ここから本文です
[PR] 

豊臣秀吉「秀次に切腹強要」に疑義 国学院大准教授が新説

産経新聞 11月18日(月)7時55分配信

 豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、おいの関白秀次が邪魔になって切腹させた−。こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を学術誌「国学院雑誌」に発表した。秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明)

 秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。

 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。

 矢部准教授はこの日付について、「京都から約130キロ離れた高野山までは坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日付の命令書を持って多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へ宛てた書状に着目。「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されており、「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」と推測する。

 また秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだと指摘。「秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹した」とみている。

最終更新:11月18日(月)9時36分

産経新聞

 

WEBで話題の関連記事

※Buzzは自動抽出された記事です。

コメントリニューアルに関するご意見・ご要望につきましては、こちらからお寄せください。

PR

注目の情報


PR