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春野事典

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UPDATE : 2009/04/03 11:45:40 | データ件数 : 33件

全部で33件です。

春野町の面積【はるのちょうのめんせき】

252.17平方キロメートル

春野町の人口【はるのちょうのじんこう】

5953人(2005年6月1日現在)

春野町の場所【はるのちょうのばしょ】

静岡県西部地区北部(北遠地区)の山間部に位置する村落。

春野町の歴史【はるのちょうのれきし】

1956年9月30日に周智郡犬居町と熊切村が合併。
1957年8月1日に春野町と気多村が合併。
2005年7月1日に浜松市に編入合併、浜松市春野町となりました。

ヤシオツツジ(町の花・国の天然記念物)【やしおつつじ】

岩岳山頂一帯に群生するアカヤシオ・シロヤシオは、国の天然記念物に指定されています。樹齢200年前後の立派な老木が、赤・白合わせて約5000本も群生しており、4月下旬から5月上旬にかけて美しい鼻を見せてくれます。(昭和48年(1973)4月1日制定)

モミジ(町の木)【もみじ】

緑深い春野の山々では、イロハカエデ・ヤマトモミジ・十二単衣など、多彩なモミジを見ることができます。町内には明神峡をはじめ、モミジの名所が数多く存在し、秋には人々の目を他のしまえてくれます。(昭和48年(1973)4月1日制定)

ウグイス(町の鳥)【うぐいす】

美しい澄んだ鳴声で春の訪れを告げる鳥です。別名“春告げ鳥”とも呼ばれ、日本三名鳥の一つにも数えられており、春野町のマスコットとして町民に愛されています。(昭和52年(1977)11月12日制定)

スミレ(町の草花)【すみれ】

春になると町内のいたる所で可憐なスミレの花を目にする事ができます。「スミレの花の咲く頃」を作詞した白井鐵造氏は、郷土、春野の野に咲くスミレを思い、この歌を作ったと言われています。(昭和62年(1987)8月1日制定)

春埜杉(春野名木百選・県の天然記念物)【はるなすぎ】

静岡県内にある杉の中で最大の巨木で、行基菩薩が春埜山大光寺の開山の際に植えられたものと伝えられています。

京丸のアカヤシオ(春野名木百選・国の天然記念物)【きょうまるのあかやしお】

国の天然記念物に指定されています。

ビンカ峠のビンカ(春野名木百選・町指定天然記念物)【びんかとうげのびんか】

ビンカ峠は春野町と中川根町との境に位置しており、このビンカは樹齢500年といわれる巨木です。

秋葉山の杉(春野名木百選・町指定天然記念物)【あきはさんのすぎ】

火の厄を防ぐ神社として信仰の厚い秋葉神社の境内には、樹齢250〜400年といわれる杉の巨木が連なっています。

南宮神社のイチイガシ(春野名木百選・町指定天然記念物)【なんぐうじんじゃのいちいがし】

南宮神社の裏にあるイチイガシの巨木で、樹齢は不明。

瑞雲院のマキ(春野名木百選・町指定天然記念物)【ずいうんいんのまき】

推定樹齢は200年といわれ、イヌマキとしては樹高の高い姿を見せています。

三田島のイチョウ(春野名木百選・町指定天然記念物)【みたじまのいちょう】

樹齢は推定200年といわれる北遠地方最大のイチョウです。

高瀬のニッケイ(春野名木百選・町指定天然記念物)【たかせのにっけい】

ニッケイは東南アジアが原産で、江戸時代に中国を経て日本に伝わりました。この木もニッケイとしては巨木の類に入ります。

花島のカヤ(春野名木百選・町指定天然記念物)【はなじまのかや】

雌木の大木で、毎年多くの実がなります。

郷島のビンカ(春野名木百選・町指定天然記念物)【ごうじまのびんか】

茶畑の下に樹生しており、その幹は盆栽のようにくねった形を見せています。

洪水を止めた二匹の竜(昔話「ふるさと春野の伝説」より)【こうずいをとめたにひきのりゅう】

その昔、犬居の集落では大雨が降ると気田川で洪水が起こり、田畑や家が流されるなど大きな被害を受けることが度々あり、村の人達はとても困っていたそうです。
ある年の事、やはり大水が出て犬居の堤防が切れそうになりました。村人は必死になって堤防が壊れないように、石や土嚢を積んで大水と闘いました。
しかし、水高は増すばかりで、荒れ狂う泥水は今にも堤防を破って村の中に流れ込みそうになりました。堤防の大きな土の固まりは、ものすごい音を立てて削り取られていきます。もはや人の力では、どうすることもできません。
それでも村人は、神に祈りながら全力で水を防ぎ止めようと頑張りました。
その時、突然真っ暗な雲が空を覆い、風に乗って二匹の大きな竜が現れました。二匹竜は切れかかる寸前の堤防の前に立ちふさがり、濁流から堤防を守りました。
やがて、水が引きはじめ、空が明るくなってきた頃、二匹の竜は雲の彼方に去って行きました。
こうして、二匹の竜に助けられ、犬居の村では田畑や家を流されずに済んだそうです。
その後、犬居の村では、毎年5月5日に竹や柳の枝などで竜の形を作り、若い人達がかついで町中を練り歩き、洪水から村を守った竜に感謝する祭りを行うようになりました。
この祭りは、「つなん曳き」と呼ばれ、現在も犬居地区で行われています。

京丸牡丹(昔話「ふるさと春野の伝説」より)【きょうまるぼたん】

現在の京丸は、定住する人がいない地域になっており、代々この地区の中心だった藤原本家の旧家屋と阿弥陀堂が残されているだけです。
その昔の京丸は、源氏との戦いに敗れた平家の人々が、都から落ち延びて暮らした場所であるとも考えられています。
この京丸には、牡丹にまつわる伝説が残されています。
ある年のこと、京丸の里に気品のある若い旅人が迷い込んできました。その旅人は、里長の家でしばらく暮らしていましたが、その家の娘で美しく気立てのやさしいことから、里の人々から牡丹姫と呼ばれていた娘と親しくなりました。
しかし、この里のおきてでは他国の見知らぬ旅人と親しくすることは禁じられていました。そのうちに、里長の家で暮らしていた旅人と牡丹姫の姿は、いつしか京丸から見られなくなってしまいました。
その後、里人の話では二人は気田川の流れに身を投げたと言われています。
それ以来、二人の命日とされた日が近づくと、川の流れに乗って里に運ばれてきた牡丹の花びらを、多くの里人が見たということです。
もう一つ、京丸に牡丹にまつわる伝説があります。
いつの頃からか、大変険しく人の近づくことの難しい京丸谷の山腹で、二かかえも三かかえもある幹に、大きさが傘ほどもある牡丹の花が咲くことがあるそうです。
この大きな牡丹の花は、六十年に一度咲くとも言われていますが、その幹のある場所は定かではないため、見つけることが難しく、幻の花と呼ばれています。

新宮池の大蛇(昔話「ふるさと春野の伝説」より)【しんぐういけのだいじゃ】

和泉平の山の上に、新宮池という大きな池があります。
この池のある場所は、その昔は広い田んぼでした。ある日、長者の娘が畦道に咲いていた花を摘もうとしました。ところが、その花は大きな蛇が化けていたものでした。
大蛇は怒って暴れ回ったため、見る見るうちに田んぼは掘られていき、とうとう池になってしまいました。そして、大蛇はこの池に住むようになったと言われています。
その後の新宮池には、この大蛇にまつわる伝説が残されています。
新宮池に住むようになった大蛇は、時々悪さをして畑や山を荒らすため、村の人は困っていました。何回も池に来て、大蛇に悪さをしないように頼みますが、大蛇は聞き入れてくれません。
そこで、村の人たちは相談して、焼いた石を沢山池に投げ入れ、大蛇を懲らしめることにしました。
このため、流石の大蛇も池に居られなくなり、別の池に逃げて行ったそうです。
また、古くは新宮池と長野県の諏訪湖の水は、地底でつながっていたという言い伝えもあります。
この新宮池では、毎年7月下旬に御舟祭が行われ、池の上に飾り付けられた舟が浮かび、舟の中に笛や太鼓を持ち込んで賑やかな演奏が行われます。

日暮らしの松(昔話「ふるさと春野の伝説」より)【ひぐらしのまつ】

その昔、熊切の集落の人たちは食べ物に困っていました。そこで、食糧を得るために山を切り開いて野焼きを行い、畑を作ることにしました。
ある日のこと、村の娘が山で働いている人たちのところへ昼ご飯を持って行こうと飯櫃を背負って山道を急いでいました。
ところが、山道の途中で大きな熊が現れました。娘はあわてて逃げようとしましたが、くまから逃げ切れなかったため、一本の松の木によじ登ることにしました。
しかし、熊も娘を追いかけて、松の木を登ってきました。
やがて、熊は娘の近くまで登って来てしまい、前足がふれるまでになっていました。
そこで、困り果てた娘は飯櫃の中からしゃもじを取り出し、力いっぱい熊の前足をたたきました。
けれども、熊はあきらめません。娘と熊の戦いは長い時間続けられました。
そうしているうちに、日も暮れようとする頃、熊の前足から血がにじんできました。足の傷が痛み出した熊は、ようやく松の木から降りて、夕暮れの山の中に逃げて行きました。
こうして、娘はやっと松の木から降りることができましたが、あたりはとっぷりと日が暮れていました。
この出来事から、娘と熊が戦った松の木のことを、日暮らしの松と呼ぶようになったそうです。

朝寝坊で失敗した殿様(昔話「ふるさと春野の伝説」より)【あさねぼうでしっぱいしたとのさま】

その昔、田河内(たごうち・現在の春野町)の殿様と原山(わらやま・現在の中川根町)の殿様の間で、領地をめぐる争いが起こりました。
二人の殿様は、話し合いによって領地の境を決めようと、相談を続けましたが、お互いに納得のできる領地境が決まりません。
この話し合いは何回も行われましたが、最後に次のような方法で領地境を決めることにしました。
いつまで話し合っても、領地境が決められないので、明日の朝、両方の殿様が早起きをして、自分の城から相手の城に向かって歩き出し、二人が出会った場所を領地境にしよう。ということに決まりました。
翌朝、原山の殿様は、いつもより早く起きて田河内に向かって歩き出しました。
しかし、田河内の殿様は、うっかり寝すぎてしまい、目が覚めた時には、夜が明けてからだいぶ時間がたっていました。
慌てた田河内の殿様は、したくもそこそこに、大慌てで原山に向かって走って行きました。
けれども、いくらも行かないうちに原山の殿様と出会ってしまったため、約束通り、その場所が領地境に決められました。
田河内の殿様は、朝寝坊をしてしまったために、自分の領地が少なくなってしまいました。

春野の野鳥【はるののやちょう】

広大な森林の広がる春野町には、多くの野鳥達が生息しています。その種類は、一年中同じ地域に留まる留鳥をはじめ、春に南方の方越冬地から渡って来て繁殖し、秋に再び南方へ帰って行く夏鳥。秋に北方の繁殖地から飛来して越冬した後、春に北方へ戻っていく冬鳥。北方の繁殖地と南方の越冬地を往復する途中、春と秋を中心に訪れる漂鳥などに分けられます。
●春野町域で見られる野鳥達・・・アカハラ、イカル、ウソ、オオマシコ、オオルリ、カケス、カワラヒワ、キジ、キレンジャク、シジュウカラ、ヤマセミ、ジョウビタキ、シロハラ、セグロセキレイ、ツグミ、トラツグミ、ハクセキレイ、ヒヨドリ、ホオジロ、ミヤマホオジロ、モズ、ヤマガラ、シメ、ルリビタキ

気田川流域の魚【けたがわりゅういきのさかな】

美しい水が流れる気田川流域は、魚類の宝庫として多くの人に知られ、鮎釣りや渓流釣りの名所として各地から釣り人も訪れます。
【生息が確認されている魚】
●純淡水魚・・・イワナ、アマゴ、ヤマメ、ニジマス、ウグイ、アブラハヤ、カジカ、ヨシノボリ、カマツカ(ズイコ)、オイカワ、オガサ(ババサシ)、カワムツ、ニゴイ、ドジョウ、ナマズ、コイ、フナ、ナツメウナギ、など
●回遊魚・・・鮎、カジカ、ウグイ、サツキマス、ウナギ、アユカケ、など

春野名木百選【はるのめいぼくひゃくせん】

町域の多くを森林に包まれた春野町には、様々な種類の樹木が生息してきました。その中には、数百年の歳月を経て巨木になったものや、美しい姿を見せてくれる多彩な木々があります。こうした木々を多くの人に知ってもらい、郷土の財産としてこれからも大切にしていくため、平成2年に策定しました。これらの名木の近くには

モチクイド遺跡【もちくいどいせき】

平成元年に行われた調査で、春野町田河内地区の茶畑の中から石核が発見されました。この場所は、熊切側と農道熊切南部線に挟まれた丘陵地帯で、調査を行う前から注目されていた所でした。
付近からは楔形石器や大小の剥片も発見され、春野町でも旧石器時代に人が暮らしていたことが実証され、空白域だった静岡県北遠地区に歴史の一ページが記されました。この遺跡は、発掘場所となった茶畑を所有する鈴木拓也宅の屋号から、『モチクイド遺跡』と名付けられました。
モチクイド遺跡から採取された石核や楔形石器は、旧石器時代後期に日本列島の西から広まったナイフ形石器と考えられています。

平木開拓T遺跡【ひらきかいたくいちいせき】

縄文時代早期の土器が出土。気田川に向かって張りだす幅広い尾根の先端部に位置。

里原遺跡【さとはらいせき】

気田川の流域に位置しており、山間部の多い春野町域では比較的少なかった稲作耕作地だったと考えられます。

サルマ古墳【さるまこふん】

大正15年(1926)5月13日、桑畑を開墾していた酒井新太郎・義信親子が、奇妙な形をしたねずみ色の土器を掘り出したことが発端となったサルマ古墳は、北遠地方に築かれた唯一の中期古墳で、5世紀の後半に造られたものと考えられています。
里原遺跡を見下ろす尾根の先端部に近く、低地から約45m高い丘陵地にあります。自然の地形を上手く利用し、気田川の流域からは大きく見えるように工夫されています。

仇山古墳群【あだやまこふんぐん】

地元では古くから知られていたようですが、その発見は『静岡県郷土研究』第1号によると、昭和3年(1928)10月と記されています。
記録に残っている最初の発掘は、昭和6年(1931)に地主の梅谷粂蔵氏により行われ、出土品の一部は東京国立博物館に納められました。
気田川を挟んだ里原遺跡の対岸にあり、丘陵地の南側裾野の小規模な扇状地にあります。造営が行われたのは7世紀頃の事と推定され、緩傾斜地にある1号から10号墳と斜面裾部にある11号から19号墳の二つのグループがあり、一族が長年にわたって埋葬を行っていたと考えられます。

春野町内の神社【はるのちょうないのじんじゃ】

昭和61年から平成4年にかけて、町内の神社、寺院の調査を行い、平成5年2月に刊行した『春野町の社寺棟札等調査報告書』によれば、春野町内にある社寺は113を数えています。
●代表的な神社・・・秋葉神社(領家)、小国神社(杉)、南宮神社(気田)、熊野神社(高瀬)、熱田神社(犬居)、蛭子神明神社(熊切)、諏訪神社(長蔵寺)、新宮神社(和泉平)、八幡神社(勝坂)、清水神社(勝坂)

春野町内の寺院【はるのちょうないのじいん】

春野町内の寺院が建立され始めたのは、仏教が広く民衆の間によって広まった、最澄の天台宗、空海の真言宗、やや遅れて日蓮が日蓮宗を布教した時代以降と思われています。
明治維新後に神仏分離の政策がとられると、各地で神官たちによる廃仏毀釈運動が起こり、春野町内の寺院もいくつかが廃寺になりましたが、現在でも地域の人々の信仰を守り続けている寺院も多く、歴史の古い仏像なども残されています。
●主な寺院・・・秋葉寺(領家)、瑞雲院(若身)、長命寺(長蔵寺)、大光寺(春埜山)、意昌庵(静修)、正源寺(仇山)、宝珠寺(川上)、宝泉寺(植田)、戒光院(山路)、高松寺(杉)、円満寺(気田)

*参考資料:「春野歴史物語」

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