第三十話 それぞれの思惑・前編
ライム都市国家同盟大統領官邸において、ライム七都市を統括する男アルベルト・バルバートは一人爪を噛んでいた。あまり良い癖とは言えないが、アルベルトは悩むと自身の親指の爪を噛む癖がある。童顔で、年よりも若く見られがちだが、四十三歳という彼の年齢を考えれば子供っぽい癖と言わざる得ない。
「……クソがっ!」
およそ国家元首らしからぬ悪態をつきながら、アルベルトは手元においたオルケナ全土の地図を引っ張り寄せる。その悪態もまた、癖同様に子供っぽい。
「大統領閣下。その様な汚い言葉を使われては困ります。国家の品位に関わりますので」
そんなアルベルトに、大統領首席補佐官クラリッサ・ダマートは冷たい眼を向けた。綺麗な銀髪を肩で切り揃え、前髪はパッツン。学生時代から変わらないその髪型は『もう少し身なりに気をつければ?』とすこぶる評判だ。無論、悪い方に。もし此処に浩太がいて、批評を求められたならば、迷いながらも『ヘルメット』と評価を下すであろう。ヘルメットの下の顔も、決して造形に問題があるわけではないのだが……こういっては何だが、非情に地味である。十人が九人振りかえるであろうエリカや、ある特定の人にはご褒美のエミリ、犯罪と分かっていても手を出してしまうソニアと比べるのは、余りにも酷である。
「うるせぇよ、クラリッサ! 何が大統領閣下だ!」
「閣下は閣下です、アルベルト・バルバート大統領閣下。経緯はどうあれ、今現在貴方こそがこのライム都市国家同盟の大統領で、代表者です。それをお忘れなきよう」
クソがっ! と叫びかけた台詞を口の中で舌打ちを打つだけに留め、アルベルトは地図に眼を落とす。
ライム都市国家同盟は自治権が認められた七都市、即ちアバーテ、バッソ、カファロ、ダニエリ、エーコ、ファーノ、ガッダの各都市の寄合所帯である。各々は各々の代表者たる執政官を選挙で選び、その執政官の合議で『ライム』という国家の運営を決める。合議は純粋な多数決で在り、四都市の執政官の賛成を得なければどれほど優れた政策であってもそれが国政に反映される事は無い。良いか悪いかはまあ別にして、民主主義の原則に則った政治システムではあろう。少なくとも、大多数の意見は聞く事が出来る。
「……」
が、『大多数の意見』を聞く時間が無い時、この政治システムは一気に弱くなる。国の頭脳が決めた方が早い事も良い事も幾らだってある。
ライムは此処に安全弁をつけた。『大統領制』である。国家の非常時に、執政官の合意を得る事無く、無制限で『ライム都市国家同盟』のその全ての権限を行使する事が出来る。内政、外交、軍事、その全てである。
「……クソがっ!」
もう何度目になるか分からない、そんな悪態をつく。
アルベルトは元々、ライム各都市で抜群の知名度と人気を誇る、大衆演劇の俳優であった。その甘いマスクと抜群の演技力は各都市の淑女を虜にし、アルベルトの楽屋に花が絶える日は無いと言われる程。特に『建帝紀』のアレックス役は彼の当たり役と言われ、容姿不確かであったアレックスに『美男子』という認識を持たせるに至る。恐らく、アレックスは草葉の陰で苦笑をしているであろう。
「ですから閣下、そう悪態を吐かれず」
「うるせぇよ!」
アルベルトは三十を越えて俳優業を引退し、第二の舞台を政治に見出した。元々、抜群の人気を誇るアルベルトである。引退後直ぐに行われた選挙で、出身地であるエーコの議員、三十七歳でエーコ執政官に選出された。以来六年間、彼はエーコの執政官として着実に実績を重ね、この度の国難に当たって大統領という要職についた……訳ではない。
「……結局、俺は『捨て駒』かよ」
所詮、人気だけでエーコの執政官についたアルベルトだ。自分よりも二十も上の他の都市の執政官には実力面では数段、劣る。ちなみに、先物暴落から賠償請求の突き付けまでは彼の責任ではない。人気取りの為に大統領就任を要請したアバーテ出身の大統領の責任だ。ジェシカ姫の死、ラルキアからの宣戦布告を受けた辺りでアバーテ出身の大統領は尻尾を巻いて逃げだし、御鉢が回ってきただけ。政治力の差で最高権力者の座を……裏を返せば、『戦犯』の地位を押し付けられたにすぎない。
「何が『この国難は君しか乗りきれない』だ!」
アルベルトの人気は老いても尚、衰える事は無かった。演劇で鍛えた抜群の声量と、ユーモアを交えた選挙広報、身振り手振りを加えた演説は確かにカリスマ性を備えていた。明らかに後手後手に回った今回の戦争、どの様な結果になろうと国民にある程度『納得』させる為には人気も必要だ、という判断もある。あるが、それは後付けに過ぎない。『首』を差し出すのに丁度良いのがアルベルトであっただけの話だ。
「……」
落ち着く為に水差しからコップに水を汲み、一口。再びアルベルトは地図に眼を落とす。
「……不味い、よな」
アルベルトも政治の舞台に立ってから十年以上経つ政治家だ。そこらの素人よりは十分政治に詳しく……そして、その経験から見てもこの状況は非常に不味い。
「……どうすりゃいいんだよ」
『戦争』とは従来、外交の一種である。話し合いで解決から、拳骨で解決に切り替えただけの事。本来であれば……例えば領土の割譲であったり、賠償金の支払いであったり、或いは経済政策での譲歩であったりの、所謂『落とし所』が存在する。
……が、今回は違う。戦争の動機が『復讐』なのである。事実、ラルキア側からの要求は一切ない。どころか、完全に没交渉である。一体、何処で納得してくれるのか、皆目見当がつかない。
領土を割譲すれば、収まるのか?
賠償金を支払えば、収まるのか?
ライム全てが、ラルキアに屈すれば収まるのか?
自分の首を差し出せば、収まるのか?
ライム全てが焦土となれば、収まるのか?
それとも……ライム国民全てが犠牲となれば、収まるのか?
「……くっ」
寒くも無いのにアルベルトの体がぶるりと一つ、震える。アルベルトとて常識で考えて『国民全滅』など有り得ないと思っている。思っているが、しかし、である。
「まるで、宗教戦争ですね」
「クラリッサ?」
「『ラルキアの恋人』を殺した『悪魔』が死に絶えるまで、許さない。まるっきり狂信者です」
それがイメージとしては一番近く、そして、だからこそ一番厄介。理でも利でも説けない相手など、交渉の仕様が無い。
「ジェシカ殿下も不味い方法を取ったモノです」
「……クラリッサ」
「『死』は安易で、最も簡単な逃げ道だと思います」
「クラリッサ」
「そもそも、最初に過大な要求をするのは外交の基本です。ここから交渉を重ね、妥協点を探すのが『外交』というもの。最弱手に、最初から最強の切り札を切るなど、悪手も悪手。愚かとしか言い様がありません。いえ、愚かを通り越し、最早哀れとすら――」
「クラリッサ!」
執務室に、静寂が走る。
「……死者を愚弄するのは、辞めろ」
「愚弄ではありません。事実を述べただけです」
「お前、まだ言うつも――」
「ですから、閣下。貴方は『死』などという安易な方法で解決を図る事をしないで下さい」
「……」
「貴方が悪い訳では御座いませんし、貴方一人が死んでどうなる問題でもありません。足掻き、もがき、泣き、苦しみ……どれほどみっともなくて、格好悪かろうが、『生きて』解決して下さい。本当にイヤなら、就任を拒否する事も出来た筈です」
「出来るかよ!」
「なぜ?」
「なぜって……」
「国の事などどうでも良ければ、国民の事など関心が無ければ、貴方は全てを捨てて逃げる事も出来た筈です。それを何故、されなかったのですか?」
「そりゃ……お前……」
「何だかんだ言って、貴方はこの『ライム』という国が好きなのです。ライムという国家も、そこに住む人も全てが好き。だから、どう考えても貧乏くじである大統領だってイヤイヤながらも引き受けた」
違いますか? と問いかけるクラリッサに、アルベルトは沈黙で返す。
「沈黙は肯定ですね。国民の為に大統領という要職を引き受けられたのであれば、最後までその職務を全うして下さい」
及ばずながら、と。
「私も微力ながら最大限の力を尽くさせて頂きます」
クラリッサの言葉に、アルベルトはふぅーっと息を吐く。
「……状況はクソ程不味い。分かってるのか?」
「ええ」
「オルケナ中、敵ばっかだ。誰もライムの味方なんてしてくれない」
「そうでしょうね。私も大統領補佐官で無ければ口汚くライムを罵ります」
「えらくきついな」
「嘘を言っても仕方ありませんから」
「……相変わらず、可愛げのない奴だな」
「性分ですので」
「まあいい。加えてウチのジジイ共は俺の味方なんかしてくりゃしねえ。手詰まり何だよ、マジで」
そう言って、肩を竦めて見せるアルベルトに、クラリッサが溜息を一つつき、呆れたようにやれやれと首を左右に振って見せた。
「……何だよ?」
「私は貴方に仕えて六年になります」
「俺が執政官になってからだから……ああ、そんなもんか?」
「ええ。大学を出たばかりの麗しき乙女だった私も既に二十九です。同期が次々と結婚していく中、完全に行き遅れてしまいました」
「色々言いたい事はあるが、『麗しき乙女』ってどんだけ面の皮が厚いんだよ、このパッツン娘」
「私を『娘』と言ってくれるのはもう閣下だけです」
「庁舎内では『お局様』って呼ばれてるしな? 『バッサリ』やり過ぎ何だよ、お前は。こう、もうちょっと人間関係を大事にしろよ?」
「善処はします。実行するかどうかは別ですが」
「お前という奴は……」
「まあ、それは良いのです。話を戻しましょう、閣下。先程貴方は、オルケナ大陸中の国家は敵だらけ、更に国内にも味方はいないと仰いましたが……」
そこで、不思議そうに小首を傾げ。
「……今までと、何が違うのでしょうか?」
「……は?」
「ライムは自治都市国家です。そんなライムが王制や、それに準ずる政治形態を布くオルケナ各国家と真に『良好』な関係を築けていると閣下、まさか主張されるおつもりでは無いでしょう?」
ライムの『自治』は建国帝アレックスが認めた正当にして正統な政治形態だ。為に、『フレイム帝国の遺児』として各国からその独立を承認されている。が、国王を頂点とする他の国家から見れば異端も異端。自らの政体を、『王制』を維持する上で非情に厄介なモノだ。なんせ、望めば誰でも『王』になれるのだ。しかも、反乱や戦争を伴わない、平和的な方法で。
「国内の味方だって最初から居ないでしょう? 貴方のお言葉を借りるのであれば、『クソジジイ共』は少なくとも貴方にお仕えした六年間、政敵でありこそすれ、仲間であった記憶は私には御座いませんが?」
「……」
「何時だって貴方は政敵たちと『戦争』を繰り広げていたではありませんか。俳優上がりの、不敬と承知で言わせて頂ければ『学の無い』貴方は、何時だってあの手この手で足を引っ張り合う執政官との戦いに、徒手空拳で打ち勝って来たではありませんか」
「そりゃ……俺は、役者上がりだからよ? 学は無かったけど、人気はあったし……それに、運も良かった。だから――」
「役者上がりと仰るのであれば、最後までそれを貫き通して頂きたい」
「は? 貫き通す?」
「貴方の当たり役……『建帝紀』でのアレックスは、こんな状態でも『何とか』して来たと記憶していますが?」
何時もの様な無表情に、すこしだけの笑みを浮かべてそういうクラリッサの姿に。
「……舞台と政治を一緒にするんじゃねえよ」
ふいっと顔を逸らすアルベルト。
「一緒です。演劇も、政治も、ただ『演じる』のみ。舞台があり、役者が揃ったのであれば演じましょう。緞帳はおりてませんし、エンディング曲はまだ聞こえていません。ならば」
さあ。
まだまだ、『演じて』下さい、と。
「演じて下さい、『ライム都市国家同盟大統領アルベルト・バルバート』を。演目は多種、演題は多様。悲劇も、喜劇も、お涙頂戴の感動話も、抱腹絶倒の笑い話も、アレックスの様な奇跡の軌跡も、その全てを演じる資格と権利が貴方にはあります」
その、クラリッサの言葉で。
アルベルトは憑き物が落ちる様な感覚を覚えた。先ほどまで浮かべていた笑顔は消え、眼の前にあるのは何時もの無愛想な地味顔。状況は何にも好転してはいない。
……にも、関わらず。
「……は。はっはっははは! 面白いじゃねえか! そうだよな! 何、難しく考えてたんだろうな、俺!」
可笑しくて、仕方ない。
「分かって頂けましたか?」
「ああ。最初から、俺の政治家人生なんてずっと敵ばっかだ。そもそも、役者だった俺が政治家って時点で十分喜劇だ。なら、演じきってやるよ? 建帝紀なんてメじゃねえほどの最高の当たり役、アルベルト・バルバートを! ライムのスター、アルベルト様の一世一代の大芝居だ! 悲劇でも喜劇でも、何でも演じてやる」
そう言って、快活に笑い。
「クラリッサ。お前の好きな、お前の好みの演目を演じてやるよ! さあ、言ってみろ。どんな演目が好みだ? 喜劇か? 悲劇か? おっと、最後はハッピーエンドだ。これだけは譲れないぞ?」
笑みを浮かべたまま、クラリッサに問いかけて。
「……そうですね。それでは、ラブストーリーをお願いします」
その笑みが、固まる。
「……は?」
「困難を乗り越えた大統領が、首席補佐官と恋に落ちる、そんなラブストーリーを所望します」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……おい」
「何か?」
「『何か?』じゃなくて! いや、その、お前……正気か?」
「一世一代の告白で正気を疑われると、若干以上に傷付きますが?」
「あ、わりぃ……じゃなくて!」
尚も言い募るアルベルトを制し、クラリッサは口を開く。
「貴方に出逢ってから六年間、ずっと貴方を愛していました。正直に言いましょう。ジェシカ姫の死に託けましたが、もしこの戦争で貴方が死ぬ事があれば、私はラルキア国民の怒り以上のモノを彼らに向ける自信があります」
「……捨てちまえ、そんな自信」
「それぐらい、貴方を愛しているという事です」
「……」
「俺の何処が? とは聞かないのですか? こういう時のお約束だったと記憶していますが?」
「顔?」
「それも否定はしません。ですが、一番の理由は貴方の『泥臭さ』です」
「泥臭さって……お前、俺一応、ライムで一番人気の役者だったんだぞ?」
「毎日徹夜で政治書や軍事書を読み漁って睡眠不足でフラフラ、眼の下にクマを作りながら、それでも演台に立って笑顔で演説をする貴方は十分泥臭いと思いますが?」
「……知ってたのかよ?」
「自らの弱い所を認めるのは勇気がいる事です。貴方は自身が政治的な経験も、政治的な才能も、政治的なセンスも無い事を自覚して、そしてそれを補おうと努力されていました。その姿は非常に好意的に私の眼に映り……まあ、気が付けば『どっぷり』です」
「『どっぷり』ですか」
「『どっぷり』です」
「……」
「感想を伺っても宜しいでしょうか?」
「感想って……ありがとう?」
「どういたしまして」
「……」
「……」
「その……なんだ。付き合って……みるか?」
「私は嬉しいですが……宜しいので? 正直、私は自身の容姿が貴方に釣り合うモノだとは思っておりません。吐き気を催す程顔の造形に難があるとは思っておりませんが、十人並だと思っております。加えて私は愛嬌がある方ではありません。重ねて、私はこう見えて結構な乙女です。貴方に理想を押し付け、少なくない我儘を言う自信があります。貴方にとって私と付き合うメリットは殆ど無いと思いますが?」
「……お前、俺の事本当に好きなのか?」
「当然です」
「その割には随分と後ろ向きな発言だとおもうんですが?」
「いざ男女の仲になって、幻滅されるのは嫌ですので」
「乙女か!」
「乙女です」
しれっと答えるクラリッサ。アルベルトは大きく溜息をつき、慣れた手つきでクラリッサを抱き寄せた。
「……セクハラですか?」
「恋人の触れ合いだよ」
「その……先程も申しましたが、私と恋仲になるメリットは殆どありませんよ? 貴方ならもっと綺麗な女性もよりどりみどり、選びほ――」
「うるせぇよ」
先ほどよりも、少しだけ強く抱きしめ。
「乙女なら黙って抱きしめられとけ」
「乙女なら、ですか?」
「ああ」
「……」
「……」
「……その」
「あん?」
「こういう時、眼を瞑って顎を浮かせて待って置くべきでしょうか?」
「……どんな質問だよ、それ」
「申し訳ございません、経験がありませんので。一体どういう態度が貴方の好みか、皆目見当がつきません」
「取りあえず、そういう事を聞かない女が好みだな」
「そうですか。では閣下――」
「あと、こういう時にアルベルトって名前で言ってくれる女が好み」
「……」
「閣下はねぇよ、閣下は」
「……あ、アルベルト……さん」
「『さん』はいらない」
「……アルベルト」
「おう」
「アルベルト」
「何だ?」
「アルベルト」
「うるせぇな。だから――」
ふんわり、と。
まるで、おもちゃを貰って喜ぶ子供の様な、優しい、無邪気な笑みを浮かべるクラリッサの姿がアルベルトの眼に映る。
「……あ、やべぇ」
「なにが、でしょうか?」
「俺も結構、『どっぷり』かも」
「……本気、ですか?」
「イヤか?」
「天にも昇る気持ちです」
「ならよし」
そう言って二人で見つめあい、苦笑。
「……そんな顔も出来るんじゃん、お前」
「何だと思っていたんですか、私の事を」
「無愛想で無表情な部下に決まってるだろう?」
「不当な評価です。訂正を要求します」
「正当な評価だ。ま、お前はそれで良いよ」
「良いのですか?」
「俺の前でだけ素直だったらな」
「……本気にしますよ、か――アルベルト」
「俺は、嘘は言わない」
「政治家なのに?」
「政治家なのに」
「わかりました。それではアルベルトの前でだけ、素直になっておきましょう」
そう言って、アルベルトの胸に素直に顔を埋めるクラリッサ。さらさらな銀髪と、かすかに鼻腔を擽る香料に、アルベルトの胸が年甲斐もなく高鳴った。
「……ドキドキって聞こえますよ、アルベルト」
「興奮してんだよ」
「私に?」
「この状況でお前以外に興奮してたら怒るだろう?」
「ええ、烈火のごとく」
どちらからともなく、笑いあう。
「……アルベルト」
「なんだ?」
「やはり、眼を瞑ってじっと待つのが礼儀では無いのでしょうか?」
「そういう事は、聞かないのが礼儀」
ついっとクラリッサの顎を持ち、上を向かせる。心持、上気した頬のままクラリッサがその仕草に素直に従い、瞳をそっと伏せる。やがてアルベルトの唇がクラリッサにゆっくりと降りて行き――
「閣下! た、大変で……閣下? ど、どうしたのですか? 部屋の隅で蹲って」
バーンとけたたましい音と共に、大統領執務室に駆けこんだ第二補佐官は少しだけ頬を赤く染めるクラリッサと、『腰がぁ! 腰がぁ!』と言いながら部屋の中でのた打ち回るアルベルトの姿を見て絶句する。
「……何か、あったんですか?」
『そいつです! そこで『何もありませんでしたよ?』みたいな顔して平然としてるそいつに、音が鳴った瞬間に光の速さで突き飛ばされたんですよ!』とは……まあ、流石に言えず、何事も無かった様にアルベルトが服の裾を叩いて立ち上がる。
「……どうした、騒々しい。それと、ノックぐらいはする様に」
「は! も、申し訳……あの、閣下? 本当に大丈夫ですか?」
腰を押さえて再び蹲るアルベルトに心配そうな眼を向ける第二補佐官。それを、クラリッサの咳払いが制す。
「それで? 一体何事ですか?」
「……はっ! そ、そうです! 大変です!」
「ですから、何が?」
少しだけ、イライラ……早く話ださない以外の理由も沢山ある……イライラそのまま、促すクラリッサに。
「そ、その……実は」
話し始めた第二補佐官の台詞に、クラリッサがポカンと口を開け。
「……閣下」
「……ああ」
同じ様に、ポカンと口を開けるアルベルトに視線を向けて。
「……マジ?」
そんな台詞が、アルベルトの口から漏れた。
◆◇◆◇◆◇
「ロッテ!」
フレイム王宮の宰相執務室で、回ってくる書類に眼を通していたロッテはバーンという音と共に開かれたドアに眼を向ける。
「陛下。扉は静かに開けて下さい、はしたない」
視線の先には、額に珠の様な汗を浮かべて睨むリズの姿があった。
「どういう事ですか!」
「何がでしょうか?」
「とぼけないで下さい!」
つかつかと大股でロッテの机の前に立ち、両の手でバーンと机を叩く。部屋に飾ってある花瓶が少しだけ震えた。
「ライムです!」
「ライム?」
「そうです! 貴方、『ラルキア王国との講和の仲裁に立つ準備がある』と、ライムに使者を送ったそうですね!」
「それが――」
喋りかけ、主を立たせたままだった事に気付いたロッテはリズに椅子を勧め、『結構です!』と断られると自ら腰を上げた。流石に、不敬に当たる。
「何か問題がありますか?」
「あります! ライムはジェシカを殺めた犯罪国家です! 許す事など出来ませんし、許すつもりもありません! 撤回を申し出なさい!」
怒りで顔を真っ赤にし、こちらを睨みつけるリズに大袈裟に溜息をついて見せるロッテ。その姿に、リズの怒りのボルテージがマックスまで上がる。
「何ですか、その態度は!」
「失礼。ですが、陛下。ライムに撤回を申し出て、その後はどうするおつもりですか? まさかライム相手に宣戦布告をすると、そう言われるおつもりですか?」
「当然です!」
リズの母親、アンジェリカはラルキア出身で現ラルキア国王の妹。そのラルキア国王の娘であるジェシカは、リズにとって従妹に当たる。
リズとジェシカは仲が良かった。元々、フレイム王国とラルキア王国は兄弟国であり、オルケナのどの国家よりも関係が濃い。ジェシカが『ラルキアの妹』と呼ばれていた様に、リズにとってもジェシカは可愛い妹分であったのだ。
「……どうか冷静に、陛下。陛下とジェシカ様の交友関係はこのロッテも拝見しておりました。まるで実の姉妹の様に仲睦まじく、不敬ながら見ていて『微笑ましい』という感情を覚えたのも一度や二度ではありません」
ロッテとて、エリカの真似をして、ジェシカに『姉』として振る舞うリズの姿に、『リズ様もご立派になられて……』と、ある種感動にも似た感情を覚えたのも一度や二度では無い。
「ですが……それとこれとは話が別に御座います」
これは、『外交』の話である。
「別?」
「まず、一つ。現在、我が国とウェストファリア王国との関係は決して良好ではありません。この状態でライム相手に宣戦を布告するなど愚の骨頂でしょう」
「そんなの、今に始まった事ではないでしょう!」
ウェストファリアとフレイムは伝統的に仲が悪い。小競り合い程度の紛争は日常茶飯事、もう何十回目になるか分からない平和条約が結ばれているのが現状だ。
「ライム相手に宣戦などすれば、ウェストファリアは嬉々として我が国に宣戦布告をしてくるでしょう。街の一つ二つを取って即休戦。何時もの手です」
ウェストファリアの、とはロッテも言わない。フレイム王国だって似た様な事はしょっちゅうやってる。強いて言うなら両国の何時もの手、だ。
「縁も所縁も、とは言いませんが、他国の為にフレイムの領土をウェストファリアに譲り渡すのは業腹です」
「でも……それじゃ、ジェシカが報われないわ!」
あのお優しいジェシカ姫が戦争を望んでいたとは到底思えませんが、とはロッテも流石に口に出さない。言えば、感情的な話になるのが眼に見えているから。
「二つ目です。戦争の経緯から、ラルキア王国は恐らく止まる事が出来ません。する、しない、の選択では無いのです。出来ない、のです。国王自身も止めるつもりは無いでしょうし、民衆とてそうです。『ラルキア王国』という国家が滅びるか、『ライム都市国家同盟』という国家が滅びるか、その瀬戸際まで戦うしか無い」
現実的にソコまで行くとはロッテも思っていない。いないが、領土や金銭では無い、最も厄介な『感情』というのがこの戦争の動機だ。納得するまで戦うしかないし、果たして何処で納得してくれるのか、ロッテにも分からない。万に一つ、全滅まで戦う覚悟だって無いとは言えないのだ。
「それとも……アルベルト、と申しましたか? あの大統領に自らの命を持って償え、とでも仰りますか? なるほど、命を持って命を償うのが一番早い。ならばそう進言を――」
「や、辞めて下さい! 本気で言ってるのですが、貴方は!」
そこまで喋って押し黙り睨みつけるリズに、ロッテは尚も続ける。
「フレイムとラルキアは兄弟国家。感情的になっているラルキアも、フレイムの言う事ならば多少なりとも耳を傾けるでしょう。復讐は何も生まない、などと青二才の様な事を言うつもりは無いですが、生産的で無い事は事実です。オルケナ大陸全体で見ても損こそあれ、得は一つもありません。落とし所を見つけて上げるのが、両国にとっても幸せでしょう」
勿論、フレイム王国に取っても、と胸中でロッテは付け加える。
慈善事業をやっている訳ではないのだ。ロッテとて当然計算がある。『不味い』とライムという国家が思っている以上、ある程度の譲歩は簡単に引き出せる。事実、ライムから届いた返書では『可能な限り最大限の賠償は約束する』とある。
ラルキア王国にしたって、そう。今はまだ『怒り』という感情で走っているがそんなもの、何時までも続くものでは無い。ラルキア国王自身、クレバーな政治家でもある。ある程度『怒り』が満たされた辺りで講和の話を持って行ってやれば喜んで飛び付くだろう。
フレイムにとっては楽な仕事だ。片方が殆ど無条件で講和を欲している以上、難しい案件である筈が無い。そんな簡単な案件で、ライム・ラルキア両国に『貸し』が作れるのであれば、ロッテで無くとも飛び付くだろう。
「ですが……ですが、納得できません! ラルキアはフレイムと同根の国家です。それでなくともライムの行いはオルケナ各国から非難を浴びているのに、それを庇うなど……国民も納得しない筈です!」
「ラルキアに加担した為に領土を奪われでもしたら、ソレこそ国民は納得しないと思いますが」
「で、ですが! 他国は!」
「他国からの評価は概ね好意的です。まあ、フレイム王国だから許されるというのもありますが」
フレイム王国はフレイム帝国の後継者、というのはオルケナ大陸の常識でもある。宗主国、というのは少し違うが、長屋の長老的な扱いは受けているのだ。こういった場面で利害関係の薄い第三者に仲裁を頼むであれば、フレイム王国に頼むのが最もしっくり来る。
「問題は何一つありません、陛下。強いて言うのであれば」
ソコまで喋り、リズに視線を戻して。
「陛下のご意見を聞かずライムに『勝手に』申し出た事ぐらいです。国家の為、フレイム王国の為に良かれと思って行った事ですが……些か越権行為でした」
どうぞ処罰を、と。
うやうやしく頭を下げるロッテに、唇を噛みしめてリズは睨む。
「……いえ。良くやりました、ロッテ」
リズに、ロッテは罰せられない。ロッテの行為が正しいから、では無い。ロッテが居ないと純粋に、フレイム王国は行き詰るからだ。
ロッテの政治能力もさることながら、バックボーンも大きい。平民とは言え、ロッテの実家はフレイム王国でも指折りの商家だ。加えて、長く政治畑を歩んだロッテには培った国の内外を問わない人脈もある。ロッテもそれは分かっている。なればこその、『処罰を』の言葉だ。出来レースである。
「勿体ないお言葉です」
「それでは早急にライムに使者を……」
「お言葉ですが、陛下。今はまだラルキア王国の怒りも相当なもの。ここで講和を申し出るのは得策とは思えません。ある程度、ラルキアの怒りを抜いてからにされるべきかと。むしろ今ココで講和の話を持ちかけても、逆にラルキアの不興をかうだけかと愚考します」
「……戦争を続けさせろ、と?」
「はい」
「人が、沢山死にます」
「そうですね。『ライム』と『ラルキア』、両国の国民は死ぬ事になるでしょう。ですが」
フレイム王国には、関係ありません、と。
「……それが、最良なのですか?」
「考え得る限り、最良でしょう」
「そう……ですか」
諦めたように、溜息を一つ。
「……わかりました。ロッテ、貴方の考える様にして下さい」
「御意」
そう言って、寂しそうに笑い。
「……まるで、貴方の国ですね」
「とんでも御座いません、陛下。陛下がご健在で在られるからこそ、私ども臣下は職務に邁進出来るのです」
再び頭を下げるロッテ。その姿をちらりと視界におさめ、リズは返答もせず静かに入って来たドアから執務室を後にした。
「……陛下は、御壮健で、御健在であれば宜しいのです」
頭を下げたまま。
「実務は全て私が……私達が取り仕切ります。ですから陛下、貴方は……ただ、その場で笑っていて下さい。フレイム王国の『顔』として、難しい事など何も考えず、ただただ……」
笑っていて下さい、と。
そういうロッテの顔は、醜く嗤っていた。
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