街行く人の喧騒で賑わうショッピングモール。家族連れやカップルが目立つ中、石川梨子は一人で通行人の間を縫うように歩いていた。
 今日は五月の――何日かは覚えてはいなかったが、とにかく下旬だ。クリスマスやバレンタインからはまだ程遠い時期、だが梨子にとっては大事な記念日が近付いている。今日ここに訪れたのは、そのためだ。
 道すがら、度々仲の良さそうなカップルの光景を目にする。楽しそうに腕を組みながら歩いていたり、笑顔でウインドウの向こうの商品を吟味していたり。そんな光景を見るたび、『アイツ』と来ればよかったかな、と少しだけ後悔する。
 だが、今日の目的を考えるとそんなわけにもいかない。ここは我慢だ。今日、一人でショッピングモールを歩いた屈辱を、『アイツ』に愛情という形で返してもらえばいい。ここで見た光景を、全て『アイツ』としてみるのもいいかもしれない。そう考えると、もっと色々と観察してみようかな、とも思えた。
 ちらりと、道の中央にある時計の長針が十二を回るのが見えた。バイトの時間が近い、そんなにゆっくりもしていられないようだった。少しだけ、名残惜しさと共にスピードを速める。
 程なくして、お目当ての店の前にたどり着いた。注文したもの、ちゃんとできてるよね。そんなことを考えながら、梨子はスポーツショップの戸をくぐった。
 今日の買い物は、自分のためではない。来週に迫った『アイツ』の誕生日、梨子はそのプレゼントを求めて一人でやってきたのだった。贈り物自体は既に注文済みで、今日はその引き取りに来た、というわけだ。
 真っ直ぐにカウンターに向かうと、正装に身を包んだ女性の店員が梨子に笑顔を差し向ける。こんなところで買い物をするのは初めてだ、梨子は少しばかり緊張しながら、それでもはっきりと尋ねた。
「前に、バットを特注したんですけど」
「バットですね、少々お待ちください。お名前を伺ってもよろしいですか?」
 梨子が名前を伝えると、店員は恭しく礼をし店の奥へと入っていった。
 この店は以前、梨子がそれとなく『アイツ』から聞き出した店だった。プレゼントを何にしようか色々と考えた挙句、『アイツ』が一番使ってくれそうなものとして野球用具を選んだ。だがそれだけでは芸が無いと思った梨子は、とある思い付きから思い切ってバットを特注したのだ。
「お待たせしました。こちらでよろしいですか?」
 店員が一本のバットを両手で差し出す。それを受け取ると、ずっしりとした重みが両の腕にかかった。
 アイツ、よくこんなものをブンブン振れるわよね――そんなことを思いながら、梨子はバットをくるくると手の中で回しその表面を調べてゆく。
「あ――」
 そして、それは注文した通りに掘り込まれていた。
 梨子と『アイツ』の名が左右に並ぶ相合傘。バットの表面に刻み込まれたそれは、注文したのは自分であるにもかかわらず、梨子の頬を一瞬にして真っ赤に染め上げた。何事かと覗き込んだ店員、それを見てにこやかに微笑んだ。慌てたように、梨子は首を縦にかくかくと振った。
「え、えっと……これです。間違いないです」
「ふふ、プレゼントですか?」
「は、はい。包装、してください」
「かしこまりました」
 注文したときは、こんなに恥ずかしくは無かったのに――いざこうして実物を見てみると、異常なまでに恥ずかしい。見るだけでこんなに恥ずかしいのだから、使う『アイツ』はどんな気持ちになるのだろう。渡すとき、どんな顔でどんな言葉を言ってくるだろう。きっと、「こんな恥ずかしいモン、使えるか!」と怒鳴るのだろう。でも、周りに囃されながら、顔を真っ赤にしながら、それでも『アイツ』はきっと、このバットを使ってくれる。『アイツ』は、そんなヤツだ。
 店員が慣れた手つきで色鮮やかな包装紙を巻いてゆく。綺麗な紙だったが、『アイツ』はきっとビリビリと破いてしまうのだろう。
「彼氏さんですか?」
「え! あ、は、はい!」
 店員の突然の問いかけに、梨子の声が裏返る。
「ふふ、仲がよろしいんですね」
「ええ、えへへ」
 それだけは自信がある。
「どんな方なんですか?」
 そう尋ねられて――梨子は、思わず浮かんだままの答えを口にした。
「バカで、口が悪くて、スケベで、おまけにケチなヤツです」
「え……」
 見当違いの返答に、言葉を失い呆然とする店員。でも、と、梨子は言葉を続けた。
「どうしてか、あたしはアイツが好きなんです。どうしてでしょうね、咄嗟に浮かんだのが、全部悪いことばっかなのに――」
 それでも、好きだという気持ちだけが先行する。
「きっと、人を好きになるのに理由なんて必要ないんじゃないかなって、あたしはそう思うんです。まず最初に、ほんとに電気が走るみたいにビビッと好きになって。それがはじまりで、それが全てでした」
 理由なんて後付けだ。どうして『アイツ』が好きなのか、と問われれば、『アイツ』に恋をしたから、と答えるのが一番相応しいのだろう。少なくとも梨子は、そう考えていた。
 自分の言葉にはっと我に返ると、店員は驚いたような、だが暖かい笑顔を浮かべていた。
「そうなのかも、しれませんね」
「あっ、その、すいません……突然、語り出しちゃって」
「いいんですよ。素敵な方なんですね、きっと」
 バカでも、口が悪くても、スケベでも、おまけにケチでも――彼が好きなのだから。
 梨子は眩いばかりの笑顔で、大きく頷いた。