
終戦直後に起きた「戸田教区長射殺事件」。戦時中、反戦言動で軍部から“要注意人物”とにらまれて札幌教区長時代に逮捕、その後、横浜教区長となった戸田帯刀(たてわき)神父(享年47歳)が、何者かによって射殺された事件だ。
これまで、カトリック教会ではこの史実を検証することはなかったが、ジャーナリストで、東京・荻窪教会所属の佐々木宏人さん(71)は、信仰に基づいて生き抜いた現代の〝殉教者〟たちに光を当ててこそ、カトリック教会の未来が築けるのではないかと、4年前から同教区長事件の調査を本格的に始めている。
戸田教区長が射殺されたのは、第2次世界大戦の終結直後の1945年8月18日のこと。当時、横浜教区長館のあった保土ヶ谷教会(横浜市保土ヶ谷区)で、戸田教区長は頭部を撃たれ、血まみれの死体となって発見されたのである。
事件の2日前(終戦の翌日)、戸田教区長は単身で、特設横浜港湾警備隊桜隊に出向き、同隊に接収されていた横浜教区長館(同市中区)と隣接の山手教会の返還を求めた。その時、軍部の激しい怒りを買ったという。犯人は捕まっていないが、目撃情報や現場の遺留品から、犯人は憲兵という説が定着している。
佐々木さんが、戸田教区長に関心を持ち始めたのは、大手新聞社の山梨県甲府支局長だった27年前。当時はまだ洗礼を受けていなかった佐々木さんだが、信者の妻と子どもたちの付き添いで甲府教会に通っていた。
白柳枢機卿が後押し
この事件には、不可解な点が多く、真相を解明したいと思った佐々木さんは、新聞記者の経験を生かして4年前から調査を開始。故・白柳誠一枢機卿の次の言葉も背中を押してくれた。
取材を重ねる中で、次第に見えてきたのは、神道と天皇を結び付けて国民の忠誠心を高めようとする政府と軍部。そして、教会組織の存続のために、天皇へ敬意を示しつつも、神社参拝は避けようとする日本のカトリック教会。やがて、天皇中心の軍国主義の中で教会は“降参”し、国策に協力する道へと追い詰められていく姿だった。
そんな時代にもかかわらず、戸田教区長は、理事長を務めていた札幌のカトリック学校で、宗教教育よりも軍事教練を重視する学校上層部と対立。このこともあって、射殺事件3年前の札幌教区長時代に、日本の勝利を疑う発言をしたとして逮捕される。
「実は、逮捕されたのは戸田神父の発言を軍部に密告した神父がいたからです。戸田神父の射殺事件が封印されたのも、また事件の約十年後、吉祥寺教会(東京)に『私が射殺犯です』と男性が名乗り出た時に、東京大司教区が調査もせずに“逃がして”しまったのも、『戸田教区長事件を検証すること』=『カトリック教会の“戦争責任”問題を追及されること』だからです。教会組織を“守る”ために事件に触れたくなかったのではないかと感じています」
佐々木さんは、当時の日本のカトリック教会や戸田教区長を密告した司祭を“糾弾”するつもりはない。ただ、教皇ヨハネ・パウロ2世の「過去を顧みることは、将来への責任をとることです」という言葉通り、自分たちの教会の歴史的責任について、「過去を顧みて」真摯(しんし)に向き合うことが大事だと感じている。
(カトリック新聞2013年2月17日付より 一部省略)