江戸のアントレプレナーシップ   江戸しぐさ語りべ 越川禮子氏

●江戸しぐさとは
江戸しぐさは上に立つ人のしぐさ、江戸しぐさは江戸商人のトップに立つ人、今でいえば経団連のような江戸の企業家たちの心構えだといわれてきました。つまり江戸商人のリーダーたちの考え方、生き方、口のきき方、表情から身のこなし方など、その美意識や感性すべてを包含し体系化した商人道ともいうべき生活哲学です。

共倒れしない(江戸には共生という考えはあったが、言葉としてはなかった)ための江戸商人のライフスタイルであり、その根底には人間に対する深い思いやりの精神がありました。徳川時代268年5カ月の泰平の中で、将軍御用達の大手商人を筆頭に、一流の商人を目指して切磋琢磨した江戸商人の軌跡ともいえます。江戸商人には、よき物を仕入れそれを売る行為を通じ、お客様のため、広くは江戸のためになっているという自負心(プライド)がありました。結果として適正な利潤を最も合理的にあげていくための、しなやかなで、かつ、したたかなハウツウでもあったのです。

それは、ひらめき人間を養成するテクニック、発明を生むヒント、外交のマニュアル、健康を維持する秘訣、良いつれあいをみつける虎の巻、夫婦喧嘩をしないコツなど、つまり、手品でいえばタネや、しかけですから、江戸商人の末裔以外、門外不出であったのだそうです。文章にも残されていませんでした。そのため、江戸の続く限り、親から子へと代々、口伝で受け継がれた江戸しぐさは長い間未公開でした。

● 江戸しぐさは商人しぐさ
江戸しぐさは、商人(あきんど)しぐさ、繁盛しぐさといわれました。具体的にいえば、江戸企業家同士および客に対する挨拶や、おつきあいのし方ということになります。特に異国(異文化、赤の他人)の人と出会った時、瞬間に表現する、交わす目付き、言葉と身のこなしで、人間関係を良好に保つための知恵でありパフォーマンス(江戸では体談といいました)です。江戸しぐさがきちんとこなせれば、人間関係が円滑にいき、商売が繁盛し、江戸も日本の国も平和を維持することができることは間違いないといわれました。

江戸しぐさを身につけるため、江戸商人の稚児たちの寺子屋でのトレーニングは、「読み書きソロバン」ではなく、将来、人を使う身に必要な「見る、聞く、話す」に主眼が置かれました。江戸しぐさの究極は人物鑑定力、人物観察力、洞察力を見につけることが最重要項目だったからです。そのためのチェック項目は800項目(一説には8,000項目)もあったそうです。限られた時間でこれだけ沢山の江戸しぐさをご披露することは無理ですが、21世紀に通じる、しぐさをいくつか紹介させていただきます。

■ 肩書きで人を見ない「三脱の教え」
江戸しぐさでは初対面の人に職業、学歴、年齢の三つ(地位、経歴、身分つまり肩書)を問うてはならないとされていました。このような情報、先入観が入ると、とかく人間はフィルターをかけて人を判断してしまいがちです。本当の人間を見る観察力や洞察力が曇ってしまうからなのです。現代でも一流校の出身であるとか、有名企業の社員というだけで簡単に人を信用してしまいがちです。このことを防ぐための知恵なのです。

■ 「おはよう」には、「おはよう」
「おはよう」と言われたら「おはよう」と答えればいいのですが、相手が丁寧に「おはようございます」と言ったら、こちらも「おはようございます」と同等の言葉で、答えなければいけませんでした。こちらが、たとえ上司であっても、「おはようございます」と言われたら、「おはよう」ではなく「おはようございます」と言わなければなりませんでした。人の上に立つ人こそ、相手を尊重し、決して偉ぶった態度やものの言い方をしてはいけないのです。江戸商人はどんな身分の人に対しても、失礼にならないものの言い方がしつけられていました。

■ 江戸でもっとも失礼な言葉
「そんな偉い方とは知らずに失礼いたしました」という言葉ほど失礼な言葉はないそうです。偉い方なんて持ち上げていますから、くすぐったい気持ちになる方がいるかも知れませんが、慇懃無礼とはこういうことをいいます。その訳はお分かりだと思います。見方を変えれば、偉い人でなければ失礼なことをしてもいいのかということになり、人間に上下はないという江戸っ子(江戸しぐさをする人)は許さなかったのです。偉くとも、偉くなくとも人間にしてはいけないことは、してはいけないのです。江戸っ子はこんなあたりまえの考え方が即、言葉や行為に表現する(瞬間芸)のが、くせになっていました。

■ 共生のしぐさ「尊異論」
有能な番頭(現代ならば管理職のトップ)は小僧たちの意見をよく聞いたそうです。十人のうち一人だけ意見が違っても、その内容がユニークで優れていれば尊重し、そのアイディアを仕入れ、採用しました。小僧も成長してくると、いっぱしの批評精神でものを言うようになります。多角的にものを見る目が備わって来るのです。その時の上司の江戸しぐさは「苦しゅうない」だそうです。批判精神をもっている人、新しいことを考えている人をおさえつけてはいけないのです。無礼であっても、誰かが異なる意見を言ったときは「苦しゅうない。お前の意見を言ってみなさい」と言わせなければいけないのです。この批判精神を受け入れるということは、自分の考えと違う意見を尊ぶ、つまり尊異論のことで、異文化の受容論であり、「共生のしぐさ」です。

■ 江戸しぐさから見た江戸っ子の条件
最後に、江戸しぐさから見た江戸っ子の条件を申し上げます。

1.目の前の人を仏の化身と思える(相手をかけがえの無いものとしてつきあえる)

2.時泥棒をしない(断りなく相手の時間を奪うのは、弁済不能の十両の重罪)

3.肩書きを気にしない(三脱の教え)

4.遊び心をもっている(知恵比べ、腕比べを好む)

の4つといわれてきました。

江戸しぐさは現在でも、いや、現在だからこそ見なおしてみる価値のある日本人に残された貴重な財産であると思います。江戸しぐさを生かすことで、争いのない、もっと住みやすい世の中になることを願います。ご静聴ありがとうございました。



越川禮子(こしかわれいこ):1926年、東京生まれ。青山学院女子専門部家政科を卒業。1966年、女性スタッフのみで市場調査と商品企画などを手がけるインテリジェンス・サービスを設立し、代表取締役社長に。現在は社主。1986年、アメリカの老人問題を取材したドキュメント「グレイパンサー」が「潮賞ノンフィクション部門」の優秀賞を受賞。「江戸しぐさ語りべの会」を主宰、「江戸しぐさ」の普及に務め各地で講演活動を行っている。著書には、商人道「江戸しぐさ」の知恵袋(講談社)など。