2008年02月28日
2008年02月27日
●<雪山(1)>
2008年02月24日
●<タンシュエ議長>
ここ最近の『毎日新聞』・『読売新聞』・『日経新聞』・『朝日新聞』の
社説を(ウエブで)読んでいると、『朝日新聞』だけがビルマの
ことを取り上げていた。
「ミャンマー―民主化の空約束は通じぬ」(2月24日付)
というタイトルだった。
もちろん、取り上げないよりは取り上げた方が良い。
でも、相変わらず「軍政 VS スーチー氏」という図式を描いている。
やはり軍事政権のトップである「タンシュエ評議会議長」という具体的な
名前を出した方が説得力のある内容になったのに、ちょいと残念だ。
どう思います?(>さん?)
2008年02月23日
●<一服如何?(3)>
2008年02月22日
●<一服如何?(2)>
2008年02月21日
2008年02月20日
●<街角の給油所>
2008年02月17日
●<暗殺の眞相への推測(1)>
2月14日に発生した、カレン民族同盟(KNU)の書記長パドォー・マンシャ氏暗殺への問い合わせが複数ある(3つほどだけど)
で、自分なりにメモ書きで考えてみる。
--------------------------------------------------
14日のマンシャ書記長の暗殺も、簡単にSPDCやDKBAだとは
言い切れない裏があるようだ。
それはこの数年のメソット(ビルマとタイの国境の様子を感じれば、
自ずと分かる)という町の雰囲気も変わり始めていることからも推測
できる(カレン→ビルマ)
今回のマンシャの暗殺は、2003年12月のボーミャ元議長による
SPDCとの和平交渉を端に発すると思える(というか、延長)
その頃から、KNU内部では、いわゆる抗戦派と和平推進派の間で、
「静かに」綱引きが始まっていた(マンシャを最右翼とするとティンマウン
は最左翼かな)
その綱引きに、外国のNGOの影響力(財政的な支援と国際世論)
が加わった(外国はタイを含めた欧米)
2007年1月に第7旅団の旅団長ティンマウン(将軍)による、
(これまた当然の)単独和平交渉開始は、ボーミヤ以後のKNUに
衝撃を加えた。
ティンマウンの甥ラムーが襲われたのも(時間差はあるが)この頃である。
KNUは元々、SPDCに対する抵抗組織という性格からKNUの
軍事組織KNLA(カレン民族解放軍)が一番影響力をもっていた。
だが、ボーミヤ元議長が引退する頃から、KNU内部では政治部へと
その力のバランスがシフトし始めていた。
2008年1月31日のKNUの「革命記念日」も異様であった。
「革命記念日」は完全に、政治部の影響下でセレモニーが進められて
いた。
しかもその政治部の中でも、SPDCに対して○○を主張するグループが
主導権を握っていた。その○○グループに対するもう一報のグループは誰一人
として式典に公に参加していなかった。
これは驚くべきことであった。実態としてKNUは完全に分裂している
ではないか・・・(これに関して、そうではないと言う理由をあげることはできるが、それは完全に後付の理由でしかない)
そう、この式典の前の月には、ラムー氏もまた殺されていたのだ。
もともとメソットで殺人事件が起こる場合には、 メソットという町の
成り立ちを考えるとそれは政治的な理由よりも経済的な利権争いが発端に
なることが多い(と思う)
ラムー氏の事件もその一部だと考えられる。
私の個人的な印象では、メソットは従来、「タイとKNU」の支配力が強かった。
だが、この十年ほど、KNUの力が弱くなるにつれ、相対的にタイ(の商工業者)
の力が強くなり、ビルマ人活動家の流入も増え、「タイとビルマ人」の町へと
変貌しつつある。
簡単に結論を出すのは早急だが、今回のマンシャ氏の暗殺は、簡単にSPDCと
DKBAの策略、KNUの内部分裂といったものより(もちろんそれらを加えて)、
タイ側の動きをも含めた別の要因があるように思える。
--------------------------------------------------
が、それらはちょいと複雑で話す方もちょいつらいね。
さて??
2008年02月14日
●<暗殺>
2008年02月10日
●<大阪アクション2・10>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ビルマに平和と民主化を!大阪アクション2・10
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○日時:2月10日(日) 午後12時~2時
○内容:ビルマ民主化連盟日本支部名古屋のビルマ人が中心となり、
大阪でビルマの民主化支援を呼びかけます。
○集合場所:大阪駅前、阪神デパート側交差点
○連絡先:BRCJ
●<国民投票・総選挙?>
先ほど(10日午前3時過ぎ)ネットでニュースを徘徊してたら、
うわ、びっくり。
--------------------------------------------------
2010年に総選挙=5月に新憲法案の国民投票-ミャンマー軍政
2月10日1時0分配信 時事通信
【バンコク9日時事】ミャンマー軍事政権は9日夜、5月に新憲法案の国民投票を実施し、2010年に総選挙を行うと発表した。軍政が民主化に向けた具体的な選挙日程を公表するのは初めて。昨年9月の反政府デモへの武力弾圧を契機に国際社会の民主化圧力が高まる中、軍政独自の民主化行程の公表に踏み切った。ただ、予定通り総選挙などが実施されるかどうかは不透明だ。
軍政は同日夜、国営テレビを通じ、国民投票などの日程を発表、新憲法案の起草が近く終わるとの見通しを示した。
--------------------------------------------------
というニュースが流れていた。
各新聞も一報を流している(バンコクからだと時差があるからね)
先日も、いろんな報告会や講演会で「最近、軍の中で動きがある」って
話したけど、やっぱり当たってた(普段の予想は外れるんだけど)
ビルマ取材に一息つけようと思っていたところなのに、またかぁ~。
なかなか休ませてもらえそうにないなぁ。
とほほ。
2008年02月09日
●<カレン革命記念日(4)>
2008年02月08日
2008年02月07日
●<カレン革命記念日(2)>
2008年02月06日
●<カレン革命記念日(1)>
2008年02月05日
2008年02月04日
2008年02月03日
2008年02月02日
●<暖炉の端で(3)>
2008年02月01日
●<暖炉の端で(2)>
2008年01月31日
2008年01月30日
2008年01月28日
2008年01月27日
2008年01月26日
2008年01月25日
2008年01月24日
●<仕送り?>
ビルマ人の若者が多い喫茶店で毒舌N氏とぐっちゃら。
しっかし、この5年ほどで町の様子がすっかり変わった(他の国に
比べれば、もちろんそのペースは遅いけど)
エアコンの効いている喫茶店も増えたし、ショッピングセンターも
あちこちにある(限られているけど、結構お客がはいってる)
それに建築ブームだし。
いったいそれだけのお金どこにあるんだろうか。
やっぱり海外からの仕送りかな。
ま、100ドルもあればいっぱしの生活はおくれるんだからな。
涼しい喫茶店内。
携帯電話のカメラで友達を激写(これも死語?)
携帯の番号(チップ)は2000ドルくらいだけど、レンタルだと
1ヶ月45~60ドルほどで手に入るとか。
2008年01月23日
●<大船小舟>
2008年01月22日
●<仕事は大変>
2008年01月21日
●<仲良しこよし>
2008年01月20日
●<蛇肌>
2008年01月19日
2008年01月18日
●<大工の仕様>
2008年01月17日
2008年01月16日
2008年01月15日
●<行き当たりばったりの政策>
2008年01月14日
●<腐敗臭の消えた新聞>
2008年01月13日
●<パヤポェ>
2008年01月12日
2008年01月11日
●<顔出し>
2008年01月10日
●<ビーチへ>
2008年01月09日
2008年01月08日
2008年01月07日
●<ただ今、警備中>
2008年01月06日
●<そないにしてまで>
2008年01月05日
●<学校の帰りに>
2008年01月04日
●<ただ今、警戒中>
2008年01月03日
●<正月から>
2007年12月30日
●<そいや60周年>
2007年12月29日
●<お馴染みの風景>
2007年12月28日
●<肝を冷やす>
ああ、肝を冷やしたぜ。
別に、突進してくる牛車にひかれそうになったわけじゃない。
ここはラングーン(ヤンゴン)から車で1時間半くらい走った、
とある地域。
バイクに乗ってビュンビュン飛ばしていた。
と、目の前に、無線機を持った兵士が突然現れる。
ちゅうか、正確に言うと、向こうとすれば、私が突然現れたのである。
おお、それに自動小銃を担いだ兵士たちが約20人ほど整列している。
えっ、と、走りながら思考停止に落ちる。
すぐにまた別の兵士の集団が現れる。
えっ、えっ、えっ。
もしかして、ここは演習場?
あ、写真を撮らねば、という考えが一瞬浮かんだ。
が、何を考えてるんだ。
今、ここで拘束されたら、最後、だぞ。
背中がヒヤッとする。
一刻も早く、この地域から出なければ。
細かな砂を巻き上げながら、バイクを全速力で走らせる。
さっき、最初に出会った無線機を持った将校(たぶん)は、
突然現れたバイクにビックリしたに違いない。
今も、「えっ」とした顔を思い出す。
彼の方こそ、思考停止に陥ったはずだ。
それにしても、追いかけられなかったし、手配もされなかったし、
いつもギリギリのところで逃げ切っている。
で、30分ほど走ったら、向こうから牛車がやってきた。
なんか、ホッとした。
しばらく無理な行動はやめよう。
2007年12月27日
2007年12月26日
●<寒いんだって>
2007年12月25日
●<染まって>
2007年12月24日
●<バナナ運び>
2007年12月23日
●<立ち話>
2007年12月22日
●<バスターミナルにて>
2007年12月21日
●<ささやかな抵抗>
スーレーパゴダの前で「鳥を売ってる」男が目をつけられました。
誰にって?
どうやら相手は、政府関係者のようだ。
路上で商売するにも当局に税金を払わなければならないらしい。
彼は、その税金を払ってなかったのかな?
(詳細はわからないけど)
鳥かごを取り上げられるのに抵抗してます。
そう、さすがに生活の糧を取り上げられるのに易々応じるわけには
いかないようだ。
ささやかな抵抗をしてます。
市場の前の路上で取り締まりにあった露天商が、取り締まりの役人と
喧嘩しているのを見たこともあります。
政治的には完全に抑え込まれている人びとも、さすがに堪忍袋の緒が
切れることもあります。
お役人や取り締まり官は、そのさじ加減を間違ったら、また大変なこと
になります。
鳥かごの件は、軍のMIが出てきて一発で解決。
もちろん、取り上げられました。
で、時代が変わったと感じる。
こういうやりとりを、10年ほど前は、カメラを持った外国人の前
ではやらなかったのに。政府側の奢りが大きくなっているような。
ふむ。
2007年12月20日
●<ホッとさせる笑顔>
●<子守り>
2007年12月19日
●<鳥インフルエンザ>
2007年12月18日
●<今どきの>
2007年12月17日
●<ありふれてますけど>
2007年12月16日
●<看板から>
2007年12月15日
●<生活優先>
2007年12月14日
●<今も昔も「米どころ」>
米粉が濛々と舞うデルタ地域の精米所の倉庫で働いています。
デルタは米所で有名ですね。
-「大変な仕事だね」
「そうだよ、日本に出稼ぎに行きたいよ」
-「日本じゃあもっと大変だよ」
「でも、ここより悪いところはないから、何でもするよ」
-「ふむ」
( ↑ ちょいとぎこちない会話・・・ )
その昔、ビルマの米の輸出は外貨稼ぎのトップだったのだがなあ。
今はどのくらい輸出しているのだろうか<数字、当たれよ、な。
そいやバーマネット(『BNN日本語ヘッドライン』)で
--------------------------------------------------
AFP: ミャンマーの天然ガス産業への海外投資が記録的な額
(約4億7千万ドル)に 海外投資全体の60%を占める
--------------------------------------------------
てなような情報が流れていた。
2007年12月13日
●<光モン>
2007年12月12日
●<質屋>
2007年12月11日
2007年12月09日
●<お札でなぞって>
2007年12月08日
●<ハーレーよりも>
2007年12月07日
●<アーノット風に>
2007年12月06日
●<しゃがむ>
ビルマではよく見る風景です。
「立ち話」ではなく「座り話」です。
しゃがんでいます、へへ。
思わず、仲間に入れて~、って言いたいような感じかな。
そいや、本多勝一『貧困なる精神』(すずさわ書店 第1集)の
冒頭に「しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?」という一文がある。
--------------------------------------------------
背広だのエンビ服だのといったヨーロッパ式正装は、しゃがむと
カッコ悪いようにできている。
・・・・・・。
問題はかなりハッキリしてきた。ことは「しゃがむ」という姿勢自体
にあるのではない。「背広を着てしゃがむ」こと、すなわち、重点は
「背広」の方にあるのだ。
・・・・・。
しかし、考えてもみよう。いったいどうして、逆の現象がないのだろ
うか。すなわち、・・・、イギリスの紳士が日本のハカマだのハッピ
だのを着たり、フランスのムッシュウがアラビア服を着たりしないの
か。むろん例外的な好事家が、・・・。
・・・・・。
以上の考察によって、服装もまた、支配する側とされる側の力関係に
あることが明白になったと思う。
--------------------------------------------------
今更、本多氏を持ち出すことはないと思われるが、今読み返すと
なかなか面白い。
それこそ「写真民族誌」へのヒントになるかな。
(こじつけかな?・・・ふむ)
2007年12月02日
●<彼女=彼、は>
2007年11月30日
●<家の中には>
2007年11月29日
●<啓発ポスター>
2007年11月28日
2007年11月27日
●<萬頭>
2007年11月26日
2007年11月23日
●<結構、重労働>
2007年11月22日
2007年11月21日
●<朝の薬屋さん>
2007年11月17日
●<やる気があるのか?>
今日の "New Light of Myanmar" を読んでいると、「自治省(総務省)に日本大使が
訪問」という記事が出ていた。
で、ちょっと気になって外務省の「ミャンマー」のページを覗いてみた。
で、びっくり。
「ミャンマーにおけるデモを巡る情勢(日本政府の対応等)」の最終更新日が
平成19年11月2日になっている。
まあ、これはなんら問題はない、と思う。
が、しかし、である。
「基礎データ」のページに行ってみると、な、なんと7月から更新されていない
ではないか。
それほど大きな変更がなければ、いいのだが・・・。
で、4.の政府のところを見てみると、な、なんと。
(1)元首 タン・シュエ国家平和開発評議会議長
(2)首相 ソー・ウイン
(3)外相 ニャン・ウイン
と、ある。
首相のソーウィン氏は確か、10月初めに亡くなったはずですね。
あれからもう1ヶ月半、未だに更新されていないビルマ(ミャンマー)のページ。
とある大学の先生に言わせると、「学生のレポート以下の発表だね」と。
ほんに、日本はビルマ(ミャンマー)に関して本気でやる気があるのか?
<って、誰に向かっての発言だろ?
2007年11月13日
2007年11月12日
●<ラワン式じゃんけん>
ここは北ビルマ。
ラングーン(ヤンゴン)よりも中国国境が近い地域。
まあ、それには関係なんだけど、山の中を歩いていて、ほぉ、と発見。
発見ほど大袈裟ではないが・・・。
<矢と蟹>
ラワン(民族)式のじゃんけんです。
物事の解決にじゃんけんが使われる、そういうやり方は万国共通
なんだろうか?
ふむ。
と、ぐぐって見た。
ビルマ(ミャンマー)式じゃんけんがあった。
http://www.netlaputa.ne.jp/~tokyo3/janken.html#ミャンマー
「降参」は「大将」に勝つ。(両手をあげている者を大将たる者、
攻撃できないからだろうか)
これだと、タンシュエ上級大将はアウンサンスーチー氏に負けている
はずなんだけど。
うむむ。
ビルマではこれ別に、鳥と虎と○のじゃんけんがあると
聞いたんだけど。
さて、それは?
2007年11月10日
●<火祭りですけど>
2007年11月08日
●<よくあるパターンですけど>
2007年11月06日
2007年11月04日
●<ベトナム VS ミャンマー>
2007年11月03日
●<もしかしてインセイン?>
2007年11月02日
●<温度差>
8月15日、ラングーン(ヤンゴン)では突然、燃料費が値上がった。
それに伴い、ラングーンで「88年世代学生グループ」による抗議デモが
起こった。
が、ここは、中央の政治とは遙かに離れた山奥だ。
この深いジャングルの中では、武装抵抗を続ける(でも、SPDCと
和平交渉と平行して)カレンニー民族の兵士たちが集いました。
旧首都ラングーン(ヤンゴン)とそれ以外では、人びとの政治に対する
温度差はあまりにもでかすぎる。
しっかし、雨は辛い。
撮影も辛い。
こういうときは、 リコーのカプリオが大活躍です。
(Caplio 500G wide+22mmのワイドテレコンバーター)
あ、前にもこれ、書いたか?
2007年11月01日
●<ハッピーワールド(?)>
2007年10月30日
●<屋根の上には>
2007年10月29日
●<父と息子(か?)>
●<市民への恫喝>
2007年10月28日
●<ビビリなモンで(3)>
2007年10月27日
●<ビビリなもんで(2)>
2007年10月26日
●<あ、アルジャジーラが・・・>
2007年10月25日
●<花の一つでも・・・>
『ミャンマー軍による長井健司さん殺害に抗議する』ページに
今日(25日)、「これから、ミャンマー大使館に行きます。」
とのエントリーがあった。
丁度、長井氏の葬儀が行われたその日、ビルマ(ミャンマー)・
ラングーン(ヤンゴン)の現場に立っていた。
まだ緊張があり、おおっぴらに写真を撮ることができず、隠し撮り
するしかなかった。
日本で葬儀が行われている日だから、日本大使館から花の一つでも・・・、
って思っていたのが甘かった。何もない。ビルマ政府は、国内的にも
国際的にも、一刻でも忘れさせたい出来事だったかも知れないが、
そうはさせてはならない。
もしや、1日遅れで、って思って翌日、同じ場所に行ってみた。
だが、昨日と同じ。何もない。
同じように武装警官3名が談笑しているだけだった。
このような事実があったことを、キチンと記録しておきたい。
忘れてはならない。
許してはならない。
●<跪く僧侶たち>
『毎日新聞』(夕刊の写真ページ)、
『朝日新聞』(朝刊のコメント・たぶん)
『週刊金曜日』に 「跪く僧侶」の話を出した。
私が目にした画像は、アルジャジーラ(英語放送)だった。
日本ではこの画像流れたかな?
僧侶が1~2人、跪いて、手を合わせている。
はっきりした映像だ。
相手は兵士ではなく武装警官(グレーの制服)だけど、ほとんど
同じことだ。
実際、武装警官たちは兵士の指示で動いたいたんだし。
(動画を静止画に落としていたけど、誤って削除してしまった、あちゃ)
タンシュエ上級大将(SPDC議長)が国軍記念日(3月27日)の
閲兵式で胸張っています(たぶんこの映像は2007年か2003年
のもの)
で、彼の乗っている車の車種は何なんだろう??
ビルマ製ではもちろんないね。
西欧嫌いなのに、たぶん西欧の車に乗ってるよね、これは。
これは真偽の程は分からないが・・・。
27日のデモが最高潮に達し始めたとき、突然、(新品)レンガを
満載したトラックが現れた。武装した警官や兵士に反撃するために
(投げるために)登場したのである。
わざと騒ぎを大きくするために、レンガを用意したのだ、と。
だって、あの騒ぎのど真ん中に、トラックが入れるわけないだろ。
軍に雇われたヤツが仕掛けたんだ、と。
トラック側面の番号が分かれば、真偽の程が判明するんだが。
フム。
"New Light of Myanmar" も "Myanmar TV3" もVOA、FRB、BBC を
激しく非難してますね。
でも、ここには "DVB" の名前がありません?
なぜって?
それは『週刊金曜日』(11月2日号で説明してます)
画像は、"Aljazeera" "ChannelNewsAsia" から。
2007年10月24日
●<あれ、デビッド・コパフィールドさん>
2007年10月23日
●<ビビリなもんで>
2007年10月22日
●<ディペイン(ディベイン)2>
2007年10月21日
●<ウー・パパレイ>
●<難民情勢-まさか?>
ビルマでは、インターネットが自由に使えるようになり、
昨日はとうとう60日間の予定だった夜間外出禁止令が
解除されました。
で、映像ジャーナリスト長井さんの件もあり、日本の外務省の
ホームページを覗いて見ました。
外務省のビルマ関係ページでいつも気になるのが、「難民情勢」
のページですね。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/nanmin/myanmar.html
なんと「平成13年9月」から更新されておりません。
意図的?
まさか。
2007年10月20日
●<「ガンバリさん」 か「ピニェイロ(ピネイロ)さん」か>
アウンサンスーチー氏とタンシュエ上級大将(SPDC議長)
の間を行き来する国連事務総長特別顧問のガンバリ氏に
期待が高まっている。
が、ちょいと待てよ。
そう、ピニェイロ国連特別報告官はどこへ行った?
軍政側にビザも出してもらえなくて、入国もできないし。
国連は、実のところSPDCに軽く扱われているんだけど。
そう考えると、ガンバリさんはやっぱり軍政の時間稼ぎの
役目と使われているに過ぎないのかな。
やっぱり安全保障理事会じゃあないとダメなのかな。
ふむ、む。
2007年10月19日
●<「ビルマ」と「ミャンマー」>
最近、急激に増えたビルマ関係のニュースでから、またこの話題である。
呼称にこだわって、本質的な問題から目をそらしてはならないが、
見過ごしにできないこともあるのだ。特に、「そう書くことによって、
あなたは何が言いたいか」をキチンと考えなければならない。
--------------------------------------------------
「ミャンマー」派?「ビルマ」派? 政治的メッセージ帯びる呼称
10月15日15時8分配信 産経新聞
軍事政権による過酷なデモ弾圧で、ミャンマーが久々に国際的な注目を集める中で、同国の呼び名の違いも鮮明になってきた。軍政下で「ビルマ」から変更された「ミャンマー」という国名を、軍政に近い中国はもちろん、ロシアや日本も使っているのに対し、米英両国などは軍政を容認しないとの姿勢から、「ビルマ」で押し通している。一国の呼称は、政治性を帯びることが少なくない。(外信部 犬塚陽介)
そもそも、ふたつの呼称の違いはどこにあるのか。
ミャンマー事情に詳しい根本敬・上智大教授は「ミャンマーは12世紀ごろの碑文にも刻まれている文語。ビルマは16世紀ごろには使われていた口語で、いずれも現在のミャンマー人口の約7割を占めるビルマ族を指す言葉だ」と解説する。
国名変更は、クーデターで実権を握った軍政が1989年、「(ビルマは)多民族国家の名称にふさわしくない」として行った。約130の民族の総称として「ミャンマー」を用いる“新解釈”に立ったものだ。
「中高年は文語を口語にすることに抵抗感もあるようだが、軍政の指導もあって若い世代は日常的に『ミャンマー』を使っている」と根本教授は指摘、「ミャンマー」は一般国民には受け入れられているようだ。
◇
だが、ある在京のミャンマー人は「名称変更に違和感はない」としつつ、「ただ」と言葉を継いで、「軍政による押し付けが引っかかる」とも語っている。
民主化運動指導者、アウン・サン・スー・チーさんが演説や記者会見などで必ず「ビルマ」の呼称を使うとされるのも、「ミャンマー」には軍政のイメージが染みついているとみてのことであり、ほかの民主化運動家たちも自国を「ミャンマー」とはまず、呼ばない。
「米国人はビルマの状況に憤慨している」とデモ弾圧を非難したのは、9月25日に国連総会一般演説に立ったブッシュ米大統領だ。大統領以下、米政府が旧国名に固執するのは、「軍政は認めない」との考え方が根底にあるからだという。
英国でも、政府はもとより、BBC放送やタイムズ紙などマスコミもおしなべて「ビルマ」を使用する。ミャンマーに対する旧宗主国意識、英国の名門オックスフォード大に学んで亡夫も英国人というスー・チーさんに肩入れする心情も背景にはありそうで、軍政への態度は米国よりも厳しい。
◇
こうした中、中露両国はともかく、日本が「ミャンマー」を使うのはなぜか。国連は「ミャンマー」を採用しており、「軍政の評価と関係なく、国連に登録された呼称を尊重し使っていいる」(外務省)という。
さて、米国でも、メディアは大半が「ミャンマー」という国名を使っている。だが、国際紙、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンに最近載ったコラムによると、ニューヨーク・タイムズ紙の元編集主幹は「『ミャンマー』は今、あんなひどい連中と関連付けられている」とし、「私(の『ミャンマー』表記に切り替えた決断)はあまりに早過ぎた」と述懐している。
あなたは「ミャンマー」派、それとも「ビルマ」派?
--------------------------------------------------
September 29, Agence France Presse
What's in a name -- battle rages over 'Burma' vs 'Myanmar' - Frank Zeller
Burma or Myanmar? As the military regime has cracked down on pro-democracy
protests in the Asian country this week, a war of words has flared again
over what to call the troubled nation.
Political exiles, the United States and the BBC prefer the old name,
'Burma,' which stems from British colonial days, while the United Nations,
Japan and many other nations have adopted 'Myanmar' as the official name.
The country's ruling junta made the switch to 'Union of Myanmar' in 1989,
the year after its soldiers massacred some 3,000 activists supporting Aung
San Suu Kyi, the pro-democracy leader and Nobel Peace Prize winner.
The regime derived the English name from the traditional 'Myanma
Naingngandaw,' symbolically breaking with the era of the British Raj when
the colony was called 'Burmah' after the dominant Burmese ethnic group.
They made a host of other geographical name changes, turning what was then
the capital, 'Rangoon,' into 'Yangon' -- similar to changes made later to
Indian city names, such as the switch from 'Bombay' to 'Mumbai.'
But critics say the move lacked legitimacy because it was made by an
unelected junta and should be ignored by the world.
Some have even drawn parallels to the change from 'Cambodia' to
'Kampuchea' which was made by the murderous 1975-79 Khmer Rouge regime but
reversed after their overthrow by Vietnamese troops.
"A lot of exile groups still use 'Burma' because that was the name of the
country before they fled after the 1988 protests," said David Mathieson of
Human Rights Watch (HRW), whose group has stuck with the name Burma.
"The US and many organisations who call it 'Burma' made an official stance
saying they'll stick with the pre-1989 name. The UN, on the other hand, is
bound by what the sovereign government says."
White House spokesman Tony Fratto this week said Washington's refusal to
use the junta's term was "intentional" because "we choose not to use the
language of a totalitarian dictatorial regime that oppresses its people."
"And we have freedom of speech here, maybe they don't," he quipped.
US President George W. Bush -- and First Lady Laura -- have stuck with
"Burma" in line with the US State Department, which pointedly notes that
the 1989 name change never won approval from the country's legislators.
"The democratically elected but never convened Parliament of 1990 does not
recognize the name change, and the democratic opposition continues to use
the name 'Burma'," the State Department website says.
"Due to consistent support for the democratically elected leaders, the US
government likewise uses 'Burma.'"
Mathieson, a long-time expert on Burma/Myanmar affairs for the New
York-based group HRW, said the point is perhaps more hotly debated outside
the country than by its citizens, many of whom have got used to the
change.
"It would be great if the country was free and there could be an open
debate about it," he said.
____________________________________
■参考ページ■
2007年10月18日
●<日本語の広告も>
2007年10月17日
●<庶民の強さ>
2007年10月16日
2007年10月15日
●<お財布>
2007年10月14日
●<オーロラビジョン>
2007年10月13日
●<またもやセブンイレブン>
2007年10月11日
●<撤収ですか?>
2007年10月08日
●<現場>
2007年09月13日
●<またまた写メールされました>
2007年09月09日
2007年09月08日
●<えいやっ、と踊る(4)>
2007年09月07日
●<えいやっ、と踊る(3)>
2007年09月06日
2007年09月05日
2007年09月04日
2007年09月03日
●<えいやっ、と踊る>
2007年08月29日
●<緑の眼をした・・・(1)>
●<緑の眼をした・・・(1)>
2007年08月26日
2007年08月25日
2007年08月24日
2007年08月23日
●<飛び出し注意>
2007年08月20日
●<とある戦争博物館>
朝9時半頃(?)、電話へのメッセージ着信の電子音で
目が覚める。
ウトウト。
ああ、もう10時前か。
起きんとかんやないか。
で、折り返し電話。
SFでヘヴィー朝食(チキンバーガーと生野菜とアイスコーヒー)
値段も3000Kくらいかな。
さ、行こうか。
ビュンと出動。
ビュンビュン飛ばす。
昨日に続いて気持ちいい。
曇り空から青空へ。
ひたすらコーナーを攻める。
アスファルトもいいぞ。
約1時間15分後、目的地到着。
さて、そこからが問題だ。
ガソリンも3000K分くらい入れる。
電話で博物館の場所を確認。
う~、わかりにくいぞ。
でも、ちっちゃな町だし、すぐ分かるかな?
あ、すぐ分かった。
簡単すぎた。
で、第2次大戦時の陳列物を見る。
当時と今をどう対比させるか。
-そう思うのは自己満足すぎないか。かつてタイの人は敗走する
日本人を助け、今は脱出したビルマ人をかくまっている。
この意味、ちょいと考える必要があるなあ。
写真をパチパチ撮って、ビュンとおいとま。
ビュ~ンと飛ばす。
行きは1時間ほど。最高時速100kmが限界。
だって、旧式だもの。
でも、道路も空も森も格好のツーリング日よりだ。
ウン。
15時前、町に戻って、部屋でぐったり。
さすがに飛ばしすぎた。
一気に緊張がプッツン。
ウタウタウタた寝。
17時前、MK氏より電話。
バイクを返して、おお、400Kでいいの?
SFへ。
ぐっちゃら。
おお、ビデオはなんとまあかっちょいいんだろう。
19時前、緑の食堂でお腹いっぱい。
散会。
ネット屋へ。
今日もメールサーバがおかしい。
ダウンロードできるのだが、アップロード(送信)ができない。
なんでだ。
ランドリー:3000Kくらいかな。
2007年08月19日
●<油断してたら、>
2007年08月18日
●<ねぇ、買ってよー>
2007年08月17日
●<求む兵士>
2007年08月16日
●<山の向こうは>
2007年08月14日
2007年08月13日
●<キレイにする>
2007年08月12日
●<街角の油売り>
2007年08月11日
●<雨降りは大変>
2007年08月10日
●<マニアには>
2007年08月08日
●<なぜか港町には>
2007年08月07日
2007年08月06日
2007年08月05日
●<水汲みいろいろ(2)>
2007年08月04日
●<おお、新空港>
2007年08月03日
2007年08月02日
●<こうやって>
2007年08月01日
●<共有物>
この間、『はらっぱ』の原稿に書いたけど、上のような井戸
という共有物の存在は貴重だよね。
「自分のものであって、自分のものではない」(@平川
『東京ファイティングキッズ』)
まあ、これはたぶん孫引きだと思うけど。
平川氏は続けます。
--------------------------------------------------
こういった自分のものであって、自分のものでないもの、あるいは
誰のものではもないものに向きあうときひとはいくぶんかの遠慮と
いくぶんかの貢献、いくぶんかの愛情といくぶんかの距離をもって
それらを消費しようとするのだと思います。そこに暗黙の了解という
ものが働いており、それが、汲みつくしてしまうといっった「共有地
の悲劇」にブレーキをかけるベクトルとして働きます。
「法」ではなく、「法をまもろうという合意」でひとびとは動いて
くれますので社会的なコストは安くつきます。
--------------------------------------------------
うん。
分かり易い説明だ。
2007年07月31日
●<心の故郷(ふるさと)-2->
2007年07月30日
●<心の故郷(ふるさと)-1->
2007年07月29日
●<失礼して>
2007年07月28日
●<勇気あるね>
2007年07月27日
●<冬虫夏草>
カチン州の最北部プータオから更に北の村で手に入れました。
こんな「虫/植物」がいるからね、と。
捕らえるのは難しいらしい。
死んだ虫に植物が種を植え付けて、そこからにょきにょき芽が出て
来るんだって。
なんでも高価な漢方薬/精強剤としても売買されているそうな。
このくらいの大きさだと、3000K(3000円)くらい。
ポーターの一日分の稼ぎにもなる。
で、こういうのに詳しい?田Bさんに聞いてみよう。
--------------------------------------------------
ずばり『冬虫夏草(とうちゅうかそう)』です。
植物ではなくて菌類ですね。
http://ja.wikipedia.org/ に詳しく出ています。
これで見ると,日本で冬虫夏草と呼ばれる菌類は範囲が広くて,
狭義の(中国で漢方薬にしている)冬虫夏草は,コウモリガという
蛾の幼虫に寄生する特定の一種のようです。
ちなみに「日本冬虫夏草の会(http://www.jscr.jp/)」なんて
のも見つかりました。
--------------------------------------------------
で、菌類でした。
田Bさん、ありがとう。
2007年07月26日
●<新聞紙は暖かい>
2007年07月25日
●<オメェ、うりゃあ>
雨期です。
上ビルマは(今年)それほど雨は降ってませんでしたけど、
下ビルマは、ジャブジャブ降ってました。
と、そんな乾期のある日、多くのカレン人がの住む地方都市に行ってみました。
と、早速、田んぼで田植えをしている若者たちに遭遇。
さっそく、じゃぶじゃぶ歩いて田んぼに入り、写真を撮りました。
で、一息ついたところで彼らにカレン語で話しかけてみました。
(そこに居るのは、たぶんカレン人だろうと予想して、ね)
「こんにちは」
と、うわ、10人ほどいた人たちが、一斉にケラケラ笑い出した。
う~ん、じゃあ今度はビルマ語で。
「ちわ」
「きゃはははは」
ケラケラと一段と大きな声が上がる。
困ったなあ。
ふん、だ。
もう一回、カレン語トライしてみる。
「オメェ(ィ)、ウリャ?(ご飯食べた?=こんにちは)」と
近くにいた男の子が、ニヤニヤしながら言った。
「俺たち、ポーカレンだよ」
あっちゃー。
私はスゴーカレン語で話しかけてました。
う~ん、ポーカレン語とスゴーカレン語は挨拶にも違ったのかな?
中途半端に言葉を習得すると却ってややこしいなあ。
ちなみに、ビルマ語でも「こんにちは」」の挨拶は、
「サー、ピィビィラー(ご飯食べましたか?、ご飯済みましたか?)
って言う。
それ以外の挨拶表現として、「ベェゴートォワマレー?(どちらに行きますか)」
とかも言う。
でもすれ違いに「ベェゴートォワマレー?」は長すぎる。
で、普通は短くして「ベレェ?」と言っている。
時々、中国や東南アジアを旅した人の紀行文を読んでいて興ざめなのが、
町や村で挨拶で「ご飯食べましたか?」って言われたので、正直に、
「まだです」って答えて、お腹いっぱいごちそうになった、っていうのが
よくある。
ほんとよくある。
これと同じように、ビルマの挨拶で「ベレェ?」と聞かれて、
具体的に「市場まで」」とか「郵便局まで」とか「マウンマウンさんの
家まで」」とか律儀に答える必要はない。
単に「ホォベェマ(ほん、そこまで)」って答えていたらいいのである。
日本でもあるでしょ、「どちらへ」「ほん、そこまで」という挨拶が。
2007年07月24日
●<軍部?公安関係者?>
2007年07月23日
●<アウンサウン>
●<古本屋街にて>
●<粋がってますね>
2007年07月21日
●<おまじまい>
2007年07月19日
●<椰子の実のお酒(或いは、タンディー)>
2007年07月18日
●<エアコン>
2007年07月16日
●<並ぶビルマ人>
2007年07月15日
●<澄み切った川>
2007年07月12日
●<裸足の(登)下校>
2007年07月11日
●<本気で怒ってた>
2007年07月10日
●<雨宿り>
雨期の雨は(って、雨季だから当然雨ですね)突然のスコールで
前が見えなくなるくらい激しく降る。
さすがのビルマ人も雨宿り。
さすがの野良山羊も雨宿りである。
(ビルマをうろついていると、誰が飼っているのだろうか?
って不思議に思う野良山羊や野良鶏を、よく見かける)
--------------------------------------------------
「雨期」と「雨季」の使い分けってどうしたらいいのだろうか?
雨期は、雨の降る期間。
雨季は、雨の降る季節。
っていうのかな。
雨季って書いて原稿を出すと、雨期って修正されて返ってくる
ことがある。
(遅い接続の)ネットで調べてみても、よく分からん。
--------------------------------------------------
2007年07月08日
2007年07月04日
●<学校j帰りのモヒンガー>
2007年07月03日
2007年07月02日
●<電話事情>
2007年07月01日
●<こりゃ、本気だな>
2007年06月29日
●<ビルマのラップ小僧>
2007年06月28日
●<ドリアンのウエハス>
2007年06月27日
2007年06月26日
●<警戒厳重>
2007年06月25日
●<知的所有権の話>
25日付け "The NEW LIGHT OF MYANMAR"(『ミャンマーの新しい灯』)
のメインは、'National duty to protect Intellectual Propeties"の
論説であった。
フムフム。
知的所有権を守ろう、と。
ん?
何かおかしくない。
たとえばその日の紙面をよく見てみる。
ま、国内記事はほぼ全てが国営紙の独占記事だからいいだろう。
でも。
テキスト記事の出典には、MNA/Xinhua、MNA/Reuters、Internet、
という記述がある。
前者2つはまあ契約しているからいいだろう。でも Internet とは
ないだろう。
ちなみにこの日の『ミャンマーの新しい灯』に使われている写真を
チェックしてみる。
写真は全部で23枚。
国内写真は8枚、国際写真が15枚。
国際写真のなかで MNA/Xinha と明記されているのは2枚のみ
13枚がインターネット上から(たぶん無断)使用されている。
これって知的所有権の侵害なのでは?
紙面の写真の56%が国内の法律違反?
自ら?
おそらくニュースサイトには ○+C でコピーライトマークが
入っているだろうに。
私も知的所有権に関してはそれほどリジッドな考え方ではない
(実際、私も自分の写真が勝手に使われていても、それが常識の
範囲内なら-って書くと、また何が常識?っていうこともあるが
-それほどガアガアとがなり立てることはない)
ビルマ国内で発売されている雑誌やジャーナルの多くは、その中に
『ミャンマーの新しい灯』と同じようにインターネットから無断引用した
記事や写真もよく見かける。
でもこれはビルマの通信事情を考えるとやむを得ないことかな。
情報統制が厳しいのだし、それに中小の出版社の発行だし。
でも、『ミャンマーの新しい灯』はまがりにも国営紙なのに。
ちょっと細かすぎる指摘なのかな(たぶん)
2007年06月22日
●<またまた出ました セブンイレブン(もどき)>
2007年06月20日
●<通し番号>
ビルマで主に流通している通貨は3種類ある(と言っていいか)
まず国家通貨の KYAT(チャッ<ト>)。
米ドル、さらにビルマでしか通用しない兌換紙幣のFRC(Foreign exchange
Certificate)
いつもの二重為替の話は置いといて(公式レートが約6Kなのに、実質
レートが1275Kですよ)、今回はFRCの話。
米国嫌いの軍事政権だから、公にドルを使いたくない。
一時期、ユーロを使うって言う話があったんだが立ち消えのよう。
で、一米ドル=一FECのお金を刷っている(中国でだけど)
で、時々、米ドル以上にFECの偽札が出回るようだ。
そんなんするのは(刷るのは、に掛けてます)、国内の事情通だけ
なんだけど。
で、自分の国で刷っている兌換紙幣だけど信用がない。
困ったもんだ。
政府の窓口でお金を支払うとき、な、な、なんと、一枚ずつ通し
番号を書いてから支払うのだ(ここでは)
いやはや。
2007年06月19日
●<撮ったり、撮られたり>
2007年06月17日
●<お誕生日>
そいや明後日の19日はアウンサンスーチー氏の62歳の誕生日だ。
昨年から今年にかけていろいろと集会やデモが起こっている。
もしかして、誕生日の日にも何かあるかもしれない。
ニュースを要チェックだ、な。
うん。
2007年06月14日
●<ガサゴソ>
とある瞑想場所へ行ってみました。
地元の人も知らない地下トンネル瞑想所。
トンネルの歴史は100年ほど。
ぐるぐる回って、6マイル(9km)もあるそうな。
全部歩くと4時間半ほどあるそうな。
地下トンネルは狭い。
真っ暗。
息が出来ない。
湿気で眼鏡が曇り、汗だく。
が、案内してくれた師によると、お肉を食べないで瞑想修行を
すると汗かかないよ、って。
ほんと、一緒に行動しているとき腕を触らせてもらうと、
その通り、さらさらのお肌でした。
とガサゴソ音がしてた。
?
真っ暗で何も見えない。
懐中電灯をつける前にカメラのフラッシュでバシッ、
うわ。
ゴキブリさんでした。
うわ。
あちこち踏みつぶしてました。
足の裏、ゴキブリだらけ。
ううう。
2007年06月12日
●<脅しと非難>
日(12)も国営紙 'New Light of Myanmar'(『ミャンマーの新しい灯』)は
国家平和発展評議会の第一書記 Secretary-1 of the State Peace and
Development Counil Lt-Gen Thein Sein の中国(訪問)関連記事が主な
内容だった。
論説部分は相変わらず、スーチー氏とNLDを非難する内容。
太字で強調した部分がまたふるってる。
--------------------------------------------------
The Tatmadaw government abolished
single party system and centralized socialist
economy to adopt market economic system. It is
building a democratic state through market
economy and is implementing the 12 objectives. It
has been holding peace talks with underground
and above-ground organizations to strengthen
national solidarity. It has been able to restore
unity with 17 armed groups opposing the successive
governments for many years. It has been building
infrastructures tirelessly for building a new
democratic state. The government’s words meet
its deeds. It has been implementing the sevenpoint
Road Map to set up a discipline-flourishing
democratic state.
--------------------------------------------------
特に、'The government’s words meet its deeds.'の部分が。
最後もまたいい。
--------------------------------------------------
In my view such biased demands will not bring any constructive
results because Daw Suu Kyi and NLD are talking dialogue while
still insisting on 1990 election results and inciting civil unrest.
--------------------------------------------------
まあ、スーチー氏やNLDが1990年の総選挙の結果の履行を
求めるのは当然だけど、彼らがいつ市民生活の安寧を乱そうと人びと
を煽ったのだろうか?
よくスーチー氏は頑固すぎて対話に応じないという話をする人が
いるが、私が思うに(また、ビルマで生活して感じるに)、対話に
応じないのは軍政側なんだけど。
しかし、最近の国営紙の傾向を見てみると、軍政内に(タンシュエ
上級議長)はなんとか憲法制定会議を終わらせ、総選挙に向けて
一気に走ろうという考えのようだ。
今の軍の体制はそのまま政権に就くことはなさそうだ。
というのも、軍の傀儡組織USDA関係のニュースが増えてるしね。
--------------------------------------------------
Secretary-General of USDA meets Vice-Chairperson of China’s
Standing Committee of NPC
--------------------------------------------------
● <名古屋でのデモ>
そいや、先先週名古屋に行っておりました。
の新しい事務所開き、アウンサンスーチー氏の自宅軟禁延長への抗議、
プラス2003年のディペイン虐殺追悼集会でした。
ちょこっとした記事を今週号の『週間金曜日』の短信欄「金曜アンテナ」に
書きました。
写真が出てないのが、残念ですが・・・。
また、こちらにもその時の様子をアップしたいと思います。
http://www.kinyobi.co.jp/KTools/antena_pt?v=vol657
あっ。
自分で写真をアップしてて忘れてた。
5月27日の「よもやま話」に、●<NLD名古屋事務所開設>として
写真をいくつかアップしてました。
2007年06月11日
●<警告と脅し>
ビルマ軍政のNO.5(でも、第一書記)が中国に行った。
なにやら話し合ったようだ。
その日(10日)との国営紙『ミャンマーの新しい灯』には、
スーチー氏を非難する記事・・・ばかげているのが、トップに 'Open Letter ....'
って書かれていたことだ。
スーチー氏に反論の機会があるの?っていいたいけど。
11日には、いわゆる88年の学生世代に対して強い警告があった。
「これ以上活動を続けると・・・」
警告というより、脅しだった。
しかし、国営紙に目を通していると、ホンとよくわかる。
2007年06月10日
●<手間替え?>
2007年05月28日
●<花びら>
2007年05月27日
●<NLD名古屋事務所開設>
2007年05月25日
●<白い服を着た人たち>
2007年05月24日
●<7-11>
2007年05月23日
●<メメントモリ>
2007年05月22日
●<ヘリポート>
2007年05月21日
●<田植え>
2007年05月20日
2007年05月19日
●< 「5」 >
2007年05月18日
●<お買い物>
2007年05月17日
●<抵抗のNLD>
2007年05月16日
●<所謂、交通安全週間ですね>
2007年05月15日
●<ターバンだー>
2007年05月14日
●<パオの人で埋め尽くされた>
2007年05月13日
●<ヘルメットを、>
2007年05月12日
●<気合いの入ったお坊さん>
2007年05月11日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(29)>
2007年05月10日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(28)>
2007年05月09日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(27)>
2007年05月08日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(26)>
2007年05月07日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(25)>
2007年05月06日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(24)>
2007年05月05日
2007年05月04日
2007年05月03日
2007年05月02日
2007年05月01日
2007年04月30日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(18)>
2007年04月29日
2007年04月28日
2007年04月26日
2007年04月25日
2007年04月24日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(12)>
2007年04月23日
2007年04月22日
2007年04月20日
2007年04月18日
2007年04月17日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(5)>
2007年04月16日
2007年04月15日
●<みずかけ祭り 百態・・・じゃなく五十態(3)>
2007年04月14日
2007年04月13日
2007年04月12日
●<何を祈り、拝み、願う>
2007年04月11日
2007年04月10日
●<現代の王子様>
2007年04月09日
2007年04月08日
●<僧侶に座られると>
2007年04月07日
2007年04月06日
2007年04月05日
●<鍬を打ち下ろす(2)>
2007年04月04日
2007年04月03日
●<新・空港>
2007年04月02日
2007年04月01日
●<ニコニコ象>
2007年03月31日
●<YCDC>
2007年03月30日
●<さっぱり水浴び>
2007年03月29日
●<舟渡し>
2007年03月28日
●<インド人もびっくり>
●<「国軍記念日」だとか>
ビルマ「国軍の日」の昨日、新首都ネーピードー/ネピードー
(Nay Pyi Taw)でパレードがあった(とか)
まあ国威掲揚のための式典だけど。
国栄えて民滅ぶ、ってか。
いや、もっと正確には、国ボロボロ、でも国軍(の一部だけ)が
美味しい蜜を味わう、てのが本当なのかも知れない。
例えば、ラングーン(ヤンゴン)からマンダレーへと。
マンダレーからラングーン(ヤンゴン)へとバス移動してみます。
新首都ネピードー近くを通ると電気が煌々。
あ、ラングーン(ヤンゴン)やマンダレーでは停電が今まで以上に
頻発すると思っていたら、電気はこっちにきてたのか。
ま、軍のお偉いさん(?)のために国民は我慢しているのよね。
そいや、シンガポールに入院しているソーウィン首相の容体は
どうなのかな。
2007年03月27日
2007年03月26日
●<茜色に染まる頃>
2007年03月25日
2007年03月24日
●<変わり果てまして>
2007年03月23日
2007年03月22日
●<仏様もいろいろ>
2007年03月21日
●<ギロリ>
2007年03月20日
●<何か動きが?>
ここ数日、"New Light of Myanmar" の論調がやけに迷走気味だと
思っていた。
今日の午後、知り合いのビルマ人と、もしかしたら上層部で何が動きが
あるのかも?、って話をしていた。
ら、ニュースが流れてましたね。
「ソー・ウィン首相がシンガポールの病院に入院していると」
本当に分かりやすい政権内部ですね。
●<おお、指が>
2007年03月19日
2007年03月18日
●<ひしめく>
2007年03月17日
●<宗教の自由>
2007年03月16日
●<新興住宅地>
2007年03月15日
2007年03月14日
●<エネルギー不足の折>
2007年03月13日
2007年03月12日
2007年03月11日
●<罰当たりにも程がある>
2007年03月10日
●<パオ民族解放戦線兵士>
2007年03月09日
●<キャラバン隊>
2007年03月08日
●<山の中を進んで>
2007年03月07日
●<「ミスカチン」>
2007年03月06日
●<最近、どうも>
2007年03月05日
2007年03月04日
●<霜化粧>
2007年03月03日
●<独立記念日の夜>
2007年03月02日
●<我先に>
2007年03月01日
●<黒い煙>
2007年02月28日
●<広告がじわじわ>
2007年02月27日
●<幻想的な光景だけど>
2007年02月26日
●<なにやら絡み合っているような>
2007年02月25日
●<えいっ!>
2007年02月24日
●<ぐぴぃ、と一気のみ>
2007年02月23日
●<国旗、本当に変更?>
2007年02月22日
2007年02月21日
●<YMBA>
2007年02月20日
●<塀の外-竹利用(1)>
2007年02月19日
2007年02月18日
2007年02月17日
2007年02月16日
●<ほっかほか>
2007年02月15日
2007年02月14日
2007年02月13日
●<サトウキビ畑>
2007年02月12日
2007年02月11日
2007年02月10日
●<搾る相手が違ってますね>
2007年02月09日
2007年02月08日
2007年02月07日
●<MPPE>
2007年02月06日
2007年02月05日
2007年02月04日
●<水汲み>
2007年02月03日
●<グツグツご飯>
2007年02月02日
●<モヒンガーといえば>
2007年02月01日
●<中はどない>
2007年01月31日
●<荷下ろし>
2007年01月01日
●<夜明け前のお使い>
2006年12月31日
2006年12月30日
2006年12月28日
2006年12月27日
2006年12月26日
●<時代の変わり目>
2006年12月25日
●<なんで離れて?>
2006年12月24日
●<顔を洗って、出直す>
2006年12月23日
2006年12月22日
2006年12月21日
●<回って、回って、ほい>
2006年12月20日
●<もう拝眉できない>
2006年12月19日
2006年12月18日
●<看板増えて>
2006年12月17日
●<まだまだ現役空港>
2006年12月16日
2006年12月15日
2006年12月14日
●<一昔前は、・・・>
2006年12月13日
●<ここはカレン州です>
2006年12月12日
2006年12月11日
●<サルウィン河 3>
2006年12月10日
2006年12月09日
●<サルウィン河1>
2006年12月08日
●<裏通りに生活>
2006年12月07日
2006年12月06日
●<物言えず>
2006年12月05日
2006年12月04日
2006年12月02日
●<エーチャウンアウンミエ>
2006年12月01日
2006年10月31日
●<国境模様2>
2006年10月29日
●<国境模様>
2006年10月26日
●<独立記念日の朝>
2006年10月25日
●<「しっかり」勉強>
2006年10月24日
●<魚捕り>
2006年10月23日
●<狛犬、狛獅子、狛寅(虎)>
2006年10月21日
●<路地裏の行商人>
2006年10月20日
●<お金の数え方>
2006年10月18日
●<投網>
2006年10月17日
2006年10月16日
●<貴重な水>
2006年10月10日
●<庶民の楽しみ>
2006年10月09日
●<けったいな仏塔(仏像)群>
2006年10月06日
●<山歩きは気をつけて>
2006年10月05日
●<雨季の難民キャンプ>
2006年10月04日
●<10年ひと昔>
2006年10月02日
●<ビュンビュン>
2006年10月01日
●<ナンバープレート>
2006年09月30日
●<そろそろ寒くなってきましたが>
2006年09月29日
●<鎚の音>
2006年09月28日
●<前向き? 後ろ向き?>
便所に入ってみた。
まずは、首都ラングーン(ヤンゴン)。人の出入りが多い
ボージョーゼー(市場)の2F。
公衆便所なので、お世辞にもキレイとはいえない。
一時期、ビルマ関係と話題になったのだが、トイレでしゃがむときは
出入り口(扉)に向かって前?後ろ?
結論は、前向きにしゃがむということだった。
そいや隣国タイも出入り口に向かって前向きだった。
米国も、基本的に扉に向かって前向きである。
ま、コトの最中はかなり無防備。
だから、防御態勢を取っているのかな。
ふむ。
ちなみにイラワジ管区の田舎を訪問。
とある村でお世話になり、トイレを借りた。
水瓶と共に竹べらがあったような(記憶がする)
とてもキレイに清掃されていた(おお、蓋付きだ)
日本の和式は確か、扉に向かって後ろ向きだな。
トイレから見る文化もこれまた興味深い。
ふむ。
2006年09月27日
●<逮捕の裏に、さて?>
10時過ぎ、直通電話あり。
ミンコーナイン(Min Ko Naing)さん、ココジー(Ko Ko Gyi)さん、
テ(ィ)ーチー(Htay Kywe)さんが逮捕(拘束された)とか?
詳細がわからない。すぐに問い合わせてみる。
国連安保理公式議題、タンシュエ議長引退、憲法制定会議再開、
さらに今回の逮捕(拘束)。
う~ん何か裏で動いているのかな(もちろん米国も)
『読売新聞』と『毎日新聞』は、この件を報じている
が、読売さん、Htay Kyweをテー・キュエと表記している。
それはさすがに無理があるのでは? ちゃんと確認しましょうね。
-ま、もっとも私のテ(ィ)ーチーもちょいと怪しいが。
1988年当時のミンコーナイン氏。
この絵はもちろん非売品(分かる人には分かる、うん)
2006年09月26日
●<さすがチェ・ゲバラ>
2006年09月25日
●<くんくん>
日本では23日、ビルマ軍のトップ・タンシュエ国家平和発展
評議会(SPDC)議長が、軍のトップを退く、と報道された。
その日(23日)の現地国営紙のトップは、タンシュエ議長が新しい
委員会(Special Projects Implementation Committee holds....
No 1/2006)で挨拶している様子を載せてますね。
ビルマが国連安保理の正式議題とされたのに引き続いて、
タンシュエの引退。
10月10日に再開される予定の「憲法制定会議」
何か臭いますね。
くんくん。
ラリー・ジャーガン氏が予想していた通りになりそうだ。
「将来的に、さらに強まる国際社会からの圧力を念頭に、
軍のトップタンシュエ上級大将は、軍服を脱ぐかも知れない。
つまりそれは、憲法制定、議会招集のあかつきには、再び
文民としてビルマを支配しようと企てているからだ」
2003年、タンシュエ議長とアウンサン・スーチーが握手を
したような国営紙の紙面は、もう夢物語なのか?
(きっとそうなのだろう)
ほんの3年前のことなのに。
フム。
2006年09月24日
●<サイカーに乗ること>
ビルマに住んでいると、なにかとサイカーにお世話になることがある。
ま、時には値段交渉が鬱陶しく感じることもあるが、便利である。
この乗り物、ビルマだけでなく、インドやバングラディシュ、中国
にもあるらしい。
一人で乗る分にはいいかもしれないが、夜が明ける前から3人も
乗られた日には運転手も大変だ。
それに晴れた日ばかりが仕事ではない。
雨降りでもサイカーの運転手は必死でペダルを漕ぐ。
サイカーに乗って、写真を撮ってみる。
ファインダーの視野が狭くなるなあ。
と、
時々、紀行文を読んでいて、サイカー(或いはリキシャ)に載った
記述を読むことがある。
歳のいった老運転手(だけとは限らないが)が額に汗をし、喘ぎ
ながらペダルをこぐのは申し訳なく、横に座っているのに罪悪感
にさいなまれる、と。
なんかおかしいね。だったら乗らなきゃいいのにと思う。
そういうのは自己満足の優しさって思うのだが。
踏む。
いや、
ふむ。
2006年09月23日
●<勇ましくないよぉ>
2006年09月21日
●<兵士たちの移動>
2006年09月20日
●<こちらも MI >
地方を移動中、道路脇の喫茶店で休憩する。
と、隣のテーブルで男たちがガヤガヤと、何やら話し合っていた。
何してるのかな?
ふと気になって覗いてみた。
向こうも外国人が横に座ったので興味津々のよう。
・・・・・。
-オレたちはね、政府の人。軍の警察だよ、と。
おお。
付き添いの人がこっそりと説明してくれた。
-彼らは、ある村に誰が入り、誰が出るか、逐一村人の動向を
チェックしているんだよ。
彼らの一人がたち上がった。
胸の前に下げたシャンバッグがガーガー鳴っている。
おお、通信用のウオーキートーキーのアンテナが突き出てるじゃ
ないか。
ほんに、この人は軍の公安関係者だったんだ。
いつでもどこでも見張られてるんだ。
2006年09月19日
●<見張られている>
2006年09月18日
●<お坊さんは偉い3>
2006年09月17日
●<ある者は、>
2006年09月16日
●<市場の周辺>
2006年09月15日
●<その理由が分かった>
2006年09月14日
●<恐るべし Google Map >
2006年09月13日
●<寄せ集め>
2006年09月12日
●<揚げ物、いろいろ>
2006年09月11日
●<目合い、ってか>
<目・合・い>
カメレオンの看板がある。
何かな?ってよくよく見ると、コンドームの宣伝なのである。
カメレオンのアゴの下、男女のシルエットのイラストはよく見る。
|
ちなみにラングーン(ヤンゴン)の通りで堂々と売られているコンドーム。
ビルマの人の性意識は、思っていたより進んで(特に若い人)いて、
ビックリすることがある。
いや、ホント。
2006年09月10日
2006年09月07日
●<遅くて早い>
2006年09月06日
2006年09月05日
2006年09月03日
2006年09月02日
●<未だ現役>
2006年09月01日
●<敬礼の仕方>
2000年の12月25日のクリスマス、カレン州でのこと。
カレン軍の閲兵式(って大袈裟か)を見物した。
普段はフツーのオジサンなのだろう(制服からはみ出たシャツが
それを物語っている)、キリキリとした顔をしてカレン旗に向かって
敬礼をしている。
この敬礼って英国式なのだろうか。
軍隊の形式(様式)に詳しくないので、よう分かりません。
ちなみにビルマ国軍(Tatmadaw)はどうだったかな?
資料を探してみたけど、手元に国軍兵士の敬礼写真がない。
ふむ。
次回の訪問時にでも撮らしてもらおうか、ハハハ。
って、思ってたら、資料からマウンエイ副上級大将(Vice-Seninor
General Maung Aye)の写真を見つけた("New Light of Myanmar")
これを見ると、カレン軍とやっぱり敬礼の仕方が違うようだ。
これは米国式?(仏式でないのは確かだけど)
ふむ。
2006年08月31日
●<孤児院にて何を?>
2006年08月30日
●<懐かしい風景>
2006年08月29日
●<ちょっと変わった市場 2>
2006年08月28日
●<ちょっと変わった市場>
2006年08月27日
●<ジーンズ>
2006年08月26日
●<この先心配>
2006年08月24日
●<ムキムキマッチョ>
2006年08月23日
●<ラングーン(ヤンゴン)を見下ろす>
2006年08月20日
●<ロンジー、たくし上げて>
2006年08月19日
●<只今、警戒中>
2006年08月18日
2006年08月17日
2006年08月16日
●<これも発展(進歩)?>
2006年08月15日
●<ドキドキ、パコパコ 2>
2006年08月14日
●<謝意、っていうこと?>
2006年08月13日
2006年08月12日
●<中国なんか>
カチン州ミッチーナに来ました。
米問屋の軒先で、お米を袋詰めしてる。どうもご苦労様。
で、袋をよく見てみると、中国向けか。
ビルマは昔、英国の植民地となったとき、隣国インドへの穀物庫
の役割を担わされた(それによって米の生産が増えたという面も
あるが)
シャン州チャイントンに来ました。
お、パゴダの前に止まっている運搬車をよく見てみると。
え、「雲南」で走ってた車?
辺境はもう「Yuan(元)」経済圏なのだな。
とりたてて中国脅威を煽りたてたくはないのだが、こういう現実
もあるのだ(って、遅すぎるか)
「中国南下」を世界に知らせると、「中国軟化」が期待できるかかな、
そんなことはあり得ない。だから、「中国なんか!」と言われるのだ。
(ああ、オヤヂギャグだ)
2006年08月11日
●<え、エアーズロック?>
2006年08月10日
●<集団移動>
2006年08月07日
●<やっぱり移動は列車>
2006年08月05日
●<タマニャ僧正と>
2006年08月04日
2006年08月03日
●<のっしのっし>
2006年08月02日
●<すやすやと、は不要か>
2006年07月29日
●<菜食主義>
カレン州タマニャ僧正と一緒の部屋で食事をしたことがある(98年)
今思うと、なんと畏れおおいことだ。
その時はそれ程偉いお坊さんだとは思っていなかった。
ちなみに僧正は菜食主義者。
それに、何かの弾みで一週間ほど、掛かり付けの写真屋さんになって
しまったのである。奥の間とか山上の個室内で写真を撮ったりした。
とても貴重な写真を残すことが出来た。
タマニャ僧正の影響下の地域にはいるときは、一週間前から肉食を
絶つのが建前である。
で菜食(いわゆるベジタリアンね)だといっても料理の品数は多い。
(もちろんえらいお坊さんだから、それだけ準備してもらえるのだけれど)
山菜やキノコ、豆腐をうまい組み合わせ、テーブルの上をテーブルの
上を華やかに(といえば言い過ぎか)彩る。
ああ、あの食事が懐かしい。
2006年07月27日
●<地雷>
2006年07月26日
●<護送車2>
2006年07月25日
●<物音一つ立てずに>
2006年07月23日
●<くねくね塹壕>
2006年07月20日
●<コートレイ(kawthoolei)>
今から10年ほど前、ビルマとタイ国境でもあるサルウィン河を
下ると、そこにカレン民族同盟の(KNU)の総司令部マナプロウが
あった。
カレン語でマナプロウが何を意味するのか諸説がある。
文字通り、暗い(暗黒の)土地、あるいは、平和な土地、
花咲く大地。
一番通りがいいと思ったのは、「プロウ」と呼ばれる植物が咲き
乱れる土地はカレンの地で、そこには争い事がない、転じて、
平和な土地、というものである。
マナプロウはまた、ビルマ全土の「少数民族」から軍事演習の為
の兵士を受け容れていたのである。
真っ暗なうちから点呼を受ける。
肩章と胸章を見ると、シャン軍の訓練兵だというのがわかる。
割竹をM16自動小銃に見たてての演習。
若い彼らは、ブッシュや丘を自由に走り回る。
私は、それについて行くのがやっとだった。
はぁはぁ。
2006年07月18日
●<朝の太陽光線>
2006年07月17日
●<漁師は朝から、万国共通>
2006年07月16日
●<朝日(陽)?夕日(陽)?>
2006年07月14日
●<暗い街角で>
夜の帳が下りると、もう町は真っ暗になる。
煌々と灯が付いている建物は、パゴダか、お寺かである。
お寺の入り口で炒りピーナツを売る女性。
いったいこんなところで商売になるのかな、と思っていると、
三々五々、参拝に訪れる人がいるのである。
参拝の帰りに、ふとそのピーナツを買ったりして。
日中は騒がしいほどの街が、夜になるとシンと静まりかえる。
地面の凸凹につまずきながら、くらい街角で、電気がないのも
いいかな、と、そこで生活する者の視点ではない、不遜なこと
を考えてしまった。
ここはヤカイン(ラカイン)州の田舎町。
電気の灯らない部屋。
そこで見たチン女性の横顔は、美しすぎた。
、って、フン、詩人気取りだな(反省)
2006年07月13日
2006年07月12日
●<絵はがき的風景>
2006年07月10日
2006年07月09日
●<この線、いずこへ通じる>
●<鳥氏送別会>
5時過ぎ、朝刊を読んで、寝る。
うへ(*_*)
10時過ぎ起床。
なんや今日も天気やん。
ふとん干し。
13時過ぎ、ビュンと外出、六甲道へ。
Jモールにて、スイカと桃とPお茶を買って仏塔氏宅へ。
14時15分到着。
ええ、何?
14時集合とちゃうかったん。誰も来てへんやん。
15時前、軍団登場。
ぐちゃら。
う~、暑いですね。雨季特有の蒸し暑さ、っていう感じ。
16時から辺治足案インドカレーに取りかかる。
みなさんかいがいしいですね。
おお、美味しそう。
で、今日はナンの会?
インド料理の会?
あ、鳥氏の壮行会でした。
自分の壮行会で自らカメラを持って撮影する鳥氏。
デューク更家のウォーキングDVDを所蔵している仏塔氏は、
おお、歩き方の実演を始めるではないか。
来週には日本を離れる鳥氏に贈り物。
有りあまるほどの「ふりかけ」とおしゃれな風呂敷セット。
涙する(?)鳥氏は笑顔を振りまく。
食後のデザート群も豪勢につきる。
おっともうこんな時間か。
21時半、一足お先においとま。
ビュンとR道へ。ツタヤで『大統領の陰謀』『インソムニア』
'No Man's Land" を借りて帰る。
う~、疲れたね。やっぱり寝不足?
ちょいと仮眠。
23時前起きる。右半身コリコリです。特に肩から肩胛骨にかけて
ガチガチになってる。
グリグリ棒でマッサージ。
で、ちょいと仮眠。
2006年07月08日
2006年07月07日
●<タナカさん>
2006年07月05日
●<ドラム缶>
2006年07月03日
●<写真民俗誌>
写真から生活文化を読み取る。
写真民俗誌なるものがあるらしい。
で、それって何?
いろいろと読んでいたら、民俗誌には余り関係ないけど、
ビルマの今と昔を比較できる写真が結構出てきた。
↑は、2003年に撮った写真。
↑は、1993年に撮った写真。
11年の歳月を経ているが、あまり変わっていない(ように見える)
↑は、1993年の薬局。
場所は違えと、これもあまり変わっていない(ように見える)
↑、は同じく、1993年バッファローポイント。
やっぱり変化がないようだ。
ただ単純に、撮り続けているという、それだけであるが。
芸がないので、たぶんこれからも撮り続けるだろう(しょぼん)
ちなみに写真民俗誌にもいろいろな系統があるらしい。
宮本常一の場合、シャッターを切る際、いかに「見ているか」
が重要だとか(間違ってたら、すいません)
●<ようやく会えました>
初めて電話連絡を取って早や3年が経ちました。
ジューさん、あなたにようやくお会いできました。
その日、いそいそと事務所を訪れました。
で、ビルマの女性のこといろいろと尋ねました。
2005年8月11日のブログに次のように書き抜きをしました。
かなり長い文章ですが、帰国後、再読してみました。
--------------------------------------------------
『ミャンマー現代女性短編集』に寄せて
ジュー
【本書を流れるもの】
本書には現代ビルマの女性作家二十一名の作品が収められて
います。それはビルマの女たちの胸の中から発信された声の
さまざまです。
作品は形式も表現も技法も内容もさまざまです。そして、個々
の作品の醸し出す芸術性もそれなりに優れています。しかし全
作品を通して、その底に流れる共通のものがあります。
それは芸術や技法を超えて、読者をある場所へいざなう力です。
その場所とは、男性優位社会のもとで抑圧された女たちの証言
の記録です。そこには話し手も聞き手もいます。では判決を下
す裁判官は不在です。
作品の女主人公は裁判官の存在を要求していません。法的公正
というものは、誰かに要求したからといって獲得できるものでは
ありません。自らの努力で打ち立てるべきものなのです。です
から、女たちは感慨を分かち合い、励まし合い、助け合いながら、
姉妹的、同志的精神で手を携えて歩むのです。
【女たちの苦しみのもと】
人類の文明は発展してきました。しかし二十一世紀の今も、世界
各地で女たちはさまざまな抑圧に苦しんでいます。
その一つは女性に対する家庭的、社会的、文化的抑圧です。それ
には、言葉による抑圧、感情的抑圧、経済的抑圧、肉体的抑圧、
夫による妻への抑圧、政治的抑圧、性的抑圧などがあります。
もう一つは性的侵害です。この問題では男性が加害者、女性が
被害者となります。それは、女性が男性より体力が劣り、幾多の
時代にわたって女性が男性の所有財産とみなされ、女性の肉体が
男性の性的慰みとなり、女性への性的侵害が男性の権力欲、支配
欲を満足させてきたなどといった理由によります。
性的侵害にもさまざまな段階があります。軽度のものとしてセク
シャル・ハラスメントが挙げられます。女たちは自宅周辺で、
職場で、バスや列車で、ハラスメントを受けています。中度の
ものには、男性が女性を誘惑して関係を持ったあとで、責任を
取らずに遺棄するケースが見られます。重度のものとしては
レイプが挙げられます。レイプにもさまざまあります。
第一は、顔見知りでない者によるレイプです。ここには、国家や
民族間の戦闘後、戦傷側の男性による敗戦側の女性へのレイプも
含まれます。監獄では拷問として女性へのレイプがよく生じます。
第二は、顔見知りによるレイプです。旧知の間柄の男性、近所の
男性、職場の上司・・・・・彼れらは見知らぬ男性より女性に
信頼されていますから、ずっとレイプのチャンスに恵まれています。
第三は、恋人によるレイプです。女性がノーというのはイエスと
いう意味だと曲解して、自分の欲求を通す類の男性が少なくあり
ません。
第四は、夫によるレイプです。ビルマ語には性的所有者たる夫
(カーマバインヤウチャー)という語があります。それは、性的
生活において妻が夫に必ず妥協しなければならないという意味と
して受け取られています。
【作品の問いかけるもの】
ビルマの女たちは本当に、このようなさまざまな抑圧と侵害に
苦しんでいるのでしょうか。
この短編集は、ビルマ社会において世間が女性というものをいかに
とらえているか明確に提示した、いわば社会規範の陳列室ともいう
べきものです。
ビルマの女たちは自由でしょうか。ビルマの女たちは無能でしょ
うか。ビルマの女たちが主として直面する抑圧は何でしょう。
ビルマの世間は女性をどのようにとらえているのでしょうか。
ビルマの女たちに希望はあるのでしょうか。ビルマの女たちに
勇気はあるのでしょうか。
そのような問いを、それぞれの作品が問いかけてくるでしょう。
そして、その答えもまた作品の中に潜んでいるのです。
短編集の編者で役者のマ・パンケッ(みどり)は、本書を五部に
分けています。読者のみなさんは、娘としてのビルマ女性、妻と
してのビルマ女性、母としてのビルマ女性、女性としてのビルマ
女性の生きざまを、そこに見出されることでしょう。
さらに、彼女たちに直接かかわる男性の実態の一部も、理解される
ことでしょう。
【ビルマの女たちは無能か】
ビルマの女たちは自由でしょうか。この問いを発する前にビルマの
女たちたちは無能かという問いについて、まず検討しましょう。
ビルマの女たちは無能ではありません。なるほど彼女たちは貧しい
かもしれません。高等教育を受ける機会を逸したかもしれません。
でも彼女たちは無能ではありません。例えばニョウニョウティンフラ
の「鬱積」では、年老いた男が良かならぬことと知りながらそれ
を実行に及ぼうとします。でもお手伝いの娘には、それを良くない
ことだと認識して撃退する意気があります。
ビルマの女たちが軟弱だとおっしゃるなら、それもまた、彼女
たちの苦労に耐え忍ぶ精神と自己犠牲精神のなせるわざだと言
わねばなりません。ニョウケッチョーの「荒野の荒れ」のように、
貧困や病気にあえぐ親の苦境を見かねて、親のため苦痛に耐える
娘を軟弱だときめつけられましょうか。
ビルマの女たちの中には、決定権を持つ地位にある者たちもいます。
それは、ミチャンウェーの「麻酔薬」のように事業を仕切る女たち
たちや、キンフニンウーの「つかの間の夢が見たい」のように高い
教育を受けエリート生活を享受する女たちたちです。
でも大多数の女たちは、決定権者たる男たちに抗うことができま
せん。性行為に及ぶか否か、その場合コンドームを使用するか否
か、そのような問題の決定権は男性側にのみあります。その結果
女性が妊娠します。男性がその責任を取らない場合、女性が汚辱
にまみれ尊厳を失う事態に直面することになります。
父親のない子を出産するか、あるいは密かに子どもを闇に葬るか。
ビルマの世間は、夫のいない女性が妊娠すれば、女性側に非難を
集中します。主犯である男性は罪を免れるのが常です。女性を
妊娠させ遺棄した男性でも、その後の結婚の道は女性よりはるか
に開かれています。
彼の体内には、ある女性を性行為によって妊娠させたという罪の
証拠は何も残留しないからです。一方妊娠したまま遺棄された
女性のほうは、もはや結婚する道が閉ざされたうえ、彼女のおかげ
で親や親戚までが世間の非難にさらされます。そんな時、妊娠した
娘たちは、世間に顔向けできない人生よりむしろ死神への接近を
選択するほかありません。密かに中絶します。闇の堕胎が増加して
います。母体の死亡率が増加しています。
マ・チュープィンの「傘係」では、ゴルフ場の中年男性客に付き
添って傘をさしかけ、キャディーがいない時にはゴルフバッグも
運ぶ娘たちのことが書かれています。ある娘は、おしゃれをした
りご馳走を一杯食べたい誘惑に打ち勝てず、下心で接近してきた
役人に期待を抱き、彼の欲求に応じてしまって妊娠します。
役人は所帯持ちで、娘に責任を取りません。ですから娘は中絶
します。ビルマでは中絶は非合法です。ですから普通の診療所
の大半が処置できません。そこで娘は地元の、何も理解もせず
技術にも長じていない人物のもとで中絶します。不潔な器具を
やみくもに生殖器に挿入して掻爬しますと、敗血症に感染します。
血液中に化膿菌が侵入して、最近から分泌する毒素で急性炎症を
起こします。病院に入院しても手遅れです。そうして娘は死ぬの
です。
スエーイエーリンの「海の中の小さな帆船たち」でも同様の問題
が見られます。さらに、夫からの性行為の求めに応じられない妻
が、夫の恨みを買い殴られる話しも語られます。彼女は、夫から
感染した梅毒による傷の炎症のため夫を拒絶したのです。
【ビルマの女たちが主として直面する抑圧は何か】
それは家庭内における女性への暴力(ドメスティック・バイオ レンス)
です。
ビルマ人の家庭に関する一般的な調査からは、離婚率がかなり
低いことが判明します。離婚率の低さは家庭が平和で円満であ
るからだと考えるむきもあるでしょう。しかし現実はそうでは
ありません。離婚率の少なさは、次のような理由が見られます。
ビルマの世間では、出戻り女性(タクラツ)は非常に不名誉で
恥ずべきものだとみなされます。一方、男性離婚者は女性離婚者
よりも、世間に受け入れられ優遇されます。男性離婚者が再婚
する場合は、相手に不自由しません。女性離婚者が再婚する場合、
相手はきわめて限られます。「立派な女性が飾る花は一輪」と
いうビルマの格言があるのです。
夫と離婚した場合は、妻だけでなく子どもたちまで肩身の狭い
思いをします。妻が離婚を申し出ても、夫のほうはなかなか
離婚を承諾しません。夫が承諾してくれなければ妻はお手上げ
です。逆に夫のほうが離婚した場合は、妻が承諾してくれなく
とも問題ありません。
夫が経済的に豊かであり、状況さえ許せば、好きなだけ妻を娶る
ことが法律的に許されています。このことでは「立派な男に女官
千人」という格言があります。これは現代にもあてはまる格言な
のです。
ニョウケッチョーの「荒野の流れ」では、独身を騙る男と結婚
させられた、貧困の申し子たる若い妻の状況が芸術的に描写さ
れます。多数の女の存在を知った時、彼女は親の家に帰ります。
しかし彼女の母親自身が、「女というものは夫を次々と取り替
えちゃいけない。我慢して添い遂げなさい」とか、「経済援助
の大樹の陰を出るとは、親不孝で利己主義者だ」とか、なだめ
すかしたりさまざまに説得して、彼女を夫の元へ送り返すのです。
世間が出戻り(タクラツ)女性を非難し軽蔑するのを目にした
一般の妻たちは、夫と離婚したくてもそれを飲み込んでこらえ
ます。自ら事業を率いている女でさえ、時には夫に殺意を抱く
ことがあっても、離婚することはできません。
ミチャンウェーの「麻酔薬」は、抑制された結婚生活の苦悩に
エビの輸出事業の経験や感慨を混入して描き、技法的にも優れ
た小説となっています。
【ビルマの世間は女性をどのようにみなしているか】
ビルマの世間は、女性の価値を処女性や純潔性や貞節を基準に
算定します。その女性の学歴や世間への貢献度を基準に算定する
のではありません。
ビルマの世間はまた、妻の価値を家庭維持能力を基準に測ります。
彼女の結婚相手である夫の経済力や地位を基に測ります。
ビルマの女たちは人間関係における自分の位置を、自ら男性の
一段下に定め、その位置に甘んじてきました。さらに一段上が
ることなど想像だにせず、自分の人生に不満も持たず、「息子
を主人、夫を仏と心得よ」という格言に従ってきました。
女たちは男性の威徳というものを信じています。自分たち女は
前世の行いの結果である果福(ポン)が男より低いと信じています。
自分のロンヂーや足など、下半身にかかわるものが、男の使う物に
触れてはいけないと考える女たちは今もいます。男のロンヂーと女
のロンヂーを一つの石鹸で洗ってはいけない、洗濯機で一緒に洗っ
てはいけない、同じロープに干してはいけない、同じアイロンでア
イロンかけをしてはいけないといったタブーを守っている主婦たち
はまだまだたくさんいます。
【ビルマの女たちに希望はあるか】
ビルマの女たちは法的公正や自由に希望を託そうとします。しかし
彼女たちは規範を覆すことにはまだ躊躇しています。ですから当面
は、自分たちになりかわって自分たちの感慨を声として表現して
くれる作家芸術家を頼みとします。彼らを応援します。頭脳明晰な
女主人公を尊敬し模倣します。自分の人生に妥協したい気持ちが生
じたような時には、わが子の人生に希望を託します。
ティンティンターの「マイル標識を立てて」では、一人の女性が
娘に万全の希望を託して、自分の人生に立ち向かうさまが見られ
ます。自分の血を分けた子が娘である時、主人公の心の中では、
希望がより鮮明となっていきます。「自分の娘だけは自分の被っ
た苦悩を感じさせてはならない」という誇り高い希望が、より堅固
なものとなっていくのです。
【ビルマの女たちに勇気はあるか】
ビルマの女たちに勇気はたっぷりあります。ただ、これまでの
人生で刷り込まれた「規範への反逆は罪である」という通念の
ゆえに、それを打ち破ることの適否を逡巡しているのです。
ビルマの女たちは間違いを間違いと言える勇気があります。
多数が苦い雨水を飲んでいる時に、それを飲むことを拒否する
勇気があります。例えばケッマーの「小説にあらず」では、
精神の強靱な一人の娘と一人の男の興味深い対戦が語られます。
これは読者をとらえて離さない小説の一つです。
本書は、短編の文学性がたっぷり堪能できる単なる短編集にとど
まるものではありません。むしろ、ビルマの世間の中で女たちが
直面し、苦悩する多くの抑圧について著述された研究調査報告集
だというべきかもしれません。
本書を読み終えられた時、ビルマの女たちが真に自由であるの
だろうかという問いに対する答えを手にされることでしょう。
--------------------------------------------------
ジューは1958年生まれ。マンダレー医科大学在学中の
1979年から短編小説を書き始め、卒業後医師として病院勤務。
1987年、発の恋愛長編『思い出に』で医学生の非婚同居生活
を描いて文学界を揺るがす。以後強い自我を持つ男女を主人公と
した恋愛長編多数がベストセラーとなり、映画化、ビデオ化される。
中流知識人青年層に強く支持され、若手女性作家への影響も大きい。
1991年より専業作家となり、1993年に出版社も興し、現在
に至るまで長編十一編、短編五十編余、エッセー多数を執筆。
一九九七~九八年米国留学。『ミャンマー現代短編集1』に
「漂流果実」(一九八三)を収録している。
--------------------------------------------------
周縁からの発信-あとがきにかえて
【ビルマ女性作家との出会い】
訳者がビルマ文学の研究を始めたのは、激動する社会における
知識人の役割への関心からであった。なかでも、反植民地闘争
や抗日闘争、ビルマ式社会主義建設にかかわった男性作家テイン
ペーミンを、主に研究してきた。その過程でビルマ女性の政治
参加が意外に低調で、女性政治家も皆無に近かった事実を見出
した。しかし一般に、ビルマ女性は婚姻や財産所有においては、
男性と対等の「恵まれた権利」を持ち、家庭外労働への進出も
著しいといわれていたので、女性の問題は長らく訳者の関心の
外にあった。
八八年の新たな軍事政権の登場後、ビルマ女性や女性文学に
ついて翻訳や解説を依頼されることが多くなった。女性作家
たちの発信するものを受け止めるにつれ、ビルマ女性に対する
訳者の従来の印象はくつがえされていった。・・・・・。
個我の存在に苦悩し、自虐的までに自己を追いつめる女性像
の背後に、男性には寛容でありながら、女性には厳格なビルマ
社会の規範の二重構造がおぼろげに窺えた。
なるほど小説世界は、言語による創出される虚構世界にすぎない。
しかしそれは、社会的、文化的意識を内在させつつ現実世界を
生きる、一個人としての書き手が構築する世界でもある。その
行間には、調査や統計記録からは窺い知れない個人の心の営みが
溢れている。とりわけ表面と水面下の落差の著しい言論統制下の
社会では、文学が文学本来の役割を凌駕する使命を帯びざるをえ
ない。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
八三年の国勢調査では、作家・ジャーナリスト・ライターは男性
一四四二名に対して女性二百八十名。・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
このように男性に寛容で、女性に厳格な二重規範の浸透した社会
は、女にとって危険に満ちている。独身女性の価値はその処女性
にあるから、年頃の娘を持つ母は愚母の謗り免れるべく娘の管理
を強化する。「傘係」の母は、・・・。
ビルマの世間は長幼の序を尊び、僧侶、教師、親への絶対服従を
求める。成人しても所帯を持っても、親子関係を重んじるのが子
の努めである。賢明な娘たちは、「麻酔薬」の娘のように母の有能
な片腕として危険な男社会で働き、「荒野の荒れ」の娘のように母
の理不尽な命令に屈して一家を支える。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
ビルマ社会主義時代、権力は仏教徒慣習法の保障する「恵まれた
女性の権利」の存在を盾に女性対策を特に講じなかった。一方
現政権は、「既得権に甘んじて国家建設から遠のいていた」女性
の動員に積極的である。彼らは、「南伝上座部仏教伝来の文化的
慣習に裏打ちされた愛国精神に満ちた女性」を求め、彼女たちが
家庭生活を向上させ、それを基礎に国家建設に参加すること期待
する。
女性団体が結成され、女性向け機関誌が創刊され、そこに一部の
女性作家も動員されている。
世間から有徳の女性と評価されるべく、ビルマ女性は家庭維持に
邁進し、社会秩序を支えてきた。そして家庭は長期にわたる二重
規範継承の場でもあった。軍事政権はこの家庭を国家建設の重要
な単位と位置づけ、日常的空間に国家的、政治的意味づけを導入
した。
それは日常描写の政治的意味合いが再認識されたことをも意味する
のであろう。権力が家庭という戦略を掲げたことで、女性をめぐる
認識が矛盾の焦点の一つとして表面化し、女性作品への検閲の網の
目がよりきめ細かくなる可能性も考えられる。つまるところ、この
ようにして、女性作家の発信は、文学界の周辺から中心に向かい
つつあるのかもしれない。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
二〇〇一年九月
南田みどり
南田みどり編訳『ミャンマー現代女性短編集』
(財団法人大同生命国際文化基金、2001年)
--------------------------------------------------
確かにジューによるビルマにおける女性観はとても参考になる。
だが、一度彼女自身と話し後で感じたことは、社会の仕組みに目を
向けることの注意深いジューでさえ、扱っている題材が都市に住む
ビルマ族中心の女性観である。
「少数民族」として差別され、さらに女性として差別されている
多くの人びとを扱っていないのか?
、と聞くと。数ヶ月間チン州を訪れた時のことをエッセーにして
書いているそうだ。残念なことに日本語の翻訳はまだだ、とか。
それは今後の楽しみとしよう。
2006年06月30日
●<ミャンジングー僧正>
カレン州パアン市内にある一番大きなパゴダに、ふらりと足を
踏み入れてみる。まあ、ビルマ国内、どこにでもあるフツーの
パゴダだ。
が、よく見ると、右上にあの有名なミャンジングー(Myaing Gyi Ngu)
僧正(U Thuzana)の写真が飾っているではないか。
ミャンジングー僧正は、あのDKBO(DKBA)の元締めでも
ある、KNUから宿敵とされている僧正でもある。
パアン市内の隠れ家(?)を探り出し、インタビューに行ってみた。
が、言葉数は少ない。写真撮影も断わられた。
(おみやげの冊子とブロマイドはもらったけど←マニアには垂涎?)
が、タマニャ僧正のところでブラブラしていたら、おお、びっくり、
ミャンジングー僧正がお見舞いに来たではないか。ここでなら写真
撮影は拒否できないだろう。
これから数年はカレン州(カイン州)が大きく動く予定(?)だ。
ちょいと目が離せない。
2006年06月29日
●<宝くじ>
2006年06月28日
●<水汲みは、>
2006年06月27日
●<修行はつらそう>
2006年06月26日
●<もひとつ違いが分かりません>
●<教えて、ベジタリアン>
どなたか、ビルマ(ミャンマー)語でベジタリアンを意味する言葉、
タタロー/タタルウの英語表記を教えてください。
ググってるのですが、見つかりません。
2006年06月25日
●<雨降り>
2006年06月21日
●<さらにのっしのっし>
ジャングルを続ける。
急な斜面を、斜めに登っていると、うわ、再び象に出くわす。
おいおい、その巨体で横滑りしないのか。
結構器用な動物である。
山の頂付近。
今度は象の群れ(5頭)に出くわす。
子どもは子象に乗ってる。
そのバランスの良さに思わず苦笑。
こちらはかつてのサルウィン河支流。
KNUの総司令部マナプロウが陥落するまで、メーサムリップ
(タイ側)~マナプロウ間には数多くの製材所があり、数え切れ
ない程の象が働いていた。
KNUの支配地域からタイ側へ「輸出する」木材を運んでいる。
地域はずずず~っと南に下がる。
タイ側カンチャナブリからビルマ側へ渡る。かつてKNUが大きく
支配していた第4旅団区。
そこでも象がのっしのっしと闊歩していた。
2006年06月18日
●<情報戦>
2006年06月17日
●<それぞれの夜>
2006年06月16日
●<隣り合わせ>
2006年06月15日
2006年06月14日
●<バナナ>
2006年06月13日
●<山の中のキャンプ>
2006年06月08日
●<アイスキャンディー いかが?>
2006年06月06日
●<ま、焼きカエルでも食べて>
2006年06月05日
●<鍬起こし>
ほろっ、何だこの後ろ姿は?
息子を(重し代わりに)乗せての鍬起こしでした。
乾ききって固まった大地に鍬入れするのは大変。
牛も力を出し切るぞぉ、モォッ~っと。
(↑すまない、オヤヂギャグだ)
そいや黒岩正幸『インパール兵隊戦記』にビルマ牛についての
記述があった。
--------------------------------------------------
だが、(インパール作戦に連れて行った)ビルマ牛が歩かない
のにも理由があった。ビルマ牛特有の、首のつけ根にあるコブ
で支えて牛車を引いた経験はあっても、背中に荷物をのせて
運搬する訓練はうけていないから、振り分け荷物を積載する
だけでいやがり、暴れて振り落とそうとした。まして、大陸の
草原で草をはみ、のんびり育った牛である。いきなり険しい山脈
の中に連れてきても、歩くのが精いっぱいで、重い物資を運ば
せるのは無理であった。
(P.53)
--------------------------------------------------
2006年06月04日
●<その仕草、何?>
2006年06月01日
●<旅気分>
●<最後は真打ち、ウー・パパレイのジョークです>
→■
ビルマ語で ↑ 約8MBあります。
(ちょいと重たいです)
2006年05月31日
●<今日はルーゾーのジョークです>
→■
(ビルマ語で約2MBあります)
2006年05月30日
●<ルーモーのジョークです>
2006年05月29日
●<タニシで一杯>
2006年05月26日
●<そろそろ田植え>
2006年05月25日
●<そろそろ雨季ですね>
2006年05月24日
●<サトウキビジュース>
2006年05月23日
●<小坊主の水浴び>
2006年05月22日
●<ズゥエカビン>
2006年05月21日
●<"People's Desire" だっていうけれど>
2006年05月20日
●<夕暮れ>
2006年05月18日
●<雨宿り>
2006年05月17日
●<やっぱりシュエ(金)ですか>
2006年05月16日
●< 暴れ馬かと思えば >
2006年05月15日
●< ため池 >
昨日、ダムの写真をアップしたら、早速、ゆきさんがコメントを
書いてくれた。いつもながら早いチェックだ。
ビルマ国内のダムの写真
www.myanmar.com/build/photo.htm
しかし、写真で見る AZIN DAM はほんの一部分で全体が見えないなあ。
ビルマ軍政府もキチンとした写真データをアップして欲しいものだ。
私が代わりに・・・。
今日は、ダムというより、ため池(reservoir)の写真。
↓クリックすると大きくなります。
ビルマのあちこちをうろついていたら偶然でくわしたため池。
これは完全に潅漑用だろうなあ。
2006年05月14日
●< ダム拝見 >
2006年05月13日
●< タウンカレー僧正 >
2006年05月12日
●< ああ、のんきだね >
カレン州パーンを出発して、サルウィン河を遡る計画だー、って
(そんなに気合いを入れなくていいのだけど)
カママウン近くで、それ以上、ボートは出せないと言われる。
なんでなの?
滝あり、渦巻きあり、落差あり、ボートでは行けない、と。
仕方ない。
じゃあ、バイクに乗って、ビュンと走る。
約1時間。サルウィン河の支流でどん詰まり。
おお、美しい滝じゃないですか。
↓ クリックすると大きくなりますからね。
兵士たちに見守られ、記念撮影。
サルウィン河の本流に戻って、それ以上、行けないの?
道が悪いし、ダメだよ、って。
う~ん、ここまで来たのにのになあ。
ダム建設の予定現場、ハジーまでもう少しだったのに。
がっくりしていると、兵士たちが元気づけるかのように、ほらっ、
見て、と。
文字通り(一肌脱いだ)兵士が一人、滝壺に飛び込んだ。
おれたちこうやって遊ぶんだ、って。
↓クリックすると大きくなりますからね。
のんきなもんだ。
ちょっと離れたところでは軍事作戦が進行中だというのにね。
昨年11月に始まった作戦で、11,000人の国内避難民が出てるのに。
2006年05月11日
●< どこまで行くの? >
2006年05月10日
●< NLD(国民民主連盟)バッシング >
2006年05月09日
●< 新バスターミナル >
2006年05月08日
●< 悲しき看板 >
最近、軍政によるNLD(国民民主連盟)に対する風当たりは厳しい。
情報(通信)大臣 チョーサン氏はNLDの非合法化もあり得る、と
強い調子だ。
ビルマ第4(5?)の歳を訪れた先々週、いつものようにその地域の
NLDオフィスを訪れてみようと計画していた。
だが、街中探せども、オフィスらしき看板が見あたらない(地元
の人に尋ねるわけにはいかないし)
数日間探し回って、諦めていた。が、滞在の最終日、タクシーに
乗ってふと横を見ると、あ、あった。
タクシーの運転手によると、数年前から活動していないらしい。
もともとビルマ族ではない他民族の土地柄(確か90年の選挙でも
地元民族の政党が議席を獲得した?)、NLDの活動はそれほど
活発ではなかったのかもしれない。
それにしても、である。
活動停止なら、朽ちかけた看板をそのままにしているのがなんとも
悲しい。
まさに今のNLDの状態を表しているようだ。
< 他の街のNLDの看板 >
→(1)http://blog.uzo.net/index.php?blogid=153&archive=2006-1-3
→(2)http://www.uzo.net/asia/burma/burma1/burma1.htm
2006年05月07日
●< お菓子問屋 >
2006年05月06日
●<ビール飲みたい? (2)>
「ミャンマービール」宣伝の新しいポスターを見つけた。
やはり →前回(2005年7月21日) と同じように女性の
コップにはビールは注がれていなかった。
2006年05月05日
●< 新駅オープン >
●< アウンサン廟 >
そいや先週、てくてく歩いてシュエダゴンに向かってたら、
近道に通じる場所を発見。
入り口に守衛さん(?)がいたが
堂々と通過。
と、見えてきたのが「アウンサン廟」へ通じる場所だった。
入り口の警戒しているオジサンに「写真撮らせてぇ」と頼むが、
さすがに許可してくれなかった。
ま、仕方ないとあきらめ、そのまま歩き続けると、おお、廟に
通じる横道を発見。するすると歩いていくと、おお、廟の正面に
出てしまった。
で、シャッターを一回切ったところで、警戒の兵士が飛んできた。
"NO PHOTO! NO PHOTO"
で、やんわりとその場を追い出された。
後で画像をチェック。
おお、ちゃんと写っていた。
前回の撮影(2006年1月29日アップ)よりもかなり近づいたな。
本丸まで、もうあと少し(何やってんだか)