢、みんな慨嘆(がいたん)していた。ずーと知っているから過去を、あのー過去から現在を。それで、今日、お集まりの皆さん方は信頼できる方々であって、この点もどうか腹に含めていただいて、副会長等々で、いちおう、その、発表はできないけれども、5項目をどうしても言わせてくれと、こういう意味で、いちおう、よろしいですか(ハイ)。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
【池田の宗門誹謗スピーチ】
この"広布会"における池田大作の講演は、過去の講演の中でも突出した宗門攻撃に満ちており、池田の代表的な宗門批判スピーチ として、歴史に残るものになるであろう。 今回、この池田スピーチの原稿が表面化したことで、創価学会の謗法路線が、当時すでに、これほど酷(ひど)いところまで進んでいたことを知り、驚きを禁じえない。 これらの池田スピーチは、その後、御法主上人猊下に対する誹謗(ひぼう)・中傷ヘエスカレートしていき、さらに宗門御僧侶への恫喝(どうかつ)、詫び状攻撃へと転化していったのである。 この時の実行部隊は、野崎勲と原田稔が指揮をとり、創価班全国委員長の竹岡誠治(ヤフーBB事件の実行犯)らが、御僧侶方のスキャンダルの情報収集にあたったり、寺院攻撃などの謀略(ぼうりゃく)を実行していったのである。
◆これは新聞には出しません 。また、なんだかんだ、始まるから。なにがあっても、こちらが大きいしね。信者なもんだから、内外ともに悪くされてしまう。そういうようなことをされないように、うまくやってくださいよ。損しちゃうから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田の腹黒い本性があからさまに出ている内容である。学会員総代たちを"先兵"にして、全国の寺院に揺さぶりをかける意図が明々である。それにしても、"腹に含めておいてくれ"とか"『聖教新聞』には出せない"とか"うまくやってください。損しちゃうから"などという言い草は、悪事を謀(はか)る黒幕のようであり、また、裏社会に暗躍する盗人の親分のようでもある。
◆これは、戸田先生の遺言なんです。いわゆる、寺信心がいけない 、と言ったでしょう。寺信心、あのう、坊主におせじ使ってね、寺信心になってしまうと、もう折伏ができなくなってしまう。幹部の言うことを聞かなくなってしまう。信心が濁(にご)ってきちゃう。広宣流布を忘れちゃう。そこにもう、(寺の)家来になったみたみたいになった場合には、もうその人は浮かばれないよ。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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こうした池田の発言の真意は、寺院に参詣していくと、創価学会の謗法路線がバレバレになってしまうから、どうしても参詣を止めたいのだ。
信仰者が寺院に参詣することは、個人の信仰の発露(はつろ)である。それを、"寺信心"と揶揄(やゆ)し"不離不即"と足枷(あしかせ)する創価学会は、もはや信心を切磋琢磨(せっさたくま)する団体ではなく、会員をマインドコントロールするカルト教団、そのものである。
<広布会の目的>
◆お寺と総代、僧侶と信者との関係をきちっとしておきたい(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
<幹部の進言によって開催>
◆強く、副会長等のお話や県長級のお話やその他、本部の部長級からも再三となく進言がありまして"わかりました"じゃあ、総代の方々にもお集まり願いまして、これからのことをよく協議しながら理想的なものを作ろう(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田は"副会長の誰々が言っている""県長や幹部が言うには""婦人部がこのことで泣いている"等々の言い訳をくりかえしながら、池田自身が「やむをえず、この僧俗一致問題を取り上げた」ように、装うのである。
◆じつは、2、3年来から、もっと前から、もっと延長すれば戸田先生時代から 、この問題、すなわち、お寺との問題 について、いろいろなことがこざいました。私は最大限に、こちら側が悪い、といってどんな報告があっても、学会側の方に非があるとして、私は厳しく抑え、そして、いざこざがないように、最善の努力 をしてまいりました(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田は一方では、青年部に対し、宗門をどんどん追い詰めろ!と檄を飛ばしているのである。"学会側の方に非"とカッコつける池田大作。―ああ!ヘドが出そうだ!―
◆しかし、将来、将来を考えた場合に、私からこういうことは言いたくないけれども、きょうは、何を話してもいいですね。みなさん方を、信頼していいですね。誤解しないでくださいね。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
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池田は"私からこういうことは言いたくないけれども・・・"と言い訳するのが得意だった。
◆これは新聞には出しません。また、なんだかんだ、はじまるから 。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆みなさん方は、信頼できる方々であって、この点もどうか腹に含めていただいて……(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆うまくやってくださいよ。損しちゃうから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆学会のヤツらは、バカばかりだと、こう言っている のです。陰では全部そうですよ。「学会のヤツらは」なんですよ。「バカばかりだから」と、こう言のですから。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆ハタチ前後(注・所化さんのことらしい)のヤツら や、30前後の連中に、ねえ、いいようにばかにされたら・・・(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆東本願寺より(※日蓮正宗の方が)悪い んじゃないかって! (池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆どんなにしたって、最後は、お世辞だけ使ってね、すってんてんになるだけ ですよ。だから法華講が伸びないのです。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆銀行ですね。銀行、なんにもくれないんでしょう。ただ、もっていくだけでしょう、銀行。寺は銀行 だ。(池田大作/第1回広布会S52.1.20)
◆学会の悪口をいっぱい言ったことが、本山に忠誠を作ったことだと言われる 。小さい、小さい。 (池田大作/第1回広布会S52.1.20) これが、広布会の池田スピーチ内容の、ごく一部を記したものである。さらに"広布会"では、激しい、口汚ない誹謗・中傷が繰り返されているのである。池田大作は、学会員「総代」たちに、「法主は権威主義」「僧侶は堕落」というイメージを、どのようにしたら植え込めるか、計算して巧妙に聞く者を誘導しているのである。
僧侶吊し上げ (仮題)
―「伸一会」は52年路線の実働部隊― (『慧妙』H19.11.1)
〈小多仁(元学会本部職員)〉 「妙観会」に対抗する形で結成された「伸一会」が、いわば満を持して動いたのが、いわゆる「52年路線」の時の、宗門御僧侶の吊し上げですよね。 じつは私も、原田と野崎が学会本部に御僧侶を呼びつけ、恫喝 (どうかつ)する現場に立ち会ったことがあるんです。 原田と野崎が「今から見本を示すから、よく見ておけ」というものですから、いったい何が始まるのだろうと思っていたら、となりの部屋で御僧侶を恫喝しはじめたんです。その様子はテープに録音されていて、そのテープを池田大作のところに持って行き、指導を受けるのだと言っていました。つまり、御僧侶の吊し上げは、1から10まで池田の指示で行なわれていたんですよ。 私は御僧侶を罵倒(ばとう)する声を聞いて"なんて莫迦(ばか)なことをやってるんだろう"と思い、後で野崎に食ってかかったことを覚えてますよ。〈小川(元学会広報部副部長)〉 私は御僧侶の吊し上げには関わらなかったので実際のところはよく判りませんが、池田大作は、昭和52年1月15日の関西戸田記念講堂での「仏法史観を語る」という講演を通して、日蓮正宗に宣戦布告しました。 もっとも、その時は誰も、あれが宣戦布告だとは、捉(とら)えていなかったのではないでしょうか。もちろん私も、全くそのようには考えていませんでした。 その後、1月20日 に学会幹部を白浜研修所に集め、池田が原田・野崎に御僧侶吊し上げを命じた のです。
謗法経本作成 (仮題)
―「大聖人門流」失格の化儀改変― (『慧妙』H19.10.1抜粋)
昭和52年、創価学会は三座の御観念文を改変し、ここに牧口・戸田両会長への報恩感謝の一文を挿入しようと企(くわだ)てました。 それをお知りになった日達上人は、「それでは本宗の三宝が改変されてしまう」として阻止され、その上で「両氏の追善供養を全員にさせたいのなら、両氏の追善供養を書いた紙でも経本にはさませて、五座の回向で行なわせたらどうか」と御指南されました。 ところが創価学会は、その御指南に従うかのようにみせながら、創価学会版の経本を作成し、四座の御観念文の間に創価学会の興隆を祈念する文を付け加えたばかりか、五座では牧口・戸田両氏に対して「死身弘法・御報恩謝徳の御為めに」 と、追善供養ならぬ御報恩謝徳の文を加えてしまったのです。 日蓮正宗においては、御歴代上人でないかぎり、たとえ高僧であっても「擬報恩謝徳」という表現に留めていますので、在家信徒に対して「御報恩謝得」などという祈念を行なうことは、増上慢の極(きわ)みであります。 この、御観念文の改変という謗法行為に対し、日達上人は、創価学会版経本の回収を命じ、それと同数の大石寺版勤行要典を創価学会に寄贈されて 「向こう(学会版経本)が謗法だから、それをやめさせて、正しいものを渡した。学会が正宗の要品でないものを使っていたから、それをやめさせて、正しい正宗の経本を与えた」(昭和54年5月29日の御指南の趣意) と、創価学会の経本は謗法である、と断じられたのです。(中略) そもそも、勤行を含めた本宗の化儀は、御歴代上人の権能に収まる事柄であり、時の御法主上人が、正法正義に照らし、時に応じて裁定なさるものです。 それを完全に無視したこの時点で、創価学会は日蓮正宗との完全訣別(けつべつ)の姿勢を明確にしたわけです。
[画像] :謗法経本作成=創価学会が第1次教義逸脱問題を起こしたときに作成した謗法経本
意を決した宗門、学会批判を公然化 (仮題)
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H16.10.16)
日達上人は、(※昭和52年)3月下旬 、"根性"のありそうな僧侶達に決意を打ち明けられた。これらの僧侶達は、御講などで学会批判の口火 を切り、学会幹部達に脱会を働きかけた 。活動はじわじわと拡がり、2月に吊るし上げられた僧侶達をはじめ、若い僧侶達が次々と参加していった。 7月頃、日達上人から、私に直接電話が架かって来る。 「山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始めますよ。」 この頃、若手僧侶が『蓮華』誌上で、公然と創価学会批判の論文を発表 し、それをきっかけに、僧侶達の創価学会批判は、一挙に公然化した。 これに対し、創価学会は、"背腹"から攻撃を受ける形になり、3月までの強気な姿勢を放棄せざるを得なかった。 池田大作は、宗務院役僧を通じて日達上人に 「『前進』を廃刊する (幹部向けの小冊子『前進』で、池田大作は、この誌上で宗門攻撃を続けてきた)。寺院を建立寄進する 。 700遠忌も近いが、創価学会は全面協力する。従来どおり御奉公を続ける から、何とか若手僧侶の創価学会批判を止めさせてほしい」 と泣きついた。 しかし、池田大作は、宗門に対しては、まだタカをくくり、見くびった気持ちがあり、口先でごまかしながら、"創価学会独立路線・永久路線"を推(お)し進めようとしていた。 2月・3月の攻撃で勝ち取った宗門に対する支配力を維持しつつ、口先でごまかし、批判を食い止めようと"アメと鞭(むち)""謝罪と恫喝(どうかつ)"を繰り返した。 しかし、もはや池田大作の権謀術数(けんぼうじゅっすう)は、日達上人にも僧侶達にも通じなくなっていた。 日達上人は、創価学会との訣別も視野に入れた上で、僧侶達の創価学会批判を放任 された。 僧侶達の多くも、 「一度始めたらもう引けない。引いたら後で粛清(しゅくせい)される。誰が何と言っても、たとえ猊下が言われても、もう学会攻撃を止めない」 と腹を決めてかかっていた。
6.30「教学上の基本問題について」の真相
(『慧妙』H18.1.16)
【宗門の質問状で気付いた過ち】 ―池田以下首脳は面従腹背― 〈山崎〉 それにしても、昭和52年から55年にかけては、お互い、辛(つら)い、厳しい毎日でしたね。〈原島〉 そうですね。私にとっては、昭和53年6月19日 に御宗門から創価学会に宛てて「教義違背についての質問状 」が送られ、これに対する回答である同年6月30日 の『聖教新聞』に掲載された「教学上の基本問題について 」の作成を命じられた時が、事の始まりでした。 池田大作が、昭和52年に、宗門に対して横暴極まりない仕打ちをし、御宗門側から反撃を受けたことについては、池田大作が自ら対処すべきだと、私はやや傍観的な気持ちでした。 しかし、御宗門から来た質問状を拝見した時、じつは、創価学会の"謗法化"に、私自身が、いかに大きく関わっていたかに改めて気付き、愕然(がくぜん)としたのです。 池田大作に命じられ、その意を受けて、そうするしかない立場にあったとはいえ、"創価教学"という謗法の体系を作り出すにあたって、私は、じつに大きな働きをしてしまいました。そのことの罪深さを思った時、私は、目の前が暗くなりました。 父が死の直前、池田大作と創価学会の暴走を見ながら、ただ懊悩(おうのう)していた姿が脳裏に浮かびました。 これは、学会として真摯(しんし)に受け止め、率直に対応し、詫(わ)びなくてはならない、と決意しました。そうしなくては学会は滅亡してしまうし、そうすることが、池田大作や学会員が真に救われる道なのだ、と思ったのです。 しかし、池田大作及び、これに迎合する首脳達の考えは違いました。 「宗門からの要求には"従うふり"をして、坊主達をなだめろ 。しかし、学会としては、1歩も退(ひ)くな。特に、会員達には、宗門から咎(とが)められ謝(あやま)った、と受け取られぬよう、うまく対応せよ」 ということを厳命されたのです。 それ以前、昭和52年夏頃から、池田大作は私に 「和戦両用の備えをしておけ。当面、従うフリをしても、いざとなったら、徹底的に戦う。だから、宗門の教学に対する破折を準備しておけ」 と命じ、青年部には、 「坊主のスキャンダルを集めておけ 」 と指示していました。 ですから"いつでも戦えるが、当面は頭を下げるフリをしてやり過ごせ。所詮坊主に何が判るか!"というのが池田大作の本音だったのです。〈山崎〉 それで、あのような、あいまいな内容の回答になったのですね。【日達上人に対し平身低頭した池田】 ―一方では宗門への回答を骨抜きに― 〈山崎〉 池田大作は、御宗門内に「この際、学会とは手を切れ」という強硬意見が高まったのを知り、同年3月に日達上人にお目通りし 「どのようなお叱(しか)りをも、謹んで受け、御指南どおり明確に改めます。ですから、どうか、"手を切る。ことだけはしないでください」 と平伏して泣きつきました。 それで、日達上人は学会と"手を切る"宣言は思い止まられ、代わりに創価学会の教義上の逸脱を糺(ただ)されるため、宗務院に「質問状」をまとめさせ学会に送られたのです。 池田大作は、これに対し、 「『聖教新聞』1面に、それとわかる見出しで、謝罪と訂正を大きく掲載します」 と約束し、そのことを、私から、日達上人にお伝えし、また、当時、学会批判に猛(たけ)り狂っていた"活動家僧侶"達に伝え、説得しました。 それで、日達上人も、僧侶方も、 「それならば、許しましょう」 と見守っていたのです。 ところが、6月30日付の『聖教新聞』では、1面どころか4面に、「教学上の基本問題について」という、訳の分からない、謝罪・訂正とはほど遠い見出しをつけ、しかも内容は、 「僭越(せんえつ)にならないよう注意したい」 「表現自体は避けるようにしたい」 「他意がないことを明らかにしておきたい」 と、あいまいなものでした。 これでは、学会として教義の誤りを訂正する、というような表現ではなく、会員には何が何だかわからないものでした。 その翌日、当時の光久主任理事から電話で、日達上人が 「こりや、いったい何だ。これでは若い僧侶が収まらないかもしれないぞ」 とおっしゃった旨(むね)、伝えられました。〈原島〉 私が作った回答案は、もっと率直に謝り、訂正する内容でした。 それを、秋谷副会長(当時)らが、さらに骨抜きにし、"ツルツルでとっかかりのない"、会員には意味がよくわからない内容に仕上げたのです。 そして、『聖教新聞』での扱いも4面で、会員には"謝罪・訂正"と取られない扱いとなったのです。〈山崎〉 謝罪・訂正を会員に知らせず、ただ御宗門を何とかごまかしてなだめようという、まことに虫の良いその場凌(しの)ぎを目論(もくろ)んだわけですね。〈原島〉 文案と『聖教』での扱いは、 「山友には知らせずにやってしまおう」 ということになりました。山崎さんが知ったら、絶対反対されるとわかっていたからです。【日達上人の御指南で正信に覚醒】 ―真に「学会を守る」決意固める― 〈山崎〉 私は、原島さんや野崎勲らに、日達上人のお言葉を伝え、 「君達は学会をつぶす気か」 と糾問(きゅうもん)しました。 原島さんは、 「申し訳ない。私は、池田先生に"たとえ地獄に行こうと弟子として付いていく"と誓って、弟子第1号になった。その命令には背けない。しかし、何としても池田先生を守りたい。生命に替えてもお守りしたい。君も、池田先生の弟子だろう。一緒にお守りしよう。何とか宗門をなだめてください」 と言いましたね。〈原島〉 ええ。そのとき山崎さんは、じっと私の目を見つめ、 「私も、池田先生と学会を守るつもりで働いている。しかし、私は、日達上人から、昨年2月、 『師匠が地獄に堕(お)ちてもついていく、というのは誤りです。正法をもって諌(いさ)め、師匠を地獄に落とさないようにするのが真の弟子であると、大聖人も仰せられています』 との指南を受けました。そして、 『謗法を犯した池田先生を地獄行きから救うのは、弟子であるあなた達の役目ではないか』 と諭(さと)され、以来、その決意で行動しています。原島さんはどう思いますか」 と切り返しました。 あの時はまいりましたよ。山崎さんから、御法門上の指摘を受けたのは初めてでしたから。〈山崎〉 原島さんは、あの後、私に 「君の言ったことは正しい。これまで私は勇気がなかった。しかしこれからは、信仰の根本に立ち返って、池田先生と学会を真に守る。君も、どうか、猊下の御指南のとおり、学会を救ってください。私も及ばずながら、協力する」 と言いました。 以来、原島さんの姿勢は変わりましたね。〈原島〉 そうですね。しかし、池田大作は、すぐに私の微妙な変化に気付いて、対宗門、対山崎さんの担当から私を遠ざけました。〈山崎〉 一方、野崎勲は 「山崎さんの言うことは正論だ。しかし、これ以上学会に引くように主張したら、私も原島さんも潰(つぶ)される。学会は壊(こわ)れてしまう。いずれにせよ壊れるなら、私は池田先生と心中する。これから私自身は、思い切って方向転換し、"タカ派"になる。心得ていてください」 と言いました。結局、彼は学会中心主義から抜け出せず、会内での保身に走ったのです。一昨年、60歳の若さで死にましたが、すでに学会からは忘れ去られていますね。哀(かな)しいものです。
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【「教義違背についての質問状」】
●私のたてまえとして、今まで学会と仲良くやってきた。今後も、仲良く手を握って広宣流布に向かっていく、ということが良いけれども、それはたてまえとしてはそうでありたい。しかし、私個人の心からいけば、それはどうしても、ちょっとまずいことがあれば、いちいちケンカをしているよりも、いっそ別れて、自分らで、小さくてもいいから、昔みたいに小さくなってもいいからやっていくと、そういう心では思っている。 (第66世日達上人・昭和53年2月22日・第2回時事懇談会の砌)
・このお言葉が懇談会の基調となり、真剣な討議が繰り返された後、昭和53年6月19日 、宗門として、創価学会の教義上の誤りを指摘することになり、文書を学会に送付した。
その内容をみると
T 戸田会長の悟達・創価仏法の原点
U 血脈・途中の人師論師・大聖人直結
V 人間革命は御書
W 帰命・主師親三徳・大導師・久遠の師
X 寺院と会館を混同・寺軽視
Y 謗法容認
Z 供養
[ 僧俗
\ その他
【「教学上の基本問題について」】
・これに対して学会から、これまで逸脱してきた路線を改め、日蓮正宗の教義を遵守する旨の回答を寄せてきた。これが『教学上の基本問題について』と題する文書で、『聖教新聞』紙上で発表されたのが昭和53年6月30日 であったことから「6.30」とも呼ばれている。
[資料] :『教学上の基本問題について』(『聖教新聞』S53.6.30)=52年路線における創価学会よりの回答
●ただ今回の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、だいたい、この線で了解を願いたいと思います。そして今後、あらためて進んでいこうと思います。
また、それが3年先、5年先にどう変わっても、それは我々の責任ではないんだから、皆の考えにおいてどう取っても結構だけれども、最近の問題は、この辺で納めてもらいたいと思います。(第66世日達上人・昭和53年6月29日・教師指導会の砌)
日達上人が学会破折 (仮題)
―妙観会の砌―
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
本日は、第18回妙観会を催しましたところ、寺務の多忙であるにもかかわらず、地方の遠い所から大勢御参集下さり、又総監、教学部長もわざわざ登山して御参集下さいまして、まことに有り難うございます。
最近ことに学会と宗門との間に色々いきさつがございます。決して我々宗門としては、学会をつぶそうとか、学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘して何とか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい 、と思うが故でございます。
なるほど長い間学会は、よく宗門のために尽くして下さいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義が間違い、宗門から逸脱してしまえば、これは何にも役に立ちません。ただそういうふうに間違いを起こしてもらいたくないが故に、ただいまのように色々のことを指摘して、学会を何とかして立て直してもらいたいと思ってやっておるのであります。
若い人達が結束して、結束といえば語弊が有りますが、とにかくそういうような形になって、学会の間違ったことを指摘しているというのは、せっかくの功績を、長い間宗門に尽くした功績を無にさせたくないが故にやっておる のであります。ただおもしろ半分、あるいは自分の檀徒を増やすがために、とやかく言うのではありません。そのことを一般の寺院の方々にも了承していただきたい。又学会の会員、あるいは檀徒になった方、あるいは法華講の人々も、それを了承してもらいたいと思うのであります。
今後も間違ったことが有れば、どんどん指摘します。今でも、色々間違ったことが内事部で分かれば、内事部においてどんどん質問をするというように、盛んにやっております。そうしてこそ、はじめて大聖人の弟子・檀那として、日蓮正宗がもり立っていくのではないか、と私は考えております。
なるほど学会では、「池田会長本仏などということを言った覚えは無い、学会ではそういうことは無い」と、こう言っております。しかしながら考えてみますと、一番初めは昭和50年前後でしたか、『火の国』という小冊子を学会のある一部の人で作った。その本に明らかに「会長が仏様である 」ということを述べておりました。又、もっと古くは、最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておる んです。それを我々は知らなかった。
なぜ知らなかったかというと、あの時分はよく地方のブロックに行って、学会の若い人、あるいは教授になった人、あるいは教授補という人が御書の講義をして歩いております。その内のある地方に行って、こういうことを言っておるんです。これは最近分かったことで、私もびっくりしておるんでございます。
そのことは『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。
その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である 」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。
総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る 」などと言い出してしまう。
あるいは『新池御書』に、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」(全集1440頁)という御文があります。
その解釈に、「これについて700年前は大聖人、現在でいえば会長池田先生」、こう解釈している。「此の経の心をしれる僧」は大聖人、現在においては池田会長 であると言う。それでは結局、池田会長は現在における大聖人ではないか。そういうことを昭和38、9年のころにブロックでやっておったんです。
それを、我々は愚にして知らなかった。まことに残念であります。昭和38、9年のころからもう既に16、7年に及ぶ。その間に積み重ねてきた教義の間違いというものは、一朝一夕に直そうといっても中々できない。だから今この紛争が起きておるんです。これはどうしても、僧侶は腹を決めて、教義の間違ったところをしっかりと指摘し、又自分もしっかりと指導していかなければならない。
それには、僧侶は宗門の宗学をきちんと身に付けていかなければならない。もちろん一般仏教というものをしっかり身につけて、そしてしっかり寺を守り、信徒を指導していかなければならない。昔みたいに、御利益が有るとか無いとか、そんな枝葉のことを言っているのではない。又そういうことで指導しておる僧侶も有るやに聞いておりますが、そんなくだらないことを言ってはいけない。根本の仏教学というものをしっかり身に付けて頂きたい。
昔は仏教学というものは、立正あたりでは中学のときから教えておりました。立正中学では『立正安国論』の講義なんかもやっておりました。もっとも今は大学に行かなければ、そんな講義なんか無いけれども。だから昔の人は一般仏教ということは、はっきり頭に入っていますが、今はそうはいかない。だからこれからでも大学へ行って、そういう講義が有れば、何宗によらず仏教学というものを腹に据えて、そして更に本宗の教学を、その上にきちんと身に付けて頂きたい。
どこまでも、たとえ会長(※池田大作)であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならば、どんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していって頂きたい。いやしくも妙観会に籍を置く者は、その精神でやって頂きたい。ただ上っ面の、けんかをするなとそういうもんではなくして、根本はここに有る、という精神でやって頂きたいと思います。
又、学会が昔よく宗門に尽くしてくれたその恩に報いるためにやるのである。“白烏の恩を黒烏に報ずべし”、まったその通りである。我々はどこまでも正しい法をもって人を導き、人々に教えて、宗門を守っていこうという精神を妙観会の若い人は心に染めて頂きたい。
これからは皆様方の宗門となっていく。どうかそのつもりで更に一層勉強し、一層信心を深めて宗門を守って頂きたい。今回はそれを皆様にお願いして今日の挨拶とします。ありがとうこざいました。
総講頭・池田大作に辞任を勧告
―法華講連合会―
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
昭和54年3月31日 、日蓮正宗法華講連合会緊急理事会において左の如く決議致しました。
決 議
「池田大作氏はその責に耐えないことを自覚し、日蓮正宗法華講総講頭を辞任されるよう勧告致します」
理 由
近年創価学会におきましては、日蓮正宗教義からの逸脱が多くみられ、宗門からの厳しい御指摘により、昨年11月7日全国教師総会(併・創価学会代表幹部会)を日蓮正宗総本山大石寺大講堂において開催し、日蓮正宗教義からの逸脱を詫び、誤りの訂正を約束されました。
法華講連合会におきましても、機関紙『大白法』青年部機関誌『慧燈』及び有志の手による『蓮華87号の正しい読み方資料』等により、貴会の教義上の誤り、歪曲を指摘し、貴会が1日も早く教義上の逸脱を訂正し、立ち直られんことを祈り微力ながらも尽力して参りました。
しかるに、数ヵ月を経過した現在、何ら今日まで教義の誤りの修正を会員に徹底して知らせることもなく、未だに宗門を騒がせ、その収拾がなされない のみか、学会幹部による最近の言動をみるとき、一向に教義上の逸脱に対する反省がなされていない のが現状であるので、このままの状態では謗法であるとみなさざるを得ません。
御法主上人猊下は当日のお言葉の中で「今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をつけて」云云、と仰せられており、御法主上人猊下の御心に添った路線が正しく実現される方向を未だに示さないことは誠に遺憾であります。
如何なる時、如何なる場合においても、御法主上人猊下の御言葉を仏の金言として受け入れていくことが古来日蓮正宗信者の道であります。
御法主上人猊下の御心をないがしろにすることは、もはや信者の道を逸脱していると申せます。この点に大いに眼を向け、心を留め深く思いを致すべきであります。
また、当日貴殿は「これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗門をお騒がせし、また、その収拾にあたっても不本意ながら十分な手を尽せなかったことは、総講頭の立場にある身としてこの席で深くおわびいたします」と発言されておりますが、これまでの誤りは創価学会としての誤りであり、私達法華講員には何等関知しないところであります。
しかるに総講頭として詫びられたことは、その中に私達法華講員も含まれ全く不名誉にして残念至極であり、これ以上私達は池田総講頭の傘下にあることに忍びがたいものがあります。
この際貴殿には、現在に至るも創価学会の体質を変えることのできないことについて十分な責任を感じ、総講頭の責に耐えないことを理解すべきであります。
以上により、法華講連合会理事及び幹事全員の署名により貴殿の総講頭の辞任を勧告致します。
昭和54年3月31日
東京都墨田区吾妻橋1の14番11号
日蓮正宗法華講富士会館
日蓮正宗法華講連合会
委員長 佐藤悦三郎 [印]
理事(北海道地方部長) 田中一雄 [印]
理事(東北地方部長) 大塚万九郎 [印]
理事(東京地方部長) 岩瀬正勝 [印]
理事(東海地方部長) 村松堅二 [印]
理事(中部地方部長) 清水賢 [印]
理事(関西地方部長) 中野功 [印]
理事(四国地方部長) 石井茂 [印]
理事(九州地方部長) 藤野與平 [印]
幹事 小島富五郎 [印]
幹事 松島晃靖 [印]
幹事 平沢幹男 [印]
幹事 渡部俊雄 [印]
幹事 住中信和 [印]
幹事 小山一郎 [印]
幹事 三宅忠雄 [印]
幹事 倉持治子 [印]
幹事 山本正雄 [印]
東京都新宿区信濃町十八
創価学会本部内
日蓮正宗法華講総講頭
池田大作殿
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総講頭辞任勧告に至るいきさつ
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
昭和54年3月31日東京・富士会館において、法華講連合会緊急理事会が全国の理事・幹事参集のもと開催され、別項のように池田大作氏に対し、日蓮正宗法華講総講頭辞任の勧告が佐藤委員長ほか理事・幹事連名のもとなされ、4月1日第444号書留証明郵便物として浅草郵便局より同氏あて発送された。
これは、創価学会が年とともに特に本門戒壇の大御本尊及び血脈付法の御法主上人猊下を軽視する態度が大きくあらわれ、昨年11月7日以後においても一向に学会幹部による教義上の逸脱に対する反省がなされていないのが現状で、このままの状態では、謗法であるとみなさざるを得ないため、池田大作氏には法華講総講頭としてその責に耐えないことを自覚し、総講頭を辞任するよう本人あて勧告したものである。
創価学会の教義の逸脱のきざしは既に昭和38、9年頃から であり(別項妙観会における御言葉)、特にそれが目立って大きくなって来たのは、正本堂完成直後から である。
御法主日達上人猊下は、昭和53年2月9日の時局懇談会において「昭和47年に正本堂が建立せられたその直後から、非常に学会の態度がおかしくなってきた 。大変僧侶も馬鹿にするし、また教義上においても非常に変化が多いように思う。その都度、私も種々な時にそれを指摘して、そういうことはいけない、日蓮正宗の教義と違うと指摘してきたつもりでございます」と仰せられ、それ以前と大変学会内部の指導が違ってきている旨を御指南されているのである。
昭和49年4月には池田会長自身、『大白蓮華』に「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達 にあります」と言い、日蓮正宗と異なる仏法を創価学会が創始し、大聖人の仏法を不要とするかのごとき認識を信徒に与え、また同年5月には『大白蓮華』に福島副会長は小説「人間革命」を通して師への帰命を叫んでいる。
小説「人間革命」には「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである」と。すなわち師への帰命とは、戸田・池田会長に南無し拝ませることであり、創価仏法と言い、帰命と言い、まさに池田会長が人の仏となる のである。
昭和50年6月には、北風九州長は「ひのくに」で「久遠の師池田会長」と言っており、これは池田会長即大聖人ということになる。
このように一連の発言が創価学会々長および幹部によってなされているが、御法主上人猊下は昭和49年4月法華講連合会春季総登山会において「末法万年、尽未来際まで大聖人様の南無妙法蓮華経は、慈悲のために垂れ給うたのであります。ゆえに大聖人は末法尽未来際に至るまでの、久遠の仏様であります。それが我々の、日蓮正宗の教義であります。最近ある所では、新しい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません」と仰せられ、「大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらばこれは大変なことである」と仰せられている。
特に昭和52年の元旦の会長あいさつ及び52年1月16日会長講演の「仏教史観を語る」 の指導こそは、大々的に創価路線を引き始めたと言える。
すなわち「会館こそ現代の寺院」「在家の身であっても供養を受けられるという思想がある」「現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている」とし、特に血脈相承について「血脈相承といえばよく既成宗教などにみられるように、神秘的に高僧から高僧へ、深遠甚深の儀式を踏まえて流れるものであると思われがちであります。……大聖人の仏法の本義はそんなところにあるのではない。我が己心の厳粛な信心のなかにこそあるといわれでいる」と歴代御法主上人猊下の唯授一人血脈相承を暗に否定している、そしてもはや「御本尊は全部同じである 」とまで断言しているのである。
このような戒壇の大御本尊を軽視する考えは、上田副会長をして「登山は一生に一度でよい 」とまで暴言を言わしむるに至っている。
以上は考えてみるまでもなく、謗法容認と断ぜざるを得ない。日蓮正宗は、700年来謗法厳誡を守ってきた。
御法主上人猊下は、「『願兼於業』ということがあるから、自分は謗法してもいいんだ、進んで謗法してもいいんだ、責任は自分にある。とんでもないことですね。『若し此の経を信ぜずして毀謗せば乃至其の人阿鼻獄に入らん』と、謗法ということは、正法の人の、正しい人の成仏の種か断ずることである。仏種を断ずることになる」と仰せられて謗法を厳誡し、正法流布に邁進することを願われている。
私達日蓮正宗法華講員は、本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人猊下を根本とする態度を貫くことこそ、謗法厳誡に徹するものということができるのである。
このような創価学会の教義の逸脱に対し、宗内の青年御僧侶は全国的に立ち上がりをみせた結果、学会からの退会者相次ぎ、創価学会も徐々に後退せざるを得なくなり、53年6月30日聖教新聞の第4面に「教学上の基本問題について」と題して、宗門からの教義の誤りについての質問に対する解答が掲載されたのである。
しかし、その解答はいずれも極めて消極的で会長自身がその非を認めることはなかった。
遂に同年11月7日、創価学会創立48周年記念として代表幹部会が総本山において催され、池田会長をして「これまで、いろいろな問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、また、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身としてこの席で、深くおわびいたします」と言うまでに至ったのである。
御法主上人猊下は当日のお言葉の中で「今日、私が申し上げたことを、ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で、これまでのさわぎについてはすべて此処に終止符をうけて云云」と仰せられており、学会の誤りが正しく修正され、かつ、末端会員まで徹底され、正しく正信に目覚めるということを前提として、これまでのさわぎに終止符をつけることを仰せられたものである。
しかるに数ヵ月を経過した現在に至るも、何ら今までの教義の誤りの修正を会員に徹底して知らせることもなく、むしろ学会幹部の最近の言動をみるとき、一向に教義上の逸脱に対する反省がなされていないのが現状である。従って、このままの状態では、正に謗法であるとみなさざるを得ないのである。
また、総講頭が謝罪したといっても、創価学会の体質が従来通りである限り、私達法華講員としては、これまでの誤りは反省なきものとして創価学会の誤りとして認めるほかはなく、むしろ何ら関知せざる私達法華講員としては不名誉にして残念至極であり、これ以上池田総講の傘下にあることに忍びがたいものがある。
この際池田総講頭には、現在に至るも創価学会の体質を変えることのできないことについて十分な責任を感じ、総講頭の責に耐えないことを理解し、速やかに総講頭を辞任すべく、かくて前述のごとく3月31日の緊急理事会において総講頭辞任の勧告に及んだのである。
日達上人御指南
日達上人御指南
―日達上人は、学会を讃歎しつつも、厳しく指導されていた!―
(『慧妙』H14.5.16他)
【学会の邪説】
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平成2年暮、日蓮正宗は、突如、池田総講頭を罷免(ひめん)し、狂ったように学会の処分に乗り出した。そして平成3年には、ついに、仏意仏勅の団体である創価学会を破門にした。
これは、日顕(上人)が、会員からも慕われ、世界からも高い評価を得ている池田センセーに嫉妬(しっと)したことから起こったことである。
池田センセーに間違いがなかったことは歴代猊下がお認めであり、とくに、御先師日達上人は、創価学会ならびに池田センセーに深い理解を示され、多くの讃嘆の言葉を残されている。
この一事を見ても、学会の正しさがわかる。
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【破折】
創価学会は、平成3年の学会問題勃発以来、「日顕(上人)は悪い猊下、日達猊下は良い猊下だった 」などと言いふらし、何もわからない学会員を欺(あざむ)き続けてきた。
しかし、学会の誤りは御先師日達上人の御代においてすでに存在し、日達上人からも厳しく叱られていたのである。 以下、学会の誤りを破した日達上人のお言葉を紹介し、もって学会の言い掛かりを粉砕するものである。
<池田本仏論>
●最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません。そういう間違った教義を説く人があるならば、法華講の人は身をもってくい止めていただきたい。これが法華講の使命と心得ていただきたい。 (法華講連合会春季総登山お目通り・昭和49年4月25日/『慧妙』H14.5.16)
●だれそれが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。 なるほど、もし、だれそれが仏であるというならば、それは、我々は皆な全部仏であります。 それは理の上からそういうことになります。しかし、我々の宗教として信心するところの仏ではない。 たしかに凡夫が体の仏であるということは、御書にはっきり書いてあります。その体の仏をもって、どこまでも仏だと言いふらしていくならば、たいへん間違ったことになります。やはり末法の仏は、宗祖大聖人以外にはないのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
●(九州の創価学会が出している『火の国』という新聞に)「人への帰命」ということを書いている。それに、「現在における人への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また池田会長が大聖人の御書を寸分たがわず身に移し実践されていることから、必然的に考えてもそうなるのである 」ということが書かれています。ちょっと今信心してない人が考えたならば、なるほどな、と感心するかもわかりません。しかし、これは本宗の教義とは大変間違っている。(富士学林研究科開講式・昭和50年6月27日/『慧妙』H14.5.16)
●「池田会長に法衣を着せれは即大聖人様だ 」などと言う僧侶がいる。私はびっくりしました。先日、北海道の信者さんから手紙が来ました。その人は札幌の僧侶ではないけれども、このような僧侶がいます。まったく情けないではないか。さらに「自分は、会長が袈裟・衣を着たらそのまま大聖人であるから、もしも学会と宗門が手を切ったならば、私は学会の方に付きます 」と言明しているそうです。まったく私は情けないと思います。今ここにいる人は、心当たりがあるのかないのか知らないけれども、そういう人がいるから日蓮正宗の教義がおかしくなってくるのであります。(昭和53年8月30日/『慧妙』H14.5.16)
●たとえば”仏とは生命なり ”と、さっとやってしまう。なるほどな、と思うかもしれない。しかし、そう簡単なものではないですね。「心仏及衆生 是三無差別」といって、仏も衆生も心も、この3つは離すことのできない無差別のものであると、『華厳経』にすでに説いております。それをあっさり、仏とは生命なりとやってしまうと、たいへん分かりやすいような、結局、最後は分からない、ということになってしまうのであります。(『大日蓮』昭和53年11月号/『慧妙』H14.5.16)
●なるほど学会では、「池田会長本仏などということを言った覚えは無い、学会ではそういうことは無い」と、こう言っております。しかしながら考えてみますと、一番初めは昭和50年前後でしたか、『火の国』という小冊子を学会のある一部の人で作った。その本に明らかに「会長が仏様である 」ということを述べておりました。又、もっと古くは、最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておる んです。それを我々は知らなかった。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
●『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。 その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である 」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。 総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る 」などと言い出してしまう。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
●『新池御書』に、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」(全集1440頁)という御文があります。 その解釈に、「これにつけて700年前は大聖人、現在でいえば会長池田先生」、こう解釈している。「此の経の心をしれる僧」は大聖人、現在においては池田会長 であると言う。それでは結局、池田会長は現在における大聖人ではないか。そういうことを昭和38、9年のころにブロックでやっておったんです。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
<血脈相伝>
●だから相伝によって、皆、諸君は師匠から教わり、先輩から教わってきておる。そのとおり身につけて、学んでゆくということがもっとも大切なのである。自分勝手な解釈で、御書を読んでもいろいろ解釈できる場合がある。 (『大日蓮』昭和49年10月号/『慧妙』H14.5.16)
●「御抄を心肝に染め極理を師伝」 すべきことは、二祖日興上人の御遺訓である。仏法を学び、大聖人の御書をよく拝することはできても、極理を師伝しなければ、とかく異義を構え異説に走りやすい ので、大いに心に戒めなければならない。(『蓮華』昭和51年1月号/『慧妙』H14.5.16)
●和歌山県のある地方では「御本尊さえあればよいんだ。血脈なんかいらないんだ 」と言って、一生懸命に説明して歩いている人がいるそうです。これはどういう考えでしょう。「御本尊さえ」という御本尊様は誰が認(したた)めるんです。当宗では、血脈なくして御本尊様を書写し奉ることはできない。 もし、血脈などいらないというのならば、身延の人が書いた本尊でもよい、誰が書いてもよいではないか。 思い起こせば、小樽問答の時に、身延のある僧侶が「御本尊なんか誰が書いたっていいんだ」と平然として口走っておった。私はびっくりしました。この人は何ということを言うのだと。それでは、東本願寺や西本願寺の管長に御本尊を書いてもらって、ありがたく拝めるのか。御本尊様とはそんなものではないです。(第17回妙観会・昭和53年3月31日)
●「御本尊様だけあればよいんだ。血脈などどうでもよい 」などと言うような信者ができてきたとするならば、非常に残念であります。 どうか諸君は、一生懸命に大聖人の仏法を守ってください。日蓮正宗の真義を、本当の教義をどこまでも守り、いかなる邪魔者があろうとも、たとえ信者が無くなっても、自分一人になっても日蓮正宗の教義を守る覚悟でいていただきたい。 (『蓮華』昭和53年4月号/『慧妙』H14.5.16)
●さてそこで、もう一歩深く考えて、その信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるか、ということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人の御当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の血脈は流れないであります。 大聖人は『一代聖教大意』に、 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」 (御書92、全集398頁)と申されております。また日寛上人は、「口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな」 と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります。(『大日蓮』昭和53年9月号/『慧妙』H14.5.16)
●『曾谷殿御返事』に、 「是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。」 (御書1039、全集1055頁) これは誰でもよく引用する御文であります。その解釈に、「総とは一往は血脈相承なり。再往は池田会長で、信心の大師匠である 」と、こういう解釈をしておる。(中略)総別二義の意義ということは、そんなところに持っていくもんじゃない。「一往」だとか「再往」だとかという言葉を使って、我々のいう仏教用語をうまく利用して、とにかく「一往は血脈相承」だという。なんで「総が血脈相承」か、おかしくてしようがない。また「再往は池田会長で、信心の大師匠」だという。そういうところから「池田会長が血脈相承を承けている。学会に血脈がある 」などと言い出してしまう。(第18回妙観会・昭和54年3月31日/『慧妙』H14.5.16)
<僧侶不要論>
●在家が、自分らが勉強し、自分らが折伏することをもって「和合僧である」 と宣伝しております。大いに我々は考えなければなりません。(中略) そして「僧侶はいらない 」ということは、「自分らが僧侶である」ということで、結局、同じことになる。今、我々出家しておる僧侶がいらないと、廃止すれば、次の和合僧団の僧侶ができることになってしまう。何も変わりはない。ただ現実を破壊せんがために、これを言うのである。 (第16回寺族同心会大会・昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●それは現在の出家の世間にいう僧は必要ない、という根本の精神があるがゆえであります。もしそうならば、大変なことになる。寺院もいらない。そういう思想は世間的には大いに宣伝されるかもしれませんけれども、一歩退いて本当に考えるときには、それは成り立つでしょうか。 また、大聖人の御書は信徒が対象であると、だから信徒が大聖人の仏法の中心をなすべきものであるという説 があります。なるほど、大聖人は人々を教化せられておるのである。仏が教化するところに信徒に向かって法を説くのはあたりまえであります。 その説は、僧侶はいらないという根本の考えがあるということ、根本の底に針があるということを、思い致さなければなりません。 大聖人の御書に、ただ信徒だけが対象であるということをもし言うならば、それは大聖人滅後、5人の連中が唱えた説となってしまうのであります。(昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●昨年の暮、お寺の丑寅勤行へは行くな 、という指令が出た。その時の指導方法を知っていますか。ある寺では、その本堂の御本尊様の前に立って幹部が「こんな所ヘノコノコ来たって何の役にも立たない 」、と言った。 諸君はどういう考えでしょう、それを聞いて平気でいる人があるでしょうか。何のために御本尊を信心し、お題目を唱えている。 その御本尊の前に立って、「こんな所にノコノコ来ても何の役にも立たない」と言ったのですよ。私はそれを聞いて、非常に憤慨に耐えない。(『蓮華』昭和49年6月号/『慧妙』H14.5.16)
●信徒が、もし僧侶を、慢の心をもってばかにし、あえて、僧侶を亡き者にしようとする心 がもしあるならば、それは信徒としての道を誤り、世の中を守り栄えさせていくという道を誤ってしまう、ということになるのであります。(『蓮華』昭和49年7月号/『慧妙』H14.5.16)
●僧侶を悪く宣伝 するのは、実にもあれ、不実にもあれ、正法の人を謗るということは、やはり謗法の人となるのであります。(『大日蓮』昭和49年9月号/『慧妙』H14.5.16)
●今日の人が、わからないで「お寺に行くから悪い 」とか「お寺信心 」などと悪口を言うのは、むしろその人たちは、仏法を馬鹿にした謗法の行為、と考えてさしつかえないのでございます。いかなる人が、どういう理屈を言おうとも、正しい仏教を勧め正しい御本尊を拝している人の悪口を言うことは、もっとも悪いことであり、謗法でございます。(昭和53年11月23日/『慧妙』H14.5.16)
<52年路線>
●日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。 皆さまの今の時に、もし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるのであります。(富士学林研究科開講式S49.6.18/『慧妙』H14.5.16)
●戸田(城聖=2代会長)さんも亡くなり、大化城もでき大客殿もでき、昭和47年に正本堂が建立せられた。その直後から非常に学会の態度がおかしくなってきた。 たいへん僧侶も馬鹿にするし、また教義上においても非常に変化が多いように思う。そのつど、私も種々な時にそれを指摘して、「そういうことはいけない、日蓮正宗の教義と違う」と、指摘してきたつもりでございます。(第1回時事懇談会・昭和53年2月9日/『慧妙』H14.5.16)
<破邪顕正>
●法華講はどこまでも、法華講の道を保ち、本山ならびに自分の寺院と運命を共にする信心を堅く持って頂きたいことを、今日はこの席でお願いする次第でこざいます。(『蓮華』昭和49年5月号/『慧妙』H14.5.16)
●もし日蓮正宗の御本尊を拝するならは、日蓮正宗の教義に従って、信心していかなければならない のであります。その信心を進めていくのが僧侶としての役目である。諸君の教師としての役目であります。 もし、それに反することを聞いたならば、どこまでもこれを破折して、日蓮正宗の信徒を養成していかなければならない。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
●この肝心の、大聖人の御当体であらせられる本門戒壇の大御本尊をないがしろにして、さきほどの『一生成仏抄』の講義のごとく、「自分自身の中に御本尊があるから、深く信心を発していくということは、我が生命の御本尊を涌現していくことである 」というならば、それは身延の日蓮宗で言うごとく、自分自身の中に本尊があるから、自分は自分を拝めはよいということになる。そんなことが、本宗の教義でありうるでしょうか。 また、禅宗では「見性成仏」ということをいいます。すなわちこれは、禅の修行によって、自分の内心に仏性のあることを悟るということであります。もし、我々の中にある御本尊を涌現させるというならば、これは禅宗と同じことになってしまう。また、身延の日蓮宗と同じことになってしまうのであります。こういう考えの教学は、我が日蓮正宗においては、大いに慎まなければならないことであります。(昭和53年8月26日/『慧妙』H14.5.16)
●けっして我々宗門としては、学会をつぶそうとか、学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして 、長い間において学会が、宗門の法義の上においで間違ってきてしまった。それを指摘して、なんとか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい、と思うが故でございます。なるほど、長い間、学会はよく宗門のために尽くしてくださいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義を間違えて宗門から逸脱してしまえば、これは何も役に立ちません。 (中略)それを、我々は愚にして知らなかった。まことに残念であります。昭和38、9年のころからもう既に16、7年に及ぶ。その間に積み重ねてきた教義の間違い というものは、一朝一夕に直そうといっても中々できない。だから今この紛争が起きておるんです。これはどうしても、僧侶は腹を決めて、教義の間違ったところをしっかりと指摘し、又自分もしっかりと指導していかなければならない。(第18回妙観会・昭和54年3月31日『大白法』S54.4.3号外)
●どこまでも、たとえ会長であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならばどんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していっていただきたい。(『蓮華』昭和54年4月号/『慧妙』H14.5.16)
妙観会の砌 (S54.3.31)
(『大白法』S54.4.3号外/<妙音>WS)
本日は、第18回妙観会を催しましたところ、寺務の多忙であるにもかかわらず、地方の遠い所から大勢御参集下さり、又総監、教学部長もわざわざ登山して御参集下さいまして、まことに有り難うございます。
最近ことに学会と宗門との間に色々いきさつがございます。決して我々宗門としては、学会をつぶそうとか、学会をどうこうしようという、そういう心でやっておるのではなくして、長い間において学会が、宗門の法義の上において間違ってきてしまった、それを指摘して何とか直して、昔の純粋なる信心のもとに立ち直ってもらいたい 、と思うが故でございます。
なるほど長い間学会は、よく宗門のために尽くして下さいました。その功績は大きいのであります。しかし、功績が大きいからといって、教義が間違い、宗門から逸脱してしまえば、これは何にも役に立ちません。ただそういうふうに間違いを起こしてもらいたくないが故に、ただいまのように色々のことを指摘して、学会を何とかして立て直してもらいたいと思ってやっておるのであります。
若い人達が結束して、結束といえば語弊が有りますが、とにかくそういうような形になって、学会の間違ったことを指摘しているというのは、せっかくの功績を、長い間宗門に尽くした功績を無にさせたくないが故にやっておる のであります。ただおもしろ半分、あるいは自分の檀徒を増やすがために、とやかく言うのではありません。そのことを一般の寺院の方々にも了承していただきたい。又学会の会員、あるいは檀徒になった方、あるいは法華講の人々も、それを了承してもらいたいと思うのであります。
今後も間違ったことが有れば、どんどん指摘します。今でも、色々間違ったことが内事部で分かれば、内事部においてどんどん質問をするというように、盛んにやっております。そうしてこそ、はじめて大聖人の弟子・檀那として、日蓮正宗がもり立っていくのではないか、と私は考えております。
なるほど学会では、「池田会長本仏などということを言った覚えは無い、学会ではそういうことは無い」と、こう言っております。しかしながら考えてみますと、一番初めは昭和50年前後でしたか、『火の国』という小冊子を学会のある一部の人で作った。その本に明らかに「会長が仏様である 」ということを述べておりました。又、もっと古くは、最近分かったのですけれども、既に昭和38、9年ごろから「会長が仏だ」という話は出ておる んです。それを我々は知らなかった。
なぜ知らなかったかというと、あの時分はよく地方のブロックに行って、学会の若い人、あるいは教授になった人、あるいは教授補という人が御書の講義をして歩いております。その内のある地方に行って、こういうことを言っておるんです。これは最近分かったことで、私もびっくりしておるんでございます。
そのことは『曽谷殿御返事』に「是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」(全集1055頁)これはだれでもよく引用する御文であります。
その解釈に、「総とは一往血脈相承なり、再往は池田会長で、信心の大師匠である 」と、こういう解釈をしておる。それはもう昭和38、9年のことです。こんなことを我々は少しも知らない。そのような地方のブロックヘ、若い人が教授と称して行って、こういうことを一生懸命に言って、会員の頭に入れてしまった。
総別二義の意義ということは、そんなところにもっていくもんじゃない。一往だとか再往だとかという言葉を使って、我々の言う仏教用語をうまく利用して、とにかく一往は血脈相承だと言う。何で総が血脈相承か、おかしくてしようがない。又「再往は池田会長で、信心の大師匠」だと言う。そういうところから、「池田会長が血脈相承を承(う)けている。学会に血脈が有る 」などと言い出してしまう。
あるいは『新池御書』に、「何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし」(全集1440頁)という御文があります。
その解釈に、「これについて700年前は大聖人、現在でいえば会長池田先生」、こう解釈している。「此の経の心をしれる僧」は大聖人、現在においては池田会長 であると言う。それでは結局、池田会長は現在における大聖人ではないか。そういうことを昭和38、9年のころにブロックでやっておったんです。
それを、我々は愚にして知らなかった。まことに残念であります。昭和38、9年のころからもう既に16、7年に及ぶ。その間に積み重ねてきた教義の間違いというものは、一朝一夕に直そうといっても中々できない。だから今この紛争が起きておるんです。これはどうしても、僧侶は腹を決めて、教義の間違ったところをしっかりと指摘し、又自分もしっかりと指導していかなければならない。
それには、僧侶は宗門の宗学をきちんと身に付けていかなければならない。もちろん一般仏教というものをしっかり身につけて、そしてしっかり寺を守り、信徒を指導していかなければならない。昔みたいに、御利益が有るとか無いとか、そんな枝葉のことを言っているのではない。又そういうことで指導しておる僧侶も有るやに聞いておりますが、そんなくだらないことを言ってはいけない。根本の仏教学というものをしっかり身に付けて頂きたい。
昔は仏教学というものは、立正あたりでは中学のときから教えておりました。立正中学では『立正安国論』の講義なんかもやっておりました。もっとも今は大学に行かなければ、そんな講義なんか無いけれども。だから昔の人は一般仏教ということは、はっきり頭に入っていますが、今はそうはいかない。だからこれからでも大学へ行って、そういう講義が有れば、何宗によらず仏教学というものを腹に据えて、そして更に本宗の教学を、その上にきちんと身に付けて頂きたい。
どこまでも、たとえ会長(※池田大作)であろうが副会長であろうが、間違ったことを言ったならば、どんどん指摘していかなければ、これからは日蓮正宗の僧侶ではない、ということを覚悟していって頂きたい。いやしくも妙観会に籍を置く者は、その精神でやって頂きたい。ただ上っ面の、けんかをするなとそういうもんではなくして、根本はここに有る、という精神でやって頂きたいと思います。
又、学会が昔よく宗門に尽くしてくれたその恩に報いるためにやるのである。“白烏の恩を黒烏に報ずべし”、まったその通りである。我々はどこまでも正しい法をもって人を導き、人々に教えて、宗門を守っていこうという精神を妙観会の若い人は心に染めて頂きたい。
これからは皆様方の宗門となっていく。どうかそのつもりで更に一層勉強し、一層信心を深めて宗門を守って頂きたい。今回はそれを皆様にお願いして今日の挨拶とします。ありがとうこざいました。
「山崎・八尋文書」「北條文書」
宗門支配・独立の画策と日達上人の対応
【山崎・八尋文書(昭和49年4月12日付)】
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◆本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて2とおり考えられます。1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない から学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める という方法です。本山管理に介入することは火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは、本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の路線ですすむしかないように思われます。そのための布石としては
<1>本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配
<2>財政面の支配(学会依存度を高める)
<3>渉外面の支配
<4>信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立 等)
<5>墓地、典礼の執行権の移譲
<6>総代による末寺支配
が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり今回のことは<1>、<2>、<3>を確立し 更に<4>まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思いますのでご裁断をあおぐ次第です。
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[画像] :「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)
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●そもそも、この報告書は、池田大作が、「国際センター」「世界会議」の準備のため、南北アメリカに1ヵ月にわたる旅行に出かけた同年3月7日、私に、「帰ってくるまでにまとめておけ!!」と命令したのを受け、帰国の1日前、4月12日に、第1庶務に提出したものである。その後の経緯をみれば、この報告書に記されたとおりの手順で"宗門支配"の謀略(ぼうりゃく)が進められていったことは明らか である。(元学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H15.11.1)
●この「山崎・八尋報告書」というのは、私が主に内容を考え、当時私の部下ともいうべき立場にあった、八尋頼雄氏(現副会長、本部事務局長、池田大作秘書等、枢要〈すうよう〉な地位にあり、私が法学委員会で育成した弁護士です)に整理させ、書かせたものです。筆跡は八尋氏の直筆 です。(元学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.6.1)
【連絡協議会(昭和49年4月30日)】
−僧侶の任命権・海外布教権の譲渡を要求―
・東京・向島にある日蓮正宗寺院・常泉寺で、日蓮正宗と創価学会の連絡協議会が開催された。日蓮正宗側から宗務総監以下の宗務院執行部、そして創価学会からは池田会長以下の首脳が出席 する。創価学会から日蓮正宗側に提示された「連絡会議議題」には、日蓮正宗と創価学会の関係を大きく左右する次のような重大な案件が記載されていた。
◆学会提示の「連絡会議議題」 (昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.日蓮正宗国際センター
2.日蓮正宗インターナショナル
3.ミニスターの件
4.海外寺院の件
5.本山土地の問題
6.正本堂記念資料館、休憩所
7.天母(あんも)山郷土資料館
8.総坊売店拡張計画
9.洗衣(かんね)堂の使用
10.正本堂久遠の灯
11.正本堂手荷物預り所
12.正本堂電気設備関係保守契約
13.妙蓮寺記念碑の件
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このうち問題となったのは、海外布教に関する1〜4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない次のような創価学会側の要求が記載されていたからである。
◆創価学会側の要求事項 (昭和49年4月30日・連絡協議会/『フォーラム21』H15.8.1)
1.(財)日蓮正宗国際センター
7月に発足したい。
役員人事、別紙の通り。
世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存 する書面を頂きたい。
(別紙)財団法人国際センター
会長 池田先生 名誉総裁 日達猊下
理事長 森田一哉 参与 早瀬日慈
専務理事 原田稔 々 藤本栄道
常務理事 細谷昭 々 北條浩
理事 桐村泰二 々 和泉覚
監事 竹内重郎 々 原島嵩
八矢英世 々 持永利之
羽吹栞
森田修平
八尋頼雄
監事 小野康
森謙
2、日蓮正宗インターナショナル
第1回国際会議、来年1月グワム島で開く。事務局をロサンゼルス(エチワンダ)におく。
3.ミニスターの件
原案(書状)提出
日蓮正宗国際センター会長 来年発表してからは、日蓮正宗インターナショナル会長より授与
4、海外寺院の件
サンフランシスコ(西岸山 妙信寺)
シカゴ (大米山 妙行寺)
いずれもコミュニティセンターの一部を以て充当する。 ----------------------- 一読して、日蓮正宗を信徒団体である創価学会の風下に置こうと企図していることが読みとれる。なかんずく1項にある「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存する書面を頂きたい」や、3項の「ミニスター(僧侶)を日蓮正宗インターナショナル会長より授与」とは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味している。
【日達上人とのお目通り(昭和49年5月9日)】
<「日蓮正宗国際」センター>
●(※国際センター構想について)日蓮正宗から切り離してやるならよい。(そうでなければ)海外住職も引き上げる(第66世日達上人・昭和49年5月9日/『フォーラム21』H15.8.1) ----------------------- 5月9日に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。
●先月の中頃(※5月9日?)でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。
その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
日蓮正宗は日蓮正宗として1つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ1つの宗旨である。それを、その上に1つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に1つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。
日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。
どこまでも日蓮正宗は、たとえ小さくてもよろしいから、大聖人の教義を守っていきます。 また、今、皆様方のお陰で大きくなっておるけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか、また、大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)あるかもしれない。だから、私はどこまでも大聖人の仏法を守る、と言って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は、否定といいますか、お断りしたわけでございます。
それから端を発して、そのあと、最近の1年か2年かにわたるところの学会のいろいろな教義の違い、謗法のあり方ということを申し上げました。 で、ついにそのために2人(北條・山崎正友氏)は帰っていきました(第66世日達上人・昭和49年7月27日)
<本山事務機構の支配>
●(学会が)会計を、大石寺の会計を調べる という。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ 、おさらばする、とはっきり言ったのです。
私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だ と。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌)
【北條文書(「本山の件」昭和49年5月10日付)】
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・9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいもの でした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか 、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。
(昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
------------------------------------------------------------ 要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。
【日達上人、学会を破折】
<池田本仏論>
●最近あるところでは、新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。たいへんに間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とはいえません。そういう間違った教義を説く人があるならば、法華講の人は身をもってくい止めていただきたい。これが法華講の使命と心得ていただきたい。 (法華講連合会春季総登山お目通り・昭和49年4月25日/『慧妙』H14.5.16)
●だれそれが仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。 なるほど、もし、だれそれが仏であるというならば、それは、我々は皆な全部仏であります。 それは理の上からそういうことになります。しかし、我々の宗教として信心するところの仏ではない。 たしかに凡夫が体の仏であるということは、御書にはっきり書いてあります。その体の仏をもって、どこまでも仏だと言いふらしていくならば、たいへん間違ったことになります。やはり末法の仏は、宗祖大聖人以外にはないのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
<僧侶不要論>
●在家が、自分らが勉強し、自分らが折伏することをもって「和合僧である」 と宣伝しております。大いに我々は考えなければなりません。(中略) そして「僧侶はいらない 」ということは、「自分らが僧侶である」ということで、結局、同じことになる。今、我々出家しておる僧侶がいらないと、廃止すれば、次の和合僧団の僧侶ができることになってしまう。何も変わりはない。ただ現実を破壊せんがために、これを言うのである。 (第16回寺族同心会大会・昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●それは現在の出家の世間にいう僧は必要ない、という根本の精神があるがゆえであります。もしそうならば、大変なことになる。寺院もいらない。そういう思想は世間的には大いに宣伝されるかもしれませんけれども、一歩退いて本当に考えるときには、それは成り立つでしょうか。 また、大聖人の御書は信徒が対象であると、だから信徒が大聖人の仏法の中心をなすべきものであるという説 があります。なるほど、大聖人は人々を教化せられておるのである。仏が教化するところに信徒に向かって法を説くのはあたりまえであります。 その説は、僧侶はいらないという根本の考えがあるということ、根本の底に針があるということを、思い致さなければなりません。 大聖人の御書に、ただ信徒だけが対象であるということをもし言うならば、それは大聖人滅後、5人の連中が唱えた説となってしまうのであります。(昭和49年5月31日/『慧妙』H14.5.16)
●昨年の暮、お寺の丑寅勤行へは行くな 、という指令が出た。その時の指導方法を知っていますか。ある寺では、その本堂の御本尊様の前に立って幹部が「こんな所ヘノコノコ来たって何の役にも立たない 」、と言った。 諸君はどういう考えでしょう、それを聞いて平気でいる人があるでしょうか。何のために御本尊を信心し、お題目を唱えている。 その御本尊の前に立って、「こんな所にノコノコ来ても何の役にも立たない」と言ったのですよ。私はそれを聞いて、非常に憤慨に耐えない。(『蓮華』昭和49年6月号/『慧妙』H14.5.16)
●信徒が、もし僧侶を、慢の心をもってばかにし、あえて、僧侶を亡き者にしようとする心 がもしあるならば、それは信徒としての道を誤り、世の中を守り栄えさせていくという道を誤ってしまう、ということになるのであります。(『蓮華』昭和49年7月号/『慧妙』H14.5.16)
<52年路線>
●日蓮正宗の教義が、一閻浮提に敷衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。 皆さまの今の時に、もし日蓮正宗の教義でもなく、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、けっして我々は喜ぶべきでもないし、大聖人がお喜びになるとは思いません。むしろ、日蓮正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるのであります。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
<破邪顕正>
●法華講はどこまでも、法華講の道を保ち、本山ならびに自分の寺院と運命を共にする信心を堅く持って頂きたいことを、今日はこの席でお願いする次第でこざいます。(『蓮華』昭和49年5月号/『慧妙』H14.5.16)
●もし日蓮正宗の御本尊を拝するならは、日蓮正宗の教義に従って、信心していかなければならない のであります。その信心を進めていくのが僧侶としての役目である。諸君の教師としての役目であります。 もし、それに反することを聞いたならば、どこまでもこれを破折して、日蓮正宗の信徒を養成していかなければならない。(富士学林研究科開講式・昭和49年6月18日/『慧妙』H14.5.16)
【北條文書(「宗門の件」昭和49年6月18日付)】
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・広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上げることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠(おこた)って、ご判断をあやまらせては、より以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上げます。また、私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜(たまわ)りたく。その上で、私ども、いかなる事なりとも斗う所存です。かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・G(※日達上人を指す)の心理は、一時的なものではない。今こんな発言をしたら、宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。 宗門は完全な派閥で、Gと総監とは主導権争いになっているのではないか。 長期的に見れば、うまくわかれる以外にない と思う。 本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。 戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、Gの異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。 但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。
(昭和49年6月18日・北條浩副会長/『慧妙』H16.9.1)
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この報告書は、「国際センター」により日蓮正宗を支配下に置こうとした池田大作の指示により、私と北條浩氏が日達上人にお目通りし、これを受け容れるよう説得を試みた際、日達上人から厳しくはねつけられたことを逆恨みして、北條氏が池田大作あてに提出したものです。(元顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H20.6.1)
これは、日達上人が創価学会の池田本仏論などの誤りを破折され始めたことに対し、反発した北條・秋谷ら首脳陣が対策を相談し、池田宛に報告したものです。(『慧妙』H16.9.1)
※創価学会員は、「創価学会は日蓮正宗を護ってきた」と信じこまされているが、実際には、御先師の代から日蓮正宗に圧力をかけ続け、時の御法主上人猊下を悩まし続けていたのである。
[動画] :創価学会 離反の真相6=52年路線 日達上人お言葉
「学会の言い訳」破折
―「北條文書」について/『聖教新聞』―
「長期にわたる本山管理の仕掛け 」「海外布教権の確立 」(「山崎・八尋文書」S49.4.12)
↓
「(財)日蓮正宗国際センター」「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存 」「(ミニスターの件については)日蓮正宗インターナショナル会長より授与 」(連絡協議会S49.4.30)
↓
「日蓮正宗から切り離してやるならよい 」「私ははっきり断りました 」(日達上人/S49.5.9のお目通りのこと)
↓
「9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。」「相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか 」(「北條文書」S49.5.10)
↓
「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない 」(「北條文書」S49.6.18)
一連の流れを見れば、「山崎・八尋文書」の「長期にわたる本山管理の仕掛け」「海外布教権の確立」の一環として「(財)日蓮正宗国際センター」があったことは明らか。しかし、学会の野望を見抜かれた日達上人に拒否されたために「日蓮正宗から切り離してやる」ことに変更。これに憤慨した北條が「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」と結論するに至ったのである。
<北條文書>
◆本山の件
・9日の本山お目通り際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいもの でした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。……学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか 、いずれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。 (昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1) ----------------------- 要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。
◆宗門の件
・かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・長期的に見れば、うまくわかれる以外にない と思う。本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。
・戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、G(注=猊下の略)の異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。 (昭和49年6月18日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
<「北條文書」について>
[画像] :「北條副会長(当時)の文書について」(『聖教新聞』)
【問】 最近、昭和49年当時の北條副会長(当時)の文書のことが取りざたされていますが、どういうことなのでしょうか。
【答え】 いわれているところの文書は、49年5月10日付及び同年6月18日付のことだと思われますが、これは北條副会長が、当時の日達上人猊下にお目通りした折りの記録並びにこれに関連した感想等を記したもの です。
ご存知のように、昭和47年10月の正本堂完成を機に、広布の舞台は急速に海外へ広がり、これら海外各国のメンバーに対する種々の援助が必要になってきました。
このため、日蓮正宗創価学会の海外における活動支援のための機関とし、財団法人「日蓮正宗国際センター」の設立の準備が進められておりました。
これらの経過については、その都度、御宗門にはご報告し、49年4月には、資産の寄付書、財団法人の名称に"日蓮正宗"を使用してよい旨の承諾書等もいただいたのであります。
一方、北・南米、欧州、東南アジア等の代表が一堂に会する「世界日蓮正宗会議」の開催の準備も進められておりました。
しかし、宗門の一部に「国際センター」を日蓮正宗と創価学会を包括する上部団体としてつくり、会長がその最高責任者になるのではないかとの誤認識 があり、猊下も北條副会長のお目通りの席上、そのようなお言葉 がありました。
北條副会長も、猊下の思いもよらぬお言葉に驚き、再度ご説明しましたが、その他の問題を含め、ことの成り行き上、感情的になったなかでのお目通りになったようであり、そのことが記述された文書であります。
その後、訪中から帰国した池田会長(当時)は、早速、日達上人猊下にお目通りし「国際センター」等の問題について再度にわたり縷々(るる)ご説明申し上げ、猊下におかれても、全面的に御理解 いただくとともに、8月4日のお目通りでは「国際センターと世界日蓮正宗会議の件はよく分かりました。国際センターの名誉総裁の推戴についても了承しました。グアムの世界平和会議に招待されればまいります」とのお言葉を賜り、翌50年1月26日のグアム島の会議にはご出席されIBL名誉総裁にもお就きいただいたのであります。
したがって、この問題は、49年当時すでに解決 している問題なのであります。
また同文書の中に「分離」うんぬんの論議が述べられておりますが、一時的、感情的な意見であり、もとより学会としての公式な意見、方針ではなく、当時、池田会長からも戒められた ところであります。
この点については、日顕上人にも経過をご説明申し上げるとともに一時的、感情的にせよ、こうした問題があったことについては、お詫び申し上げました。また、今後とも創価学会は永遠に日蓮正宗を外護し、代々の御法主上人猊下に赤誠のご奉公をお誓い申し挙げました。
(『聖教新聞』)
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49年5月10日付及び同年6月18日付のことだと思われますが、これは北條副会長が、当時の日達上人猊下にお目通りした折りの記録並びにこれに関連した感想等を記したものです
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学会として公式に、「北條文書」の存在と内容については認めた のである。
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しかし、宗門の一部に「国際センター」を日蓮正宗と創価学会を包括する上部団体としてつくり、会長がその最高責任者になるのではないかとの 誤認識 があり、猊下も北條副会長のお目通りの席上、そのようなお言葉がありました。
北條副会長も、猊下の思いもよらぬお言葉に驚き、再度ご説明しましたが 、その他の問題を含め、ことの成り行き上、感情的になったなかでのお目通りになったようであり、そのことが記述された文書であります。
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「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会 には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されている。
このうち問題となったのは、海外布教に関する1〜4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない創価学会側の要求が記載されていたからである。中でも「(財)日蓮正宗国際センター」については、「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存 」、ミニスターの件については「日蓮正宗インターナショナル会長より授与 」などと書かれていたのである。これは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味していることは明らかである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白 である。
●先月の中頃でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る 、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。日蓮正宗は日蓮正宗として一つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ一つの宗旨である。それを、その上に一つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に一つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。(第66世日達上人S49.7.27) ----------------------- 国際センターについては、日蓮正宗の上位団体となるか否かが最大のポイントである。その点について日達上人が北條に直接問い質したのである。その結果「創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る」という認識を持たれたのである。話としては単純であり、これを「誤認識」するとはとても考えられない。"死人に口なし"とはよく言ったものである。ただし、学会としては「本山管理の仕掛け」であることを気づかれないように説明したはず。だから、北條らは"のらりくらり"と本心・本質をぼかした曖昧な表現に終始したことは考えられる。
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その後、訪中から帰国した池田会長(当時)は、早速、日達上人猊下にお目通りし「国際センター」等の問題について再度にわたり縷々(るる)ご説明申し上げ、猊下におかれても、全面的に御理解 いただくとともに、8月4日のお目通りでは「国際センターと世界日蓮正宗会議の件はよく分かりました。国際センターの名誉総裁の推戴についても了承しました。グアムの世界平和会議に招待されればまいります」とのお言葉を賜り、翌50年1月26日のグアム島の会議にはご出席されIBL名誉総裁にもお就きいただいたのであります。
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●(※国際センター構想について)日蓮正宗から切り離してやるならよい。(そうでなければ)海外住職も引き上げる (第66世日達上人・昭和49年5月9日/『フォーラム21』H15.8.1) ----------------------- 5(※6?)月9日に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。「全面的に御理解」とは、池田自身が、これまでの主張を"後退"させ「日蓮正宗から切り離してやる」ことに同意した結果であろう。
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同文書の中に「分離」うんぬんの論議が述べられておりますが、一時的、感情的な意見 であり、もとより学会としての公式な意見、方針ではなく、当時、池田会長からも戒められた ところであります。
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「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会 には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されている。
このうち問題となったのは、海外布教に関する1〜4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない創価学会側の要求が記載されていたからである。中でも「(財)日蓮正宗国際センター」については、「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存」、ミニスターの件については「日蓮正宗インターナショナル会長より授与」などと書かれていたのである。これは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味していることは明らかである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白である。
◆先生が前々から見抜いておられた本質 がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません(「北條文書」5月10日付) ----------------------- 「先生が前々から見抜いておられた本質」とあることから、「北條文書」以前から、池田自身が「広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた」(「山崎・八尋文書」)ことが明らかである。このような池田の意向に沿った形で宗門支配は画策されたのである。それを日達上人に阻まれたために「『分離』うんぬん」の発言となったのであろう。
◆まさしく、現代における”人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる (副会長『ひのくに』昭和50年第10号) ----------------------- 福島源次郎元副会長は、このような発言をして問題となり、クビになった。彼は、日蓮正宗の御本尊や、唯授一人の血脈を否定した訳ではない。これに対して北條の「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」という発言は、日蓮正宗の御本尊や法統から離れることを意味するものであり、福島発言以上の、重大な謗法である。それでも池田は彼を処分するどころか、その後も重用 し理事長、更には会長にまでした。このような池田の態度をみる限り、北條の「『分離』うんぬん」の発言が、池田の意向に沿うのもであったことは明らかであろう。
「『地涌』の屁理屈」破折
道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革 ----------------------- 「道路問題、土地問題」は単なる事務処理上の問題。学会による「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)と結ぶつけるのは無理。
提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている ----------------------- 「不採用」となったのは、日達上人がキッパリと拒否したから。「先生が前々から見抜いておられた本質」(「北條文書」)とあるように、宗門支配の画策は、池田の意向に沿ったもの。
「北條文書」などに接しても、宗門外護の姿勢は変えなかった ----------------------- 「北條文書」の以前も以後も、僧侶・寺院を軽視する言動を繰り返していた。
「長期にわたる本山管理の仕掛け 」「海外布教権の確立 」(「山崎・八尋文書」S49.4.12)
↓
「(財)日蓮正宗国際センター」「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存 」「(ミニスターの件については)日蓮正宗インターナショナル会長より授与 」(連絡協議会S49.4.30)
↓
「日蓮正宗から切り離してやるならよい 」「私ははっきり断りました 」(日達上人/S49.5.9のお目通りのこと)
↓
「9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。」「相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか 」(「北條文書」S49.5.10)
↓
「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない 」(「北條文書」S49.6.18)
一連の流れを見れば、「山崎・八尋文書」の「長期にわたる本山管理の仕掛け」「海外布教権の確立」の一環として「(財)日蓮正宗国際センター」があったことは明らか。しかし、学会の野望を見抜かれた日達上人に拒否されたために「日蓮正宗から切り離してやる」ことに変更。これに憤慨した北條が「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」と結論するに至ったのである。
<資料参照>
・『地涌』第337号
・「山崎・八尋文書」 (昭和49年4月12日付)
・「連絡会議議題」 (昭和49年4月30日連絡協議会)
・「北條文書」 (昭和49年5月10日付/昭和49年6月18日付)
<北條文書>
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>この「北條文書」についての創価学会側の立場を理解するには、先師日達上人の発言に触れなければならない。しかしここでは、これを省く。詳細を知りたい人は、「北條文書」全文を読むことが一番だ。
>先に述べた当時の状況、「北條文書」の全文を読めば、日顕一派の解説がいかに事実と反した意図的なものであるか、誰でも納得できるだろう。(『地涌』第337号)
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思わせぶりな言い方をしているが、『地涌』掲載のホームページにも、その他の学会側ホームページにも、「北條文書」の全文は掲載されていないようである。「全文を読むことが一番だ」というのであれば、「しかしここでは、これを省く」などといわずに、積極的に掲載すべきである。それをしないのは、大した内容ではないからであろう(笑)。
<道路問題・土地問題>
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今日の事態に至っても、日蓮正宗の社会的不正や不祥事について、創価学会側はほぼ沈黙を守っている。そのことすらわからず、日顕らは創価学会を誹謗しているのである。だが今号では、時代背景を説明するために、総本山大石寺の「社会的不正・疑惑事件」に触れなければならない。そのことをあらかじめ述べておく。(『地涌』第337号)
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創価学会の社会的不正や不祥事については枚挙に暇がない。とくに組織犯罪や、違法を承知で行う組織の為の犯罪は、創価学会とオウム真理教の"お家芸"であることは周知の事実である。
それはともかく、創価学会が「日蓮正宗の社会的不正や不祥事について」「沈黙を守っている」など、誰が信じるというのか(爆笑)。連日のように、機関紙において無いことまでデッチ上げて宗門を誹謗し、些細なことでも取り上げて訴訟を起す。それが創価学会の宗門に対する行動の実態である。
そのような学会がもし、「北條文書」作成当時の「日蓮正宗の社会的不正や不祥事について」「沈黙を守っている」とするならば、その理由は2つしかない。1つは、その「社会的不正や不祥事」に学会が主体的に関わっている場合である。他の1つは、事実無根か「社会的不正や不祥事」などと騒ぐほどのことではない場合である。
いずれにせよ、当該『地涌』の記事をみる限り、客観的事実については、『地涌』筆者が勝手に書きなぐっているだけで、情報源が具体的に明示されていない。これでは、学会がウソばかり書くといって嫌う週刊誌顔負けの、杜撰な記事というほかない。まったく信憑性に欠けるものである。信じてもらいたければ、情報源を明示すべきであろう。
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>「山崎・八尋文書」の1ページ目から2ページ目に、次のような記述がある。
「今回の道路問題、土地問題は、よほどこたえたとみえて、改革には、本山も覚悟をきめてとりくむつもりのようです。ことに早瀬理事が積極的で、自分は6年間、苦しみながらこの機会を待っていた。今思い切ってやらなければやるときがない。今まで何度云ってもうんといわなかった猊下が、やっと折れたのだから、気の変わらぬうちに、進めたいと思っており、自身で宗教法人法の勉強もしています。宗制宗規、本山規則の改正も辞さないとの考えを述べておりました」
>「山崎・八尋文書」からは、「道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた 。ところが僧侶側は僧俗一致して広宣流布を進めようとの気持ちがなく、僧の権益のみにこだわっていた」(要旨)という当時の状況が浮かび上がってくる。「山崎・八尋文書」は、広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた――そうした時代背景の中で書かれたものだった。(『地涌』第337号)
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「道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた」というが、「道路問題、土地問題」と「長期にわたる本山管理の仕掛け 」(「山崎・八尋文書」)との関係は、はなはだ曖昧である。そもそも、「道路問題、土地問題」は、事務処理上の問題であり、『地涌』の記述が正しければ「弁護士も雇わず、村の司法書士に任せていた」(『地涌』第337号)ために起った問題である。『地涌』自身が「総本山側の法的処理のミス」(同)と指摘しているとおり、故意による悪質な犯罪などではないのである。それならば、顧問弁護士を持てばすむ話ではないか。それがどおして、「本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない 」(「山崎・八尋文書」)「長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める 」(同)などという考えになるというのか。いかに考えても論理に飛躍があるし、信心の上から言えば、明らかな謗法である。
従って「早瀬理事が積極的」だという「改革」についても、「山崎・八尋文書」が指摘するようなもの、即ち、学会が「本山管理」をするようなものではないことが明らかである。
むしろ学会は「道路問題、土地問題」を契機として、「早瀬理事が積極的」という行政上の「改革」に便乗・利用する形で、宗門支配を企てたと考えるのが妥当である。
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だが、この告発騒ぎは、創価学会側が富士宮市に対し公民館を寄付するなどの地元貢献の積極姿勢を示すことでなんとか収まった。同48年7月26日には告発は取り下げられた。告発後、およそ1ヵ月後のことであった。(『地涌』第337号)
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「日達上人は、どのように言い逃れても罪をまぬかれることのできない状況にあった。」(『地涌』第337号)「日蓮正宗はテンヤワンヤの大騒ぎ、地に足のつかないありさまであった。もちろん、創価学会側もこの青天の霹靂ともいえる事件に肝をつぶした。」(同)といいながら、「富士宮市に対し公民館を寄付」することによって「告発は取り下げられた」という。学会が公民館の建設にいくら支払ったかは知らないが「公民館」というからには、大きな建物ではなさそうである。それはともかく、いくらかの金銭を支払っただけで問題が「1ヶ月」で解決してしまうというのだから、この「道路問題、土地問題」、『地涌』が騒ぐほど大した問題ではなかったようである。
しかも、問題となった「富士宮市の市道を無断で占拠し使用」(同)「農地転用の法的処理」(同)について、結局どのような結果となったのかについては一切記述がない。おそらくは、「無断で占拠し使用」していたという「市道」は、改めて市の許可を得て使用することができたのであろう。「農地転用の法的処理」についても、その後に行われたのであろう。
すなわち、これらは全て、"道路使用の申請""農地転用の申請"という事務的処理さえ行っておれば、本来、認められた事柄であって、悪質な違法行為などと呼べるものではなかったことが推測される。
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>ところが、告発騒ぎが収まっても、解決されない大きな謎が残った。総本山大石寺の厳秘である土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのかという謎である。
この当時の日達上人の側近は、反日達上人派の僧侶が当代法主を陥れるために機密漏洩したと最終的に判断したようだ 。広宣流布を考えない僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった。
巻き添えとなった創価学会側は憤懣やるかたないものがあった。膨大な正本堂御供養をしたあげく、創価学会会長が刑事告発をされた。
>創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意 をしたのは無理のないことであった(『地涌』第337号)
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「土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのか」というが、どの土地が誰の所有か、などという情報は、行政側が掌握しているはずであるし、情報自体は簡単に手に入るはずである。また、当然、農地か否かについても、行政側にその情報が存在するものである。「判断したようだ」などと勝手な推測をもとに「僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった」という断定的な結論を導き出すのは、牽強付会の戯論である。
「創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意をしたのは無理のないことであった」というが、「悲壮な決意」をしたというには、この「道路問題、土地問題」、あまりにも些細なことであり、これを宗門支配の動機と結び付けるには「無理」があるようだ(爆笑)
◆先生が前々から見抜いておられた本質 がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません(「北條文書」5月10日付) ----------------------- 「先生が前々から見抜いておられた本質」とあることから、「道路問題、土地問題」以前から、池田自身が「広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた」(「山崎・八尋文書」)ことが明らかである。このような池田自身の意向を北條や山崎氏は知悉していたが故に、偶々起った「道路問題、土地問題」を学会主体の「宗門改革」=「本山管理の仕掛け」に結び付けた報告書を池田に提出したのであろう。
<本山支配の仕掛け>
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総本山側の会計処理、法人事務処理を広宣流布推進の上から親身になって心配し、書類を点検している創価学会側に対し、お金をいくら持っているか調べているのではと邪推するありさまであった。(『地涌』第337号)
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「広宣流布推進の上から親身になって心配」している者が「本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない」(「山崎・八尋文書」)「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」(「北條文書」)などと考えるはずがない。「お金をいくら持っているか調べているのではと邪推」というが、宗門は独立法人として税務処理をしているのだ。それをわざわざ別法人の、しかも信徒団体が大石寺の会計を調べるというのだから、邪推されても仕方あるまい。
「総本山大石寺の法的処理がズサンであったた」(『地涌』第337号)などというが、宗門が税務処理上の問題で、告発・起訴されたなどということは一度もない。むしろ学会こそ、墓苑事業に関わることで脱税事件を起したではないか。それだけでない、共産党委員長宅盗聴事件(裁判所が組織犯罪と認定)や、言論出版妨害事件を組織的に引き起こし、世間から顰蹙を買った。"他人"のことを「親身になって心配」する暇があったら、自己管理を徹底すべきであったのだ(笑)。しかし、共産党委員長宅盗聴事件の資金援助をした責任者が「北條文書」の筆者であってみれば、「自己管理を徹底」させることなど不可能であるが。
●(学会が)会計を、大石寺の会計を調べる という。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには、もし調べさせなければ手を分かつ 、おさらばする、とはっきり言った のです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だ と。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである(第66世日達上人 昭和49年7月27日指導会の砌) ----------------------- 「もし調べさせなければ手を分かつ」これは「北條文書」の内容と一致する。「広宣流布推進の上から」実施したはずの会計調査だというのに、それができなければ、「手を分かつ」というのであるから、まったく本末転倒である。ここに明らかなように、池田学会の目指す広宣流布とは日蓮正宗の法統とは無関係に展開 されているものだったのである。これは、戸田会長の指導や、池田学会が公式に表明していた指針とも相違する。つまり、池田学会による"広布"は、裏と表、本音と建前を巧妙に使い分けて宗門や一般会員を騙して行われてきたのである。そして、学会による"宗門支配"とは、"裏"であり公表できない"本音"のレベルにおける"学会流広布"上の戦略だったのである。
◆本山維持はわれわれの責任であるが、今後の財政を明確にするために、本山当局においては、決算報告書を提示すべきである。(中略)増上慢の講頭が、決算報告書云々といった 時、ついに彼(※戸田城聖)は立ち上がった。その声は怒りに燃えていた。
「出し甲斐があるようにしろとは、いったい何ですか。決算報告があれば、いくらでも金が集まるというのですか。使途不明だから、金を出すのがいやというのですか。700年来、宗門の歴史上、こんなことは聞いたことがない。(中略)御供養は、我々信徒の真心だけです。その他に何もない。
問題は、真心こめて御供養申し上げる−ただそれだけではないか。それを、御僧侶がどうお使いになろうと、我々信徒には関係のないことだ。仮に、その御僧侶が浄財を、とんでもないことに使ったとしても、我々の関知するところではない 。その方に、大聖人のお叱りあるは必定です。御供養はかくあるべきものと、私は思うのです。(戸田会長の言『人間革命』第3巻「結実」) ----------------------- 大石寺の会計調査をしようとした学会は、「決算報告書を提示すべきである」と本山に詰め寄った「増上慢の講頭」以下である。北條は、副会長の身でありながら日達上人について「信心そのものを疑いたくなるほどひどいもの」(「北條文書」)と誹謗しているが、ひどいのは北條の信心である。さらに、このような発言をした北條を処分するどころか、彼を重用し続け理事長、会長にまで取り立てた池田の信心は、もっとひどい。
●戸田先生は「御供養は信者の義務 である。信者は御供養することが、仏様に御供養することがもっとも大切なのである。それを僧侶が何に使うかということは必要ない、もし悪いことに使えば僧侶が罰をうけるのである。信者はご供養することに功徳があるのだ」ということを大きな声でいわれました。(第66世日達上人『大日蓮』S48.10/『慧妙』H15.2.1)
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世界広布推進のために設立されようとしていた「財団法人日蓮正宗国際センター」について、日蓮正宗を包括し下に置くために創価学会側がつくっていると、これまた邪推し設立に反対したのだった。(『地涌』第337号)
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「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されている。
このうち問題となったのは、海外布教に関する1〜4の「議題」だった。というのもそこには、およそ日蓮正宗側が飲めるはずもない創価学会側の要求が記載されていたからである。中でも「(財)日蓮正宗国際センター」については、「世界布教に関する事項は、この国際センター会長である池田会長に依存 」、ミニスターの件については「日蓮正宗インターナショナル会長より授与 」などと書かれていたのである。これは、日蓮正宗の海外布教権や僧侶の任命権を池田会長が掌握するということであり、実質的に創価学会が日蓮正宗を支配、統括することを意味していることは明らかである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白 である。
<池田の責任>
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>まず、知っておかなければならないのは、当時の宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていたということである。だが、このような状況下にあっても、この山崎提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている 。
>山崎正友の創価学会首脳への提案は却下されたのだ 。(『地涌』第337号)
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●先月の中頃でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る 、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました 。日蓮正宗は日蓮正宗として1つの宗教法人である。大聖人様の遺命によって広宣流布を全うしなければならない、ただ1つの宗旨である。それを、その上に1つ、日蓮正宗国際センターというものができるとなれば、正宗としては、その上に1つ、また被宗教法人ができる(ということになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、また御戒壇の大御本尊をお守りしているというのも、今度はできなくなってしまう。その上の宗教法人においてどうとかこうとか言われたらば、こっちもその下につくんだから何ともする事ができなくなる。その意味の上からはっきりと断りました。(第66世日達上人S49.7.27) ----------------------- 6月に北條副会長、山崎正友創価学会顧問弁護士が、日蓮正宗総本山・大石寺に登山し、日達上人にお目通りした際、日達上人は、国際センター問題について、創価学会の姿勢を厳しく批判したのだった。
「不採用」となったのは、日達上人がキッパリと拒否したからである。その証拠に「山崎・八尋文書」が書かれた直後の昭和49年4月30日の連絡協議会には、「山崎・八尋文書」でいうところの「本山管理の仕掛け」と同様の内容が、「連絡会議議題」として学会側から宗門側に対して提示されていたのである。
しかも、この連絡協議会には、池田会長以下の首脳が出席していたのであるから、池田大作の承諾のもとに「本山管理の仕掛け」(「山崎・八尋文書」)の一環として、「(財)日蓮正宗国際センター」等の構想があったことは明白である。
◆まさしく、現代における”人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる (副会長『ひのくに』昭和50年第10号) ----------------------- 福島源次郎元副会長は、このような発言をして問題となり、クビになった。彼は、日蓮正宗の御本尊や、唯授一人の血脈を否定した訳ではない。これに対して北條の「長期的に見れば、うまくわかれる以外にない」という発言は、日蓮正宗の御本尊や法統から離れることを意味するものであり、福島発言以上の、重大な謗法である。それでも池田は彼を処分するどころか、その後も重用 し理事長、更には会長にまでした。このような池田の態度をみる限り、「北條文書」「山崎・八尋文書」が、池田の意向に沿うのもであったことは明らかであろう。
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池田会長は、この「北條文書」などに接しても、宗門外護の姿勢は変えなかった 。このような状況後も、あくまで僧俗和合を進め、日蓮正宗僧侶が自覚を高め、広宣流布への情熱をいっそう確かなものとするよう、腐心されていたのである。(『地涌』第337号)
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◆大聖人が生涯、一寺ももたれなかった ということは、これまでの寺院の権威の座を、たたき破られた のだと私は思う(中略)
寺院が令法久住を忘れて形式や権威に堕せば、大聖人のご精神に反する(中略)
時代の推移とともに、現代は学会の不惜の転教折伏があって、寺院は折伏のうえの儀式の場 といってよい。ともかくわれわれは、社会や不幸の人々のために尽くさなければならない。僧は信徒を守ることが第一義 となろう (池田大作・原島嵩著『御書と四条金吾』=昭和48年頃)
◆儀式だけを行ない、我が身の研鑚もしない、大衆のなかへ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対にない (『大白蓮華』昭和52年3月号25頁)
[画像] :「秋季彼岸法要入場券」=会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれた。
[画像] :「慧光照無量」=塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出す。
★以上のように、池田学会は、「北條文書」の以前も以後も、僧侶・寺院を軽視 する言動を繰り返していたのである。「宗門外護の姿勢は変えなかった」など、まったくの事実誤認である。
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のちに信心がまったく狂ってしまう山崎正友 が、日蓮正宗に「広宣流布という宗教的使命感は感じられず」と記述していることは注目に値する。このとき、すでに山崎は、僧侶たちが自分たちの繁栄しか考えていないと喝破している。(『地涌』第337号)
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『地涌』の主張によれば、当時の山崎氏は正しい信心を有していたことになる。この当時、池田大作も、山崎、八尋両氏を処分するどころか、彼等の主張に沿って連絡協議会に議題を提出していることからして、『地涌』と同様の考えであったのであろう。
しかし、正しい信心をしている者が、「本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない」(「山崎・八尋文書」)などと考えるだろうか。日蓮正宗「本山」の歴代上人にのみ、大聖人の仏法の一切が相伝されているとするのが、宗旨の根本義である。であるならば、本山からの独立を主張することは、正統仏法からの離脱を意味するものであり、血脈断絶を意味することに他ならない。このことは、牧口会長や戸田会長の指導からも明らかである。
◆我々は決して寺を遠のけとは言はない。寺を離れたら原理を失うことになり日蓮正宗でなくなる。是だけが正宗で他はすべて邪宗であります。(『牧口常三郎全集』第10巻145頁)
◆誰がなんと言おうと、誰がどうあろうと、私は総本山に御奉公の誠を尽くし、猊下に忠誠を尽くし 、広宣流布のため、今こそ死身弘法の実践を、この佳き日に誓うものであります(戸田会長の言『人間革命』第3巻「結実」)
◆御本山へ尽くすことはあたりまえのことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない(『戸田城聖全集』第4巻237頁)
◆どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、いささかも変わりわない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ 、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである。(昭和31年1月29日『戸田城聖全集』第3巻236頁)
「北條文書」―『地涌』の屁理屈
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/09/337.html
(『地涌』第337号)
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1991年12月3日
池田名誉会長は僧俗和合をめざし忍耐強い努力をしてきた
その歴史的事実を日蓮正宗全僧侶はいま認めるべきである
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日顕および総監・藤本日潤名で創価学会側に送りつけてきた「創価学会破門通告書」には、次のように書かれた箇所がある。
「創価学会における、たび重なる巨額の金銭不祥事にまつわる社会的不正・疑惑事件は、創価学会自体が、宗教法人としての資質や責任を厳しく問われる、反社会的実態を露呈したものであります。これは、同時に、本宗の社会的信用に著しく傷を付け、広宣流布への大きな障害となっております」
創価学会側の外護によって、これまで守られてきたことも忘れ、ずいぶんと勝手なことを言うものだ。
今日の事態に至っても、日蓮正宗の社会的不正や不祥事について、創価学会側はほぼ沈黙を守っている 。そのことすらわからず、日顕らは創価学会を誹謗しているのである。
だが今号では、時代背景を説明するために、総本山大石寺の「社会的不正・疑惑事件」に触れなければならない。そのことをあらかじめ述べておく。
「創価学会破門通告書」の先に紹介した文につづき、「山崎・八尋文書」(昭和49年4月12日付)、「北条文書」(昭和49年6月18日付)を紹介している。なお、これらの文書は、山崎正友が造反時に、創価学会に独立の下心ありと喧伝し、宗門僧侶を煽るために持ち出したものである。
しかし、
これらの文書が書かれた当時の状況を知れば、このような「山崎・八尋文書」が、なぜ書かれたかが充分、納得できるはずである 。
日顕一派は「創価学会破門通告書」に関する記者会見で、これらの文書を記者に配り、創価学会はかねてから独立の意志があったと主張した。山崎正友の謀略の延長線上で創価学会攻撃をしているのだ。
さて「山崎・八尋文書」の中には、
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて二とおり考えられます。一つは、
本山とはいずれ関係を清算せざるを得ない から、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、
長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固める という方法です。本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります」
などの記述がある。
まず、知っておかなければならないのは、当時の宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていたということである。だが、このような状況下にあっても、
この山崎提案は、池田会長(当時)によってはっきり不採用にされている 。
また「山崎・八尋文書」となっているが、八尋頼雄弁護士は山崎の書いたものを清書したにすぎない。もともとの山崎手書きの原文は、山崎正友の恐喝事件裁判で裁判所に提出されており、八尋弁護士が単に清書役であったことは、公的に確認されている。
繰り返すようだが、この
山崎正友の創価学会首脳への提案は却下されたのだ 。
それでは、この「山崎・八尋文書」は、どのような時代背景で書かれたのだろうか。これを知ることは、先に記した「宗門と創価学会の関係が相当ギクシャクしていた」という表現を理解することでもある。
「山崎・八尋文書」の1ページ目から2ページ目に、次のような記述がある。
「
今回の道路問題、土地問題は、よほどこたえたとみえて、改革には、本山も覚悟をきめてとりくむつもりのようです。ことに早瀬理事が積極的で、自分は6年間、苦しみながらこの機会を待っていた。今思い切ってやらなければやるときがない。今まで何度云ってもうんといわなかった猊下が、やっと折れたのだから、気の変わらぬうちに、進めたいと思っており、自身で宗教法人法の勉強もしています。宗制宗規、本山規則の改正も辞さないとの考えを述べておりました 」
この文で判明することは、「道路問題、土地問題」があり、それを受けて本山の改革が進められようとしていた当時の事情である。それでは、「道路問題、土地問題」とはなにか。それを解説する前に、「山崎・八尋文書」の次の記述を読んでもらいたい。
「要するに、本山と学会と一体不二の体制になって、広宣流布という宗教的使命感は感じられず、むしろ、寺の維持、僧侶という職域の維持ということに徹しているのではないかとの印象を受けます」
のちに信心がまったく狂ってしまう山崎正友 が、日蓮正宗に「広宣流布という宗教的使命感は感じられず」と記述していることは注目に値する。このとき、すでに山崎は、僧侶たちが自分たちの繁栄しか考えていないと喝破している。
山崎正友が後年、宗門と創価学会とを離間することができたのも、日蓮正宗僧侶に対して幻想を持たず、堕落した僧侶の本質を正確に見抜いていたことによるものと思われる。
山崎は、当時、部下の一人に、次のように話していたという。
「日蓮正宗の坊さんは、信徒が勤行したり、教学を研鑚することなど願ってはいない。そんなことをされると坊さんは困るんだ。自分たちだけが御経を読むことができ、教学も独占したいんだ。信徒は知らしむべからず、由らしむべしと考えている。そのほうが、御供養をもらいやすいだろ。坊さんの考えていることは、威張ることと、金だけだよ」
山崎は早くから、今日、宗門問題として噴出している僧の暗部を見抜いていたのである。だが、山崎の勘違いは、そのことをもって信仰そのものをナメてかかったことだ。堕落した僧の本質を見て、それが日蓮大聖人の仏法の本質と思い、勘違いしてしまった。そして、金と女に転落していったのである。
話を戻そう。「山崎・八尋文書」からは、「
道路問題、土地問題を契機に、創価学会が本山改革に乗り出そうとしていた。ところが僧侶側は僧俗一致して広宣流布を進めようとの気持ちがなく、僧の権益のみにこだわっていた 」(要旨)という当時の状況が浮かび上がってくる。
「山崎・八尋文書」は、広宣流布を僧俗一体になって進める気のない日蓮正宗の本質に、創価学会首脳が業を煮やしていた――そうした時代背景の中で書かれたものだった。
それでは、「山崎・八尋文書」にある「道路問題、土地問題」とはなんだろうか。創価学会側が、本山改革をしなければ広宣流布がおぼつかない、とまで思い詰めた問題とはなにか。
前出の2つの文書が書かれた前年の昭和48年6月21日、富士宮市議会の上杉三郎副議長、内藤寛前富士宮市議、渡辺春雄(いま有名になっている富士宮半野地区の法華講員)は、細井日達管長と池田大作創価学会会長を富士宮署に告発した。
告発の内容は、正本堂建設にあたって
富士宮市の市道を無断で占拠し使用 しているということであった。告発状によれば、それは「道路法第99条違反、刑法第235条の2(侵奪罪)」にあたるというのである。
この告発は、『毎日新聞』の静岡版および地元紙に報道された。管長が告発されたのだから
日蓮正宗はテンヤワンヤの大騒ぎ、地に足のつかないありさま であった。もちろん、創価学会側もこの青天の霹靂ともいえる事件に肝をつぶした。
創価学会側にしてみれば、土地や道路の処理は、総本山大石寺が一手におこなっていたので安心しており、まさか、そのような法律違反をやっていようとは夢にも思っていなかった。池田創価学会会長は、
総本山大石寺の法的処理がズサンであったた めに巻き添えで告発されたのである。
考えられないことだが、正本堂建設事業に関するあれだけ広大な土地の処理をするのに、
総本山大石寺は弁護士も雇わず、村の司法書士に任せていた。その司法書士が小手先で違法な処理をしていたのだ 。
ともあれ、大石寺代表役員である日達上人は、どのように言い逃れても罪をまぬかれることのできない状況にあった。創価学会側は、全力をもって宗門を外護するため、なかんずく日達上人を助けるために、総本山大石寺の地元対策に入った。
ところが、地元の実情を調べる過程で大変な事実が判明した。告発の中心者である上杉副議長が、厳秘であるはずの総本山大石寺の土地台帳一式の写しをすべて持っていたのだ。
しかも、
総本山側の法的処理のミス は道路に関することだけでなく、
農地転用の法的処理 でも重大な違法行為をしていたのである。
上杉副議長は土地台帳に基づき、どの土地がどのように違反しているかを詳しく知っていた。上杉副議長らは、市道占拠につづいて農地法違反などでも告訴することすら考えていたという。大石寺代表役員である日達上人は、法的責任をまぬかれる術もなかった。
だが、この告発騒ぎは、
創価学会側が富士宮市に対し公民館を寄付するなどの地元貢献の積極姿勢を示すことでなんとか収まった 。同48年7月26日には告発は取り下げられた。告発後、およそ1ヵ月後のことであった。
ところが、告発騒ぎが収まっても、解決されない大きな謎が残った。総本山大石寺の
厳秘である土地台帳一式の写しが、なぜ流出したのかという謎 である。
この当時の日達上人の側近は、反日達上人派の僧侶が当代法主を陥れるために機密漏洩したと最終的に判断したようだ。広宣流布を考えない僧侶たちの足の引っ張りあいが、告発騒ぎとして外部に噴出したのだった。
巻き添えとなった創価学会側は憤懣やるかたないものがあった。膨大な正本堂御供養をしたあげく、創価学会会長が刑事告発をされた。しかも、その原因は、総本山大石寺による法的手続きの怠慢と無知、そして引き鉄となったのは、広宣流布を忘れた僧侶たちの足の引っ張りあいだった。
日蓮大聖人の御遺命である広宣流布成就のためには、どんなことがあっても宗門改革をしなければならない――そうしなければ広宣流布を推し進める途上で、どのような障魔が出来するかもしれない――創価学会首脳が宗門改革に対し悲壮な決意をしたのは無理のないことであった。
だが、いざ宗門改革を進めようにも、僧侶側は広宣流布よりも自分たちの立場や権益のみを考え、反発するだけだった。そして、時の移ろいとともに、宗門は「道路問題、土地問題」に対する深刻な総括すらも忘れ去ってしまった。
それどころか、
総本山側の会計処理、法人事務処理を広宣流布推進の上から親身になって心配し、書類を点検している創価学会側 に対し、お金をいくら持っているか調べているのではと邪推するありさまであった。
こうした一連の宗門側の対応に創価学会側は心底、落胆し、憤りも感じたようである。そのうえ、
世界広布推進のために設立されようとしていた「財団法人日蓮正宗国際センター」について、日蓮正宗を包括し下に置くために創価学会側がつくっていると、これまた邪推し設立に反対したのだった 。
創価学会首脳は、広宣流布よりも僧の立場や利益ばかり考えている宗門に失望した。「北条文書」は、そのような流れの中で書かれたのである。
「創価学会破門通告書」は、「創価学会首脳が、宗門支配という恐るべき陰謀を企てていたことが、明記されているのであります」と記述し、「北条文書」の次の箇所を引用紹介している。
「長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。(中略)やる時がきたら、徹底的に斗いたいと思います」
そして重ねて、「宗門から独立せんとする謀計が記されております」と強調しているのである。
この「北条文書」についての創価学会側の立場を理解するには、先師日達上人の発言に触れなければならない。しかしここでは、これを省く。詳細を知りたい人は、「北条文書」全文を読むことが一番だ 。
この「北条文書」(6月18日付)に先立ち、5月10日付でも「北条文書」が書かれている。それには宗門について次のように書かれている。
「
先生が前々から見抜いておられた本質 がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえすも残念です。
広宣流布など全く考えていない、自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません」
当時、北条理事長が広宣流布に対する情熱の故に、どれほど宗門に対し義憤を抱いていたかが知れようというものだ。その日蓮大聖人の御遺命達成に向けての熱誠の故に、北条理事長が激して書いたこの「北条文書」をことさらに取り上げ、日顕一派は「宗門から独立せんとする謀計が記されております」と解説しているのだ。
先に述べた当時の状況、
「北条文書」の全文を読めば、日顕一派の解説がいかに事実と反した意図的なものであるか、誰でも納得できる だろう。
なお池田会長は、この「北条文書」などに接しても、
宗門外護の姿勢は変えなかった 。このような状況後も、あくまで僧俗和合を進め、日蓮正宗僧侶が自覚を高め、広宣流布への情熱をいっそう確かなものとするよう、腐心されていたのである。
池田会長の僧俗和合して世界広布に臨もうとの意欲は、翌年(昭和50年)1月26日、グアムにおける第1回世界平和会議の開催、国際仏教者連盟の発足という形で結実した。この世界広布史上記念すべき会合には、日達上人が御臨席され、世界51ヵ国の代表が集い寄った。このとき、池田会長が推挙されSGI会長に就任したのである。
昭和49年当時の宗門側の無理解による宗門と創価学会の軋轢は、池田会長の僧俗和合を希求する粘り強い戦いによって見事に克服されたのであった。この池田会長の僧俗和合を求める姿勢は、昭和52年に発する宗門と創価学会との軋轢修復においても変わらなかった。
日顕一派は、「創価学会破門通告書」に「池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの板御本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」と書いている。
本尊模刻問題については先師日達上人が、「今後は創価学会の板御本尊のことに関しては、一切論議を禁止する」と御指南されている。日顕と藤本は、ここでも先師に敵対しているのだ。
当代法主と総監がウソまでついて池田名誉会長に汚名をかぶせるのであれば、真実の一端を書かなければならない。黙して語らぬことは、天魔の勢いを増し、仏子らを惑わすことになるからだ。だが、多くは語るまい。池田名誉会長の、先師日達上人に対する思いと、能忍の心を損ねることを慮るからである。
日顕および藤本は、池田名誉会長が「板本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております」と決めつけているが、紙幅の御本尊から板本尊をつくったのはほかでもない、日蓮正宗唯一の仏師である「赤澤朝陽」である。
この「赤澤朝陽」には、御謹刻当時、日達上人が直接、電話を入れられ進捗状況まで聞かれている。なにをもって日顕らは「勝手に模刻」したと言っているのだろうか。
なお当時、聖教新聞社の地下で写真を撮って、それを板に貼りつけ創価学会側で彫ったなどといったことが、まことしやかに週刊誌などで報道されたが、一切デタラメである。
このとき、模刻されたという御本尊は、問題にされたあとで総本山に運ばれ、奉安殿に納められている。その事実がなにを物語るか、よくよく考えてみることだ。ニセ本尊であれば、奉安殿に納められることなどない。もっとも、日顕も藤本も事の真相を知っていて、池田名誉会長を讒謗することを平気で書いているのだ。
この「創価学会破門通告書」の「模刻」についての文を見て、宗内のある僧は真実を知る者として、「先師日達上人をかばわれた池田名誉会長の気持ちがわからないのか。情けないことだ」と述べていた。
昭和48年の正本堂にまつわる道路・農地の問題、本尊模刻の問題。これらの諸問題を克服して、まがりなりにも僧俗和合が保たれてきたのは、池田名誉会長の忍耐と衆生済度にかける情熱の故である。日蓮正宗僧侶は、恩讐の壁を乗り越え、この厳粛なる事実を受け入れるべきである。
日蓮正宗の隷属を策謀した池田
―「国際センター」「富士美」を次々手中に―
―包括法人を設立して日蓮正宗をも狙う―
(元創価学会顧問弁護士・山崎正友『慧妙』H15.10.1)
池田大作は、御法主日達上人を大衆の面前で辱(はずかし)めた後、早瀬総監を呼びつけて「13億5千万円は必ず出す」という一筆を書かせた 。
数日後、総本山のプレスセンター応接室に、御僧侶の代表が数億円を持参し、「有志が集めたもの」として、池田大作に差し出した。
同席した私が見ている前で、池田大作はイヤミをいろいろと言った上で「趣旨とはいささか違うが、ひとまずお預かりしておく」と言って収(おさ)めた。
昭和49年 に入ると、池田大作は、「日蓮正宗国際センター」の財団法人化 を進めた。
正本堂御供養金を使って、金に飽(あ)かせて作った千駄ヶ谷の国際センターの土地・建物、そして富士美術館を、池田大作は、財団法人化し、その役員に学会幹部を宛(あ)てることで、手中に収めた のである。
「日蓮正宗国際センター」は、本来は「創価学会国際センター」のはずであった。
だが海外各国では、創価学会に対する拒否反応が強かったので、例えば、"ニチレンショウシュウオブアメリカ"というように、日蓮正宗の海外組織のようにカムフラージュした。その結果、それら諸国の団体をとりまとめる「国際センター」も、「日蓮正宗国際センター」という名称になったのである。
ちなみに、富士美術館は、日達上人が、広宣流布の暁に宗教的には無意味となる、仏像や仏教美術品等を収納し、展示する"垂迹堂(すいじゃくどう)"として、正本堂の脇に建てることにされたのである。
池田大作は、これをも"財団法人化"して乗っ取り、金に飽かせて買い集めたガラクタを収納・展示し、自己宣伝のための道具に用いているのである。
国際センターも富土美術館も、このようにして、正本堂御供養金の中から池田大作がくすね盗ったものである。
池田大作は、"日蓮正宗国際センター"に"日蓮正宗"という名前がついていることを奇貨とし、これを、日蓮正宗支配の手段として用いようと考えた。
そして、「世界日蓮正宗会議」を作り、自らがその総裁ないし議長に収まり“御法主上人は"名誉職"に祭り上げておく。そして、この「世界日蓮正宗会議」の中に、世界各国の団体と共に、日本創価学会のみならず日蓮正宗も加える 、というのが池田大作の構想であった。
つまり、自分が「世界日蓮正宗」のトップに座り、日蓮正宗をもその傘下に置くことで、これを支配下に置こうとしたのである。
「日蓮正宗国際センター」(財団法人)は、それを実質的に支える事務機構であり、かつ、世界各国の法人の財産を支配 することになる。
そして、この"世界会議"ないし"世界センター"に、各国における"聖職者"つまり"海外僧侶"の任免権 を持たせる。
併(あわ)せて、海外寺院も、各国の日蓮正宗法人(実質は創価学会)に帰属 させる。
このようにして、海外を創価学会が完全に掌握(しょうあく)するとともに、海外で任命された"聖職者(僧侶)"を国内に逆輸入することによって、創価学会は、自前の僧侶や寺院をどんどん造れることになる。
このような、恐るべき"陰謀"を内包した「国際センター」及び「世界会議」の具体案の承認を、池田大作は、「世界広布のため」と称して日達上人に強引に迫(せま)った 。
しかし、さすがに日達上人は、池田大作の下心を見抜いておられ、首をタテに振ろうとされなかった。それ故、宗務院も、ただ受け流すばかりでラチが明かない。
業を煮やした池田大作は、北条浩と私に、日達上人との直談判を命じた。
私と北条浩は、5月9日、総本山 に赴(おもむ)き、大奥の対面所で日達上人に承認を迫った。
その際、御法主上人は、はっきりと拒絶され、その理由を明確に述べられた。
「国際センターと日蓮正宗は関係ない。参加しない 。学会が勝手にやられたら良いでしょう」
「誘法の輩(学会員を指す)がいくら増えても仕方がない 。」
けんもほろろに拒絶された御法主上人は、腹をくくっておられたと見えて、さらに続けられた。
「法主という立場で、大衆の面前で(池田から)小僧みたいに怒鳴りつけられては、立場がない 」
「帳簿のつけ合わせと称して、本山の金を調べているが、無いものはない」
「青年部が浅間神社のドブさらいをしているが、潤井川の清掃でもしたらどうか」
「宗門は小さくなっても良い。伝統法義を守ってやって行く 。」
北条浩と私は、這々(ほうほう)の体(てい)で引き下がった(もっとも、日達上人は、私に対しては、"あんたは、本山のためによく尽くしてくれている。しかし、本部の経理の連中がよくない。と言い、一方で北条浩に対しては、"あんたは池田会長の弟子だから、私が怒鳴られているのを見て面白いでしょう。等と突き放された。その後、私が、宗門との交渉役に抜てきされたのは、池田大作がこの話を聞いて、私なら日達上人に受けが良く、話が通じるだろう、と考えたからに他ならない)。
北条浩は、帰りの車中で、憤懣(ふんまん)やるかたない様子であったが、本部に帰って、池田大作宛に報告書を書いた。「北条報告書 」といわれるものがこれである。以下、引用する。
「9日の本山お目通りの際、貌下の発言は大へんひどいものでした。此れが貌下かと疑うほどひどいものでした。反論はその都度しましたが、話のすじはわかっても感情的に思い込んでいるという所があり、広布の上に重大な障警となり、また宗門僧侶の問題の一切の根源がここから出ていると感じました 」
と、まず全般的な感想を述べ、次に日達上人の「問題発言」として4項目を挙げて、コメントを付けている。その上で結論として
「(貌下は)広宣流布などまったく考えていない。自分たちの私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足という風にしか考えられません。学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないのなら、うまく使ってゆくか、徹底的に斗って 学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ先生の最大のご苦心にふれる思いで、決意を固めました。 」
なお、この時の"お目通り"には、当時の、阿部教学部長(現・御法主日顕上人)及び藤本庶務部長(現・総監)が同席され、庶務部長がメモ書きされた記録が、宗門側にも残されている。
それによると、御法主日達上人が、
「アメリカでは、寺もいらない、僧侶もいらないとなってきている」
「日蓮正宗とは別個に、学会として作ればよい」
「正宗は小さいままでけっこうだ」
「教義は、どんなことをしても守らねばならぬ。国際センターのことは、学会だけでやったらよいでしょう」
「謗法が加わるとおさまりがつかなくなる」
等と述べられたことが記録されている。
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