メモ帳の片隅:/3 ハワイアンと父と望郷と /福島
毎日新聞 2013年08月22日 地方版
いわき市の「スパリゾートハワイアンズ」の累計入場者が6000万人に達した。
「常磐ハワイアンセンター」と呼ばれていた時代、開館直後とその数年後、家族旅行で訪れている。当時は玄関前の芝生でパットゴルフが楽しめ、入場するとムッとした熱気の中、フラガールがレイを首にかけてくれた。
父は経営母体の常磐興産の前身、常磐炭礦(たんこう)に採炭技師として8年ほど勤めた。だが、私が乳児だった昭和37年、身内に事業を手伝えと呼び戻され、泣く泣く退職し東京に引っ越した。「常磐炭礦に入社した時が一番うれしかった」と話していた父はしばらく方言が抜けず、気分のいい時には、
♪はーあー 朝もはよからよーおー カンテラ下げてない 坑内通いはよーおー ドンとお国のためない あ やろやったねえ♪
と「常磐炭坑節」を歌った。「ない」を否定形と思った私は、「坑内であえて照明器具を持たない」「国のためには働かない」という主張だと勘違いし、作り手は左翼のヒーローだと勝手に思い込んでいた。
両親とも岡山出身だが、新婚時代を過ごした常磐への思いが深かった。家族旅行でボタ山脇の坂道にある炭坑住宅、通称「炭住」を訪ねたことがある。見ると父は廃虚を前に涙をぬぐっていた。一軒だけ住んでいる人がおり、訪ねてみると親しかった「坑外勤務の遠藤さん」だとわかった。互いの姿を認めると、母親と年配の奥さんはわっと駆け寄り、手を握り合い、オイオイ泣き出した。
たった10年前の住みかにこれほど感情移入できるのは、戦後という時代のせいなのか。あるいは、消えてしまった炭坑への追慕か。
40年後、震災と原発事故を、私は密入国したばかりのリビアで知った。砂漠のアジトで最初に浮かんだのは、「やられた。福島がやられた」という言葉だった。そしておずおずと「望郷」がわいてきた。戸籍の出身地が「常磐市」だからではない。おそらく、福島、常磐、昭和という連想を経て、ボタ山を見る亡父の後ろ姿が立ち現れたのだ。【郡山支局長・藤原章生】