今回でホテル・ラルキア編終了です。尚、来週は友人の結婚式に出席しますので一週お休みします。キリも良いし。時間があれば短編……というか、幕間を投稿するかも知れませんが。
第四十六話 決着の時
ホテル・ラルキア大講堂は水を打った様に静まりかえり、そこに浩太のペーパーを振るパタパタという音だけが響く。
浩太がベロアに二十日の間に調べておいて欲しいと依頼したのはコレ、『経営会議参加者のスキャンダル』である。
――断っておくが本来、プライベートでどれだけギャンブルが好きだろうが、幼女愛好家であろうが熟女愛好家であろうが、それが仕事の『質』に直結する事などはまず有り得無い。別に何十人の女性を囲っていようが、性格が壊滅的に破綻していようが、根性がねじ曲がっていようが、与えられた業務をきちんとこなしていれば問題は無いのである。まあ例外こそ勿論あるが概ね、金と女にだらしない男は仕事もだらしなく、性格が破綻している人間は協調性がないため仕事も破綻するのが常ではあるが。
「さあ、どうされましたか?」
もう一度、ぐるりと円卓を見渡す浩太の視線から逃れる様に視線を浩太の眼から外し――それでも、浩太の持つペーパーに釘付けになっている視線に、浩太は胸中で一人頷く。
「人事部長?」
「あ、い、いや、そ、それは……」
「広報部長はどうでしょう? ああ、それとも、あの話をしてからの――」
「な、無い! 私には何にも無いぞ!」
あからさまにうろたえる二人を見て、浩太は再び手元のペーパーに――何も書かれて無い、『白紙』のそれに眼を通すフリをする。
そう、『白紙の束』に、だ。
ベロアに依頼した情報収集は難航を極めた。流石に超が上に付く一流ホテルの首脳陣、隠し方も超一流だった。最初から『そんなスキャンダルなど無い』など毛頭思っていない浩太とベロアに寄って、何とか財務部長と仕入部長の醜聞を手に入れた所でタイムアップ。
『こんだけしか集まらへんかった。ほんまにすまん、コータはん!』と、ベロアは平謝りに謝ったが、浩太にとっては十分である。
「……」
情報戦とは、本当に情報が『有るか』どうかは大した問題では無い。『有るかも知れない』と思わせる事が重要なのである。
――もし、アレに私のスキャンダルが書いてあったら。
――もし、ソレをこんな皆の前でバラされたら。
そう思わせれば勝ち、一度そう思ってしまえばもう誰も口を出せない。得れるかどうか分からない利益の為に、今ある利益を――プライドや世間体も含めて――失うなど、まっぴら御免なのである、普通は。トーマスとマルクスの両部長には可哀そうではあるが、それを分かって貰う為の生贄に過ぎない。
「……」
重ねて言うが、個人のプライベートの問題は仕事の質に直結はしない。仮にもホテル・ラルキアの重鎮として彼らは与えられた業務を十分以上にこなしており、経営陣の一員としては何ら恥ずべき行いをしている訳では無い。本来、別次元で勝負するべき話を下世話な話の次元まで引きずり降ろした、これは言ってみれば場外乱闘なのだ。
無論、諸刃の剣ではある。拳骨の殴り合いの最中に、いきなり拳銃を抜きだしてぶっ放した様なモノ。相手側が拳銃を持ちださない保証は無いし、持ち出した所で『卑怯だ』と罵る事も出来ない。
「……コータさん、それぐらいで」
だが、クラウスは違う。元々、『余所者』と仕事の質と直結しない所で罵られて来た当事者である。言ってみれば、既に外側から拳銃で撃たれ続けて来たようなものなのだ。ようやく銃を持ちだして、同じ土俵に立っただけである。
クラウスの性格――というより、生き方もプラスに働いた。波風を立てない様ににこやかに『息をひそめて』生きて来たクラウスは、財務部長や仕入部長の様な醜聞は無い。無論若く、むしろこれからのクラウスには醜聞など出来ようも無い、というのもあるのだが……同年齢のベロアの場合であればこの作戦は立派な諸刃の剣になり得る以上、やはりクラウスの生き方のお陰と言えよう。
「クラウスさん?」
そうは言っても、これをやる以上恨みも残る。
「トーマス部長もマルクス部長もホテル・ラルキアの為に身を粉にして働かれて来た、私の大先輩です」
だから、もう一声。
「……いいえ、その二人だけではありません。此処に居並ぶ方々は皆、私の先輩です。その先輩方を貶める様な事は、許しません」
浩太に対し毅然とそう言いきるクラウスに、周囲から注がれる色が変わる。その変化を敏感に見極め、ひと押し。
「ですが、クラウスさん。まだ分館統括部長も、調理部長も、営業部長も――」
「もう結構です」
さあ、此処が締め。
「――それ、残りは白紙でしょ?」
ネタばらし。あからさまにほっとした空気が流れるのを浩太は肌で感じ取る。
「――バラしてしまいますか。それでは、此処までですね」
肩を竦め、ちらりと視線を円卓の経営陣に走らす。経営陣の瞳に浮かぶ色は安堵とそれ以上の、クラウスに対する『感謝』の念。
……人間というのは面白い生き物である。不良が雨に濡れていた子猫を助けただけで、過去の罪悪を許し『意外に良い人』と言う評価が貰えたりするものだ。下世話な言い方をするなら『ギャップ萌え』、二時間ドラマ風に言うならば血気盛んな新米警官の鬼の取り調べの後に、菩薩の様な老刑事が出て来て諭す、例のアレである。
「我らがホテル・ラルキアの重鎮達にこれ以上の恥辱を与える事を、私は是としません」
今まで馬鹿にしていたクラウスによって助けられる。絶望的状況から救い出してくれたヒーロー。『悪魔とだって契約する』という言葉があるが、人間追いつめられると眼の前の救いの手を取ってしまうものであるし……感謝をしてしまうものだ。言い方は悪いが、手口は洗脳と大差ない。
「……なるほど」
肩をもう一度竦め、クラウスを見やる浩太。神妙な顔をして見せているが、心の中では『作戦通り!』である。
「クラウスさんがそう仰られるのなら、これぐらいにしておきましょうか」
今回の案を実行するに当たっての最大の懸案事項は『クラウスの今後の立ち位置』だ。なんせ、恥部を大暴露して無理矢理黙らせるのである。案件が通ったとしても、クラウスの居場所が無くなるようであったら『試合に勝って勝負に負けた』という事になる。
その点、今回のこの『浩太を全部悪者にしよう』という作戦であれば損をするのは浩太一人である。クラウスは『浩太さんだけを悪者にさせれません!』と随分反対したが、浩太にとってはホテル・ラルキアでどれ程恨まれようが別段痛痒を感じる事は無い。損失と利益を天秤にかけて愚図るクラウスを説得し、芝居をうって見せたのだ。結果はまずまず、と言った所か。
「ですが」
最後に、もう一度。白紙の束を振って見せ。
「確かにこれは白紙ですが……この程度の『情報』を集めるのは造作も無い事だと言う事を、良く覚えておいて下さいね?」
弛緩した空気が一瞬で引き締まる。その空気に満足げに頷いた後、ちらりとクラウスに視線を走らせて浩太は椅子に腰を降ろした。
露払いは、此処まで。
クラウスの勝負出来る舞台にまで、他の経営陣を引き摺り降ろした。もう、『外様』と馬鹿にはさせない。浩太に出来るのは、しても良いのは此処が限界だ。
「それでは、クラウスさん。貴方の番です」
『後は任せましたよ?』という意味合いを込めた視線を受け取ったクラウスは、一つ頷き席を立ち無言で円卓を見回した。
「――ホテルマン、とは一体何でしょうか?」
やがてその視線を一点、ホテル・ラルキア会長アドルフ・ブルクハルトに留め、クラウスが口を開く。
「ベロア・サーチ殿からこのお話を伺って、私は悩みました」
静かに。
「ホテルマンとは、引いてはホテルとは、一体何の為に存在するのか。夜露をしのぐ場所を提供する? ええ、そうでしょう。雨風を防ぐ場所を提供する? ええ、それもあります。美味しい料理を提供する? ええ、それだって立派なホテルの仕事でしょう。ですが、それだけならばホテルは要らないのです」
力強く。
「夜露をしのぎ、雨風を防ぐのみならホテルで無くても良い。料理を提供するのであれば酒場でも構わない。ホテルが、ホテルで有る必要は無い」
「では、ホテルは何の為に存在する?」
今まで黙ってその話を聞いていたアドルフが口を開く。低く、重みすら感じるその声に、それでもクラウスは何時もの様な柔和な笑みを浮かべて。
「『笑顔』、です」
「……」
「エル……エリーゼ・ブルクハルトに教えて貰いました。ホテル・ラルキアの財産は、伝統は、誇りは、強みは、いいえ、『ホテル・ラルキア』とは、実はそのもの『顧客』である、と」
そう言って、苦笑を浮かべ。
「恥ずかしながら私は、勘違いをしていました。『最高の接客』とは、『ホテル・ラルキアの接客』とは、高額な料金を頂戴して、それに付随するサービスを提供する事であると」
「続けろ」
「ですが、そうではありません。ホテル・ラルキアの接客とは、最高のサービスを提供し、最高の笑顔を頂く事である筈です。ホテル・ラルキアは顧客に愛され続けています。高いからでしょうか? 古いからでしょうか? 料理が美味しいからでしょうか?」
違います、と。
「ホテル・ラルキアに来れば『笑顔』になれると、そう信じて頂いているからでは無いでしょうか?」
そこで一息、もう一度円卓を見回して。
「……残念ながら、ホテル・ラルキアは現在危機的状況に陥っています。売上は伸びず、経費の削減は追い付かない。ダニエリ分館の業務を縮小したとしても、抜本的な改善には成りえません。人員を削る事をしない以上、ホテル・ラルキアには未来は無い」
「今まで働いてくれた人間をクビにしろ、と?」
「いいえ。私は先程『笑顔』と申しましたが、それは顧客の笑顔だけであってはいけません。お金を貰う立場で恐縮ですが、働く従業員にも『笑顔』が必要です」
Customer Satisfaction、略称CS、Employee Satisfaction、略称ESという言葉がある。それぞれ日本語に翻訳すると前者が顧客満足度、後者が従業員満足度だ。
『CSはESから』という言葉もある様に、CSとESは密接に関連する。当たり前と言えば当たり前だが、従業員が職場や職場環境に満足が出来ておらず、不平不満ばかりを述べている会社であればそれはそのまま接客態度にも現れるものである。それでもプロか、とお叱りを受けたとしても、自分の気分が乗らない時に笑って接客するのは難しいものであろう。オンリーワン商品を製造する会社や、味が自慢の頑固親父が営むラーメン屋であればともかく、CSの低いサービス業などは、致命的な欠点なのである。難しい事をつらつら言ったが、要は日本で一番人気の某テーマパークはキャラクターやアトラクションだけで持っている訳では無く、そこで働くスタッフのモチベーションも高い、という話である。
「働く従業員が『笑える』様に配慮をし、顧客が『笑える』様に配慮をするのが私達、経営に携わる者の使命だと思っております」
「……」
「私達はお客様を差別しません。国籍も、人種も、経歴も、資産の大小もそこには関係ありません。無論、新たに作るホテルではホテル・ラルキア並のサービスは出来ません。頂く代金が少なくなる以上、料理の質や部屋の調度品、きめ細やかなサービスは数段落ちるものになるでしょう」
ですが、と。
「ただ、眼の前のお客様に真摯に接し、お客様の笑顔を頂戴する事こそが、ホテル・ラルキアの、この老舗のホテルの『誇り』では無いでしょうか!」
ダン、と円卓を強く叩いて。
「――ご決断を、会長」
挑む様な目付の先で、泰然と腕を組む会長へと、言の葉を放つ。
「……」
「……」
少しの静寂の、後。
「……クラウス」
「はい!」
徐に、アドルフが口を開く。
「ホテル・ラルキアの誇りは『笑顔』、と言ったな?」
「そうです」
「ふむ」
ゆっくりと、椅子に深々と腰をかけ。
「間違ってはいない」
「では!」
「だが、大きく『ズレ』てはいる」
「――え?」
攻守交代。クラウスを窘める様に、アドルフは見据えて。
「お客様の笑顔と言ったが、クラウス。お客様の『笑顔』は一体何で引き出す?」
「え、笑顔は……」
「『金』だよ」
「……」
「お客様は『最高のサービス』の為に、金を出す。我々はその対価として最高のサービスを提供する。無論、真摯な態度で接するサービスも必要だ。ではクラウス、真摯な態度で接するのは『誰』だ?」
「……従業員、です」
「その通り、スタッフだ。ではスタッフは何故最高のサービスを提供できる? それは、我々が最高のサービスを提供できる様に教育し、最高のサービスを提供できる環境を整えているからだ。モラルも重要だ。だがな、クラウス」
モラルは金で買える、と。
「試しに従業員の給与を今の十分の一に下げて見ろ。ホテル・ラルキアのサービスは地に落ちる。従業員は確かにホテル・ラルキアを愛してはくれているだろう。だが、それはホテル・ラルキアが彼らに暖かい食事を買う為の給料を支給しているからに過ぎん」
「……」
「確かに、我々はお客様を差別しない。何故ならそれは私達に取って、人とは『お客様』か『そうでないか』にしか区分されないからだ。では、その線引きは何処でする?」
「それ……は」
「もう分かるな? ホテル・ラルキアにお金を落としてくれるか、くれないか。その違いだ。当ホテルに宿泊して下さるお客さまには最大のサービスを提供する。勘違いするなよ? お客様がお金を出してくれるから、最高のサービスをするのではない。我々が最高のサービスをするから、お客様はお金を出してくれるのだ」
「……」
「お前の言う、ホテル・ラルキアの『誇り』が笑顔であると言う話は、あながち間違ってはいない。いないが、それは結果でありその過程に当然高い事も、古い事も含まれるのだ」
そこまで喋り、椅子に深く腰をかけ。
「だから、この案件は否決とする。持ち帰れ、クラウス」
大講堂に、静寂が走る。
「全員、異論は無いな?」
「か、会長! お待ち下さい!」
「異論は無し。よってこの案は否決とする。持ち帰れ、クラウス」
「異論はあります! 会長! 私に――」
「図に乗るな」
「――いろ……っ!」
「クラウス、貴様に経営会議で意見を述べる許可は出した。だが、採決にまで加わる許可を出したつもりは無い。分かったか?」
「……」
「返事は?」
「……は……い」
力無く、がくりと椅子に崩れ落ちるクラウス。
「お待ち下さい」
それと、入れ替わり。
「……何だね?」
「異論はあります、私に」
「君にこそ、異論を認めるつもりはないが?」
「そうですか。それでは勝手に喋らせて貰うとします」
「……」
「無論、皆様は聞いて下さいますよね? 私の話を」
立ち上がり、視線をぐるりと一周させる浩太。その視線に晒された列席の皆の表情が引き攣った。
「……コータ・マツシロ、と言ったか? はっきり言っておこう。私はそういうやり方は嫌いだ。先程、金を落としてくれるお客様には差別をしないと言ったが、それは従業員に対してもそうだ。ホテル・ラルキアに直接損害を与えなければ、相場で損をしようが漁色に精を出そうが、そんな事は知った事では無い。ただ、ホテル・ラルキアの従業員として望まれた仕事にしっかり取り組めば良い」
「イメージ商売のホテル業では致命的では無いですか?」
「此処がホテル・ラルキアで無ければ、な」
「……」
「誰が何と言おうが、ホテル・ラルキアは超一流ホテルだ」
「随分と自信がおありのようで」
「事実の確認だ。自慢も謙遜もしない、オルケナだけではなく、世界でも有数の名門ホテルだ。多少のスキャンダル――それも、部長個人のスキャンダル程度で揺らぐものでは無い、ホテル・ラルキアは。まあ……本人にとってはどうか知らんがな」
そう言ってじとっとした眼で両部長を睨みつける。それだけで両部長は委縮しきった様に更に身を縮めさせた。
「……少し、思い違いをしていました」
「何をだね?」
「私はこの経営会議とは合議制で決める、極めて民主制の高い物かと思っておりましたが……結局アドルフ会長、貴方のワンマンなのですね、ホテル・ラルキアは」
「幻滅したかね?」
「まさか。手間が省けてイイです。要は、貴方を説得すれば良いのでしょう?」
「……やってみたまえ」
「それでは失礼して」
ちらり、とクラウスに視線を移す。そこに、悲壮な表情になりながらも唇を噛みしめ、浩太の方に頷きを返すクラウスの姿を見てとって。
「……ホテル・ラルキアの誇りなど、正直クソ喰らえです」
浩太が、爆弾を落とす。
「クソ喰らえ、と来たか」
「ええ。まず、第一に売上が大きく下がる現状に置いて手を拱いているのが駄目ですね。お話になりません」
「貴様!」
ダンと、机を叩き席を立つ営業部長。それを手で制しながら、アドルフは顎で軽く浩太に先を促した。
「次に、人員整理案。業務を縮小しても、人員を整理しないのであれば全く抜本的な解決にはなりません。削れる所は削るべきです」
「続けろ」
「ダニエリ分館の業務縮小案についてもそうです。何と中途半端か。やるなら徹底的にやるべきですね。閉館するべきです」
もう一度、円卓を睥睨し。
「他にもありますが、大きくこの三つです。この三つ、出来ない理由はそれぞれ何ですか? 全部、『ホテル・ラルキアの誇り』という、形の無い、無駄なモノです」
「……」
「アドルフ会長、貴方は先程仰いましたね? 結局『金』だ、と。ええ、その通り、私もその意見には賛成です。慈善事業をやっているのではないんだ。お金を稼ぎ、従業員を養う事が経営者の義務です。では、何故それをしないのですか? 誇りでお金が稼げますか? 伝統でお金が稼げますか? 稼げない、そんなモノを後生大事に抱えて従業員を路頭に迷わすのが、果たして経営者として最善の判断だと仰るつもりですか? どうなんです、アドルフ会長?」
睨みつける浩太の視線を、一切外す事はせず。
「そんなものを最善の判断だと言うつもりは無い」
深く降ろした腰を少しだけ浮かし、前のめりに円卓に手をついて。
「誇りで金が稼げる? 伝統で金が稼げる? 少なくとも私は、そんな足元の議論をしているつもりは毛頭無い」
「では、どういう議論をされているおつもりですか?」
「誇りでは金は稼げない。伝統でも金は稼げない。そんなモノは当たり前だ。だが、それは発想が逆だ」
「逆?」
「誇りや伝統は、決して『金』で手に入れる事は出来ない」
「……」
「従業員は金で育つ。美味しい料理は金で作れる。仕入も営業も、金があれば殆ど何でも出来る。だが、誇りや伝統、或いは歴史やイメージというモノは決して金では手に入らない。いいか、マツシロ君? 金は使えば無くなるが、伝統は使っても無くならない。確かに、直ぐに財務を改善する様な類のモノでは無い。だが、それで良いのだ。そういう性質の長期的に利益をもたらすモノなのだよ、『誇り』や『伝統』というのは」
そう語り、反論は? と眼で問いかけるアドルフ。
「……ありませんね」
「……ほう。あっさり認めたな」
「もし貴方が『伝統』や『誇り』だけを後生大事に抱える経営者ならば、私ももう少しやりようがありましたが」
そう言って、浩太は肩を竦める。
役員の話とアドルフの話は、一見同じ事を言っている様だが実は全然違う。役員達は誇りや伝統『だけ』を大事にし、それを汚される事を極端に嫌っているだけの感情論である。対してアドルフは、それを『ブランド・イメージ』として必要と述べているからだ。しかも、それが短期的には利益をあげず、むしろマイナス要因になることすらも理解した上で、である。
知的資産経営、という概念がある。『知的資産』というと特許や商標権などの知的『財産』を思い浮かべがちだが、厳密に言えば少しだけ違う。と言うより、知的資産とはもう少し包括的な概念である。
例えば美味しいお蕎麦屋さんがあったとする。その蕎麦屋は伝統と格式の高いお蕎麦屋さんで、そのお蕎麦屋さんの『のれん』に商標権が付いているのであれば、これは知的『財産』になる。対して知的『資産』とは美味しいお蕎麦屋さんの出汁の製法であったり、麺の打ち方であったりの、所謂眼に見えない資産の事だ。銀行界隈ではバランス・シートに表れない財産、などと言ったりする。
「安売りする事によって、長期的なブランドイメージを損なうというお話は良く分かります。どれだけ経営が苦しくなっても、変えてはいけない一線はあるでしょう」
ホテル・ラルキアで言えば、表に掲げる『看板』は知的財産だが、心に持つ『金看板』は知的資産である。そしてアドルフはこの知的資産を見える化し、魅せる化しようとしているのだ。間違ってはいない。
「話が早くて助かる」
「ですが、それが貴方の考える一線と私達が考える一線の違いでしょう」
「……ほう」
「私はホテル・ラルキアがユナ・ホテルと提携をして新しいホテルを作ったとしても、ブランド・イメージを損なうとは考えていません」
「その理由は?」
「私の国には『松竹梅』という言葉があります」
「松竹梅?」
「元々は吉祥を現す言葉ですが、現在では等級を現す言葉です。松が最上級、竹がその次、梅が最下級になります。まあ、地域や時代によっては順序が入れ替わる事があるようですが」
「それが?」
「ホテル・ラルキアはこの松竹梅で言えば松でしょう。最高級の接客と、最高級の調度品、最高級の料理。何処をとっても松に相応しい」
「ありがとう、と言っておこう」
「対して今からしようとしている案件は松竹梅で言えば、松とは言い難い。料理も、調度品も、恐らく接客も、ホテル・ラルキアから見れば確かに松とは言い難いモノになるでしょう。ですが」
それで良いのです、と。
「松竹梅は確かに等級を現す言葉ですが、それは梅をさして松の廉価版だと罵るモノではありません」
「……ふむ」
「梅は梅なりの、その金額の中で出来る最高のサービスを提供します。その上で少しお金に余裕がある人は竹を、もっと余裕のある人は松を選びます。これはつまり――」
「御託は結構。要は、こういう事だろう? ホテル・ラルキアと新しく作るホテルは全くの別物であり、仮にそこで安売りをしてもホテル・ラルキアの看板に傷はつかない。だから、この計画を進めたとしてもホテル・ラルキアの『伝統』や『誇り』を傷つける事は無い、と」
「――その通りです」
「もう一つ、言っておこう」
「拝聴します」
「私は、回りくどい事も嫌いだ。そう思うなら、ペーパーにそう書いておけ」
「……肝に命じます」
「……まあ、気持ちは分からんでも無いがな。勘定では分かっても感情では納得できないものだ。特に『伝統』や『誇り』に拘る人間には、『これは別物だ!』と主張しても無駄だからな」
「失礼ながら、貴方は『そちら』に拘っている方かと思っていました」
「だから、勘定ではなく感情の方に訴えた、か?」
「分かっていらっしゃるでしょう?」
「答え合わせだ。君の話に付き合ったんだ、こちらにも付き合いたまえ」
「……そうです」
浩太の返答に満足したように、椅子に深く腰を落とし大きく息を吐くアドルフ。しばし瞑目した後、その眼を開きクラウスを見つめた。
「クラウス」
「……はい」
「今の話、聞いていたか?」
「……はい」
「お前に、思いついたか?」
「……いいえ。恥ずかしながら、コータさんにお聞きするまで全く気が付きませんでした」
「……ふむ」
そう言って、もう一度深く、深く椅子に腰をかけて。
「――決定は決定だ。クラウス、この案は否決。持ち帰れ」
何事も無かった様に。
「……は――」
「次の会議までに、今マツシロ君から聞いた話を纏めてレポートにしたモノと一緒に再提出だ。今度はもう少し詳細な経営計画を付けろ」
「――い……って、え?」
「この計画に合わせて新たに『戦略経営室』という部署を作る事とする。室長はクラウスで本館総支配人と兼任だ」
「か、会長? え? え?」
「何だ? 自分には荷が重いとか言うつもりではないだろうな? 自分が言いだした事だ。自分で責任を取れ」
「そ、そんな事は言いません! 死ぬ気でやります!」
「死ぬ気でやるとか、精一杯やるとか、そういう根性論は要らない。ただ、結果を残せばそれで――ああ、そうだ。副会長。戦略経営室は」
「会長直轄が宜しいでしょう。何処に任せても利権が絡みます。次回の経営会議では椅子を一つ、増やした方が宜しいでしょうな」
「そうだな。経営戦略室は会長直轄とし、経営会議への参加も認める」
「か、会長!」
「何だ、やかましい。『部』で無いのが不満か? お前が実績を残せば経営戦略部に格上げしてやる」
「そ、そうではなく! この案は否決では無かったのですか?」
「否決だが?」
「では!」
席を立ち、珍しく何時もの柔和な顔を引っ込めて必死の形相を見せるクラウスを面白そうに見つめて。
「私は、『この案件は』否決と言っただろう? なら、次の案件を出すのは当然ではないのか?」
「……は?」
「それに、『持ち帰れ』とも言った筈だが? 箸にも棒にもかからない案件なら持ち帰れ等とは言わん。破棄を命じる」
「で、では、そ、その!」
「大筋では承認だ。次回の会議は結果ありきの会議になるだろうが……まあ、それは良い。ああ、それと」
そこで言葉を区切り。
「『ユナ・ラルキアホテル』という名前は辞めろ。『ラルキア』の名前を先に持ってこい。これは譲らん」
ケチなプライドだがな、と自嘲気味に笑い。
「さて、それでは本日の会議は閉会とする。異論は?」
誰も手をあげず、言葉を発しない事を確認して満足そうに頷きアドルフは腰をあげた。
「それでは本日はこれで解散。次回会議まで皆、業務に精進するように」
そう言って、円卓を離れてドアに向かうアドルフの背中に。
「……待って下さい」
「なんだ?」
「最初から、既定路線でしたね?」
「言っただろう? 『持ち帰れ』と」
「……掌で遊ばされましたか」
「一つ、言っておこう」
そう言って、背中に声をかけた浩太を振り返って。
「人の話は最後まで聞き、自分の頭で理解し、言葉の裏を読め。なるほど、なかなか智恵は回る様だが」
まだまだ甘いよ、と。
その言葉を残しひらひらと手を振って講堂を後にするアドルフを、浩太は最敬礼で見送った。
◆◇◆◇◆◇
「宜しかったのですか?」
ホテル・ラルキア大講堂より、会長執務室に歩くアドルフ。その隣を並走するヴェルナー副会長の言葉に、アドルフは歩みを止めた。
「何がだ?」
「先程の決定です」
「先程の決定、というと……ああ、クラウスの案件の事か?」
目礼をしてすれ違うスタッフに片手をあげる事で返礼とし、アドルフはその視線をヴェルナーに向ける。
「何だ? ヴェルナーは反対なのか?」
「いいえ、決してそうではありません。確かにホテル・ラルキアの経営状態はお世辞にも良いとは言えないですし、ある程度リスクを取った経営も必要でしょう」
「まあな」
「会長はああ仰られていましたが、ホテル・ラルキアの『看板』は間違いなく傷つきます。泥に塗れるとまでは言いませんが、我々が接するお客様の中には眉を顰める方も多いでしょう」
「現実、そうだろうな。頭が痛い所ではある」
「そこまで分かっていながら御承認なされたので?」
「そっくりそのまま返そう、ヴェルナー。多少のリスクは許容しなければならないさ。それに結局の所、何も変わらないしな」
「と、申しますと?」
「眉を顰めた所でどのみちホテル・ラルキアに泊るさ、そういうお客様は」
「……」
「マツシロ君に言った事もあながち嘘では無い。我々は『ホテル・ラルキア』だ。我々以上に最高のサービスを提供するホテルが無い以上、提携したホテルがどうであれ、それによりホテル・ラルキアの金看板が汚れた所で泊るお客様は必ずホテル・ラルキアに泊る。『金看板が!』という感情論を抜きにすればそんなに悪くは無い提案だよ、今回のは」
「問題はそこですな」
「問題?」
「提案、と仰いましたが会長。アレは、クラウスのアイデアではありません」
「……ズバリと言ったな」
「アイデアの大本はサーチ家の御曹司が持って来たもの。それの詳細を詰めたのは、テラから来たあのマツシロという御仁。それで『クラウスの案』というのは無理があるのでは?」
ヴェルナーの、まるで責める様な視線に肩を竦め。
「アイデアを出してくれ、その詳細を詰めてくれる友人が居る……というのは、得難い財産だとは思わないか?」
「……否定はしません」
「我々、ホテル・ラルキアの人間は『お客様』以外に頭を下げるのが下手くそだ。どれ程良いアイデアでも、中々素直に意見を受け入れるのは難しい。ご大層な『誇り』が邪魔をするからな」
「悪しき風習ですな」
「それも含めてホテル・ラルキアだ」
一息。
「……だが、クラウスは意見を受け入れた。頭を垂れて教えを乞い、真摯にそれを実践しようとした。アイデア自体も悪いモノでは無い。ならば、承認するのは吝かでは無い」
「他人の意見を受け入れすぎるのも問題だと思いますが?」
「クラウスはまだ若い。人の意見を聞き、素直に実践した事を論えて欠点と捕えず、人間としての伸び代を残していると解釈しても……まあ、バチは当たらんだろう?」
「……そうですな。それでは、そういう事にしておきましょう」
「それに」
「それに?」
「私は……少しだけ、嬉しかったんだ」
ガラスの向こうに見える中庭。そこでは浩太とベロア、エルにシオンとクラウスが楽しそうに談笑している姿が見て取れた。
「……笑顔、か」
『別に、ホテル・ラルキアが悪いって訳じゃねえけどよ? それでもお前、堅苦しい礼儀作法を教え込まれるだけじゃつまんねーだろ? 俺が作った料理喰って、ギャンブルで勝った、負けたで酒飲んで騒いだ方が楽しいだろ? そら、喧嘩もあるけどよ……ま、その後仲直りして一緒にバカやった方が楽しいんだよ。俺はな、アドルフ。客の笑顔の為に店やってる様なもんだからよ』
「……クラウスはやはり、貴方の孫ですよ」
「孫?」
「バルド・ブルクハルト。私が尊敬するホテルマンだ」
「……ああ、クラウスの実家の。そう言えば貴方は若い頃から良く遊びに行っておられましたね」
「正直に言えば、クラウスをローラから連れだした事に少しだけ罪悪感はあった」
「クラウスの顔に貼りついた様な笑みが浮かびだしてからは特に、ですか?」
ああ、と頷き。
「私が口を出しても根本的には何の解決にもならないからな。見ているだけとはあれ程辛いのかと思ったさ」
「勝手な話ですな」
「勝手な話だ」
それでも、と。
「……クラウスは何とかすると信じていた。バルド様の孫だからな、クラウスは」
「見事に期待に応えた、と?」
「辛うじて合格点ぐらいだな。それでもいつも周りの顔色ばかりを伺っていたあのクラウスが、正面切って私に意見をしたんだ。十分評価するさ」
そう言って、窓の外にもう一度視線を向ける。そこでは、皆に胴上げされて照れた様な、それでいて嬉しさを隠しきれない『本当の』笑みを浮かべるクラウスの姿があった。
「……精神論は好きではないが」
珍しく、優しげな笑みを湛えて。
「……頑張れ、クラウス」
囁く様に、一言。
優しい笑みを、経営者の顔に変えてアドルフは窓から眼を離し、たまっている執務をこなす為、その歩みを進めた。
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