雑談レベルの戯言 〜ドッグトレーナーとか犬の社会化とか〜
※思っていることを好き勝手に書いておりますが、何の根拠もない雑談レベルの息抜きネタですので、気楽に読んで下さると嬉しいです。(^^)ニヤニヤ
【ドッグトレーナーは人間性が顕著に見られて面白い♪】
ドッグトレーナーを初めとする犬の専門家の方々の考え方やトレーニング方法には興味深いものがあるが、それ以上に興味深いのはその内容を人々に伝える際のコミュニケーション能力や伝達する為の言葉の表現などである。
どんなに犬に優しい考え方で良いトレーニング方法であったとしても、コミュニケーション能力や伝達する為の適切な言葉を持たなければ宝の持ち腐れである。
一方、「おいおい、そりゃないだろう!?」と言いたくなるような悪しき考え方やトレーニング方法であったとしても、その者がコミュニケ―ション能力や伝える言葉に長けていると人々はそこに導かれてしまう。
しかも世の中、悪しき者ほど口が上手いような気がする。
さてさて、ドッグトレーナーという人間は面白いもので、個人的に気になるのは3タイプ。
【合理主義】
多分、一番多くが属するのがこのタイプではなかろうか。
いわゆる結果優先で、その為には飼い主の都合または犬の都合を考慮することなく手段を選ばないタイプ。
このタイプは基本的に来るもの拒まず「どんどんいらっしゃい!」という具合に受け入れ姿勢は良いのだが、自分の枠に飼い主と犬がピタッとハマらなければ平気で切り捨てる。
または自分の枠にハメ込むべく、時に強引な言葉や方法を用いることもある。
その結果、己の利益は確保されても、飼い主または犬に対して犠牲だけ払わせることもあるのが問題。
【理想主義】
犬の権利や福祉という言葉の旗を前面に振りかざすタイプ。
犬に対する考えとして具体的かつ確固たる思いを描いており、まずはその理想を言葉として並べたてます。
犬を想う志向としては良いのですが、その考えに触れたいとか教えを乞いたいと思った人がいても来る者拒まずではないのが特徴。
提案する条件を満たす者だけが信仰を許可されるみたいな感じで宗教的要素もある。
もちろん一定の条件が必要なのは分かるが、門を叩く時点で信望者になっていなければならないのです。
例えば、散歩は1日〇回、食事は〇回、犬のスペースは〇畳分与える、首輪からハーネスに変える、留守番は何時間までなど、その他諸々の要件実施を満たしてからの対応。
はたまた、HPを読み込んで理解した方のみ対応とか、師事している者に対しては、疑問を抱いたり他の方法論に興味を抱いたりすればたちまちに厄介払いしてしまうなど。
ちなみに理想の追求は決して悪くないと思う。
但し、ここで問題なのは、理想社会を作りたいのではなく、自分だけの理想国家を作りたいに過ぎないと言う事である。
例えば、都会のマンションで犬を飼っていて、吠えに悩む飼い主がいたとしよう。
周囲の環境は土も草も少なく、明らかに犬の生活ニーズを満たすには厳しい環境。
ここで理想を言うならば、「そのような環境で犬を飼うべきではない。もっと暮らしやすい環境に引っ越したらどうですか。」の一言に尽きるでしょう。
しかし、引っ越しは現実的に無理な状況の場合、どうするか?
「それならば、きちんと飼える人を見つけて犬を手離して下さい。」と言うのは簡単ですが、それで全ての飼い主が話をすんなり受け入れて大事な犬を手離すのかというと話は違いますよね。
また手離した先で、その犬が本当に幸せになれるのかまで考えていない。
では、「その大事な犬を、何故大事にしてこなかったのか?」とも言えますが、そこが上手くいっていれば専門家に相談などすることもないし、その道しるべを求めて専門家に相談を求める訳ですから、それを真っ向から叩き落とす必要もないでしょう。
結局のところ飼い主に求める基準が高過ぎて、理想の押し付けにしかなっていない。
そうしたハードルを素直に全て受け入れる者にとっては押し付けではないが、一般大衆にとっては決められた枠と同じであり、その点は合理主義者と似ている部分があるといえる。
つまり、具体的な答えこそ提示はするが、納得に至っていない飼い主を理想世界に導く努力をしない。
理想の世界にしたいという志だけは高い割に、なぜか底辺を丁寧に導こうとはしない矛盾がある。
これは動物愛護活動における理想主義者も同様のことが言える。
理想主義者は己の価値観が全て正しいと思っており、飼い主と犬の個の利害を考えているようで考えていない。
そんなことはないと言う人がいるとすれば、それはその専門家の志向枠に収まっているだけに過ぎないが、それはそれで良いと思う。
犬の福祉とは別に、犬の権利云々だけを突き詰めるならば、犬を飼うこと自体が成り立たない訳で、そうした理想を掲げるならば犬は飼うべきではないと思う。
【現実主義】
それぞれの理想や信念は持ち合わせているが、決してそれを旗印として前面に振りかざすことはなく、しかし理想は内に秘めている。 そして理想の実現に向けて現実を直視して可能な範囲でそこへ導くことを試みるタイプ。
例えば先の設問と同じく、都会のマンションで犬を飼っていて吠えに悩む飼い主がいたとしよう。
周囲の環境は土も草も少なく、明らかに犬の生活ニーズを満たすには厳しい環境。
正直言うと、自分ならばこの環境では絶対犬は飼わない。飼うならば、周辺に草地があって散歩のニーズを満たせる郊外が条件である。
これは1つの信念であり、理想の追求であり、敵わぬ人生における妥協でもある。
こうした理念も、これから犬を買おうと考えている人に対しててあれば遠慮なく言える。
しかし、困った状況に置かれた飼い主と犬はすでにそこにいる訳で、理想の提示に終われば全くナンセンスである。
こういう仕事は飼い主と犬の双方を助けることが大事だと思うが、もしも、その対象を犬だけに傾けてもやるべきことは同じである。
何故ならば飼い主を救うことは犬を救うことに他ならないのだから。
問題は、飼い主の都合優先で救ってはいけないということ。
回答の続きですが、たとえ設問のような厳しい環境であったとしても、まずは自宅内、地域周辺において、日常的にどこまで犬のQOLを高めることが出来るかを考える。
それでも足りなければ、休日などを利用して何が出来るかを考える。
こうした答えの模索と提示については、ある程度は理想主義と似ているところもある。
しかし、相手が提示に対して難色を示した場合に、切り捨てたりはしません。
何故それが必要なのかを丁寧に説明をして理解して頂くことは忘れない。
提示を受け入れたがらない飼い主は2つのパターンがある。
1つは、方向性には同意はしていても、細かな部分で意味を消化出来ていないだけのパターン。
もう1つは、実は飼い主の方向性が根っから違っていたというパターン。
理解のレベルも思想も様々なので、ここで己の理想だけを提示しても衝突するのがオチである。
だからこそ個々の状況に応じて説明や説得を上手に試みる。
それで飼い主が納得して頂ければ、己の理想に一歩近づく訳である。
導き方も様々で、何も上から目線で切り付けることはないのです。
基本は対等に、そして相手に応じて時には下手になって持ち上げたり、上手になって引き上げたり、それで前進すれば良いではないかと。
でも、そこまでやっても理想までは程遠い。 しかしそれが現実。
でも、きちんと説明すればそれは飼い主自身もよく理解してくれるところである。 完璧な理想を求めるあまり飼い主を切り捨てていては、結果として何も残らないのである。
理想と程遠い現実社会が分母にある以上、淘汰するラインを引き上げてしまっては、分母はいつまで経っても良くならないと思う。
ハードルを上げなければ色々な人に理想へ向けた提示をできるチャンスが広がる。
例えば、お散歩会では1人が2頭引きを行うことは望ましくはない。 矯正タイプの首輪やハーネスも同様に望ましくは無い。
でも、それを全面的に禁止とはしてはうたっていません。
多頭引きで参加したいと考えている人からすれば、最初にその原則を見てしまうと寄り付かずに終わりです。
しかし、原則にしないことでハードルは下がり、申込みが入ります。
そうすると、1人で2頭引きをすると問題改善が難しい理由や、1頭引きのメリットを直接お伝えしたり、体験頂く機会が設けられるのです。
お散歩会のガイドラインを表に出さないのも、全ては最初のハードルを上げない為であり、特に初心者飼い主さんや悩める飼い主さんが跨ぐ敷居を低くしておきたいという考えがあります。
【お散歩会における社会化取り組みの立場】
犬の権利云々に傾倒した立場を取る方々からすれば、この企画は邪道な取り組みの1つかも知れません。
何故ならば、お散歩会の取り組み参加自体、少なからず犬にストレスを与える要素もあるからです。
それを知りながら何故行うのか? との問いがあるとすれば、それは着想の違いである。
自分は完璧な理想主義者ではなく、理想を追い求める現実主義者だからというのがその答え。
日本では様々な環境で今そこに犬がいる。
例えば、もともとは郊外で快適に犬を飼っていた方が、転勤で致し方なく都会のマンションに引っ越すこともあるでしょう。
命に対する飼い主の責任において、犬の環境を優先して犬を手離すのが良いのか、環境を犠牲にしてでも飼い主と一緒の生活が良いのか、そこにどちらが良いとか答えはないと思う。
何故ならば、人と犬との関係構築の点からすると、飼い主は犬にとって1番の環境要素だからである。
そういう意味では関係構築が上手くいっていないケースもあり、飼い主が変わることで即改善に至るであろうケースもあるが、飼い主が関係改善を望んでいれば、それを切り捨てる必要はなく、むしろサポートすることが必要である。
犬も飼い主を選べぬままならない部分もあるが、飼い主もまた自分の環境を選べる人間ばかりではない。
そうした現実社会における生活ハンディがある中で、飼い主も犬も環境に慣れることを求められたり、対応する術が必要になる。
その術を知らなければ、現実社会の環境に犬は潰されてしまう恐れもあるが、術さえ知っていればそれらの環境を乗り越えることも可能になる。
しかしそれらの実践において、犬の気持ちに耳を傾けることを忘れてはならないことは重々承知して臨んでいる。
ですからお散歩会は決して人側の都合だけで犬に一方的な無理を強いるような、上辺だけの社会化取り組みとは異なります。
とは言え、全てを美化する気もなければキレイごとだけを並べる気も更々ありません。
見る視点によってはいくらでも悪く捉えることが出来るし、そんなこと自分は百も承知である。
田舎であれば犬が吠えようと、人に対して不慣れであろうと不憫さはないものです。
人口が極めて少ないエリアで人に慣らす経験を積む方がある意味困難とも言えますが、でもそれが犬の置かれた社会環境であれば、たまの吠えぐらい気にすることもないし、実際にそうした環境での犬の吠えはストレスによる吠えではなく、適度な警戒吠えに過ぎないものである。
つまり、それが犬の置かれた社会環境であれば、その地域において過度なストレスを感じることなく生活を送れれば良いので、そうした犬にはお散歩会のような取り組みに参加させる必要性はないと考えています。
しかし、都市部や住宅地における地理的条件や人口や犬密度の高さから来るストレスからは逃れられないのが現実。
お散歩会は理想も念頭に置きながら現実世界と向き合っている立場の取り組みに過ぎないので、そこに理想世界だけの話をぶつけて邪道に思わる方がいるとすれば「木を見て森を見ず」ということである。
「我が輩の戯言は以上でござる。」 【追記】
あらぬ誤解を招きそうなので書き足しておきます。 理想主義者と現実主義者は、犬の世界における大きな方向性は似たようなものだと思う。
ただ、現実の着地点として遠くを見るか、その手前を落としどころにするかの相違に過ぎない。
理想主義者は現実主義者のグレーな部分を嫌い、現実主義者は理想主義者の白黒付けたがる潔癖さを嫌う。
でも、両者は途中までの道のりは同じだったりするんだよね。
白黒と言う意味では、理想主義は気持ちが良い程に物事を言い切ってくれる。
正直自分も、それを言えたらどれだけ楽かと思えることも多々ある。
しかしそれでは相手との話も破綻してしまい、前進しないから言わないのである。
まぁ、皆それぞれの持論で良いと思うのですが、目指す着地点がどうあれであれ、目の前に悩める飼い主と犬がいたならば、まずは現状から救い出すことに努めることが大事であって、壊したり切り捨てることではないよね。
ドッグトレーナーなどの専門家にプロとしてのプライドと責任感があるならば、その領域だけは守って欲しいと願いたい。
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あ〜、わかります(^^)
ちょっと違うかもしれないけど、ある飼い主さんにハーネスの良さを懸命に伝えようとしていた時、ふと自分を振り返ってみると宗教の勧誘みたいだと苦笑してしまいました(;^_^A
2013/11/11(月) 午後 2:23 [ だんご ]
だんごさん♪ 良いものは方法も商品も懸命に進めずとも、それを実践したり使っていることの良さを表現するだけで伝わる人には伝わります。ちなみにお散歩会では、自分からハーネスを個人に勧めたことは一度もないのです。だって勧めなくても目の前にいる犬たちの活き活きした動きを解説すれば、ブログでの案内と合せて良さを分かってもらえるから。そんな訳で、勧めるアクションは興味を抱いてくれた後にしています。その方が客観性を保てますしね。(^^)
客観性と言えば、HUSTGの活動も個人に対して一方的なアプローチを行ったりはしませんよね。でも、理想主義トレーナーの中には普通の首輪すらも悪しき物と見なすハーネス絶対論をお持ちの方もいるようで、個体の不得手を確認せずにハーネス装着を無理に推し進めてしまう方もいると聞きます。
2013/11/11(月) 午後 3:38