6月21日午後5時配信の有料メルマガ 「ネット未来地図レポート」第96号から。
日本ではなぜかジャーナリストという言葉がひとり歩きして、「命を省みずに正義を実現する人」「権力に歯向かう人」「ヘリに乗って国際紛争の舞台を飛び回る人」というようなイメージになってしまっています。……まあ最後のは冗談ですが、落合信彦氏が出演したアサヒビールのテレビCMのせいで、一時そういうジャーナリスト像が流布していたことがあったのも事実です。私もフリーランスになったばかりのころ、名刺交換した初対面の人に「ジャーナリストなんですか! やっぱりイラクとかの戦地に行かれるんですか?」と聞かれたことがあります。まあ一般的にはそういうイメージなのです。
だからなぜか日本では、ジャーナリストに過度の期待が生じ、異様なほどの道徳的規範と高邁な理想を求められたりします。これは前にも本メールマガジンで書きましたが、私はしょっちゅういろんな人から批判されていて、良くある非難文句のひとつに「自称ジャーナリストの佐々木某」というような言い方があります(笑)。これは「ジャーナリストほどの高尚な仕事もしてないくせに、勝手にジャーナリストを名乗りやがって」という気持ちが込められているわけで、それはすなわちジャーナリストへの過度な期待感の裏返しでもあるわけです。
さらには新聞記者や雑誌記者、あるいは古いタイプのフリージャーナリストの側も、そうした正義の味方的イメージを意図的にふくらませてきたということもあります。幻想としての正義の味方的ジャーナリズムを提示することで、自分たちの価値を過剰に高めて見せようという広告的意図があったように思われます。
私の先輩記者で団塊の世代に属するある人は、「ジャーナリズムってのは志なんだよ!」と良く言ってました。これなど無意識のうちに自分を正義の味方に仮託し、情緒的に気持ちを高揚させているケースでしょうね。
しかしながら本来英語圏で使われてきたジャーナリストという言葉は、そのような「正義の味方」ではありません。メディアを使い、情報を伝達する人のことを指しているだけなのです。
日本ではそのような手垢のついたイメージができあがってしまっているので、ジャーナリストという言葉をこれ以上使い続けるべきなのかどうかは微妙かもしれません。これからのメディア環境の中でジャーナリストの定義についてどういう合意が形成されるのかは現時点ではわからないですから……。ただとりあえずここでは、ジャーナリストという言葉を英語圏で使われているような意味合いで、「メディアを使った情報の伝達者」として再定義しておきましょう。
ではそのような定義において、ジャーナリストは今後も社会に必要とされ続けるのでしょうか。あるいは必要とされるのであれば、それはどのような意味を持っていくのでしょうか。
従来のジャーナリストはただ取材して記事を書き、それを自分の持っている媒体で発表し、原稿料を得ていればオーケーでした。新聞記者やテレビ記者のような組織ジャーナリストであれば、社内コミュニケーションに精を出して左遷されないように気遣っていればよかったし、フリーランスであれば編集者やプロデューサーと仲良くして人間関係を築いておくことが重要だったわけです。
だからみんな、酒を飲むのが大好きでした。なぜなら「接続すべき相手」は読者ではなく、上司のデスクや取引先の編集者であって、そうした人間関係を継続的に構築するためには、宴席がもっとも適していたからです。
しかしマスメディアの垂直統合が解かれ、人間関係をベースにしたメディアビジネスからインターネット的なメディアプラットフォームに移行していくと、こうした人脈、社内政治に礎を置いた戦術はほとんど意味をなさなくなってしまいます。編集者とどんなに酒を飲んだとしても、その編集者が作ってる雑誌が売れなくなったり休刊してしまえばまったく意味が無く、下手をすると仲の良い編集者がリストラされたり会社が倒産することだって十分にあり得ることになってしまったのです。
※これは抜粋です。全文(今回は約7200文字)は、佐々木俊尚公式サイトへ!