宗教にまつわるツイートをしていたら「『宗教性の豊かな人間』なんて曖昧すぎて定義できないw」という絡みをいただきました。こういう態度について考えてみましょう。

定義は与えられるものではなく、作り出すもの

端的に言えば「定義できないw」という態度は知的に甘えた態度です。嗤ってごまかすな。そこは自分の頭で考えなければいけないのです。

先の記事で指摘したとおり「宗教」の定義はそもそも大変困難で、学術的なレベルでもさまざまな定義が語られています。

こういう語について議論するためには、そもそも自分がどのように宗教を定義しているかを、前段として語らなければなりません。「宗教という語は多義的で解釈がわかれるが、『わたしは』本稿の中ではこう考えて、議論を展開していく」と宣言をするわけです。まぁ、当たり前ですね。


こんなことは当たり前だと思うのですが、こうして社会を生きていると、意外なほど多くの人が「定義は与えられるもの」だと考えていることに気づきます。これはまったく知的な態度ではないと思うのですよ。定義というものは、自分の頭を使って「わたしはこの語の意味をこう考える」と言語化し、覚悟をもって世に出していくものです。

ぼくはいま、「覚悟」ということばを使いました。そうです、自分のことばで定義を語ることは、覚悟が必要なのです。

ぼくはいままさに、「『定義』というものは、自分の頭を使って『わたしはこの語の意味をこう考える』と言語化し、覚悟をもって世に出していくもの」という『定義』をしました。

で、こんな感じで定義をすると、「は?何言ってんのwww」「理論武装乙www」という批判をツイッターや2chで受けることになります。定義を与えられるものだと思い込んでいる人は、結局、他人に嫌われるのが怖いのでしょう。


定義するということは、「わたしはこのように世界を分節する」と宣言することです。これは簡単な仕事ではなく、ぼくも未だに定義できないことがたくさんあります(『愛』とか『信頼』とか)。
世界を分節できない=定義できないのは、自分の「それについての考察が浅いから」「言語化能力が低いから」です。たとえば宗教についてよく考察している人で、かつ言語を操る力がある人は、宗教という語を定義できるわけですね。


というわけで、「そんなもの定義できないw」という態度を取ることからは、距離を置きましょう。それは知的に甘えた態度なのですよ。