「…………」
見上げた空は、見渡す限り満天の星空だった。
美しい。素直にそう思う。足元は夜露に濡れていて、拍車の付いたブーツでそれを踏み締める。
「樹の匂い……」
リー……リー……
夜の虫が鳴いている。
静かだ。
静寂が耳に痛い。そう、静寂は聞こえるのだ。
徐々に背筋に緊張感が立ち込める。
はじまったのだ。
SDGはオートセーブのオフラインゲームだ。フィールドだろうが、会話中だろうが、戦闘中だろうが、ハード内のHDDにオートセーブする。
二度と戻らない。なればこそ尊い現実を再現するSDGが。
時には、苛酷で苛烈な判断を要求するSDGが。
はじまった。
周囲を見回すが、異変は感じない。
右手の方向に切り立った崖があり、ダンジョンの入り口が見える。
(わかるぞ……。ニューアークに近い場所だな)
鬱蒼と茂った潅木を、月明かりを頼りにかき分けて北に進む。明かりになるようなアイテムは所持していない。
フィールドのエンカウントは、基本的に固定されている。そのため、レオが恐れるのは偶発的な戦闘だ。その可能性も街道に入れば、ほぼ消える。その思惑から先ず、街道を目指す。
パーティメンバーの誰かに出会えれば、それがベストではあるが、そんなに簡単にことは運ばないだろう。所持金やアイテムを攫って行ったと思われることから、彼らが好意的であるとは思えない。そのため、レオの表情が厳しくなることはやむを得ないことだ。眉間に皺が寄る。
街道に出て周囲を見渡す。
『川の道』或いは『赤の道』と呼ばれるその街道は、目の前で二手に分かれている。東へ行けば『ニューアーク』とよばれる街。そこはダークナイトに占領されていた。過去形なのはゲームクリアから約八年後の現在、どうなっているか分からないからだ。
西に行けば、サンドワームの住処である『フォルター』砂漠に出る。手持ちのアイテムが何一つないレオは『ニューアーク』へと向かう。
(近くにNPCはいないな……)
このSDGの世界のNPCは凶悪な存在が多い。クイーン『ベアトリクス』それを付け狙うアルタイルの『ヤモ将軍』。その他諸々の凶悪犯。彼らはその殆どが特殊な武器を装備している。
(ベアトリクスやヤモ将軍なら……まず、アウトだ)
NPCは独自の思考を持ち、このSDGの世界を常に移動している。友好的なNPCであるならともかく、無差別にプレイヤーを攻撃することの多いベアトリクスやヤモ将軍との遭遇は避けたいところだ。
だが……
ヤモ将軍には、借りがある。前回のプレイで偶然戦闘になった際、パーティの三人が彼の所有する『レールガン』で射殺されたのだ。
(お礼はしないとな……)
歪んだ決心を固めたところで、不意に立ち止まる。
(つけられてる……?)
索敵のスキルがうまく働いているようだ。首筋にチリチリとヒリつくような視線を感じる。
腰に吊った小剣の感触を確かめながら、石作りの街道を道なりにニューアークに向け、進んで行く。
ゲーム内時間で三日ほど歩けば、ダークナイトに占領された街ニューアークだ。
落ち着ける場所でステータスの確認がしたい。新たにパーティの面子を募らなければ……そんなことを考えている間も感じる視線は、ねっとりとへばりつく。初期装備とはいえ、高レベル冒険者のレオがこの近辺で不覚を取ることはまずない。
だが、ろくにケンカもしたことのない平和な日本人である彼は、戦闘に関しては大きな不安を感じている。
魔剣『グリム・リーパー』も出来ることなら使用を避けたい。
「…………」
背後に強い視線を感じた。その圧力はもはや無視できないものになりつつあった。
(走るか……)
瞬間、レオは駆け出した。
直ぐさま背後の気配も駆け出したようだ。
足音がどんどん近くなってくる!
(やばい……こいつ、俺より早くないか?)
そう考えたとき、整備が行き届いているといえない石畳みの凹凸に足を取られ、レオは思い切りすっころんだ。
激しい擦過音と共に、石畳みを滑って行くグリム。
(ウソ……!?)
と内心呆れるが今はそんな場合ではない。
「くっ!」
慌てて起き上がろうとしたところを強く押さえ付けられてしまう。
(……早くも終わりかよ……終わりが少し長引いただけだったな)
はっ……はっ……と獣の荒い吐息が耳を撫でる。
(獣臭い……しかし、なんて馬鹿力だ)
ほぼスタート地点にほど近いこの場での強敵との接触は、可能性は高くないものの、全くあり得ないことではない。この理不尽さがSDGをクリア不可能と言わしめた原因でもある。
「ひゃっ!」
獣に、べろりと頬を嘗め上げられ、レオは情けない悲鳴を上げた。
「なっ……なんだあ!?」
手を伸ばすと、細く括れた腰の感触と柔らかい二つの感触が行く手を阻んだ。
(女?)
「レオ、レオ!」
耳を突いたのは低くハスキーな声だ。
「ニア、信じてた!」
「うわわわっ!」
レオは強く抱き締められ、窒息しそうになった。ひどく獣臭いのだ。腰に回した手には柔らかな毛皮の感触がある。
「くそっ、離れろ! 息ができん!」
「うーーーっ、うーーーっ」
ニアと名乗る女は絞り出すようなうめき声を上げた。
「……?」
ぽたりぽたりと頬を打つ水滴に、レオは呆然とした。
「獣人……?」
このSDGの世界では、獣人とは犬型と猫型の二種類に分類される。レオを抱き締めているのは、犬型の獣人。獣人の女だ。
明かりがないため、レオにはよく分からないが獣人の女は泣いているようだ。
「レオーーーーっ、レオーーーーっ……」
「わかった! わかったから、は・な・せ!」
なんとか押しやって、キッと睨みつける。
「殺す気か!」
「違う! ニア、そんなことしない!」
「やかましい! すこし黙れ!」
月明かりを頼りに彼女の容姿に目を凝らす。
先ず目に入ったのは、全身をつつむ赤褐色の体毛と垂れ下がった耳。ショートカットの髪の毛はあまり手入れされていないようで、所々跳ね上がっている。
「ニア……?」
その名を呼ばれ、低い鼻を、すんすんと鳴らしながらニアは頷く。目尻の下がった大きな瞳から、ぽろりぽろりと涙が溢れる。
「ニアって、あれ……? 獣人の?」
そこまで言って、レオは、ぽんと手を打った。
「ああ、ニア! お前がニアか!」
ぐりぐりと頭を撫で、垂れ下がった耳を引っ張る。
「元気してたか、おまえ!」
「うーーー……」
ニアは犬みたいに、しきりにレオの匂いを嗅ぎ回している。
「遅い……。ニア、信じてたけど……」
「ごめん……」
なんとなく謝る。
獣人であるニアは、SDG攻略時のパーティメンバーの一人である。この状況下での邂逅はとてつもない幸運だろう。
レオは細く長い息を吐き出した。安心して気が抜けてしまったのだ。
「ニアか。しかし懐かしい。アキラにイザベラ、と……だれだっけ、思い出せないが、この近くにいるのか?」
ニアは馬乗りのまま、レオの胸に顔を押し付けている。
「……いない」
「そっか。ちょっと、どいてくれないか? このままじゃ立てない」
月明かりが影になって、抱き着くニアの表情はレオには読み取れなかった。
「やだ……」
「そうかそうか」
にやっと笑って、お尻に触れる。けっこう肉付きがいい。ふさふさの尻尾もさすってみる。そうすれば飛びのくと思ったのだが、
「レオ……する?」
と、ニアはかすれる声で囁いてくる。
(主人公補正か? それにしちゃ積極的だな。しかし……夜中とはいえ、道の真ん中だ……俺は、そんなところで事に及ぶのか?)
「いや、けど……人通りはないとはいえ、道の真ん中だし……モンスターの襲撃がないとも限らない。今はやめとこう」
口ではそう答えつつ、両手はニアの感触を楽しむ。
「だいじょうぶ……んっ」
噛み付くようなキス。獣の匂いに混じって、雌の強い匂いがした。
「しよ……ね?」
「どうなっても、知らないぞ……?」
不意に、視線が揺れる。
その向こうで、ナナセの悲しそうな笑顔が、一瞬歪んで、消えて行った。
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