クリシュナムルティ

『生の全体性』ノート〈あとがき〉

      『生の全体性』ノート〈あとがき〉                  

                                小幡照雄

  『生の全体性』(ジドゥ・クリシュナムルティ著)について、仏教の視点から何が見えてくるか取り組んでみようと決意したのは、昨年十一月末、小野不一さんから投稿(コメント)で、道元の『正法眼蔵』の視点から考察することを勧められたのがきっかけだった。クリシュナムルティの〈テクスト=言説〉を、〈釈尊=道元〉の視点で考察する――。〈自分〉に何ができるのだろうか。〈自分〉の思いを〈率直に〉書き留める以外にないと決意して、取り組んできた。最終章(第Ⅱ部第十九章)のノートを書き終えたが、私のクリシュナムルティへの〈旅〉はまだ終わらない。これは〈起点〉も〈終点〉もない〈旅〉なのかもしれない。なぜなら、〈旅〉そのものがクリシュナムルティが説く〈瞑想〉の〈道=修行〉であり、〈釈尊=仏法〉が説く〈森羅万象=実存〉との〈共存〉なのだから。 
  仏法と他の思想・哲学・宗教との違いはどこにあるのか。それは〈肯定即否定・能動即受動〉の法理に命(もと)づいているか、命(もと)づいていないかの違いである。仏法は〈人間〉の思索を〈分析・統合・体系化〉したものではない。森羅万象、すなわち〈事象・宇宙・生命〉の〈実存〉そのものが仏法なのである。従って、言葉の戦略、すなわち譬喩、マントラ=呪文、曼荼羅等を駆使して、〈実存〉に迫る(言動)のすべてが仏道修行となる。〈過去〉の仏祖たちの修行はすべて、〈私=われわれ〉が〈いま、ここに〉に〈実存〉に迫る思索と行動の〈譬喩〉となる。道元は〈宇宙〉が〈妙法〉を説き、〈妙法〉が〈釈尊〉を説き、〈釈尊〉が〈私=われわれ〉を説き、〈われわれ=私〉が〈釈尊〉を説き、〈釈尊〉が〈妙法〉を説き、〈妙法〉が〈宇宙〉を説く、という〈譬喩〉を展開している。
 〈肯定即否定〉とは、仏法が説く〈善悪不二〉の法理である。〈法華経=釈尊〉が説く『無量義経』には、〈実存〉を把握するための〈方法的原理〉として、三十四非が説かれている。言葉で〈定義〉しようとすると、それを超えてしまう〈実存〉――。日蓮は〈阿闍世王〉に、父親を殺害し、母親にも〈地獄〉の苦しみを与えた〈悪〉と、一切衆生の煩悩を截断する〈善〉の両義性を把握している。〈私=われわれ〉が〈悪〉と見なすものは〈善〉を胚胎し、〈われわれ=私〉が〈善〉とみなすものは〈悪〉を胚胎する。それは疑いようのない〈真実〉なのである。〈人間〉の世界では、家庭、地域、集団、会社など日常的な生活の場で〈裁判〉が行われ、〈私=われわれ〉が〈裁判官〉となり〈罪人〉となり、〈冤罪〉をつくり出しているのだ。そこに生まれる〈不安〉と〈恐怖〉が葛藤し、波紋を広げていく。
 〈能動即受動〉とは、仏法が説く〈因果倶時〉の法理である。〈見る者〉は〈見られるもの〉であり、〈見られるもの〉は〈見る者〉である。〈物を使う者〉は〈物に使われる者〉である。日蓮は〈師〉が〈弟子〉であり、〈弟子〉が〈師〉である法理を、〈提婆達多即天王如来〉という〈譬喩〉で示している。道元もまた、〈過去仏〉から〈現在仏〉、〈未来仏〉へと仏法が伝授されると同時に、〈未来仏〉から〈現在仏〉、〈過去仏〉へと仏法が伝授されることを説いている。
  〈能動即受動〉という法理は、一点から無限大へと立体放射状に膨張すると同時に、無限大から無限小の一点へと縮小する〈宇宙〉のイメージと重なっている。地球上にさまざまな生物(単細胞から多細胞へ)をつくり出した遺伝子も、同様に〈過去〉と〈未来〉に拡散すると同時に収斂している。すべてが〈色心不二・久遠即末法〉、すなわち〈いま、ここに=始源の時〉に焦点を結んでいる。〈因果倶時〉は〈因果異時〉を胚胎している。〈因果異時〉は〈因果倶時〉とどう違うのか。
 〈因果異時〉は、直線的・並列的な〈時間=関係性〉と言えるだろう。〈過去〉の原因が〈現在〉の結果となり、〈現在〉の原因が〈未来〉の結果となる。視点は常に〈過去〉、あるいは〈未来〉の一方に向いている。人間の肉眼は、一方向しか見ることができない。それは〈物的〉視点となる。物理学の視点は試行錯誤を繰り返しながら、〈ニュートン〉の〈物本事迹〉から、〈アインシュタイン〉の〈事本物迹〉へと転換してきた。今では〈無の物理学〉という命題が提起されるようになった。物理学の分野にも、仏法が説く〈非有・非無、非生・非滅〉という問題が浮上しているのだ。
  日蓮が顕した『百六箇抄』の末尾に「又、立つ浪、吹く風、万物に就いて本迹を分け、勝劣を弁ずべきなり」と記されている。「立つ浪(波)、吹く風」の波、風は、五根(五感)でとらえる〈物本事迹〉の事象であると同時に、〈譬喩〉でしか表現〈言説=道得〉できない〈事本物迹〉の事象でもある。クリシュナムルティが著した『生の全体性』には、仏法の基盤となる重要な法理が柔軟に駆使され、展開されている。しかし、クリシュナムルティの〈言葉〉を分かりやすく〈解釈〉しようとすれば、〈クリシュナムルティ〉が示す〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉は〈五百塵点劫〉の彼方へ遠のき、〈私=われわれ〉は〈生の分断化〉の巷をさ迷いつづけることになる。〈クリシュナムルティ〉をどう読むのか。そのために〈われわれ=私〉は、〈道元〉と〈日蓮〉から、文底独一法門の〈方法的原理〉を学ばなければならないのである。(二〇一〇・四・二〇)

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『生の全体性Ⅱ』ノート(19)

クリシュナムルティ

             『生の全体性Ⅱ』ノート(19)

                            小幡照雄

 第十九章――人はいかにして自分自身を知ることができるか――

 完全な留意があるときには止滅し、留意がないときには涌き上がる、この思考の本性は何か? 人は何に気づくべきかを理解しなければならない。さもなければ、留意の重要な意義を完全には理解できない。〈気づき〉という観念があるのか、それとも気づいているだけなのか?そこには違いがある。気づいているという観念か、それとも気づいているという状態そのものか――。〈気づく〉とは、自分に関する物事、自然、人々、色彩、樹々、環境、社会的構造などあらゆるものに対して鋭敏であること、いききと敏感であることを意味する。そして、起こっていることすべてに対して外面的に気づくと同時に、内面的に起こっていることに気づくことである。気づくということは、心理的に内側で起こっているものと同時に、外側で環境的、経済的、社会的に起こっているものに対しても鋭敏であること、知ること、観察することである。もし、外面的に起こっていることに気づかないで内面的に気づきはじめたら、そのときには人はむしろ神経症的になる。しかし、もしできるだけ多く世界で起こっていることに気づきはじめて、そこから内面へと向かうなら、そのときには人はバランスを保っている。そうなったら、自己欺瞞という可能性はなくなる。人は、外面的に起こっていることに気づくことから始めて内面へと向かう。あたかも潮の満ち干のように、そこには絶え間ない運動がある。そうすれば、そこには欺瞞はない。外側で起こっていることを知って、そこから内側に進むなら、そのときには拠り所を得る。

  〈私=われわれ〉は日常生活のなかで、ふと何かに気づくことがある。〈気づく〉とは、そのことに〈留意〉することである。そのことに〈六根=六感〉を働かせ、〈留意〉する。それは、そのことに〈夢中〉になり、〈時間の経過〉を忘れている〈状態〉である。そのとき、〈思考〉の〈運動〉は止まり、消滅している。〈気づく〉とは、〈自己〉の〈内〉と〈外〉で起こっていることを同時に、敏感に、生き生きと〈観察〉すること、すなわち〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことなのである。子供たは〈我を忘れて〉遊んでいるとき、〈自分〉の〈内外〉の変化を敏感に感じている。そして子供たちは、〈楽しい〉と言う。子供の〈生きる場〉は本来、〈釈尊=法華経〉が説く〈衆生の遊楽する所〉なのである。
  〈われわれ=私〉は生長する過程で、子供のときの〈楽しさ〉を忘れている。〈思い出〉は〈過去化〉した〈記録〉であり、その〈楽しさ〉を蘇らせる術はない。 子供はまだ〈言語化〉された〈価値判断〉に条件づけられることが少ない。その〈子供〉のようにすべての物事を〈在りのまま〉に見つめる。それは可能なのだろうかと、〈私=われわれ〉は自問しなければならない。〈物本事迹〉の視点で外面的な世界の変遷を学ぶと同時に、〈事本物迹〉の視点で内面的な関係性や葛藤に留意する。そのとき、一切の価値判断は無意味となる。なぜなら〈われわれ=私〉は、〈肯定即否定・能動即受動〉の〈世界=生の全体性〉を〈見つめている〉のだから。
 〈自己〉が〈欺瞞〉であれば、その〈欺瞞〉が〈自己〉なのである。〈権力者=権力〉は、そのことに気づこうとしない。鳩山氏や小沢氏はその典型ではないのか。その〈歪み〉は国民のすべてに、そして日本から世界へと波動を広げていく。〈悪〉と協調する者は、〈悪〉に協調される者となる。相手を〈悪〉として弾劾する者は、その〈悪〉の似姿となる。それが〈与党〉と〈野党〉が複雑に絡んだ政治の実態なのである。そのすべてを〈私=われわれ〉が一切の価値判断を放棄して、〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、そこに大きな波動が生まれ、〈人間〉の生きる世界に大きな変容をもたらす。クリシュナムルティは、そのことを〈われわれ=私〉に問いかけているのである。

 人はいかにして自分自身を知ることができるか? 自分自身とは、非情に複雑な構造、非情に複雑な運動である。自己欺瞞に陥らないためには、どのようにして自分自身を知ればよいのか? 人は、他者と自分との関係においてはじめて、自分自身を知ることができる。人は、自分と他者の関係において、自分が傷つけられたくないがために他者から退くのかもしれない。あるいはその関係のなかで、自分がとても嫉妬深くて、依存心が執着心が強く、それでいてきわめて冷淡であるということを発見するかもしれない。だから、関係は自分を知る鏡としてはたらく。それは外面的にも同じことであって、外なるものは自分自身の反映である。なぜなら、社会、政府などといったものはすべて、根本的に自分と同じような人間たちによってつくり出されたものだからである。
 気づきとは何かを見出すためには、秩序と無秩序という問題に立ち入らなければならない。人は、外界には、大きな無秩序、混乱、不安があるのを見る。この不安、この無秩序を引き起こしたのは何か? 誰に責任があるのか、われわれにか――? われわれに外面的な無秩序の責任があるのか、それともそれは神性なる秩序がそこから現れるような神性なる無秩序なのか、それをはっきりさせることだ。そうして、もし外面的な無秩序に責任を感じたら、そのときには、その無秩序は自分自身の無秩序の現れだとわかるのではないだろうか?
 人は、外面的な無秩序は内面的な無秩序によって生み出されるということを観察する。人類が自分自身のなかに秩序をもたないかぎり、無秩序は絶えない。政府はその無秩序を、外面的に、支配しようとするかもしれない。その極端な形態はマルクス主義の全体主義である。それは、自分たちは秩序が何であるかを知っているが、あなたがたは知らないと主張する。それは、あたたがたにその秩序というものを教えて、あなたがたを抑圧したり、強制収容所や精神病院へ閉じ込めたりする。

  自分自身とは何か。〈私=われわれ〉は、人類が歴史の中で蓄積してきたさまざまな〈知識=知的遺産〉を学ぶことによって、自分自身を知ることができる、と思っている。しかし〈知的遺産=知識〉はすべて〈過去〉のものであり、部分的な世界を反映するにとどまり、〈死物化=脱益化〉を免れない。すべて〈過去=未来〉という〈非存在〉に拡散しているからである。従って、それを学んだり、研究したりするときには、〈序・正・流通〉という〈陥穽〉が口を開く。それは〈他者〉の流通分を、〈自己〉の〈流通分〉と錯誤することである。確かに、他者の流通分を真似ることが、学習・研究の一部であることは間違いない。そのことを自覚し、どう超克するかが常に問われているのだ。〈自己〉の成功談は〈死物化=脱益化〉し〈他者〉を成功させる力を失っている。その成功談を〈譬喩〉と受け止め、新生を吹き込む、すなわち〈下種化=発心〉する者だけが新しい道を切り拓くのである。
  古今東西の宗教的指導者や賢人、識者の言動を〈人類の知的遺産〉として読む限り、それは〈過去化=死物化〉し続け、〈生の全体性〉へ〈覚醒〉することはできない。〈トートロジー=歴劫修行〉の中で、同じ意味を担う〈言葉〉だけが増え続け、深まる溝の中に蓄積されていく。無秩序という混沌の中で、〈言葉〉の群れが、少しでも〈自分〉と違う相手を見つけ出そうと、さ迷い続ける。新しい〈相手〉を見つけたと思っても、それは〈錯覚〉でしかない。戦争が繰り返され、経済不況が繰り返されてきた。そこにひしめく〈評論=評論家〉はまさに、〈トートロジー=歴劫修行〉の反復であり、よく似た〈遺跡〉が増え続けていく。
 〈不安〉と〈恐怖〉が葛藤し、戦争へ経済不況へと収斂する。〈分断化〉された〈外界〉の〈映像〉が、一人ひとりの〈心〉に、それぞれ微妙に異なる〈様式〉で刻み込まれる。社会も政府も〈自分〉と同じ〈人間〉によってつくり出されている。〈支配者〉も〈被支配者〉も〈無秩序〉な政治状況――。それは〈衆愚政治〉と呼ばれる。
  鳩山氏も小沢氏も、その〈欺瞞〉と〈無秩序〉を国民の前にさらけ出している。政治家も評論家もマスコミも、それは変えようのない〈必要悪〉と前提して、不毛の論議を繰り返すだけなのだろうか。民主党政権の誕生によって、これまで国民の目から覆い隠されていたことが、次々と明るみに出てきたことは確かである。それは前政権が〈残した〉、言い換えれば〈積み上げ〉てきた〈政治遺産〉でもある。前政権の議員たちは、それを覆い隠したまま、根本的な反省も転換もしていない。その〈心〉は〈自己欺瞞〉以外の何物でもない。そんな〈自己欺瞞〉と〈手前勝手〉な体質の政治家の中から、〈われわれ=私〉は、誰かを選択しなければならないのである。このままでは、国民の〈生活と生命を守る〉ための政治改革はどこまでも延期され、不毛な〈政治改革〉の〈定義〉だけが、〈横行〉し続けることになる。

 人が何かを理解できるのは、〈あるがまま〉を見てそれから逃げ出さない――それを何かほかのものに変えようとしない場合だけである。〈あるがまま〉――だたそれだけとともにとどまり、それを観察し、見ることができるだろうか? 私は〈あるがまま〉を見たい。私は自分が貪欲だということを知っているが、それは何の役にも立たない。貪欲は、感覚、感情であり、私は貪欲と名づけられたその感情を見ている。言葉は実体ではないのに、私は言葉を当の実体とまちがえているのかもしれない。私は、言葉にとらわれていて、事実、つまり自分は貪欲だという事実とともにはいないのかもしれない。それは非常に複雑である。言葉はその感情を誘発することができる。精神は言葉から解放されて、そして見ることができるだろうか? 言葉が私の人生にとって非常に重要なものになってしまっている。言葉は当の実体ではないことを知りながら、私は言葉に隷属しているのだろうか?
 言葉があまりにも重要になってしまったので、事実は私にとって現実的、実際的ではなくなっているのだろうか? 私は、山へ行って山を見るよりむしろ山の絵を見たい。山を見るには、私は長い距離を行き、登り、見て、感じなければならない。山の絵を見ることは象徴を見ることであって、それは現実ではない。私は、言葉すなわち象徴にとらわれて、それによって現実から逃げているのだろうか? 言葉が貪欲という感情を生み出すのだろうか、それとも言葉がなくても貪欲があるのだろうか? これは抑圧ではなく、とてつもない規律を必要とする。それを追求すること自体が、独自の規律を内在している。そこで、私は非常に注意深く、言葉が感情を生み出したのか、それとも感情は言葉がなくても存在するのか、ということを見出さなければならない。その言葉とは「貪欲」であり、私は、以前にその感情を抱いたときに「貪欲」と名づけた。したがって、私は現在の感情を同じ種類の過去の出来事によって記録している。だから、現在は過去にすっかり吸収されてしまっているのである。

 〈私=われわれ〉が〈いま、ここに〉、このような〈形〉と〈心〉で〈存在〉している。これほど不思議なことが、ほかにあるだろうか。では、何が〈いま、ここに〉存在しているのか。それは〈時間〉に非ず、〈非時間〉に非ずと〈表現=道得)するしかない〈存在〉なのである。〈いま、ここに〉とは〈始源の時〉であり、その一瞬一瞬が〈われわれ=私〉の〈存在〉を支えている。その文底を開くとき、その〈存在〉が〈私=われわれ〉であることが見えてくる。〈言葉〉でとらえられない〈存在〉――。それを〈生の全体性〉とも〈妙法の曼荼羅〉とも呼ぶのである。
〈あるがまま〉を見てそれから逃げ出さない――。それは一切の価値観を放棄して〈実存〉を〈見つめる〉ことである。どうすれば、それが可能になるのか。この疑問はどこまでもつきまとう。観光事業となっているような坐禅の修行で、それが可能になるのか。そのような坐禅は、道元の説く只管打坐に背理している。従って〈覚醒〉ではなく、逆に〈生の分断化〉を深めることになる。そのような観光的な坐禅にしても、それを〈排除〉しようとすれば、さまざまな歪みが生ずる。それが何であろうと、〈在るのもの〉は〈排除〉するのではなく〈保護〉するのである。〈排除〉という〈言葉〉は〈無慈悲〉そのものではないだろうか。観光的な坐禅を〈在りのまま〉に見て、その役割を位置づけるとき、その心に調和が蘇るのだ。
 道元の「只管打坐」という〈言葉〉を誤読して、坐禅さえすれば他の一切の修行は無用だという〈思い込み〉も見られる。〈只管=ひたすら〉という〈言葉〉は〈瞑想〉するときの〈意識の在り方〉を意味する。道元は森羅万象について深く学ぼうとしない者を、厳しく破折している。クリシュナムルティも、学問を否定しているのではない。何かを学ぼうとする心を発心と言う。〈発心〉は〈帰命〉であり、〈帰命〉は〈随縁不変・一念寂照〉である。〈発心〉のない〈心〉を〈六道〉と言う。〈六道輪廻〉の心で〈瞑想〉することは不可能なのである。学ぶ心が発心となり、発心が〈只管打坐=瞑想〉となる。〈瞑想=只管打坐〉は発心であり、発心は学ぶ心なのである。
 貪欲というものが〈存在〉するのだろうか。〈貪欲〉という〈言葉〉の分節作用によって、そういうものを〈幻想〉してしまうのだろうか。〈貪欲〉と名づけられた〈感情〉――。〈私=われわれ〉は、その〈感情=貪欲〉を見る。〈精神〉は〈言葉〉から離れて〈貪欲〉とは何か、見定めることができるのだろうか。〈われわれ=私〉が見ている〈実存〉ではないもの。それは何なのか。日蓮と道元が〈禅天魔〉と破折している〈心〉は、現代文明が培う〈能率化〉にとらわれ、〈人間〉の等身大の〈力〉を〈機械的〉に増幅する。そして、その物自体よりも、それを映し取った絵や映像、動画を見ることを選ぶようになる。
 それは善でも悪でもない。それを排除しようとすれば、さまざまな葛藤が競い起こることになる。人間は〈言葉〉を発見し、創造し、〈実存〉している。その〈言葉〉を〈排除〉することはできない。〈言葉〉は〈実存〉であり、〈実存〉は〈言葉〉である、と言うこともできる。〈言葉〉の位置づけが、〈秩序〉を肯定し、〈秩序〉を否定する。
  〈貪欲〉は〈無欲=慈悲〉を胚胎している。ハイチの地震災害に世界各国からさまざまな援助の手が差し伸べられている。しかしハイチには、災害復興に貢献できる大企業が存在しない。眼を覆う惨害の傷跡。瓦礫の撤去や建物の修復、施設の復興のすべてを、先進国に依存しなければならない。地球全体が一つの国家であれば、どこで災害が起こっても、その最新技術を総動員して復興に全力を注ぐことができる。〈貪欲〉が培った巨大な〈富〉の偏り――。それは巨大先進国の内部でも進行している。〈私=われわれ〉が〈貪欲〉と思っているものを、どうすれば〈無欲=慈悲〉に転換できるのだろうか。

 さて、私は過去なしに貪欲という事実を観察できるだろうか? 名づけずして、言葉にとらわれずして、つまり、言葉は感情を生み出すことができることを理解し、そして言葉が感情を生み出すなら、言葉は〈私〉であり、「怒るな」と命じているその〈私〉は過去のものであるということを理解してしまったら、貪欲を観察できるだろうか? 〈私〉、すなわち観察者なしに、〈あるがまま〉をみることは可能だろうか? 私は、観察者すなわち過去なしに、貪欲――その感情、その達成やはたらき――を観察できるだろうか? 〈あるがまま〉は、〈私〉がいないときはじめて観察されうる。人は自分のまわりのさまざまな色や形を観察できるだろうか? どうやってそれを観察するのだろうか? 人はそれを、眼を通して観察するのである。
 眼を動かさずに観察することだ。というのも、眼を動かせば、思考する頭脳が完全にはたらき出すからである。頭脳がはたらき出す瞬間、そこには歪曲が生まれる。眼を動かさずに何かを見つめてごらん。そうすれば、頭脳はどれほど静かになることだろう。眼だけではなく、自分の注意、自分の愛情をもって観察してごらん。注意や愛情があれば、観念ではなく事実を観察するようになる。注意、愛情をもって〈あるがまま〉に近づくようになる。そのあかつきには、判断、非難はいっさいなくなり、人は対極をなすものから解放されるのである。

  〈私=われわれ〉は、それぞれに生まれ育つ文化環境の中で、価値観や世界観の基盤となるものを〈修得〉する。文化環境は家族から地域、集団、民族、国家、国際環境へと幾重にも葛藤している。そこで培われた価値観、世界観は、深い対立の根をはらむものもある。だからこそ、クリシュナムルティは、一切の価値判断を放棄して、〈肯定即否定・能動即受動〉の視点に立って、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことを説いているのである。〈貪欲〉という事実――。それは〈森羅万象〉の結節点として現成している一つの現象の〈譬喩〉にほかならない。〈われわれ=私〉は、〈自分〉の〈宿業〉となった〈価値判断〉を超克することができるのか。
  食文化の違いが〈不安〉の〈恐怖〉を予兆させ、それが〈憎しみ〉を生み、〈不安〉と〈恐怖〉の原因とみなしたものを〈排除〉する〈暴力〉に発展する。一つの食文化はさまざまな国家や民族の生活、文化と深くかかわっていることを理解できないまま、その全体の関連を排除しようとする。そこに〈人間〉の眼に不正と見えるものまで、複雑に絡んでくる。そんな〈私=われわれ〉に〈不安〉と〈恐怖〉を抱くことなく、〈実存〉を見つめることができるのだろうか。
 〈あるがまま〉を観察できるのは〈私〉がいないとき、すなわち〈私〉ではないのである。〈私=われわれ〉は〈眼〉すなわち〈五感=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・蝕覚〉を介して物事を観察する。〈眼を動かさずに〉とは、〈五感を働かさずに〉ということである。
 〈五感=眼〉を動かさずに観察することだ。〈眼=五感〉を動かせば、〈頭脳〉が〈思考〉し始める。〈眼=五感〉を動かさずに、〈五感=眼〉で注意と愛情をもって、〈在るがまま〉に観察する。〈注意と愛情〉とは仏法が説く〈慈悲=抜苦与楽〉である。
  NHKテレビで『げげげの女房』が視聴率を高めている。漫画家・水木しげる氏の伝記を脚色したものだが、視聴者はそれぞれに独自の感慨を込めて見ている。戦地で片腕を失った息子が帰還する。それを迎える母親は、どのように愛する息子を見つめたのだろうか。見る者の心を揺さぶるシーンである。そこには愛と哀れみ、そして喜びに溢れる母親の姿があった。母親は〈注意と愛情〉をもって〈在るがまま〉に息子を〈見つめていた〉のである。そのとき、〈見る者〉は〈見られるもの〉となり、〈見られるもの〉は〈見る者〉となる。それは〈肯定即否定・能動即受動〉の法理にほかならない。道元は次のように〈譬喩〉を展開する。

 おほよそ山は国界に属せりといへども、山を愛する人に属するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高徳やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに属するがゆへに、樹石鬱茂(じゅしゃくうつも)なり、禽獣霊秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆへなり。しるべし、山は顕をこのむ実あり、聖をこのむ実あり。帝者おほく山に幸して賢人を拝し、大聖を拝問するは、古今の勝躅(しょうちょく)なり。このとき、師礼をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強為(ごうい)することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。崆峒(くうとう)華封(わほう)のそのかみ、黄帝これを拝請するに、膝行して叩頭して、広成にとふしなり。
  釈迦牟尼仏かつて父王の宮をいでて山へいれり。しかあれども、父王やまをうらみず。父王、やまにありて太子をおしふるともがらをあやしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ山を強為せず。しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず。人慮の測度(しきたく)をもて山を知見すべからず。若し人間の流(りゅう)に比準せずば、たれか山流、山下流等を疑著せむ。あるいはむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに古来水中の風流なり。さらにすすみて自己をつるあるべし。釣をつるあるべし。釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。(『正法眼蔵』「山水経」)

  山とは何か。五感(五根)でとらえて構成する山もあり、〈譬喩〉として表現するしかない〈やま〉もある。いずれにせよ、〈山〉は、それに注意と愛情を注ぐ人に、その〈存在〉を現す。〈山〉は森羅万象の〈譬喩〉ともなる。〈山〉は〈聖賢高徳〉となり、〈樹石鬱茂〉となり、〈禽獣霊秀〉となり、〈顕〉となり〈実〉となる。〈山〉は〈帝王〉と〈聖賢〉の出会いの場でもある。そこには〈俗人〉の知らない〈法理〉が開かれている。
  〈釈尊〉も〈王宮〉を捨てて出家し〈山〉に入ったのである。〈父王〉はその〈釈尊〉を恨まず、〈釈尊〉の修行の師となった人たちや仲間を怪しむこともなかった。〈釈尊〉を見守る〈父王〉は〈釈尊〉となり、〈父王〉に見守られる〈釈尊〉は〈父王〉となる。この〈二人〉は一体不二なのである。〈過去〉の〈釈尊〉はどこにもいない。〈釈尊〉は〈釈尊〉を敬い慕う〈己心〉に開くのである。その〈場=時空〉を〈色心不二・久遠即末法〉と言う。〈久遠即末法・色心不二〉とは〈いま、ここに=始源の時〉であり、それは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。
  〈人間〉は〈山〉を何かの境界と考えるが、〈山=やま〉は〈人間〉の憶測や思い込みを超えた〈存在〉なのである。〈生の分断化〉にとらわれた〈心〉で〈山〉を見ても、〈山流〉や〈山下流〉という〈言葉〉に戸惑うことになる。〈古来水中の風流〉とは、一人ひとりの〈人間〉の振る舞いである。〈水〉に住む〈賢人聖人〉は〈水〉となり、その〈水〉は〈聖人賢人〉となる。〈釣る者〉は〈釣られるもの〉であり、〈釣られるもの〉は〈釣る者〉である。〈釈尊〉は次のように〈譬喩〉を説いている。

仏、阿難に告げたまわく、
仏の滅度の後、仏の諸(もろもろ)の弟子若(も)し悪不善業(あくふぜんごう)を懺悔(ざんげ)することあらば、但当(ただまさ)に大乗経典を読誦すべし。此の方等経(ほうどうきょう)は是れ諸仏の眼(まなこ)なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法印なり。涅槃海(ねはんかい)を印す。此(かく)の如き海中より能(よ)く三種の仏の清浄(しょうじょう)の身を生ず。此の三種の身は人天の福田(ふくでん)、応供(おうぐ)の中の最なり。其れ大乗方等経典を読誦することあらば、当に知るべし。此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧(ぶって)より生ずるなり。(仏説観普賢菩薩行法経)

 〈法を説く仏〉は〈法を聞く阿難〉であり、〈法を聞く阿難〉は〈法を説く仏〉でもある。この〈経典=テクスト〉を読む〈己心〉の外に〈師〉も〈弟子〉も現成しない。それを〈師弟不二〉と言う。〈懺悔〉は〈不善行〉を胚胎し、〈不善行〉は〈懺悔〉を胚胎する。〈不善行〉は〈善行〉を胚胎し、〈善行〉は〈不善行〉を胚胎する。その文底は、善即不善・不善即善〉となる。事象を一義的に〈善〉と〈悪〉に分別する心は〈外道〉に染められている。その心は仏法を説くことも、仏法を聞くこともできない。外道を一義的に讃歎する心も、一義的に軽侮する心も外道となる。
 「但当に大乗経典を読誦すべし」の「大乗経典」とは、〈法華経文底の妙法〉である。この〈妙法〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉――。それを〈五眼〉と言う。〈五眼〉とは〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉眼である。〈五眼〉は〈諸仏〉となり、〈大法印〉となり、〈涅槃海〉となる。〈自己〉を〈見つめる〉とき、〈世界〉を認識している〈自己〉が、〈世界〉そのものであることが見えてくる。〈いま、ここに〉実存する〈妙〉極まりない〈自己〉――。それは〈宇宙即我・我即宇宙〉という〈釈尊〉の悟りと別のものではない。〈釈尊〉と〈道元〉と〈日蓮〉と〈クリシュナムルティの〈譬喩〉は、互いに照らし合い響き合い、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を描き出す。〈釈尊〉は〈当に知るべし。此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧(ぶって)より生ずるなり〉と説いている。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(18)

クリシュナムルティ

        『生の全体性Ⅱ』ノート(18)

                  小幡照雄

 第十八章――明晰さがなければ、技能はきわめて危険なものになる――

 技能が発達したとき、それはある種の幸福感、安定感をもたらす。そして、知識から生まれたその技能は、きまって、そのはたらきにおいて機械的にならざるをえない。活動的な、有効な技能こそ、人が求めてきたものである。それは、社会のなかで、ある一定の地位、一定の身分を与えるからである。現代社会において人がそうしているように、あらゆる経済的な要請に従って始終そういう分野で生きていれば、その知識や技能はたんに付加的なものではなくなり、きまって、しだいに独自の刺激、傲慢さ、権力を集めるような反復的で機械的な過程になっていく。そういう権力のなかでは人は安定を得る。
 現在のところ、社会はますます技能を必要としている。その人がエンジニアであろうと、科学技術の専門家であろうと、科学者であろうと、精神療法家であろうと、である。社会は、蓄積された知識から出てくるこのような技能のすべてを求めている。しかし、そこには大きな危険があるのではないだろうか? というのも、このような技能の増大のなかには、何の明晰さもないからだ。たんに生計の手段であるという理由だけではなく、人が全面的にその目的のために教育されている――学校、単科大学、そして大学はすべてその目的のために方向づけられている――という理由で、技能が生において非情に重要になるときには、その技能はつねに、権力の感覚、傲慢さ、自尊心の感覚を生み出すのである。

  人類の歴史に登場して、さまざまな〈技術〉を磨き、その〈技術〉によって人間社会の発展に貢献した人物――。その事跡や人物像が歴史家や作家によって〈想像=推測〉され、〈記録〉されてきた。それを読む人もまた、〈記録〉されていない無限の混沌を〈推測=想像〉によって分節し、〈心〉に描き出す。作家と読者の〈心〉は交錯し、葛藤し、それぞれに別の〈言葉〉を紡ぎ出す。〈言葉〉で構築されたものは、どこまでも〈譬喩=方便=仮説=虚構〉として、〈人類〉の〈心〉から〈心〉へと波紋を広げていく。その波紋は〈肯定即否定・能動即受動〉の法理に則っている。〈肯定的〉に評価されることもあれば、〈否定的〉に評価されることもある。
  映画やテレビ放送でも、よく歴史上の人物が取り上げられるが、そこに描き出されている〈事跡〉や〈人物像〉は、〈実存〉を再現したものではない。あくまでも、作家や制作者の〈頭脳〉の〈運動〉が生み出した〈虚構=仮説=方便=譬喩〉なのである。 〈肯定即否定・能動即受動〉という〈実存〉の法理に照らして見るとき、すべての〈存在〉が〈両義性・多義性〉をはらんでいることが見えてくる。クリシュナムルティは〈技能〉と〈人間〉の関係について、〈私=われわれ〉が〈善悪〉に分別していることについて、果たしてそうなのかと問いかける。〈技能〉の〈発達〉は〈われわれ=私〉に、ある種の〈幸福感〉や〈安定感〉をもたらす。〈私=われわれ〉は、それを一義的に〈善〉と考える。しかし、〈人間〉が生きる〈状況〉は、それに疑問を呈しているのではないか。
 〈人間〉のひたむきの努力が生み出した〈技能〉の成果――。その過程には〈私=われわれ〉を感動させる〈歴史〉が秘められている。しかし〈社会〉の中で一定の地位、評価を得た〈技能〉は、その〈心〉を失い、反復的・機械的な過程になっていく。そこに独自の〈刺激〉や〈傲慢〉や〈権力〉が集中していく。その権力構造の中で、情報化の進展は、〈支配〉と〈被支配〉の関係を複雑化させる。権力化構造は政治・行政機構に集約されている。権力側はどんな失敗をしても、それを認めれば自分の存在基盤を崩すことになる。従って、「適切な対応をしてきたと思う」という〈言葉=説明〉が常套手段となる。そうしなければ、〈非権力〉の〈権力〉による容赦ない〈攻撃〉を浴びることになるからだ。
 そういう権力構造の中で、〈安定〉を得たと思う〈人間〉と、そう思わない〈人間〉が分離される。 このような社会は、〈生の分断化〉の反復を繰り返し、〈過去性・他者性・脱益化・死物化〉を増幅し続けることになる。そのような状況の中で、あらゆる分野でさらなる新技術が要請される。それは〈明晰さ〉すなわち〈私=われわれ〉の〈実存〉である〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉を見失った姿であり、〈歴劫修行=トートロジー〉の溝に落ち込み、もがき続ける〈心〉にほかならない。鳩山政権をめぐる与野党の駆け引きは、政治改革の根本である、〈政治家〉の特権は温存したまま、口先で偏頗な〈理想〉を定義し合っているに過ぎない。すでに引退した与野党の元議員たちは、一般国民の何倍、あるいは何十倍もの特権的な年金を受け取っているのだ。年金なしで暮らせる〈人間〉が特権的な年金を受給し、本当に年金を必要としている〈人間〉が年金制度から阻外されている。そこに浮き彫りになっているのは、〈政治=政治家〉の〈無慈悲〉で傲慢な〈心〉である。
  〈政治権力〉が〈定義〉する年金制度〈改革〉は、次から次へと新たな問題を生み出し、矛盾を拡大してきた。今も、混乱した状況は変わらない。これを打開するには、これまで年金制度を支えてきた〈技術〉、すなわち〈制度〉のすべてを根本的に転換する必要がある。年金制度に代わるものとして、充実した高齢者福祉を含め、生活困窮による自殺者や犯罪者を一人も出さない制度をどう構築するのか。これこそ、すべての政治家が取り組むべき最も重要な課題ではないのか。そういう制度を〈定義〉するだけで永遠に先延ばしするのではなく、今、直ちに実行する政党が出現すれば、国民の〈心〉もまた、それに対応して変容する。宗教を基盤にすることを〈定義〉するだけの政治家や政党は、国民を置き去りにしたまま特権にしがみつき、永遠につじつま合わせの〈トートロジー=歴劫修行〉を続けることになるだろう。そこには無慈悲で利己的な〈心〉が浮き彫りにされている。

  学ぶすべは、技能的な活動のために必要な知識の蓄積のなかだけではなく、そういう蓄積のない学習のなかにもある。学習には二つのタイプがある。経験、書物、技能的な活動のなかで使われる教育を通して、膨大な知識を獲得し、蓄積することがひとつ。そして、もうひとつはけっして蓄積などせず、絶対必要なもの以外は何も記録しないようなかたちの学習である。最初のかたちにおいては、頭脳は知識を記録し、蓄積し、それを貯えて、その蓄えから行動を起こす。それが巧妙であろうとなかろうと、である。第二の形態においては、人は完全に自覚しているので、絶対的に必要なものだけを記録し、それ以外のものはいっさい記録しない。そうなったら、精神は蓄積された知識の運動に散らされたり、影響されたりはしない。
  このような学習法、知識の蓄積の仕方においては、技能的なはたらきに必要なものだけを記録することによって、いかなる心理的な反応も記録しないようになる。頭脳は、機能や技能が必要な知識は用いるが、心理的な領域において記録することからは解放されている。頭脳が完全に自覚して、その結果、必要なものだけを記録し不要なものは絶対に記録しないようになる、ということはきわめて困難である。たとえば、誰かがあなたを侮辱する、あるいはあなたにお世辞を言う、誰かがあなたのことをああだこうだと言う。しかしそれを記録することはない。これはとてつもない明晰さを与える。つまり、心理的な意味で〈私〉を、自己という構築物を築き上げることがいっさいないように、記録し、それでいて記録しないということは――。自己という構築物が生じるのは、必要でないあらゆるものを記録するときだけである。つまり自分の名前、自分の経験、自分の意見や結論など自己のエネルギーを強化するものすべてに重要性を与えるときだけである。そしてその自己は、つねに事物を歪めている。

  〈人間〉はどのように〈学習〉するのか。膨大な知識を獲得・蓄積する〈学習〉があり、絶対に必要なもの以外は獲得・蓄積しない〈学習〉がある。昆虫や野鳥に魅せられた子供は、どんな鳥も初めて見るかのように観察する。そういう〈学習〉は、心理的な領域において、〈記録=記憶〉することから解放されている。すべてが新しい世界、未知なるものの探索であり、冒険なのである。いっさいの価値判断を放棄して、〈在りのまま〉の〈実存〉を〈見つめる〉とき、〈生の全体性〉に則った〈力=智慧〉が蘇る。野生の動物たちの巣作りや子育て、季節の変化に対応する移動――。そこに〈生命〉の不思議な律動がある。
 〈人間〉は〈言葉〉を使用することによって、文明・文化を発展させてきた。その反面、人間同士が協調と連帯をもって生きるのに〈必要な学習〉と、それを妨げる〈余剰な学習〉を区別できなくなっている。そのことに〈覚醒〉して、必要なものだけを記憶し、不要なものを記憶しない――。そういうことはできるのだろうか。他者に賞賛されても侮辱されても、心理的に何のこだわりも持たない。それは〈他者とは何か〉を〈在りのまま〉に〈見つめている心〉にほかならない。それはそのまま〈明晰さ〉、すなわち〈生の全体性〉につながる。
 戦争終結や核兵器廃絶のための条件が構築され、それが文書化される。これまで戦争や紛争が終結したのは、すべて〈実存〉が変容したことによって条約が調印されたのであって、条約が調印されたことによって〈実存〉が変容したのではない。核廃絶の調印は何をもたらすのか。見えないところで葛藤が葛藤を呼び、絡み合いながら波紋を広げている。〈計画〉が〈実現=非実現〉することもまた、〈肯定即否定・能動即受動〉の法理に則っている。〈物〉としての計画は実現しても、その〈心〉は予想外のものに変容する。〈物〉としての〈計画〉も変容を余儀なくされる。
 国内における〈繁栄・衰退〉の歴史、国際社会における〈協調・対立〉の歴史は、それを裏づけている。政治改革の〈計画〉には、政治家の〈自己保身〉という〈余剰な学習〉がまとわりつき、核廃絶の〈計画〉には、防衛産業の〈自己保身〉という〈余剰な学習〉がまとわりいている。政治家も評論家もそれを自覚しながら、つじつま合わせの発言をするしかないのである。
  政治家や権力者の歪んだ〈自己〉が膨張し、〈鰯の頭〉を競い合う〈蠅取り瓶〉の中の〈悲喜劇〉――。自由主義社会も社会主義・共産主義社会も、その〈名称=定義〉とは、全く異質のものをはらみつづけてきた。その歪みは国際関係に、どのような波紋を広げていくのか。どんな〈評論=評論家)も、それを言い当てることはできない。〈言葉〉の限界を自覚できない〈人間〉が、〈自分〉が〈掘った穴〉を、少しでも高く売りつけようと競い合う。そんな構図が浮かび上がってくる。

  この学習法は、このような大いなる明晰さを与えてくれる。そして、もしその明晰さなしに技能を大いにはたらかせるなら、それは自惚れを生む。その自惚れが、自分自身、集団、国家、そのいずれと一体化したものであろうと、である。自惚れは明晰さをだいなしにする。明晰さがなければ、慈悲心はありえない。そして慈悲心がないから技能が非常に重要になるのである。明晰さがなければ、叡智の覚醒はありえない。その叡智とはあなたのものでもなく、私のものでもない。それは叡智そのものである。その叡智は自分自身のはたらきをもっていて、それは非機械的なものであり、したがって原因をもたないものである。
 このように見る見方、聞き方、学び方においては、思考の運動はいっさいない。思考は、技能的にはたらく知識を蓄積するために必要なものである。さもなければ、思考はいかなる役割ももっていない。この見方はとてつもない明晰さを生み出す。このような明晰さにおいては、自分が機能する起点となる中心はない。思考が組み立てた中心、すなわち〈私〉〈私のもの〉という中心はない。というのも、そのような中心があるところには、当然その中心の周辺があり、周辺があるところには抵抗があり、恐怖の根本的な原因のひとつである分裂がある。明晰さがなければ、技能は生においてきわめて破壊的なものになる。それが世界中でいま起こっていることである。人間は月へ行ってそこへ自国の旗を立てることはできるけれども、それは明晰さからくるものではない。人間は、科学技術の大発展の結果としての戦争を通して、互いに殺し合いかねない。そのすべては思考の運動からきており、それは明晰さではない。思考は全体的なもの、測りがたいもの、無時間なるもの、永遠なるものを理解することはけっしてできない。

  〈実存〉を〈在りのまま〉に観察する〈心〉に、〈叡智〉が目覚める。〈叡智〉に目覚めないまま、〈技能〉に執着する〈心〉は、〈集団〉や〈国家〉と一体化し、〈無慈悲〉に覆われる。〈権力〉を行使する〈地位〉や〈肩書〉は、人間の等身大の〈心〉を〈機械的〉なものに変容させる。〈死刑〉を要求する検察官や、〈死刑〉を宣告する裁判官の〈心〉は、その典型と言えるだろう。〈人間〉が〈人間〉の〈殺害〉を命令する。組織や集団がはらむ〈人間〉を〈非人間化〉する魔力――。それを何の疑問も抱かずに受け容れている〈われわれ=私〉とは、どういう〈存在〉なのだろうか。
 〈明晰さ〉は〈慈悲心〉となり、〈慈悲心〉は〈明晰さ〉となる。〈技能〉に執着する〈心〉は、〈他者〉を〈目的〉のため〈踏み石〉にする。〈技能〉に執着する大企業や老舗が不況を乗り切ろうとするとき、どのように〈無慈悲〉になるのか――。その実態の一部分(氷山の一角)が、マスコミ報道によって暴露されている。しかし、その〈無慈悲〉がどのように多くの国民を悲惨に陥れようと、その〈罪〉は問われない〈仕組み〉になっている。
 しかし、このように〈思考〉する〈私〉の〈価値判断〉もまた、〈生の分断化〉を増幅するだけなのである。価値観や世界観もまた、〈肯定即否定・能動即受動〉の法理に貫かれており、〈思考〉の〈運動〉によって、〈覚醒〉することはない。〈叡智〉は〈あなた〉のものでも、〈私〉のものでもない。〈叡智〉はそれ自体であって、独自の〈働き〉を持つ。〈叡智〉は〈原因〉を持たない。それは〈叡智〉自体が〈原因〉となり、結果〉となることを意味する。〈時間〉を〈考慮〉することによって〈実現〉することがあり、〈時間〉を〈考慮〉することによって〈実現〉できなくなることがある。〈生の分断化〉に覆われた〈心〉は、それを的確に〈選択〉し、正しく〈位置づける〉ことができない。大量殺戮兵器を使って〈敵〉の絶滅を〈計画〉する集団と、自爆テロによって〈敵〉に報復する集団――。この両者は〈鏡〉と〈映像〉のように酷似している。
 〈中心〉があれば〈周辺〉に抵抗が生まれ、分裂が生じる。それは〈不安〉と〈恐怖〉の根本的な原因となる。これは、オバマ大統領を中心とする〈周辺〉で進行する〈軍産複合体〉の〈実状=利害の葛藤〉を示している。〈言語化=死物化〉した〈提言=計画〉とは異質の〈変容〉が、〈私=われわれ〉の目の届かないところで進展しているのである。その〈変容〉は〈われわれ=私〉と無関係ではない。すべての〈存在〉は〈いま、この一瞬一瞬〉すなわち〈始源の時〉に〈変容〉し続けている。その〈始源の時〉を、どのように〈見つめる〉のか。そこに〈宇宙・人間・生命〉を貫く〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉が収斂し拡散している。 

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『生の全体性Ⅱ』ノート(17)

クリシュナムルティ

       『生の全体性Ⅱ』ノート(17)

                 小幡照雄

 第十七章――中身をもつ意識が終焉するとき、まったく別個のものが現れる――

全体的(ホリスティック)に観察するということは、何かあるものの中身全体を観察する、あるいは聴くということである。ふつう、われわれは自分の快感に従い、条件づけに従い、理想主義的な見地に従い、物事を部分的に見ている。われわれは、つねに物事をばらばらに見ている。政治家はほとんど政治だけにかかわっており、経済学者、科学者、実業家は、一般に一生を通じてそれぞれ独自の関心をもっている。われわれは、ちょうど膨大な水量を秘めた河のような生の運動全体を取り上げたり、観察することは、けっしてないように見える。その河は、汚されることはあるかもしれないが、充分なひろがりを与えられていて、自らを浄化することができる。だからそれと同じ意味で、どんな断片化も、偏向も、幻想もなければ、われわれは生を全体的に取り扱い、はじめから終いまで全面的に流れていくことができる。精神がいかにして自惚れという幻想や、楽で安全なさまざまな型の幻想をつくり出したかを理解することは、少なくとも当分のあいだは、重要である。われわれは、あるものを先入観や前もって考えた信念で見る。そのために、ほんとうに現実的にそれを見ることはけっしてない。
  幻想は、欲望のなかに満足を求めようとすることによって生み出される。満足と法悦(エクスタシー)とはまったく違う。法悦とは、自分自身の外側にいる存在あるいは非在の状態である。それは、経験することをいっさい伴わない歓喜である。経験するやいなや、それは過去の思い出や記憶を伴う自己になり、それが幻想を生み、幻想をつくり出している。法悦はけっして幻想を生み出さない。あなたは法悦にしがみつくことはできない。なぜなら、それは自分自身の外側にあるものだから――。そこには、それを記憶するという問題は起こらない。それを望むという問題は起こらない。それを望むということは、満足したいという欲望であり、それが幻想を生み出すのである。       
  たいていの人たちは、ある種の幻想にとらわれている。存在あるいは非在という幻想、権力、地位などという幻想、つまり、〈私〉という中心から投企された部類(カテゴリー)のものすべてである。幻想とは、限られた結論、偏見、観念を通して感覚的に見ることである

  〈私=われわれ〉は極大なものや極小のものを観察するとき、望遠鏡や顕微鏡を使う。つまり、〈無限大〉のものから〈無限小〉の部分を切り取って観察しているのだ。視覚がとらえる映像をどんなに拡大しても、無限小の部分であることに変わりはない。〈人間〉の六感(六根=眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)には、それぞれに識閾があるため、〈私=われわれ〉が六根(六感=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・蝕覚・統覚)を使って、全体的(ホリスティック)に観察することは不可能なのである。従って、何かあるものの中身全体を観察する、あるいは聴くことができるのかということは、〈物理的〉な問題ではなく〈心理的〉な問題ということになる。
  〈われわれ=私〉は〈心理的〉に、「自分の快感に従い、条件づけに従い、理想主義的な見地に従い、物事を部分的に見ている」のである。しかし、〈人間〉は〈心理的〉にも、〈望遠鏡〉や〈顕微鏡〉を使い慣れていて、〈私=われわれ〉は常に〈全体〉の〈極小部分〉を切り取って、物事をばらばらに見てしまう。文明・文化のあらゆる分野で専門化が進み、〈われわれ=私〉の関心は〈極小部分〉に収斂していく。そのような〈われわれ=私〉に、〈生の運動全体〉を取り上げたり、観察することができるのだろうか。〈満足〉を求める欲望は〈幻想〉を生み出す。〈満足〉と〈法悦〉は、どう違うのか。クリシュナムルティは、〈生〉を全体的に把握し、全面的に生きるためには、まず〈断片化〉や〈偏向〉、〈幻想〉を放棄すべきではないか、と問いかけているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

 諸仏の大道、その究尽(きゅうじん)するところ、透脱(ちょうとつ)なり、現成なり。その透脱といふは、あるいは生(しょう)も生を透脱し、死も死を透脱するなり。このゆゑに、出生死(しゅっしょうじ)あり、入生死(にっしょうじ)あり、ともに究尽の大道なり。捨(しゃ)生死あり、度(ど)生死あり、ともに究尽の大道なり。現成これ生なり、生これ現成なり。その現成のとき、生の全現成にあらずといふことなし、死の全現成にあらずといふことなし。この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ。この機関の現成する正当恁麼時(しょうとういんもじ)、かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず。遍界(へんかい)にあらず、局量(こくりょう)にあらず。長遠(ちょうおん)にあらず、短促(たんそく)にあらず。いまの生はこの機関にあり、この機関はいまの生にあり。生は来にあらず、生は去(こ)にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。
 しづかに思量すべし、いまの生、および生と同生せるところの衆法(しゅほう)は、生とともなりとやせん、生にともならずとやせん。一時一法としても、生にともならざることなし。一事一心としても、生にともならざるなし。生といふは、たとへば人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかひ、われかぢをとれり、われさををさすといへども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正当恁麼時を功夫(くふう)参学すべし。この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし。天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正(しんじんえしょう)、ともに舟の機関なり。尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし。(『正法眼蔵』「全機」)

 諸仏の大道とは、〈釈尊の瞑想〉、すなわち〈成仏=成道〉であり、究極の〈文底=奧底〉は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉である。それを〈究尽〉とも〈透脱〉とも〈現成〉とも言う。「その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」という〈言葉〉は、〈色心不二・久遠即末法〉、すなわち〈いま、ここに=始源の時〉を示している。〈過去〉も〈現在〉も〈未来〉も〈言葉〉だけの存在であり、〈いま、ここに生きる一瞬一瞬〉以外に〈実存〉はないのである。従って〈出生死〉も〈入生死〉も〈捨生死〉も〈度生死〉も〈究尽の大道=諸仏の大道〉となる。〈生〉も全現成であり、〈死〉も全現成であって、何かの部分ではない。
 「この機関、よく生ならしめ、よく死ならしむ」の〈機関〉とは森羅万象の関連(縁起)であり、〈生死の法〉を〈機関〉と言う。「この機関の現成する正当恁麼時」という〈言葉=譬喩〉は、〈始源の時=いま、ここに〉を意味する。「かならずしも大にあらず、かならずしも小にあらず。遍界にあらず、局量にあらず。長遠にあらず、短促にあらず」という〈譬喩=言葉〉は、それが〈時間的〉あるいは〈空間的」な量ではないことを示している。道元は、「しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」と説いている。〈自己〉の既知なる法、〈自己〉の未知なる法、〈自己〉の不可知なる法、そのすべてに支えられて、〈自己=生死〉がある。〈支えられて〉の〈文底〉を開けば、〈自己〉はそのまま〈無量の法〉となる。
  道元は〈生死〉を舟とその舟に乗る人に譬えている。「この正当恁麼時は、舟の世界にあらざることなし」という〈言葉〉は、〈私=われわれ〉の生きる世界全体が〈われわれ=私〉であり、〈私=われわれ〉が〈われわれ=私〉の生きる世界の全体であることを示している。道元が問いかける「天も水も岸も、みな舟の時節となれり、さらに舟にあらざる時節とおなじからず。このゆゑに、生はわが生ぜしむるなり、われをば生のわれならしむるなり。舟にのれるには、身心依正、ともに舟の機関なり。尽大地・尽虚空、ともに舟の機関なり。生なるわれ、われなる生、それかくのごとし」という〈道得=言述=テクスト〉を、それぞれに自分の譬喩で受け止めることが問われているのである。

 幻想にとらわれている精神には、まったく秩序はない。秩序は全体的にしか生じない。われわれは秩序を必要としている。とても小さな部屋のなかでさえ、人はさまざまなものをしかるべき場所に収める。さもなければ、それは無秩序になり、醜くなり、落ち着きがなくなる。秩序はある様式への追従のなかに、あるいはわれわれがすでに過去に確立した慣例への追従のなかにある、と心理的に思っている。が、秩序は心理的にはまったくそれとは別個のものである。秩序が生じるのは明晰さがあるときだけである。明晰さが秩序をもたらすのであって、その逆ではない。秩序を求めてごらん。そうすれば、それは機械的になり、何の明晰さもありえない様式への順応になってしまうだろう。
  秩序とは、日々の生活における調和を意味する。調和は観念ではない。われわれは観念という牢獄にとらわれていて、そのなかには何の調和もない。調和や明晰さとは、物事を全体的に見ること、生を全体的で統一的な運動として観察することを意味する。つまり、私は会社では実業家で、家庭では別の人物である、ということではない。私は芸術家で、まったく不条理で奇妙なこともできる、ということではない。あるいは、エリートと非エリート、労働者と非労働者、知的なものと浪漫的なものというかたちで、生をさまざまな範疇(カテゴリー)に分割したり、ばらばらにしたりする、ということではない。しかしそれがわれわれがふつう生きている生き方なのである。生をひとつの全的(トータル)な運動――そのなかにすべてが含まれていて、善と悪、天国と地獄という分裂がいっさいない全的な運動――として取り扱うことがいかに重要であるかを見ることだ。自分の友人、妻や夫を観察するとき、その人間関係のなかで全体的に見ることができるように、全体的に見ることだ。

  日常生活に潜む〈不安〉や〈恐怖〉の影――。それは〈幻想〉なのか〈真実〉なのか。〈不安〉や〈恐怖〉の影に脅えるとき、〈精神〉は〈混乱〉に陥る。いわゆる全体観に立って物事を処理できなくなる。〈秩序〉とは、ある基準に基づいて、物事を位置づけることと言えるだろう。従って〈秩序〉もまた、〈文上〉から〈文底〉へと、その意味は幾重にも〈両義性〉をはらんでいる。言い換えれば〈秩序〉は〈非秩序〉であり、同じ〈心〉の変化なのである。
  〈私=われわれ〉は、ある〈様式〉や〈慣例〉に従うことが〈秩序〉だと思いこんでいる。クリシュナムルティは、真の〈秩序〉とは〈明晰さ〉であり、それは求めて得られるものではないと言う。〈明晰さ〉が〈秩序〉をもたらすのである。まず日常的に物事を全体的に見る。その〈心〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉――。それが、生を全体的で統一的な運動として観察することになる。クリシュナムルティは、「生をひとつの全的(トータル)な運動――そのなかにすべてが含まれていて、善と悪、天国と地獄という分裂がいっさいない全的な運動――として取り扱うことがいかに重要であるかを見ることだ」と問いかけている。それはいっさいの〈価値観〉を放棄し、〈善悪不二・因果倶時〉という〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉に〈覚醒〉することにほかならない。道元は次のように〈譬喩〉を展開している。

釈迦牟尼仏、告金剛蔵菩薩言、譬如動目能揺湛水、又如定眼猶廻転火、雲駛月運、舟行岸移、亦復如是。《釈迦牟尼仏、金剛蔵菩薩に告げて言(のたまわ)く、譬へば動目の能く湛水を揺がすが如く、又、定眼のなお火を廻転(えてん)せしむるが如し、雲駛(くもはし)れば月運(つきめぐ)り、舟行けば岸移る、亦復(またまた)是の如し。》
 いま仏演説の雲駛月運(うんしげつうん)、舟行岸移(せんこうがんい)、あきらめ参究すべし。倉卒(そうそつ)に学すべからず。凡情に順ずべからず。しかあるに、この仏説を仏説のごとく見聞するものまれなり。もしよく仏説のごとく学習するといふは、円覚かならずしも身心にあらず、菩提涅槃にあらず。菩提涅槃からなずしも円覚にあらず、身心にあらざるなり。
 いま如来道の雲駛月運(うんしげつうん)、舟行岸移(せんこうがんい)は、雲駛のとき、月運なり、舟行のとき、岸移なり。いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終に非ず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止(きし)にあらず、流転(るてん)にあらず。たとひひとの行(こう)を学すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらざるなり。起止を挙揚(こよう)して人の行に比量することなかれ。雲の駛(し)も月の運も、舟の行も岸の移も、みなかくのごとし。おろかに少量の見に局量(こくりょう)することなかれ。雲の駛(し)は東西南北をとはず、月の運は昼夜古今に休息なき宗旨(そうし)、わすれざるべし。舟の行および岸の移、ともに三世にかかはれず、よく三世を使用するものなり。このゆゑに、直至如今飽不飢(じきしにょこんぽうふき)なり。しかあるを、愚人おもはくは、くものはしるによりて、うごかざる月をうごくとみる、舟のゆくによりて、うつらざる岸をうつるとみると見解(けんげ)せり。もし愚人のいふごとくならんは、いかでか如来の道ならん。仏法の宗旨、いまだ人天の少量にあらず。ただ不可量なりといへども、随機の修行あるのみなり。たれか舟岸を再三撈?(さいさんろうろく)せざらん、たれか雲月を急著眼看(きゅうじゃげんかん)せざらん。(『正法眼蔵』「都機」)

  〈如来道〉とは、〈如来=仏〉が説く〈言葉=譬喩〉であり、〈仏=如来〉が説く〈譬喩=言葉〉は〈仏〉なのである。 その「雲駛月運(うんしげつうん)、舟行岸移(せんこうがんい)」という〈言葉〉を、どうとらえるのか。「倉卒(そうそつ)に学すべからず。凡情に順ずべからず」という〈言説〉は、事象の〈文底=奧底〉への探求、すなわち〈瞑想〉を意味する。どのように「仏説の如く見聞し、学習する」のか。〈円覚〉と〈身心〉、〈菩提涅槃〉が、それぞれ別個に存在するのではない。同じ色心不二なる〈心〉の変化なのである。それを〈無常〉と言う。〈無常〉が〈身心〉となり、〈円覚〉となり、〈菩提涅槃〉となる。
 「雲駛月運、舟行岸移」という〈譬喩〉は、〈自己〉の生きる〈世界〉の全体が、そのまま〈自己〉であることを意味する。それは〈宇宙即我・我即宇宙〉という〈釈尊〉の〈悟り=譬喩〉を〈譬喩〉として受け止める〈心〉を示している。その〈心〉を道元は、「雲駛のとき、月運なり、舟行のとき、岸移なり。いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終に非ず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止(きし)にあらず、流転(るてん)にあらず」と展開しているのである。
 「おろかに少量の見に局量(こくりょう)する愚人」とは、〈少量の見=の分断化〉にとらわれて、〈過去化=死物化=脱益化〉に執着する〈心〉である。そのような〈心〉は、雲が流れるから流れない月が流れるように見え、舟が移動するから移動しない岸が移動するように見えるのだ、と思い込んでいる。いずれも〈仏法〉が〈事本物迹〉の視点で説く〈譬喩〉を、〈物本事迹〉の視点で〈実体化〉するという〈誤謬〉を犯しているのである。 「直至如今飽不飢(じきしにょこんぽうふき)」とは、〈いま、この一瞬一瞬〉に、すべてが過不足なく満ち足りていることを意味する。〈われわれ=私〉は、そこに〈無秩序〉と〈葛藤〉をもたらす〈思考〉の〈運動〉を続けているのだ。欲望は果てしなく膨らんでいく。そこにどのような政治・経済・社会が現出しているのか。〈戦争と平和〉の問題も同様である。〈敵〉も〈味方〉も〈戦争と平和〉の〈定義〉をするだけで、〈和解〉と〈平和〉へ一歩も踏み出すことができない。「再三撈?(さいさんろうろく)・急著眼看(きゅうじゃげんかん)」とは、〈在りのまま〉の〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことを言う。〈クリシュナムルティ〉も〈釈尊〉も〈道元〉も〈日蓮〉も、そこに〈下種益=新生〉を吹き込む〈方法的原理〉を、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉として提示しているのである。

  全体的に観察するとき、断片化やその観察における指向はまったくない、というのも、指向があるときには、歪曲があるからである。完全な自由があるときはじめて、あなたは全体的に観察することができる。そしてその観察においては、いかなる満足もなく、したがっていかなる幻想もない。
 そこで生を、ばらばらではない、全体的で、継続的に流れる全的な運動として、観察してごらん。「継続的に」と言っても、それは時間的な意味においてではない。ふつう、「継続的」という言葉は時間をその裏にふくんでいる。しかし、時間的なものではない継続性も存在する。われわれは、過去と未来のあいだの関係を分断することなく、ひとつの継続性として考える。それが、一般に継続性という言葉でわれわれが理解しているものであり、それは時間的なものである。時間は運動である。その終わりに達成されるべき理想をもって、幾歳月をかけていく時間的距離である。時間とは思考を意味している。思考は量的な運動、時間の運動である。しかし、継続性――もしこの言葉を使うことができるならばだが、それはおそらくあまり正しいものではない――、原因が結果となり、今度はその結果が未来となるような、過去に関連した一連の現象ではないような継続性があるだろうか? あらゆるものの終焉、終息を伴う存在の状態があるだろうか?
 われわれは、生を、時間のなかで測られる運動、死に帰する運動として考えている。その地点までを、われわれは継続性と呼んでいる。しかし人は、時間のものではない運動、すなわち現在を通過し、未来を修正して継続していく、過去の何かの記憶ではない運動を観察する。そこには、起こりつつあるものすべてに訣別するような精神の状態がある。起こるものすべては、入ってきて、流れ出る。いっさいとどまることなく、つねに流れ出る。そのような精神の状態には、独自の美的感覚があり、時間的なものではない〈継続性〉がある。

  〈私=われわれ〉は過去を振り返るとき、〈自分〉が〈今〉、〈ここに〉、〈このように〉存在しているということに不思議さを感じる。〈自分〉の過去を全体的に観察するとは、どういうことなのか。クリシュナムルティは、〈断片化〉や〈指向=思考〉がないとき、〈われわれ=私〉は全体的に観察しているのだと言う。私は二歳か三歳のころ、家の中で一人で何も意味の無いことを叫んでいた。大きな声を出すことが楽しかったのだ。しかし、それを思い出そうとすれば、そこに何らかの〈指向=思考〉が介入してくる。〈思考=思考〉は〈在りのまま〉を歪曲する。〈楽しかった〉という〈記憶〉――。それを全体的に観察する、すなわち〈在りのまま〉に〈見つめる〉には、〈何〉が必要なのだろうか。クリシュナムルティが問いかける「いかなる満足もなく、したがっていかなる幻想もない」観察とは何なのか。クリシュナムルティの〈言葉〉をやさしく解説しても、〈言葉〉の数が増えるだけで、〈私=われわれ〉は何か分かったような気がするだけで、実は何も分かっていないことになる。〈歴劫修行=トートロジー〉という〈虚構の壁〉の前で、行きつ戻りつしているだけなのである。その〈虚構の壁〉についても、〈私=われわれ〉は何かの部分と〈思考〉するが、実は〈われわれ=私〉自体が、〈虚構の壁〉なのである。
  クリシュナムルティは、「生を全体的で、継続的に流れる全的な運動として、観察する」ことを提起している。そして「継続的に」という〈言葉〉は、〈時間的〉ではない〈継続性〉なのだと言う。それは原因が結果となり、その結果が〈未来〉となるという〈過去〉に関連した一連の現象ではない〈継続性〉である。ここで  クリシュナムルティが問いかけている〈時間的な継続性〉と〈非時間的な継続性〉は、どう違うのだろうか。〈時間的な継続性〉とは〈因果異時=直線的・並列的〉な視点・世界観であり、〈非時間的な継続性〉とは〈因果倶時=立体放射状的・曼荼羅的〉な視点・世界観である。〈因果異時=直線的・並列的〉な世界観・視点は〈肯定対否定・能動対受動〉となり、〈因果倶時=立体放射状的・曼荼羅的〉な世界観・視点は〈肯定即否定・能動即受動〉となる。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

  大陽山楷(たいようざんかい)和尚、示衆(じしゅ)に云く、青山常運歩(せいざんじょううんぽ)、石女夜生児(せきじょやしょうじ)。
 山はそなはるべき功徳の虧闕(きけつ)することなし。このゆへに常安住(じょうあんじゅう)なり、常運歩(じょううんぽ)なり。その運歩の功徳、まさに審細に参学すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆへに、人間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す。これその得本なり。常運歩の示衆を究?(きゅうはん)すべし。運歩のゆへに常なり。青山の運歩は、其疾如風(ごしつにょふう)よりもすみやかなれども、山中人(さんちゅうにん)は不覚不知なり。山中とは、世界裏の花開(けかい)なり。山外人(さんげにん)は不覚不知なり。山をみる眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、這箇道理(しゃこどうり)なり。もし山の運歩を疑著(ぎじゃ)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。
 青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著(ぎじゃ)せんこと、うべからず。いく法界を量局(りょうこく)として、青山を照鑒(しょうかん)すべしとしらず。青山の運歩および自己の運歩、あきらかに検点すべきなり。退歩歩退、ともに検点あるべし。未朕兆(みちんちょう)の正当時、および空王那畔(くうおうなはん)より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、検点すべし。(『正法眼蔵』「山水経」)

  法を説く〈大陽山楷和尚〉も、その法を聞く〈衆生〉も、この〈道得=テクスト〉を読み〈己心〉の〈師弟〉となる。〈青山常運歩〉も〈石女夜生児〉も〈事本物迹〉の〈視点〉でとらえた〈世界〉である。〈青山=石女〉は〈中諦〉、〈常=夜〉は〈空諦〉、〈運歩=生児〉は〈仮諦〉となる。〈石女夜生児〉も〈青山常運歩〉も、〈三諦円融〉の法理、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。
 「山はそなはるべき功徳の虧闕(きけつ)することなし」という〈言葉〉は、その〈青山〉がすべての〈功徳〉を備え、何の余剰も不足もないことを意味する。〈山の功徳〉を〈常安住〉とも〈常運歩〉とも言うのである。「その運歩の功徳、まさに審細に参学すべし」とは、そのさらなる〈文底〉を〈われわれ=私〉に問いかける〈言葉〉である。〈文上〉すなわち〈物本事迹〉の視点で見る〈運歩〉と、〈文底〉すなわち〈事本物迹〉の視点で見る〈運歩〉は同じなのか違うのか。違うとすればどう違うのか、〈参究〉することが求められているのだ。
  〈人間〉が生きる一瞬一瞬において、〈生きる人〉と〈生きる場〉は、別個のものではない。〈山中人〉も〈山外人〉も、〈自己〉と〈生きる場〉を分離して見ている。それは〈生の分断化〉にとらわれた〈心〉にほかならない。〈運歩〉は〈無常〉であり、〈生死〉であり、〈生・老・病・死〉であり、〈生・住・異・滅〉である。「山中とは、世界裏の花開なり」という〈言葉〉は、〈花開〉がそのまま〈世界起〉であり、〈春到〉であることを示している。この法理(這個道理)を〈不覚不知〉、〈不見不聞〉とは、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉に〈覚醒〉できない〈心〉である。「いく法界を量局(りょうこく)として、青山を照鑒(しょうかん)すべし」という〈言葉〉は、〈私=われわれ〉にさらなる〈文底への〈参学〉を求めている。「未朕兆の正当時、および空王那畔」の〈未朕兆〉も〈正当時〉も〈空王那畔〉も幻想の〈過去〉ではなく、〈いま、ここに〉に現成する〈一瞬一瞬=始源の時〉を示している。
  クリシュナムルティが問いかける「そこには、起こりつつあるものすべてに訣別するような精神の状態がある。起こるものすべては、入ってきて、流れ出る。いっさいとどまることなく、つねに流れ出る。そのような精神の状態には、独自の美的感覚があり、時間的なものではない〈継続性〉がある」という〈言葉=譬喩〉は、道元が展開する〈譬喩〉と響き合い、照らし合っている。

 そこで死、すなわち完全なる終焉の真実は何か? 霊魂絶滅(悪人の魂は死後必滅するという信仰)や何かがあるかもしれないが、それは歪曲や幻想を生み出そうとする欲望である。だからわれわれはそれを断ち切っている。
 人は終焉があるときはじめて、その真実を見出すことができる。あなたがもっているものすべてに対する終焉、執着に対する終焉、一日かけて終わらせるのではなく、いま完全にそれを終わらせること――。その完全なる終焉を、われわれは〈死〉と呼ぶ。そして、完全なる終焉があるときには、何か新しいものが誕生する。
 恐怖は、重荷、それもひどい重荷である。そしてその重荷を完全に取り除くとき、新しい何かが起こる。しかし人は終焉を恐れている。人生の終わりにある終焉か、さもなければ現在の終焉かのいずれかを――。
 空しいものを終わらせることだ。なぜなら、終焉がなければはじまりなどないからである。われわれは、けっして終わることのないこの継続性にとらわれている。全的で、完全で、全体的な終焉があるとき、まったく新しい何かが始まる。それはあなたが想像だにできないものであり、まったく次元の違うものである。
 死の真実を見出すためには、自分の意識の中身の終焉がなければならない。そうなったら、「私は誰か」、「私は何か」を問うことはけっしてない。人は、中身をもつ意識である。中身をもつ意識が終焉するとき、そこにはまったく別個のもの、想像されないものが現れる。人間はその活動において不死性を求めてきた。ある人は本を書き、その本のなかに作家としての自分の不死性がある。偉大な画家は絵を描き、その絵がその人間の不死性になる。――そういうことはすべて終わらなければならない。だが芸術家はひとりもそうしようとはしない。
 人間はそれぞれ全人類の代表である。そして意識のなかでその変化が起こるとき、人は人類の意識のなかに変化を引き起こす。〈死〉とは、人がいま知っているその意識の終焉である。

  〈死んで戻ってきた〉という〈言葉=思考〉は矛盾している。それは〈死んだ〉のではなく、〈生きていた〉のである。従って〈死〉は〈語ること〉も〈伝えること〉もできない〈体験〉ということになる。その〈死〉について〈真実〉を把握するとは、どういうことなのだろうか。〈私=われわれ〉は〈生〉について〈知っている〉と思っている。では、〈われわれ=私〉は〈自分〉が〈生きている〉ことについて、その〈真実〉を語れるだろうか。〈人間〉は〈死〉の〈真実〉を〈知らない〉だけでなく、〈生〉の〈真実〉も〈知らない〉のである。
  〈自分〉が持つものに対する執着がすべて終焉する――。それが〈死〉なのか。それを〈時間〉をかけて終焉させるのではなく、いま完全に終焉させる。終焉させるとは、終焉させられることでもある。それは〈能動即受動〉の法理をはらんでいる。その完全な終焉を〈死〉と呼ぶのだ、とクリシュナムルティは言う。その〈死〉があることによって、〈人間〉は〈死=生〉、〈生死不二〉の真実を見出すことができる。そして〈終焉〉は新しいものの誕生、すなわち〈始源〉となる。〈終焉〉がなければ〈始源〉はない。〈始源〉は〈終焉〉をはらみ、〈終焉〉は〈始源〉をはらむ。〈始源〉は〈終焉〉であり、〈終焉〉は〈始源〉なのである。
  〈人間〉は〈死〉に対して〈不安・恐怖〉の念を抱く。〈死〉に対する〈恐怖・不安〉は〈生〉に対する〈不安・恐怖〉でもある。〈釈尊=仏法〉は〈死の真実〉即〈生の真実〉、すなわち〈生死不二〉の法理を把握した。それを〈覚醒〉とも〈成道〉とも言う。クリシュナムルティは、「死の真実を見出すためには、自分の意識の中身の終焉がなければならない」と説いている。〈自分〉の〈意識〉の中身とは何なのか。それは〈生の分断化〉に閉ざされ、〈過去性・死物化〉した〈他者性の権威〉に執着する〈思考〉の〈運動〉にほかならない。その〈意識〉の〈終焉〉――。そのための〈方法的原理〉こそ、クリシュナムルティが提起する〈瞑想〉であり、日蓮が確立した〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉であり、道元が説く〈只管打坐〉なのである。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

園悟(えんご)禅師克勤(こくごん)和尚云く、生也全機現、死也全機現。
 この道取、あきらめ参究すべし。参究すといふは、生也全機現の道理、はじめをはりにかかはれず、尽大地・尽虚空なりといへども、生也全機現をあひ?礙せざるのみにあらず、死也全機現をも?礙せざるなり。死也全機現のとき、尽大地・尽虚空なりといへども、死也全機現をあひ?礙せざるのみにあらず、生也全機現をも?礙せざるなり。このゆゑに、生は死を?礙せず、死は生を?礙せざるなり。尽大地・尽虚空、ともに生にもあり、死にもあり。しかあれども、一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり。一にあらざれども異にあらず、異にあらざれども即にあらず、即にあらざれども多にあらず。このゆゑに、生にも全機現の衆法あり、死にも全起源の衆法あり、生にあらず、死にあらざるにも全機現あり。全機現に生あり死あり。このゆゑに、生死の全機は、壮士の臂を屈伸するがごとくにもあるべし。女人夜間背摸枕子にてもあるべし。これに許多の神通光明ありて現成するなり。正当現成のときは、現成に全機せらるるによりて、現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり。しかあれども、この現成よりさきは、さきの全機現なり。さきの全機現ありといへども、いまの全機現を?礙せざるなり。このゆゑに、しかのごとくの見解、きほひ現成するなり。『正法眼蔵』「全機」)

  「園悟禅師克勤」とは、この〈テクスト〉を読む〈己心〉に開く〈仏法=釈尊〉である。〈釈尊=仏法〉は〈生也全機現・死也全機現〉と説いている。〈生〉は〈全機〉の現成であり、〈死〉もまた〈全機〉の現成なのである。〈全機〉とは〈何〉か。それはすべての〈法理〉を意味する。〈機〉は機関、すなわち森羅万象の関連性であり、それは意味(心法)と力(色法)が、無限立体放射状に響き合い照らし合うマンダラとなる。〈全機現〉とは〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉にほかならない。それが〈収斂即拡散〉することによって〈森羅万象〉が現成し、〈森羅万象〉が〈拡散即収斂〉することによって〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉が現成する。
 道元はさらに、「尽大地・尽虚空なりといへども、生也全機現をあひ?礙せざるのみにあらず、死也全機現をも?礙せざるなり。死也全機現のとき、尽大地・尽虚空なりといへども、死也全機現をあひ?礙せざるのみにあらず、生也全機現をも?礙せざるなり」と説いている。ここに展開されているのは、〈肯定即否定・能動即受動〉の法理である。「?礙」という〈言葉〉は「重なる」とか「妨げる」という意味を持つ。従って、この〈テクスト=言述〉は、〈尽大地・尽虚空〉がそのまま〈生也全機現〉となり、〈死也全機現〉となり、〈死也全機現〉がそのまま〈生也全機現〉となり、〈尽虚空・尽大地〉となることを示している。
 それに続く「しかあれども、一枚の尽大地、一枚の尽虚空を、生にも全機し、死にも全機するにはあらざるなり」という〈言葉〉は、〈尽大地〉と〈尽虚空〉、〈生〉と〈死〉は〈主体〉と〈属性〉、〈主語〉と〈述語〉の関係ではなく、尽大地と言えばすべて尽大地、尽虚空と言えばすべて尽虚空、生と言えばすべて生、死と言えばすべて死なのである。そこに示されているのは、〈色心不二・自他不二〉、〈肯定即否定〉、〈能動即受動〉の法理であり、すべてが〈久遠即末法〉すなわち〈いま、ここに〉脈動する〈実存〉にほかならない。「生死の全機は、壮士の臂を屈伸するがごとくにもあるべし」とは、〈私=われわれ〉が日常生活で身体を動かすとき、そこに〈生死の全機〉すなわち〈無量の法=妙法の曼荼羅〉が脈動していることを意味する。「女人夜間背摸枕子」とは、母の子に献身する〈心〉である。「これに許多の神通光明ありて現成するなり」と道元は説いている。
  「正当現成のとき」とは、〈色心不二・久遠即末法〉すなわち〈始源の時=終焉の時〉である。そのことを道元は、「現成に全機せらるるによりて、現成よりさきに現成あらざりつると見解するなり。しかあれども、この現成よりさきは、さきの全機現なり。さきの全機現ありといへども、いまの全機現を?礙せざるなり」と説いているのだ。
 クリシュナムルティもまた、次のように〈私=われわれ〉に呼びかけている。「人間はそれぞれ全人類の代表である。そして意識のなかでその変化が起こるとき、人は人類の意識のなかに変化を引き起こす。〈死〉とは、人がいま知っているその意識の終焉である」そこに示されているのは、〈私=われわれ〉の〈意識〉はそのまま〈人類〉の〈意識〉であり、〈人類〉の〈意識〉はそのまま〈われわれ=私〉の〈意識〉である、という〈釈尊=仏法〉の〈究極の法理〉である。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(16)

クリシュナムルティ

        『生の全体性Ⅱ』ノート(16)

                  小幡照雄

 第十六章――観察者と観察されるものとのあいだの分裂は、葛藤のもとである――

 学校とか大学に入ると、人は膨大な情報を知識として貯え、その知識に従って、自分や社会のために有益になるように行動する。だが、単純に、直接的に行動することはできない。もう一つの種類の学習は、これまでの知識というい付属物なしに観察すること、何かを生まれてはじめて、新たに見るかのように見ることである。――これに対して、人は、習慣、伝統、あらゆる種類の順応主義にあまりにも隷属しているのであまり慣れていない。もし物事を新たに観察するなら、そのときには記憶は培われない。これは、観察を通して記憶を貯えていて、そのために次にはその記憶の型式(パターン)を通して観察するからもはや新しい観察はしていない、といった観察ではない。
 たえず空っぽである精神、たえず饒舌ではない精神をもつことは重要である。空っぽの精神にとっては、学習の新しい種が芽を出すことができる。それは知識を育て、その知識のもとに行動するのとはまったく違うものである。
 大空を観察してごらん。山々、樹々、木漏れ日の美しさを観察してごらん。その観察は、記憶として貯えられたなら、次の新鮮な観察を妨げるだろう。自分の妻や友人を観察するとき、その特別な人間関係のなかで起こった出来事の記憶という干渉なしに観察することができるだろうか? いままでの知識という干渉なしに、他者を観察したり見守ったりできたら、人はこれまでにない多くのことを学ぶことになる。
 最も重要なことは、観察することである。観察し、観察者と観察されるものとのあいだに区別をつけないことである。たいていの場合、観察者と、〈あるがまま〉のものである観察されるものとのあいだには区別がある。その観察者とは、じつは記憶という過去の経験の総和である。だから、過去が観察しているということになる。観察者と観察されるものとのあいだの分裂は、葛藤のもとである。

  〈私=われわれ〉は、保育園から幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学、大学院へと、生きる場の葛藤の中で〈選択する=選択させられる〉修学コースをたどる。その修学コースは、常にその時代の〈権力者〉が〈思考=選択〉したものとなる。それは〈誰〉でもない〈私〉による〈選択〉にほかならない。〈われわれ=私〉は〈いま、ここに〉、〈自分〉の〈実存〉を開きつづけているからだ。クリシュナムルティは、その〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見詰める〉ことを、〈私=われわれ〉に語りかける。
  〈われわれ=私〉は学校や大学で、膨大な情報を知識として学び、その〈記憶〉に従って〈思考=判断〉し、〈行動〉を選択する。クリシュナムルティは、その〈選択〉を誤るなと言っているのではない。〈思考〉はすべて、〈分断化・過去化・脱益化〉を免れず、〈選択〉したものがどのように展開するのか、誰も〈予測〉することは不可能だからである。クリシュナムルティは、「空っぽである精神、たえず饒舌ではない精神をもつ」ことが重要なのだと言う。あらゆる種類の順応主義を放棄して、何かを生まれて初めて見るかのように見る――。〈自分〉の生きる場の美しさに感動する〈心〉とは〈何〉なのか。
 〈私=われわれ〉が〈思考〉する友情と連帯も、両義性をはらんでいる。〈友情と連帯〉と〈憎悪と離反〉は、〈善悪不二・肯定即否定〉の〈法理〉そのものだからである。〈観察者〉と〈観察されるもの〉との分裂は、葛藤の波紋を広げる。クリシュナムルティは、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見詰め〉、そこに〈人間〉の友情と連帯を開く、すなわち〈下種益〉の生命を吹き込むには〈何〉が必要なのか、と問いかけているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

国師道、諸聖得聞。いはく、無情説法の会下には、諸聖立地聴するなり。諸聖と無情を、聞と、聞を現成し、説を現成せしむ。無情すでに諸聖のために説法す、聖なりや、凡なりや。あるいは無情説法の儀をあきらめをはりなば、諸聖の所聞かくのごとくありと体達すべし。すでに体達することをえては、聖者の境界をはかりしるべし。さらに超凡越聖の通霄路(つうしょうろ)の行履(あんり)を参学すべし。
 国師いはく、我不聞。この道も、容易会なりと擬することなかれ。超凡越聖にして不聞なりや、擘破凡聖?窟(びゃくはぼんしょうかくつ)のゆゑに不聞なりや。恁麼功夫(いんもくふう)して、道取を現成せしむべし。
 国師いはく、賴我不聞(らいがふもん)、我若聞則(がにゃくもんそく)、斉於諸聖(せいおしょしょう)。この挙示(こじ)、これ一道両道にあらず。賴我は凡聖にあらず、賴我は仏祖なるべきか。仏祖は超凡越聖するゆゑに、諸聖の所聞には一斉ならざるべし。
 国師道の汝即不聞我説法の理道を修理(しゅり)して、諸仏諸聖の菩提を料理すべきなり。その宗旨は、いはゆる、無情説法、諸聖得聞(とくもん)、国師説法、這僧(しゃそう)得聞なり。この道理を、参学功夫の日深月久とすべし。しばらく国師に問著すべし、衆生聞後はとはず、衆生正当聞説法時、如何。(『正法眼蔵』「無法説法」)

  「国師道」とは、〈己心〉における〈師弟〉の出会いである。「無情説法」とは森羅万象が法華経を説くことであり、「立地聴」とは〈釈尊〉が法華経の真髄、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を悟り、それを説くことである。「諸聖得聞」とは、〈無情説法の法座〉において、〈諸聖=釈尊〉が〈立地聴〉すること、すなわち、〈只管打坐=瞑想〉を意味する。〈瞑想〉がそのまま〈悟り〉となり、〈悟り〉がそのまま〈瞑想〉となることを修証不二と言う。そこに示されているのは、〈説く者〉は〈説かれるもの〉となり、〈説かれるもの〉は〈説く者〉となる、という〈因果倶時=能動即受動〉の〈譬喩=法理〉である。
 この〈譬喩〉はさらに、「諸聖と無情を、聞と、聞を現成し、説を現成せしむ。無情すでに諸聖のために説法す、聖なりや、凡なりや。あるいは無情説法の儀をあきらめをはりなば、諸聖の所聞かくのごとくありと体達すべし」と展開されている。「超凡越聖の通霄路の行履を参学」とは、一切の価値観を放棄すること、それを「体達し、参学すべし」とは自他不二なる〈自己〉が「立地聴」することを意味している、クリシュナムルティも、「最も重要なことは、観察することである。観察し、観察者と観察されるものとのあいだに区別をつけないことである」と説いている。
 〈釈尊〉が〈立地聴〉する〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉は、〈言語〉や〈思索〉によって〈悟る〉ことのできない〈法理〉なのである。「賴我不聞、我若聞則、斉於諸聖」という〈言葉〉は、そのことを示している。道元の「この挙示、これ一道両道にあらず。賴我は凡聖にあらず、賴我は仏祖なるべきか。仏祖は超凡越聖するゆゑに、諸聖の所聞には一斉ならざるべし」という〈言葉〉の文底を、それぞれに〈自分〉の〈譬喩〉で受け止めることが、〈私=われわれ〉に問われているのだ。
 道元は次のように問いかける。「国師道の汝即不聞我説法の理道を修理(しゅり)して、諸仏諸聖の菩提を料理すべきなり。その宗旨は、いはゆる、無情説法、諸聖得聞(とくもん)、国師説法、這僧(しゃそう)得聞なり。この道理を、参学功夫の日深月久とすべし。しばらく国師に問著すべし、衆生聞後はとはず、衆生正当聞説法時、如何」――。この文の末尾にある「衆生正当聞説時とは、いかなるものか」という問いは、〈私=われわれ〉の〈実存〉、すなわち〈いまの一瞬一瞬=始源の時〉を示している。

 心理的に、なぜこのような葛藤があるのだろうか? 古代から社会的にも宗教的にも、善と悪の区別があった。いったいほんとうにこのような区別があるのだろうか、それとも、あるのはただそういう相反性のない〈あるがまま〉だけなのだろうか? たとえば怒りがこみ上げてきたとしよう。それは事実である、それは〈あるがまま〉である。しかし、「私は怒らないようにしよう」というのはひとつの観念であって、事実ではない。
 人はこの区別をけっして問題にせず、それを受け容れている。なぜなら、新しいものを何も求めないような習慣に慣らされているからである。しかしもっと深い要因がある。つまり、観察する者と観察されるもののあいだの分裂である。たとえば山を見るとき、人はそれを観察者として見つめ、それを山と呼ぶ。言葉は当の実体ではない。山という言葉は山ではないが、自分にとってはその言葉がとても重要なのである。人が見るとき、即座に「あれは山だ」という反応が出てくる。さて、言葉抜きで、山と呼ばれる当のものを見ることができるだろうか? というのも、言葉こそ物事を区別する張本人だからである。「私の妻」と言うとき、「私の」という言葉が区別を生み出す。言葉、名前は思考の一部である。男や女、山や木、何であれそういうものを見ると、区別が起こり、そのとき思考、名前、記憶が生まれる。
 観察者なしに観察することができるだろうか? 過去から生じたあらゆる記憶、経験、反作用などの精髄(エッセンス)である観察者なしに――? もし言葉や過去の記憶なしに何かを見つめたら、そのときには観察者なしに見つめている。それを実行するとき、そこにあるのはただ観察されるものだけであり、心理的には、区別や葛藤はいっさいない。自分の妻や親友を、名前、言葉、そしてその人間関係のなかで集めてきたあらゆる体験なしに、見つめることがでるのだろうか。そのように見るときはじめてその人を見つめているのである。

  〈人間〉はいつ、なぜ物事を〈善〉と〈悪〉に分けるようになったのだろうか。それは誰にも分からない。道元は〈人間〉の〈思考〉や〈判断〉は、すべて〈説似一物即不中〉なのだと説いている。〈言葉〉は無限のものを捨象することによって、相対的に無限小へと収斂する働きを持つ。言葉は隠れた真実を言い当たるのではなく、混沌を分節することによって、新しい意味を生み出すのである。従って、〈言葉〉が増えれば増えるほど、混沌を分節する〈言葉〉と〈言葉〉の狭間に〈混沌〉の数が幾何級数的に増えつづけることになる。それはクリシュナムルティが指摘する〈生の分断化〉の一面にほかならない。従って言語学も文上で読む限り、〈生の分断化〉を免れないのである。
  〈人間〉は古代から社会的にも宗教的にも、善と悪が区別されてきた。しかし、それは〈言葉〉による恣意的な区別ではないのか。〈善〉と〈悪〉は〈時代〉ごとに、そして〈国家〉、あるいは〈民族〉ごとに異なっている。〈権力者〉に〈不安〉と〈恐怖〉を与えるとき、その原因とみなされたものは、すべて〈悪〉として処断されてきたのだ。そして時代が変わると、処断していたものが、逆に処断されることになる。人類の〈革命〉の歴史は、その繰り返しなのではないか。
 地球上に〈共産主義国家〉や〈社会主義国家〉が多数誕生したが、〈共産主義革命〉や〈社会主義革命〉が達成されたのだろうか。それらの諸国は、マルクスが掲げた革命の〈理想〉とは全く異質の〈心〉と〈形〉を〈構築〉しているのだ。マルクス主義は、〈私は怒らない用にしよう〉と言うのと同様に、単なる〈観念〉だったのである。〈私=われわれ〉は、このような〈観念〉による〈区別〉を問題にすることなく、すべて受け容れてしまっている。その〈心〉は過去に縛られ、〈脱益化〉し、〈死物化〉している。新しい〈下種化〉の息吹はどこにも見当たらない。
 クリシュナムルティは、山という〈言葉〉を使わずに、山そのものを見ることができるのか、と〈われわれ=私〉に問いかけている。〈言葉〉を使って何かを見るとき、〈思考、名前、記憶〉が生まれ、〈観念〉による区別が起こる。心理的な区別や葛藤をすべて放棄し、森羅万象を〈在りのまま〉に〈見詰める〉――。それはどういうことなのか。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

  しるべし、諸悪莫作ときこゆる、これ仏正法なり。この諸悪つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作してかくのごとくあらしむるにあらず。菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提也。無上菩提の説著となりて問著せらるるに転ぜられて、諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す。この現成は、尽地尽界、人時尽法を量として現成するなり。その量は莫作を量とせり。
 正当恁麼時の正当恁麼人は、諸悪つくりぬべきところに住し往来し、諸悪つくりぬべき縁に対し、諸悪つくる友にまじはるににたりといへども、諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量見成するゆゑに。諸悪みづから諸悪と道著せず、諸悪にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正当恁麼時、すなわち悪の人ををかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる。(『正法眼蔵』「諸悪莫作」)

 
 〈仏正法〉とは何か。〈仏正法〉は〈諸悪莫作〉であり、〈諸悪莫作〉は〈仏正法〉である。従って〈諸悪莫作〉は〈正法眼蔵=法華経文底の妙法〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉となる。〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉を〈諸悪莫作〉というのである。「凡夫のはじめて造作してかくのごとくあらしむるにあらず」という〈言葉〉は、それが〈いま、ここに=始源の時〉に常住していることを意味する。それを〈正当恁麼時の正当恁麼人〉と道元は呼んでいるのだ。
  「菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提也」という〈道得=テクスト〉は、〈無上菩提=成道〉を説く〈釈尊〉が〈成道=無上菩提〉を聞く〈弟子〉となり、〈無上菩提=成道〉を聞く〈弟子〉が〈成道=無上菩提〉を説く〈釈尊〉となることを意味する。ここに示されているのは、〈因果倶時=能動即受動〉の法理である。「無上菩提の説著となりて問著せらるるに転ぜられて、諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す」という〈テクスト=道得〉は、一切の価値観を放棄して、〈在りのまま〉に〈実存〉を〈見詰める〈心〉を示している。
 「尽地尽界、尽時尽法を量として現成」とは、余剰も不足もない〈在りのまま〉の宇宙・生命にほかならない。〈地〉は〈界〉となり、〈界〉は〈時〉となり、〈時〉は〈法〉となり、〈法〉は〈地〉となる。この〈地・界・地・時・法〉を、〈在りのまま〉に〈見詰める〉――。そこに開く境界を道元は、「諸悪つくりぬべきところに住し往来し、諸悪つくりぬべき縁に対し、諸悪つくる友にまじはるににたりといへども、諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量見成(けんじょう)するゆゑに。諸悪みづから諸悪と道著(どうじゃ)せず、諸悪にさだまれる調度(ちょうど)なきなり。一拈一放(いちねんいっぽう)の道理あり。正当恁麼時、すなわち悪の人ををかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる」という〈譬喩〉で〈言表=道得〉しているのである。

  内面に葛藤がないとき、外側にも葛藤はない。なぜなら、内なるものと外なるもののあいだには、何の区別もないからである。それは、あたかも海の潮の満ち干のようなものである。それは絶対的で消しようのない事実であり、誰にも触れることのできない事実である。それは汚されないものである。だが、もしそれがそうなら、そのときには、生計を立てるために、人は何をするだろう? 何の葛藤もないから、そこには何の野心もない。何の葛藤もないから、そこには何かになりたいという欲望もない。内面的に汚されず、触れられず、害をこうむることのない絶対的なものがあるから、心理的にほかのものに頼らない。したがって、そこには服従や模倣はいっさいない。そこで、そういういものすべてをもたないときには、もはや金、地位、身分の世界における成功や失敗――それは、〈あるがまま〉のものの否定と〈あるべきもの〉の是認を意味する――には、強く条件づけられなくなる。〈あるがまま〉のものを否定し、〈あるべきもの〉という理想をつくり出すから、葛藤が生まれる。実際にあるがままのものを観察するということは、相反するものはいっさいもたず、ただ〈あるがまま〉のものだけをもつことを意味する。もしあなたが暴力を観察し、暴力という言葉を使うなら、そこにはすでに葛藤がある。その言葉そのものがすでに歪められている。つまり、暴力を認める人々と認めない人々がいる、ということになるからである。非暴力の哲学のすべては、政治的にも宗教的にも歪められている。そこには、暴力と、それに相反するものである非暴力とがある。相反するもの〈非暴力〉は、あなたが暴力を知っているから存在する。その非暴力は暴力にその根源をもっている。人は相反するものをもつことによって、何か途方もない方法や手段によって〈あるがまま〉のものを取り除こうとする。

  〈混沌〉の中に〈秩序〉を〈思考〉したり、〈秩序〉の中に〈混沌〉を〈思考〉するところに〈葛藤〉があり、〈葛藤〉を〈葛藤〉、〈混沌〉を〈混沌〉と〈在りのまま〉に〈見つめる〉ところに〈秩序〉がある。〈自分〉の心の様態を〈在りのまま〉に〈見詰める〉とき、〈私〉という〈存在〉は消える。それは〈見る者〉と〈見られるもの〉の一体化である。それを〈釈尊〉は〈宇宙即我・我即宇宙〉、すなわち〈色心不二・久遠即末法〉という〈譬喩〉でとらえたのである。法華経二十八品と開結二経はすべて、その〈譬喩〉の展開にほかならない。
「内面に葛藤がないとき、外側にも葛藤はない」ということは、「外面に葛藤があるとき、内面にも葛藤がある」ということでもある。「海の干満のように、絶対的に消しようのない事実」とは、それが宇宙・生命そのものであることを意味する。〈野心〉や〈欲望〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、その内容は転換する。それは〈人類〉という〈心〉の転換につながる。それをクリシュナムルティは、「内面的に汚されず、触れられず、害をこうむることのない絶対的なもの」と表現する。〈在るべきもの〉への〈思考〉は、〈過去性=脱益化〉に縛られ、〈人間〉の世界に〈葛藤〉をもたらす。〈非暴力〉は〈暴力〉をはらみ、分裂・憎悪・対立を誘い出す。〈非暴力〉の歴史は、それを裏づけている。だからこそ、クリシュナムルティは、〈非暴力〉の哲学はすべて、政治的にも宗教的にも歪められているのではないか、と問いかけているのだ。〈非暴力〉は〈暴力〉と対決する〈暴力に変身するのだろうか。道元は次のような〈譬喩〉を説いている。

  釈迦大師道(のたまわく)、三界唯一心(さんがいゆいいっしん)、心外無別法(しんげむべつほう)。心仏及衆生(しんぶつぎゅうしゅじょう)、是三無差別(ぜさんむさべつ)。
 一句の道著(どうじゃ)は一代の挙力(こりき)なり、一代の挙力は尽力の全挙なり。たとひ強為の為(い)なりとも云為(うんい)の為なるべし。このゆゑに、いま如来道の三界唯心は、全如来の全現成なり。全一代は全一句なり、三界は全界なり。三界すなはち心(しん)といふにあらず。そのゆゑは、三界はいく玲瓏八面も、なほ三界なり。三界にあらざらんと誤錯(ごしゃく)すといふとも、総不著なり。内外中閒(ないげちゅうげん)、初中後際(しょちゅうごさい)、みな三界なり。三界は三界の所見のごとし。三界にあらざるものの所見は、三界の見不正なり。三界には三界の所見を旧?(きゅうか)とし、三界の所見を新条とす。旧?(か)也三界見、新条也三界見なり。このゆゑに、釈迦大師道(のたまわく)、不如三界(ふにょさんがい)、見於三界(けんおさんがい)
 この所見すなはち三界なり、この三界は所見のごとくなり。三界は本有にあらず、三界は今有にあらず。三界は新成にあらず、三界は因縁生にあらず、三界は初中後にあらず。出離(しゅつり)三界あり、今此(こんし)三界あり。これ機関の機関と相見するなり、葛藤の葛藤を生長するなり。今此三界は、三界の所見なり。いはゆる所見は、見於三界なり。見於三界は、見成三界なり、三界見成なり、見成公案なり。よく三界をして発心・修行・菩提・涅槃ならしむ。これすなはち皆是我有(かいぜがう)なり。このゆゑに、釈迦大師道、今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子。(『正法眼蔵』「三界唯心」)

  ここに引用されている〈釈尊〉の〈言葉〉は、〈私=われわれ〉の〈実存〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。「三界唯一心、心外無別法。心仏及衆生、是三無差別」という〈言葉=譬喩〉は、三界は心であり、心は仏であり、仏は衆生であり、衆生は法であることを意味する。「一句の道著は一代の挙力なり、一代の挙力は尽力の全挙なり」という〈譬喩=言葉〉は、法華経をはじめ〈釈尊=森羅万象〉の説法のすべて(八万宝蔵)が、この一句に収まっていることを示している。それは〈在りのまま〉に〈実存〉を〈見つめる〉ことにほかならない。〈見つめる者〉は〈実存〉となり、〈実存〉は〈見つめる者〉となる。そこに存在するのは〈釈尊=妙法〉であり、〈私〉は消えている。その〈在り方〉を、クリシュナムルティは、「海の干満のように、在りのままで、葛藤のない」と、と語っているのだ。
  「内外中閒、初中後際、みな三界なり」は、法華経迹門の真髄である〈諸法実相=色心不二〉を表し、「三界には三界の所見を旧?(きゅうか)とし、三界の所見を新条とす。旧?(か)也三界見、新条也三界見」は、法華経本門の真髄である〈久遠実成=久遠即末法」を表している。「機関の機関と相見するなり、葛藤の葛藤を生長するなり」という〈譬喩〉は〈善悪不二=肯定即否定〉の法理を示し、「所見は、見於三界なり。見於三界は、見成三界なり、三界見成なり、見成公案なり」という〈譬喩〉は〈因果倶時=能動即受動〉の法理を示している。「今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子」という〈言葉〉は、〈今此=始源の時〉と〈三界〉、〈皆〉、〈我〉、〈其中〉、〈衆生〉、は別々ものではなく、同じ〈存在〉の別名であることを意味する。クリシュナムルティが説く〈暴力〉も〈非暴力〉も〈悉是其子〉にほかならない。

 もし自分の意識に気づいたら、自分とは何だろうか? もし気づいたら、自分の意識が、その完全な意味において、まったくの無秩序の状態に陥っているのを見るだろう。それは、あることを言ったかと思えばまた別のことを行ない、たえず何かを求めている矛盾したものである。そのすべての運動は、制限された余地(スペース)のない領域のなかで起こる。そしてそのほとんど無きに等しい空間(スペース)は、無秩序の状態におかれている。
 自分は自分の意識と別個のものだろうか、それともその意識だろうか? 自分はその意識である。では、自分がまったくの無秩序に陥っていることに気づいているだろうか? 最終的には、その無秩序はあきらかに神経症(ノイローゼ)に至る。そして、精神分析医や精神療法家(サイコセラピスト)などのような、現代社会のあらゆる専門家たちのところへ行くはめになる。しかし、内面的に、人は秩序の状態にあるだろうか、それともそこには無秩序があるのだろうか? 人はこの事実を観察することができるだろうか。そして無選択に観察するとき――ということはどんな歪曲もないことを意味する――そのとき何か起こるだろうか? 無秩序があるところ、そこには当然、葛藤がある。絶対的な秩序があるところ、そこには何の葛藤もない。そしてそこには相対的な秩序ではなく、絶対的な秩序がある。それが、何の葛藤もなく、自然に容易に生まれることができるのは、ひとつの意識としての自分自身に気づくときだけである。混乱、動揺、矛盾に気づき、外面的にも内面的にも何の歪曲もなく観察するときだけである。そうなったら、そこから自然に、優しく、容易に、不変の秩序が生まれる。

  〈私=われわれ〉は時折、自分が置かれた状況をもう一人の〈自分〉が〈見ている〉ような感じを抱くことがある。それは〈無秩序・秩序〉の状態にある〈自分〉を〈見つめる〉ことのなのだろうか。クリシュナムルティが問いかける〈瞑想〉は、〈われわれ=私〉がすでに体験していることなのかもしれない。それは〈思考〉し〈記憶〉する〈脳〉の機能を超えている。〈脳〉の機能は、生きるために〈物事〉を分析する。その〈分析〉は〈実存〉の一点に収斂し、同時に無限に拡散する。それは秩序とも言えるし、非秩序とも言える。
 クリシュナムルティは〈何〉を問いかけているのか。その〈言述=テクスト=道得〉は、〈言葉〉の限界をどう乗り超えるか、という仏法と同じ〈方法的原理〉の展開なのである。〈われわれ=私〉が意識する〈自分〉とは、自分とは別個の〈意識〉なのか、それともその〈意識〉が〈自分〉なのか。その〈思考〉は、どこまでも堂々巡りを続ける。その無秩序は神経症となり、精神分析や精神療法の対象となる。〈私=われわれ〉は〈秩序〉とも〈非秩序〉とも言えるし、同時に〈非秩序〉とも〈秩序〉とも言えないのである。〈言葉〉と〈思考〉は、〈実存〉すなわち〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉から乖離しつづける以外にないのだ。〈釈尊=法華経〉は、次のように〈譬喩〉を説いている。

善き哉善き哉、善男子、汝今大乗経を読誦するが故に、十方の諸仏懺悔の法を説きたもう。菩薩の諸行の結使を断ぜず使海に住ぜず。心を観ずるに心なし。?倒の想より起る。此の如き相の心は妄想より起る。空中の風の依止する処なきが如し。是の如き法相は生ぜず没せず。何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪、福も主なし。一切の法は是の如く住なく壊なし。是の如き懺悔は心を観ずるに心なし。法も法の中に住せず。諸法は解脱なり、滅諦なり、寂静なり。是の如き相をば大懺悔と名づけ、大荘厳懺悔と名づけ、無罪相懺悔と名づけ破壊心識と名づく。此の懺悔を行ずる者は、身心清浄にして法の中に住せざること、猶お流水(るすい)の如し。念念の中に普賢菩薩及び十方の仏を見たてまつることを得ん。
=中略=
仏の滅度の後、仏の諸の弟子若し悪不善業を懺悔することあらば、但当に大乗経典を読誦すべし。此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法印なり。涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田(ふくでん)、応供の中の最なり。其れ大乗方等経典を読誦することあらば、当に知るべし。此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧(ぶって)より生ずるなり。(仏説観普賢菩薩行法経)

  〈十方の諸仏〉が説く「懺悔の法」とは、〈私=われわれ〉が〈生の分断化〉に染められて、〈歴劫修行=トートロジー〉に陥っていることを意味する。それは同時に、〈トートロジー=歴劫修行〉から〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉へ〈覚醒〉することでもある。「結使を断ぜず使海に住ぜず。心を観ずるに心なし」とは、〈使うもの〉と〈使われるもの〉の一体化、すなわち〈受動即能動=因果倶時〉の法理にほかならない。〈?倒の想〉も〈此の如き相〉も〈心〉も〈妄想〉も別個のものではない。「是の如き法相は生ぜず没せず。何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪、福も主なし」という〈言葉〉は、主体と客体、属性の三つは別々の〈存在〉ではなく、一体(三諦円融〉であることを示している。主体は中諦、客体は仮諦、属性は空諦となり、「是の如き法相=我が心」は〈三諦円融〉となる。
  「法も法の中に住せず」とは、〈三諦円融〉という〈言葉〉も〈方便=仮説〉であり、複数のものが〈混合〉あるいは〈融合〉しているのではなく、〈空諦〉と言えばすべてが〈空諦〉であり、〈仮諦〉と言えばすべてが〈仮諦〉であり、〈中諦〉と言えば、すべてが〈中諦〉であることを言う。例えば、「美しい花が咲いている」という〈言葉〉は、〈美しい〉が〈空諦〉、〈花〉が〈中諦〉、〈咲いている〉が〈仮諦〉となる。しかし〈法〉と〈法〉は融合したり、混合することはない。〈円融三諦〉と言っても、〈空諦〉と言えば〈空諦〉がすべてとなり、〈中諦〉と言えば〈中諦〉がすべてとなり、〈仮諦〉と言えば〈仮諦〉がすべてとなる。そのことを〈釈尊=観普賢菩薩行法経〉は、「是の如き相をば大懺悔と名づけ、大荘厳懺悔と名づけ、無罪相懺悔と名づけ破壊心識と名づく」と説いているのだ。この〈大懺悔〉も〈大荘厳懺悔〉も、〈無罪相懺悔〉も〈破壊心識〉も、〈道元〉が説く〈只管打坐〉も、クリシュナムルティが説く〈瞑想〉も、同じ〈法理〉の異名にほかならない。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(15)

クリシュナムルティ

       『生の全体性Ⅱ』ノート(15)

                 小幡照雄

 第十五章――〈私〉が存在しないとき、慈悲心が生まれる――

 どんなグルもどんな方式も、自分自身を理解するのを助けることはできない。自己理解がなければ、正しい行為であるもの、真理であるものを見出すすべはない。自分の意識を探求する際には、自分自身の意識だけでなく、人間の意識全体を探求している。なぜなら、自分は世界であり、したがって自分自身の意識を観察するときには、人類の意識を観察していることになるからである。それは個人的なものや自己中心的なものではない。
  意識の要素のひとつは、欲望である。知覚、接触、感覚から、思考はイメージを生み出す。そのイメージの追求は、達成したいという欲望である。そして、そこから欲求不満や苦しさが出てくる。さて、結局は欲望になってしまうということがないような、感覚の観察はありうるだろうか? ただ観察する――。ということは、思考の本性を理解しなければならないということである。なぜなら、欲望を存続させるのは思考だからである。感覚からイメージを生み出すのは思考であり、そこからそのイメージの追求が出てくる。
 思考とは、頭脳のなかに蓄積された記憶、経験、知識から出てくる反応である。思考はけっして新しくない。それは常に過去から来る。したがって思考は限られている。それは数えきれない問題を生み出したが、しかしながら科学技術という大いなる世界も生み出した。それはすばらしいことを為し遂げたのである。だが、思考は過去の結果であるから限られており、したがってそれは時間に束縛されている。思考は、はかりがたいもの、永遠なるもの、自分自身を超えたものを、考え出せるかのようにみせかける。それは、あらゆる種類の幻想的なイメージを投影する。イメージなしに、そしてそれらのイメージを追求せずに、したがって欲求不満、達成の希望などに巻き込まれずに、欲望の運動全体を観察することができるだろうか?――欲望の運動全体をただ観察すること、それに気づくことが?

  〈私=われわれ〉は自分の身体の機能すべてを使って、〈自分〉の世界の色心(色形と関係性)を構築し、それを認識する。〈脳〉だけで〈世界〉を認識しているのではない。〈自分〉の意識は〈人類〉の遺伝子による〈認識〉にほかならない。遺伝子は宇宙に遍満し一点に収斂する〈色心=法〉から生まれた。生まれたものは、生み出したものでもある。遺伝子は宇宙の法そのものなのだ。だからこそ、〈われわれ=私〉は宇宙を認識し、宇宙の不思議さに眼を見張り、宇宙を探索する。
 〈われわれ=私〉は〈他者〉から学ぶ場合も、〈自分〉の世界の中で〈自分〉が〈思考〉し〈選択〉している。クリシュナムルティは、「自分とは世界であり、自分自身の意識を観察するときには、人類の意識を観察していることになる。それは個人的なものや自己中心的なものではない」と言う。仏法は〈自分〉が構築し、認識する世界を〈十八界〉ととらえている。それはクリシュナムルティが〈私=われわれ〉に問いかける〈命題〉でもある。
 クリシュナムルティは、〈思考〉の〈運動〉を、〈悪〉として否定しているのではない。〈思考〉の〈運動〉は、科学的成果という大きな恩恵を人類にもたらした。しかし、それは人類を混乱(権実雑乱)に陥れる〈力〉でもあった。そこに口を開いた大きな〈溝〉――。〈私=われわれ〉は、その〈溝〉に落ち込み、そこから這い出る術を見失っている。そして〈人〉が〈人〉を食う〈蠅取り瓶〉から〈蠅取り瓶〉へと、〈歴劫修行=トートロジー〉を繰り返す。クリシュナムルティは、そこに浮かび上がる事象の〈両義性〉を認識し、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことを説いているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を展開している。

 参禅は坐禅なり。坐禅は静処(じょうしょ)よろし。坐にくあつくすべし。風烟をいらしむることなかれ。容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡(しょうせき)あり。かれらみな草をあつくして坐せしなり。坐処あたたかなるべし、昼夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。所縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念相観にあらず。作仏を図することなかれ。挫臥を脱落(とつらく)すべし。飲食(おんじき)を節量すべし、光陰を護惜(ごしゃく)すべし。頭燃をはらふがごとく坐禅をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし。唯務坐禅のみなり。
=中略=
  兀兀(ごつごつ)と坐定(ざじょう)して思量箇不思量底(しりょうこふしりょうち)なり。不思量底如何(しゅお=いかに)思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の法術なり。坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚(ふぜんな)の修証なり。(『正法眼蔵』「坐禅儀」)

  〈坐禅=瞑想〉とは〈何か〉。まず最初に〈権実雑乱〉の〈心〉を〈静謐〉に導く心構えが説かれている。それは色心ともに〈久遠即末法〉、すなわち、〈一瞬一瞬のいま=始源の時〉を開くにふさわしい場といえよう。「静処・容身の地・金剛・盤石」という〈言葉〉がそれを示している。道元は「所縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念相観にあらず。作仏を図することなかれ」と説く。
  「兀兀と坐定」とは、修証不二の修行、すなわち〈釈尊=法華経〉の〈心〉を〈自分〉の〈心〉とする〈只管打坐=瞑想〉である。「思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禅の法術なり」という〈言葉〉は、クリシュナムルティの「欲求不満、達成の希望などに巻き込まれずに、欲望の全体を観察することができるだろうか?――欲望全体の運動をただ観察すること、それに気づくことが」という問いかけに対応している。クリシュナムルティが説く〈瞑想〉は、〈釈尊〉の修証不二の〈修行〉と通底し、さらに道元の〈只管打坐〉に通じている。

 心理的には、恐怖の根源は何か? 恐怖の根源は、時間ではないだろうか? その時間とは、明日あるいは将来起こるかもしれないこと、ある事柄をしなければ起こるかもしれないこと――、過去としての時間、現在あるいは将来起こるかもしれないこととしての時間である。恐怖と時間の根源は、思考の運動ではないだろうか?
 恐怖の根源は時間の運動であり、それは測定、尺度としての思考である。この運動を観察し、気づくことができるだろうか? それを統制したり、抑圧したり、それから逃げたりするのではなく、ただ観察し、その全体的な運動に気づくことが? われわれは、時間や尺度としてのこの思考の全体的な運動に気づく。私は生きてきた、私はこれからも生きるだろう。私は生きたい――われわれは、この事実に無選択に気づき、この事実とともにとどまり、実際にあるものから逃げ出したりはしない。実際にあるがままのものとは、思考の運動であり、それは、「私は過去に傷つけられた、だから、未来においては傷つけられたくない」と言う。例をひとつ挙げれば、そういう思考の過程そのものが恐怖なのである。恐怖があるところには、あきらかにどんな愛情も、どんな愛もない。
  意識の大部分は、膨大な、快さに対する欲望と快楽の追求である。すべての宗教は、「快楽、すなわち、性的な快楽やそのほかの種類の快楽を追い求めるな」と説いてきた。あなたがたは、自分の生命(いのち)をイエスやクリシュナにゆだねてしまったのだから、と言うのである。彼らは、欲望を抑圧すること、恐怖を抑圧すること、どんな種類の快楽をも抑圧することを奨励する。あらゆる宗教はそれを果てしなく説きつづけてきた。われわれは逆に、「何ものをも抑圧するな、何ものをも避けるな」と言っている。自分の恐怖を分析してはいけない。ただ観察することだ。すべての人間はこの快楽の追求にとらわれていて、その快楽の追求、その快楽が与えられないと、憎しみ、暴力、怒り、辛さが出てくる。だから、世界中で人類がもっているこの快楽の追求、この快楽の大きな衝動を理解しなければならない。

  クリシュナムルティは〈私=われわれ〉に、「恐怖の根源は何か? 恐怖の根源は、時間ではないだろうか」と問いかける。〈われわれ=私〉は、家族のことを考えるとき、誰かが事故にあったり、病気になったりすることを心配する。心配する〈心〉は、心配と懸念の〈想像=思考〉を反復する。その反復は〈現在〉から〈未来〉へと引き延ばされ、さらに〈過去〉まで巻きこんでいく。それは〈不安〉と〈恐怖〉を増幅する。クリシュナムルティは、その増幅する〈不安〉と〈恐怖〉が、〈蠅取り瓶〉の中の生き残りを賭けた〈競争〉をもたらし、〈奇怪な世界〉を現出させているのではないか、と問いかけているのだ。
 〈不安〉や〈恐怖〉を呼び起こす〈過去・現在・未来〉は、〈存在〉するのだろうか。その〈時間〉の〈運動〉を〈私=われわれ〉は、〈見つめる〉ことがきるのか。クリシュナムルティは、「恐怖があるところには、どんな愛情も、どんな愛もない」と言う。クリシュナムルティが指摘する〈欲望や恐怖、快楽を抑圧する宗教〉とは、従因至果の視点に執着して〈究極の真理〉を求める〈外道的・爾前権教的〉な価値観・世界観である。クリシュナムルティが呼びかける〈何ものをも抑圧せず、何ものをも避けない〉価値観・世界観とは、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉にほかならない。それを法華経の文底から堀り起こしたのは日蓮である。『御義口伝』や『百六箇抄』『本因妙抄』にそれが示されている。〈私=われわれ〉は、さらにその文底を探求することを問われているのだ。〈自分〉の恐怖を〈分析〉することなく、どのように観察するのか。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

  江西大寂禅師(こうぜいだいじゃくぜんじ)、ちなみに南嶽大慧禅師(なんがくだいえぜんじ)に参学するに、密受心印(みつじゅしんいん)よりこのかた、常に坐禅す。南嶽、あるとき大寂のところにゆきてとふ、大徳、坐禅図箇什麼(ざぜんずこしも)。
  この問、しづかに功夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著(もんじゃ)するか。審細に功夫すべし。彫龍(ちょうりゅう)を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨(うんう)の能あること、学習すべし。遠(おん)を貴(き)することなかれ、遠を賤することなかれ。遠に慣熟なるべし。近(ごん)を賤することなかれ、近を貴すること無かれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ。耳目をして聡明ならしむべし。
=中略=
 しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし。作仏の正当恁麼時(しょうとういんもじ)なるべし。且問(しゃもん)すらくは、この一図、いくそばくの作仏を葛藤すとかせん。この葛藤さらに葛藤をまつふべし。このとき、尽作仏の条条なる葛藤、かならず尽作仏の端的なる、みなともに条条の図なり。一図を廻避(ういひ)すべからず。一図を廻避するときは、喪身失命(そうしんしつみょう)するなり。喪身失命するとき、一図の葛藤なり。
  南嶽、ときに一?(せん=かわら)をとりて、石上にあててとぐ。大寂つひにとふにいはく、師作什麼(師、何をか作す)。まことに、だれかこれを磨?(ません)とみざらん、たれかこれを磨?とみん。しかあれども、磨?はかくのごとく作什麼(そしも)と問(もん)せられきたるなり、作什麼なるはかならず磨?なり。此土他界ことなりといふとも、磨?いまだやまざる宗旨(そうし)あるべし。自己の所見を自己の所見と決定(けつじょう)せざるのみにあらず、万般の作業(さごう)に参学すべき宗旨あることを一定(いちじょう)するなり。(『正法眼蔵』「坐禅箴」)

 ここに説かれているのは、〈只管打坐=瞑想〉の意義にほかならない。江西大寂禅師とと南嶽大慧禅師は、この〈道得=言述=テクスト〉を読む者の〈己心〉に開く〈師弟〉となる。「密受心印よりこのかた、常に坐禅す」の「密受心因」は、〈釈尊〉の成道、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。「このかた、常に坐禅す」は、〈成道〉がそのまま〈只管打坐=瞑想〉であり、〈瞑想=只管打坐〉がそのまま〈成道〉であることを言う。ここにも〈因果倶時=能動即受動〉の法理が貫徹している。
 「坐禅図箇什麼」という問いは、そのまま答えとなる。坐禅が図するのは何か。この〈図する〉とは、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことなのである。「しづかに功夫参究すべし~審細に功夫すべし」という〈言葉〉は、〈思考〉の究極、すなわち一切の〈価値判断〉を放棄することを示している。「彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あること、学習すべし」という〈譬喩〉は、〈従因至果=色心隔別〉の価値観・世界観を放棄して、〈従果向因=色心不二〉の世界観・価値観に立つことを意味する。
 その価値観・世界観はさらに、「遠(おん)を貴(き)することなかれ、遠を賤することなかれ。遠に慣熟なるべし。近(ごん)を賤することなかれ、近を貴すること無かれ、近に慣熟なるべし」と展開されている。これに続く「目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ。耳目をして聡明ならしむべし」という〈言葉〉は、〈実存〉のほかに〈神秘的なもの〉を求める〈錯誤〉に対する戒めとなる。                                                   
 「作仏の正当恁麼時」とは、〈釈尊〉の〈成道〉の場が〈色心不二・久遠即末法〉、すなわち〈いま、ここに〉開く〈始源の時〉であることを意味する。自他不二なる〈自己〉の〈生きる場〉は、それ以外にないのである。「この一図、いくそばくの作仏を葛藤すとかせん。この葛藤さらに葛藤をまつふべし」という〈道得=言表〉は、〈善悪不二=肯定即否定〉〈因果倶時=能動即受動〉の法理を示している。「一図を廻避(ういひ)すべからず。一図を廻避するときは、喪身失命(そうしんしつみょう)するなり。喪身失命するとき、一図の葛藤なり」という〈言葉〉は、〈生の分断化〉に覆われた〈世界〉もまた、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉の現成であることを意味する。
  「師作什麼(師、何をか作す)」という問いは、そのまま答えとなる。磨?(瓦を磨く)とは、一切の価値判断を放棄して〈只管打坐=瞑想〉することにほかならない。クリシュナムルティもまた、〈欲望〉や〈恐怖〉、あらゆる種類の〈快楽〉を抑圧する外道的・爾前権教的な〈価値観〉や〈世界観〉を放棄し、〈生の全体性〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことを説いているのだ。これは〈瞑想〉するときの心構えとなる。「此土他界ことなりといふとも、磨?いまだやまざる宗旨あるべし」と言う〈言葉〉は、修証不二の〈只管打坐=瞑想〉を示している。クリシュナムルティが説く〈瞑想〉はまさに、〈自己の所見を自己の所見と決定せず、万般の作業に参学〉すべき〈修証不二〉の修行なのである。

 心理的に記憶するものは、いったい必要なのだろうか? あなたが心理的に保持しているものは何であれ、不必要である。そういうものを保持し、記録することによって、そういうものを頭脳が固守することによって、それはそれなりの安定を達成する。しかし、その安定は、あらゆる心理的な傷や痕跡が集まった〈私〉にすぎない。だから、われわれはこう主張する。「何であれ心理的に何かを記録し、それを保持することは絶対的に不必要である。自分の信念、教義、経験、希望や欲望、それらはすべてまったく不必要である」それでは必要なものとは何か? 衣、食、住――それ以外の何ものでもない。これは本来、理解すべき重要なことである。それは、頭脳はもはや〈私〉を蓄積する要因ではなくなっている、ということを意味する。頭脳は、静かにくつろいでいる。それは充分な平安を必要とする。しかし、それはつねに、あらゆる過去の記録の蓄積である〈私〉のなかに、その平安、安定性を求めてきた。が、その〈私〉はただの記憶にすぎず、したがって、死んだ灰をたくさん集めてそれに重要性を付与するのと同じように、無価値なものである。
 絶対に必要なものだけを記録すること――そのなかに入ってそれを実行することができれば、それはすばらしいことである。そうなったら真の自由――つまり、思考が〈私〉だと思ってしがみついている、この巨大な構築物を築き上げてきた蓄積された知識や伝統や迷信や経験からの自由がある。〈私〉が存在しないとき、そのときには慈悲心が生まれ、その慈悲心が明晰さを生む。その明晰さに伴って、熟練性が出てくる。
 不必要な記録があるところ、そこには愛はいっさいない。慈悲心の本性を理解したいなら、愛とは何かというこの問題、そしてあらゆる混乱、快楽、恐怖を伴う執着がいっさいないような愛があるかどうか、というこの問題に立ち入っていかなければならない。

  クリシュナムルティは〈記憶=記録〉とは〈何か〉と問いかけている。それが心理的な傷や痕跡が集まった〈私〉に過ぎないとすれば、それは必要なのだろうか。クリシュナムルティが提起する〈命題〉は、常に両義性をはらんでいる。それは〈肯定即否定・能動即受動〉という〈方法的原理〉に則って、対話を展開しているからだ。その読者や聴者もまた、その〈方法的原理〉を学ぶことを問われている。それは〈生の全体性〉という〈実存〉には、排除すべき〈余剰〉も付加すべき〈不足〉も無いからである。
  クリシュナムルティは、〈衣、食、住〉以外の「記憶・記録は不必要である」と言う。なぜなのか。それは、そのような〈記憶・記録〉が、〈人間〉の〈生死〉を豊かに開く一方で、〈人間の死生〉を貧しく閉ざす働きを持っているからなのだ。
  〈信念、教義、経験、希望、欲望〉の〈記憶=記録〉は〈科学技術〉を進展させ、文明社会に大きな利便を提供している。その反面、それは〈蠅取り瓶〉の中の〈競争〉をもたらし、〈不安〉と〈恐怖〉を増幅し、人間同士の憎悪・対立、そして悲惨な戦争を生み出している。そのような〈記憶=記録〉の暴走を止めるには、何が必要なのか。そのことをクリシュナムルティは、〈私=われわれ〉に問いかけているのだ。
 どんな優れた賢人・有識者・評論家も、多義的な事象を〈分断化〉して結論づける。その提言はすべて〈死物化・脱益化〉しており、〈一瞬一瞬〉に変化しつづける〈無常〉の〈実存〉から、ずれつづける以外にないのである。これまでの〈自民党政治〉、今、展開中の〈民主党政治〉がそれを裏付けている。それを克服する〈方法的原理〉として、クリシュナムルティは、〈自分〉の〈心〉に映る〈実存〉を、〈在りのまま〉に〈見つめる〉ための〈瞑想〉を提示しているのだ。それは日蓮が説く〈文底独一法門〉の〈方法的原理〉と通底している。〈己心〉に〈生の全体性〉が〈覚醒〉するとき、〈私〉という〈存在〉は消え、真実の〈愛〉、そして〈慈悲心〉が目覚める。道元は次のように〈譬喩〉を展開している。

 おほよそ西天東地に仏法つたはるといふは、かならず坐仏のつたはるるなり。それ要機なるによりてなり。仏法つたはれざるには、坐禅つたはれず。嫡嫡相承せるは、この坐禅の宗旨(そうし)のみなり。この宗旨いまだ単伝せざるは、仏祖にあらざるなり。この一法あきらめざれば、万法あきらめざるなり、万行あきらめざるなり。法法あきらめざらんは、明眼(みょうげん)といふべからず、得道(とくどう)にあらず、いかでか仏祖の今古ならん。ここをもって、仏祖かならず坐禅を単伝すると一定(いちじょう)すべし。仏祖の光明に照臨(しょうりん)せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり。おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、日月の光明のごとく、珠火(しゅか)の光耀(こうよう)のごとくあらんずるとおもふ。日月光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅を坐禅としれるすくなし。(『正法眼蔵』「坐禅箴」)

  〈私=われわれ〉が仏法を学ぶことができるのは、坐仏、すなわち〈只管打坐〉が嫡嫡相承されてきたからである。嫡嫡相承とは、あくまでも〈己心〉から〈己心〉への伝法なのである。〈組織〉や〈他者〉は〈生の分断化〉を助長するだけで、伝法は〈己心〉に開く〈師弟〉以外にない。それを〈唯仏与仏〉と言う。〈只管打坐〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉への〈帰命=覚醒〉がなければ、〈釈尊=妙法〉と出会うことはできない。〈妙法〉への〈覚醒〉が〈釈尊の成道〉であり、〈釈尊の成道〉が〈妙法〉への〈覚醒〉なのである。それが無ければ〈われわれ=私〉は、〈夢中=虚構〉の人生に閉ざされ、〈寤=実存〉の人生を開くことはできない。従って、〈只管打坐=瞑想〉こそ、〈釈尊=仏法〉が伝える唯一の法理なのである。「仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり」という〈言葉〉が、そのことを示している。
  〈われわれ=私〉は仏光明、すなわち妙法の力を、太陽や月、宝石の輝きに譬え、それを実体化してしまう。そのような〈心〉は、〈六道輪廻〉そのものとなる。仏光明とは「一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝する」ことなのである。この「一句・一法」が、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示していることは言うまでもない。〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉は〈一句・一法〉となり、〈一句・一法〉は〈仏光明〉となる。〈仏光明〉は〈一句・一法〉となり、〈一句・一法〉は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉となる。
道元が提示する〈光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅を坐禅としれるすくなし〉という〈譬喩〉を、一人ひとりが自分の〈譬喩〉で受け止めなければならない。クリシュナムルティもまた、「慈悲心の本性を理解したいなら、愛とは何かというこの問題、そしてあらゆる混乱、快楽、恐怖を伴う執着がいっさいないような愛があるかどうか、というこの問題に立ち入っていかなければならない」と〈私=われわれ〉に問いかけている。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(14)

クリシュナムルティ

              『生の全体性Ⅱ』ノート(14)

                 小幡照雄

 第十四章――その〈空〉はあらゆるエネルギーの集約である――

 瞑想とは目的を追求することではない。それは目的をもって目標を追求することではない。その瞑想から広大な沈黙が生まれる。つくられた沈黙ではなく、二つの思考、二つの騒音のあいだの沈黙でもなく、想像だにできないような沈黙である。頭脳はこの探求の過程において、途方もなく静かになる。沈黙があるとき、そこには大いなる知覚がある。この沈黙のなかには〈空〉がある。あらゆるエネルギーの集約である〈空〉が――。
 意識とその中身という問題を調べる際には、自分自身がそれを観察しているのか、それとも観察の際に意識が気づいているのはじつは意識それ自体なのか――それを見出すことがきわめて重要である。そこには違いがある。あたかも外側から見るように、自分の意識の動き、つまり、自分の欲望、傷、野心、貪欲、そのほかのあらゆる意識の中身を観察するのか、それとも、意識が意識自体に気づくのか……。後者は、思考が「自分が観察している対象はじつは自分がつくり出したものにすぎない、それは自分の意識の中身にすぎない」と悟ったとき、はじめて可能になる。そうなったら思考は、意識を観察している思考が組み立てた〈私〉をではなく、思考自身を観察しているだけだ、ということを悟る。そこにはただ観察だけがある。そうなったら、意識がその中身を開示しはじめる。たんに表面意識だけではなく、深層意識も含めた意識の中身のすべてを。もし純然たる不動の観察の重要性を知ったら、そのときには物事は花開きはじめ、意識はその扉を開きはじめる。

  クリシュナムルティは「瞑想とは目的を追求することではない。それは目的をもって目標を追求することではない」と言う。〈私=われわれ〉は〈他者〉との関係を〈思考〉しながら〈選択〉し、〈行動〉している。〈瞑想〉とは、それをすべて放棄することではない。目的をもって目標を追求する〈自分〉を、〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことなのである。〈自分〉の意識の中身を観察する〈心〉は、〈自分〉の意識の中身そのものとなる。その瞑想から広大な沈黙が生まれる。それは〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉そのものである〈沈黙〉にほかならない。それは沈黙に非ず、大音声に非ずとしか〈道得=言表〉できない〈沈黙〉なのである。それをクリシュナムルティは、「沈黙があるとき、そこには大いなる知覚がある。この沈黙のなかには〈空〉がある。あらゆるエネルギーの集約である〈空〉が――」と表現する。日蓮は次のように〈譬喩〉を説いている。

 涌出品(ゆじゅつぽん)
昼夜常精進(ちゅうやじょうしょうじん) 為求仏道故(いぐぶつどうこ)
 此の文は、一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作(ほんらいむさ)の三身(さんじん)念念に起るなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は精進行(しょうじんぎょう)なり。(『御義口伝下』二十八品に一文充(ずつ)の大事)

  「昼夜常精進」の「昼夜」とは、〈虚構〉の〈過去・現在・未来〉ではなく、自他不二なる〈実存〉、すなわち〈今、ここに〉を意味する。「為求仏道故」とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉の〈法理〉を探求することである。従って、「一念に億劫の辛労を尽くす」の「一念」とは、その〈法理〉を探求する〈心〉にほかならない。その〈文底〉を開くとき、〈両義性〉が見えてくる。一つは〈億劫の時空にわたって強い一念を貫く〉という意義であり、もう一つは〈心労を尽(ことごと)く滅して心が空となる〉という意義である。その〈両義性〉を〈自己〉の〈実存〉に、どう位置づけるのか。いずれにせよ〈億劫の辛労を尽くす一念〉とは〈地涌菩薩〉の一念である。それは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に〈境智冥合〉し〈覚醒〉する一念にほかならない。それを「本来無作三身の念念」と言う。それはクルシュナムルティが説く〈空〉に通じる。
 〈地涌菩薩〉が涌出するのは〈他心〉ではなく〈己心〉である。〈地涌菩薩〉に救われる〈衆生〉もまた、〈己心〉にほかならない。〈地涌菩薩〉に救われるべき〈衆生〉を〈他者〉と〈思考〉するとき、そこに〈何〉が起こるのか。文証・理証・実証の上から把握する必要がある。その責任はあくまでも〈自己〉にある。クリシュナムルティが語りかける「もし純然たる不動の観察の重要性を知ったら、そのときには物事は花開きはじめ、意識はその扉を開きはじめる」という〈譬喩〉は、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉に〈覚醒=境智冥合〉した〈心〉を示している。「純然たる不動の観察」とは、日蓮が説く〈昼夜常精進〉にほかならない。

 追求する際に、まったく眼を動かさずに観察することができるだろうか? というのも、眼は頭脳に対してある効果を与えているからだ。眼球を完全に静かに保つとき、観察はきわめて明晰になる。なぜなら頭脳が静まっているからである。そこで、自分の観察に干渉する思考の運動なしに、観察することができるだろうか? それが可能なのは、観察者が、自分と自分が観察しているものとはひとつだ、観察者は観察されるものだ、ということを悟ったときだけである。怒りは〈私〉と別個のものではない。私は怒りであり、私は嫉妬である。観察者と観察されるものとのあいだには、何の区別もない。それは、人が把握しなければならない根本的な現実である。それを悟ったら、意識の全体は、いかなる努力もすることなく、自分自身を開示しはじめる。その全的な観察において、思考が組み立てたものすべて、すなわち自分の意識は、空っぽにされる、あるには超越される。
  そうなったら、時間という問題が出てくる。観念、イデオロギーの達成に向かう運動としての、心理的な時間のことである。自分は貪欲だ、暴力的だ――そして自分自身に、「それを乗り超えるためには時間がかかる。あるいはそれを修正し、それを変え、それを取り除き、それを超越するためには、時間がかかる」と言う。そういう時間は心理的な時間であって、時計や太陽によって測られるような年代的な時間ではない。そこには、「本質的な、美しい、立派だとみなしているものを達成するためには、時間がかかる」と言う、この精神の条件づけ全体がある。われわれは、そういう時間を問題にし、「いったい心理的な時間というものがあるだろうか?」と問いかけているのである。そういう時間をつくり出したのは思考ではないだろうか?

 眼を不動にするとは〈何〉か。どのようにして眼球を完全に静かに保つのか。クリシュナムルティは、〈思考〉の〈運動〉なしに観察する〈方法的原理〉について、〈私=われわれ〉に問いかける。〈観察する者〉と〈観察されるもの〉が一体となり、〈自己〉が〈空〉となる。そのとき、〈過去・現在・未来〉という〈虚構〉の〈時間〉は〈空〉となり、〈いま、ここに〉脈動する〈始源の時〉が蘇る。ここで、クリシュナムルティが提起している〈命題〉は、道元の〈只管打坐〉に通じる。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

 《薬山弘道(やくさんくどう)大師、坐の次いで、有る僧問う、兀兀地(ごつごつち)、什麼(しも)をか思量す。師云く、箇の不思量底(ふしりょうち)を思量す。僧云く、「不思量底、如何が思量せん。師云く、非思量。》
  大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐正伝すべし。兀座の仏道つたはれる参究なり。兀兀地の思量、ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり、いはゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり。
=中略=
 しるべし、学道の定まれる参究には、座禅?道(ざぜんべんどう)するなり。その榜様(ぼうよう=手本)の宗旨は、作仏をもとめざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案現成なり。身仏さらに作仏にあらず、?籠(らろう)打破すれば坐仏さらに作仏をさへず。正当恁麼のとき、千古万古(せんこばんこ)、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑(たに)にみつ量あるなり。(『正法眼蔵』「坐禅箴」)

 薬山弘道大師も僧も、このテクストを読む〈己心〉に開く〈師弟〉にほかならない。〈問う者〉は〈問われる者〉となり、〈問われる者〉は〈問う者〉となる。兀兀地とは、〈釈尊〉が〈瞑想〉し〈成道〉した〈修証不二〉の場を意味する。「兀兀地、什麼(何)をか思量す」という〈弟子〉の問いに〈師〉が「箇の不思量底を思量す」と答える。さらに〈弟子〉の「不思量底、如何が(どのように)思量せん」という問いに、〈師〉は「非思量」と答える。〈問い〉がそのまま〈答え〉となり、〈答え〉がそのま〈問い〉となる。それは〈仏〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉が、〈思考〉の〈運動〉では把握できないことを示す〈譬喩〉にほかならない。
 法華経は〈釈尊〉の修証不二の〈瞑想〉を、そのまま〈曼荼羅的言語〉で表現している。「大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし、兀坐正伝すべし」という〈言葉〉は、法華経に参学し、〈己心〉に〈兀座〉を開くことを〈われわれ=私〉に呼びかけているのだ。釈尊が開いた仏道を〈兀兀地の思量=思量箇不思量底〉と言う。「思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり」という〈言葉〉は、〈因果倶時=肯定即否定〉の法理を示している。
 クリシュナムルティの「それを悟ったら、意識の全体は、いかなる努力もすることなく、自分自身を開示しはじめる。その全的な観察において、思考が組み立てたものすべて、すなわち自分の意識は、空っぽにされる、あるには超越される」という問いかけは、〈釈尊〉の修証不二なる〈兀坐〉を示している。それは〈宇宙=エネルギー〉が収斂・拡散する〈場〉、すなわち〈空〉にほかならない。「学道の定まれる参究」とは〈兀座〉であり、それが〈いま、ここに〉現成することを〈公案現成〉と言う。
 〈作仏〉は〈行仏〉に非ず、〈行仏〉は〈作仏〉に非ず、〈作仏〉は〈身仏〉に非ず。〈行仏〉と言えばすべてが〈行仏〉となり、〈作仏〉と言えばすべてが〈作仏〉となる。「?籠打破」とは、〈生の分断化〉を放棄する〈心〉である。「ほとけと魔・進歩退歩」は〈善悪不二=肯定即否定〉の〈譬喩〉となり、〈溝にみち、壑にみつ〉は〈満たすもの〉と〈満たされるもの〉すなわち〈因果倶時=能動即受動〉の〈譬喩〉となる。「正当恁麼のとき、千古万古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑(たに)にみつ量あるなり」という〈道得=言表〉は、〈いま、ここに〉開く〈正当恁麼=始源の時〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。

  もし時間がまったくないなら、どんな過去も未来もなく、あるのはただまったく次元の異なる何かだけである。人は、あまりにも時間に条件づけられていて、心理的には、「私が成長する時間、今の自分とは別の何かになるための時間が要るにちがいない」と言う。思考それ自身が時間がつくり出したもとである、という真理を見るとき、そのときには過去や未来は終わる。そして今度は、時間なき運動の感覚だけが残る。これを理解すれば、じつにすばらしいことである。そして、結局、愛とはそれなのである。愛は同じ次元、同じ時間、同じ強烈さにおいて存在する――愛の記憶や愛に対する未来の希望ではなく、愛の、いまこの瞬間において存在する。そういう精神状態、すなわち愛は、まったく時間なしに存在している。そうなったら、自分と他者との関係に何が起こるか見てみよう。人は、時間のものではない、思考のものではない、快楽や苦痛の記憶ではない愛の途方もない感覚をもつだろう。そうなったら、そういう愛をもっている人ともっていない人とのあいだの関係はどうなるだろうか? ひとりの人は、もうひとりの人について何のイメージももっていない。なぜなら、イメージとは時間の運動だからである。思考は相手について少しずつイメージをつくり上げてきたが、そういうことはもはや起こっていない。しかし、もうひとりの人は、少しずつ相手についてイメージをつくり上げてきた。なぜなら、ひとりは時間の運動のなかにおり、ひとりはまったく時間をもっていないからである。彼は、時間のものではない愛のこの途方もない感覚をもっている。そうなったら、相手との関係はどうなるだろうか? そのような愛の途方もない質をもつとき、その質のなかには至高の叡智が存在する。相手との関係のなかで働いているのは、その叡智である。自分がその関係のなかで働いているのではない。そういう状態を経験することはほんとうにすばらしいことである。それはあらゆる関係をまったく変えてしまうからである。そして、もし関係においてそのような根本的な変化が起こらなければ、われわれが築いてきたこの奇怪な社会のなかではどんな変化を起こらない。

 子供を育てる母子家庭の母親は、さまざまな問題に正面から取り組んで、生活している。この母親は〈時間〉に条件づけられてはいない。問題を正面から見据え、取り組んでいるからだ。閣僚や国会議員、官僚、企業家、マスコミなどの〈権力者〉はどうだろうか。〈権力者〉は問題を〈定義〉して、その解決を先延ばしにする。直ちに取り組み解決するという発想は全くない。問題を〈定義〉する〈心〉は、「私が成長する時間、別の何かになるために時間が要る」と〈思考〉する。そして〈死物化・脱益化〉した〈規範〉や〈マニフェスト〉に適合するものだけを〈選択〉して、つじつまを合わせようとする。それは〈過去・現在・未来〉という〈虚構〉に振り回される〈凡夫〉の〈心〉にほかならない。〈社会的地位〉や〈肩書〉で、自分に特別な権力が与えられた、あるいは能力が備わったと〈錯誤〉する〈権力者〉の〈心〉。それは、日蓮が破折する〈真言亡国・律国賊〉の謗法にほかならない。そのとき、国際社会、国家、組織、地域、、家庭、個人に、組織的・構造的な歪み・混乱が生じる。今の世界の現状は、それを浮き彫りにしている。
  時間なき運動の感覚――。それは〈私=われわれ〉が常に体験していることなのだ。しかし、それを〈思考〉したり〈記憶〉したりすることはできない。クリシュナムルティは、「思考それ自身が時間がつくり出したもとである、という真理を見るとき、過去や未来は終わる」と語りかける。そのとき、真の愛が目覚める。それは、愛の記憶や愛に対する未来の希望ではなく、いま、この瞬間に存在する愛なのである。その愛の中に至高の叡智が存在する。〈至高の叡智〉とは〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉である
  閣僚や国会議員、官僚は国民生活の〈イメージ〉を未熟な〈思考〉でつくり上げる。それは〈分断化〉されている現実を、さらに別の形に〈分断化〉することになる。クリシュナムルティは、「ひとりは時間の運動のなかにおり、ひとりはまったく時間をもっていない」と言う。〈時間〉の〈運動〉のなかにいるのは〈権力者〉であり、現実に生活に取り生んでいる〈国民〉に〈時間〉は存在しない。〈権力者〉が恣意的に組み換えただけの〈問題〉に取り組み、それを解決しているのは〈国民〉なのである。真の愛に目覚めない〈権力者〉は、国民にとって迷惑この上ない存在なのである。宗教的基盤をもつはずの政党も国会議員もみな、世俗的利権にまみれている。生活困窮者や失業による自殺者の増大――。脱益化(過去化・死物化〉する法律や制度に、国民の生活と命を守る下種益(げしゅやく)の生命を吹き込む政治改革者は、いつ出現するのか。〈釈尊〉は次のように〈譬喩〉を説いている。

衆生困厄(こんやく)を被って 無量の苦身を逼(せ)めんに
観音妙智の力 能(よ)く世間の苦を救う
神通力を具足し 広く智の方便を修して
十方の諸(もろもろ)の国土に  刹(くに)として身を現ぜざること無し
種種の諸の悪趣 地獄鬼畜生
生老病死の苦 以って悉く滅せしむ
真観清浄観 広大智慧観
悲観及び慈観あり 常に願い常に瞻仰(せんごう)すべし
無垢清浄の光あって 慧日諸の闇を破し                           
能く災いの風火を伏して 普く明かに世間を照らす
悲体の戒は雷震(らいしん)のごとく 慈意の妙は大雲のごとく
甘露の法雨を?(そそ)ぎ 煩悩の焔を滅除す
諍訟(じょうしょう)して官処(かんじょ)を経(へ) 軍陣の中に怖畏(ふい)せんに
妙音観世音 梵音海潮音
勝彼世間音あり 是の故に須く常に念ずべし
念念に疑いを生ずること勿(なか)れ 観世音浄聖は
苦悩死厄に於いて 能く為に依怙となれり
一切の功徳を具して 慈眼をもって衆生を視る
福聚(ふくじゅ)の海無量なり 是の故に応に頂礼(ちょうらい)すべし

 観世音菩薩とは森羅万象を慈悲の眼で見る〈心〉の〈譬喩〉にほかならない。〈慈悲の眼で見る者〉は〈慈悲の眼で見られるもの〉となり、〈慈悲の眼で見られるもの〉は〈慈悲の眼で見る者〉となる。「念念に疑いを生ずること勿れ」とは、〈生の分断化〉を放棄する〈心〉である。〈私=われわれ〉の生きる場は、あらゆる功徳を備えた〈福寿の海〉に譬えられる。この偈文の〈譬喩〉は、クリシュナムルティの〈譬喩〉と通底している。〈森羅万象〉が〈法華経〉を説き、〈法華経〉が〈釈尊〉を説き、〈釈尊〉が〈法華経〉を説き、〈法華経〉が〈森羅万象〉を説く〈法華経〉の〈虚空会〉。その〈虚空会〉を顕した〈文字曼荼羅〉。その〈文字曼荼羅〉を無雑の心で〈見つめる〉ことが、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことなのである。

 美とは何か? それは、絵、美術館、詩のなかにあるのだろうか? それは大空を背景にした山並の線のなかにあるのだろうか? あるいは雲の美しさを映し出す水の広がり、建築家が建物に与える線、特別の美しさを持っている家のなかにあるのだろうか? 美を生み出す想像、美を生み出す言葉、美しい観念などではなく、真の美とは何か? 途方もなく生き生きとして美しいもの、山、雲ひとつない大空、景色を見るとき、それにすっかり見入っているその瞬間においては、その人はいないのではないだろうか? 山の広大のせいで、その山の途方もない安定性、その堅固な感覚、その山の線、その壮大さが、しばらくのあいだ〈私〉を追い払う。その外なる栄光が、取るに足りないちっぽけな私を追い払ってしまった。おもちゃを与えられた坊やのように――。彼はそれに夢中になる。彼は一時間ぐらいはそのおもちゃで遊び、それからそれを壊すだろう。そしてそのおもちゃを取り上げると、彼は、腕白で、泣いたり、いたずらをしかけたりするもとの自分に帰る。――それと同じことが起こったのである。その大きな山は、取るに足りない私を追い払った。そして自分は、しばらくそれを見ている。〈私〉がまったくいないとき、そこには美しさがある。そうなったら、自分と自然との関係は完全に変わる。大地は気高いものになる。あらゆる樹、あらゆる葉、あらゆるものがその美しさの一部になる。しかし人間は、そのあらゆるものを破壊しているのである。
 聖なるもの、神聖なるものが存在するだろうか? あきらかに、宗教的な意味で思考が組み立てたもの、すなわち、聖性にさまざまなイメージや観念を押しつけたものは、まったく聖なるものではない。聖なるものは、どんな区別ももっていない。ある人はキリスト教徒で、別の人はヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒だなどという区別はない。思考が組み立てたものは時間的なものであり、ばらばらであり、全体的なものではない。だから、それは神聖ではない。あなたがたは、神聖ではないのに思考によって聖性を付与された十字架上の像を崇拝するけれども――。同じことがヒンドゥー教徒たちや仏教徒たちがつくり上げたイメージの場合にもあてはまる。そうすると、何か神聖なのだろうか? 人がそれを見出すことができるのは、思考が、努力や意志なしに、自分自身を、自分のしかるべき役割を発見したときだけである。そうなったら、そこには広大な沈黙の感覚がある。思考の運動がいっさいない精神の沈黙――。精神が完全に自由で、沈黙しているときはじめて、人はあらゆる言葉を超えたもの、すなわち無時間なるもの、永遠なるものを発見する。そのあかつきには、そこから真実の瞑想の広大さが現れる。

〈私=われわれ〉は六根(六感)の働きによって美醜を選択している。六根は六識と六境の連関によって十八界を描き出す。それが一人ひとりの生きる世界となる。一人ひとりの生きる世界は、第七識、第八識、第九識に支えられている。〈描き出す〉とか〈支える〉という〈言葉〉で表現しているが、いずれも〈譬喩=方便〉にほかならない。〈私=われわれ〉は、それぞれの生きる場で美醜を〈選択〉していることになる。クリシュナムルティは、その美醜の選択は誤りで別に真の美がある、と主張しているわけではない。〈われわれ=私〉が選択している美醜がすべてなのである。それとは別に〈真〉の美醜がどこかに隠れているわけではない。クリシュナムルティは、〈私=われわれ〉による〈美醜〉の〈選択〉が、〈不安〉や〈恐怖〉、〈誤解〉や〈対立〉、〈混乱〉を生みだし、〈人間〉の生きる〈世界〉に混乱をもたらすのではないか、と問いかけているのだ。
  〈自分〉の〈十八界〉に出現する美しい風景や事物――。その美しさに見とれているとき〈私=われわれ〉は消えている。〈見る者〉が〈見られるもの〉となり、〈見られるもの〉が〈見る者〉となる瞬間である。それは〈思考〉や〈記憶〉を超えた〈何か〉なのだ、とクリシュナムルティは語りかける。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

  先師天童古仏(てんどうこぶつ)者(は)、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。上堂の示衆に云く、天童仲冬第一句、(ささ)たり牙牙(がが)たり老梅樹、忽ちに開華す一華両華、三四五華無数華、清(せい)、誇るべからず。香、誇るべからず。散りては春の容(おも)と作(な)りて草木を吹く、衲僧(なっそう)箇箇(ここ)頂門禿(かむろ)なり。驀箚(まくさつ=まっしぐら)に変怪(へんげ)す狂風暴雨、乃至(ないし)大地に交袞(みちみ)てる雪漫漫。老梅樹、太(はなは)だ無端なり、寒凍(かんとう)摩?(もさ=こする)として鼻孔酸し(びくうす)し。
 いま開演ある老梅樹、それ太無端(たいむたん)なり、忽開華(こつかいけ)す、自結果(じけっか)す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼精(がんぜい)なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。驀箚(まくさつ)なる神変神怪きはむべからず。乃至大地高天・明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり、葛藤の葛藤を結纏(けってん)するなり。老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一華あり。この一華時、よく三華四華五華あり、百華千華万華億華あり、乃至無数華あり。これらの華開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の不可誇なり。優曇華(うどんげ)・優鉢羅華(うはつらげ)等、おなじく老梅樹の一枝両枝なり。おほよそ一切の華開は、老梅樹の恩給(おんぎゅう)なり。人中・天上の老梅樹あり、老梅樹中に人閒・天堂を樹功せり。百千華を人天華と称す、万億華は仏祖華なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作(かんそ)するなり。祖師本来茲土(しど)と喚作するなり。(『正法眼蔵』「梅華」)

  道元は〈釈尊〉が覚知した〈人間・宇宙・生命〉の〈実存〉を、独自の〈譬喩〉で〈私=われわれ〉に語りかけている。老梅樹とは何か。それは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉の〈譬喩〉にほかならない。〈釈尊〉は〈先師天童古仏〉となり、〈先師天童古仏〉は〈釈尊〉となる。その語る〈言葉〉は〈釈尊〉となり、〈釈尊〉は語られる〈言葉〉となる。
「忽開華す、自結果す」とは、〈実存〉すなわち〈本有〉を意味する。〈老梅樹〉は四季のさまざまな姿を現す。「あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす」という〈譬喩〉は、〈善悪不二=肯定即否定〉の法理を示している。それは〈生死不二〉の法理に通じる。「あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼精なり」という〈言葉〉は、出家、すなわち仏道への発心、そして修証不二なる成道(古仏の眼精)を示している。「乃至大地高天・明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり、葛藤の葛藤を結纏するなり」とは、森羅万象の在りのままの姿がそのまま、〈老梅樹〉の樹功、すなわち功徳であることを言う。                                    
  「老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり」という〈譬喩〉は、〈私=われわれ〉が森羅万象を〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、〈森羅万象〉がそのまま〈われわれ=私〉となることを示している。〈老梅樹〉が花開くとき、同時に一つ、また二つ、そして百、千、万、億と無数の花が咲き乱れていく。花はその姿や香を誇ることなく、在りのままなのである。それを道元は「みな老梅樹の一枝両枝無数枝の不可誇なり」と説いている。「優曇華・優鉢羅華等」という〈譬喩〉は、〈私=われわれ〉が〈美しい〉と感じるものすべてを象徴している。 
  〈恁麼の時節〉とは〈始源の時〉、すなわち〈いまの一瞬一瞬〉を意味する。〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に〈覚醒〉する。それが〈華開世界起〉なのである。そのとき〈諸仏出現於世〉(諸仏は、いま、ここに出現する)、〈祖師本来茲土〉(祖師は、いま、ここに在り)の法理が現成する。すべての存在は〈いま、ここに〉開いている。それを実存と言う。〈天童古仏〉の「寒凍摩?(もさ)として鼻孔酸し」という〈譬喩〉は、〈生きる場〉の葛藤を意味する。そのすべてを見据えて、〈老梅樹〉は無限の〈空〉に聳えている。道元が説く「人中・天上の老梅樹あり、老梅樹中に人閒・天堂を樹功せり。百千華を人天華と称す、万億華は仏祖華なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作(かんそ)するなり。祖師本来(しど)と喚作するなり」という〈譬喩〉を、さらに深く思索することが〈私=われわれ〉に問われているのである。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(13)

クリシュナムルティ

       『生の全体性Ⅱ』ノート(13)

                 小幡照雄

 第十三章――死とは何か――

 人は、これまで何千という死を経験している。たとえば、ごく親密な人の死や原子爆弾での大量死――平和という名目のもとに、そしてイデオロギーの追求のために、人間が他の人間に対して犯したヒロシマやそのほかのあらゆる惨事である。そこでわれわれは、どんなイデオロギーも結論もなしに、こう問いかける。「死とは何か? 死ぬ当のもの、終わる当のものはいったい何か?」人は、継続的なものがあればそれは機械的になる、ということを見る。あらゆるものに終焉があれば、新しいはじまりがある。もし恐れていれば、そのときには、とうてい死と呼ばれるこの広大なものが何であるかを見出すことはできない。それは途方もないものであるにちがいない。死とは何かを見出すためには、死の前に、生とは何かということも追求しなければならない。人はけっしてそれをしない。けっして、生きることとは何かを追求しない。死は避けがたいものである。しかし、生きることとはいったい何か? この途方もない苦しみ、恐怖、心配、悲しみ、そういった類のものすべて――これが生きることだろうか? それに執着するために、人は死を恐れる。生きることとは何かを知らないから、人は死とは何かを知ることはできない。それらはともに進む。生きることの完全な意味とは何か、生きることの総体性(トータリティ)、生きることの全体性(ホールネス)とは何かを、見出すことができたら、そのときには、人は死の全体性を理解することができる。しかし人はふつう、生の意味を追求することなく、死の意味を追求する。

  〈私=われわれ〉は多くの死を体験していると〈思考〉している。しかし〈われわれ=私〉が死というものを直接体験する〈場〉は、〈時間的〉にも〈空間的〉にも極めて限られている。〈私=われわれ〉は、五感の働きによって〈体験〉し、それを〈記憶〉する。通常、五感のなかでも〈視覚〉の役割が最も大きい。〈時空〉の〈移動〉の大き旅行の場合、視覚以外の役割は聴覚、嗅覚、触覚、味覚の順に小さくなる。〈われわれ=私〉は〈物〉を見ているとき〈思考〉しているのだろうか。〈思考〉しているとき〈物〉を見ているのだろうか。
 〈体験〉を〈思考〉して、「死とは何か? 死ぬ当のもの、終わる当のものはいったい何か?」と自問するとき、どんな答えを期待できるのだろうか。「生とは何か? 生きる当のもの、始まる当のものはいったい何か」と自問しても同じである。〈私=われわれ〉は多くの生を体験していると〈思考〉している。しかし〈われわれ=私〉が生というものを直接体験する〈場〉は、死の場合と同様に〈時間的〉にも〈空間的〉にも極めて限られている。なぜなら、生も死も〈思考〉を超えた〈無限〉の〈法理〉に支えられているからである。「支える」という〈言葉〉の文底を開けば、〈生死〉とは、〈無限の法理〉そのものということになる。クリシュナムルティは、〈生の全体性〉を見出すことが〈死の全体性〉を見出すことなのだと言う。日蓮は次のように〈譬喩〉を説いている。

一 勧発品(かんぼつほん)
御義口伝に云く、此の品は再演法華なり。本迹二門の極理(ごくり)此の品に至極(しごく)するなり。慈覚大師云く「十界の衆生は発心修行」と釈し給うは此の品の事なり。所詮、此の品と序品とは生死(しょうじ)の二法なり。序品は我等衆生の生(しょう)なり。此の品は一切衆生の死なり。生死一念なるを妙法蓮華経と云うなり。品品に於て初めの題号は生の方(ほう)、終りの方は死の方なり。此の法華経は生死生死と転(めぐ)りたり。生の故に始めに「如是我聞」と置く、如は生の義なり。死の故に終りに「作礼而去」と結したり、去は死の義なり。作礼の言(ことば)は生死の間に成(な)しと成す処の我等衆生の所作なり。此の所作とは妙法蓮華経なり。礼(らい)とは不乱の義なり。法界妙法なれば不乱なり。天台大師の云く「体の字は礼(らい)に訓ず、礼は法なり。各各(おのおの)其の親を親とし、各各其の子を子とす。出世の法体も亦復(またまた)是の如し」と。体とは妙法蓮華経の事なり。先づ体玄義を釈するなり。体とは十界の異体なり、是を法華経の体とせり。此等を作礼而去とは説かれたり。法界の千草万木(せんそうまんもく)・地獄餓鬼等、何(いずれ)の界も諸法実相の作礼に非ずという事なし。是れ即ち普賢菩薩なり。普とは法界、賢とは作礼而去なり。此れ即ち妙法蓮華経なり。爰(ここ)を以て品品の初めにも五字を題し、終りにも五字を以て結し、前後・中間、南無妙法蓮華経の七字なり。末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり。此等の心を失うて要法に結ばずんば、末法弘通の法には不足の者なり。剰(あまつさ)え日蓮が本意を失うべし。日蓮が弟子檀那、別の才覚無益(むやく)なり。妙楽の釈に云く「子父の法を弘む、世界の益(やく)有り」と。子とは地涌の菩薩なり、父とは釈尊なり、世界とは日本国なり、益とは成仏なり、法とは南無妙法蓮華経なり。今又以て此(かく)の如し。父とは日蓮なり、子とは日蓮が弟子檀那なり、世界とは日本国なり、益とは受持成仏なり、法とは上行所伝の題目なり。(『御義口伝下』 一 二十八品悉南無妙法蓮華経の事)

「再演法華」とは、〈普賢経〉が〈法華経〉であり、〈法華経〉が〈普賢経〉であることを意味する。従って〈普賢経=法華経〉の極理は、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉となる。法華経は序品の「如是我聞」で始まり、普賢経の「作礼而去る」で終わっている。最初の「如」の一字は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉が個々の〈生〉に収斂することを示し、最後の「去」の一字は個々の〈生〉が〈宇宙・生命=生の全体性〉に還流することを示している。「十界の衆生は発心修行」という〈譬喩〉は、生死の二法が〈妙法〉に命(もと)づく本有の〈生命〉の〈働き〉であることを示している。
 法華経は〈生死一念〉であり、法華経の各品もまた、それぞれに〈生死一念〉を説いているのだ。「作礼」は〈生〉と〈死〉、〈死〉と〈生〉の間に起こるあらゆる〈現象〉である。〈過去五百塵点劫〉の〈生死・作礼〉があり、〈現在〉の〈生死・作礼〉があり、〈未来五百塵点劫〉の〈生死・作礼〉がある。〈私=われわれ〉が〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことができるのは、〈いま、ここに〉開く〈生死・作礼〉だけなのである。
  作礼の「礼」は不乱、すなわち〈妙法〉に則ることを意味する。「法界の千草万木・地獄餓鬼等、何の界も諸法実相の作礼に非ずという事なし」という〈譬喩〉は、〈私=われわれ〉をはじめ森羅万象が「諸法実相」、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉の現成であることを示している。普賢菩薩の「普」は〈法界=生きる場〉であり、「賢」は一切の〈振る舞い・言動〉である。〈是の如く聞く者〉は〈是の如く説く者〉となる。〈礼を作して去る者〉は〈礼を作して来る者〉となる。
  日蓮は「末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり」と宣言している。この要法とは言うまでもなく、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉の〈法理〉である。それを弘通する唯一の〈方法的原理〉を確立したのは日蓮なのだ。その〈方法的原理〉の肝要である〈善悪不二=肯定即否定〉〈因果倶時=能動即受動〉の〈法理〉に則って、クリシュナムルティは〈私=われわれ〉に語りかけている。〈釈尊〉が〈日蓮〉と呼応し、〈日蓮〉が〈道元〉と呼応し、文底下種独一本門の〈仏法〉と〈クリシュナムルティ〉が呼応する。蜜行第一の〈羅ご羅)のように、多くの現代の〈菩薩〉たちが、〈慈悲〉の〈仏道〉を修行・実践している。仏は菩薩を讃歎し、菩薩は仏を讃歎する。

 「生の意味は何か?」と問うとき、人はただちに結論を出している。人は、「生の意味はこうだ」と言う。つまり、自分の条件づけに従って生に意味を与えているのである。もし理想主義者であるなら、人はふたたび自分の条件づけに従い、自分がこれまで読んだことなどに従って、生に観念的な意味を付与していることになる。しかし生に特定の意味を付与していなければ、生はこれだあれだと言っていなければ、そのときには人は自由である。政治的、宗教的、社会的なイデオロギーや方式から自由である。だからわれわれは、死の意味を追求する前に、生きることとは何かとたずねているのである。いま生きている〈生〉が、ほんとうの生きることだろうか? お互い同士の絶え間ない闘いが、お互いを理解しようとやっきになっていることが、生きることだろうか? 書物、心理学者たち、あるいは何かの権威に従って生きることが、生きることだろうか?
 もしこの種のものをすべて払いのけたら、そのときには、人は〈あるがまま〉から始める。この場合の〈あるがまま〉とは、われわれの生活が、近かろうと遠かろうと、人類、男、女、隣人のあいだのとてつもない責め苦、とてつもない闘いになってしまっているということである。その闘いのなかにも、青空を見る時おりの自由や、何か素敵なものを見、それを楽しみ、しばしのあいだ幸せになる自由はある。しかし、闘いという雲がまもなく帰ってくる。すべてこの種のものを、われわれは生きることと呼んでいる。教会へ行って欽定訳聖書の詠唱をしたり、あるいは新英語聖書の詠唱をしたりして、一定の観念を受け容れている。それを、人は生きることと呼ぶ。そして人は、それに深くかかわるあまりそれを受け容れてしまっている。しかし、不満、真の不満にはそれなりの意義がある。不満はひとつの炎である。人は、子供じみた行為、つかのまの満足によって、それを抑圧している。だが不満は、それを開花するがままにまかせ、湧き上がるままにまかせるときには、真実ではないものすべてを焼き払う。

  生きる意味について問われると、〈私=われわれ〉は〈過去性・他者性〉の〈分断化・死物化〉した〈権威〉に従って、それぞれに結論を出そうとする。そこには〈不安〉と〈恐怖〉がつきまとう。生きる場の〈現実〉は〈競争〉や〈闘い〉など、さまざまな〈葛藤〉が渦巻き、〈生の断片化〉に覆われているからだ。政治的、宗教的、社会的なイデオロギーや方式はすべて、何の保証もない空約束に終わっている。〈自己〉の利権を拡大するために〈他者〉の〈生命・人生〉を搾取する。そんな〈幻想〉が人々を飲み込んでいる社会。〈私=われわれ〉はみな〈蠅取り瓶〉の中で、最大の〈金蠅〉になることを競い合っているのではないか。
 そのような〈錯誤〉に覆われた世界に、〈私=われわれ〉は不満を抱くようになる。〈不満〉とは飢えを満たそうとする〈心〉であり、それを仏法は〈餓鬼界〉と呼んでいる。〈餓鬼界〉は善悪二道に通じる。それを支えているのは〈善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉である。それを「開花するままにまかせ、湧き上がるままにまかせる」とは、それを〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことではないか、とクリシュナムルティは〈私=われわれ〉に問いかける。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

諸悪なきにあらず、莫作(まくさ)なるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり。諸悪は空にあらず、莫作なり。諸悪は色にあらず、莫作なり。諸悪は莫作にあらず、莫作なるのみなり。たとへば、春松は無にあらず有にあらず、つくらざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず、つくらざるなり。諸仏は有にあらず無にあらず、莫作なり。露柱燈籠(ろちゅうとうろう)・払子?杖(ふっすしゅじょう)等、有にあらず無にあらず、莫作なり。自己は有にあらず、無にあらず、莫作なり。恁麼(いんも)の参学は、見成せる公案なり、公案の見成なり。主より功夫(くうふ)し、賓(ひん)より功夫す。すでに恁麼なるに、つくられざりけるをつくりけるとくやしむも、のがれず、さらにこれ莫作の功夫力なり。
 しかあれば、莫作にあらばつくらましと趣向するは、あゆみをきたにして越にいたたらんとまたんがごとし。諸悪莫作は、井(い)の驢(ろ)をみるのみにあらず、井の井を見るなり、驢の驢をみるなり。人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇の応底(おうち)道理(どうり)あるゆゑに、諸悪莫作なり。仏真法身(ぶつしんほっしん)、猶若虚空(ゆうにゃくこくう)、応物現形(おうぶつげんぎょう)、如水中月(にょすいちゅうげつ)なり。応物の莫作なるゆゑに、現形の莫作あり。猶若虚空(ゆうにゃくこくう)、左拍右拍(さはつうはく)なり。如水中月(にょすいちゅうげつ)、被水月礙(ひすいげつげ)なり。これらの莫作、さらにうたがふべからざる現成なり。
 衆善奉行。この衆善は、三性のなかの善性なり。善性のなかに衆善ありといへども、さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善の正当恁麼時、きたらざる衆善なし。万善は無象(むぞう)なりといへども、作善のところに計念すること、磁鉄よりお速疾なり。そのちから、毘乱風(びらんぷう)よりもつよきなり。大地山河・世界国土・業増上力、なほ善の計会を?礙することあたはざるなり。(『正法眼蔵』「諸悪莫作」)

  道元は、〈私=われわれ〉が〈諸悪〉と見るものは、〈有〉に非ず〈無〉に非ず、〈莫作〉なのだと言う。〈莫作〉とは〈在りのまま〉の〈実存〉を意味する。道元が語る〈譬喩〉を〈譬喩〉のまま読むとき、〈われわれ=私〉の〈生死〉もまた〈莫作〉であることが見えてくる。「露柱燈籠・払子?杖等、有にあらず無にあらず、莫作なり」という〈譬喩〉は、〈われわれ=私〉が出会う〈森羅万象〉が〈莫作〉であることを示している。「恁麼の参学」とは〈恁麼〉、すなわち〈在りのまま〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことにほかならない。「見成せる公案なり、公案の見成なり。主より功夫し、賓より功夫す」という〈言葉〉は、〈見る者〉が〈見られるもの〉となり、〈見られるもの〉が〈見る者〉となることを示している。
 〈私=われわれ〉は〈生きる場〉を〈主〉と〈賓〉、すなわち〈主体〉と〈客体〉、〈主体〉と〈属性〉に分節する。そこに余剰な〈思考〉が生まれ、さまざまな〈虚構〉をつくり出す。そのことを把握し、〈生きる場〉の〈実存〉に〈覚醒〉することが〈われわれ=私〉に問われているのだ。「井の驢をみる」は〈因果異時=自他隔別〉、「井の井を見る・驢の驢をみる・人の人みる・山の山をみる」は、〈因果倶時=自他不二=能動即受動〉の〈法理〉を示している。それを道元は「説箇の応底(おうち)道理(どうり)あるゆゑに、諸悪莫作なり」という〈譬喩〉で説いているのである。
 「仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月」の「仏真法身」は〈中諦〉、「猶若虚空」は〈空諦〉、「応物現形」は〈仮諦〉、「如水中月」は三諦円融となる。これは〈妙法の曼荼羅=性の全体性〉を示す〈譬喩〉にほかならない。「応仏の莫作」とは「現形の莫作」である。「猶若虚空、左拍右拍なり。如水中月、被水月礙なり」という〈言葉〉もまた、〈因果倶時=能動即受動〉の〈法理〉を示している。
 さらに道元は、「衆善」を含む「三性=善性・悪性・無記性」というものがどこかに潜んでいて、それが行人(修行=実践する人)に応じて現れるわけではないと、説いている。「万善は無象なりといへども、作善のところに計念すること、磁鉄よりも速疾なり。そのちから、毘乱風(びらんぷう)よりもつよきなり。大地山河・世界国土・業増上力、なほ善の計会を?礙することあたはざるなり」という道元の〈譬喩〉は、クリシュナムルティの「それを開花するがままにまかせ、湧き上がるままにまかせるときには、真実ではないものすべてを焼き払う」という〈譬喩〉に対応している。

 ばらばらではない全体的な〈生〉を生きることが可能だろうか? 思考が家族、会社、教会などというかたちで分裂していないような〈生〉を――。死はあまりにもばらばらになっているので、死が訪れるとき、それに脅え、それに衝撃を受けて、人の精神は死に直面することができない。それは全的な〈生〉を生きてこなかったからである。
 死はやってくる。そして、その死と言い争うことはできない。「もう少し待ってください」と言うことはできない。死はそこにある。それがやって来るとき、精神は、自分が生き、活力やエネルギーに満ち、生命に満ちていながら、あらゆるものの終焉を迎えることができるだろうか? 人生が葛藤や心配に浪費されていないときには、人はエネルギーや明晰さに満ちている。ここで言う死とは、人が知っているものすべての終焉を意味する。そこには完全な終焉がある。精神は、生きていながら、なおかつそういう状態に直面することができるだろうか? そうなったら、人は死とは何かという意味のすべてを理解するだろう。もし〈私〉という観念にしがみついていたら、すなわち存続しなければならないと信じている〈私〉、そのなかに高次の意識、至高の意識が存在すると信じている〈私〉をも含めて、思考によって組み合わされた〈私〉という観念にしがみついていたら、そのときには、人は生における死とは何かを理解することはない。
 思考は、既知なるもののなかに生きている。それは〈既知〉の産物である。〈既知〉からの自由がなければ、どうてい死とは何かを見出すことはできない。その〈死〉とは、肉体のもつあらゆる根深い習慣やその他すべてのものの終焉、体や名前やその肉体が得たあらゆる記憶をほんとうの自分だと思いこんでしまうことからの訣別である。肉体的に死ぬときには、そのすべてを持ち越すことはできない。自分の財産のすべてをそこへ持っていくことはできない。だから、同じ意味で、自分の知っているすべてを、生において終わらせなければならない。ということは、自分はまったく単独であるということである。孤独(ロンリネス)ではなく、単独(アロンネス)である。それは、完全に全体となった境地にほかならない。単独(アロンネス)とは全一(オールワン)を意味する。

 全体的な〈生〉を生きなければ、全体的な〈死〉を把握することはできない。それは〈生〉も〈死〉も受け容れていないこと、そして〈過去〉の〈死物化〉した〈権威〉に取り込まれたまま、漫然と生かされていることを意味する。〈思考〉が〈自分〉の生きる〈世界〉を分断化し、競争や対立、不安、恐怖を生み出す。〈私=われわれ〉は協力や和解、友情、夢、希望を〈思考〉する。〈思考〉は〈実現〉するのだろうか。自分の体験を語るとき、〈私=われわれ〉は〈思考〉している。〈十界互具〉の〈私=われわれ〉は、どんな〈思考〉も〈実現〉する、あるいは〈実現〉しないと思い込む。
 〈過去〉も〈現在〉も〈未来〉も〈脱益化・死物化〉した〈思考〉の〈構築物〉にほかならない。他者の体験を学ぼうとする〈心〉は、自他の「序(じょ)・正(しょう)・流通(るつう」を錯誤する。〈自己〉の体験を語る〈心〉も同様なのである。「序・正・流通」とは、仏法が説く「序分・正宗分・流通分」の略称である。薬に例えれば、「序分」は効能書き、「正宗分」は薬そのもの、「流通分」は「飲む・効果」ということになる。これは〈われわれ=私〉の体験にも当てはまる。〈序分〉は〈過去性の権威〉である。〈正宗分〉は〈自己〉、〈流通分〉は〈自己〉の体験となる。〈私=われわれ〉にとって、〈他者〉の〈実践・結果〉は〈自己〉の〈序分〉なのである。ところが〈われわれ=私〉は、〈他者〉の〈流通分〉を〈自己〉の〈流通分〉と錯誤しやすいのだ。他者の体験を聞いたり読んだりするときには、この点を自覚する必要がある。まず〈正宗分〉である〈自己〉を確立しなければ、すべて〈酔生夢死〉に終わることになる。
 クリシュナムルティは「〈死〉に対しては、言い争うことも、「もう少し待ってください」と言うこもできないと言う。〈生〉も〈死〉も突然やってくる。〈生死〉は〈自己〉の計らいではない。〈無量の法〉に支えられた〈自己〉そのものなのである。〈生死〉は〈自己〉となり、〈無量の法〉となる。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

 生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。こころは、夾山(かつさん)・定山(じょうざん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。
 生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。
 生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。故(かるがゆえ)に、仏法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅来たらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。
 この生死は、即ち仏の御いのちなり也。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏のいのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也。仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心を以てはかることなかれ、ことばをもつていふことなかれ。ただわが身をも心をもはたちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
 仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふことなき、これを仏となづく。又ほかにたづぬることなかれ。『正法眼蔵』「生死」)

 「生死の中に仏あれば生死なし」とは、とは、〈仏〉は〈生死〉であり、〈生死〉は〈仏〉であることを言う。〈生死の法〉がそのまま〈仏〉であり、〈仏〉がそのまま〈生死の法〉なのである。「生死の中に仏なければ生死にまどはず」という〈言葉〉も、同じことを示している。道元は〈己心〉の二人の禅師の〈言葉〉の文底を開いて、生死の意義を説いているのである。「生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし」とは、この〈生死〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことにほかならない。
 法華経二十八品に説かれている最初の「如是我聞」と最後の「作礼而去」が示す〈森羅万象=人間・宇宙・生命〉の〈生死〉。それを把握するための〈方法的原理〉は、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に〈境智冥合=覚醒〉する以外にないのである。〈生死〉のほかに〈仏〉を求める〈心〉は〈釈尊=仏法〉に違背する。それは〈生死=苦しみ〉の因を集めて解脱の道を失うことにほかならない。
 クリシュナムルティもまた、「〈既知〉からの自由がなければ、どうてい死とは何かを見出すことはできない。その〈死〉とは、肉体のもつあらゆる根深い習慣やその他すべてのものの終焉、体や名前やその肉体が得たあらゆる記憶をほんとうの自分だと思いこんでしまうことからの訣別である」と〈私=われわれ〉に語りかけている。〈われわれ=私〉は、道元が説く「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり」という〈言葉〉を深く思索しなければならない。
 〈死〉は身体が得た〈習慣〉や〈名前〉、〈記憶〉からの訣別である。〈私=われわれ〉は、六根(六感)の働きによって〈自己〉が得たと〈思考〉しているものをすべて〈生〉において終わらせなければならない。それが〈死〉である。財産も地位も名誉も肩書も〈放棄〉して、〈単独〉となる。それを〈非孤独=孤独に非ざるもの〉、すなわち〈全一〉へと開く〈方法的原理〉こそ、〈生の全体性〉への〈覚醒〉であり、〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉なのである。〈釈尊〉と〈日蓮〉、そして〈道元〉と〈クリシュナムルティ〉は、同じ〈生死〉の法理を、それぞれの〈譬喩〉で説き示すことによって、〈私=われわれ〉の〈覚醒〉をうながしているのである。
 「生より死にうつると心うるは、これあやまり也。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり」という〈言葉〉は、生死不二の〈法理〉を示している。どこかに〈生〉と〈死〉が別々に潜んでいて、交代するわけではない。〈生〉と言えば、すべてが〈生〉となり、〈死〉といえば、すべてが〈死〉となる。〈生〉も〈死〉も〈何か〉の部分ではなく、〈生の全体性〉、すなわち〈死の全体性〉の現成なのである。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(12)

クリシュナムルティ

         『生の全体性Ⅱ』ノート(12)

                   小幡照雄

 第十二章――悲しみは、時間と思考の結果である――

  われわれは、人間の実存全体を問題にしている。そして、人間がはたして自分の苦悩、努力、心配、暴力、残忍性から解放されうるかどうか、悲しみが終焉するかどうかを問題にしている。
 なぜ人類は、あらゆる時代を通じて、苦しみを被り、苦しみに耐えてきたのか? その苦しみのすべてに終焉がありうるだろうか?
 人は、あらゆるイデオロギーから自由にならなければならない。イデオロギーは、それが政治的なものであろうと、社会的なものであろうと、宗教的なものであろうと、あるいは個人的なものであろうと、危険な幻想である。あらゆる種類のイデオロギーは、結局は全体主義に行きつくか、あるいはカトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒、仏教徒といった宗教的な条件づけとなって終わるかのいずれかである。そしてイデオロギーは非常に大きな重荷になる。だから、苦しみというこの大きな問題を探求するためには、一切のイデオロギーから自由にならなければならない。人は、ある結末を引き起こしてしまうような大いなる苦しみを味わったかもしれない。しかし、この問題を探求するためには、いっさいの結末から完全に自由にならなければならない。

  〈私=われわれ〉は政治的、社会的、宗教的なものを含め、あらゆる〈イデオロギー〉から〈自由〉にならなければならない。それには何が必要なのか。〈危険な幻想〉である〈イデオロギー〉によって、〈現実〉は動き、動かされてきた。そして今なお動かされ、動いている。〈われわれ=私〉は、〈苦しみ〉という〈問題〉を〈探求〉しなければならない。〈私=われわれ〉は、〈苦しみ〉や〈痛み〉が、〈不安〉や〈恐怖〉と結びつくように〈教育〉され、〈訓練〉されてきた。それを〈思考〉が〈反復〉している。逆説的に言えば、クリシュナムルティは、「直接的な〈体験〉に〈不安〉や〈恐怖〉は伴うのか」と問いかけているのだ。〈一切の結末〉とは、〈教育〉と〈訓練〉、そして〈思考〉が生み出した〈習性〉にほかならない。その〈結末〉であり、〈習性〉である〈自己〉から完全に〈自由〉になることが、〈われわれ=私〉に問われているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

漸源仲興(ぜんげんちゅうこう)大師、因(ちな)みに僧問う、「如何是古仏心《如何にあらんか是れ古仏心》」。師云く、「世界崩壊(ほうえ)《世界崩壊す》」。僧云く、為甚麼(いしも)世界崩壊《甚麼(なに)としてか世界崩壊なる》」。師云く、寧無我身(ねいむがしん)《寧ろ我身無からん》」。
 いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり。崩壊の形段(いんとん)は、この尽十方界に参学すべし。自己に学する事なかれ。自己に参学せざるゆゑに、崩壊の当恁麼時は、一条両条、三四五条なるがゆゑに無尽条なり。かの条々、それ寧無我身なり。我身は寧無なり。而今(しきん)を自惜して、我身を古仏心ならしめざることなかれ。
 まことに七仏以前に古仏心壁竪(へきじゅ)す、七仏以後に古仏心才生(さいしょう)す、諸仏以前に古仏心花開(けかい)す、諸仏以後に古仏心結果す、古仏心以前に古仏心脱落(とつらく)なり。(『正法眼蔵』「古仏心」)

  ここには〈師弟〉の問答が〈譬喩〉として取り上げられている。〈師弟〉は必ず、このテキストを読む者の己心に現成する。〈師〉も〈私=あなた〉となり、〈弟子〉も〈あなた=私〉となる。〈古仏心〉とは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉である。〈世界崩壊〉とは、〈世界〉が〈古仏心〉であり、〈古仏心〉が〈世界〉であるとこを意味する。〈世界〉のほかに〈古仏心〉が在るわけでもなければ、〈古仏心〉のほかに〈世界〉があるわけでもない。〈言葉〉が定義する〈主体〉と〈属性〉という関係は〈虚構〉なのである。〈私=われわれ〉は〈虚構〉に〈虚構〉を重ねて、生きる世界を狭めているのだ。
 〈森羅万象〉を〈主体〉と〈属性〉に分節する〈言葉=思考〉の働きは、生きるために必要な方便なのである。その位置づけと展開の在り方が、常に問われているのだ。方便とは捨てるものではなく、用いるものなのである。従って〈生の分断性〉も捨てることはできない。それを方便として、どう用いるのか。クリシュナムルティもまた、それを問いかけているのである。〈寧無我身〉という〈譬喩〉は、〈森羅万象〉を見る〈我身〉は、〈森羅万象〉であり、見られる〈我身〉は〈森羅万象〉であることを示している。
 〈七仏以前・七仏以後・諸仏以前・諸仏以後・古仏心以前〉とは、〈色心不二・久遠即末法〉、すなわち〈いまの一瞬一瞬〉にほかならない。〈古仏心壁竪・古仏心才生・古仏心花開・古仏心結果・古仏心脱落〉は、〈因果倶時=能動即受動〉の法理を示している。

 明らかに、生理的、肉体的な苦しみというものがある。そしてその苦しみは、もしひとがあまり注意深くなければ、精神を歪めるおそれがある。しかしわれわれは、人間の心理的な苦しみを問題としている。苦しみという問題を探求するとき、われわれはあらゆる人間の苦しみを探求している。というのも、われわれひとりひとりが全人類の本質をもっているからである。人はみな、心理的、内面的に、深く自分以外の人類に類似している。彼らは苦しんでいる。彼らは、われわれのひとりひとりがそうであるように、大きな心労、不安、混乱、暴力を経験し、大きな非痛感、喪失感、孤独感を味わっている。われわれすべてのあいだには、心理的な意味での区別はまったくない。心理的には、われわれは世界であり、世界はわれわれである。それは判断ではなく、結論でもなく、知的な理論でもない。それは感じられ、気づかれ、生きられるべき現実である。この悲しみという問題を探求すれば、自分個人の限られた悲しみばかりではなく、人類の悲しみをも探求していることになる。それを個人的なものに引き下げてはならない。なぜなら、人が個人的なものに引き下げることなく、その巨大性、その全体性の理解において、人類の巨大な悲しみを見るならば、自分自身の一部がそのなかでひとつの役割を担うようになるからである。それは、どうやって自分が悲しみから解放されるかということだけに汲々とする利己的な探求ではない。もしそれを個人的で、限定的なものにするなら、そのときには人は巨大な悲しみのもつ重要な意味を理解しないだろう。

  〈他者〉に感謝する心があり、〈他者〉を恨む心がある。〈自己〉を恨む心があり、〈自己〉に感謝する心がある。感謝は喜びと報恩の波紋を広げ、恨みは悲しみと復讐の波紋を広げる。これは〈因果異時=自他隔別〉の視点である。〈因果倶時=能動即受動〉の視点は、感謝は〈喜びに非ず、報恩に非ず〉ととらえる。〈非ず〉という言葉は〈否定〉を意味するものではない。それは〈言葉〉や〈思考〉でとらえることのできない〈何か〉を示しているのだ。
 〈因果異時=自他隔別〉の視点は〈私=あなた〉が中心となり、〈悲しみ〉を〈あなた=私〉に矮小化する。それはどこまでも〈利己的な探求〉に留まらざるを得ない。〈因果倶時=能動即受動〉の視点は、人類の悲しみを〈見詰める〉心をはぐくむ。〈見る者〉は〈見られるもの〉となり、〈見られるもの〉は〈見る者〉となる。その〈心〉は、人類が抱える〈巨大な悲しみ〉の重要な意味を把握する。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

 仏々の大道、つたわれて綿密なり。祖々の功業(くうごう)、あらはれて平展なり。このゆゑに大悟現成(だいごげんじょう)し、不悟至道(ふごしどう)し、省悟(しょうご)弄悟(ろうご)し、失悟放行(しつごほうあん)す。これ仏祖家常なり。挙拈(こねん)する使得(すて)十二時あり、抛却(ほうぎゃ)する被使(ひし)十二時あり。さらにこの関?子(かんれいす)を跳出する弄泥団(ろうでいとん)もあり、弄精魂(ろうぜいこん)もあり。大悟より仏祖かならず恁麼(いんも)現成する参学を究竟(くきょう)すといへども、大悟の渾悟(うんご)を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。(『正法眼蔵』「大悟」)

  「仏々の大道、つたわれて綿密なり。祖々の功業、あらはれて平展なり」という〈譬喩〉は、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。「つたわれて綿密」は〈久遠即末法〉を意味し、「あらはれて平展」は〈色心不二〉を意味する。「大悟・不悟・省語・失語」は〈悟り=覚醒〉を〈道得=言表〉し、「現成・至道・弄悟・放行」は〈成道〉を〈言表=道得〉している。このとき、〈道得=言表〉は〈悟り=覚醒〉となり、〈言表=道得〉は〈覚醒=悟り〉となる。これが「仏祖家常」であり、〈実存〉なのである。「挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり」という〈譬喩〉は、〈いま、ここに〉に貫徹する〈文底下種独一法門〉の〈法理〉を示している。「挙拈・抛却」は〈善悪不二=肯定即否定〉であり、「使得・被使」は〈因果倶時=能動即受動〉である。「十二時」とは、〈いまの一瞬一瞬〉、すなわち〈始源の時〉にほかならない。
  「この関?子を跳出する弄泥団(ろうでいとん)もあり、弄精魂(ろうぜいこん)もあり」という〈譬喩〉は、〈言葉〉や〈思考〉で諸現象を〈分析=分断化〉すれば、すべてが〈権実雑乱〉に覆われることを示している。「大悟」と「渾悟」、「仏祖」、「渾仏祖」、「渾大悟」という〈言葉〉は、〈主体〉と〈属性〉の関係を示すものではなく、いずれも同じものの別名なのである。「渾」の一時は〈そのまますべて〉を表す。ここでもまた、「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」という〈譬喩〉の文底が問われることになる。

 観察する者は観察されるものである。経験する者は経験されるものである。ちょうど、考える者が考えられるもの〈思考〉であるように――。観察する者が「私は悲しみのなかにある」と言って、自分自身を悲しみから切り離してから、その悲しみに対して何かをしようとする、という場合のような分裂はまったくない。そのような場合には、彼はたとえば悲しみから逃げたり、慰めを求めたり、悲しみを抑圧したり、悲しみを超越しようとするあらゆるさまざまな手段を試みる。したがってもし、観察する者は観察されるものであるという事実を見るなら、そのときには人は葛藤をもたらす分裂をすべて消し去る。人は、観察する者は観察されるものとまったく別個のものだと考えるように、育てられ、教育されてきた。たとえば、人は分析する者である。したがって人は分析することができる。しかし、その分析する者はじつは分析されるものなのである。だから、この知覚においては、観察する者と観察されるもの、考える者と考えられるもののあいだには何の区別もない。考える人のない思考は存在しない。もし、考える人がいなければ、思考もない。――それらは一体なのである。
 そこで、もし観察する者は観察されるものであるといういことを見るなら、そのときには人は悲しみとは何かを決めつけてはいない。人は悲しみに対して、それがどうあるべきか、どうあってはならないのかなどと命じてはいない。人はどんな選択もなく、どんな思考の運動もなく、ただ観察している。

  〈私=われわれ〉は、六感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・蝕覚・統覚)の働きによって、〈物事〉を〈観察〉する。この〈観察〉という〈行為〉について、仏教は六根・六境・六識の連関が〈因果倶時=能動即受動〉の法理に則って描き出す〈十八界〉ととらえている。〈私=われわれ〉を〈因〉とすれば、〈十八界〉は〈果〉となる。逆に〈十八界〉を〈因〉、〈われわれ=私〉を〈果〉ととらえることもできる。〈私=われわれ〉は〈見る者〉であると同時に〈見られるもの〉でもある。〈私=われわれ〉が見ていないとき、その見られていないものは〈存在〉するのだろうか。〈言葉=思考〉による〈分析〉によって、その答えを導き出すことはできない。従って、その答えは〈因果倶時=能動即受動〉〈善悪不二=肯定即否定〉となる。その法理を〈釈尊〉は、〈無量義経徳行品〉の〈三十四非〉で示している。クリシュナムルティは、その〈法理〉をさまざまな〈譬喩〉で説き、〈われわれ=私〉を〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉へ導こうとしているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を展開している。

釈迦牟尼仏、告大衆言、「一心欲見仏(いっしんよくけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)。時我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(くしゅつりょうじゅせん)《一心に仏を見んと欲して、身命を惜しまず。時に我及び衆僧、倶(ともに)霊鷲山に出(い)ず》」。
  いふところの一心は、凡夫・二乗等のいふ一心にあらず、見仏の一心なり。見仏の一心といふは、霊鷲山なり、及衆僧なり。而今の箇々、ひそかに欲見仏をもよほすは、霊鷲山をこらして欲見仏するなり。しかあれば、一心すでに霊鷲山なり。一身それ心に倶出せざらんや。倶一身心ならざらんや。身心すでにかくのごとし、寿者命者またかくのごとし。かるがゆゑに、自惜を霊鷲山の但惜無上道に一任す。このゆゑに、我及衆僧霊鷲山倶出なるを見仏の一身と道取す。(『正法眼蔵』「見仏」)

  「一心に仏を見んと欲して、身命を惜しまず」の〈一心〉は〈凡夫・二乗〉の〈一心〉ではない。〈凡夫・二乗〉とは、〈生の分断化〉にとらわれた〈心〉である。「仏を見る一心」は〈霊鷲山〉となり、〈及衆僧〉となる。それを〈釈尊〉は〈我及衆僧霊鷲山倶出〉と説いているのである。日蓮が文字曼荼羅として〈具現化〉した〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉は〈我及衆僧霊鷲山倶出〉の〈虚空会の説法〉を、そのまま顕している。その〈妙法の曼荼羅〉と〈境智冥合〉することは、〈自己=私=われわれ〉の〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことに通じる。それぞれの〈生きる場〉で、〈自惜を霊鷲山の但惜無上道に一任す〉という〈言葉〉の〈文底〉を深く探求することが、一人ひとりに問われているのである。

 悲しみの原因を理解すると、悲しみは終わるだろうか? 私は自分自身にこう言うかもしれない。「私は自己憐憫の気持ちでいっぱいだ。もし私が自己憐憫に終止符を打つことができれば、どんな悲しみもなくなるだろう」。そこで、私はその自己憐憫がいかにばかげているかを知っているから、それを追い払うことに取り組む。私はそれを抑えつけようとする。私は、それをあれこれと心配している。そうすることによって、私は、頭のなかでは、自分は悲しみから解放されていると考えるかもしれない。しかし、悲しみの原因を暴露することは、悲しみの終焉ではない。悲しみの原因を探し求めることは、エネルギーの浪費である。悲しみはそこにあって、大きな注意を要求している。それは、人に行動することを求める問いかけである。だが人は、その求めに応じないでこう言う。「私にその原因を調べさせてください。私は見出しましょう。それはこれか、あれか、あるいは別のものでしょうか? 私はまちがっているかもしれません。それをほかの人に相談しましょう。あるいは、私にそのほんとうの原因は何であるか教えくれる本があるでしょうか?」しかし、そういうものはすべて、現実的な事実からの逃避、その問いかけへの現実的応答からの逃避である。

 〈生の分断化〉に覆われた 〈権力者〉たちはみな、〈現実的な事実〉から〈逃避〉し、その〈問いかけ〉からも〈逃避〉し続けている。〈不安〉は〈不安〉を呼び、〈恐怖〉は〈恐怖〉を呼び、〈憎悪〉は〈憎悪〉を呼び、〈憶測〉は〈憶測〉を呼び、〈葛藤〉は〈葛藤〉を呼ぶ。それが〈人間〉の生きる場で進行している殺戮・破壊・紛争の〈現実〉なのだ。すべてが〈因果倶時=能動即受動〉の法理に則っている。大国も小国も民族も宗教的組織も、〈問題〉を〈定義〉するだけで、〈問題〉の解決はすべて、〈幻想〉の〈未来〉に託している。
 〈葛藤〉のなかに〈葛藤〉が生じ、〈蠅取り瓶〉のなかに〈蠅取り瓶〉がつくられていく。〈私=われわれ〉は、〈平和〉の実現や〈貧困〉の絶滅を、〈幻想〉の〈未来〉に託し、〈言葉〉による〈定義〉を〈歴劫修行〉の〈溝〉のなかで繰り返し続けるのか。〈悲しみ〉は〈私=われわれ〉の〈注意〉を引く。しかし、その〈原因〉を追求すると、その〈原因〉はどこにも〈収斂〉することなく、〈混沌の海〉に〈拡散〉してしまう。〈悲しみ〉の〈原因〉は何なのだろうか。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

 諸仏諸祖は道得なり。このゆゑに、仏祖の仏祖を選するには、かならず道得也未と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。柱杖払子にても問取す、露柱燈籠にても問取するなり。仏祖にあらざれば問取なし、道得なし、そのところなきがゆゑに。
 その道得は、他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず、ただまさに仏祖の究?あれば、仏祖の道得あるなり。かの道得のなかに、むかしも修行し證究す、いまの功夫し?道す。仏祖の仏祖を功夫して、仏祖の道得を??(はんけん)するとき、この道得、おのづから三年、八年、三十年、四十年の功夫となりて、尽力道得するなり。
 このときは、その何十年の閒も、道得の閒隙(けんぎゃく)なかりけるなり。しかあればすなはち、證究のときの見得(けんて)、それまことなるべし。かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり。ゆゑに、いまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得、いまの道得をそなへたり。このゆゑに、いま道得あり、いま見得あり。いまの道得とかのときの見得と、一条なり、万里なり。いまの功夫、すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり。(『正法眼蔵』「道得」)

  「諸仏諸祖」とは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であり、「諸仏」を〈体〉とすれば、「諸祖」は〈用=働き〉となり、「諸祖」を〈体〉とすれば、「諸仏」は〈働き=用〉となる。「仏祖の仏祖を選するには、かならず道得也未と問取するなり」という〈譬喩〉は、〈選ぶ者〉と〈選ばれるもの〉、〈問う者〉と〈問われるもの〉が一体であることを示している。それは〈人間・宇宙・生命〉の〈実存〉であり、森羅万象の〈色心〉に貫徹する〈法理〉なのである。
 その〈実存〉に〈覚醒〉することを〈道得〉と言う。それは〈他者〉でも〈自己〉でもない〈仏祖〉への〈究?=問い〉が、そのまま〈仏祖〉の〈道得=答え〉となるのである。〈道得〉は〈修行〉となり、〈證究〉となり、〈功夫〉となり、〈?道〉となる。〈その何十年の閒も、道得の閒隙なかりけるなり〉という〈譬喩〉は、〈久遠即末法〉を示している。〈実存〉への〈覚醒=境智冥合〉の場は、必ず〈始源の時〉、すなわち〈いま、ここに〉なのである。
 そのことを、道元は重ねて〈いまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得、いまの道得をそなへたり。このゆゑに、いま道得あり、いま見得あり。いまの道得とかのときの見得と、一条なり、万里なり〉と説いているのだ。〈一条なり、万理なり〉は、〈一条に非ず、万里に非ず〉と表裏一体なのである。それを〈関連〉とか〈遠近〉という〈言葉〉で把握することはできない。「いまの功夫、すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり」という〈譬喩〉は、修行がそのまま悟りとなり、悟りがそのまま修行となることを意味する。〈~せられゆく〉という〈言葉〉もまた、〈現当二世〉、すなわち〈始源の時〉を示している。

 新しい思考というものはない。自由な思考というものはない。思考はただひとつしかない。それは、頭脳のなかに記憶として蓄積された、知識、経験からくる反応である。さて、それが事実だとしたら、悲しみは時間や思考の結果だということが真実であるのを見抜くなら――それは仮説ではないとしたら――、そのときには、人は〈私〉なしに悲しみに応じていることになる。というのも、〈私〉はほかならぬその思考によって組み立てられたものだからである。私の名前、私の形、私の外見、私の性質、私の反応、身につけたすべての事柄、それらはすべて思考によって組み立てられたものである。思考は〈私〉である。時間は〈私〉である。自己、自我、個人、私という時間の運動のすべてである。時間がないとき、苦しみというこの問いかけに応じる〈私〉がないとき、そのときには苦しみがあるだろうか?
 すべての悲しみは、〈私〉、〈個我〉、個人、自我にもとづいているのではないだろうか? 「私は苦しい」、「私は寂しい」、「私は心配だ」と言うのは、自己である。この運動全体、この構造全体は、思考のなかの〈私〉である。そして思考は、〈私〉を措定するばかりではなく、自分は優れた〈私〉――思考よりはるかに優れた何か――であると断定する。それでもなお、それは思考の運動にすぎない。だから、思考の運動である〈私〉が終焉するとき、悲しみが終焉するのである。

  「思考の運動である〈私〉が終焉するとき」とは〈どんな時〉なのか。それを仏法は〈色心不二・久遠即末法〉と説いている。〈過去・現在・未来〉という唯心の〈幻想〉を振り払った〈自己〉の〈実存〉。そこに〈時間〉は〈無〉となる。従って〈思考〉の〈運動=時間〉である〈私〉は〈存在〉しない。そのとき〈悲しみ〉は終焉し、〈慈悲〉が溢れ出る。
  クリシュナムルティは〈思考〉は唯一つであって、新しい〈思考〉も古い〈思考〉も、自由な〈思考〉も不自由な〈思考〉も無いと言う。頭脳の〈働き〉である〈思考〉は、〈歴劫修行=トートロジー〉を繰り返す。〈時間〉を(経過)と見ている〈私=あなた〉は、その〈経過=時間〉にほかならない。それを〈思考〉の〈運動〉と言う。〈思考〉の〈運動〉である〈私〉が消えるとき、〈悲しみ〉は終焉するのだろうか。道元は次のように〈譬喩〉を展開している。

 諸仏かならず威儀を行足す。これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず。自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。始覚・本覚にあらず、性覚・無覚にあらず。如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道の行履を通達せること、唯行仏のみなり。自性仏等、夢也未見在なるところなり。
 この行仏は、頭頭に威儀現成するゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄すること、亙時なり、亙方なり、亙仏なり、亙行なり。行仏にあらざれば、仏縛・法縛いまだ解脱せず、仏魔・法魔に党類せらるるなり。
 仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。一念を経歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す。これすなはち無縄自縛なり。
  いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。(『正法眼蔵』「行仏威儀」)

  「諸仏かならず威儀を具足す」の「諸仏」を〈中諦〉とすれば「威儀」は〈空諦〉、「具足」は〈仮諦〉となる。これは〈三諦円融〉を表す。その〈文底〉は〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉となる。それを「行仏」とも言う。「行仏と斉肩することうべからず」という〈譬喩〉は、〈行仏〉のほかに〈報仏・化仏・自性身仏・他性身仏・始覚・本覚・性覚・無覚・如是等仏〉などが〈存在〉するわけではない。すべて〈行仏〉の別称なのである。「自性仏等、夢也未見在」とは、〈釈尊〉のほかに、さまざまな〈仏〉が存在すると〈錯誤〉してはならないとの〈自戒=他戒〉である。
 「仏縛・法縛いまだ解脱せず、仏魔・法魔に党類せらるる」とは、〈生の分断化〉にとらわれ、〈歴劫修行=トートロジー〉に〈呪縛〉されている〈私=われわれ〉にほかならない。道元は〈仏縛〉について、次のように〈譬喩〉を展開している。「仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。一念を経歴するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解す。菩提をすなはち菩提なりと見解せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す。これすなはち無縄自縛なり」。この文〈テクスト)を分かりやすく分析・解説するのではなく、〈譬喩〉のまま読んで〈自分〉の〈譬喩〉で受け止める。そのことが問われているのだ。クリシュナムルティが語りかける〈譬喩〉もまた、同じように受け止めなければならない。
  「過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり」という〈譬喩〉は、〈釈尊〉がそのまま〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であり、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉がそのまま〈釈尊〉であることを示している。

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『生の全体性Ⅱ』ノート(11)

クリシュナムルティ

             『生の全体性Ⅱ』ノート(11)

                 小幡照雄

 第十一章――苦しみがあるところでは、とうてい愛することはできない――  

 われわれは、愛は苦しみの一部だと言う。誰かを愛するとき、それは苦しみをもたらす。――そこで、われわれは、すべての苦しみから自由になることができるかどうかを、問題にしようとしている。自分の意識のなかで、苦しみから自由になったとき、その自由は意識の変容を引き起こし、その変容の影響は人類の苦悩全体に及ぶようになる。それこそが慈悲心の一部である。
 苦しみがあるところでは、とうてい愛することはできない。それはひとつの真実、ひとつの法則である。誰か愛する人がいて、その人があなたのまったく反対していることを行い、そのためにあなたが苦しむとき、それはあなたが愛していないということになる。その真実を見てごらん。妻があなたを放り出して誰かほかの人のあとをおいかけるとき、いったいどうしてあなたは苦しむことができよう? しかし、われわれはそういうものに苦しんでいる。われわれは怒り、嫉妬し、ねたみ、憎んでいながら、同時に、「私は妻を愛している」と言う。このような愛は、愛ではない。そこで、苦しむことなく、しかも広大な愛が花開くということは可能だろうか? 

  愛憎は〈言葉・事象〉の〈両義性〉の一つと見ることができる。仏法の視点からとらえれば、その本質は〈愛に非ず、憎に非ず〉なのである。〈愛〉は人生に〈葛藤〉をもたらす。〈葛藤〉がもたらす〈苦しみ〉から〈自由〉になれば、〈意識〉に〈変容〉が起こる。その〈変容〉は人類の苦悩全体に及ぶ。そこに慈悲心が生まれる。
  〈苦しみ〉と〈愛〉は両立しない。それは一つの〈真実〉であり、一つの〈法則〉なのだ、とクリシュナムルティは言う。〈私=あなた〉の〈愛する〉人が、〈あなた=私〉の〈思考〉に逆らう〈言動〉をするとき、〈私=あなた〉は苦しむ。〈苦しむ心〉は〈愛する心〉ではない。〈私=あなた)の〈妻〉が〈あなた=私〉を見捨てるとき、〈私=あなた〉の〈心〉に何が起こるのか。〈怒り、嫉妬、妬み、憎しみ〉を〈愛〉とは呼ばない。それは〈私=われわれ〉が、体験していることなのだ。そのことを〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、何が起こるのか。そこに〈広大な愛〉が〈花開く〉ことは可能なのだろうか。釈尊は次のように〈譬喩〉を説いている。

若し衆生有って、婬欲(いんよく)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬(くぎょう)せば、便(すなわ)ち欲を離るることを得ん。若し瞋恚(しんに)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋りを離るることを得ん。若し愚癡多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離るることを得ん。無尽意(むじんに)、観世音菩薩は是の如き等の大威神力(だいいじんりき)有って、饒益(にょうやく)する所多し。是の故に衆生、常に応に心に念ずべし。(妙法蓮華経観世音菩薩普問品第二十五)

  観世音菩薩とは〈世音〉を観ずる、すなわち〈現実〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことの〈譬喩〉なのである。従って〈常に念じて観世音菩薩を恭敬する〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に〈覚醒=境智冥合〉する〈心〉にほかならない。そこに〈瞋り〉や〈愚癡〉を離れる〈方法的原理〉が示されている。日蓮は次のように〈譬喩〉を展開する。

第二観音妙の事 御義口伝に云く、妙法の梵語は薩達摩(サダルマ)と云うなり。薩(サ)とは妙と翻ず。この薩の字は観音の種子なり。仍(よ)って観音法華、眼目異名と釈せり。今末法に入って日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり。所詮観とは円観なり。世とは不思議なり。音とは仏機なり。観とは法界の異名なり。既に円観なるが故なり。諸法実相の観世音なれば地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見するなり。音とは諸法実相なれば、衆生として実相の仏に非ずと云う事なし。寿量品の時は十界本有と説いて無作三身なり。観音既に法華経を頂受せり。然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり云云。(普門品五箇の大事)

〈観世音菩薩〉とは〈妙法〉の〈働き〉の〈譬喩〉なのである。それを〈観音妙〉と言う。〈観音法華、眼目異名〉という〈言葉〉が、それを示している。〈私=われわれ〉の生きる場を〈諸法実相〉、すなわち〈色心不二・久遠即末法〉と見る〈働き〉が、〈観世音菩薩〉なのである。それは〈地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見〉する〈働き〉にほかならない。〈生の分断化〉に覆われた〈心〉もまた、〈生の全体性〉の〈働き〉として現れているのである。ここでは、〈日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり~寿量品の時は十界本有と説いて無作三身なり。観音既に法華経を頂受せり。然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり〉という日蓮の〈譬喩〉のさらなる〈文底〉が問われている。

 苦しみの本性、本質とは何か? そのさまざまなかたちではなく、その本質は何か? 苦しみの本質は何か? それは、その瞬間における、まったく自己中心的な存在の全面的な表現ではないだろうか。それは〈私〉の精髄(エッセンス)である。自我(エゴ)、個人、限定され、囲まれ、反抗している存在、つまり〈私〉と呼ばれている存在の精髄である。理解と洞察を要する出来事が起こるとき、その〈私〉の精髄が苦しみのもとである。もし〈私〉がまったく存在しなかったら、苦しみがあるだろうか? その人は、人を助けたり、あらゆる種類の事をするだろうが、苦しむことはあるまい。
 苦しみは〈私〉の表現である。そのなかには自己憐憫がある。逃げようとしたり、すでに去った他者とともにいようとする孤独がある。そして、そのなかにはそのほかのすべてが含まれている。苦しみは〈私〉そのもの、すなわちイメージ、知識、過去の記憶である。そこで、苦しみつまり〈私〉の本質は、愛といかなる関係をもっているのだろう? 愛と苦しみのあいだには何らかの関係がるのだろうか? 〈私〉は、思考によって組み立てられたものである。しかし、愛は思考によって組み立てられたものだろうか? 

  〈私=われわれ〉が〈苦しみ〉を感じるのは、〈生命本有〉の〈働き=法理〉にほかならない。仏法が説く〈地獄界〉から〈仏界〉までの〈十界〉は、それぞれに〈生命本有〉の〈働き=法理〉である。〈理解〉と〈洞察〉とは、〈思考〉による〈取・捨・選択〉を意味する。〈取・捨・選択〉は〈両義性〉をはらんでいる。〈取=貪・捨=瞋・選択=癡〉の〈三毒〉は〈苦しみ〉となり、〈般若=取・解脱=捨・法身=選択〉の〈三徳〉は〈抜苦・与楽〉の〈慈悲〉となる。そこに〈善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉を読み取ることができる。
 〈苦しみ〉が〈私=われわれ〉の〈本質=精髄〉であるならば、その〈精髄=本質〉と〈愛〉との〈関係〉はどうなのか。〈私〉は〈思考〉によって〈組み立て〉られている。では〈愛〉もまた〈思考〉の〈構築物〉なのか。仏法は〈愛〉は〈思考〉の〈構築物〉に非ず、〈思考〉の〈構築物〉は〈愛〉に非ず、と説く。日蓮は次のように〈譬喩〉を説いている。

  抑(そもそも)妙とは何と云う心ぞや。只我が一念の心、不思議なる処を妙とは云うなり。不思議とは心も及ばず、語も及ばずと云う事なり。然れば、すなわち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様様に心起る。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず。有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして而も有無に?して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり。此の妙なる心を名けて法とも云うなり。此の法門の不思議をあらはすに、譬を事法にかたどりて蓮華と名く。一心を妙と知りぬれ、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり。然ればすなはち、善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して、是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云うなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑あるべからず。故に経文には「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」とのべたり。努努(ゆめゆめ)不審をなすべからず。(『一生成仏抄』)

  妙とは何か。〈妙〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉とは、〈有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして而も有無に?して中道一実の妙体〉なのである。それを〈諸法実相〉とも〈色心不二〉とも〈久遠即末法〉とも〈妙法蓮華〉とも呼ぶ。〈一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり〉という〈言葉〉は、〈森羅万象〉の〈在りのまま〉が、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉であることを示している。それは〈善悪に付いて起り起る処の念心の当体〉がそのまま〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であることを意味する。
  〈生の分断化〉にとらわれ、〈葛藤〉に苦しむ〈私〉の〈精髄〉もまた、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉の〈現成〉にほかならない。〈言葉〉や〈思考〉で把握できない〈存在〉。それは〈生の分断化〉に非ず、〈生の全体性〉に非ず、と〈道得=言表〉する以外にないのである。ここではさらに〈我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん〉という〈経文〉の〈文底〉が問われることになる。

 愛は思考によって組み立てられたものだろうか? 苦痛、歓喜の記憶、そして性的な快楽あるいはほかの快楽の追求、誰かを所有し、あるいは所有されたいという快楽の追求――そういうものはすべて思考が構築したものである。名前、姿、記憶などをもつ〈私〉は、あきらかに思考によって組み立てられたものである。しかし、愛は思考によって組み立てられたものではないとしたら、そのときには苦しみは愛とは何の関係もない。したがって、愛から出た行為は、苦しみから出た行為とは別のものである。
 思考は、愛に関して、そして苦しみに関して、どんな役割をもっているのだろうか? それを洞察することは、あなたが逃避していないということ、慰めを求めていないということ、孤独で、孤立するのを恐れていないということである。したがってそれは、あなたの精神が自由であるということを、そして、自由であるものは空であるということを意味する。あなたはその〈空〉があるなら、苦しみに対する洞察もある。そのときには〈私〉という苦しみは消える。したがって、即時の行動が生まれる。そうなったら行動は愛から出てくる。苦しみからではない。

  〈思考〉によって組み立てられた〈愛〉がある。〈思考〉が組み立てたのではない〈愛〉があれば、それは〈苦しみ〉とは〈無縁〉である。その〈愛〉から出た〈行為〉は、〈苦しみ〉とは別のものとなる。〈あなた=私〉は、〈逃避〉も〈慰め〉も求めず、〈孤独〉や〈孤立〉に〈不安〉や〈恐怖〉を抱いていない。そのとき、〈私=あなた〉の〈精神〉は〈自由〉となる。それは〈あなた=私〉が〈空〉であることを意味する。〈空〉なる〈心〉は〈洞察〉を生む。〈私〉という〈苦しみ〉は消え、即時の〈行動〉が生まれる。その〈行動〉は、〈苦しみ〉ではなく〈愛〉から出てくる。
 クリシュナムルティは、〈善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉が照らし出す、〈愛〉の〈両義性〉を語っているのである。〈即時〉の〈行動〉を阻む〈葛藤〉と〈苦しみ〉。クリシュナムルティは、〈不安〉と〈恐怖〉の〈幻想〉に怯え、〈生活苦〉の〈解決〉や〈平和〉の〈実現〉を無限の〈未来〉に遠ざける〈政治権力〉という〈人類〉の〈根源的な病根〉を指摘しているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。

 愛せざらんや、明珠かくのごとく彩光きはまりなきなり。彩彩光光の片片条条は、尽十方界の功徳なり。だれかこれを?奪(ざんだつ)せん。行市(あんし)に?(かわら)をなぐる人あらず、六道の因果に不落有落(ふらくうらく)をわづらふことなかれ。不昧本来の頭正(ちょうしん)尾正(びしん)なる、明珠は面目なり、明珠は眼精なり。
 しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思(ひゃくしひゃくふし)は、明明の草料をむすびきたれども、玄沙(げんしゃ)の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしりあきらめつれば、心(しん)これわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎(しゅしゃ)にわづらはん。たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありて、おこさせける行にも念にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟(こくせんきくつ)の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。(『正法眼蔵』「一顆明珠」)

  真実の〈愛〉に〈覚醒〉すること。それはまさに。〈彩光〉極まりない〈明珠〉にほかならない。〈明珠〉とは〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉である。森羅万象の〈働き〉を〈諸仏〉と言い、あるいは〈悪鬼魔神〉と言う。それはすべて〈宇宙・生命〉に〈本有〉なのである。〈だれかこれを?奪(ざんだつ)せん〉とは、そこから〈何か〉を〈除去〉することも〈付加〉することもできないこと、すなわち〈本有〉を意味する。〈明珠は面目〉は〈在りのまま〉を意味し、〈明珠は眼精〉は〈見つめる〉ことを意味する。〈六道の因果〉や〈明珠〉について〈分析〉し〈定義〉しても、空回りの〈歴劫修行=トートロジー〉を繰り返すに留まる。
  〈私=われわれ〉の〈身心〉がそのまま〈明珠〉なのだと〈覚醒〉するとき、〈生の分断化〉に覆われた〈黒山鬼窟〉と見る〈世界〉の(進歩退歩=起滅〉も、〈明珠〉にほかならないことが見えてくる。法華経は、その〈人間・宇宙・生命〉の〈実存〉を〈曼荼羅的言語〉を駆使して〈道得=言述〉したものにほかならない。日蓮は、それを〈善悪不二=肯定即否定〉〈因果倶時=能動即受動〉の〈法理〉が躍動する〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉として具現したのである。道元とクリシュナムルティは、その〈法理〉を活用するための〈使用原則=心構え〉を説いていると見ることができる。活用とは日蓮が具現化した〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉であり、それを〈生の全体性〉への〈覚醒〉と言う。

 人は、苦しみから出る行動は〈私〉の行動であり、したがってそこには絶え間ない葛藤があることを、発見する。そのすべての論理、その理由を、見ることができるのである。そうなってはじめて、苦しみの影をやどすことなく愛することが可能になる。思考は愛ではない。思考は慈悲心ではない。慈悲心は叡智である。それは思考の産物ではない。
 叡智の行動とは何か? もし叡智をもっていたら、その叡智は、はたらいている。それは機能している、動いている。しかしもし、叡智の行動とは何かとたずねるなら、その人はただ思考を満足させたいだけである。慈悲深い行為とは何かを問うとき、そう問うているのは思考ではないだろうか? 「もしそういう慈悲心をもっていたならば、私はいまとは別のかたちでふるまうだろうに」と言っているのは、〈私〉ではないだろうか? したがって、このような質問をするとき、人はまだ思考という観点にとらわれている。しかし思考を洞察すれば、それに伴って、思考はそのしかるべき役割に戻るようになり、そうなったら叡智がはたらくのである。

  〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉に〈覚醒=境智冥合〉するとき、〈私=われわれ〉は〈自分〉の〈苦しみ〉から出る〈行動〉と、そこに生じる絶え間ない〈葛藤〉を発見し、〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことができる。そのとき、初めて本当に〈愛する〉ことが可能になる。それは〈思考〉からではなく、〈叡智〉から生まれる〈慈悲心〉となる。そのとき、〈思考〉は〈生の分断化〉をもたらすことなく、その正しい〈役割〉を果たすことができる。
 〈自分〉に疑問を抱き、それを〈思考〉したり〈反省〉したりすれば、そこにまた〈歴劫修行=トートロジー〉の陥穽が口を開く。〈思考〉も〈反省〉も放棄して、ただ〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、その〈己心〉に〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉が蘇るのである。そこに働く〈叡智〉は、〈いまの一瞬一瞬〉に開く〈実存〉の〈脱益化=死物化〉を超克する。その〈心〉の伝播を〈広宣流布〉と言う。釈尊は次のように〈譬喩〉を説いている。

阿逸多、其れ衆生有って、仏の寿命の長遠(ちょうおん)是(かく)の如くなるを聞いて、乃至(ないし)能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん。若し善男子、善女人有って、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の為の故に、八十万億那由陀劫(なゆたこう)に於いて、五波羅蜜(はらみつ)を行ぜん。壇(だん)波羅蜜、尸羅(しら)波羅蜜、?提(せんだい)波羅蜜、毘梨耶(びりや)波羅蜜、禅(ぜん)波羅蜜なり。般若波羅蜜をば除く。是(こ)の功徳を以って、前(さき)の功徳に比ぶるに、百分、千分、百千万億分にして其の一にも及ばず。乃至(ないし)算数(さんじゅ)譬喩も知ること能わざる所なり。若し善男子、是(かく)の如き功徳有って、阿耨多羅三藐三菩提に於いて退するといわば、是(こ)の処(ことわり)有ること無けん。(妙法蓮華経分別功徳品第十七)

  〈阿逸多〉とは、この経の対告衆である〈弥勒菩薩〉である。法を説く〈釈尊〉も経を聞く〈弥勒菩薩〉も、この経文を読む〈己心〉に開く。そのとき、経を説く〈釈尊〉は経を聞く〈弥勒菩薩〉となり、経を聞く〈弥勒菩薩〉は経を説く〈釈尊〉となる。〈長遠なる仏の寿命〉とは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を意味する。〈長遠なる仏の寿命〉は唯心の〈過去・現在・未来〉ではない。色心不二なる〈いまの一瞬一瞬〉の〈実在〉を〈長遠なる仏の寿命〉と言う。〈般若=智慧波羅蜜〉を除く五波羅蜜は〈歴劫修行=トートロジー〉の〈譬喩〉であり、方便の仮説なのである。〈方便〉を〈方便〉と位置づけなければ、〈生の分断化〉を放棄することはできない。日蓮は次のように〈譬喩〉を展開している。

第一其中衆生(ごちゅうしゅじょう) 聞仏寿命(もんぶつじゅみょう) 長遠如是(ちょうおんにょぜ) 乃至能生(ないしのうしょう) 一念信解(いちねんしんげ) 所得功徳(しょとくくどく) 無有限量(むうげんりょう)の事 
 御義口伝に云く、一念信解の信の一字は一切智慧を受得(じゅとく)する所の因種(いんしゅ)なり。信の一字は名字即の位なり。仍って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり。解とは事顕本を解するなり。此の事理の顕本を一念に信解するなり。一念とは無作本有の一念なり。此くの如く信解する人の功徳は限量有る事有るべからざるなり。信の処に解あり、解の処に信あり。然りと雖も信を以て成仏を決定するなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。(妙法蓮華経分別功徳品三箇の大事)
                           

 これは妙法蓮華経分別功徳品第十七に、〈其れ衆生有って、仏の寿命の長遠 是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば〉とある部分の御義口伝である。ここには寿量品の理顕本(従果向因)を信じ、寿量品の事顕本(従果向因)を解することによって〈生の分断化〉を超克できることが説かれている。寿量品の〈理事の顕本〉とは、〈色心不二〉にして〈久遠即末法〉なる〈実在〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉である。〈信〉は〈解〉となり、〈解〉は〈信〉となる。その出発点は〈信〉にある。道元もまた、次のように〈譬喩〉を展開している。

 古徳云く、《作麼生(そもさん)ならんか是れ妙浄明心、山河大地・日月星辰》。
 あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五薀心は四大五薀のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚(ふぜんな)即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。
 しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修證するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修證するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修證ずるも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修證するも即心是仏なり、たちひ半拳裏に発心修證するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。
 いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。(『正法眼蔵』「即心是仏」)

 〈作麼生(いかなる)という〈問い〉も、それに答える〈妙浄明心〉、〈山河大地・日月星辰〉という〈言葉〉も、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。さらに道元は、〈心〉は〈山河大地〉であり、〈日月星辰〉であると言う。〈しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり〉とは、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉は、そのまま〈森羅万象〉のすべてであり、何一つ過不足がないことの〈譬喩〉にほかならない。〈私=われわれ〉が、道元が展開する〈譬喩〉を〈譬喩〉のまま読んで、それぞれに〈自分〉と〈譬喩〉で受け止めなければならないのである。道元が展開する〈譬喩〉を〈教師・論師〉の〈心〉を放棄して読むことが問われている。道元が展開する〈譬喩〉を、繰り返して読んでみよう。

 心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五薀心は四大五薀のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。
 しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修證するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修證するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修證ずるも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修證するも即心是仏なり、たちひ半拳裏に発心修證するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり
いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。

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