佐々木俊尚さんが幸福の科学のかたとバトルトークをするそうで、実施前から大きな反響が起きています。

佐々木俊尚さんのツイートまとめ/社会の常識が根底からひっくり返り、すべてを再定義していかなければいけない今の時代だからこそ考える、宗教の可能性についての議論。 - Togetter




宗教的な人間とは何か






これはもう一字一句同感です。スピリチュアルブームが起こり、毎朝テレビ番組で「占い」が放送されており、毎年国民の大半がお参りしておみくじを引くこの日本において、なぜか「宗教」は未だにタブー視されています。

その無理解さたるや、「宗教アレルギー」といっても過言ではありません。宗教を信じている/研究している知人が何人かいますが、彼らは一様に「日本では『宗教を信じている』というだけで、偏見に遭う」と嘆いています。

が、世の中はグローバリゼーション。「隣人が、同僚が、家族が、宗教者である」という可能性は、ますます高まっていきます。ぼくが住む多摩の街でも、イスラム圏出身とおぼしき人を休日によく見かけます。いつまでも宗教アレルギーを持っていると、時代精神に適応できないと思うのですよね。




という前提があるなかで、いったい宗教とは何なんでしょうか。以前「かなり難しい「宗教の定義」」という記事を書きましたが、学術的なレベルでも、定義については見解が分かれています。こういうものに関しては、「定義が難しい」と諦めるのではなく、自分の言葉と思考をこねくり回し、自分なりの定義をつくりあげていくことが大切です。




「宗教」の定義というと制度・組織論にまで広がってしまうので、もうちょっとブレークダウンして、「宗教的な人間」の定義から考えてみます。

ぼくは「宗教的な人間」の定義を、「『自分の頭では理解できない何か』の存在を信じている人間」だと考えています。どうでしょう、シンプルでよくないですか。




たとえば、ぼくらは『お守り』を棄てることに強い抵抗感を抱きます。合理的に考えれば、ただの紙切れなんですから、棄てたって何の問題もありません。が、何かわからないけれど「罰が当たる」気がしてしまいます。このときぼくらは無意識的に、「自分の頭では理解できない何か」の存在に触れています。これは間違いなく、宗教的な態度です。




他にも「余命1ヶ月の診断を下された」「自分の大切な人が突然亡くなった」といった極限的な状況おいて、人は「『自分の頭では理解できない何か』の存在を信じること」を始めることがあります。

「落ち度のない自分がなぜ死ななくてはいけないのか?」「あの人がなぜ死ななければならなかったのか?」という疑問が頭のなかを渦巻き、しかし、考えても答えは出ません。このとき、宗教性が豊かな人は「これは、神が定めた運命・試練なのかもしれない」と考え、納得することに成功するでしょう(日本においては、そう考える人は少なそうですが…)。




「『自分の頭では理解できない何か』の存在を信じる人」が「宗教性を持った人間」であるとするのなら、「特定の神を信仰しているかどうか」は宗教性の有無と関係がありません。

科学的な探求を極めた結果、『自分の頭では理解できない何か』にぶち当たることもあります。その結果、その科学者が「証明はできないけれど、この世には不思議な未知の法則がある」と信じるのなら、彼・彼女は宗教者といえるでしょう。

宗教というのはそのくらい広い概念です。人間は何かを信じないと生きていけないという点において、大なり小なり、宗教性を有しているとすらいえるでしょう。この世に、宗教的ではない人間など、いないのです。





宗教性豊かな人間は、パフォーマンスを高められる



さて、長々と前置きを書いてしまいましたが、「『自分の頭では理解できない何か』の存在を信じる人」は、仕事ができる人材になりやすいんじゃないかと、ぼくは感じているのです。「宗教を信じれば、秒速1億円で稼げる!」みたいな。




ベストセラー作家のエリザベス・ギルバートのプレゼン「創造性をはぐくむには」のなかでは、まさに宗教性の重要性が語られています。



古代ギリシャ人は精霊を "ダイモン"と呼びました
ソクラテスはダイモンがついていると信じていた 遠くから叡智を語ってきたと…
ローマ人も同様でしたが― 肉体のない創造の霊を"ジーニアス" と呼びました
彼らは "ジーニアス(天才)" を― 能力の秀でた個人とは 考えなかった
あの精霊のことだと 考えていました
アトリエの壁の中に生き― ハリーポッターの妖精ドビーのように… 創作活動をこっそり手伝い― 作品を形作るんです


「ときに超常現象とさえ感じられる」創造性の謎と向きあい、安全に仕事をするために、彼女は「精霊」の存在を導入することを本気で語っています。




ぼく自身も文章を書きおえて「あれ?これ、自分が今書いたのか?」と思うことがあります。このTEDを見てからは、「なんかよくわからん精霊が自分に憑依したんだろうな」と、真面目に、思うようになりました。その意味で、ぼくは宗教的な人間です。多分、そういう超常現象はあると思うんですよね。

エリザベス・ギルバートが語るように、精霊を信じることによって、ぼくは第一に「護られ」ます。炎上しても「まぁ、精霊が悪かったんだな」と開き直ることができます。ぼくが書いたんじゃないし、まぁ、しょうがないです。




次に、より重要なことは、精霊を導入することで、「自分のパフォーマンスが、自分の理解を超えること」を自然体で捉えることができるようになります

宗教的ではない人間は、「あれ?これ、自分が今書いたのか?」と思ったとき、「いや、これは自分が書くべき文章ではない、修正しよう」と、自分の脳みその範囲に自分の成果物を押し込めようとします。こういう人は作風が固着しがちなので、その分、変化する/成功する可能性も下がります。

が、ひとつの道を究めようとすれば容易にわかることですが、「自分のパフォーマンスが、自分の理解を超えること」は普通にあります。みなさんも、何かに思いっきり打ち込めば「え?これ自分がやったの?」という驚きに出会うはずです。

この瞬間はまさに変化であり、成長です。精霊を信じる宗教性豊かな人は、こうした変化に肯定的に向き合い、呼び寄せやすくなるのではないか、とぼくは考えています。




と、珍しく長めの記事を書いてしまいました。これも精霊のおかげですね。いつかこのテーマは本にまとめたいなぁ。

みなさんは「『自分の頭では理解できない何か』の存在を信じている人間」ですか?そうだとしたら、そのことと自身のパフォーマンスの変化・成長の関係について、どのような感覚を抱いていますか?マニアックな話ですが、ぜひ多様な見解を聞きたいテーマなのです。





関連本はこちら。内田樹先生の宗教論はかなり影響を受けています。