少し記憶に靄が掛かったような気が…。
気のせいかもしれませんが…。
とにかく続けてみようと思います。
さて、母は境界性(型)パーソナリティー症候群と診断されました。
(今後BPDとします。)
私が高校生の頃です。
初めて自傷行為を見たのは小学生…3年か4年?のときでした。
自分の左腕を右手でぎゅーっと引っ掻いて血を流している母を見てしまい、母と目が合いました。
「ママはね、周りの人を誰も傷付けたくないからこうやって自分を傷付けているの」と言われました。
母は信心深いクリスチャンで、本当に心優しい人でした。
自身が高校生の頃から近所の子供にボランティアでクラシックバレエを教えたり(母の実家にはバレエスタジオがあり、後にプロになるくらいバレエが上手でした。)私の布オムツをお風呂の残り湯で洗ったり扇風機をかけず団扇で仰いだり、とにかく小さなことをコツコツ続けて節約し、貯めたお金を毎月ユニセフに送ったり、ワールドビジョンで何人もの貧しい子供達を大学まで行かせてあげていました。
私が子供の頃から部屋の壁に何人もの肌の色の違う子供達の写真と、彼らから送られてきた手紙が貼ってありました。
常にマザーテレサの言葉を実行していた人だったので、子供だった私は母の言葉にストンと納得しました。
その小学生の頃から記憶は一旦途切れ、リストカットが日常化しだしたのは私が高校一年の頃です。
血を流して倒れているところを何度も何度も何度も発見しました。
救急車を呼びすぎてブラックリスト?に載ったのかどの病院でも搬送を断られ、たらい回し…仕舞いには救急車そのものが来てくれなくなりました。
119番したその電話で止血方法やなんかを指示してもらい、看病と見張りの日々。
高校では衛生看護科に進学していた私は母を助けようと必死でした。
治ると思っていたし助けられると信じていました。
包丁を持って今まさに切ろうとしている母を止めたら、邪魔するな!と包丁を向けられたこともありました。
心中するような気持ちで体当たりで母に接していました。
若さゆえ、ですかね。
病院にも付き添いドクターと話すも、毎回「あなたは立派な娘さんだ、よく真っ当に育ったね」と言われるだけで母については病名を教えてもらっただけでした。
あと励ましてはいけない、とか…。
この頃から現在も疑問なのが日本の精神科医療。薬を変え変え通院し、ちょろっと現状を聞いてもらうだけ。
睡眠薬、覚醒剤、抗鬱剤、抗不安薬、種類を変えるだけ、量を増減するだけ。
結局、対症療法しかないんですね。
路頭に迷ったような気持ちでした。
とにかく母が入院したいと言えば全力を尽くし、何度も閉鎖病棟に入れ、すぐ退院したいと言えば平謝りで退院させてもらい、学校を早退して迎えに行ってました。
薬、お酒、煙草、高額の衝動買い、ギャンブル、男性…と、全く別人のように走れるものには全て走った感じでした。
血液を拭い吐瀉物を拭い、シーツを洗ってお風呂を掃除して傷口を消毒し、ママに死んでほしくない、生きてて欲しい、大好きだよって言い続けました。
子供はね、何の歯止めにもならないんだよ、と言われましたが…。
お腹を縦横無尽にカッターで20ヶ所くらい切っているのを消毒してる時が一番辛かったです。
私を妊娠している時は撫でて話し掛けてくれたところだったろうに…と思ってしまって。若い頃なので感傷的です。
とにかく何を言われても、頑張れば元の優しいママに戻ってくれると信じていて、死にたい以外の願いは何でも叶えてあげたい気持ちでした。
父は仕事が忙しく、母の病気を心の甘えと認識しており、無視…嫌悪している状態でした。
今なら分かりますが、この時の母は父の気を引くために自傷していました。
父が出張で不在の時ほど大きいことをやらかすのです。
オーバードーズでICUに搬送され、もしかしたら危ないかもしれません…覚悟をしておいてください、すぐお父さんに来てもらって下さい、と言われた時も父は不在で、私は何処に出張かも知らず(携帯電話が普及してない時代でした。)もし死んでしまったら子供でもお葬式って出せるのかな…と不安になった記憶があります。
そのくらい父との溝は深くなっていましたし、葬式の心配をしてるくらいだから私自身もう疲れきってたのも伺えます。
結局、治療方針のことで父と大口論になり、殴られ追われてハッキリ殺意を感じ裸足で家を飛び出しました。
高校を卒業した春でした。
それから父に会うことになるまで5年、音信不通になりました。