再度引用いたします。
一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである。善く生きることと美しく生きることと正しく生きることは同じだ(プラトン『クリトン』)
Sさんはプラトン的、との師のご指摘、言われてみれば思い当たるふしが
娘ら「ママは暑苦しい」 夫「君はご立派だよ」
私は一生懸命生きてるだけなんだけど・・。何だかよくわからないが構造的に私は家で最強の存在として君臨してきたのです。だって振り込め詐欺から逆ギレセールスから病魔に震災にわからんちんの学校、あまたの外敵と戦って家族を守ってきた。私はうちのALSOKだもん。
その私が今まで支えにしていた(いま思えばプラトン的な)規範意識が却って私を弱くし、具体的には組手で結果が出せないことにつながっているという。上記の家族の弁からも知れるように、岸田秀ふうに言えば「はた迷惑」でもあったようだ。武術の稽古を始めたばかりの頃、師が「Sさんは変にモラリストだからなあ・・」と呟いておられたのはこの事だったのか。
でも、それを変えようって・・・・大事業すぎるだろう・・・・。怖いし。
生まれついての奴隷は自分がどれだけのものを奪われているのかを知ることが出来ません。
明大前でリハビリ。今日で前十字靭帯を切ってからちょうど一年経った。あの日、一年後に自分が明大前のドトールでプラトンについて考えてるなんて1ミリも予想しなかったよね。
2013年11月19日
びびるプラトン
posted by S at 23:30| Comment(1)
| 日記
その「怖い」という「恐怖」が主人であって、それに屈服して奴隷でありつづけているのがSさんの現状です。
それは別にいじめっ子が好きな訳でも、その言葉に賛同している訳でもないのに、自分がいじめられるのが怖いから従って愛想笑いをする、保身のために他の子をいじめるのに参加する、というような人間と変りません。
そういう自分の卑屈な笑いが鏡に映った時、醜い、恥ずかしいと思う感性がないなら武術なんてやる必要はありません。
武術は、自分自身以外の何にもひざまづかないし、自分以外に自分の主人を認めないという世界に対しての意思表示です。
今までうまくやっていけたじゃないか、これからも奴隷でいればこれだけの見返りが約束されてるんだし、というのは自分自身への賄賂です。
そして変ることが怖いという恐怖は自分自身への圧力、脅しのようなものです。
見返りや損得に懐柔され、恐怖に屈服することを行動原理にするなら、そこには自由意思など存在しません。ザ・奴隷です。
理想やイデアを口にできるのは、常に自分を奴隷化しようとする弱さと戦う意志と覚悟のある人間だけです。
何の覚悟もない人の口から出る自由や強さという言葉は嘘にしかなりません。
プラトンも自分を曲げるくらいなら死んだ方が良いと言って、実際死刑になりました。
しかし、それじゃあ無意味だろう、死んじゃ駄目だろう、力なき正義もまた無力だろう、というので、プラトンの理想だけでなくゴルギアスの弁論術も持ちましょう、理想を口にしても敵対者に殺されない実際的な力をつけましょう、というのが武術です。
怖いからやらない、ではなく、怖いからやるしかないのです。
自由や理想を追いたいけど殺されたくないと思うなら、保険、お守りとして武術をやっておくのがよろしかろう、というだけの話です。
そして実際にそれが平常になってしまえばよっぽど奴隷に戻る方が怖いし、自由であるほうが断然楽なのです。
歯医者のようなものです。