もう学会組織自体には何の未練もない私ですが、今年の11月18日を学会本部がどのように迎えるのか、ちょっと興味があって、というか池田氏をどのように見せるのかという火事場の見物のような気持ちでネットの聖教新聞を見てみましたら、やはり意識があるのかないのかわからないような遠い目をした池田氏の写真が載っているだけでした。記事を読む限りでは、今回も会員の前には姿を現わしそうにはありませんね。っていうかとても人前に出せるような状態ではないのは写真の表情を見れば誰にもわかりますよね。でも、何年も会員の前に姿を現わさず、それでも毎日のように詩や小説や本を書き続けているのですからすごいですね。すごいというのは、それでごまかせると思っている最高幹部がすごい神経をしているということであり、それでその思惑通りに騙されきっている会員がいるということがすごいです。騙すほうも騙されるほうも悪い、仕方がない。今ではそう思います。騙そうと思っている人にきれいさっぱり騙されちゃったんだから、私も含めて、これまでのことは泣き寝入りするしか今の日本では仕方がないと思います。でもこれから先、新たに騙される人はそうそういないんじゃないかとも思いますね。学会はまだまだ毎年の財務や新聞・書籍でがっぽがっぽ儲かっているでしょうけど、これ以上組織が大きくなったり、まちがっても社会に認められたりすることはないでしょうから、衰退の一途はまちがいありません。今の婦人部の方が年老いて、わけがわからなくなるころには組織の体をなさなくなると思っています。学会の未来はやはり婦人部にかかっていると思います、まじで。文章でメッセージは山ほど届くけど、会員はその声すら聞けないんですから、これから先、池田氏が会員の前に現われて、言葉を発することはおそらくないでしょうね。それならそうと正直に発表すればいいのにと思うけど、それではもはや組織は成り立たないということが幹部にはよくわかっているのでしょう。どっちにせよ学会の組織に明るい未来はないってことですよね。

今日、街を歩いていたら、男子部時代の先輩を見かけました。当時はバリバリの絵に描いたような熱血男子部の見本のような方でしたが、声をかけるのも気の毒なくらい老いぼれていて、すぐ近くまで行ったのですが結局向こうが気がつかないようだったので、私も黙って通り過ぎました。もう少し元気だったら「お元気ですか?お久しぶりで〜す!学会頑張ってますかぁ〜?僕ね、やめたんですよ〜」って声をかけたかったんですけどね。

みなさんがとても高尚なお話をされているので、ほんとうに感謝しています。ちょっとだけ息抜きみないなことを書いてみました。ひきつづきコメント欄での対話をお願いします。できれば男性の方もどうぞご遠慮なさらずに。

みなさんの対話を遮ったかたちで「私が鬱になったわけ[2]」をはさめてしまいました。すみません。

みなさんの対話のつづきは、このページのコメント欄にお願いします。

ところで、いま現在の学会の末端組織はどんな感じなんでしょうね。たまに近所の支部とか地区婦人部長さんとすれちがうぐらいで、実際の様子がわかりません。っていうか、私自身だんだん興味が薄れてきてるような気がします。男子部時代の仲間や壮年部とはほとんどすれ違うこともありません。もうまったく外部の人間として、それもちょっと理屈っぽくてやっかいな(笑)退転者と思われているんでしょうね。ちまたでも池田氏のXデーが面白半分に取り上げられていたりもするようですが、座談会とか協議会なんかではやっぱりタブーなんでしょうかね。聖教新聞もとっていないので、とってても広げもしませんでしたが(笑)もう創価学会に関してはほとんど新しいことは入ってきません。ありがたいことです。こんなことなら、なんでもっと早くに脱会しなかったんだろうと思います。今さらですけどね。なんだか功徳とか福運とか、邪宗とか害毒とか、罰だとか宿命とか使命とか人間革命とか、そんな言葉に縛られていた自分が、いまになってほんとうに滑稽に思えます。宗教とか信仰という以前に、人としてどうなのかということを少しでも考えれば、創価学会のやっていることがいかに人としての道をはずしているかがわかります。ふつうならわかるはずなんです。でも理屈抜きに「これは素晴らしい信仰なんだ」といったん思い込んでしまうと、どんなに理不尽なことも見えなくなる人間の弱さといいますかね、悲しいですね。「私はね、あなたのことを思って言ってるのよ」「これだけ他人のことを思いやって活動している団体がどこにいるの?」なんていいますが、ほかの宗教のことを何にも知らないで、ぬけぬけと言い放ちますからね。それも本気で。新聞も選挙も広宣流布のための戦いだと煽られて、それを見事に真に受けて、友人知人に変な目で見られる。言われたほうは、いつものことだと適当にあしらっているんですけどね。私も結局、若い頃は友人知人にたくさん「仏法対話」をしてきました。しかし結局相手にしてみれば「あいつはこれに関しては変な奴なんだよな」と思われていたようです。

これを読んでいる現役学会員さん。それも、ちょっと学会がおかしいんじゃないかと思っている方。それが正解です。ちょっとどころか根本的におかしいんです。そのことに気づくか気づかないかは本人次第。自分で考え、感じていることを信じてみてください。私も疑問点をずっと抱えながらも「いや、そんなはずはない」と頭ごなしに自分の考えを自分で否定していたものです。でもそれは間違いでした。それは我見とは言いません。自分の気持ちに正直になることが、まずは大切なのだと思います。そのあとで、それでも学会は正しいという結論であればそれでいいではないですか。でもおそらくちょっとしたことを疑問に感じた瞬間から、学会のいろんなことへの疑問がどんどん出てきて膨らんでいくはずです。どうか、ちょっとした疑問を軽くスルーせずに、自分の納得いく答えを探してみてください。もし、疑問があっても答えが出てこない時には、ここのコメント欄に書いてみてください。ここには百戦錬磨の元学会員さんたちがたくさんいらっしゃいますから、きっと納得できる答えが見つかると思いますよ。

私は一昨年のちょうど今ごろに創価のまちがいにはっきりと気づきました。もちろん、それまで完全にすべてを信じていたのではなくて、昔から疑問に思っていたことや、どうにも理屈に合わないことなどが澱のように積み重なり、ある日はっきりと「創価学会はまともな宗教ではない」という確信を得るに至りました。と同時に、それまでの50数年の自分の人生が、創価学会を信じたばっかりに大きく曲がってしまったことや、多くの友人にとても不義理だったり薄情な言動だったりをしてきたことに、言いようのない申し訳なさと、絶望感をいだきました。取り返しのつかない時間の積み重ねを思い起こしては、いてもたってもおれない状況になっていました。それからなんとか創価学会のまちがいをどうにかして多くの人に伝える方法がないものか考えましたが、ブログを立ち上げても、最初はうまくいっても、そのうちおかしな輩が荒してしまうし、他のサイトを見ても悪口を言いあうだけの不毛なものが多く、また、自分一人がなんだかんだと騒いでも何もならないと思うようになりました。

そんななか、突然30年ぶりに彼女から電話がかかってきました。「もしもし(彼女)」「あ…(私)」「わかる?」「うん、わかるよ もちろん」「元気で頑張ってるんだね」「知ってるの?」「うん、あなたの名前をネットで検索したら、すぐにわかった」「へえ〜、そうなんだ」「よかったね、若い頃の夢が叶ったんだ。ホームページずっと読んでるよ」「そっか。そっちは?元気なの?」「うん、私ね、あれからすぐ結婚したんだ。いま◯◯に住んでる。お家も建てて、3人の子持ちよ。お互い50過ぎたもんね。息子さんいるんでしょ?」「うん、こんど高校受験」「そう、まだ若いんだ。うちは長女がもう働いてるし、下の二人は大学生」「へえ〜、いいお母さんなんだね」これが私の方から一方的に別れた彼女との30年ぶりの会話でした。彼女は私がいる街から1000kmも離れた街に嫁いでいたことを初めて知りました。私も彼女が元気でいてくれたので嬉しかったのです。おたがいに幸せな家庭を持っていることが確認できてよかったと思いました。それからひと月ほどして、もう一度電話がありました。それは私が出した本を買いたいから送ってほしいという内容の電話でした。私はよろこんで送るからと、住所と電話番号を訊きました。私はこんな感じで、ときどき古い友人として電話だけでも話ができるといいなと思いました。彼女も私が元気でいることがわかればそれでよかったそうです。お互いにもういい年なのですから、これ以上何かあるわけがないと思っていました。しかしこのあとそれだけではすまされない状況になるとは、お互いに思ってもみませんでした。

2013年度新聞広告クリエーティブコンテストで最優秀賞を受賞した作品です。

テーマは「しあわせ」です。

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制作者のコメント「ある人にとってしあわせと感じることでも、別の人からみればそう思えないことがあります。反対の立場に立ってみたら。ちょっと長いスパンで考えてみたら。別の時代だったら。どの視点でその対象を捉えるかによって、しあわせは変わるものだと考えました。」

芥川龍之介が大正13年に書いた小説に「桃太郎」というのがあります。勝手な推測ですが、私はこの優れた新聞広告は、きっとこの芥川版桃太郎をヒントにつくられたのではないかと思いました。

決して長くはありませんので一度読んでみてください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/100_15253.html

上に紹介した新聞広告の下に、小さなコピーがあります。

「一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。

広げよう、あなたがみている世界。」

前のページもあっという間に40件のコメントをいただきました。ほんとうにありがとうございます。このところ仕事が忙しいのと、体調(精神的なことが主ですが)に波があって、コメントをいただいてもなかなかお返事が出来ない状態でいます。申しわけありません。コメントされるみなさま同士で対話を続けていただけるとありがたいです。おかげさまでみなさんがとても意義のあるお話をしてくださるので、私がブログを更新しなくても一日に750〜1000ほどのアクセスがあります。以前と違って、根も葉もない中傷やいわゆる荒しがほとんどないのも嬉しいです。それだけコメントされるみなさんのお話にとても説得力のあるリアリティが感じとれるからだと思います。これからもこの調子でみなさんとの対話を進められていければと思います。よろしくお願いします。

どうやったら創価学会員は創価の間違いに気づくことができるんだろうかと、いつも頭のどこかで考えています。でもそう簡単に答えが出てくるものではありません。人が何かを信じるというのは、理屈ではありませんから、理屈で説得しようとしても土台無理な話でしょう。「自分はこのために存在し、生きている。また、この人がいるから幸せに向かって挑戦することができる」と思ってしまうと、なかなかそこから抜けきれないものなのでしょうね。そしてそのために自分の人生の多くのものを賭けてきたというのであれば、それが間違いだとうすうす感じることがあったとしても、そして目の前に否定しようのない事実を突きつけられたとしても、今までの人生を否定されるくらいなら、これまでの世界の中で生きていくほうがましだと思ってしまうのかもしれません。さらにこれまで生きてきた時間が、これから生きていくであろう時間よりも決定的に長いのであれば、いっそう目の前の厳しすぎる現実を認める勇気は出てこないかもしれません。それもよくわかります。私など、さんざん疑ったあげくに、学会の間違いを、そして自分の人生の間違いを認めるに至るまでに何年もかかったのですから。そして、やっとのことで認めることができた時には、心が半分折れてしまいました。それほど創価学会の間違いを認めることは大変なことなのだと思います。それは自分ひとりの問題ではなく、家族や友人やそのほかたくさんのまわりの人にも迷惑をかけたり、気まずい人間関係になってしまったりもするからです。

それでも、そんなふうになってもいいから、自分の人生の最後になってもいいから、本当の自分の人生として終らせたい。たとえわずかな時間であっても真実にまっすぐに向き合って人生を終らせたい。そして我が子にもそうした人生を選んでほしいと思います。私は創価の幹部の子どもとして生まれ育ったばっかりに、この歳になるまで創価の間違いを認めることができませんでした。私の両親は、よかれと思って私に教えたつもりでしょうが、結果として子どもが苦しむことをしてしまったことには変わりありません。日本において、信仰は個人の自由が憲法において認められています。つまり国家権力は個人の信仰を妨げないという意味です。創価学会は日蓮の教義を楯にして信仰の自由を親子だろうが友人だろうが妨げ否定し続けてきました。その目的が会員からお金と労働力を搾取するためだったのです。そういう意味では日蓮正宗は体よく騙されていたと言っていいと思います。この信仰でなければ幸せにはなれないという他者の信仰を徹底的に否定する日蓮正宗が、人々の心を閉ざし盲目的に信仰をさせるための道具として利用されました。客観的に見れば、誰でもすぐにわかることですが、いったん信じてしまうとなかなか客観視ができなくなるのが信仰の恐ろしさと言えるでしょう。

このところ仕事の関係で日本におけるキリスト教の歴史を調べるために、その関係の重要な方と多く接する機会がもてました。学会員時代に抱いていたキリスト教のイメージとはまったく違うことがわかりましたし、キリスト教の「神」の概念の奥深さや、信仰を貫く方の真摯な態度や深い精神性にとても感動しました。学会員はキリスト教のことなど何も知らずに「気持ち悪い」とか「外道」とか「二重人格」などと罵倒します。ただ単に上からそうとしか教えられていないからです。日本での厳しい禁教令のもと、司祭も誰一人いない生活のなかで、ひたすら神を信じて子孫に語り継ぎ殉教していった日本人キリシタンと、単に教えられただけで他人の信仰を罵倒することしかできない創価学会員とでは、比較になどなりません。

他人の信仰を罵倒することが慈悲であるのか、それが人として正しいことなのか、創価学会員には自分の頭と心でしっかり考えて欲しいと思います。

先日、このブログにはめずらしく、承認できないコメントがありました。なぜ承認できないかというと、文章がなりたっていなかったからです。いきなり自己紹介もなく、内容も何を言いたいのかわからない以前に、日本語として破綻していたからです。それでもそのなかに、「ここは創価内部の離反者をあぶりだすおとりのブログではないか」ということがありました。その理由に「このブログはアンチとはいいながら、それほど創価を批判していない」のだそうです。もちろんこのブログはそんな手の込んだものではありません。単純に創価の間違いに気づいた元学会員のブログですし、なおかつアンチ創価によくあるような罵倒系ではありません。いくら口汚く罵ったところで何にもならないし、言うほうも言われたほうも、そして関わりのない方が読んでも気持ちのいいものではありません。それははなっから対話を否定する行為だからだと思います。このブログの「対話を求めて」というタイトルは、そうした意味も含まれています。多くの学会員は、創価の信仰が正しいと本気で信じてやっています。私もそうでしたから、その気持ちはよくわかります。そしてここにコメントを寄せられる方のほとんども、そうしたことをよく理解されている方であるし、そのことが間違いだったという真実を自分が受け止めることに対しても、とても苦しんでこられた方ばかりです。ですから創価を頭ごなしに感情的に批判するだけではなく、どうやったら創価の真実をわかってもらえるだろうかということを考えておられる方が多いと思うからです。いちど真実に気がつけば、どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだろうと不思議に思うことなんですが、そこが人間の心理の不思議なところだし、恐ろしいところですね。一歩まちがえば、何のみかえりもないのに全財産を貢いでしまったり、さんざんただ働きをさせられたり、子どもまで徹底的に洗脳してしまうんですから、それは恐ろしいです。本人はこれで幸せになる、功徳がいただけると信じていますが、実際は普通の人以上に悲惨な生活を強いられていてもそれは自分の信心が足りないからだと思い込まされてしまっています。私はそうやって死んでいった学会幹部をたくさん知っています。とても悲しいことです。このあいだ偶然、少年部時代からいっしょに活動をしてきた同級生に会いました。おたがいにずいぶん歳をとったなあと思ったでしょう。彼も親の代から活動家です。彼はあいかわらず新聞配達をやり、地区の壮年部として活動を続けています。若い時に妹を脳腫瘍で亡くしました。元気だった母親も今は病弱で、歩くのもままならない状態だそうです。彼は強信な女子部と結婚して、奥さんにひっぱられる形で活動を続けています。ふたりの子どものうちひとりは知的障害をもった子どもで、小さい頃から施設に通っています。彼にとって創価の信仰とは何なのだろうかと少し考えました。そして、彼がもし創価の真実に気がついた時に、自分のこれまでの人生をどう思うのだろうかと考えるといたたまれなくなりました。

創価学会は間違っていて、多くの人が騙され不幸になっていることは明白なのに、いま創価学会員全部がそのことに気付いた時に、日本は大丈夫だろうかと思います。とても難しい問題です。そう遠くもないうちに、Xデーは来るでしょう。そうすれば、組織の求心力は急速に衰えるでしょうね。そして組織の上層部は既存の利権を争い、いくつかの派閥に別れるでしょう。敵対する派閥を陥れようと内部告発があいつぐはずです。そうすれば、これだけ大きな組織でもたちまち崩壊します。利のない企業やマスコミや政治家も蜘蛛の子を散らすように去っていくでしょう。崩壊するのはかまわないのですが、一般会員の混乱はおそらく社会現象にまでふくれあがると思われます。とくにこれだけの数の人が自分は騙されていたということがわかったとしたら、いくら治安のいい日本と言えど、暴動まで起きかねません。そのとき責任は誰がとるのか。組織の中枢はしらを切るでしょう。自分も騙されていたんだと。数えきれない訴訟が立ち上げられ、無数の被害者の会ができるでしょうね。

そんなことを考えると、やはり一人ひとりが自ら気づいて、静かに創価を離れていくというのがいちばんいいのではないかと思います。

あれからつづきを書こうとしたのですが、自分が思っていた以上に気持ちが落ち込んでしまいました(苦笑)。また、たくさんの激励やお気遣いの言葉をいただきまして、ほんとうにありがとうございます。しばらくこの話題は置いておくことにします。自分から言っておきながら申し訳ないですが、もう少し時間が必要みたいです。すみません。

さて、気をとり直してこのブロブを進めていきたいと思います。みなさん、よろしくお願いします(^^)