第四十三章 名前
俺がこの世界にやってきた日のことを思い出してみる。
もう遥か昔のようにも感じるが、たったの六日前のことだ。
そもそも俺がこの世界に飛ばされたのは、従妹の真希が、倉庫で見つけたおかしな道具に『俺なんてゲームの世界に行けばいい』と願ったことが原因だった。
故意ではないとはいえ真希にはずいぶんとひどいことをされたと思うが、それはとりあえず脇に置いて、その時のことをもう少し深く思い出して欲しい。
倉庫から見つかった道具は、一つではなかった。
どんな願いでも叶いそうな七つの玉や、三つまで願いを叶えてくれそうな猿の手のミイラ、壊れた電話ボックスに枯れた井戸、そして俺をこの世界に飛ばした打出の小槌。
そしてその他にもう一つだけ、真希がその場所で見つけた物があったのを覚えているだろうか。
そう、それは、一見何の変哲もなく思える細長い紙。
七夕で使う『短冊』である。
願いが叶う品物なんて言われても眉唾物だが、もしあの打出の小槌が本物だったとしたら、他も本当に願いを叶える効果を持っていたというのも考えられなくはない。
真希はあの日、その短冊に『お姫様になりたい』と書いたと話していた。
もちろんその時は何も起こらず、その短冊には特別な力はなかったのだと今の今まで思っていたが、それが単に、時期が来ていなかっただけだったとしたら?
『お姫様になりたい』という彼女の願いが、七夕、つまり7月7日の今日になって、急に叶ったと考えるとどうだろうか。
――真希がこの世界のお姫様、『マキ・エル・リヒト王女』になり、本来の王女だったシェルミアがその座から弾かれて俺の許にまで飛ばされてきた、とは考えられないだろうか。
当然これは恣意的な解釈という奴で、どうして真希がよりにもよってこのゲーム世界のお姫様になったのかとか、王女になるという条件を満たすためにどうして元の王女の立ち位置に取って代わる必要があったのかとか、王女だったシェルミアが消えたり別人になったりせずに、バグった状態で俺の所に飛ばされたのはどうしてかとか、そういう疑問全てに答えが出るような模範解答ではない。
だが、そういう諸々の不自然さを飲み込んでも、それでもある程度支持出来る仮説だと俺は思っている。
7月7日の午前0時近くに事が起こったというのは偶然にしては出来すぎであるし、それ以外にバグったシェルミア王女が俺の所に突然飛ばされてくるような状況は、はっきり言って思いつかないからだ。
「あんた、さっきからぶつぶつと、本当にだいじょぶかい?」
八百屋のおばちゃんにそう声をかけられて、そこで俺はハッと我に返った。
思考に没頭していた意識を、現実世界に浮上させる。
「あ、ああ、すみません。
実は俺、最近この国にやってきたばっかりで、記憶が混乱してたらしくて。
この国の王女は、真希……マキ様でしたよね。
彼女の噂とかはありませんか?」
慌てて取り繕い、今度はそう尋ねてみる。
おばちゃんの俺を見る視線は完全に不審者を見るそれになっていて、全く誤魔化し切れてはいなかったようだが、おばちゃんはそれ以上に噂好きだった。
俺の怪しさなど忘却の彼方にうっちゃって、すぐに王女の噂について話してくれた。
「うーん。いくらあたしでも、マキ王女の話題についてはそんなに聞かないねぇ。
そもそも王族なんて連中は、年がら年中城に引きこもって外には出て来ないからね。
おっと、あたしがこんなことを言っていたなんて、他の人には内緒だよ?」
「あはは、そうですよね。ありがとうございます」
そうやって受け答えをしながら、俺は考える。
もし真希が王女と入れ替わったのだとしたら、それはやはり今朝起こったのだろう。
だって、あのトラブルメイカーが何日も城でおとなしくしているはずがない。
それでも何の噂もないのだとしたら、彼女はここに来たばかりだと考える方が自然だ。
次に気にするべきは、この世界における彼女の立ち位置だろうか。
王女関連のフラグや能力を引き継いでいると考えるべきなのだろうか。
それに、イベントの強制力をどの程度受けるのかも個人的には気になる。
少なくとも俺に限って言えば、プレイヤーの時にあったシステムの干渉をほとんど受けていないように感じる。
『盗賊メリペの遺産』の埋まっている地面をイベントフラグが立っていない時に掘り返したのもそうだし、ゲームであれば観戦モードになって身動きが出来ないはずのイベントの最中でも、この世界では自由に動けた。
元々がゲームのNPCでない真希であれば、俺と同様にイベントの制約をほとんど受けない可能性もあるのだが、どうだろうか。
最悪、記憶や性格なんかもこのゲームの王女と同じにさせられていたとしたら、色々と面倒くさいことになりそうだ。
しかしどの道、真希以外の人間はゲームの時とある程度似通った行動を取るだろうし、そうすると真希と接触するのは非常に難しい。
イベントでしか外に出ない王女が表に出て来る機会は、本当に少ないのだ。
それでも本当に『マキ王女』が俺の知っている真希であるのなら、絶対に会って話をする必要がある。
だが逆に、ゲームの通りに話が進むなら、真希が危険に晒される可能性もごく少ないと言える。
『王都襲撃』イベント以外では、王女に危険が及ぶような状況はなかったはずだ。
時間的な猶予はある、と思っていいだろう。
彼女が元の世界のままの真希で、イベントの制約も受けない身分だといいのだが、どちらにせよ彼女と話が出来るイベントが起こるまでに、出来れば帰還の手がかりくらいつかんでおきたい。
消えたのが俺一人だったら、独り暮らしの大学生がいつの間にかいなくなりました、でそんなに影響はないかもしれないが、流石に真希までこっちの世界に来たとなると話が違ってくる。
ぼっちだった俺とは違って、真希には元の世界に色々とやり残したことがあるだろう。
トラブルを起こしてばっかりのしょうがない従妹ではあるが、せめて彼女だけでも元の世界に戻してやりたい。
「う、ぐ……」
そこまで考えて、嫌なことに思い至ってしまった。
帰還の手段を優先するのなら、また『あいつ』に会うというのがやはり正道だろう。
気は進まないが、こうなったら今からでも……。
(いや、待て待て)
今すぐに行ってもどうしようもないだろう。
何より、俺に相応の実力が伴う前に『あいつ』と行動を共にするのは危険すぎる。
「……ちょっと、落ち着こう」
やることが多すぎて、どうも混乱しているようだ。
まず先に片付けるべきこと、すぐにやれることを考えて、少しずつ処理していかなければ。
「……あ」
そうやって落ち着いて初めて、俺から少し離れた場所で、芯だけになったリンゴを持って所在なさげに立ち尽くす彼女に気付いた。
(何をやってるんだ、俺は)
まず優先すべきは、俺のことでも真希のことでもなく、真希の願いのせいで全てを失ってしまった彼女のことだったはずなのに。
「ええと、シェル……リンゴ」
シェルミアと言いかけて、すぐに言い直す。
少なくとも、俺がそれを教えるまで、彼女はシェルミアではなく、リンゴだ。
「君のことで、色々分かったことがあった。
一度宿に帰って、それを説明したいと思う」
そのリンゴに、俺はそんな風に言葉をかけた。
その時も彼女の目は俺を向いてはいなかったけれど、俺の言葉に応え、ミクロの単位で小さくうなずいていた。
宿に帰ってリンゴと二人で食事を頂いてから、部屋に戻ってリンゴに今回のことを説明することにする。
「こんな、まだ日の高い内から……」
部屋に入っていく俺たちを見て、なぜかアリスちゃんが戦慄の表情を浮かべていたが、聞こえなかったフリをしてリンゴと一緒に部屋に戻った。
「まず、なんで君が記憶を失っているかってことなんだが……」
流石にこの世界がゲームだとか、俺が別の世界から来たとかいう話をすると話がややこしくなりすぎる。
願いを叶えるアイテムなんていうのも、このファンタジー世界でのことにした方が受け入れやすいだろう。
俺は、俺の従妹が願いが叶うと言われているアイテムを使って『お姫様になりたい』と望んだこと。
そしてそれによって、本来のお姫様であったシェルミアが世界から弾き出され、俺の所にやってきた可能性があることなどを説明した。
話を要点だけに絞れば、そんなに語ることは多くはない。
元の彼女について、俺は記憶している限りのことを話して聞かせたが、彼女は特には反応を見せなかった。
流石にその無反応さが不安になってきたので、彼女にも話を振ってみることにした。
「って、ことなんだけど、何か分からないこととか訊きたいこととかはないか?」
そう問い掛けても、俺の言葉を聞いているのかいないのか、彼女は何の反応も見せずにしばらく虚空を見つめるばかりだったのだが、
「……なまえ」
身動き一つしなかった彼女が、やがてぽつりと漏らしたのは、そんな言葉だった。
「名前?」
思わず聞き返すと、彼女はごくごく控えめにうなずいた。
「まだ、聞いてない」
久しぶりに彼女がしゃべってくれたのだが、その内容に俺は首を傾げる。
彼女の本当の名前はシェルミアだと何度も話したはずだが……。
「あ、もしかして、俺の名前か?」
その思い付きを口に出すと、彼女は小さくうなずいた。
そういえば、彼女にまだきちんと名乗っていない気がする。
異常な状態に気を取られていたことも確かだが、これはうっかりしていた。
「悪かったな。俺は、相良……じゃなかった、ソーマ・サガラだ」
「……………」
しかし、俺が名乗っても彼女は特に反応を示さなかった。
聞いたからどうということでもないらしい。
(あ、そういや、名前……)
彼女の元々の名前は『シェルミア・エル・リヒト』。
鑑定紙に映ったのは『*ェ♯*♯・*♭・゛※*』だから、文字数的には正しいことになる。
そして、彼女を元の場所から弾き出した『願いの力』のせめてもの温情なのだろうか。
実は2文字目だけがさりげなく合っている所が心憎いというかなんというか。
そこまで考えて、俺の頭にちょっとした疑問が浮かんだ。
(そういえば、今鑑定紙を使えば前と結果が変わったりするのか?)
ゲーム的、コンピュータ的に考えると、本人の意識なんかで途中で名前のデータが書き換わるというのはあまり考えられない事態だ。
しかし、デジタルな物とそうでない物が奇妙に混交しているこの世界なら、彼女が自分の名前を認識したことでバグが改善されるということもありえる気がした。
「もう一度、君の名前を調べてもいいか?」
俺はそれを期待して彼女に許可を取り、彼女の腕に鑑定紙を張り付けた。
その結果は……。
リンゴ・サガラ : LV1
俺の予想を、ことごとく裏切るものだった。
「いや、おかしいだろ、これ」
我に返って、そうつぶやく。
なんか唐突に俺と兄妹か何かみたいな設定になっているし、適当に決めたはずのリンゴが正式な名前のようになっている。
「な、なぁ。いいのか、これ?」
俺が紙を見せると、やはり注意して見なければ分からないほど小さく、彼女はうなずいた。
だが、それこそ腑に落ちない。
「だけど、シェルミアっていうのが君の本当の名前なんだぞ?
それが分かったのに、まだ仮の名前を使い続けるっていうのは……」
だが俺のその言葉にも、彼女はいかにも億劫そうに小さく首を横に振るだけだった。
そして彼女は、深い知性を感じさせるその青い瞳に、自らの確固とした意志を込め……。
珍しく顔を上げてまっすぐに俺を見つめ、涼やかな声で言ったのだ。
「……だって、リンゴのほうが、おいしそう」
「えっ?」
人の名前は、時に『おいしさ』を基準にして決められることもある。
そんな世の理を学んだ、ある朝の一幕だった。
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