ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
第二十九話です。今回は……まあ、説明回ですかね?
第二十九話 王女の愛したスイーツ
 サラエボに響いた一発の銃声が、遠い東洋の島国に民主主義をもたらした、というといささか言い過ぎであろうか。

 1914年6月28日、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺される事件が起こる。俗にいう、サラエボ事件である。次期皇帝を暗殺されたオーストリア政府は当然激怒。セルビア政府に最後通牒を突きつけ、これを飲めないセルビアとの間で戦争が勃発。第一次世界大戦である。
 第一次世界大戦はオーストリア・ドイツ・オスマン帝国などの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアを中心とする連合国との間で実に4年の長きに渡る戦争となる。国家総力戦という、全人類の誰もが経験していない戦争は連合国側の勝利で終了するが、その余波は戦後も続いた。ヴェルサイユ条約によって天文学的な負債を抱えたドイツは湯水の様に紙幣を増刷、ハイパーインフレを招く事になる。コーヒーを飲む為にトランク一杯の札束が必要だったが、飲み終わる頃にはトランク二杯分の札束が必要になった、と言われる程のハイパーインフレ下で真っ当な経済施策など取れる筈もなく、ドイツ経済は大混乱に陥った。史上空前の失業率を記録し、疲弊しきったドイツは一人の『英雄』を国家元首に戴く事になる。

 国家社会主義ドイツ労働者党党首、アドルフ・ヒトラー。

『民主的』に選ばれた独裁者であるかどうか、評価は分かれるところであろうがソコは本筋では無い。ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党、通称ナチスに引きずられる形で、ドイツは再びの世界大戦に邁進していく。

 同時期、日本経済は不況に喘いでいた。国土を戦場としなかった日本は、第一次世界大戦時、疲弊する欧州に対し物資を供給しつづけ、空前の好景気に沸いていた。大戦景気、或いは『大正バブル』と呼ばれるこの一連の好況だが、同様に国土を戦場としなかったアメリカの好景気は持続されるとみられた事、欧州の重工業の被害は甚大であり、回復は容易では無いと予想された事により、日本は大戦後も生産を続ける。
 が、予想よりも速く欧州は戦禍から立ち直る。日本国内で生産された物資は過剰生産となり、価格は暴落。加えて関東大震災の影響で更に日本経済は大打撃を被った。『大学はでたけれど』が流行語になり、当時としては高学歴であった『学士様』ですら就職先がない異常事態。時の宰相犬養毅は、一つの決断を下す。金の輸出禁止、通貨管理制度への移行である。
 当時の日本円は金とリンクしていた。テラの引渡証書が、十年後に同額のフレイム金貨で返ってくるのと原理自体は一緒である。これは、通貨の発行量が金の保有量と密接に関係していると言う事であり、金が世界的価値を持つ当時の世界では抜群の安定性を誇る通貨制度であった。対して通貨管理制度とは通貨当局が独自に通貨の発行量を決めるシステムであり、金の保有量に一切関係しない。言ってみれば、好き勝手に発行できるシステムである。

 日本円は暴落を続けた。金と交換出来ない、どうなるか分からない通貨など好き好んで持つモノは少ない。円安は加速し、その円安により輸出量は増大。日本経済は息を吹き返す事になる。当然、他国は怒った。ソーシャル・ダンピングと評され、日本から自国を守るため、自国と友好国のみで経済圏を完結する仕組みを布く。所謂、『ブロック経済』である。
 日本はこのブロック経済から完璧に取り残された。刀を差し、ちょんまげを結っていた時代からまだ百年も経っていない『若い国』、加えて資源も大してない、極東の島国である。ブロック経済を布く程の友好国……植民地もさほど持っていない国など、早々に行き詰る。行き詰るとやる事は二つしか無い。前に進むか、坐して死ぬか。日本は前者を選んだ。中国東北部の満州を占領し打ち立てた日満経済ブロックは盧溝橋事件以降に日満支経済ブロックへ、やがてソレは大東亜共栄圏と呼ばれる汎アジア主義的な思想へと変貌を遂げて行く。良いか悪いかは別として。
 その後は坂道を転がり落ちる様に、である。同様に植民地支配の後発国として植民地を欲したドイツ、イタリアと三国同盟締結、牽制目的であったその同盟は逆にアメリカを刺激し、日米戦に突入、敗戦。占領統治下において民主主義を選択した日本は世界有数の経済大国への道を歩む事になる。サラエボの一発の銃声をきっかけとして、である。

 勿論、『南米の蝶のはばたきがテキサスでトルネードを起こす』、或いは『風が吹けば桶屋が儲かる』的な論法で在る事は百も承知している。が、言いたい事はそこでは無い。サラエボ事件にしても、ベルリン会議での統治方法に問題があり、ベルリン会議にしても露土戦争が遠因にあり、露土戦争にしてもクリミア戦争からの一連の流れがあり、クリミア戦争はウィーン体制の歪みが原因であり、ウィーン体制はそもそも、ナポレオンの登場により生まれたのである。様は、歴史は連綿と繋がっていると、そういう事である。

◆◇◆◇◆◇


 ラルキア王国、という国がある。


 国名にフレイムの王都『ラルキア』の文字が入る通り、この王国はフレイム王国……というより、フレイム『帝国』と密接な関わりがある。建国王オットー一世はフレイム帝室の一員、皇弟であった。
 オットーは美男子で、およそ皇帝家に相応しくない程、無欲の人であったと伝えられている。その容姿と温厚な性格を皇帝に愛され、彼は末弟ながらフレイム帝国の全面的な支援の下、非常に平和的に『分家』とも呼べるラルキア王国を建国する事になる。将軍家に対する御三家、がイメージに近しいか。

 ラルキア王国はその成立過程から『副皇帝』と称され、国土の大きさや豊かさとは別の論理として、国家の『格』としてはオルケナ大陸中の国家でも随一の名門王家である。フレイム帝国の後継者となるフレイム王国とも物心両面での交流が未だにあり、事実、フレイム王国国王であるエリザベートの母、アンジェリカはラルキア王妹。つまりラルキア国王はリズに取って叔父に当たるのである。
 そんなラルキア王家にはジェシカと呼ばれる聡明で美しく、民を愛する姫がいた。『ラルキアの妹』や『ラルキアの姉』、『ラルキアの娘』だったり、或いは『ラルキアの恋人』と呼ばれる姫。高貴な血筋で在りながら、身分を隠して貧民街での奉仕活動などに積極的に参加する『くだけた』姫であり、『花屋の娘、ジェシー』と偽名を使い奉仕活動に励んでいる、ちょっと変わった姫だ。
護衛達がてんやわんやしている姿と、ソレに気付かず甲斐甲斐しく奉仕活動をする姿は、『自分ではばれていないつもりでも、皆はジェシカと知っている』という、ある意味でコントの様な、それでいて微笑ましいラルキアの日常風景であった。それが許されたのも、建国以来他国の侵略を許した事の無い、平和なラルキア王国という風土があったからであろう。まるでオットーが乗り移ったかの様に、この国の人は総じて温厚であったのだ。

 そんなジェシカであっても姫は姫、国家行事で他国に外遊する事もある。外遊で立ち寄ったローレント王国で、彼女は衝撃的な出逢いをする。

 砂糖を焦がし、型の底に強いた苦く、それでいて甘いソース。

 牛乳と卵により作られたソレは、柔らかく、口の中で蕩ける様に広がる。

 生まれて初めて口にした、極上の甘味。

 建国帝アレックスが愛したと伝えられる甘味、『プラン』。彼女はプランの虜となる。
 外遊を終え、何時もの様に奉仕活動で立ち寄った孤児院で彼女は自らの食べたプランを孤児院の子供達に振る舞った。自らが美味しいと思ったものを、この恵まれない、でも愛すべき子供達に食べて欲しいと、そう真摯に願ったから。


 ……まあ、結果は散々だったが。


 生来不器用な上に、王族。フライパンの一つも握った事の無いジェシカのが作るにはプランはハードルが高過ぎた。食材への冒涜としか思えない『生ゴミ』を振る舞われた子供達は、一様に微妙な顔をした。

『そんなに落ち込むなよ、ジェシー姉ちゃん』

 自らの作ったプランのあまりの不味さに、口を押さえて涙目になったジェシカにそう声をかけたのは、孤児院でも年長に属する一人の男の子だった。

『ほら、大体作り方は分かったからさ。えっと……そう! 半年後の、ジェシー姉ちゃんの誕生日! その日にすげー美味いプラン、作ってやるから! お金の心配はするなよ! 俺ら、一生懸命働くからさ!』

 そう言って周りの同意を得る男の子に、ジェシカは口に含んだプランとは別の意味で涙を流し、男の子にハグをした。顔を真っ赤にした男の子と、それをからかいながらも幼い嫉妬を覚える孤児院の子供達。俺も私もと、ジェシカにハグを願い、それを笑って受け入れるジェシカ、という、微笑ましく……それでいて、ジェシカの周りで見慣れた光景が孤児院で繰り広げられた。

『楽しみにしてろよ、姉ちゃん』

『ええ。お腹空かして待ってるわ』

『じゃあ、『もう食べれない』っていうぐらい、プラン作ってやる!』

『ふふふ……ありがとう! 誕生日、すごく楽しみ!』

 ここまでなら良い話だが、言ってしまえばよくある『ラルキアの日常』である。が、この日は少し違った。この会話を孤児院の院長が聞いていたのだ。
 孤児院の院長は人間の出来た初老の女性であり、人格者で通った街の顔役でもあった。彼女はその晩、参加した会合でぽろっとこの話をこぼしたのである。『ジェシカ姫はプランが大好きらしい』と。

 ジェシカは民を愛していたが、ジェシカが民を愛する以上に、民はジェシカを愛していた。『ラルキアの姉』とも、『ラルキアの妹』とも、『ラルキアの娘』とも、或いは『ラルキアの恋人』とも呼ばれたジェシカだ。彼女の甲斐甲斐しい民への奉仕も、民への愛も知っている。『おはようございます!』や『お仕事、頑張って下さい!』と笑顔で声をかけられたのも一度や二度では無い。街の有力者達はこぞってジェシカの誕生日に『プラン』を振る舞おうと心に決めた。孤児院の子供達に負けてられるか、という気持ちもあった。誰もが、『ジェシカ姫を可愛がっているのは俺が一番!』と、そんな風に思っていた節すらある。これと言って我儘らしい我儘を言わなかった『娘』が、初めて言った我儘。叶えてやろうじゃないか! なんて、そんな事を言いだす人間も居る始末。『そんなに沢山あげてもジェシカ様が食べれる訳無いじゃない。あの年頃の子、体重も気にするのに』と苦笑を浮かべた院長で在ったが、それでもジェシカは頑張って全部食べるだろう事も予想していたし、そこがジェシカが皆に愛される由縁である事も知っていた。民を愛し、民に愛される。全ての為政者が願ってやまない、民の忠誠心をジェシカは自らの人格で手に入れていた。

 有力者たちの決定は直ぐ様、街全体に広まった。『誕生日にプランを振る舞おう』は、ラルキアの合言葉になる。老若男女問わず、皆がジェシカの為にプランを振る舞うと心に決めた。
『でも……そんなにプランばっかり作って、ジェシカ様食べれるかな?』
 ノリに乗った人々の中で、当然と言えば当然の、そんな疑問も浮かんだ。ジェシカがプランの食べ過ぎで丸々と太ってしまう姿も見たくは無かった。別にジェシカの魅力は容姿だけでは無いが、彼女の魅力の一端が容姿にある事もまた、否定できない事実である。

『大丈夫だよ! ジェシカ様なら余ったプラン、俺らがくっても喜んでくれるって!』

 その一言で全員が納得した。なるほど、ジェシカなら『美味しいモノは皆で食べましょう!』と言っても可笑しくない。むしろ、その方がジェシカにしっくり来る。

『誕生日にプランを振る舞おう』の合言葉は、少しだけ軌道を修正し『ジェシカ様の誕生日に、皆でプランを食べよう』になった。自分のプランを食べて貰いたいが、それでも『誕生日』で、『可愛いジェシー』の為。一番美味しいプランをジェシカに食べて貰いたいのが人情と言うものだ。誰からともなく、『プラン・コンテスト』を開こうと言う話になる。そうなると腕に自信があるものは当然、そうでないモノも自分の作ったプランを食べて貰いたい! と思う。人々は練習の為、こぞってプランの原料である卵と牛乳、それに砂糖を買い集めた。卵と牛乳、それに砂糖の値段は高騰していく事になったが……誰も、それに文句を言うモノはいなかった。ジェシカの為、『仕方ないね』と苦笑で済ます程度だったのだ。高騰、と言っても何時もより二割増し程度、そこまで家計に打撃を与える訳でも無かったという事も理由の一つにある。

 そんな浮かれるラルキアに、たまたまライム都市国家同盟の商人が立ち寄った。その商人は半年程の周期でラルキアに立ち寄っているが、いつもよりも高い卵と牛乳、それに砂糖に驚いた。相場の把握は商人の基本、卵も牛乳も、砂糖にしたって不作だったと言う話は聞かない。にも関わらず、この値上がりだ。一体、何があったか? と取引先の商店主に問う商人に、少しだけ誇らしげに店主は答えた。半年後に、ジェシカ姫の誕生日がある、そこでプランを振る舞う為、皆練習しているのだ、と。
 商人は驚きながらもなるほど、と思う。なんせラルキアのジェシカ好きは有名な話だ。『ラルキアでジェシカの悪口は言うな。次の日、冷たくなってるぞ』は商人同士で良く交わされるジョークである。そんなジェシカの為なら、これだけ熱狂しても可笑しくない。そう言って、成功するといいねと店主に笑顔を返し、半年後のラルキア訪問ではお祭り騒ぎになっているだろうな、と予想して……商人ははたと気付く。まてよ、と。

 今ですら、これだけ値段が高騰しているのだ。


 ……半年後、本番では……一体、どうなっているのだろう? と。


◆◇◆◇◆◇

「……と、まあ報告自体はこんな感じや。『港』が完全に稼働するのはあと半年後、くらいやろうか?」
 ロンド・デ・テラにあるエリカの私室。エリカ、エミリ、ソニア、浩太の前で、マリアが手にした資料から顔をあげ、そう告げる。
「御苦労さまでした、マリアさん」
「ほんまやで。あんたらがパルセナで遊んでる間、ウチがどんだけ苦労したか……」
 エミリお手製の紅茶を口に含みながら、マリアは恨めしそうに浩太を睨む。その視線に、浩太は頭をかく事で対応。
「いや……その、すいません」
「謝らんでもええよ。エエ仕事する為には休養も必要や。全然、休んだらええやん。ウチを放っておいて、皆で楽しく遊んだら……ええやん!」
 紅茶をずずーっと飲み干し、カップをとんと置く。視線の恨めしさは変わらぬまま、何ともまあ……居た堪れない。
「いえ、別に放って置いた訳では」
「ええよ、ええよ。どうせウチは仲間外れや。みんなはコータはんの仲間やけど、ウチはちゃうもん。エエよ、別に」
「いえ、そういう訳では」
「ああ、ええな~パルセナ。楽しかったやろうな~。ウチも行きたかったな~!」
「……」
 マリア、完全に拗ねたモードである。ソニアやエリカという王族を前にしてこの態度、逆に称賛に値する……のかも知れない。
「……マリア様」
「エミリさん? なんや? 楽しかった自慢話やったらきかへ――」
「……本当に楽しかったとお思いですか?」
「――んで……何かあったん?」
 紅茶のお代わりを注ぎながら、もの凄く冷たい眼を浩太に向けるエミリ。その視線に、思わずマリアの背中に冷たいモノが走る。
「……ふふふ」
 マリアの質問ににっこりと……冷たい微笑みを浮かべるエミリ。背中だけではなく、脇の下にまで冷たいモノが走り出したマリアは、慌てて浩太に問いただす。曰く、何をしたのか? と。
「こ、コータはん? なんや、エミリさん、めっちゃ怖いんやけど!」
「し、知りませんよ! パルセナから帰ってからこっち、ずっとあんな感じで……エリカさんやソニアさんには普通なのに……」
「それ、絶対コータはんのせいやん!」
「いえ、私は別に何も――」
「ええ、そうですよ?」
 小声で喋る二人にかかる、無機質な声。その声に、二人はギギギっと、まるで油の切れた機械の様な動作で振り返り。


「……『何も』……ええ、『何も』、無かったですよ?」


 そこに、夜叉を見た。


「……まままままマリアさん!」
「ななななな何やろ、コータはん!」
 この話は、ヤバい。『空気を読む』事に定評がある浩太と、『虎の尾を踏まない』が信条のマリアは早速話題の転換に走る。それほど、マリアの顔は……なんというか、冷たいモノだったので。
「そ、そうですね! ここ数日、何か面白い話は無かったでしょうか?」
「なんつう無茶ぶり……お、面白い事?」
「え、ええ!」
 お、面白い事、面白い事と口の中でブツブツ呟くマリア。必死である。なんせいきなり『何か面白い話、無い?』だ。流石に無茶ぶり過ぎると思ったか、浩太が口を開きかけた所で。
「あ。せや」
 ポン、とマリアが手を打つ。
「面白いかどうか分からへんけど……一カ月くらい前からかな? ラルキアで卵と牛乳の値段が上がってるで?」
「ラルキアで?」
「せや。プラン、って言う菓子が作られてな? ラルキアで大人気何やって。ほんで、材料である卵と牛乳の値段が上がってるらしいんや」
「プラン?」
「お菓子やな。甘くて美味しいんやけど、なんやあそこの……ええっと、ジェシカ姫、やったかな? このプランが大好物らしくてな? ほいで、買い占めしてるらしいんや」
「ジェシカ様?」
 と、そこまで黙って聞いていたエリカが口を挟む。
「御存知なんですか、エリカさん?」
「ええ。ラルキア王家の方で、エリザベート陛下の従妹に当たる方なんだけど……」
 そう言って、首を捻る。
「買い占め、なんてする方かしら? ジェシカ様、欲の無い方だし……」
「ああ、買い占めてるのはジェシカ様やないで? ラルキア国民や。なんや、ジェシカ様の誕生日に街の人が皆でプランパーティーをするらしくてな?」
「……ああ。それなら分かるわ。しそうね、ラルキアの人は」
 納得した様な顔をするエリカ。対して浩太は少しだけ興味深そうにエリカに問う。
「ジェシカ姫、という方は民に慕われているんですか?」
「『ラルキアの恋人』と呼ばれているわ。民との交流を大事にされる方だし、民を愛し、慈しんでおられる方よ。何だったっけ、マリア? ほら、あの……」
「『ラルキアでジェシカ姫の悪口は言うな。次の日、冷たくなってるぞ』かいな?」
「そう、それ」
「……何ですか、それ」
「商人の間でも良く言われるジョークや。民がどれほどジェシカ姫を慕っているかの証左やな」
「……殆ど宗教ですよ、それ」
「まあ、あながち間違いでもないかな? 『ジェシカ姫、マジ天使』とか言われてはるし」
「……たまに、もの凄い既視感を覚えますよ」
「何の話や?」
「こちらの話です」
 溜息、一つ。
「それで? 牛乳と卵の値段が上がっている、と?」
「そや。まあ卵も牛乳もそない日持ちするもんやないし、そないに吃驚する程値はあがってへんねんけど……」
「……なんだか含みのある言い方ですね?」
「ジェシカ様の誕生日……五カ月後なんやけど、五カ月後の卵と牛乳の値段、めちゃめちゃ上がってんねん」
「……先物、ですか?」
「そや」
 先物取引自体、オルケナ大陸でも珍しいモノではない。テラがバーデン領から小麦を買っていたのだって現物だけではなく先物もある。様は、『何カ月後にこの値段で買いますよ』という話である。問題はそこではない。
「まあ、先物相場が上がるの自体は別に構わへんのやけど……流石に上がり過ぎなんよ、今の相場は」
「お幾ら程ですか?」
「昨日の時点で卵三個で白金貨五枚や。牛乳は瓶詰で一本、白金貨七枚」
「それは……異常ですね」
「一昨日は卵三個が白金貨二枚やったんよ。一日で白金貨三枚の値上がりは……」
 フレイム王国の四人家族が一年過ごそうと思うと、大体白金貨で三百枚から四百枚程度必要だ。そう考えれば、卵三個が白金貨五枚は誰がどう考えても異常である。まして、一日で二倍以上に値上がりするなど。
「……卵三個で白金貨五枚、なんて誰が買うのよ?」
 心底呆れた様にそういうエリカ。
「そうでもないですよ?」
「コータ?」
「確かに卵三個で白金貨五枚なんて、誰がどう考えても可笑しいです。可笑しいですが……明日、白金貨七枚になると考えれば、どうです? 右から左に流しただけで白金貨二枚の儲け。それなら皆買うでしょ?」
「それは……その通りね。でも、明日白金貨七枚になるなんて、誰にも分からないでしょ?」
 エリカの言葉に、肩を竦めて見せる浩太。呆れたから、ではない。エリカの言う通りだからである。
「仰る通りです。マリアさん?」
「なんや?」
「マリアさんはこの『先物』、参加されているんですか?」
「前も言ったやろ? 金で金を稼ぐ様な商いはあんま好きやないんよ」
「それは重畳。ちなみに、テラに来られている商人の皆さまは?」
「ライムから来た商人は皆、やってはるかな? あ、ちなみに『やめとき』なんてウチ、言われへんよ?」
「分かってますよ」
 投資は自己責任である。どちらかと言えば、これは『投機』であろうが。
「……それに、相場はまだまだ上がりそうやしな。ここで口なんて出したら『損させられた!』言われるもん」
「まだ上がりそうですか?」
「ウチの想像やけど、な。なんせこの相場、参加してるの商会だけやないから」
「そうなんですか?」
「テラではそうでもないけど……せやな、ライムの酒場とか凄いらしいで? その辺のおっちゃんとかおばちゃんまでやってるんやって」
「酒場で、ですか?」
「せや。殆どメモみたいな紙で取引してるらしいわ」
「……異常すぎますね、それは」
「せやから、ウチは手をださへん事にしてる。怖いやん」
 マリアの言葉に大きく頷く浩太。こんな博打、参加するものではない。
「……ねえ、マリア?」
「ん? エリカさま? なんやろうか?」
「その先物って……私も、出来る?」
 エリカの言葉に、浩太は愕然とした顔を浮かべる。何を言ってるのだ、コイツはという浩太の顔に、エリカは慌てて両手を左右に振る。
「エリカさん……話、聞いていました?」
「い、いや、あのね? こう、ちょっと『面白いかな~』って」
「……」
「……」
「……」
「……だ、だめ?」
「……別に、駄目ではありませんが……あまりお勧めはしませんよ?」
「ちょ、ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」
「……」
 エリカの懇願に、はーっと大きく溜息。
「……ご自分の『お小遣い』の範囲で遊んで下さいね?」
「う、うん!」
 ぱーっと明るい顔になるエリカに苦笑を浮かべる浩太。元々エリカ、パルセナでもギャンブルの才能を見せていたし、博打自体は嫌いでは無いのだろう。同じ様に苦笑を浮かべるマリアに色々と詳細を伺っている様子だ。
「……コータさま?」
「ソニアさん?」
「その……わ、わたくしもやって見てもよろしいでしょうか?」
「……ソニアさんも?」
「え、ええ! そ、その……すこし、だけですので……」
「……あまりお勧めできませんが……」
「お、お願いします!」
「……まあ、お好きなように」
「あ、ありがとうございます! そ、それでは!」
 そう言って、にこやかにマリアの方に駆けるソニア。
「……コータ様」
「……貴方もですか、エミリさん」
「ええ」
 今日何度目か、溜息。そうして、ふっと気付く。
「……その、エミリさん? 貴方は別に私の許可なんて――」
 そこまで喋って仕舞った、と浩太は思う。エミリの視線がギンっと鋭さを増したから。
「…………なるほど。私は自分で勝手に判断すれば良いじゃないか、とそう言われるのですね? 他の方には快く許可を与えておきながら、私には『勝手にしろ』と、そう仰られるんですねぇ!」
「え、エミリさん? 意味が分からないんですけど! ちょ、な、何怒ってるんですか!」
「知りません! コータ様の馬鹿!」
 涙目になりながら睨みつけるエミリに浩太が溜息をつき、その姿に『なんですか、その溜息!』と激昂するエミリ。八当たりである、はっきり言って。まあ、パルセナの事を思えば浩太が悪いのだが……それでも、少しだけ可哀そうで、それでも平和な日常風景。まだまだ、幸せだったのだ。

 ……この時までは。


◆◇◆◇◆◇


 ジェシカの機嫌は良かった。


 プランを作ろうと、そう思ったのだ。城で料理長に一生懸命教えて貰いながら、中々高い評価を得られる程度のプランを作れる様になった。『これなら誰に出しても恥ずかしくありません』と、料理長からお墨付きも得た。ならば、リベンジである。『ジェシー姉ちゃんは不器用だからな~』とからかわれた借りは、返さなければならない。『す、すげー! 超美味い! やるじゃん、姉ちゃん!』と、そう孤児院の男の子が言う姿を想像し、その愉快な光景に胸を躍らせていたのだ。

 ……材料を買う為に立ち寄った商店で、今までの五倍の値段をつける牛乳と卵を見るまでは。

 驚いたジェシカの前を、ふらふらになりながら歩く孤児院の子供が眼に入った。『お腹一杯、食べさせてやるよ』と笑って答えた男の子だ。慌ててその子の側に駆け寄ったジェシカの姿を見て、男の子は気まずそうに眼を逸らす。どうしたのか、と問うジェシカに、男の子は申し訳なさそうに頭を下げた。

『……ごめん、姉ちゃん。牛乳と卵……買えないかも知れない』と。

 彼は頑張って働いた。朝食を抜き、昼食も抜き、必死にお金を溜めた。でも、それ以上の値上がりを牛乳と卵は見せるのだ、と。

 ジェシカは男の子を抱きしめ、泣いた。そこまでしなくても良いと、その気持ちだけで十分だ、と。そんな事より、充分にご飯を食べ、栄養を取って元気な姿を見せて欲しいと。男の子もまた、ジェシカに謝りながら、その胸で泣いた。泣き疲れて眠り、ジェシカの背中に背負われて孤児院に帰るまで、その男の子は泣き続けて。



 ――牛乳と卵は、その日から大暴落を始める。



 皆、この相場の『異常』さは理解していた。理解しながら、下がる気配を見せない相場に踊らせて、或いは踊っていただけ。
 正直、きっかけは何でも良かったのだ。『ジェシカはプランを欲しない』、その情報だけで十分だった。白金貨十五枚の値をつけていた卵はその日の内に三枚下げ白金貨十二枚に、その翌日には白金貨八枚へと暴落を続ける。

 人々はパニックになった。特に、この先物取引の中心地となっていたライム都市国家同盟は大打撃を受ける。売りが売りを呼び、更に売りを呼ぶ。払え、払わぬの押し問答がライム中で繰り広げられた。商人だけの、一部の富裕層だけでの取引で無かった事や、酒場でメモ程度の紙で取引が行われていた事も混乱に拍車をかけた。なんせ単純のメモ用紙が流通していたのである。誰が、幾らぐらいの債権を、或いは債務を持っているか、最早誰にも分からなかった。
 ライム都市国家同盟政府は当初、静観の構えを見せた。当たり前と言えば当たり前だが、投資は自己責任である。マネーゲームで失敗した尻ぬぐいをさせられても困る、というのが本音の所である。知った事では無い。

 が、ライム商人やライム国民はこの政府の対応に不満を募らせる。ライム国民は政府にラルキアへの損害賠償請求をするように議会で迫った。もし、損害賠償請求をしないであれば、不信任決議をするぞ、と。
 政府は困った。殆ど……というか、完全に言い掛かりである。損害賠償請求などすれば、オルケナ中どころか世界中から笑われる。普通なら一刀両断であるが、ここにライム都市国家同盟という国家の成り立ちの不幸があった。ライム都市国家同盟は世論に寄って選ばれた、世論の代弁者である。他のオルケナ国家とは違い、専制的に国家の行く末を決める権限を政府は持たない。選挙が近い、という内情もある。世論を完全に敵に回すなど、到底出来る話では無い。退くも地獄、進むも地獄。このままでは暴動が起こりかねない国内の情勢を受け、ライムはオルケナに損害賠償を請求する。

『流言飛語による不当な価格の釣り上げを行った事に対する損害賠償請求』、後に『世界最低の外交文書』と呼ばれる事となる文書だ。

 全五条からなる請求を飲めない場合、開戦も辞さないと言った内容に、突き付けられたラルキアは当初なんの冗談か? と思った。誰がどう考えてもライムの言う事は可笑しい、狂ってる、笑い飛ばせとラルキア国民の誰もが……たった一人を除いて、誰もがそう思った。


 ジェシカ、その人以外は。


 ジェシカは悩んだ。一体、どこで間違えたのか、と。


 プランなど要らないと言ったからか?


 誕生日のプランを楽しみにしていると言ったからか?


 プランを孤児院で振る舞ったからか?


 プランを外遊先で食べたからか?


 孤児院や貧民街で、奉仕活動などに勤しんでいたからか?


 自分が姫だからか?


 そもそも。



 ……自分が、生まれて来たから、か?



『ラルキアの恋人』、ジェシカ・オーレンフェルト・ラルキアが毒を煽り、自らの命を絶ったのは損害賠償請求から二日後である。残された遺書には我儘を言って申し訳なかった、自分の命を持って、ライム都市国家同盟との平和の証として欲しい旨が書かれていたという。

 ジェシカの名誉の為に断っておくが、彼女は悲劇のヒロインを気取った訳では無い。勿論、自らの行動が現状を招いた事を後悔したが、彼女は現実的に『外交』を見る事が出来る人間であった。ライム政府にしても、決して戦争を欲している訳では無い事を彼女は重々承知していたのである。様は、落とし所の問題。ラルキア王家の直系の姫で在る自分の命を持ってすれば、必ずライムは『退く』とよんでいたのである。
 ばかりか、自らが命を絶つ事によって今後の対ライム外交でも優位に立てるであろうという冷静な計算もあった。ピンチをチャンスに、彼女は優しいだけの姫では無く、クレバーな判断を下せる王族でもあった。事実、ジェシカの訃報に接したライムは大慌てで損害賠償請求の取り下げと、公式には哀悼の……非公式には、『謝罪』を含めた特使の派遣を決定する。なんせ『言いがかり』であると、ライム政府自らですら思っているのだ。ライム都市国家同盟大統領は机を叩いて怒り『くそったれな国民のせいでライムは向こう数十年、ラルキアに頭が上がらない!』と叫んだと言う。代償として考えるなら王族の命など、どう考えても『貰い過ぎ』である。

 彼女は最後までラルキア国民の幸福を祈った。彼女の死を持って、自らの国民の生活が少しでも豊かになるよう、その最後の瞬間まで彼女は願っていたのである。ジェシカの判断は間違いの少ない、取れる中ではベターな選択でもあったが……彼女にも誤算が一つだけ、あった。


 彼女が国民を愛している以上に、国民は彼女を愛していたのである。


 ラルキアは悲しみと……それ以上の、怒りに包まれた。自らの姉と、妹と、娘と……恋人と慕った王女が、命を絶ったのである。誰がどう考えても、言いがかりに寄って。ラルキア国民は怒り狂った。

 国王自ら、ジェシカの願いである『平和』を説いても国民は誰も聞き入れなかった。それがジェシカの意に反する事であったとしても、ジェシカを失った悲しみに耐えられなかったのである。群衆は王城に駆け付け、王に開戦を迫る。ジェシカを、ラルキアの恋人を奪ったライムに、正義の鉄槌を、と。

 ……やがて、ラルキア王は決断する。彼もジェシカを愛していた一人である。国王という立場上、国民の幸福を願い『我慢』をしていたに過ぎない。その国民が、ジェシカの仇を討てと、背中を押ししてくれるのだ。
 国王もまた、疲れていた。或いは愛する娘を失った悲しみを、どう頑張っても晴らせそうにない事に気付いてしまったのかも知れない。


 ジェシカの逝去から、一カ月後。ラルキア王国はライム都市国家同盟に正式に宣戦を布告する。



 ……後世に『牛乳と卵の戦争』と呼ばれるこの戦争は、こうして開戦を迎えたのである。


経済マメ知識⑱
バブル経済
実態を伴わない異常な値上がりを『バブル』と呼びます。世界最初のバブルはオランダで起こったチューリップ・バブル。球根一個で家が買えたとか。今回のお話もそれ。常識で考えて可笑しい様な価格ですら『正当』な価格として受け入れられる、バブルの怖い所です。ハンカチ一枚の土地が云千万って……ねえ?


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。