クリシュナムルティ
『生の全体性Ⅱ』ノート(11)
小幡照雄
第十一章――苦しみがあるところでは、とうてい愛することはできない――
われわれは、愛は苦しみの一部だと言う。誰かを愛するとき、それは苦しみをもたらす。――そこで、われわれは、すべての苦しみから自由になることができるかどうかを、問題にしようとしている。自分の意識のなかで、苦しみから自由になったとき、その自由は意識の変容を引き起こし、その変容の影響は人類の苦悩全体に及ぶようになる。それこそが慈悲心の一部である。
苦しみがあるところでは、とうてい愛することはできない。それはひとつの真実、ひとつの法則である。誰か愛する人がいて、その人があなたのまったく反対していることを行い、そのためにあなたが苦しむとき、それはあなたが愛していないということになる。その真実を見てごらん。妻があなたを放り出して誰かほかの人のあとをおいかけるとき、いったいどうしてあなたは苦しむことができよう? しかし、われわれはそういうものに苦しんでいる。われわれは怒り、嫉妬し、ねたみ、憎んでいながら、同時に、「私は妻を愛している」と言う。このような愛は、愛ではない。そこで、苦しむことなく、しかも広大な愛が花開くということは可能だろうか?
愛憎は〈言葉・事象〉の〈両義性〉の一つと見ることができる。仏法の視点からとらえれば、その本質は〈愛に非ず、憎に非ず〉なのである。〈愛〉は人生に〈葛藤〉をもたらす。〈葛藤〉がもたらす〈苦しみ〉から〈自由〉になれば、〈意識〉に〈変容〉が起こる。その〈変容〉は人類の苦悩全体に及ぶ。そこに慈悲心が生まれる。
〈苦しみ〉と〈愛〉は両立しない。それは一つの〈真実〉であり、一つの〈法則〉なのだ、とクリシュナムルティは言う。〈私=あなた〉の〈愛する〉人が、〈あなた=私〉の〈思考〉に逆らう〈言動〉をするとき、〈私=あなた〉は苦しむ。〈苦しむ心〉は〈愛する心〉ではない。〈私=あなた)の〈妻〉が〈あなた=私〉を見捨てるとき、〈私=あなた〉の〈心〉に何が起こるのか。〈怒り、嫉妬、妬み、憎しみ〉を〈愛〉とは呼ばない。それは〈私=われわれ〉が、体験していることなのだ。そのことを〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、何が起こるのか。そこに〈広大な愛〉が〈花開く〉ことは可能なのだろうか。釈尊は次のように〈譬喩〉を説いている。
若し衆生有って、婬欲(いんよく)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬(くぎょう)せば、便(すなわ)ち欲を離るることを得ん。若し瞋恚(しんに)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋りを離るることを得ん。若し愚癡多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち癡を離るることを得ん。無尽意(むじんに)、観世音菩薩は是の如き等の大威神力(だいいじんりき)有って、饒益(にょうやく)する所多し。是の故に衆生、常に応に心に念ずべし。(妙法蓮華経観世音菩薩普問品第二十五)
観世音菩薩とは〈世音〉を観ずる、すなわち〈現実〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことの〈譬喩〉なのである。従って〈常に念じて観世音菩薩を恭敬する〉とは、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉に〈覚醒=境智冥合〉する〈心〉にほかならない。そこに〈瞋り〉や〈愚癡〉を離れる〈方法的原理〉が示されている。日蓮は次のように〈譬喩〉を展開する。
第二観音妙の事 御義口伝に云く、妙法の梵語は薩達摩(サダルマ)と云うなり。薩(サ)とは妙と翻ず。この薩の字は観音の種子なり。仍(よ)って観音法華、眼目異名と釈せり。今末法に入って日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり。所詮観とは円観なり。世とは不思議なり。音とは仏機なり。観とは法界の異名なり。既に円観なるが故なり。諸法実相の観世音なれば地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見するなり。音とは諸法実相なれば、衆生として実相の仏に非ずと云う事なし。寿量品の時は十界本有と説いて無作三身なり。観音既に法華経を頂受せり。然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり云云。(普門品五箇の大事)
〈観世音菩薩〉とは〈妙法〉の〈働き〉の〈譬喩〉なのである。それを〈観音妙〉と言う。〈観音法華、眼目異名〉という〈言葉〉が、それを示している。〈私=われわれ〉の生きる場を〈諸法実相〉、すなわち〈色心不二・久遠即末法〉と見る〈働き〉が、〈観世音菩薩〉なのである。それは〈地獄・餓鬼・畜生等の界界を不思議世界と知見〉する〈働き〉にほかならない。〈生の分断化〉に覆われた〈心〉もまた、〈生の全体性〉の〈働き〉として現れているのである。ここでは、〈日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり~寿量品の時は十界本有と説いて無作三身なり。観音既に法華経を頂受せり。然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり〉という日蓮の〈譬喩〉のさらなる〈文底〉が問われている。
苦しみの本性、本質とは何か? そのさまざまなかたちではなく、その本質は何か? 苦しみの本質は何か? それは、その瞬間における、まったく自己中心的な存在の全面的な表現ではないだろうか。それは〈私〉の精髄(エッセンス)である。自我(エゴ)、個人、限定され、囲まれ、反抗している存在、つまり〈私〉と呼ばれている存在の精髄である。理解と洞察を要する出来事が起こるとき、その〈私〉の精髄が苦しみのもとである。もし〈私〉がまったく存在しなかったら、苦しみがあるだろうか? その人は、人を助けたり、あらゆる種類の事をするだろうが、苦しむことはあるまい。
苦しみは〈私〉の表現である。そのなかには自己憐憫がある。逃げようとしたり、すでに去った他者とともにいようとする孤独がある。そして、そのなかにはそのほかのすべてが含まれている。苦しみは〈私〉そのもの、すなわちイメージ、知識、過去の記憶である。そこで、苦しみつまり〈私〉の本質は、愛といかなる関係をもっているのだろう? 愛と苦しみのあいだには何らかの関係がるのだろうか? 〈私〉は、思考によって組み立てられたものである。しかし、愛は思考によって組み立てられたものだろうか?
〈私=われわれ〉が〈苦しみ〉を感じるのは、〈生命本有〉の〈働き=法理〉にほかならない。仏法が説く〈地獄界〉から〈仏界〉までの〈十界〉は、それぞれに〈生命本有〉の〈働き=法理〉である。〈理解〉と〈洞察〉とは、〈思考〉による〈取・捨・選択〉を意味する。〈取・捨・選択〉は〈両義性〉をはらんでいる。〈取=貪・捨=瞋・選択=癡〉の〈三毒〉は〈苦しみ〉となり、〈般若=取・解脱=捨・法身=選択〉の〈三徳〉は〈抜苦・与楽〉の〈慈悲〉となる。そこに〈善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉を読み取ることができる。
〈苦しみ〉が〈私=われわれ〉の〈本質=精髄〉であるならば、その〈精髄=本質〉と〈愛〉との〈関係〉はどうなのか。〈私〉は〈思考〉によって〈組み立て〉られている。では〈愛〉もまた〈思考〉の〈構築物〉なのか。仏法は〈愛〉は〈思考〉の〈構築物〉に非ず、〈思考〉の〈構築物〉は〈愛〉に非ず、と説く。日蓮は次のように〈譬喩〉を説いている。
抑(そもそも)妙とは何と云う心ぞや。只我が一念の心、不思議なる処を妙とは云うなり。不思議とは心も及ばず、語も及ばずと云う事なり。然れば、すなわち起こるところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様様に心起る。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず。有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして而も有無に?して中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり。此の妙なる心を名けて法とも云うなり。此の法門の不思議をあらはすに、譬を事法にかたどりて蓮華と名く。一心を妙と知りぬれ、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり。然ればすなはち、善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して、是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云うなり。此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑あるべからず。故に経文には「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん」とのべたり。努努(ゆめゆめ)不審をなすべからず。(『一生成仏抄』)
妙とは何か。〈妙〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉とは、〈有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして而も有無に?して中道一実の妙体〉なのである。それを〈諸法実相〉とも〈色心不二〉とも〈久遠即末法〉とも〈妙法蓮華〉とも呼ぶ。〈一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり〉という〈言葉〉は、〈森羅万象〉の〈在りのまま〉が、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉であることを示している。それは〈善悪に付いて起り起る処の念心の当体〉がそのまま〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉であることを意味する。
〈生の分断化〉にとらわれ、〈葛藤〉に苦しむ〈私〉の〈精髄〉もまた、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉の〈現成〉にほかならない。〈言葉〉や〈思考〉で把握できない〈存在〉。それは〈生の分断化〉に非ず、〈生の全体性〉に非ず、と〈道得=言表〉する以外にないのである。ここではさらに〈我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑有ること無けん〉という〈経文〉の〈文底〉が問われることになる。
愛は思考によって組み立てられたものだろうか? 苦痛、歓喜の記憶、そして性的な快楽あるいはほかの快楽の追求、誰かを所有し、あるいは所有されたいという快楽の追求――そういうものはすべて思考が構築したものである。名前、姿、記憶などをもつ〈私〉は、あきらかに思考によって組み立てられたものである。しかし、愛は思考によって組み立てられたものではないとしたら、そのときには苦しみは愛とは何の関係もない。したがって、愛から出た行為は、苦しみから出た行為とは別のものである。
思考は、愛に関して、そして苦しみに関して、どんな役割をもっているのだろうか? それを洞察することは、あなたが逃避していないということ、慰めを求めていないということ、孤独で、孤立するのを恐れていないということである。したがってそれは、あなたの精神が自由であるということを、そして、自由であるものは空であるということを意味する。あなたはその〈空〉があるなら、苦しみに対する洞察もある。そのときには〈私〉という苦しみは消える。したがって、即時の行動が生まれる。そうなったら行動は愛から出てくる。苦しみからではない。
〈思考〉によって組み立てられた〈愛〉がある。〈思考〉が組み立てたのではない〈愛〉があれば、それは〈苦しみ〉とは〈無縁〉である。その〈愛〉から出た〈行為〉は、〈苦しみ〉とは別のものとなる。〈あなた=私〉は、〈逃避〉も〈慰め〉も求めず、〈孤独〉や〈孤立〉に〈不安〉や〈恐怖〉を抱いていない。そのとき、〈私=あなた〉の〈精神〉は〈自由〉となる。それは〈あなた=私〉が〈空〉であることを意味する。〈空〉なる〈心〉は〈洞察〉を生む。〈私〉という〈苦しみ〉は消え、即時の〈行動〉が生まれる。その〈行動〉は、〈苦しみ〉ではなく〈愛〉から出てくる。
クリシュナムルティは、〈善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉が照らし出す、〈愛〉の〈両義性〉を語っているのである。〈即時〉の〈行動〉を阻む〈葛藤〉と〈苦しみ〉。クリシュナムルティは、〈不安〉と〈恐怖〉の〈幻想〉に怯え、〈生活苦〉の〈解決〉や〈平和〉の〈実現〉を無限の〈未来〉に遠ざける〈政治権力〉という〈人類〉の〈根源的な病根〉を指摘しているのだ。道元は次のように〈譬喩〉を説いている。
愛せざらんや、明珠かくのごとく彩光きはまりなきなり。彩彩光光の片片条条は、尽十方界の功徳なり。だれかこれを?奪(ざんだつ)せん。行市(あんし)に?(かわら)をなぐる人あらず、六道の因果に不落有落(ふらくうらく)をわづらふことなかれ。不昧本来の頭正(ちょうしん)尾正(びしん)なる、明珠は面目なり、明珠は眼精なり。
しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思(ひゃくしひゃくふし)は、明明の草料をむすびきたれども、玄沙(げんしゃ)の法道によりて、明珠なりける身心の様子をもききしりあきらめつれば、心(しん)これわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎(しゅしゃ)にわづらはん。たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、明珠にあらぬがありて、おこさせける行にも念にもにてはあらざれば、ただまさに黒山鬼窟(こくせんきくつ)の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。(『正法眼蔵』「一顆明珠」)
真実の〈愛〉に〈覚醒〉すること。それはまさに。〈彩光〉極まりない〈明珠〉にほかならない。〈明珠〉とは〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉である。森羅万象の〈働き〉を〈諸仏〉と言い、あるいは〈悪鬼魔神〉と言う。それはすべて〈宇宙・生命〉に〈本有〉なのである。〈だれかこれを?奪(ざんだつ)せん〉とは、そこから〈何か〉を〈除去〉することも〈付加〉することもできないこと、すなわち〈本有〉を意味する。〈明珠は面目〉は〈在りのまま〉を意味し、〈明珠は眼精〉は〈見つめる〉ことを意味する。〈六道の因果〉や〈明珠〉について〈分析〉し〈定義〉しても、空回りの〈歴劫修行=トートロジー〉を繰り返すに留まる。
〈私=われわれ〉の〈身心〉がそのまま〈明珠〉なのだと〈覚醒〉するとき、〈生の分断化〉に覆われた〈黒山鬼窟〉と見る〈世界〉の(進歩退歩=起滅〉も、〈明珠〉にほかならないことが見えてくる。法華経は、その〈人間・宇宙・生命〉の〈実存〉を〈曼荼羅的言語〉を駆使して〈道得=言述〉したものにほかならない。日蓮は、それを〈善悪不二=肯定即否定〉〈因果倶時=能動即受動〉の〈法理〉が躍動する〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉として具現したのである。道元とクリシュナムルティは、その〈法理〉を活用するための〈使用原則=心構え〉を説いていると見ることができる。活用とは日蓮が具現化した〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉であり、それを〈生の全体性〉への〈覚醒〉と言う。
人は、苦しみから出る行動は〈私〉の行動であり、したがってそこには絶え間ない葛藤があることを、発見する。そのすべての論理、その理由を、見ることができるのである。そうなってはじめて、苦しみの影をやどすことなく愛することが可能になる。思考は愛ではない。思考は慈悲心ではない。慈悲心は叡智である。それは思考の産物ではない。
叡智の行動とは何か? もし叡智をもっていたら、その叡智は、はたらいている。それは機能している、動いている。しかしもし、叡智の行動とは何かとたずねるなら、その人はただ思考を満足させたいだけである。慈悲深い行為とは何かを問うとき、そう問うているのは思考ではないだろうか? 「もしそういう慈悲心をもっていたならば、私はいまとは別のかたちでふるまうだろうに」と言っているのは、〈私〉ではないだろうか? したがって、このような質問をするとき、人はまだ思考という観点にとらわれている。しかし思考を洞察すれば、それに伴って、思考はそのしかるべき役割に戻るようになり、そうなったら叡智がはたらくのである。
〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉に〈覚醒=境智冥合〉するとき、〈私=われわれ〉は〈自分〉の〈苦しみ〉から出る〈行動〉と、そこに生じる絶え間ない〈葛藤〉を発見し、〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことができる。そのとき、初めて本当に〈愛する〉ことが可能になる。それは〈思考〉からではなく、〈叡智〉から生まれる〈慈悲心〉となる。そのとき、〈思考〉は〈生の分断化〉をもたらすことなく、その正しい〈役割〉を果たすことができる。
〈自分〉に疑問を抱き、それを〈思考〉したり〈反省〉したりすれば、そこにまた〈歴劫修行=トートロジー〉の陥穽が口を開く。〈思考〉も〈反省〉も放棄して、ただ〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、その〈己心〉に〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉が蘇るのである。そこに働く〈叡智〉は、〈いまの一瞬一瞬〉に開く〈実存〉の〈脱益化=死物化〉を超克する。その〈心〉の伝播を〈広宣流布〉と言う。釈尊は次のように〈譬喩〉を説いている。
阿逸多、其れ衆生有って、仏の寿命の長遠(ちょうおん)是(かく)の如くなるを聞いて、乃至(ないし)能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん。若し善男子、善女人有って、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の為の故に、八十万億那由陀劫(なゆたこう)に於いて、五波羅蜜(はらみつ)を行ぜん。壇(だん)波羅蜜、尸羅(しら)波羅蜜、?提(せんだい)波羅蜜、毘梨耶(びりや)波羅蜜、禅(ぜん)波羅蜜なり。般若波羅蜜をば除く。是(こ)の功徳を以って、前(さき)の功徳に比ぶるに、百分、千分、百千万億分にして其の一にも及ばず。乃至(ないし)算数(さんじゅ)譬喩も知ること能わざる所なり。若し善男子、是(かく)の如き功徳有って、阿耨多羅三藐三菩提に於いて退するといわば、是(こ)の処(ことわり)有ること無けん。(妙法蓮華経分別功徳品第十七)
〈阿逸多〉とは、この経の対告衆である〈弥勒菩薩〉である。法を説く〈釈尊〉も経を聞く〈弥勒菩薩〉も、この経文を読む〈己心〉に開く。そのとき、経を説く〈釈尊〉は経を聞く〈弥勒菩薩〉となり、経を聞く〈弥勒菩薩〉は経を説く〈釈尊〉となる。〈長遠なる仏の寿命〉とは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を意味する。〈長遠なる仏の寿命〉は唯心の〈過去・現在・未来〉ではない。色心不二なる〈いまの一瞬一瞬〉の〈実在〉を〈長遠なる仏の寿命〉と言う。〈般若=智慧波羅蜜〉を除く五波羅蜜は〈歴劫修行=トートロジー〉の〈譬喩〉であり、方便の仮説なのである。〈方便〉を〈方便〉と位置づけなければ、〈生の分断化〉を放棄することはできない。日蓮は次のように〈譬喩〉を展開している。
第一其中衆生(ごちゅうしゅじょう) 聞仏寿命(もんぶつじゅみょう) 長遠如是(ちょうおんにょぜ) 乃至能生(ないしのうしょう) 一念信解(いちねんしんげ) 所得功徳(しょとくくどく) 無有限量(むうげんりょう)の事
御義口伝に云く、一念信解の信の一字は一切智慧を受得(じゅとく)する所の因種(いんしゅ)なり。信の一字は名字即の位なり。仍って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり。信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり。解とは事顕本を解するなり。此の事理の顕本を一念に信解するなり。一念とは無作本有の一念なり。此くの如く信解する人の功徳は限量有る事有るべからざるなり。信の処に解あり、解の処に信あり。然りと雖も信を以て成仏を決定するなり。今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。(妙法蓮華経分別功徳品三箇の大事)
これは妙法蓮華経分別功徳品第十七に、〈其れ衆生有って、仏の寿命の長遠 是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば〉とある部分の御義口伝である。ここには寿量品の理顕本(従果向因)を信じ、寿量品の事顕本(従果向因)を解することによって〈生の分断化〉を超克できることが説かれている。寿量品の〈理事の顕本〉とは、〈色心不二〉にして〈久遠即末法〉なる〈実在〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉である。〈信〉は〈解〉となり、〈解〉は〈信〉となる。その出発点は〈信〉にある。道元もまた、次のように〈譬喩〉を展開している。
古徳云く、《作麼生(そもさん)ならんか是れ妙浄明心、山河大地・日月星辰》。
あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五薀心は四大五薀のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚(ふぜんな)即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。
しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修證するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修證するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修證ずるも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修證するも即心是仏なり、たちひ半拳裏に発心修證するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。
いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。(『正法眼蔵』「即心是仏」)
〈作麼生(いかなる)という〈問い〉も、それに答える〈妙浄明心〉、〈山河大地・日月星辰〉という〈言葉〉も、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示している。さらに道元は、〈心〉は〈山河大地〉であり、〈日月星辰〉であると言う。〈しかあれども、この道取するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり〉とは、〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉は、そのまま〈森羅万象〉のすべてであり、何一つ過不足がないことの〈譬喩〉にほかならない。〈私=われわれ〉が、道元が展開する〈譬喩〉を〈譬喩〉のまま読んで、それぞれに〈自分〉と〈譬喩〉で受け止めなければならないのである。道元が展開する〈譬喩〉を〈教師・論師〉の〈心〉を放棄して読むことが問われている。道元が展開する〈譬喩〉を、繰り返して読んでみよう。
心は、山河大地のみなり。さらに波浪なし、風煙なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。生死去来心は、生死去来のみなり。さらに迷なし、悟なし。牆壁瓦礫心は牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五薀心は四大五薀のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汚即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。
しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修證するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修證するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修證ずるも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修證するも即心是仏なり、たちひ半拳裏に発心修證するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師を見ざるなり。
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