「世界の村で発見 日本人」葛根廟かっこんびょう事件 残留孤児女性
「世界の村で発見 日本人」という番組で、中国内モンゴル自治区に住んでいた日本人女性が、葛根廟事件(かっこんびょうじけん)の極めて少ない生存者(残留日本人孤児女性)であった。
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中国内モンゴル自治区というのは、昔(日本領土扱いの)満州であった。ここには、ソ連が侵攻してきた場合は、日本政府は戦う盾として殖民していた。満州には、同様に考えて、多くの日本人を役人、警察官、教員など、送り込んでいた。満州で働く人は、内地(日本)で働く場合より、給与が二割増しであった、と聞いている。
探しに行くタレントは東ちづるである。彼女はドイツの傷ついた子供を治療する病院村へ行った番組で見たことがある。
「世界の村で発見 日本人」では、内モンゴル自治区の通遼という場所、日本人女性、という条件だけで旅に出て発見するという・・・あとは、ぜーんぶ、自分で見つけてたどり着くのが趣旨らしい。
ドイツ国際平和村 ウルルンで知った:
ドイツ平和村へ千手観音がきた:
探して、探して、内モンゴル自治区の通遼で、探し当てた。東ちづるのほかに、別の人探しであるが、高橋恵子も出ていたが、こっちのほうが大変だった。東ちづるの探した人は、中国名烏雲(ういん)、日本名は立花珠美(たまみ)。ようやく、探し当てると、予期していなかったのだろうが、おちついた対応をしてくれた。珠美(たまみ)さんは、学校の先生をしていた人だから、さもありなんという感じであるが、日本を出たのは1940年、昭和15年でそれ以来、満州で暮らし、戦後はずーっとここ内モンゴルで暮らしている。年齢は75歳で、日本を出て72年だという。
徳島の役人(公務員)であった父が、転勤命令で満州へ一家5人で渡ってきた。父と母、姉、私珠美、弟と妹。兄は中学生であったので、日本に置いてきたという。内地に置いてきたというケースは、その当時はよくある話であった。
ソ連が参戦するまでは、満州の生活は、実に穏やかで、不安のない生活であった。それが昭和20年8月9日、ソ連スターリンは日本をだまし討ちのように、日ソ不可侵条約を破棄して、怒涛のごとく戦車を先頭にして、攻め込んできたのである。
以下は、Wikipediaウイキペデイアを参照した。
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人暴民によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。
1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、さらに8月9日未明に満洲国、朝鮮半島、樺太などに侵攻を開始した。
8月10日と11日の両日、興安(別称、興安街ないし王爺廟。現在の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊された。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官浅野良三の指揮の下、行動隊が組織された。
日本人避難民の当初の目的地は100キロメートル離れたジャライトキだったが、興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し列車(白阿線)で白城子(現在の吉林省の白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けつつ列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始した。
8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。
ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。
戦車による襲撃が止むと、トラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。二時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。
そこで、珠美さんの見た、体験した事件が語られる。日本人皆殺しをやったソ連兵は、日本人にどういう感情があったのか、ちょっと理解できない。
珠美さんの一家は、逃げだせば列車に乗って逃げることもできたが、父親が出張中で、母は父の帰るのを待つつもりでギリギリまで待ったが、やはり帰ることがないまま、開拓団の団体と一緒に行動を共にした。
一緒に100キロ先の間で逃げる予定であったが、それが葛根廟近くまできたとき、ソ連軍が迫ってきたので、慌てて列車から降りて逃げようとしたが、彼らは戦車で機関銃を打ってきた。それで、みんな慌てて逃げ惑った。ここで、小学生の姉は驚いて母の所を離れ、行列の先頭へ逃げた。道路の下に側溝があり、そこならソ連軍の機関銃の砲弾はこないと、そこへ飛び込んだ。そこが安全そうに見えたのは、みんな同じで、あとからあとから体の大きな大人も何十人も飛び込んできて、先に飛び込んだ姉の上にのしかかってきた。それで姉は押し潰されて、息ができない状態で、死んだのだと思う。
ソ連軍は日本人と見れば、機関銃を撃ち、皆殺しの状態で、死体や半死の体を戦車が踏みつぶしていた。逃避行の団長ら、幹部で相談したのだろう、みんなに生きて帰るのはむりだ、という判断をした。恥辱を味わって生きるより、日本人らしく自決をしようと。自決をしようという雰囲気が出来上がってしまい、母はおぶっていた妹を刺し殺した。次に私にも刃物を向けてきたので、私は急いで走って逃げ出した。夢中で走って母と50メートルも離れたところで、振り返ると母は自分の胸を刺して、倒れるところだった。
また、母のもとに戻ると、母は「お姉ちゃんと弟をみてきなさい」というので、姉を見に行った。すると、溝の中で見つけた。上半身だけは見えたが下半身は大勢の死体の間に挟まって、抜きだすことはできない。姉の死を確認した。次に、弟は、牛車に乗って連れられてきたのだが、牛が死んでいた。ソ連の銃弾だろう。弟も胸から血を流して死んでいた。
また、母の元に戻るとまだ息をしたいたが、弱弱しい息になっていたが、「お姉ちゃんも弟も死んでいた」と報告すると、母は、私におカネを渡し、助けてくれる日本人について行きなさい。といったように聞こえた。それは父を探しなさいということだと思った。
数日の間、ソ連軍戦車のキャタビラが鳴り、兵士が通っていく。生きた心地がせず、隠れて過ごした。食い物もなくお腹がすくと、死者のポケットを探り、探して食べた。泥水に血がまじった水を飲んだ。その時期を過ぎて静かになって、ようやく側溝を出た。
河原の近くで歩いていると、二人の中国人に出会った。おいでおいでするのに近づいた。満州ですでに5年過ごしていたので、中国人を怖がる気持ちはなかったが、日本語ばかり使って生活していたので、中国語が理解できなかった。
こっちへおいでという身振りで呼ぶのだが、私はソ連の兵隊がいたら怖いんだと伝える身振り、鼻の大きなソ連兵、鼻のおおっきい、と手を鼻の上で身振りをした。大丈夫、そっちは連れていかないと、中国人は安心させる身振りで応えた。中国人は貧しくて、私を養えないから、子供を欲しがっている家へ連れて行ってくれた。そこで育てられた。
養父養母は親切な人で、一度も差別をしたり、意地悪をされた記憶はありません。養母は私を大学まで出してくれました。文化大革命で、日本人を育てたと非難されて養母たちはひどい目に逢いましたが、私を必死で守ってくれました。
1957年20歳の時に大学を卒業し教師となり、貧しくも幸せ生活を送っていた。しかし1966年文化大革命で珠美さんの養父母は避難を受けるようになった。1972年に日中国交正常化となり、1980年に生き別れた兄の存在が判明。1981年8月、41年ぶりに日本へ行き兄と再会したが父はすでに亡くなっていた。父は1945年に帰国し、1972年5月に他界。
ようやく日中友好条約が結ばれ、国交が回復し、その後徳島の兄が見つかり、連絡が取れて、これほどうれしい事はありませんでした。残留孤児の来日を果たし、41歳のとき、兄と会えました。数か月滞在して、日本の親類親族は、ずっと日本に住むことを勧めてくれました。迷いはありましたが、日本滞在1か月過ぎたころ、中国内モンゴルの養母から電話がありました。
「もう中国に帰らないのですか」と。私は答えました。「中国で育ててもらい、感謝している。私の世話を必要とするのは、お母さんです。必ず帰ります。」と答え、中国に永住する決心をしました。
中国で先生として、数10年過ごし、全国教育者の表彰をうけた。中国内でも有用な人物として・・・・50年、地道な努力、貢献してきたことが認められたのでしょう。今は、家族と過ごせる幸せをかみしめている。今後も、日本と中国が平和でお互いに過ごせる関係であることを望みます。
遥かなる絆 養母の魅力
残留孤児二世がたどる はるかなる絆 (NHK)の中で、魅力あったのは、老け役をやった養母の付淑琴だ。
日本人の子供を自分の子にして育てて、中学に入れてやり、就職してのち日本へ帰してやる心の広さと葛藤は、胸を打つ。
珠美さんの選択でも、「遥かなる絆」の城戸幹の場合でも、全く対照的な結論であるが、たぶんどっちの道も、幸せだけど、これが人生さ。そんな風にうそぶいて、夕日に向かって涙を流す。生きていくのって、どっちに転んでも・・・、そういうことだ。私
は、珠美さんに頭が下がる。
珠美さんの顔、どこかで会ったような気がする。誰に似ているだろうか。東京の母と思っていた。あるいは、タレントの柴田理恵か、その母さんに。
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