今週の本棚:荒川洋治・評 『瀬戸内海のスケッチ』=黒島伝治・著
毎日新聞 2013年11月17日 東京朝刊
(サウダージ・ブックス・2100円)
◇ひろく深く目を向ける作家の静かな名編
黒島伝治(一八九八−一九四三)の作品一〇編を収録。山本善行選。代表作を収めた岩波文庫『渦巻ける烏(からす)の群 他三篇』(一九五三・改版一九七三、現在二十五刷)とは重複しない。
黒島伝治は香川県小豆島の貧しい農家に生まれた。地元の醤油(しょうゆ)会社に勤めたあと、早稲田の予科に入った年に召集される。苛酷なシベリア出兵の体験をもとに「橇(そり)」(一九二七)「渦巻ける烏の群」(一九二八)など一連の反戦小説を書き、高い評価をうけた。最後の十年は肺患悪化のため、ほとんど筆をとることなく郷里小豆島で亡くなる。四十四歳の若さだった。
この『瀬戸内海のスケッチ』は地元の刊行でもあり、主に小豆島が舞台。「砂糖泥棒」「まかないの棒」などは貧しい農村に材をとるが、密度は高い。表題作「瀬戸内海のスケッチ」は、「無花果(いちじく)がうれた。青い果実が一日のうちに急に大きくなってははじけ、紅色のぎざぎざが中からのぞいている」という初秋の景色から、台風の話へ。下駄(げた)船が難破して、海面に下駄が散乱。それをみなで拾い集める。「赤塗りの下駄、主人の下駄、老人のよそ行き、等々家族みなのを集めて行く者」も。下駄屋のおかみさんまでかけつけるようすをスケッチする。文章の構成がすばらしい。「「紋」」は、老夫婦と、猫の話。
<古い木綿布で眼(め)隠しをした猫を手籠から出すとばあさんは、
「紋よ、われゃ、どこぞで飯を貰(もろ)うて食うて行け」と子供に云(い)いきかせるように云った。
猫は、後へじりじり這(は)いながら悲しそうにないた。>
「紋」という猫を、捨てに行く場面。これが最初の文章だ。紋は、よその家から食べ物を盗むので、近所から文句をいわれる。風呂を借りる家からも冷たくされ、一か月も風呂をもらうことができないので、仕方なく捨てることに。遠くの村へ捨てても、紋は戻って来る。本土へ運んでいったとき、紋は海に落ちて死ぬ。猫のようすは、ほんの少ししか出ない。なのに文章全体からここで起きることのすべてが見えてくる。そんな書き方だ。小説は描くことではない。もっと別のところで、だいじなものを静かにあたためるものなのかもしれない。