Origin-of-the-World







リアリズムの巨匠、ギュスターヴ・クールベが1866年にこの小さな油彩画、「世界の起源」を描いた時
彼はこの絵をまぎれもなく「ポルノ」として描いた。


当時トルコの外交官に依頼されて描いたこのポルノ絵画は今から20年前、
あるフランスの小説の表紙にされ出版された時に、警察当局によって「猥褻」とされ書店から撤去された。

小説の著者はこれに失望して言った。「少し前まで、本屋というのは反体制のものだった。
1970年、内務省がピエール・ギュヨタの本『エデン・エデン・エデン』を発禁にしたとき、
本屋は抵抗する場所になったのだ。それが今では、検閲官の先棒担ぎか…」

そして現代日本では、もはや書店ばかりでなく印刷、出版、編集者、作家、読者に至るまで
「検閲官の先棒担ぎ」に加担して、ポルノ狩りを行っている。
そしてクールベの絵画は「芸術品」として今でも気軽に目に触れることができる。
Googleの画像検索フィルタも、クールベやマネの絵画を弾いたりはしない。


ポルノと芸術を定量的に区別できるなどというのは、体制に都合の良い妄想だ。
先にクールベの例を挙げたが、日本人はとかく西洋美術を価値あるものと考え、自国文化を低俗だと考えがちだ。
西洋美術は芸術だが日本の漫画はポルノだ、などと内外問わず口にする者の無見識には閉口するばかりである。

日本の美術史とは西洋とは違い、本質的に大衆文化に根ざしたものだった。
西洋ではパトロンが全てであり、今もそれは変わらない。美術品はパトロンの嗜好に委ねられ、
その価値は一部の持てる者の間でもっともらしい理由をつけられて担保されるものだ。
だが、日本の浮世絵は安価で町民の手に取られ愛玩されるもので、そんな世界から春画の文化も発達した。
今の日本における現代芸術などは、本来日本にない、異質な西洋からの借り物の文化に過ぎない。
大衆文化としての日本美術を源流に持つ美術品としては、漫画・アニメこそその本質に近い。

そして「ワンピース」も「ドラえもん」も「ドラゴンボール」も「エヴァンゲリオン」も「ジブリ」も
若者の生き生きとした性、目を背けたくなるような暴力の表現を描くことから、決して逃げたりなどしていない。
だからこそ、これらの作品は人々に受け容れられ、歴史に名を残すのだ。 
それを「世間で評価されているから」などという理由で、他の表現と意図的に区別して
「これらは特別だから規制しない」という者は、本人は無自覚であっても、本質的に権威主義者である。


警察権力の横暴により、不当逮捕されることを恐れて自粛を繰り返すのはある程度止むを得ない。
世界有数の先進国日本において、国民一人一人が逮捕によって失うものは多すぎる。
一番の悪であるのは、従来の暗黙のルールを一方的に破ってまで、表現弾圧の凶行に走った警察であり、
遵法精神を解さない政治家であり、自らの領分を守れない法曹界であり、体制の圧力であることに間違いはない。
「表現の自由は無制限ではない」と体制は言うが、
それは「お客様は神様だ」と言うお客様と同じ、ただの無法ではないのだろうか。 
 
先のコアマガジン裁判の傍聴記がここにある。是非、皆さんに読んでもらいたい。
阿曽山大噴火「裁判Showへ行こう」

驚くべき稚拙なやり取りである。特に女性検察官の異様な幼稚さが際立つ。
法曹界の人間のモラルがこのようなものであるかと眩暈を覚えるほどだ。
被告人の諦念と、弁護人の法の正義に基づく義憤が、文面からも見て取れる。
だが結果はご覧の通り。チャタレイや松文館の悪しき前例は、益々増長を見せて効果を発揮した。


「警察に目をつけられない程度の表現にとどめるべき」と人は言う。それは本当だろうか?


何かを「表現」するというとは、得てして既成の概念を疑うということである。
世間の常識に一石を投げかけ波紋が生まれるからこそ、その「表現」は意味を持つ。
それは反体制であったり、反モラルであったり、反権力であったり、様々だ。

誰かに目くじらを立てられない「表現」など存在しない。
「表現」とは、本質的に「反体制」である。

自分はリラックマが好きだが、表現の自由を守ろうといった時に
「リラックマを表現する自由を守ろう」などとは誰も言わない。
こうしたマスコットキャラクターや、ゆるキャラ、萌え絵など、
どこの誰もがある程度、目くじらを立てないで可愛いと愛でるようなものは
商業デザインの素材であって、表現物とは本質的に異なるものだ。

pixivで誰もが憧れるような「かわいくて」「きれいな」絵を描く技術を共有化して先鋭化させてきた
「絵師」が、企業に買い叩かれているというが、それは一面においてもっともだと思う。
それは「表現」でないからこそ、同じ技術を持つ誰か他の人が描いても同じ「消費物」に過ぎないからだ。
当然、それを作る「生産者」もいくらでも代替がきく。「生産者」が増えるほど、待遇はブルーカラー的になる。
だが、「表現」はその作り手の内面に根ざすものの発露であり、代わりなど絶対に有り得ない。
(誤解のないように言うが、自分は決して誰もが憧れるような「綺麗で可愛い」イラストが
「表現物」より下位であるなどとは思っていない。ただ、その目的とするところが違うだけだ)

 「警察に目をつけられない程度の表現」など、本当に「表現」と言えるのだろうか。
その範囲は、警察のルール無視によってどんどん縮小するだろう。
やがては何も表現することができなくなり、統制国家への道を歩むだけだ。


表現の場を守る、とは何だろうか。
体制とうまく当面の折り合いをつける処世術は、必要だ。
だが、そうしているうちに体制に取り込まれていき「検閲官の先棒」となってしまわないか?
耳心地の良い文言に惑わされて、本質を見失いはしないだろうか?

誰もが綺麗で、高尚で、無害だと思うようなものだけが残り
「表現の場」という看板を掲げただけの消費物の展示会をただ存続させることが、
「表現の自由を守った」と言えるのだろうか?


コミックマーケットが真に「表現を守る」場であるなら、今まさにその真価を問われる時だろう。