その朝、札幌は雪が舞っていた。北大生宮沢弘幸は日米開戦の臨時ニュースを聞き、米国人英語教師、レーン夫妻の行く末が心配になり官舎に走った。夫妻の誠実な生き方にひかれ家族のように交際していた
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2人に会った宮沢は「何かあれば力になる」と言い残し、官舎を出た。そこで特高警察に逮捕された。夫妻も連行された。逮捕容疑は軍機保護法違反。1941年12月8日、全国の特高は内務省の指示を受けスパイ容疑者の一斉検挙に乗り出していたのだ
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軍事上の機密を探知し夫妻に漏らした―。宮沢の容疑である。旅好きの宮沢は39年から41年にかけ、千島、樺太、満州に旅行。見聞を夫妻に話したことが罪に問われた。飛行場など軍事施設の話題もあったが、いずれも周知の事実だった。宮沢と夫妻は懲役15〜12年の判決を受けた
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弁護士の故上田誠吉氏が87年に出した「ある北大生の受難」による。浮上していた国家秘密法への危機感や宮沢の遺族との文通を機に調査を始めた。だが裁判資料の大半は処分されていた。人権侵害が闇から闇に葬られる危険は特定秘密保護法案に通じる
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敗戦直後。逮捕から3年10カ月、宮沢は釈放された。逆さづりにされ竹刀で打たれた拷問や極寒の網走刑務所の生活が体をむしばんでいた。結核が悪化し47年2月、亡くなった。27歳。海外に目を広げ、大志を抱いていた青年の死だった。