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騙し絵で有名なあのおばあさんに見えてきた

 去る3月2日、インドの日刊インターネット新聞「The Times of India」に、「Mother Teresa 'saint of the media', controversial study says」とのタイトルで、マザー・テレサのこれまでのイメージがメディアによって作られたものであるという研究結果が出たと、掲載された。

 マザー・テレサといえば、貧困や病気にあえぐ弱い人たちの救済活動に生涯を捧げた、カトリック教会の修道女。修道会「神の愛の宣教者会」の創立者でもある彼女は、"無償の愛"の代名詞のように伝えられており、今なお、世界中の人々から崇め、慕われている。しかし、カナダの宗教学専門誌「Religieuses」最新号で大学の研究者が発表した論文によると、マザー・テレサの美談や名声は、カトリック教会の誇大宣伝のためにデッチあげられたものであり、聖人には程遠い人物だったというのだ。

■これまでのマザー・テレサ像

 1910年、オスマン帝国領のコソボ州で生まれたマザー・テレサは、敬虔なカトリック信者の両親に育てられ、12歳のときに「修道女としてインドで働きたい」と決心。18歳で、ロレト修道女会に入り、インドのカルカッタに派遣され、上流階級の子女の教育に携わっていたが、「すべてを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という神からの啓示を受け、カルカッタのスラム街に移住。宗教を問わず、貧しい人、病気の人など弱者のために働きたいとし、1950年に修道会「神の愛の宣教者会」を設立。ホスピスや児童養護施設を開設し、その無償の愛の活動は全世界に知られるようになり、世界中から援助が集まるようになった。1971年に、教皇・パウロ6世から勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」を授章されたのを皮切りに、ノーベル平和賞など数多くの賞が贈られた。1997年に、87歳で亡くなった時には、インド政府が国葬を行い、死後5年目にはヨハネ・パウロ2世が「彼女は福者である」と宣言した。そして、なにかと問題の多いカトリック教会において、清く正しく、いつまでも輝き続ける聖人のような存在として、マザー・テレサは人々の記憶に残ることとなった。

■明らかになりつつある、マザー・テレサの素顔!

しかし、実像は異なるのではないか、と疑問を投げかける者が現れた。今回「Religieuses」に論文を寄稿したのは、モントリオール大学とオタワ大学の研究員たちである。



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コメント(6)

そもそも517の施設を1人の老婆すべて管理する自体不可能近いと思うが、もっぱら側近とか同僚がそういった事に関与したんじゃないのかね?
これを書いてる物書きもそこら辺ちと考えたらわかるんじゃねえの?
批判ばかりがマスゴミの特徴だしな。
もう少し為になる物書けやクソライター

これにはがっかりしました…無神論者に対して。
神の存在の有無を問わず、人が他者を益し、自らに清貧を敷くことは人間全般にとって肯定されるべき行為だと思います。そういった「純粋に善」なものから何らかのイデオロギーの匂いを感覚する嗅覚は、それ自身、対置する何らかのイデオロギーから息を吹きかけられているとしか思えません。そして、イデオロギーの作用として彼女が動いていたとしても(この記事からは、そうだと断定する材料を充分に見つけることはできませんが)、他者を益するという行為が何か間違った行為に変貌し得るのでしょうか。
この記事の論旨は、世界の困窮を見定め、それに真摯に立ち向かった彼女に対する一種の最大の侮辱だと思います。

信仰者の見当違いと、身勝手な解釈に尽きる。
この記事の本質は、
「世界の困窮を見定め、それに真摯に立ち向かった彼女」という一般的な彼女の評価が、
実は、「ちがうのではないか?」ということだ。

もっと正しい検証が必要ではないか?と言っている。

「〇〇聖人は、じつは、聖人と呼ばれるほどの行いはしていなかったのではないか?
 こういう例や、こういう発言、証言などを鑑みるととても、噂通りの人とは考えられない」
という発言に対して、
「あれほどの聖なる行いをした聖人に対して、なんという侮辱!」
というには、あまりにも愚かしい。

記事の内容、信憑性はともかく、
実在したイエスの人間像が福音書の記述とはかなりかけ離れていることが明らかなように、
マザーテレサの実像も、きちんと検証すべきだろうというのは、全くそのとおりだ。


ふむふむ。そして、寄付されたお金はどこに消えたの?
沢山の施設を造ったんではないでしょうか。
病院作って世間から見放された、不安と孤独のなかで苦しむ、らい病患者の人生の最後まで見届ける仕事。
信仰がなければできないことです。

知人が一年間その活動に参加したときのことを聞かせてくれましたが、壮絶な現場だったそうです。
その人は男性ですが、朝起きて施設にいくと痛がる患者さんの膨らんだ患部をほかの女性の聖職者と一緒にマッサージすることが仕事のほとんど。
いくら力を入れても全く聞かずもっと強くしてほしいと要求されるがまま、力任せに体重をかけて行いやっと患者さんの痛みがなくなったころには、自分がマッサージしていたところは窪んでしまい、ただ茫然と自分の行ったことのあとを見ていたそうです。
確かに人の魂が宿っているが、身体はまるで違うものになってしまっている。
そして、自分のほうが病気になるのではないかと不安との戦いだったと・・
現実に愕然としていると、あなたは神から遣わされてここに来ているのです。神に遣わされた人は強いはずですと諭されたそうです。

身体の苦痛と精神の孤独の中にいる患者さんにかける言葉、「痛みに耐えれば天国へ行ける」これは神の福音なのではないのでしょうか。

こんなの記事ネタ拾っただけですね。



いつも思うが、こういう現在人々が史実として認識してる出来事が、本当に真実かどうかなんてタイムマシーンでもできないかぎり確認しようがない。

ひとつ確かなことは、確かなことかどうかもわからない過去のことをいつまでも引きずる事は誰も幸せにしないだろうという事だね。

歴史を調べるのはいいと思うが、過去のことは過去の事、現代に過去の出来事を持ち込むべきではないというのをちゃんと教育しながらじゃないとまったく不毛な学問になると思う。

宗教なんて信用に値しない。
そんなのは日本人なら皆わかってるはず。
信仰することを否定はしないが、教団がやるような事はろくでもない事が多い。
これも十分ありうる話だと思う。
マザーテレサの話なんてそれこそ、自分自身で確かめようだなんて思ったこともない訳で、聞いた話を鵜呑みにする理由もない。
奇跡なんて普通に考えりゃありえない話。
こんなに有名になったのも宗教の広告塔として利用されたと考えれば、さもありなんだとしか思えないね。

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