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三角関係

ロック界の元祖不倫ソングと言えば、やっぱり「いとしのレイラ」でしょうね。
今回の話は複雑で、長編昼メロドラマのような感じです(笑)
長いですけど、有名な「Layla」の背景が分かるので、読んでみてくださいね!!


  

この歌は、皆さん知っての通りエリック・クラプトンが親友のジョージ・ハリスンの妻、パティへの恋心を歌ったものです。

クラプトンはパティに会いたい一心で、色々理由をつけては、ジョージの家を訪れていた。

パティとジョージが出会ったのは、「ア・ハード・デイズ・ナイト」の監督、リチャード・レスターが彼女にちょい役を与えたことがきっかだった。この役を通して、ジョージとの仲は深まり、66年に婚姻届けを出している。

当時のクラプトンは、デラニー&ボニーから必死に離脱を考えていた。他のメンバーがあまりにもクラプトンの名声に寄りかかろうとしていたからだった。
こんなクラプトンに声をかけたのが、後のデイレク&ザ・ドミノスのメンバー達だった。
この呼びかけに乗ったクラプトンは、自宅でリハーサルを繰り返した。ジョージ・ハリスンとの仕事も始め、その大半は後のトリプル・アルバム「ALL THINGS MUST PASS」に収められた。このセッションの間、クラプトンは空き時間がたっぷりとあったのでスタジオに差し入れされたヘロインとコカインにどっぷりと浸かっていた。

また、彼はかなりの時間をパティと共に過ごし、自分の気持ちを伝えられずにいた。
やがて、失敗を繰り返した後、とうとうクラプトンは愛の告白を行ったが、彼女の反応は冷ややかだった。

辛い状況に耐えかねたクラプトンは、セッションの仕事に自ら没頭させていった。
そんな仲を知ってか知らずか、ジョージはドミノスに無料でスタジオを貸し出したり、プロデューサーのフィル・スペクターを紹介してやったりしていた。

そして、ディレク&ザ・ドミノスはマイアミに飛び「LAYLA」セッションを開始。
ふたりの共通の友人が、二人の関係に良く似ていると思ったのか、クラプトンとパティにガンジャヴィ・ニザーミという作者による「The Story Of Layla And Majnun」と題された、ペルシャの愛の詩の本を送った。

この詩の筋は、レイラという月の姫君にどうしようもなく恋焦がれたケイスというひとりの若者の情熱的な物語である、彼女の父親が娘に他の男との結婚を強いたことを知った時、ケイスの彼女に対する愛は偏執的なものになり、その思いの激しさのあまり常軌を逸したようになり、レイラに会うことを禁じられてしまう。取り乱し、街の通りをうろつくケイスが、皆から「Majnun」(ペルシャ語で「狂気」の意)と呼ばれるところで、物語は終わる。
クラプトンはこの物語のアイディアを暗号化してパティへのメッセージを託すことを考え出し、彼女を大いに感激させた。

ツアー中もヘロインに明け暮れ、故郷に戻ったクラプトンはパティとの偶然の再会が二人の激しい情熱の一夜をもたらした。
その後も二人はクラプトンの家で密会を重ねたが、程なくして罪悪感にかられたパティは、関係を終わらせることを決意した。クラプトンはどん底へと叩き落とされた。

「Layla」のリリース当初のセールス的失敗と、父方母方両方の祖父の死、さらに友人ジミ・ヘンドリックスの急死など短期間の間に立て続けに起こり、そこへ追い打ちをかけるようにパティからの突然の拒絶が、さらなる麻薬の海へと紛れ込ませた。

ドミノスの2ndアルバムのレコーディングに入ろうにも、クラプトンが麻薬でほとんど役立たず・・・。
クラプトンは家に引きこもり、ドアの鍵を総て閉めた。それから2年間、クラプトンはヘロインに溺れ続けた。

そんな彼を救ったのは皮肉にも。ジョージ・ハリスンだった。幸せなことに彼は、自分の妻とクラプトンの関係に気付いていなかった。
ジョージは定期的にクラプトンの家を訪れ、遂には家から引き出し、バングラディシュのコンサートに参加させようと企てる。

ヘロイン切れの状態でステージに立ったクラプトンは、ぷるぷると震えながらよろよろと歩き回り、必要最低限のソロで面目を保った。
この旅の間中、彼の隣りにいたのは、上流社会でデビューしたばかりの、ハーレック仰の裕福な一人娘、18才のアリス・オームスビー・ゴアだった。
ふたりは60年代末、彼女が16の時に、チェルシーの社交場で知り合ったのである。
クラプトンとアリスはそれから3年間、サリー州にあるかれの大邸宅で一緒に暮らし、ひたすらヘロインに溺れる毎日を送った。
彼等は74年に治療を受け、その直後に二人の関係は終わった。

クラプトンが74年に再びアメリカに戻って来た時、パティ・ハリスンが彼の恋人であることを知って驚いた人は少なくなかった。
ジョージは「恋愛とロックンロールにおいては全てがフェアなこと」と強がった。
結局、パティとジョージは破局を迎えた。

クラプトンとパティは79年のアメリカ・ツアーが始まる時、アリゾナ州トゥーソンでバンドのクルーとわずかな友人達を集めひっそりと式を挙げた。
その後、サリー州の大邸宅で、ロック界の有名人揃い踏みのパーティーを開いた。ジョージやポール、リンゴが皆天幕の中で演奏した。

結局、クラプトンとパティの仲も長続きせず、86年にクラプトンがイタリア人のモデル、ロリ・デル・サントと関係し、息子のコナーが誕生したのをきっかに離婚している。

それにしても、ジョージはパティの為に名曲「サムシング」を捧げ、クラプトンは「レイラ」を捧げた。
ふたりが競演したコンサートでも演奏しあっているんだから、なんだか変でしょ?
そして、今でもこの名曲達は演奏され続けている。
いったい、ふたりはどんなことを思い描きながら演奏しているのだろうか?

歴史の影には必ずといって良い程、女の影がある。
そして名曲の影にも・・・。