代理出産を問い直す会

2012-12-04

なぜ野田聖子の妊娠・子育ては反感を買っているのか

| 19:03

野田聖子の卵購入とその後の子育ては、これまでに日本で著名になった事例−−向井亜紀代理出産や、諏訪マタニティクリニックにおける親子間代理出産などと比べても、より多くの批判を受けている様に思える。これはなぜだろう。

国会議員である事から生じる問題

まずは彼女が公人である事実が影響していよう。批判の中では、野田聖子国会会期中に、議員としての職務を果たさず私用のため視察と称して渡米した事実がしばしば述べられる。これは私も野田聖子の著書で確認している。公私混同も甚だしい。渡米中の日当、経費はどうなっているのか金の流れも明らかにされるべきだろう。

外国の女性から卵を購入したことも問題だ。私が調べた限りでは、野田聖子の購入した卵は、米国の卵売買市場でも類を見ない膨大な数で、500万円という金額のみならず、採卵させた女性の身体的負担を考えても、とうてい「善意の提供」とは言い難い。売る側と買う側の権力差を利用した「暴挙」であることは明確だ。いわば国際的な人身売買である。それを国会議員である当事者が実施したのだから、より強い批判が生じるのは当然だろう。ただし卵の持ち主がアメリカ人ではなく、貧困問題を抱えるメキシコ出身の女性だったという事実は、それほど知られていないか、または単に日本人にとって具体的なイメージが湧かないのだろうか。本来は厳しく批判されるべきことだが、現時点ではそれほど取り上げられていない印象を受ける。

そのほか、彼女が第三者生殖技術を考える超党派グループの代表的なメンバーであり、立法に携わる立場にありながら、その立場を利用した事実(その詳細は本ブログこちらにも記載)や、公共の電波や各種講演会で自らの利権に絡む内容を報告し、自らの行動を正当化しようとする姿も批判されている。さらに野田聖子が公開する情報には、しばしば虚偽の内容や、公人としては度を越した独りよがりの解釈が含まれることから、彼女の国会議員としての人格的資質も疑問視されている。

子育て放棄

また昨今の批判で大きなものは、彼女が障害を持つ子のケアを病院に一任し、自らの養育の義務を放棄した状態にあるらしきことだ。もちろん実際に野田聖子がどの程度の頻度で病院を訪れているかなど第三者には知り得ず、人々は野田聖子ブログから、その日常生活の片鱗を読み取っているにすぎない。しかし仮にそれらの推測が真実であっても、女性が生まれた子を受けいれられない事例は、望ましくないとはいえそれほど珍しいことではない。本当に野田聖子が子を病院に放置していたとしても、野田聖子だけが取り立てて非難されるべき事柄ではない。

もしかすると「子育て放棄」の批判には、女性に人生のすべてを子育てに捧げよとを強要する、単純な母性主義も含まれているかもしれない。しかし批判的言説を読み解いていくと、それらの根底にあるのが、そのようなイデオロギーだけではない事に気づく。それらは彼女が「卵購入の上、高齢の身体であえて妊娠・出産した現実」に基づきつつ主張される。つまり彼女の「不自然」な妊娠が「母性に欠けた」現状の元凶として語られているのだ。(それゆえ野田聖子への批判は、男女共同参画が批判対象としてきたような、三歳児神話、働く女性に向けられる差別的視点とは別種のものである)。

自然でない妊娠

では単に「自然ではない妊娠をした」事実が批判されているのだろうか。遺伝的につながらない卵を妊娠する点だけを取り上げれば、向井亜紀代理出産も構造は同じはずだが、向井亜紀の時はもっと同情の眼差しが集まった。一体、野田聖子の妊娠の何が問題だったのか。

たとえば野田聖子の用いた卵が、前もって遺伝的特徴の分からない完全に匿名の提供者だったら、また彼女に全く選択の余地がなかったとしたら、人々の意見は違っただろう。彼女が真にどこの誰か分からない卵をもらいうけ、そして、そうであっても子を欲しいと思っていたのだったら、健康ではない子を産んだ事実も、たまたま生じた不幸な偶然でしかなく、彼女は社会から同情される対象になっていたかもしれない。しかし実際には違う。彼女は子の遺伝的性質を「選んだ」。それも自分と人種が同じとか、面差しが似ているといった、少しでも自然妊娠に近づけようとするため、つまり「自然」な状態に敬意を払った上での措置ではない。そこで彼女は恣意的に自らの欲望に沿う存在を作りだそうとした。そしてこれにより彼女は、自らの妊娠、出産、子の人生に対する「偶然性」を取り除いてしまった。

ハーバーマスによる人間の自己了解

ハーバーマスは、人間社会には、人々が全て「不条理」な運命に晒された「か弱き存在」であることを認め、「助け合い支え合う」了解が存在しており、それがこの社会を根底から支えているとみなす。ハーバーマスによると、生殖にともなう「自然の偶然」こそが、この人間社会の基本的枠組みの前提を成している。そして哲学者の松田はこの議論に依拠し次の様に説明する。「人間の自由と人間社会の新しい可能性は、実は思い通りにならない出生の自然性によって支えられている」。「出生、それは両親の選択からも独立した「偶然」による「大いなる贈り物」である。出生後に分かる病気や障害、それへの体質は、これまでは多かれ少なかれ<人間には責任のない運命>とみなされた。その運命は他者の援助(ケア)と連帯の絆を頼りにすることができた」。そして子どもの遺伝的素質に他者が介入すると「人間は平等だという原則、お互いに人格を認め合う(相互承認)という欲求、社会的連帯という倫理的な理念と諸制度」に深刻な変容が起きると警告する。(松田、2008)*1

つまり人々の出生は「偶然」に左右されるものだからこそ、<人間には責任のない運命>を引き受けている障害者たちは他者の援助(ケア)と連帯の絆を頼りにすることができる。これが人間社会の根底にある共通理解である。しかし野田聖子は自ら「偶然」を排除しようとした。その「選択」は彼女の妊娠を「弱い」人間が連帯して引き受ける網の目の中から意図的にはがし取り、行為の結果に対する責任(望ましいものであれそうでないものであれ--本人は望ましい側面だけを得られると思っていたようだが)を、自ら引き受ける事を意味していた。

野田聖子が、自ら購入卵による妊娠を実施したとき、すでに高齢での妊娠の問題点や提供卵による妊娠、それによって生まれた子に健康上の危険が生じる可能性は知られていた。少なくとも超党派勉強会を実施していた野田聖子はそれを知っていたはずである。しかし彼女は、妊娠できない高齢の身体という点、そして自らの卵ではないという点で<自然>を排除した上で、高齢での購入卵の妊娠を「選んだ」。

すなわち彼女は、この妊娠・出産を実践したことにより、それから先、本行為に関して生じる問題を自ら解決する立場を取ったのである。野田聖子向井亜紀など、第三者生殖技術を推進する人々が言うところの「自己決定」、「他者に迷惑をかけないのならば選択の自由がある」というロジックだ。しかしながら彼女は、実際に選択の結果が目の前に表れると、自ら捨てたはずの「他者の援助」、すなわち<偶然>の中にいるからこそ許容される相互扶助、たとえば公的医療保険や、そのような医療に当たる産科医の人手、障害を持つ子に対する介護といった様々な公的医療資源を利用しはじめた。その上、一般的に親に期待される子供への付き添いやケアの役割も果たしていない(ように見えるらしい)。すなわち彼女は自ら選択した自己決定の自己責任を引き受けなかったのである。少なくとも人々にはそう映っている。

野田聖子がこの「自己決定」を行った時点で、近いうちに様々な医療措置を必要とすることは分かっていた。それゆえ彼女は妊娠・出産に関し、いかなるリスクを負ったとしても、それに対する治療行為は自費で受けるべきだった。またこれと同様に、彼女は「子どもに産まれながら健康上のリスクを負わせる」選択もしていたのだから、子が生まれながら負っている疾患について、少なくとも経済的には自ら責任をとるべきだった。彼女の自己決定とは、それが行われた時点で、そのようなものである「べき」だったのだ。しかし彼女は今に至るまで自己責任を果たすことなく、かつて意図的に逃げ出してきたはずの、<偶然>の中に生きる<不条理>で<傷つきやすい>人々の世界、そのような人々が作り上げる助け合いの網に戻り、それらを利用し続けている。

彼女に対し人が「国会議員を辞してでも子育てに専念せよ」と言う理由は、この「ずるさ」にある。それらの批判は単純な母性主義に突き動かされたものではなく、男であろうが女であろうが一社会人として、自らの行為に対する責任を負っていない事実に向けられているのである。特に野田聖子の場合、社会人として人格的に成熟している(はずの)国会議員の立場にいるのだから、批判が強くなるのは当然であろう。

ところでこの論理は生まれた子供には適用されない。生まれた子の立場から捉えると、そのような体に生まれた事実は今も<偶然>でしかない。それゆえ生まれた子が持つ権利は、野田聖子の実施した自己決定のありかを問わず何ら棄損されない。彼は他の子供たちと同様に、相互扶助の網の中で護られるべきである。また高齢での妊娠・出産についても、自然妊娠については、それは人々が蒙る<偶然>の範囲内であり、人々の連帯の絆で扱われる対象となる。

同様に、野田聖子が自らの妊娠・出産にあたり公的医療制度を利用した/している理由を「野田聖子本人の命がかかっていた」のだから当然とみなす反論もあろう。高齢での購入卵妊娠を実行した時点で、本人も何らかの問題が起きる覚悟はしていたに違いないが、それが具体的にどのような形で現れるかは分からなかったのかもしれない。その点で彼女にも何らかの<偶然>は残っている。しかし何が生じるのか「知らなかった」から「責任がとれない」のであったのならば、それは本来、自己決定の対象となる行為ではない。そもそもこのように何が生じるか予測できない問題に対し、簡単に「自己決定権」を適用すべきではなかったのである。

すなわち全ての問題は野田聖子が、自ら取りえない責任を取り得ると見誤り、なされるべきではない自己決定をしてしまったことにある。以上の点で、野田聖子に対する現在の批判は当然の反応だし、自らの自己決定権に対する義務や説明責任放棄し、相互扶助に頼る現状にいながらも、いまだにそれを正当化しようとしている姿勢は、今後も批判され続けるだろう。

野田聖子の行く道

さて、この構造を鑑みると、今後、野田聖子がとるべき道は次の二つだろう。

まず理性のある大人として、自らの自己決定の責任を取り、(文化的な生活を行える最低限のレベルに至るまでは)すべての責任を自らの力で負うこと。自らの妊娠・出産で他者に負わせた医療費も返還する。これは夢物語ではない。野田聖子資産を考えれば、必ずしも不可能ではないはずだ。そして病院にいる子に対しては、愛着の形成に貢献するなどして、保護者として子供に必要な精神的安定を与える。

このように自己決定の責任を果たしたうえで、今後も第三者生殖技術を推進するのであれば、それも彼女の一つの道だろう。結果的に「超」高所得者のみがアクセス可能な技術になるし、生まれた子供の蒙る問題など、技術が潜在的に抱えている危険は何ら解決しない(それゆえ結果的にこのような技術は禁止されるべきである)が、それは野田聖子の立場とはまた別に議論されるべき問題である。

それができないのならば、行えないはずの自己決定を行ってしまった事実を認識し、そのような誤りを犯してしまった自分の<自然>を認めることで、不条理を生きる人々の相互扶助の網の中に戻る道もある。そこでようやく彼女に対する公的扶助が正当なものとして位置付けられるようになるはずだ。失敗してしまったこと、それ自体は「弱い」人々が誰でも陥る可能性のある「不条理」なのだから、その事実を認めた人間を批判する人はいないだろう。

しかしながら野田聖子は自らの立場を明確にしないまま、双方の立場から都合のいい側面だけを利用している。少なくとも、今まで彼女がメディアに露出してきた情報からは、人々は彼女をそのような存在として受け取る。この現状が続く限り彼女に対する批判は今後も止まないに違いない。

*1松田純、2008、「エンハンスメントと〈人間の弱さ〉の価値」『エンハンスメント論争―身体・精神の増強と先端科学技術』、社会評論社